お彼岸も過ぎ、昼の陽射しはもう初夏を想わせます。
夏野菜の種を降ろしながら過ごした3月ももう終わり、明日から新年度の始まりなのですね・・・。
我が家に燕が帰って来て、庭の梅が咲いて散り、この3月の終わりの日には桃の花と紅木蓮の花が開きました。
毎日の食卓には、人参、大根、青菜などの冬野菜に代わって、蓬に野蒜、土筆に藪甘草、芹、ハコベなどの野の草の香りと彩が溢れる季節です。
春の摘み草の美味しさは格別です。
そんな季節のめぐみの話の前に、今日はまだ寒い日が多かった新暦の桃の節句頃に作った料理のお話です。
…
桃の節句。新暦の今日、桃の花はまだまだだけれど、今夜の食卓には咲かせてみました。
塩揉みした紅芯大根を、柚子果汁、自家製葡萄酢、麦芽糖を合わせた寿司酢で鮮やかに発色させて桃の花に、
深紅の梅干しの紅梅に、
真っ白な茹で里芋の白梅に、
花々を、我が家の摺り立て古米キヌヒカリ(伝)の炊き立てに寿し酢を馴染ませた飯に混ぜ込んで、、、
桃の花が咲く頃には芽を出す若葉を我が家の山形青菜の塩漬けで、
温もる土や枝の様子を、友人からの内海の海苔、我が家の干し椎茸に干瓢を醤油と自家製麦芽糖を甘辛に煮て、、、。
我が家の炒り立て金胡麻と共に彩豊かに散らしました。
贅沢を云うならば、畑で密やかに咲き始めた黄色い菜花を添えられたら良かったな…。
冷たい雨の一日だったけれど、初春の気配が嬉しい宵が更けてゆきます。。。
…
桃の花が開いた今夜も、季節の移ろいに沿って日々の食卓を整える歓びを文字通りに噛み締める、そんな春の宵が更けて往く我が家です。。。
もう一か月もすると、再び田畑での仕事が忙しくなってきますから、それまでに、山でコナラの木を一本倒して椎茸の榾木の用意に薪作り。お味噌も仕込まないといけません。
そうして食べる事が、一番美味しくお米を食べる事だからです!(実は、単にお金を使わない為だけだったりもしますけど・笑)
籾殻を吹き飛ばして、摺り残された籾を選別してまた摺って、という工程ではまだ擂鉢を使いますが、人力だけでやるのに比べれば遥かに速やかに籾が摺れる様になりました!
気が付けばもう11月、本当に月日の巡る速さに驚かされます。
百姓見倣いの川口です。
雨ばかりの日が続いて日照不足が心配された今年のお米つくりでしたが、我が家の田の稲たちも立派に実りの時を迎えてくれています。
我が家でも先日から早生のお米から稲刈りを始めました。
こちらが刈り入れまで今暫らくとなった色とりどりの餅米たちです。
こちらは我が家の粳(ウルチ)米の最晩生のアサヒ。まだ緑濃く、これから一週間程ゆっくり熟れ太って貰います。
秋晴れの空が拡がる日を待って、稲を刈ります。
そんな秋晴れの一日はこんな風に過ぎて行きます。。。
稲刈り作業を始めるのは、朝露が消える10時過ぎ頃まで待ってから。
この日はこのやや早生の粳米、ヤマビコを刈り入れ。
株を掴んで一息にザクッと刈りとる。2株から3株をリズミカルに刈っては置き、刈っては置き。
お腹が空く頃まで、半畝程を刈り終えたら、畑でインゲン、トマト、ラディッシュ、人参、チコリにバジルを摘んで帰ってお昼ご飯に。
今日は、インゲンとパスタを一緒に茹でて、ジェノベーゼ(バジル)ソースで和えたリングィーネに。我が家の自然農のニンニクの味と香りが格別..。
トマト、ラディッシュ、チコリ、バジルのサラダに、朝、田に出る前に仕込んでおいた焼き立ての自家製酵母の人参葉入りフォカッチャを添えて。
デザートはピオーネ葡萄のジャムを載せた自家製全粒粉パンに、富有柿。
深焙りの珈琲を挽いて、淹れて…。
美味しい…。
余りのんびりしていると日が傾いてしまうから、再び田で畦の小豆を摘んで干す。畑で菊芋を掘って、大根、青菜を晩御飯のオカズ用に間引く。
そして、お日さまの下で少し乾いた稲束をどんどん藁で結束して、脇に抱えて運んで、稲架を立てて、掛ける。
掛け終わった頃には夕暮れが近づいて、片付けて家に戻れば、釣瓶落としに日が暮れる。
今夜は、土鍋で炊いた銀杏入りの摺り立ての玄米ご飯に、おかずは菊芋と間引き人参、岩手の菊池牧場さんの絶品チョリソーを炒めてきんぴらに。里芋と間引き小松菜のお味噌汁。大根の塩揉み。
摺り立てのお米、採り立ての野菜に、自家製味噌にお漬物。毎日食べてもまだ溜息が出る程に美味しい、最高のご馳走です。
ご飯を食べたら、もう直に眠くなりますから、お風呂に入っておやすみなさい!
