2016/07/24

連日、話題に上っているので、ご存知の方も多いと思うが、『ポケモンGO』が人気沸騰中だ。ブータン研究と『ポケモン』に何の関係があるのか、と言われればそれまでなのだが…いや、実は無いようで有るから馬鹿にできない。

『ポケモンGO』、正式名称『Pokémon GO』とは、そもそもどんなゲームなのか。名前は耳にするけれども、実はよくわかっていない、という方も多いかもしれない。配信元の任天堂が出した公式リリース文によれば、「『Pokémon GO』は、位置情報を活用して現実世界でポケモンを捕まえたり、バトルしたりといった体験のできるスマートフォン向けアプリ」ということらしい。これを読んでも何のこっちゃかようわからん、という方は、以下の公式サイトを見ていただくと、あるいは、多少のイメージはつかめるかもしれない。いや、そもそも、『ポケモン』ってなんだよ、と言われてしまうと割とどうしようもないので、そこはなんとか自力で話題についてきていただきたい。

『Pokémon GO』公式サイト│The Pokémon Company

ところで、初代『ポケモン』、つまり『ポケットモンスター』と呼ばれるゲームが世に出たのは、今から20年前。当時、ゲームボーイで通信対戦ができるゲームとして一世を風靡し、日本国内をはじめ、世界中で人気を博した。その後、アニメ化されたことで人気が不動なものとなり、現在に至るまで、その人気は衰えるどころか、ますます勢いを増している感さえある。

さて、『ポケモンGO』である。昨年9月、任天堂、株式会社ポケモン、そして、Google発のベンチャーである米Niantic社が手を組んで、スマートフォンアプリを開発する、と発表されてから早一年弱。今年7月6日、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドでサービスが開始されると、瞬く間にスマホアプリ市場を席巻していった。米国内の大学構内で何十人もの学生がぞろぞろとポケモンを探して歩き回る異様な光景が、日本のマスメディアでも報道され、注目度を増していったが、この時点ではまだ日本での配信日は未定であった。日本での配信遅れは、予想外の人気ぶりによるサーバートラブルなどが原因であったと言われているが、真相は定かではない。

一方で、先行配信された国、特にアメリカでは、その絶大な影響力について、清濁入り混じったさまざまな議論が交わされる結果となった。『ポケモンGO』は、そのゲームの性質上、スマホを持ち歩いて屋外でポケモンを探す必要があり、そのため、いわゆる「歩きスマホ」を助長させるだけでなく、住居等への侵入や、車やバイクを運転中の利用による事故など、数多くのトラブルが発生している。それに対して、『ポケモンGO』のおかげで、これまで引きこもりだった人間が外出したり、うつや肥満といった症例にも良い影響を及ぼしているという声も上がっている。果ては、アメリカ大統領選挙でクリントン、トランプ両陣営が話題に持ち出すなど、その影響は政治分野にまで拡大しつつある。ただし、これらの議論はあくまでも配信後2週間余りのあいだに起きた短期的な影響に過ぎず、今後の配信元による対策などの動向が注視されるべきだろう。

任天堂の「ポケモンGO」、米で利用者数が歴代首位│日本経済新聞
「ポケモンGO」がうつ病や不安神経症を改善する 精神医学の専門家「前例ない効果」│The Huffington Post Japan
‘Pokemon Go’ finds its way onto the campaign trail│CNN


『ポケモンGO』狂想曲は、配信からわずか1週間足らずで、世界中へと飛び火した。しかし、順調にサービスが開始される欧米の国々とは対照的に、中東においては、極めて政治的な文脈と結びつけて語られる事態へと急転していった。未だ政情不安が続くイスラエル、パレスチナでは、自由に歩き回ることが許されない環境が、『ポケモンGO』を純粋に楽しむことができない悲哀を物語っていた。一方、戦火にさらされているシリアでは、「#Pray for Syria」のハッシュタグとともに、ポケモンの絵を持って佇む子供たちの写真が、反政府グループによるキャンペーンとして用いられた。また、『ポケモンGO』がイスラムの教えに反しているという、謂れの無い言いがかりとも言えるコメントが、公然とイスラム圏の政府関係者から発せられる事態も起きた。

ポケモンGO、イスラエルとパレスチナでも注目│AFP BB NEWS
ポケモンGOはイスラムを侮辱? トルコで禁止求める声│AFP BB NEWS
ポケモンGOを使って、シリアの子供たちは世界に訴える 「助けに来て」│The Huffington Post Japan

もちろん、『ポケモンGO』が世界経済に与えた影響も計り知れない。株式市場は特に敏感に反応を示し、任天堂株への買い注文が殺到する結果となり、いつしか、「アベノミクス」になぞらえて、「ポケモノミクス」と呼ばれるようになった。配信前に比べて2倍以上に急騰した任天堂株は、日本では未だ配信前にもかかわらず、東証における一日の単一銘柄による売り上げ高の記録を更新するなど、異常な盛り上がりを見せていった。菅官房長官はこの事態を受け、「我が国のコンテンツが海外を含めて広く親しまれることは極めて喜ばしい」と述べると同時に、今後配信を控える日本における、マナーや安全性への懸念も示した。

市場に「ポケモノミクス」 関連企業の時価総額、4日で1兆3000億円増│日本経済新聞
官房長官、ポケモノミクス「極めて喜ばしい」│日本経済新聞

そして迎えた日本配信当日、7月22日。筆者の職場である早稲田大学においても、配信日は期末試験期間真っ只中であったにもかかわらず、至るところでポケモンを捕まえようとスマホ画面を食い入るように見つめる学生たちを見つけることができた。それらを訝しげに眺める教職員とのコントラストが印象的な光景ですらあった。アメリカをはじめとした各国での状況を受けて、特に、歩きスマホ防止のための注意喚起があちこちで行われたが、残念ながら、抜本的な対策には至っておらず、効果は焼け石に水であったと言わざるを得ない。近いうちに、日本でも大きな事故につながる危険は避けられそうにない。

また、『ポケモンGO』のなかでの、ポケモンの生息地や重要なスポットには、国内のランドマークとなる建造物などが多くあるが、そのことが新たな問題の火種ともなっている。いち早く対応をしたのは出雲大社で、「厳粛な雰囲気に影響が出るのを避けるとともに、参拝者が思わぬ事故に遭うのを防ぐ」という理由から、『ポケモンGO』の利用を禁止することを発表した。他方、『ポケモンGO』を利用した集客を目論む動きも出てきており、日本においても、そのメリット、デメリットの両面からの議論が、今後、活発になっていくことが予想される。

あらゆる街で『ポケモンGO』が大盛り上がり! 配信日の都内各所をレポート│ファミ通 App
ポケモン 出雲大社が境内での使用禁止に│NHK NEWS WEB
ポケモンGOで「地方創生」の動き、図書館や美術館で活用広まる│Forbes JAPAN


と、ここまできて、ようやくブータンのご登場である。そう、果たしてどれぐらいの盛り上がりになっているのかは定かでは無いが、たしかにブータンでも、密かな『ポケモンGO』ブームが起ころうとしているようだ。そもそも、ブータンは、『ポケモンGO』が正式にサービスを開始した国には該当しない。だが、上述のイスラエルやパレスチナも、サービスが開始されていないはずの国・地域であり、どうやら、これらの場所においては、サービス利用に制限がかけられていない状態になっているようだ。

さて、ブータンにおいて、『ポケモンGO』をいち早くプレイしたのは、誰あろう、ブータン王国首相であるツェリン・トブゲイ氏その人であった。彼が、自身のFacebookページに「私が昨日出会った彼を見てくれよ!」というコメントとともに、ピカチュウと一緒に映った写真を投稿すると、多くのブータン人たちが感嘆の声をあげた。さらに、別のFacebookページでも、首都ティンプーにおいてポケモンを探す若者たちをとらえたスナップショットが公開されると、やはり多くのレスポンスが寄せられた。

