2010/03/14

11月26日

入院の日の朝、普段と同じように目が覚めた。
いつものように、母と一緒に病院へ行った。
一つだけ違ったことは、荷物がたくさんあるということ。

入院は一週間くらいとのことだった。
とはいっても、ずっとパジャマでいるので、そんなに荷物はない。
そう、旅行に出るわけではないのだ。
靴やサンダルはいらない、必要なのはスリッパ。
それなのに私の荷物が多かった理由は、
「手術が終わってしまえば、時間を持て余すくらい」
そう聞いていたので、小説や雑誌、DVDやらたくさん持ち込んだからだった。

入院手続きを済ませると、さっそく病棟へ向かった。
16階。
眺めは良い。
部屋に入ると、大部屋だったので周りの方から挨拶をされた。
私はあまり視線を感じなかった。
「どうぞよろしくお願いします」
母と二人、同じように挨拶をし、ベッドに腰を下ろした。
まわりもみんなパジャマでいるので、私も着替えようとカーテンを閉めた。
そして、そのカーテンを開けたとたんに、視線を感じた。

そう、周りはみんな、母が患者だと思っていた。
娘が付き添って来たと、思われたのだった。

このフロアはほぼ、乳がん患者のみのフロア。
パジャマ姿で出てきたのが母ではなく、私だったことに、
周りは驚いた様子だった。

午後は術前の検査や説明の為に、病院の中をまわった。
明日は、いよいよ手術。
それなのに、どうしてもまだ、入院もしたのに、実感がわかなかった。
私は本当に明日手術を受けなければいけないのか。
術前の検査で、ひょっこり腫瘍がなくなってたりすることはないのか。
そんなことを考えたりもした。
だが、事実は事実、現実は現実だった。
夕方に、手術に立ち会う医師との面談があり、どのように切除するのか、詳しく説明があった。
温存手術の方向で、部分切除の予定だけれど、
開けてみて、広範囲にわたっているようだったら、全摘出もあり得る、
という説明をもう一度受けた。

ようやくそこで、あぁ、本当にそうなんだ、と感じた。

説明を受けながら、処置室で涙が止まらなくなってしまった。
自分の胸を見て、手をあてて、もう、二度と、こんな風には見られなくなるんだ、
左右全くの対象ではないにしても、今は並んであるこの胸が、明日には違ってしまう。
そう思ったら、泣かずにはいられなかった。

胸の形が変わるって、どういうことだろうか。
どのくらい変わっちゃうのかな。
もしかして、なくなっちゃうのかな。
その可能性はどのくらいあるのかな。

とたんに、ガン告知されたときと同じような不安感におそわれた。
私はどうなってしまうんだろう。
怖かった。
私はこの期に及んで、胸の形を気にして泣いた。
手術は全身麻酔なのだから、むしろそっちの方を気にしなくちゃいけないのに、
髪も抜け、眉毛もまつ毛も抜け落ちた私が、胸の形を気にして泣いていた。

明日は、いよいよ、手術。

・・・次は、手術当日~その後をお伝えします・・・

2010/03/14 02:22 | 未分類 | 1 Comment
2010/03/03

最後の抗がん剤を投与し終えた私は、12月上旬の手術に備え、
それまでにやっておきたいことをいろいろリストアップしていた。

ところが、11月10日の診察で、手術の日程が早まったことを知らされた。

抗がん剤により体力が落ちているところで手術をするのは大変だけれど、
それ以上に、ガンの動きが活発だと、また悪さをしだす方が大変だ、
と言うのが理由だった。

手術は11月27日と決まった。
入院はその前日。
時間がない。

仕様もないことかもしれないが、術前に私は人にたくさん会っておきたかったし、
そして、いろんなところへ行きたかった。
宝塚のチケットも取っていたし、ライオンキングも観に行くことになっていた。
伊勢神宮への旅行も、それから実家の両親と姉との温泉旅行も予約していた。
実際、術前1ヶ月でこんなに動いていたらいけないのかもしれなかったが、
もしかしたら、もう二度と・・・と考えてしまうと、
大急ぎですべてをこなさなければいけないような気がしていた。