こちらの谷間でも、8月に入ってから本当に雨が多く、何となくすっきりしない夏になりました。幸いこの谷間では大きな人的な被害は出ませんでしたが、それでも県道の峠の切り通しの山が崩れてしばらく通行止めになりました。今も片道通行で工事をしています。
全国で、水の力に翻弄された夏、被害に遭われた方々の一刻も早い復興をお祈りしております。
皆さま、お元気にお過ごしでしょうか?
そんな夏も、変わらず田畑に立つのみ、お百姓になりたい、川口辰次郎です。
先回の、「自然農」まなびの場についての続きのお話です。
今では、全国で「自然農」に取り組んでいらっしゃる方々はたくさんいらっしゃいます。
そして、それぞれの地域で、それぞれの形で、川口由一さんが始められた「自然農」を、まるで種を引き継ぐように、伝えている方々がいらっしゃいます。
まだ「自然農」を始めて日も浅く、決して、経験も知識も、技術も全く優れてはいない僕ですが、そんな僕もここで「まなびの場」を運営させて戴いています。
自然農の「まなびの場」は、誰か指導者が居て、その人が一方的に誰かに教える、というような場所ではありません。
勿論、僕が主催している「まなびの場」でも、毎月の集合日のスケジュールや実施する事々は僕が主体になって決め、準備、運営をしてはいますが、当日に集まる方々と共に、僕も、この場で、学ばせて戴く、そんな場所が、まなびの場なのです。
というのも、そもそも、田や畑といった農地を手に入れるのは決して容易な事ではないからです。
地域ごとに、地主(農家)さん、農業員会、行政が様々な係わり方をしているし、それ故に、借りるにしても、買うにしても、当然、値段もあって無いような世界。
そもそも、碌に作物を育てた経験も無い都会育ちがいきなり農地を探すのはリスクが大き過ぎます。
ですから、先ずは、本当に小さくても良いから、自分の田、畑を持って、一年を通して幾つかの作物を作ってみて戴ければ、それも、「自然農」で作物を育てる経験をして戴くことが出来るならば、それに優る経験は無いと信じているのです。
という訳ですから、自然が自ずからめぐんでくれるいのちに、自ら生かされるような暮らしをしてみたい、と少しでも想う方は、ぜひ、全国の自然農まなびの場を訪ねてみてください。
これから深まる秋、きっと、たわわに実った美しい稲が、あなたを迎え入れてくれることでしょう!