しかし、ここで筆者にはある疑問が浮かんだ。ブータンでは、当然、20年前に初代『ポケモン』が発売されたとき、このゲームをリアルタイムでプレイした人は誰一人いないはずだ。それもそのはず、1996年当時、ブータンには、テレビすらなかったのだ。その後、おそらく、ゲームをプレイした人や、アニメの『ポケモン』を視たことがある人が、多少は現れたことだろう。ただ、ブータン国内では、日本のアニメがもてはやされてはいるものの、『ポケモン』が爆発的に流行ったという話は聞いたことがない。『ポケモン』が、彼らにとって、共通の話題に成り得たことは、いままでなかったはずなのだ。つまり、世界中でいま最も熱いコンテンツである『ポケモンGO』に完全に乗っかった格好であり、一過性の流行としてあっという間に通り過ぎてしまうのではないかと予想できる。万が一、ブータンが、とんでもないレアポケモンの巣窟であったりしない限りは…

それに対して、アメリカや日本でのブームは、今後の動向が極めて読みづらい。今回のブームを牽引しているのは、大きく二つの動きがありそうで、一つには、初代『ポケモン』から連綿と続くゲーム、アニメを通して育った、20代から30代にかけての『ポケモン』世代による、ある種の共通のノスタルジーとしてのサービス利用。もう一つは、そうした世代を含む全世代を通貫する、単純なゲームとしての面白さへの没頭と世界的な流行に乗り遅れまいとする参加意識とがないまぜになった、なんとも言えない高揚感であろう。後者はある意味で、ブータンのような、『ポケモン』に馴染みの無い地域でも起こりうる流行現象ともリンクする。

かくいう筆者も、初代『ポケモン』をリアルタイムでプレイした世代でもあり、試しにプレイしてみて、シンプルなゲーム性ゆえの奥深さも味わった。一方で、率直に言って、現在のままのサービスであれば、飽きるのも早そう、という印象は拭えなかった。当然、百戦錬磨の任天堂が、そんな現状に気づいていないわけがなく、このまま手をこまねいてサービスが尻すぼみになっていくのを眺めているとは到底思えない。少なくとも、「歩きスマホ」問題へのテコ入れと、ゲーム性そのものを高める工夫を施してくることだろう。そんな、なんの根拠も無い期待を込めて、とりあえず、現時点ではこのあたりで筆を置くことにしたい。

2016/07/24 12:00 | ブータン, 雑記 | No Comments
2016/04/17

英王室のウィリアム王子とキャサリン妃が、4月14日から2泊3日という弾丸日程で、ブータンを訪問した。滞在初日は、パロ空港到着後、首都ティンプーへ移動し、第5代国王・王妃両陛下と御懇談された。2日目はパロへ再び移動し、タクツァン僧院を訪問され、翌朝、インドのデリーへの旅路につかれた。
英国BBC放送は、ウィリアム王子・キャサリン妃両殿下がブータンの伝統的なアーチェリーを楽しむ姿や、タクツァン僧院へのトレッキングの様子を映像入りのニュースで伝えている。

Archery challenge for William and Kate in Bhutan│BBC
William and Kate trek to Bhutan’s Tiger’s Nest monastery│BBC

また、ブータン国内でも、ワールドワードで人気の高いロイヤルファミリーの訪問は注目のイベントだったようで、BBS(ブータン放送)は生中継も交えながら、これまでの英国とブータンの歴史を振り返る特番を放送し、主要新聞社であるKuensel紙も、”A Historic Visit” というタイトルでその訪問の歴史的意義を紹介した。

A Historic Visit│Kuensel


ところで、第5代国王と、ウィリアム王子は、ともに30代半ばとほぼ同世代だが、片や、小国とはいえ一国の主であるのに対し、間もなく御年90歳を迎えるエリザベス2世を祖母に持つウィリアム王子は、英国王位継承権第2位という立場。こういうとき、いったい序列はどうなっているんだろう…と下衆の勘繰りをしてしまうのは悪い癖だ。

試しに、それぞれのご本名と年齢、そして、敬称付きの英文正式名(もし誤りがあったらご指摘いただきたい…)を並べてみよう。

ジグメ・ケサル・ナムゲル・ワンチュック国王(36歳)
His Majesty The Druk Gyalpo (King) Jigme Khesar Namgyel Wangchuck

ジェツン・ペマ・ワンチュック王妃(25歳)
Her Majesty The Gyaltsuen (Queen) Jetsun Pema Wangchuck

ウィリアム・アーサー・フィリップ・ルイス王子(33歳)
His Royal Highness Prince William Arthur Philip Louis, Duke of Cambridge, Earl of Strathearn, Baron Carrickfergus, Royal Knight Companion of the Most Noble Order of the Garter

キャサリン・エリザベス妃(34歳)
Her Royal Highness Princess Catherine Elizabeth, The Duchess of Cambridge, Countess of Strathearn, Lady Carrickfergus

…正直、書いてみてうんざりしてきた。こういう、王族とか貴族とかの称号は、もちろん、数付けば偉くなるわけではないのは百も承知だが、間違いなく、自分の手の届かないところにいる方々だ、ということは一目で分かる。
ちなみに、ウィリアム王子は、結婚後にケンブリッジ公爵位を得たため、対外的にはケンブリッジ公を名乗る(ことになっている)ようだ。が、公爵といっても、中世の貴族のように、ケンブリッジに領地や領民を持っているわけではない。
…と、これ以上書くと、書けば書くほどボロが出そうなので、このあたりでやめておこう。

なお、当然のことながら、ウイリアム王子とキャサリン妃との間の2子も、大変に長いお名前をお持ちだ。2013年に生まれた長男・ジョージ王子は、Prince George of Cambridge (George Alexander Louis)、2015年に生まれた長女・シャーロット王女は、Princess Charlotte of Cambridge (Charlotte Elizabeth Diana)、とそれぞれ名付けられた。

そして、2016年4月16日、今年2月に生まれた、ブータン国王夫妻の初めての子ども、将来の国王となる王子の命名式典が執り行われた。この式典は、17世紀にブータンを始めて統一したシャブドゥン・ンガワン・ナムゲルを偲んで毎年行われている祭事「シャブドゥン・クチェ」のなかで行われることが、以前から発表されていた。
というのも、今年は、そのンガワン・ナムゲルがチベットからブータンを訪れてから、ちょうど400年目に当たる節目の年。おそらく、縁起が良いという理由で、その日が選ばれたのだろう。

その結果、王子は、ジグメ・ナムゲル・ワンチュックと名付けられたことが発表された。まさかの、現国王のお名前から「ケサル」を取っただけ、という、なかなか意外?なネーミング。ブータンでは、基本的に名前は僧侶が決めるものなので、様々な祭り事の結果によるものなのだろうが、今後、父親と区別するのがちょっと一苦労しそうだ。
一応、英文表記を書いてみると、His Royal Highness The Gyalsey (Prince) Jigme Namgyal Wangchuck とこういうふうになる(はずだ)。


以上、ブータンとイギリス王室、そしてブータン近代史を交えたコラムをお届けしました。ごめんなさい、専門外のことをやるもんじゃないです。もうやりません。

2016/04/17 12:00 | ブータン | No Comments
2016/04/14

相変わらずに遅筆につき、昨秋のブータン出張記が滞っております。もう3月に新たに出張に行ってしまったのだが、それも含めて、鋭意執筆中、ということで平にご容赦いただきたく…。

取り急ぎ、さくっと書けそうなサッカーの話題でも提供しようと思う。昨夜、抽選会が行われた、サッカーワールドカップ・アジア最終予選の組み合わせ。日本代表は、オーストラリア、サウジアラビア、UAE、イラク、タイと同組に入った。上位2ヶ国が自動的に本戦出場決定、3位の場合は大陸間プレーオフに回ることになる。

ところで、もうすっかり記憶の彼方かもしれないが、先の二次予選に、ブータン代表がはじめて進出していたのを覚えているだろうか。このコラムでも、何度か取り上げているように、2015年は、ブータンのサッカー界にとっては忘れられない一年になった。残念ながら、日本と同組に入らなかったため、対戦のチャンスは逃してしまったが、ブータンはブータンで、強豪ひしめく中、奮闘を続けていたのだ。