しかし、この、どれも、私は叶えることができなかった。
診察からほどなくして私は熱を出し、体調を悪くした。
10日間も、家から出られないほどの寝たきり状態になってしまい、
病院にも行かれず、母に代わりに薬を取りに、がんセンターへ行ってもらった。

身体が思うように動かないことが、本当に悔しくて、つらかった。
手術の後は、安静にしなければならないと言われていたから、
今、やりたいことをやっておかなければと思ったのに。
刻一刻と、手術の日は近づいていたのに。
手術に対する恐怖と心配であまり眠ることができなかった。

その怖さの中で、私は、そのとき感じた、思ったことを日記に書いていた。
久々に、日記を書いた。

「必ず、手術はうまくいく、またお芝居や旅行にも行かれる」

ベッドの中で書いたその文字は、書きなぐるような文字で、
同じことが、何度も何度も、書かれていた。

そして11月26日、入院の日を迎えた。

・・・次は、入院~その後をお伝えします・・・

2010/03/03 02:34 | 未分類 | No Comments
2010/02/16

2008年10月27日
この日は、最後の抗がん剤治療の日だった。
気が付けば、実に16回目の抗がん剤投与。
最初は3週間に1回、毎週投与になってからは12回の、それぞれ3ヶ月ずつ。
半年に渡る治療が、やっと、ようやく終わった。

たった半年だけれど、本当に、長く、苦しく、つらい半年だった。
何度も何度も心が折れそうになった。
いや、実際は折れていたのかもしれない。
しかし、体調面で投与できない日は何度かあったが、
自分の都合や逃げたい気持ちから休んだことは一度もなかった。
ただ、投与のときに、泣かない日も、一度もなかった。
どんなに泣いたところで治らないと分かっていても、涙が出てしまった。
「泣いても笑っても、今日が最後の抗がん剤!」
そう言われても、笑うことなんてできなかった。

2008年の夏は、抗がん剤を投与した夏、
そういう記憶しかない。

夏らしい格好も、あまりしなかったように記憶している。
抗がん剤を点滴する度にできる、針の痕やアザを隠すため、長袖を着ていたからだ。
1本の血管には何度も投与できないため、右腕にも左腕にもたくさんの痕が残っていた。
そんな小さなことを気にしているのは私だけなのかもしれないが、
抗がん剤治療は、このように、私を小さく縮こまらせた。

そんな治療が、終ったのだ。
達成感こそなかったが、よく頑張ったと、自分で思えた。

そしてこの最後の抗がん剤を投与したこの週の金曜、10月31日、
会社が与えてくれた半年間の休職期間も終了した。
私は、無職になった。
これからは完全に無収入になる。
ガン保険はおろか、一般的な医療保険にも加入していなかったため、
治療費はすべて自費で支払っており、3割負担でも、かなりの額になっていた。
働いていたときに貯めていたわずかな貯金は、そこをついてしまいそうだった。

入籍は6月に済ませていたが、夫は出張がちで、このときほとんど東京にいなかったため、
私たちは入籍後も同居はせず、別々に暮らしていた。
ガンを患った身体で、ひとつも妻らしいことができていない私は、
治療費も生活費もと、彼に負担をかけたくなかったので実家の両親に都合してもらった。
30歳にもなって申し訳ないと思いながらも、本当にありがたかった。

・・・次は、手術の前に~その後をお伝えします・・・

2010/02/16 11:00 | 未分類 | 2 Comments
2010/02/01

毎週投与の抗がん剤が半分を過ぎた頃、季節は秋へと変わっていた。
なにもしなくても、つらくても、月日はどんどん経っていき、
治療をして、幾日か過ごし、また治療をするだけの日々が続いていた。
フリーペーパーを発行しようと始めた活動は、いったんスピードを緩めることにした。
気持ちがついていかなくなってしまったのだ。

この頃、私とAさんは「がん六回 人生全快」の著者でもある、
日本対がん協会常務理事の関原さんとお会いし、話をする機会があった。
いつもならば、勢いのままに行動してきた私たちだったが、
もう、そのような気力は残っていなかった頃のことだった。