早いものでもう6月も終わりですね。
この明るい谷間での僕たちの暮らしの6月、それは、田植えの季節です。
僕たちが自分たちが食べるお米は「自然農」のやり方で自ら育てるようになってから、6回目のお米づくりになりました。
当初は、夫婦2人だけで取り組んでいたお米づくりですが、3年前からは僕たちと同じ様に「自然農」でお米をつくりたい、と通ってくる仲間達が集まって、彼らと並行してお米をつくるようになっています。
僕が取り組んでいる「自然農」、以前、こちらでご紹介した事がありますが、このリストでご覧戴ける様に、全国で様々な方々が、それぞれに「学びの場」を開いて下さり、求める方は「自然農」の方法、在り方を学んで戴けます。そして、僕たちの小さな田畑も、昨年来、その「学びの場」の一つとして活動させて戴くようになっているのです。
多くの先輩方が長年の経験に基づいて教えて下さるところとは比べるべくもない、正にひよっこな僕たちの「学びの場」ではありますが、個々別々の田畑に立ちながら、それでいて一体となって共に学び合う、そんな場所になっています。
そもそもの始まりは、3年前の春先のこと。
近隣の街でのアースデイのイヴェントに招いて戴いて、僕が棉を育て、収穫した綿から糸を紡ぐまでの作業を紹介するワークショップをしていた折にそこで出会ったお母さんの「私も『自然農』でお米を作ってみたいんです。」という一言からでした。
「それなら、僕たちの田の一角であなたもやってみますか?来週には苗代に種を降ろします。」と訊くと、「はい、是非!」と即決。
帰途の車中、送迎をして下さった別のお母さんにそんな事があったのですよ、と話をしていたら、彼女が、運転手をして下さっていたお義兄さんに、「そうだ、お義兄ちゃんも一緒にしなよ!」と一言。で、彼の参加も即決。
そんな風に突然に、その春の日2組の方々が僕たちの田の一角で個々にお米つくりに取り組まれることになったのでした。
始めてみると、田植え、草刈、収穫やら、それぞれ折々にご友人の方々などが集まって来て、折々の作業の手伝いなどするようになり、そうこうしている内に、「私たちも自分で作ってみたい!」、という方々も現れて、それならば、来年は隣の休耕田や畑を借りてもう少し本格的に出来ないか訊いてみよう、という事になって、今に至っているのです。
後に明らかになった事でしたが、2人目の参加者となったお義兄ちゃんは実は全く乗り気ではなかった、いや、というよりも、正直な処では全然やりたくは無かったのだそうです。が、人に謂われると断れない、とても性格の良い(弱い・笑)方だったから、否応なしに始めることになって、その結果、このお義兄ちゃんの義妹のお母さんの友人達からの拡がりで参加する人が増えていったのでした。
今年は5組の方々が昨年皆で休耕田を拓き直した田に、ご自分の畝、畦を持って、個々別々にお米と畔豆(大豆や小豆)を育てて居られます。
今、無償で借していただいている田は、畦も含めて三畝半程の小さなものですが、嬉しい事に昨年はとても豊かな実りを得ることが出来ました。
以前、こちらでご紹介したムービーで、そんな仲間たちも加わっての「自然農」のお米づくりの夏までの様子をご覧いただけます。
ちなみに、当初は「自然農」のお米作りには殆ど興味を持っていなかったというそのお義兄ちゃん、どうなっていると想います?
…
勿論、今年もお米作りをしているのですよ。それも、お2人、カップルで(笑)
お義兄ちゃん曰く、「お米づくりが趣味なんです。」だそうな・笑
そんな僕たちの「自然農」学びの場の今を、次回はもう少し詳しくご紹介させて戴きたいと思います。
我が家の「自然農」の田畑で、麦が青々と美しい穂を伸ばし、草々が旺盛に繁り始める頃となりました。今年もお米作りを始めた、百姓見習い、川口巽次郎です。
毎年春のお彼岸を過ぎる頃になると、この谷間にも燕達が還ってきます。
我が家の玄関の庇の下にも、既に何年もの間使い継がれている巣があって、今も仲良しの番いが巣を直して卵を産む準備をしています。
燕というのはとてもおしゃべりな鳥で、多彩な聲で鳴き交わすのを聴いていると、とても愉しそうに、もしくは、喧々諤々の言い合いをしているかの様です。
そんな燕達のおしゃべりを聴きながら、朝の軽食とお茶をして、田畑での種降ろしへと向かう今頃の季節は忙しいけれどとても心弾むときです。
5月半ばには雛が孵り、雛たちが餌を強請る聲が響く頃には田植えの季節を迎えるのでしょう。 今年も無事に巣立ってくれるかな?
ところで、この谷間には色々な方々が遊びに来てくれます。
田舎暮らしに興味をお持ちの方、単に美味しいものが食べたくて、という方、心配して様子を見に来てくれる方、様々ですが、ある興味深い事象があります。
それは、最初はお一人で、もしくはグループで遊びに来てくれた方が独身であった場合、その方がここを再訪して下さると、ほぼ間違いなく、その方は、いずれ、番、カップルとなって再びやって来て、結婚してしまう、というのです!
既に、何人もの独身者が、再訪を重ねる内にカップルとして還って来て、ご結婚なさっているのです!!!