110.ブータン代表、実に12年ぶりの「公式戦」に挑む!?
112.ブータン代表、歴史的勝利詳報(前)
113.ブータン代表、歴史的勝利詳報(後)

遡ること1ヶ月前。2016年3月29日。アウェイでの対モルディヴ戦を終え、ブータン代表のサッカーW杯アジア二次予選での戦いが全て終了した。戦績は、0勝 8敗(勝ち点0)、得点5 失点52(得失点差 -47)のグループ最下位だった。ちなみに、別グループではあるが、日本代表は、7勝 1分(勝ち点22)、得点27 失点0(得失点差 +27)のグループ1位だった。

酷い成績、といえばたしかにそうだが、そもそも、二次予選に駒を進めたところからして、ブータンとしては史上初の快挙だったわけで、それ以上を求めるのは酷というものだろう。

ちなみに、筆者は、2015年11月17日、ブータンの首都ティンプーにあるチャンリミタンスタジアムで、ブータン対カタール戦を生観戦していた。その前々月、9月にアウェイで15-0という歴史的大敗を喫した相手との再戦ということで、「果たして何点取られるのか…」という不安しかなかったことを思い出す。

公式チケット(価格はNu300=約600円)

公式チケット(価格はNu300=約600円)

代表戦でよくあるデカい国旗

代表戦でよくあるデカい国旗

もちろんお坊さんも観戦に来ている

もちろんお坊さんも観戦に来ている

無料配布された応援グッズ

無料配布された応援グッズ

観客席の様子(ユニフォームは着ないのがブータンスタイル…?

観客席の様子(ユニフォームは着ないのがブータンスタイル…?

まもなく試合開始

まもなく試合開始

カタールのフリーキック

カタールのフリーキック

試合後のスタジアム前

試合後のスタジアム前

結果は、0-3で敗戦。しかし、前半は0-0で持ちこたえるという、全く悪くない、むしろ奇跡とも言える結果に終わった。


一方、奮戦の陰で、今回の予選の最中に、ブータン代表監督の解任問題が浮上していたことを、ご存知の日本人がどれだけいるだろうか。しかも、その解任された監督というのは、実は日本人であった。

当時、さりげなく朝日新聞が、解任報道を伝えていたので引用してみよう。

サッカーのブータン代表の築舘範男監督(55)が解任されたことが27日、分かった。ブータンはワールドカップ2次予選C組で5戦5敗の最下位。9月の3戦目のカタール戦は0―15で敗れ、10月8日の4戦目のモルディブに3―4で敗れた後に解任されたという。
築舘監督は今年3月、当時世界ランク最下位ながらW杯アジア1次予選を突破したブータン代表監督に就任し、2次予選から指揮を執っていた。今回の解任について「事情を話すことはできない」としている。
http://www.asahi.com/articles/ASHBW6GZ2HBWUTQP027.html

たしかに、ブータン代表は、結果的に、二次予選で勝利はおろか、引き分けさえない勝ち点ゼロに終わった。が、何度も言うように、ブータン代表にとって、この予選は、結果を求める場ではなく、経験値を積む場、それ以上でも以下でもなかった、と考えるのが妥当だろう。ちょっと前までFIFAランキングで世界最下位だった国が、いきなり、二次予選とはいえ、ワールドカップ予選で善戦できるほど、世界のサッカーは甘くはない。

当時のFacebook上での議論を見てみると、「あんな酷い負け方は恥だ」と監督を責める発言もあれば、「誰がやっても同じ結果になった」と監督を擁護する声もある。日本では、負けが続けばこんな世論が展開されるであろうことは想像に難くない。ただし、繰り返すようだが、ここはブータンなのだ。ブータン国民は、サッカー観戦が大好きなので、ヨーロッパを含めて、世界のサッカー事情には明るいはずなのだが、どうやら、彼らは目が肥え過ぎてしまっているらしく、自国のサッカーに求めるものが随分と過剰な期待にすりかわっているきらいもある。

が、世論が解任に傾いたために解任されたわけでも、敗戦の責で解任されたわけでもなく、監督がブータンサッカー協会と揉めたことが引き金になったらしい、というから、事態は少しばかり複雑だ。揉めた原因については、監督側は沈黙し、協会側は協会の非を認めていないので、結局のところ、真相は闇の中なのだが…。

一応、地元紙Kuenselが伝えた、解任の速報とその続報についてリンクを貼っておくので、興味のある方は参照されたい。
http://www.kuenselonline.com/head-coach-norio-tsukitate-sacked/
http://www.kuenselonline.com/head-coach-norio-wanted-to-leave-bff/
http://www.kuenselonline.com/more-than-a-game/


個人的には、ブータン代表の今回の二次予選参加は、文字通り、「参加することに意義がある」段階だったと見ている。たぶん、これまでのサッカー・ブータン代表のことを少しでも知る人は、同じ意見だろうと思う。

2018年ロシアワールドカップに向けた旅は終わったが、2019年アジアカップ、そして、2022年カタールワールドカップへ向けた新たな戦いは続いていく。考えてみれば、日本でさえ、ワールドカップ初出場は1998年のフランス大会だった。あれから、まだ20年も経っていない。ブータンは、ちょっと気が早すぎる夢をみてしまった、といったところだろうか。

ブータン代表がワールドカップに出場する日が、生きているうちに訪れるのかどうか定かではないが、気長にそんな夢をみるのは悪くない。そんなことを思わされたこの1年だった。

2016/04/14 12:00 | ブータン | No Comments
2016/01/21

先週末、全国各地で行われた、大学入試センター試験。
筆者は、いまから16年前、20世紀最後の年に受けた(年齢がバレるが、まあいいだろう…)わけだが、なぜか今年、無性に「もう一度受けてみたら、果たして何点取れるのか??」という疑問がわき上がってきた。

ちなみに、18歳当時の自分は、正直言って、少なくとも、こと「試験」という形態においては、人生で一番勉強ができた時期だと思う。
自慢か?と言われれば、まあ自慢なのだが、実際、自分でも「ちょっと神がかっていた」という自覚はあるくらい、あの時の自分は確変モードに突入していた。

今の自分は、あの時からどれだけ衰えたのか??
なんか、もうそんなことが知りたかったのだ。
なんでそんなドM思考に取り憑かれていたのか、今思えば謎でしかないのだが…。

が、そんなちゃちな動機は、「英国数理社の全科目を解くだけで、単純計算で6時間40分を要する…」という事実の前にあっという間にしぼみそうになる。
あまりにも、そう、あまりにも面倒くさい。

とはいえ、一度、ネタになると思い立ってしまったからには、背に腹は変えられない…
という謎の信念に導かれ、気がついたらペンを握っていた。
何とも損な性格だ。


さて。
前置きが長くなったが、ここから実際の時間割順に解いていくことにする。
最初は、「社会」だ。

地理、歴史(日本史・世界史)、公民(現代社会・倫理・政治経済)から1科目選択。
現役当時と同じ科目を、ということで、ここは「現代社会」を選択する。

何でまた現社なんてマイナー科目を、とお思いの方も多いだろう。
が、こんなことを言ったら怒られそうだが、現役当時も正直「どれでもいい」と思って適当に選んだ。
本当にどれでもよかったのだ。
なぜなら、二次試験に進むために、社会の点数は関係なかったから…

というわけで、「現代社会」を解く。
60分の試験時間の半分程度で解き終わる。
それはそうだ。
わからん問題は全部何も考えずにすっ飛ばしたのだから。

結果。
100点中 48点

なんとも微妙だ。
ある種、常識に属するような問題もあるので、50点は超えたかったところ。


続いて、「国語」。
これはいけるんじゃないかと思っていた。
国語力なんてそうそう落ちないだろうし、落ちてたらちょっと日本人としてヤバい。

結果。
200点中 166点

悪くない。
現役時(180点)よりは若干落ちたが、そこは試験慣れの差だろう。
自分でも驚いたのは、古文、漢文も案外解けた、ということ。
どうやら例年より問題が簡単だったようだが、それでも、16年のブランク(その間、古文、漢文なんて触れてもいない)があっても、案外、いけるもんだ。