そんな私たちに、関原さんは勇気を与えてくれた。
幾度となくがんを乗り越え、こうして元気にされている姿を見ると希望がもてた。

「なに、私は1度、たった1度、乳がんになっただけじゃないの。」

不思議とこんな風に思えた。

そして10月1日、ピンクリボンデーを迎えた。
ピンクリボンとは・・・
乳がんの撲滅や、早期発見のための検診を啓蒙・推進する運動を象徴するシンボルマークで、
他のがんも、それぞれさまざまな色のリボンでそれらを表しているマークがある。
世界中で行われいるこの運動は、日本でも毎年10月を「乳がん月間」とし、
各地でピンクリボンキャンペーンが多く行われている。

この日はYahoo!JAPANのトップページがピンク色になる1日なので、
ご存知の方もいらっしゃるのではないだろうか。
その他、私の住む東京では、この日の夜に
東京都庁・レインボーブリッジ・表参道ヒルズ等がピンク色にライトアップされる。

この日の夜、私は東京タワーを見ながら食事をした。
去年の10月1日には、このようなイベントがあったことなど、何も知らなかった。
ピンクリボンデーということすら知らなかった。
乳がんという病気は、自分とはまったく無関係だと思っていた。
その私が何の知識もないままに、乳がんになった。

だからこそ、誰にでも起こりうる身近な病気だ、と訴えたいし、
腫瘍が大きくなれば大きくなるほど、生存率が低下してしまう病気であるからこそ、
早期発見がどれほど重要か、それを一人でも多くの人に知ってもらいたいと
ピンク色にライトアップされた東京タワーを見ながら感じた。

・・・次は、最後の抗がん剤~その後をお伝えします・・・

2010/02/01 07:00 | 未分類 | No Comments
2010/01/18

夜中に降った雨は、朝には止んでいた。
起きるとNHKの取材がきていた。
やはり、若い女性ふたりがサバイバーというと、目立つようだった。

9時頃には父が来てくれた。
これには驚いた。
父もたすきをかけ、一緒に歩いてくれた。
久々に父と二人きりで話をしたように思う。
話と言っても、一言二言、それでも私は嬉しかった。
ありがとうと素直に言うことができた。

時刻は13時に近づいていった。
リレーフォーライフも終盤、最後もサバイバーだけで歩く。
24時間、仲間と共に繋いだたすきをかけて。
ゴールの瞬間は、なんとも言えない気持ちになった。
フルマラソンを3度完走している私であったが、
それに似た、達成感、だけれど、ひとつ違うことは、
生きている、という喜びを感じたことだった。

閉会式では「翼をください」の合唱があった。
中学生の時の合唱コンクール以来だったように記憶している。
その頃は、なんとも思わずに歌っていたこの曲、
最初は笑顔で歌うことができたが、
「悲しみのない 自由な空へ」のところで、涙で歌えなくなってしまった。
両親も、友達も、皆泣いていた。
今でも、私はこの曲を聞くと、涙が溢れてしまう。

「悲しみのない 自由な空」
そんな空はあるのだろうか。

リレーフォーライフのキーワードである、
「HOPE」
希望をもたなければと、思いながら歌った。

・・・次は、抗がん剤投与の終盤~その後をお伝えします・・・

2010/01/18 06:06 | 未分類 | 2 Comments
2010/01/03

13時にスタートしたリレーフォーライフ。
「仲間を集めて」と前回書いたが、その時にいた私の仲間は、母、ただ一人だけだった。
私は、どうしても、友人達に声を掛けることが出来なかった。

24時間私がずっと歩くわけじゃないにしたって、体力がもつかどうか・・・。
それに、私が声を掛けたって、こんな大変なイベントに参加してくれるわけ無いだろう。

リレーフォーライフに参加しよう、と思うところまでは気持ちがあっても、
その先になかなか進めないまま、当日をむかえてしまった。

しかし、私とは違い、Aさんは沢山の友人に囲まれていた。
うらやましかった。
みんな代わるがわる、彼女に励ましの言葉をかけていた。
そんな彼らは、私にも温かい言葉をたくさんくれた。
後に聞くと、中には1度だけ会ったことがあって連絡先を交換しただけの知り合いもいたという。