パートナーをお探しの皆さん、先ずは、ぜひこの谷間にお一人で遊びに来て下さい! 必ず、素敵なパートナーに巡り合える(かもしれない・笑)!!!
ってか、Junkstageの人達、沢山居たような気がするけど、まだ・・・、皆、待ってるよ~!(笑)
暦は早「立春」を過ぎ、「雨水」、この谷間も今夜は春の雨に濡れています。雨音を聞きながら、そろそろ本格的に始まる畑での農作業に想いを馳せている、お百姓志望の川口巽次郎です。
今朝、「日生(ひなせ)の牡蠣を持って行くから一緒にお昼ご飯を食べに行っていいですか?」という突然のメッセージが飛び込んで来ました。出雲の焚火小屋のOさんと、倉敷の元南極越冬隊員、Hさん、お2人からの、嬉しいお誘いです。
勿論ですよ!と庭に常設している瓦のキッチン用のロケット・ストーブ(略して「ロケスト」)にいそいそと火を入れて、羽釜に湯を沸かしながら、畑で野菜を摘んでいると、やってきました!
日生の牡蠣!一斗缶に入って売られているのです。 100個は入っているのではないでしょうか?凄いインパクトです。
早速、ノブヒェン窯と我々が呼んでいる、簡易ですが大変な優れもののオーブンを瓦のロケストに載せて牡蠣を投入します。待つこと数分。牡蠣の殻が開いてジュースが鍋の中で焦げ付き始めるとオイスターソースのような濃厚な香りが辺りに漂い始めます。
ナイフを差し込んで貝柱を切り、蓋を外すとそこにはプリプリとしたアイボリー色の身が湯気をあげています。
因島で「自然農」での柑橘栽培に取り組んでいらっしゃる友人のいしくら自然農園さんのダイダイをギュッと搾っていただきます!
我が家の畑から採り立てのベローナのバラ色チコリに岡山菜、ルーコラの自家製ワインビネガードレシングのサラダが付け合せです。
続いてノブヒェンから羽釜に掛け替え、パスタを茹で、脇でパスタソースを温めます。
今日のソースは我が家のニンニクをたっぷりのエクストラ・バージン・オリーブ・オイルで弱火でじっくり、ぷくぷくときつね色になるまで温めて薫りを移し、そこにやはり我が家の人参と大根と、山で育てている原木栽培の半乾燥生椎茸の千切り、更に山東菜(中国白菜)、唐辛子少々を加えて蒸し煮にしたソースです。
断面がレンズ型をしたロングパスタ、リングィーネの茹で立て熱々をソースの入ったフライパンに投入。最後に畑脇の水路で成長を始めている芹(セリ)を一掴み混ぜ込んで戴きます!
いや、絶品でした。
食後はちょうど前日に石臼で挽いてあった大麦粉があったので、チャパティというか、がレットというか、を鉄板で焼いて、白下糖バター、いしくら自然農園さんの丸ごと温州ミカンジャム、オリーブオイルに塩、などで頂きました。
薬缶のお湯も沸いたので、紅茶を淹れてのんびりとした春の午後は過ぎて行きました。。。
友人たちをお見送りしてから、夕暮れ前に近隣の街の郵便局と種屋さんまで自転車でひとっ走り。用事を片付けて戻ると、ご飯を炊く用意が出来ていましたので、竈(ロケスト)の熾火を熾して牡蠣を蒸し焼きに。その剥き身を入れて土鍋で玄米牡蠣ご飯を。
やはり薪で炊いたご飯の美味しさは格別です。
何とも贅沢な1日になりました。
長々と食べ物の事ばかりを書きましたが、今日書きたかったのは、この食事の中身もさることながら、この豊かな食卓を整える為に使った燃料は、椎茸を栽培している山への往復の度に少しだけ拾っては持ち帰っている山の木々の小枝(所謂「柴(しば)」、おばあさんは川へ洗濯に、おじいさんは山へ柴刈りに、のあの柴です。)だけだった、という事です。
古瓦を積み上げただけの小さな竈、ロケストですが、それに鍋釜さえあれば、これだけの豊かさを、僅かの小枝を集めて来るだけで、友人と共に愉しむ事が出来る。
この小さな谷間でも自然のめぐみはそれ程に豊かです。