そして、「英語」。
これは、国語以上にいけそうな気がしていた。
というか、正直、英語だけは現役の時より明らかにできるようになっているはず…

結果。
200点中 172点

残念ながら、現役時(184点)に一歩及ばず。
リアルな場での英語力は、間違いなく当時より格段に延びているはずだが、こと「試験」となると、細かいミスが多発した。
それでも、8割5分取れたので、御の字だろう。
正直、ここまでの3科目を終えて、「おいおい、まだ全然いけるじゃん!」とノリノリだったことをここでご報告しておきたい。

そう。
当然、この後に地獄が待っていた…


次は問題の「数学」だ。
現役時代、最も得意だった科目。
事実、数学IA、数学IIBともに、16年前は満点だった。
そう満点だったのに…

結果。
数学IA 100点中 58点
数学IIB 100点中 47点
計 200点中 105点

まさかの50%OFF。
いや、薄々感づいてはいた。
高校数学ってやつは、「公式を暗記する科目だった」ということに…

国語、英語は、記憶力ではなく思考力を試される試験だ。
それゆえに、思考の瞬発力や正確性が問われる。
しかし、数学は、公式を覚えていなければ、もはや絶望しかない。

何がしんどいって、グラフ、図形問題が特にしんどい。
三角関数(sin, cos, tan)ってなんだっけ…?
指数・対数ってあったなあ…
微分・積分とか懐かしいわあ…
など。

単語だけが走馬灯のように頭を駆け巡るが、肝心の解き方が一切浮かんでこない。
そして、圧倒的に時間が足りない。
むしろ、よく半分取れたとさえ思う。

が、そんな数学の悲劇すら忘れさせる、衝撃の展開が待ち受けていた…


どんじりに控えていたのは、「理科」。
物理・化学・生物・地学からの選択。
もちろん、現役時と同じ、「地学」を選ぶ。

現社を超えるどマイナー科目、地学。
50万人を超えるセンター受験生のうち、毎年わずか数百人しか受けない、幻の科目、地学。
それは16年前から変わらない真実なのだが、なぜか、当時の自分は、地学に心底ハマっていた。
そう、ハマっていたのに…

結果。
100点中 26点

これはあかん…
四択を全て適当に答えた確率とほぼ変わらない得点率に、呆然とするしかない。
いや、実際、「わかった」と確信を持てる問題は2,3問で、あとは全部勘で答えた。
それほどまでに、全く「わからなかった」。
どれもこれも、一度は耳にした言葉が羅列されているのだが、「単語」としての記憶でしかなく、正確な意味が抜け落ちているので、何もわからないに等しかった。

例えば、こんな問題。
「プルームとホットスポットについて述べた文として誤っているものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。
 ①アフリカの下にはマントルの底から上昇するプルームがある。
 ②海嶺に沿ってマントルの底からプルームが上昇している。
 ③ホットスポットでは玄武岩質マグマが噴出する。
 ④太平洋プレート上にはホットスポットを起点とする火山島の列がある。」

たぶん、地学の授業を受けたことがない人にすれば、「プルーム」ってなんやねん!?と思うだろうが、安心してほしい。
プルームという言葉は知っていたとしても、全部正しいような気しかしない。

こうして、国語、英語でコツコツ稼いだ自信は、数学、理科で根元からバッキバキに叩き折られた。


戦いは終わった。
最終結果は以下のようになった。

満点 2016年 2000年
得点 全国平均 得点 全国平均
現代社会 100 48 55.84 64 44.39
国語 200 166 125.90 180 112.92
英語 200 172 114.67 184 119.62
数学 200 105 106.84 200 131.04
地学 100 26 40.57 96 66.23
合計 800 517 443.82 724 474.20

かろうじて全国平均は超えたものの、ほぼ、国語と英語の功績でしかない。
わかってはいたけど、わかりたくなかった結果が白日の下に晒された。
ただ、それだけの事実が判明し、特にオチらしいオチもなかった。

数学と地学は、正直悔しいので、ちょっと勉強し直そうかな…

2016/01/21 12:00 | 助手生活, 雑記 | No Comments
2015/12/02

メラ村二日目の朝は快晴だった。
キンと冷えた、凍てつく寒さが身を震わせるが、ここではまだ秋の口。
せっかくの好天なので、30分ほど朝食前の散歩をすることに。


霜が降りたメラ村の様子。

朝食後、隣村であるゲンゴ村へ行ってみることに。
ブータンでは、隣村と言っても、実は歩いて2日かかる、
なんていうことが往々にして起こるのだが、
メラからゲンゴまでは、わずか1kmほどの道のり。
もはや、ブータンでは同じ村、という認識かもしれない。

道中、昨日は曇り空で見えなかった聖山ジョモ・クンカルがはっきりと見えた。
この山は、メラ地域の人々が信仰する、女神アマ・ジョモが住んでいる、
と伝えられている山で、年に一度、山の中腹にある湖で祭事が執り行われる。


聖山ジョモ・クンカルを望む。

が、個人的には、ゲンゴとメラの間の小高い丘の上に建つ電波塔に興味津々。
昨日の話(前回記事参照)を思い返しながら、
「あれが、5年前に建った携帯電話の電波塔か…」
と、普通の観光客では有り得ない謎の感慨にふけっていたところ、
村の若者から奇異の目で見られたことは言うまでもない。


丘の上にメラ地域をカバーする携帯電話の電波塔が建つ。

さて、ゲンゴ村は、確かな数字は不明だが、人口は数百人程度の小村で、
1時間もあればぐるりと一周できてしまう規模だった。
その後、メラ村へ戻り、村内を散策したが、これまた、せいぜい1千人足らず、
というサイズだったので、寺や小学校などをじっくり見て回っても、
半日あれば事足りてしまうくらいの、そんな規模感だった。


白い峰を背に歩いてくる馬たちが絵になりすぎる。


飲料やスナックを取り扱うメラ村の商店。


小学校で出会った、やたらと目力の強い女の子たち。


と、こんな風に過ぎていった一日であったが、
その間、一応、旅の主目的であるメラ地域の携帯電話事情について、
事あるごとに村人に尋ね歩いていたわけで、その一端をここでご紹介しておこう。

前回記事でも書いたように、メラ村に携帯電話の電波塔が建ったのは約5年前、
電気が通ったのは約3年前、そして、道路が通ったのが約3ヶ月前。
日本人的な感覚では、インフラ整備の順序が逆転しているのだが、
ブータンのような急峻な山々に囲まれた土地では、
電波塔<電線<道路の順に設置の難易度が高くなる。

とはいえ、携帯電話の電波塔が建った2010年当初は、
役場勤めの公務員や学校の先生などが主に携帯電話の利用者であり、
彼らは基本的には、「村外から派遣されてきた人」だった。
メラの人たちは、そういったソト者が利用する姿を見て、
これは便利だと気付き、結果、徐々に村民の間でも普及していったようだ。

ちなみに、当時は携帯電話を持っても、マニュアルなどない(読めない)ので、
その使い方がわからず、受話口をおでこに当てたり、逆さに持ったりしていた、
という逸話も聞かせてもらった。
着信の方が簡単(通話ボタンを押すだけ)なので、村人から外へかけるのではなく、
外から村に用事がある人がかけてくることが多かった、とも聞いた。
このあたりは、なんだか日本でもありそうな話だ。

ところで、メラ村での携帯電話の主な用途はといえば、
どうせ山奥で娯楽もないだろうから、世間話に花を咲かせているのでは、
と勝手に思っていたのだが、そのアテは思いっきり外れた。
例えば、遊牧民の一家では、ご主人が放牧地から家にいる奥さん宛に、
村へ戻るスケジュールの連絡をしたり、
あるいは、冬季に入る前に、薪を集めて運搬するための車両を手配したり、
そんな利用が一般的らしい。
意外なほどに現実的というか実用的な内容が多く、正直驚いた。