私はとても恥ずかしくなった。
自分よりも5つも年下の彼女は、文字通り、一生懸命、病気と闘い、それを周りに公表し、
素直に、みんなに力を貸して欲しい、と訴えることが出来るんだ、と。
人間力の差だと思った。

そこで私も当日ではあるが、ようやく友人に声を掛けることができた。
すると、少ししかいられないけど後で行くよ、明日になっちゃうけど行くよ、と、
次々、本当に嬉しい返事をもらうことが出来た。
出張中の夫も、切り上げて夜には駆けつけてくれた。

何周歩いただろうか、だいぶ日も暮れてきた。
会場はルミナリエの準備で慌ただしくなっていった。
ルミナリエとは、小さな紙袋の中にキャンドルを入れて、トラック上に並べるイベント。
リレーフォーライフは、どこの会場もこのルミナリエが行われる。
その紙袋には、現在闘病中の人や、またガンで亡くなった人たちを偲んで、
それぞれ思い思いのメッセージを綴るのだ。
私はこう書いて、トラックに並べた。

「みんなに支えられて、私は生きていきます」

生きて「いる」のではなく、生きて「いく」んだと、そういう気持ちをこめて。

そして、会場の脇には「HOPE」のキャンドル文字が浮かび上がった。
希望。
どれほど、この希望を持つということが難しいことか。
ちょうど半年前、突然ガン宣告を受け、目の前が真っ暗になり希望のキの字もなかったが、
このHOPEの文字を仲間と共に見て、一人じゃないんだ、必ず、克服しなくてはいけない。
そう思った。
つらいのは、私だけじゃない。
私が希望を持てなければ、みんながつらくなる。
強い心が欲しいと、心から思った。

夜になると、前日に行われていた芦屋の会場からアグネスチャンさんが到着した。
自身も乳がんを患った経験があり、(財)日本対がん協会「ほほえみ大使」でもある。
その縁で、リレーフォーライフのゲストとして招かれていた。
到着するとすぐに、ひとつひとつのチームのテントに声をかけて回っていった。
私たちのテントに来た彼女は、とても驚いた様子だった。

「こんなに若いサバイバーが参加しているなんて。しかも二人とも抗がん剤治療中だなんて。」

同じ乳がんということもあり、少し話す時間を作ってくれ、
私達がフリーペーパーを作ろうとしているんだ、という話をすると、
協力できることがあったら声を掛けてと言ってくれた。

9月といえど、夜中にはだいぶ気温も下がり、冷たい雨が降ってきた。
私はもうヘトヘトになってしまい、持参した寝袋で休ませてもらった。
その間も、仲間達は交替で、歩き続けてくれた。

・・・次は、リレーフォーライフのフィナーレ~その後をお伝えします・・・

2010/01/03 01:27 | 未分類 | 2 Comments
2009/11/27

2008年9月

フリーペーパー作成のほかに、私と彼女(Aさん)は動き出したことがあった。
リレーフォーライフというイベントへの参加だった。
Relay For Life 命のリレー。

1985年にアメリカで始まったこのイベント。
ガン細胞は24時間眠らない、
ガン患者の闘病も24時間休みなく続いている、
ならば、仲間を集めて24時間、夜明けを信じ、歩き続け、闘おうじゃないか。
そんなチャリティイベントである。

日本では2006年につくばで初めて開催され、
今では世界20カ国以上に広がっているこのリレーフォーライフ。

2008年9月14日13時~、翌15日13時まで
新横浜公園の日産フィールド小机のトラックを
私たちは、ぐるぐる歩き続けた。

アメリカではガン患者の事をサバイバーと呼ぶことがあるという。

このイベントは、24時間、チームのうち誰かが一人でも歩き、
そして、一本のたすきを繋いでいく、ということがルールなのだが、
最初の1周は「サバイバーズ・ラップ」といって、ガン患者だけで歩くのだ。
つまり、公表しなくてはならない。
私は、ガン患者です、と。
この年は、紫色のバンダナがサバイバーには配布され、
私とAさんは、それを手首に巻き、自分たちの両親ほどの年齢のサバイバーたちと共に、
そのサバイバーズ・ラップを歩いた。