そして、この谷間以上に豊かな場所が、日本の至る所に今はまだ残されています。
何も遠い国で掘り出された石油やガスを、はるばる海を越えて運んで、加工して、更に全国に配る様な大事業を経ずとも、わたし達の暮らしを十二分に豊かに支えてくれるエネルギー、少なくとも、日々の食事を賄う為のそれは、全て、自然が用意してくれています。
況してや、原子力までも「活用」して支えなければならない「生活」なんて…。
そんな事を想った初春の宵でした。
わたしがこの谷間で田舎暮らしを始めた2007年頃、巷では、スローライフ、とか、LOHAS(lifestyles of health and sustainability)といった言葉が流行っていました。
だから、わたしも漠然と、僕がやりたいことって、「スローな暮らし」とか、「スローフード」作りとか、「LOHAS」な仕事だったりするのかなぁ…?と想っていました。
それから5年以上が過ぎた今となっては、最早、「スローな暮らし」、だとか、況してや、「LOHAS」なんて言葉は、すっかりどーでもよくなってしまったわたくしですが、以前の都会でのサラリーマン時代に比べると、今のわたしの暮らしは明らかに、スロー(ゆっくりしか進まない)ですし、食べてるモノは全てこれ以上スローには出来ないものばかりだし、健康(Health)で、持続可能(Sustainable)なLifestyle(LOHAS)になっている事にも疑う余地はありません。
ただ、決定的に違うのは、「スロー」も、「LOHAS」も、そもそも、マーケティング用語、つまり、そういった言葉のラベルを貼る事でより沢山のお金を集めようと企図されているものなのに、それを実践している私の処には、まったくお金は集まって来ない、ということです(笑)
う~ん、どうしてかなあ?!?ユウさんに訊いてみたい(笑)
実は、以前、このコラムで「スローライフの心強い味方」と題して、4つのモノ
菌 植物 月 太陽 を紹介させて頂いています。
わたしたちが生きていられるのは、菌たちや、植物が生きていてくれて、彼らを殺して食べてるからです。菌も植物も生きていられるのは、月や、太陽が巡ってエネルギーを与えてくれているからです。
それも、わたし達が、仕事をしている間も、考え事をしている間も、ぼんやりとしている間も、ご飯を食べている間も、眠っている間も、一瞬も留まることなく流れて行く「時」があって、その同じ「時」の中で菌たちや植物が一刻も休むことなく生きていてくれて、月も太陽も巡っていてくれる。それで、わたしたちも生きていられるのですね。
つまり、そもそも、「時」というものが流れてくれなかったら、そして、その時が流れる場所がなかったならば、何一つとして生きることはできません。勿論、わたし達自身も生きられません。
個別にみればもっとはっきりと解ります。
パンを食べる為には、酵母菌など、沢山の菌たちが働いてくれなければ風味豊かに膨らんだパンが出来ません。小麦の粉が、風味豊かなパンになる為には、夏なら数時間、冬ならば数日の「時」を菌たちが生きてくれなければなりません。
お味噌やお醤油の場合には、もっと更に様々な菌たちが、半年から数年間の長い長い「時」を生きてくれなければなりません。
田や畑でお米や麦が育つ為にも、半年間という「時」が必要です。4か月間程度で実るじゃが芋や、2か月で収穫出来る胡麻や蕎麦のような作物もありますが、それでも、それだけの「時」を生きてくれない限り、それらの「実り」を手にする事は決して出来ません。
月も、太陽も、そして、勿論、我々が生きているこの地球も、宇宙という空間の中で、「時」を過ごしているからこそ、朝夕があり、4季があり、年も巡るのですね。
この巡る「時」があるからこそ、わたしたちの命は生きていられるのです。
不思議ですね?