そんな実用性重視な理由もあり、ヤクの放牧を担う牧童の子なんかは、
小学校卒(あるいは中退する子はもっと若い)時点で携帯電話を持たされる、
というから、やはり日本とは相当勝手が違う。
こうした差異は、この地域において、「情報」の持つ価値とは何か、
あるいは、価値のある「情報」とは何か、を考える上でヒントを与えてくれる。

日本では、一概にはそう言い切れない面もあるが、概して、
若年で携帯電話を持つ家庭というのは、比較的裕福な家が多いとされている。
そして、若年層が携帯電話を持つ場合、その利用目的は、
十中八九、いやそれ以上の確率で「娯楽」だろう。
友人とメールやSNSなどで連絡を取り合う、ゲームをする、
写真を撮ってSNSに投稿する、音楽を聴く、本を読む、動画を視る。
そういった「非生産的行為」が、携帯電話の使途の大半を占めている。

しかし、メラ村の人々が携帯電話を買う、その目的は至ってシンプルであり、
生活の道具として、投資する価値を見出している、と言える。
これはメラ村に限った話ではなく、ブータンでは各所で似たような話がある。

最後に、メラ村で聞いた話の中で、最も面白いと感じた話を紹介しておこう。

30代男性のTさんは、現在は村にある寺の堂守の役割を担っているが、
かつてはヤクの遊牧を生業としていた。
夏になるとメラ村よりさらに山奥の牧草地にヤクを連れて放牧へ行き、
冬にはメラ村より低地の牧草地に移動する、という季節移動を繰り返していた。

奥さんとは、今から10年前、遊牧の合間のわずかな村滞在の際に知り合ったが、
村を離れることの多いTさんは、なんとかして彼女と連絡を取り合いたかった。
が、何度も書いているように、メラ村では5年前まで携帯電話すらなかった。
もちろん、夏の放牧地である山奥にも当然、携帯の電波は届いていなかった。
唯一、冬、低地に下りた際だけは、携帯電話の圏内であったため、
彼は、知人の携帯電話を借りて彼女に連絡を取っていたのだという。
そして、その甲斐あって、ついに結婚までこぎつけたのだ、と。

なんとも心温まる良い話なのだが、ここで疑問が生じるのは、
10年前、Tさんのいる低地では携帯が使えたとしても、
奥さんの住むメラ村までは電波が届いていなかったはずではないか、という点。
それについては、実は、当時、メラ村には1台だけ電話があったという。
それは、村役場に設置された固定電話。
ブータン政府は、各自治体に最低1台の緊急用回線を引いており、
それが唯一、外界と連絡を取る手段だった、という。
(詳細は確認できなかったのだが、物理的に回線が引かれていたとは思えないので、
おそらく、衛星電話か何かではなかったかと推察されるが、未だ裏は取れていない)

いずれにせよ、彼は、放牧地から、この電話に対して電話をかけていた。
そして、彼女を呼び出してもらっていた、とこういう手筈だったわけだ。
が、これって、よくよく考えると、相当危険な橋を渡っている。
こんなもの、日本でかつて携帯電話がなかった時代に、
彼女の自宅に電話をかけて呼び出してもらう、あの「親バレ」ハードルの比ではない。
なんせ、もう、村中にバレバレなのだ。

彼はいかにも人の良さそうにはにかみながら語ってくれたのだが、
こちらとしては、とんでもない武勇伝を聞かされた後の、
ある種の高揚感のようなものがいつまでも抜けなかったのを覚えている。
メラ村の恋愛事情(もとい、携帯電話事情)、恐るべし…。

なにはともあれ、わずか2泊という短い滞在ではあったものの、
有意義な情報を仕入れることができ、大変に満足できる旅となった。
しかし、実は今回のブータン出張は、これでまだ前半戦が終わったあたり。
後半のサムツェ県訪問編も、なんとか年内に書き上げたいと思っているので、
どうぞ期待して待っていていただきたい。

(つづく)

2015/12/02 12:00 | ブータン | No Comments
2015/11/20

東ブータンの山奥にあるメラ村は、標高約3,500mに位置する遊牧民の村。
つい最近まで電気も来ていなかった、まさに未開の地である。

メラ村までの旅の出発地点は、なぜかインドだった。
いや、なぜかということもなく、実は、東ブータンへ行くには、
ブータン唯一の国際空港があるパロからよりも、インドからの方が近い、
というただそれだけの理由である。

インドのグワハティ空港に降り立った時には、気温が35度近くあった。
着いたのが、朝の8時過ぎにもかかわらず、だ。
そこからブータン国境まで車を飛ばすこと約2時間半。
その道中もインドらしいふざけた事態がたくさん起こるわけだが、
今回の旅の目的はインドではないので、残念ながら割愛する。

で、ブータンの国境の街、サムドゥプジョンカルへ到着して車を乗り換え、
さらにブータン国内を北上し、メラ方面へと向かう。
直線距離で見れば、グワハティからサムドゥプジョンカルまでの距離と、
サムドゥプジョンカルからメラまでの距離はあまり変わらないように見える。

が、実はグワハティからメラまで1日で到達することは到底不可能だ。
既にブータンの道路事情は何度もコラムに書いてきたが、
ここには直線道路というものは存在せず、ただひたすら曲がりくねった山道。
平均時速はせいぜい20-30kmほどしか出ないし、なによりも、
単純な直線距離のおよそ3-5倍ほどの長さを走らされる羽目になる。

そんなわけで、初日は、サムドゥプジョンカルから北に150kmほど走り、
カンルン(標高およそ1,800m)という街で宿にありついた。
着いたときにはすっかり日も暮れ、気温もおそらく10度を下回るくらいに。
ちなみに、この街は、ブータン王立大学シェラブツェカレッジを擁する、
いわば学園都市で、街中には若い大学生をよく見かける。

カンルンには2泊滞在し、大学間の学術交流や共同調査の可能性について、
などという小難しい話をした後、次の経由地であるラディ村へ。
カンルンからメラは、無理をすれば1日で行けなくもないのだが、
せっかくなので、道中寄り道をしながら向かう。

ブータン有数の米どころであるラディ村は、ちょうど収穫を迎えていた。
ちなみにラディ村の標高は1,500mほどで、カンルンよりも若干低い。
が、低いからといって暖かいというわけでもなく、朝晩はかなり冷える。
この時期でもおそらく気温一桁にはなるので、まだ収穫前の田んぼがある、
というのがにわかには信じがたい。


収穫期を迎えたラディ村の棚田。

ラディ村のゲストハウス(という名の田んぼの中の一軒家)に宿泊し、
翌朝、いよいよメラ村へ向けて出発することに。
なお、ラディ村のすぐ手前から、道路はすでに舗装されていない砂利道である。
ここから、砂利道を一気に2,000m駆け上がると思うと、やや気分が滅入る。

と、ここまで書いてきたが、たぶん地名をずらずらと書かれても、
イメージがつきづらいだろうと思い、実際の走行ルートをGPSで記録してみた。
以下がその記録である。


ところで、実はメラ村まで車で行けるようになったのは、ごく最近のこと。
いままでは少し手前の村から徒歩で数時間かけて山道を歩くしかなかった。
道路が開通したのは、わずか3ヶ月前の2015年7月。
真新しい道(といっても未舗装だが)を、ラディ村から約3時間半かけて登る。
道中、放牧されたヤクの集団に二度ほど遭遇した。


荷を運ぶヤク。


放牧地から村へ戻るヤクと牛の群れ。

そしていよいよ、標高3,500mのメラ村に到着。
まずは、村で唯一のゲストハウスにチェックインする。
ちなみに、まだ4組しか外国人ゲストが来たことがないらしい。
これまでの観光客は、友人宅に泊まったりテント泊だったりしたそうな。