久々にシューズを履いて歩いた。
私は、ガンが見つかるちょうど1ヶ月前に出場した、東京マラソンの時の格好で歩いた。
もう二度と走れなくなるんじゃないかと思い、捨ててしまおうとも考えたウェアとシューズ。
こんなに早く袖を通せる日が来るとは思わなかったが、
やっぱり足はしびれているし、すぐに息が切れた。
それでも、家族、仲間の助けを借りて、イベントに参加した。

・・・次は、リレーフォーライフの後半~その後をお伝えします・・・

※※※※※ちょうど、去年の今日、11月27日に手術をしました。※※※※※
※※※※※今日はその日から丸1年、お祝いの日です!!※※※※※

2009/11/27 03:25 | 未分類 | No Comments
2009/10/16

2008年8月下旬

私はある乳がん患者と親しくなった。
彼女は私よりも5歳年下で、仕事を続けながら治療をしていた。

そんな彼女に「今の私たちにできることをしよう」と声をかけられた。

この時の私は、このまま治療を続けていったい何の意味があるのか、
仮にガンをやっつけられているとしても、歩けば足が痛いし、
その代償はあまりにも大きすぎるのではないか。
もう治療なんてやめてしまいたい、と、そんなことばかり考えていた。

でも、彼女は違った。
私たち若年性乳がんの事を、もっと広く知ってもらおう。
私たちが困っているのは、情報が乏しいから。
それなら私たちから発信しよう!
こう話してくれた。

治療を始めてから私は仕事を休職し、家に篭りがちだったが、
こんな状態の私でも、できることがあるのかもしれない。
今の私にしか、できないことがあるのかもしれない、と感じた。
治療を続ける意味、生きる意味、今の私が在る意味を感じた。
そう思えたことが、すごく嬉しかった。

とはいっても、どうしたらよいのか。
彼女はひとつの提案をした。
フリーペーパーを作ろう。

そして私たちは、動き始めた。
イチから、どうしたらよいか考えた。
どのような企画?記事は?誰が取材に行く?
そして費用はどうするのか。

いろいろなことを考え出したら、わくわくしてきた。
もともと止まっていられない性格。
翌週には出版費用をお願いするため、企業まわりをしていた。

・・・次は、ガンであることを隠して生きるのはやめた~その後をお伝えします・・・

2009/10/16 07:34 | 未分類 | No Comments
2009/09/13

それは毎週投与の抗がん剤、2回目の投与から3日ほどたった朝だった。
いつもと同じように、朝起きてシャワーを浴びていた私は、
歩いているその足の裏の感覚がちょっとおかしいと感じていたが、
寝ぼけているのかなぁなんて思う程度で、さほど気にはしなかった。

そしてその日の夕方。
買い物のために外出しようと靴を履いた時、違和感を覚えた。
いつも履いている、つっかけみたいなサンダルが上手く履けない。
足の指にサンダルが触れる感覚が、いつもとちょっと違う。
痛いわけではないが、感覚が薄い感じ。
このときは特に気にもしなかったけれど、これが痺れの前兆だった。

日に日に、足の指からチクチクと痛むようになっていった。

足の裏が地面につくだけで、刺すような痛みとなってきたため、
4回目を投与する前の診察時に、それを医師に伝えると、
「ちょっと副作用の出が早くて強いようですね。様子を見ましょう」
ということになり、この日の投与は延期となった。

でも、様子を見るといっても、本当に見ているだけで、何もできない。
改善するわけでもなく、むしろ、どんどん痛みはひどくなる一方で、
出された薬も、たいして効いている感じはしない。

しかもこの副作用は投与が終了すれば消えるものではなく、早くても数ヶ月、
場合によると完全に痺れが取れるまでには2年くらいかかることもあるという。
冗談じゃない。

1種類目の抗がん剤、CEFのときは、気持ちの悪さがつらかったが、
身体的に何か日常生活に支障をきたす様なことはなかっただけに、
この痺れとの闘いはつらいものとなった。

この頃になると、手の指先にも痺れが出始めており、
細かいものをつかんだり、洋服のボタンをかけたりすることも難しくなり、
とにかく思うようにできないことで、イライラすることが多くなった。
携帯電話でメールをうとうにも、指先が痛いし、
ペンを持っても、指先の感覚がおかしいので上手く字が書けなかった。