かつての都会での暮らしの中では、わたしにとって「時」は一番の苦痛の種でした。出勤時間、締切り時間、仕事の期限。ぼっとしている時間、のんびりしている時間、週末や旅先、自然の中で過ごす愉しい時間は、いつもあっという間に過ぎ去って、必ず朝が、月曜日が、そして締切りがやって来る(笑)
今のわたくしにとっての「時間」は、めぐみそのもの、生きていることそのもの、になりました。掛け替えのない、味方です。
それでは、皆さま、よいお年をお迎えください。
秋も深まり暦は「霜降」、間も無く霜がやって来て、本格的な冬の到来となりますね。
この谷間の田畑でも、すっかり影が伸び、5時前にはお日様が山の端に隠れてしまうようになりました。田ではたわわに実った黄金色の稲の穂が揺れています。間も無く今年も稲刈りを迎えます。
この谷間に住む家と田畑をお借りして私が「農的な暮らし」を始めてから、早いもので6年目の冬を迎えようとしています。が、実は始めの2年間はわたくし1人身での単身田舎暮らしでした。その間、妻の方は東京での仕事を続けていました。当時の彼女の仕事場は日本橋。毎日、地下鉄に乗って家に帰る前に日本橋高島屋を巡ってお買い物を愉しむ日々を過ごしていたそうです。噂によるとカードのポイントが沢山貯まってポイントだけで何でも買えてしまうのではないか?というほどだったとか…(笑)。
月に一度程度は三連休を作ってはこちらに合流してくれて、一緒にお米作りの農作業を手伝ってくれたり、瀬戸内の季節折々の幸をふんだんに使ったご飯を作って一緒に食べたり、瀬戸内近辺を一緒に巡って遊んだり、といった時を共に過ごして愉しんではいましたが、当時の彼女の暮らしの中心はあくまでも東京での仕事、そして、お買い物(笑)だったのです。
そんな彼女が東京での職を辞して、私のここでの貧乏な(殆ど消費活動と無縁な)田舎暮らしに加わった事は、今、改めて想い返しても、実に大変な事だったなぁ、と想います。何しろ、この谷間では高島屋のポイントが幾らあっても何の役にも立たないですからね(笑) その上、そもそも彼女は、こちらでの暮らしを始めた頃の私と同様に過去に作物を育てた経験、知識はほぼ皆無。東京近郊の団地で生まれ育ち、私が多少は齧っていたようなアウトドアでの活動への興味や経験も、基本全く無し、な人だったのですから…。
…。
そんな彼女も、4年目ともなればこの谷間での暮らしにも漸く馴染んで、わたしに負けずにここでの暮らしを愉しんでいるのではないかな?と想う事が多くなりました。
例えば、最近は、こんな事が。
近隣の街の映画館の支配人さんがとてもアイディア豊かで積極的な方で、「スマホでつくる短編映画&CMワークショップ」という講座を地元の映像作家さんと一緒に企画・開催して下さったのですが、そちらに妻も参加したのです。ほとんどi-phoneだけで撮影、編集した6分間程のドキュメンタリー映画(?)ですが、完成時には他の参加者の皆さんの作品と共に、新幹線だって停まっちゃう駅前にある立派な映画館の大きなスクリーンで上映されたのです!初めて作った作品が映画館のスクリーンで上映して貰えるだなんて、素晴らしいですよね…。
この春から夏に至る間の、わたしたちの「自然農」による「農的な暮らし」の一端を切り撮ったドキュメンタリー(映画というよりスライドショーに近いかな・笑?)ですが、共に「自然農」でのお米作りを学んでいる友人たちの大量の組織票のお蔭もあって、有り難い事に、観客投票による優秀作品の一点に選出までして頂きました。
わたしたちの暮らしの有り様の一端を見て頂くことが出来ますので、ご紹介させていただきました。お愉しみ頂けたら幸いです!