メラ村ゲストハウス外観。


まだ木の香りが残る部屋。薪ストーブ完備で寒い日も安心…。

荷を降ろし、早速、村を散策してみることにする。
とにかく外は寒いのでみんな屋内にいるのかと思いきや、
結構街中でいろいろな作業をしている。
薪を運んだり、小屋を建てたり、道路を広げたり。
冬支度がはじまったところ、といった感じの雰囲気である。
彼らからすれば、いまの時期の寒さなど、屁でもないというところだろうか。
たぶん、外気温は下手すれば氷点下だと思うのだが…。


手作業で道路を作る村の人々。


村には小さい子どもと、それを育てる若い母親の姿をよく見かけた。

途中、英語が話せる遊牧民の男性(26歳)を見つけたので、しばし談笑する。
話しているうちに、若者らしく、携帯電話のことに話が及んだ。
メラ村では、携帯電話の電波塔が建ったのは約5年前だという。
ちなみに、電気が通ったのは約3年前というから、ちょっと混乱する。

いったいどうやって、携帯電話を充電していたのか?
彼曰く、当時は、ランジュンという、先日宿泊したラディ村よりさらに遠い街まで、
食料品の買い出しなどで山を下りる者が、みなの携帯を預かって行っていた、
という。
もちろん、(車で3時間半以上かかる道を)徒歩で、だ。

実は以前、同じ話を人づてに聞いたことがあったのだが、
実際に村人から話を聞き、その情報が誤っていなかったことを確信する。

いまでは電気も通り、そうした不便もなくなったので、
若者からお年寄りまで、村人のほぼ一人一台携帯電話を持っているそうだ。
ただし、電力は安定供給されているとは言い難く、
電池切れも頻発するので、誰かの携帯を借りるのは当たり前。
さらに、そのへんに置いてある(他人の)携帯に出るのも当たり前。
というから、日本人とはかなり感覚が違うことがわかる。
彼らに言わせれば、むしろ出ない理由がない、という。

さらに深掘りしていけば、面白い話をたくさん聞けそうな予感を抱きつつ、
彼と別れ、この日の散策は終了。
夜半には寒さも厳しく、薪ストーブを焚きながら寝るも、息苦しくて寝付けない。
高山病手前の症状と、おそらく一酸化炭素中毒的な症状だと思うのだが、
かといって、ストーブを消して寝る、という選択肢も有り得ない。
それでもなんとか、浅いながらも眠りに落ち、メラ村の一日目が終わった。

(つづく)

2015/11/20 12:00 | ブータン | No Comments
2015/11/12

前回記事で書いた通り、現在、ブータンへ「出張」に来ている。
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=677

先週いっぱい、東ブータンに滞在して、先方の大学とタフな交渉をしたり、
標高3,500m超の山村に滞在したりしていたので、早く報告したいのだが、
そのレポートは少し待っていただきたい。

というのも、11月11日は、ブータンにとって特別な日。
先代にあたる第4代国王のお誕生日、しかも今年は生誕60年ということで、
ブータンの国立競技場にあたるチャンリミタンスタジアム@ティンプーで、
盛大に式典が執り行われることになっていた。

その情報を日本で事前にキャッチしていたので、
11日にティンプーに着けるよう、うまく出張日程を調整することに。
結果として、前回書いたような、意味不明の行程ができあがったのだが…。

なお、日本人でたまに勘違いされている方がいるのだが、
2011年に日本へ訪問されたのが、現国王である第5代国王。
その父君である第4代国王は、譲位によってその地位を受け渡したため、
未だにしっかりとご健在である。
というか、まだやっと60歳になったばかりでとてもお若い。
譲位の理由は、とてもここに書くには紙幅が足りないが、
今は、息子である現国王を陰から支える役回りに徹しているようだ。

それはさておき。
とりあえず、11日に式典がある、という情報のみでティンプー入りしたものの、
そもそも、何時から始まるのかすらわからず、その情報収集からスタートした。
ちなみに、私が情報を積極的に集めていなかったという自戒もあるのだが、
そういう情報がなかなか出てこない、あるいは、正確な情報かわからない、
というのは、ブータンではよくあること。

むしろ、あまり前から分かっていることというのは、大概間違っている、
というか、直前に変更になる可能性が極めて高いので、
積極的に取りに行ってもさほど意味がない、というほうが正しいかもしれない。

そんなわけで、結局、プログラムの情報を手に入れたのは前日夜。
スタートは9時で終了は13時とのことだが、
席を確保するために、遅くとも6時半くらいには行ったほうがいいのでは、
とのこと。

もちろん、国の一大イベントなのでそれくらいの早起きは覚悟の上。
が、問題はもう一つ得られた情報の方。
それは、当日のスタジアムには “No Camera, No Mobile” との通達があった、
というもの。
つまり、写真の類は一切撮ってはいけない、という。

しかも、携帯電話に至っては、朝の7時から、ティンプー市内全域
(もしかするとブータン国内全域)で、一斉に不通にするという。
携帯にうつつを抜かすのではなく、生身の国王陛下に親愛の情を向けろ、
というメッセージ…かどうかは定かではないが、
とにかく、相当気合の入ったイベントになりそうなことは伺えた。

残念ながら、当日のスタジアムの様子を写真でお届けすることができないのだが、
ひとまず、前日のティンプー市内の様子をご覧いただくことにしよう。


軒先のいたるところに国旗が掲げられたティンプーの目抜き通り。


時計塔広場では、9日〜11日まで、毎日ステージイベントが行われていた。


チャンリミタンスタジアムの周囲にも国旗が掲げられていた。


夜のティンプーもお祭りムード一色。メイン通りは終日歩行者天国に。


さて。
とにかく、朝6時半にスタジアムへ向かう。
早速、路上で “No Camera, No Mobile” と叫びながら手荷物検査をする警官たち。
「どうせ持ち込めるだろう」というやましい気持ちがなかったわけでもないが、
そこは第4代国王に敬意を払って、しっかりとホテルに置いてくる。
どうせ、携帯も繋がらなくなってしまえば無用の長物と化すわけだし。

スタジアムの周りは、すでにこの時間で黒山の人だかりができていた。
いくつかあるゲートにそれぞれ人が並んでいて、どの列が正解か全くわからない。
なぜかはよくわからないが、ゲートが開いたり閉まったりするのだ。
このあたりも実にブータンらしい。
結局、並ぶ列を二転三転させられた挙句、最後はなだれ込むようにスタジアムへ。
この時点で7時過ぎ。まだ開始まで2時間もあるのに、すでに疲労困憊である。

友人の伝手を介して、席を事前に確保しておいてもらったため、
見晴らしのよい良席をゲットする。
なんだかんだと世間話をしているうちに、要人も続々と集まりはじめてきた。

そして、9時を少し回ったころに、国王を乗せた車が到着。
先に第5代国王が王妃様を連れて会場入りし、第4代国王をお迎えする、
という形で、セレモニーの幕が開いた。

国旗掲揚、国歌斉唱といったプログラムが続き、
メインイベントとも言える、現国王によるスピーチへ。
このスピーチは、YouTubeに公式動画が早速あがっていたので、
もしご興味がある方は、ぜひ見ていただきたい。
スタジアムの雰囲気も伝わるのではないかと思う。

このスピーチの中で最大のニュースは、「現国王妃ご懐妊」を、
国王自らが発表したことだろう。
2011年のご結婚以来、待望の初子を授かったことになる。
ちなみに、現在妊娠16週目、性別は男性と判明しているそうだ。
このときには、スタジアム中が祝福ムードに包まれた。

その後、祈りの歌が捧げられ、プログラムは後半戦に。
後半は、”Cultural and entertainment programs” と称して、
主に、ブータン各地の伝統舞踊が次々に披露された。

途中、なぜか突然、
「水槽の上に渡した丸太の上に乗った二人が互いに落としあう相撲的なもの」
というイベントがはじまり、会場は大盛り上がりに。
しかも、それを王族の方々が最前列で見学するという、
日本で言えば、秋篠宮家の佳子様が「風雲たけし城」を見学するような、
異様な光景が繰り広げられたりもした。