人とのコミュニケーションをとるのが億劫になってきたのも、この頃。
それを助長させたのは、度重なる脱毛だった。
CEFを最後に投与してから、このとき、既に2ヶ月くらい経過しており、
人間の細胞というものはすごいもので、ちょろちょろ髪が生え始めていたのだ。
パクリタキセルは投与し始めて1ヶ月程度だったので、
それによる脱毛の副作用はまだ現れていなかったためだ。

しかし、このパクリタキセルの方が、脱毛は強く現れる。

ほどなくすると、体中の毛という毛が、すべて抜け落ちた。
せっかく生えてきてくれた髪の毛が、無残にも抜けてしまった。
一度ハゲたはずなのに、やっぱり、悲しくて悲しくて仕方なかった。

それに加え、今度は眉毛も、そしてまつ毛までもが、抜けた。
髪の毛だけでなく、女性の顔にとって大事な大事な眉毛と、まつ毛。
顔を洗うたびに抜け落ちていくため、顔を洗うのが恐くなり、
鏡を見るのもイヤになった。

ヘンな話、ムダ毛処理というのは時間とお金のかかることなのだが、
この夏はいっさい私は何も気にすることなく過ごすことができた。
文字通り、ツルッツルのお肌を手に入れたのだった・・・。

ただ、眉毛がない、まつ毛がないとなると、人相が変わってしまう。
髪の毛と同様、自分にどんどん自信がなくなっていった。
一応、抜ける前に、眉毛がない状態からでもちゃんと書けるように練習し、
まつ毛は、つけまつ毛をつけて、濃くアイラインを引いたりはしたが、
やはり、人に会うのがイヤになり、家に篭るようになっていった。
笑顔も消えていった。

そうは言っても、治療は続けなければならなかった。
がん細胞は、決して待ってはくれない。
毎週、抗がん剤を投与しに、足の痛みに耐えながら、がんセンターへと通った。

・・・次は、治療を続ける意味、今の私にできること~その後をお伝えします・・・

2009/09/13 02:44 | 未分類 | No Comments
2009/08/04

手術の前に、私は2種類の抗がん剤を、4月から半年間にわたって投与した。
1つは3週間おきのCEF療法を4回、約3ヶ月間の治療。
そして、8月から始めた新しい抗がん剤は、毎週×12回の投与。
同じ3ヶ月でもえらい違いだ。

期間としては半分過ぎたけれど、まだまだこれからが闘いなんだと、
なんとか気持ちを強く持ち、新しい抗がん剤の投与に備えた。
(投与日を毎週月曜としたため、後に、サザエさん症候群に陥いることになる。
→日曜夜の「サザエさん」の頃になると、翌日の通院がイヤで発熱!!)

前回までのCEF療法よりも投与時間は30分ほど長くかかるが、
このパクリタキセル療法(タキソール)も通院治療だった。
相変わらず、点滴の針を刺しにまわってくる医師を待つ時から泣き、
投与中も泣き、たくさんの看護師さんたちにいっぱい迷惑をかけた。
所要時間はおよそ2時間半、その間、母は毎回必ず待合室にいてくれた。
点滴が終わり、病室を出てその顔を見ると、ホッとした。
こんなに心強いことはなかった。

CEF療法でキツかった副作用の吐き気は、タキソールではあまり出ないという。
そのはずなのに「抗がん剤を投与した」というコトからの条件反射で
なんだか消化器系がムカムカし気分はすぐれず、体調は思わしくなかった。
ただ、吐き気はするもののそれほどではなく、食事は普通に摂れた。
2日くらいはダルさが続いたけれど、週の後半はまた動けたので、
「なるほどこれなら12回、何とかなるかもしれない」と思うことができた。

しかし、毎週毎週続くとなると、コレはきついなぁと思い始めたのは翌週。
早くも2週目に私はものすごく落ち込むことになる。
手足に痺れが出て来たのだ。

・・・次は、歩くのが痛い~その後をお伝えします・・・

2009/08/04 02:35 | 未分類 | 3 Comments

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