先日降った待望の雨以来、大陸から秋の風が降りて来てようやく一息付けました。暦は「処暑」の第2候、「天地始めて寒し」の通り、明け方に田畑に入ると朝露が冷たく感じられるようになりました。秋冬野菜の種降ろしに再び畑で過ごす時間が長くなってきた、百姓見習いの川口です。
今日も南海上の台風と秋雨前線の影響で雨模様の1日です。これからしばらくは一雨降る毎に秋の色が濃くなってゆくのでしょうね。
こんな雨降りの日には、余程の事が無ければ田畑には入りません。稲の田植えだけは、元々水の入った田でする作業でもあり、梅雨時で晴天を待っていては作業が終えられないこともあるから雨中で作業をする事もありますが、それは例外で、普段の田畑の仕事は雨が降ったらお休みです。この辺りでは「雨休み」と呼ばれていたりします。
「雨休み」の1日は、読書に勤しむ「晴耕雨読」の生活です…、などといえたら格好が良いのですが、実際には文字通りこれ幸いにとゴロゴロしていたり、普段は手が回らない身の周りの整理に過ごすことが多いわたくしです。
そんな雨の日の過ごし方で、田舎暮らしを始めるまでは決してした事のなかった事の一つが、「繕いもの」です。
はい。あの、針と糸でちくちくする、縫い物のことですよ。
サラリーマン時代にはシャツのボタンを付け直す時を除くと、縫い針や糸に触る機会はありませんでしたが、田舎暮らし3年目位からは結構な頻度で縫い物をしているわたくしです。
何故に3年目位からか?というと、その頃から農作業用の服がボロボロと破れ始めたからです。
特に作業用のモンペ(作務衣のズボン)やシャツの襤褸(ボロ)化は激しいものがあります。
田植えや草刈り仕事の多い時期には酷使される事もあって、特にモンペの膝やお尻周りは擦り切れてどんどん破れ始めます。
当初はかつての都会暮らしの常識に沿って、破れたら買い替えるしかないんじゃない?と想っていました。
ところが、偶然にもその頃に木綿絣の端切れを沢山手にする事になったのです。
精確に云いますと…、
こちらに来てから知り合った木綿絣織り工場をなさっていた方が廃業されることになった。
で、そちらの工場で使っていた織機に懸ける経糸(タテイト)を巻く為の木製の芯(「チキリ」と謂うのですが…)を大量に廃棄する事になった。
そのチキリを大量に譲って戴いた。
その芯(チキリ)にかなりの量の古絣布が巻きつけられていた。
戴いた当初はその端切れ布の使い道も想い付かぬままに、芯に巻かれていた綿埃だらけの古布を外し、洗濯だけして畳んで置いたのですが、上記のように大量の襤褸が発生するに至り、当て布として使う事を想い付いた訳です。
元々絣布は、製作に大変な手間と技術を要する、とても貴重なものです。
以前ご紹介しました通り、私は出来る事なら「衣」についても身の周りの自然のめぐみを使って自立したいという重度の妄想を持っていますが、今の私の実力では、無地のフンドシや縞のマフラーくらいまでは何とか織れても、自ら絣布を織り出して服に仕立てる、というのは至難の業です。
戴いた(チキリに巻きつけられていた)木綿絣の端切れ布は、自動織機で工業的に生産された布ではありますが、それでも普通の布に比べたらとてつもない手間と技術無しには作られ得なかった布なのです。
そんな貴重な布の切れ端が手元にある。
日々、破れて襤褸になって行く服がある。
ちょっと当ててみると何だかとってもお洒落(笑)な感じに。。。
これは繕わない手は無かろう、と想ったのでした。
それ以来、破れてしまった部分に絣布を選んでは繕いを当て、しばらくするとまた破れ、また繕う、という事を重ねています。
そろそろ、当てた絣布の方が元の生地よりも多い程になり、立派な襤褸布と化しつつあります。
それでも、破れた穴や擦り切れて薄くなった部分を丁寧に繕った服を来て作業に出て行く心持ちはとても爽やかで気持ちの良いものです。特にこんな素晴らしい布を当てると、繕う前よりも寧ろ繕った後の方が格好良い位なので、いっそ特別な日の農作業用の盛装としてもっと大事にしようかしら、と想う程です!
今の私にとって、モンペはサラリーマン時代のスーツのようなモノで、この絣布を中てたモンペは、スーツで謂えば、嘗てのセルッティ、アルマーニやゼーニャ並み、いや、イギリスでオーダーメイドしたもの並みに想えて来るのであります(笑)
そもそも、日本で今日のような大量消費社会が成立する前、数十年前までは、庶民が身に着けられる布は、畑で作った棉や山の草木などの天然繊維からのみ作り出される貴重品で、最初は服や夜具に、傷んで来たら当て布に、そしてやがて赤ちゃんの襁褓に、そして最後は雑巾にと何年も掛けて使い廻されて最後は地に戻って往くものでした。
ですから、戴き物の絣布の端切れが手元にあって、その布を繕いに使える今の自分の状況に感謝すると共に、改めて、これからもずっと、天然繊維の布は無駄にすることなく、大切に継ぎを当てては使って行こう、そして、いつかは自分で育てた綿を紡いだ糸で織った布を身に纏えるようになりたい。
などと想いつつ、今日も雨音を聴きながらチクチクするのです。