そして、ブータンにしては、と言っては失礼だが、滞りなくプログラムが進み、
大幅な遅れもなく、13時過ぎに全ての演目が終了となった。
最後に、両国王も参加し、一般参列者も加えて一曲踊り、会はお開きに。
その後、皆、割と足早に三々五々家路についた。
帰りも大混乱になるかと思いきや、意外にもすんなり退場でき、
逆にちょっと拍子抜けした気がした。

以上が、簡単ではあるが、当日のレポートである。

ちなみに、上述の通り “No Camera, No Mobile” というルールだったのだが、
正直、どうせ皆なし崩しに写真を撮りはじめるだろう、と内心思っていた。
が、ところがどっこい、最初から最後まで、写真を撮る人は、
全くと言っていいほど見かけなかった。
第4代国王に対するリスペクトの表れなのかどうかは定かではないが。


おまけ:スタジアムで、国王からのプレゼントとして配られたもの。

2015/11/12 12:00 | ブータン | No Comments
2015/10/28

大学助手という肩書きを得て、早半年。
すっかりコラムを放置してしまったのは、助手の仕事が忙しかったから、
というわけでは特にない。

世の中で、大学助手という職ほど、一般の方々から見て、
何をしているかわからない職種も、あまりないだろう。
正直に言って、就いている自分ですら、半年経った現在に至ってもなお、
他の助手の方々が、いったいどんな働き方をしているのか、全くわからない。

わかったのは、同じ「助手」であっても、どこの所属かによって、
その仕事内容には天と地ほどの差がある、ということ。
そして、これも正直に言って、自分が所属している学科の助手の仕事は、
誤解を恐れずに言えば、相当ヌルい、ということ。
こんなことを書くと怒られそうだが、まあ事実だから仕方あるまい。

そんな恵まれた環境に身を置くと、得てして人は堕落するものだ。
堕落とは穏やかではない表現だが、しかし、
「新しい職に就いて半年くらいは慣れるまでに時間がかかる」
などと、さもありがちな言い訳でお茶を濁すわけにもいかない。
なんせ、慣れるほどの仕事など、どこにも有りはしないのだから。

強いて、一つだけ、言い訳をするとしたら、いままでは、
「三十路過ぎのくせに学生」という尻に火がついた立場だったのに比べて、
下手に再就職してしまったおかげで、ハングリー精神を失ってしまったのだ。
率直に言って。

そもそも、本コラムのタイトルは「職を捨てよ」と謳っているのに、
書いている本人が職に就いているのだから、いよいよ本末転倒である。
あまり一般的な理解を得られそうもないことを承知で書くとするならば、
自由すぎる職に就くことによって逆に縛られる、みたいな状態に陥ったわけだ。


という、無為な葛藤を抱えた半年を経て、さすがにマズいと思い立ち、
ブータンへの渡航計画を真面目に立てはじめたのが、この9月のこと。
今回は、これまでの学生の立場での私費調査ではなく、
晴れて「出張」という大手を振って渡航できる立場になった。
が、あくまでも出張費は自力でどこかしらからもぎ取ってくることが前提だが。

幸いにも、研究出張費の目処が立ち(ある意味、この半年はそのためにあった)、
残る障壁は、僅かばかりの助手のお勤めを果たさねばならない日程と被らないこと。
こうした状況を踏まえて、日程は11月前半とすんなり決まった。

今回は、3週間の全行程を組んだのだが、
相も変わらず、スケジュールの立て方が下手なのか、
あるいは、せっかく行くのだからなるべく詰め込もうとする性分のせいなのか、
どう考えても無謀な強行軍になりそうな予感である。

どれぐらい無謀か、伝わるかわからないが、Google Maps上に落としてみた。
ちなみに、ブータン国内道路は、筆者は「常時いろは坂」と表現しているが、
とにかくひたすらに山道なので、例えば、B→C間は直線距離では60kmほどだが、
道路延長ではおよそ150km、車で走ると6〜8時間くらいかかる。

A. グワハティ(インド)空港着 from バンコク(タイ)

B. ブータン入国@サムドゥプ・ジョンカル

C. ブータン王立大学シェラブツェカレッジ訪問

D. メラ村訪問

B. ブータン出国@サムドゥプ・ジョンカル

A. グワハティ(インド)空港発

E. パロ(ブータン)空港着

F. 首都ティンプー
(おまけ1:11月11日 ブータン第4代国王生誕60年記念式典出席)

G. ブータン出国@プンツォリン

H. サムツェ県訪問

G. ブータン出国@プンツォリン

F. 首都ティンプー
(おまけ2:11月17日 サッカーW杯アジア二次予選ブータンvsカタール観戦)

E. パロ(ブータン)空港発 to バンコク(タイ)

今回のハイライトは、「D. メラ村訪問」と「H. サムツェ県訪問」である。
メラ村は、標高約3,500mに位置する遊牧民族の村。
つい最近まで電気も来ていなかった、まさに未開の地である。
サムツェ県は、上記ほど秘境ではないが、ちょっと理解しがたいことに、
ブータン国内からは自動車道路が通じておらず、インドから入国するしかない。

いずれも、かなり面白いものが見られるのではないかと期待が膨らむ。
ただし、今回は初めての訪問となるため、正式な調査ではなく、
あくまでも外国人観光客目線での観察と聞き取り、という形になりそうだ。

なお、これまであまりにもサボりすぎたので、今回の出張については、
逐次、この場を借りて、現地から速報レポートを書こうと思う。
(そうでもしないと、なかなかアウトプットを出さない難儀な性格のため)

2015/10/28 12:00 | ブータン, 助手生活 | 1 Comment
2015/04/07

突然だが、この4月から、早稲田大学で助手に嘱任することになった。
というわけで、これまで「脱サラ大学院生」という肩書きで書いてきた
このコラムも、若干のリニューアルをしようかと思っている。

が、新しい肩書きにまず悩んだ。
「大学助手」ではなんか格好がつかない。
「ブータン研究者」がニッチでよいかなと思うが、
「研究者」という文言がどうにも引っかかる。

脱サラして大学院に進学してから、早5年。
誤解を恐れずに言えば、その当時から、いや、いまに至ってもなお、
「研究者」になろうとか、目指そうとか、そういう気持ちは微塵も無い。
好奇心を満たす手段が、たまたま研究という道と重なっただけなのだ。

人が会社を辞める理由は、きっと人それぞれだと思うが、
自分の場合、とにかく、会社勤めよりも、研究がやりたくなってしまった、
ただ、それだけのことだったのだ。
それを両立させられるほど、器用でもなかったのだ。

真摯に「研究者」を目指す人にとっては、酷く不躾な物言いだと思うが、
だからこそ、「研究者」を名乗ることに、一抹の不安があるのだ。
とはいえ、当面は良い案も思い浮かばないので、
暫く「ブータン研究者」の肩書きを名乗ってみて、
自分自身、馴染むかどうか、判断しようと思う。

あわせて、プロフィール文も以下のように修正することにした。

旧)
3年間勤めた会社を辞め、大学院生に。おそらく日本で唯一、「ブータンの情報化」について研究中。GNH研究所 研究員。ライフワークは、競馬とTVゲームと海外一人旅。

新)
3年間勤めた会社を辞め、脱サラ大学院生を経て、2015年4月から早稲田大学 社会科学総合学術院 助手に嘱任。おそらく日本で唯一、「ブータンの情報化」について研究中。日本ブータン友好協会 幹事。


「助手に嘱任が決まった」と言うと、必ずと言っていいほど、
「このまま教授を目指すの?」などと尋ねられるのだが、
少なくとも、教授を目指すことは絶対に無い。

研究という道の先に「教授」という役職があるのは確かだが、
そもそも、これは自分だけに限った話ではなく、
「教授」になりたいと思って研究の道を志す人はあまりいない。

みな、自分の研究を進める上で、より研究がし易くなるように、
そして、研究で食べていくための一つの手段として、何らかの役職を求める、
という順序であって、その逆ではない。

翻って、自分の場合、何か違う仕事をして生計を立てながら、
趣味やライフワークの範囲で細々やっていく、でもいいと思ってさえいる。
つまり、研究で食べていく、という覚悟を決めているわけではない。

それはたぶん、曲がりなりにも3年間、会社勤めをした経験が、
あの世界の愉しさへの僅かばかりの未練と、そして、僅かばかりの自信とを、
自分に囁きかけてくるからだろう。

もちろん、もう5年も社会人生活から遠ざかっている人間が、
そうやすやすと通用するほど、ビジネスの世界は甘くない。
ブランクを埋めるためには、研究者になる以上の努力が必要だろう。

さて、この先どう進んでいくのか、それは自分でも未だに分からない。


一つだけ。
助手になるにあたって、自分なりに覚悟をしたことがある。

これまでの自分の研究姿勢を振り返ってみると、
自分が気になったことをとことん追求したい、ただそれだけ。
先人が何を考え、どんな足跡を残したのか、さっぱり興味が湧かなかった。
その結果、研究者としては致命的なほど本を読まなかった。

たぶん、根っからのフィールドワーカーなのだろう。
この3月、ブータンへ調査旅行で訪れた際にも、
現場にいる、ただそれだけで、モチベーションが湧いてくる。
そんな体験が度々あった。

逆に、自分にとって、最もやる気が起きない場所は、自宅だ。
現場から最も遠い場所、だからだろう。
安心するとか気が休まるとか、そういうことでもなく、
ただただ、負の磁場に取り憑かれたように、やる気を吸い取られていく、
そんな感覚に包まれる。

そんな放浪癖とも言える性質こそが、
自分を書物から遠ざけている一番の元凶のような気がしている。

先行研究という蓄積が、研究者にとって死ぬほど大事であり、
その上に自分のオリジナルの研究を積み重ねていくことに、
自身の研究意義を見出していく、という一連の系譜こそが「研究」
と呼ばれるものであるならば、自分がこれまでやってきたことは、
研究ではなく、あくまでも趣味の範疇だったのだろう。

ただ。
だからこそ。
さすがにそろそろ、本くらい読もうと思う。
覚悟、なんて大それた言葉を使っておいて恐縮だが、
「人並みに本を読むこと」を、自分自身の当面の目標としたい。

研究者が向かないから、ビジネスの世界に戻る、
という後ろ向きな転身だけは是が非でも避けたい。
そんな、中途半端な矜持が、そんな気を起こさせているのかもしれない。

とはいえ、何かしら努力目標でもない限り、たぶん何も変わらないので、
とりあえず、このコラム上で、読んだ本のレビューでも書いてみようか。
果たして、読者にそんなニーズがあるのかどうかはさておき…

2015/04/07 12:00 | 雑記 | No Comments
2015/03/29

3月17日。
ブータン代表が、試合終了間際の劇的なゴールを決めた夜。
筆者は、ブータン東部に位置する、カンルンという街にいた。
試合が行われている首都ティンプーから、車で実に20時間の距離。

それでも、日本よりは近い、と思って勝手に親近感を抱きながら、
テレビでブータン代表を応援していたのだが…
よくよく考えると、日本からブータンへの移動は、
羽田空港の深夜便を使ってバンコクを経由すると、
乗り継ぎ時間を含めても12時間くらいで着いてしまう。

時間距離で計算すると負けている、という衝撃の事実に震えながら、
それでも、ブータン人の家庭にお邪魔させてもらって、
その雰囲気の中で試合観戦をできたことは、個人的には良い思い出となった。

さて、後編となる今回は、ブータン代表の華々しい活躍の裏にあった、
ブータンならではの面白いエピソードやちょっとした問題を紹介しよう。


一夜明けて、現地での報道

ブータン国内各紙は、その歴史的な瞬間をこぞって一面で伝えている。
特に、筆者が体験できなかった、首都ティンプーの狂騒は、
それはそれは物凄いものだったようだ。

平日16時のキックオフに備えて、公務員は午後休となり、
学校も半日で授業をやめ、こぞってスタジアムへ詰め掛けた、
というから、如何に今回の試合が国民的なイベントだったかが分かる。
ちなみに、入場料はなんとタダ。

客席は、試合開始の数時間前には満員御礼となり、
入場できなかった若者が木によじ登って観戦している写真が、
試合翌日の新聞に掲載された。

ちなみに、試合翌朝の、Kuensel紙の一面タイトルは、
“Another historic battle won in Changlimithang”。
直訳すれば「もう一つのチャンリミタンにおける歴史的勝利」となる。
一瞬、何のことか分からなかった(記事中にも触れられていない)が、
これは、チャンリミタンスタジアムが、かつての古戦場であり、
ブータン建国における重要な戦闘で勝利した場所であることとかけている、
と推察される。
そう考えると、ちょっとニクいタイトルのつけ方だ。

さらに、試合から2日後の紙面では、
ブータンサッカー協会から、選手とスタッフ全員にボーナスとして、
Nu.20,000(約3.5万円)が支給されると報じられた。
これは、ブータンにおける平均的な月収に相当する額である。


代表ユニフォームの希少価値

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(写真:意外とカッコイイ、ブータン代表のユニフォーム)
©Bhutan National Football Team

今回、渡航前に、上記の写真を見たとき、
どこかでこのユニフォームを手に入れられないだろうか、
と漠然と考えていた。
裏を返せば、一国の代表のユニフォームだし、
きっとどこかで手に入るだろう、と甘く見積もっていた。

この予見は、見事に外れることになる。
新聞各紙によれば、当日、スタジアム前で発売された、
ユニフォーム数百枚は、試合数時間前にあっという間に完売した。
筆者が、試合数日後にティンプーを訪れた際に、
市内のあらゆるスポーツショップを覗いてまわったのだが、
ついに、ただの一枚も発見することはできなかった。

そもそも用意している数が少なすぎるが最大の問題なのだが、
これまで、スタジアムでユニフォームを着て応援する、
という文化が、さほど根付いていないこの国で、
ここまでのお祭り騒ぎになることは想定外だったのだろう。

今回の教訓を踏まえて、二次予選の際には、
かなりの数のユニフォームが準備されるのではないかと思われる。
いや、準備されることを期待したい。
いや、欲を言えば、通信販売とか…はさすがに無理そうだ。


スタジアム収容人数の謎

ところで、以前、このコラムでも触れたことがあるのだが、
今回の試合が行われたチャンリミタンスタジアムは、
公式収容人数は25,000人ということになっているのだが、
個人的見解では、どう考えても15,000人が関の山だと思っている。

が、Kuensel紙は、観客数を30,000人と報じ、
Bhutan Today紙は20,000人と報じるなど、
今回の試合の観客数のカウントはまちまちである。

つまり、誰も正確に数えていなかった、ということである。
それもそのはず、先にも述べたように、入場料がタダだったため、
チケット販売数でカウントする、といった方法が取れないのだ。
国際公式マッチが、そんな体たらくでいいのか、という疑問はさておき。

それにしても、まがりなりにもFIFA公式戦を行うスタジアムが、
こんな杜撰な管理で果たしてよいのだろうか。
噂によれば、同スタジアムは、FIFAの認める国際試合のための
スタジアム要件を満たしていないという(真偽は不明)。

残念ながら、筆者は未だスタジアムに入る機会を得られていないのだが、
もし入る機会があれば、こっそり席数を数えてやろうかと画策している。


監督交代問題

ここ数年、ブータン代表チームの監督は日本人が歴任している。
これは、日本サッカー協会が、アジアのサッカー文化支援の一環として、
各国に経験ある監督を送り込んでいることに由来する。
詳しくは、日本サッカー協会の以下の記事を参照されたい。

【海外赴任レポート】ブータン 小原一典さん 2013年7月│日本サッカー協会
http://www.jfa.or.jp/jfa/international/dispatch/report/ohara.html

ただ、実は、スリランカとの2試合は、正式な監督が不在の状態であった。
前監督であった日本人の小原監督が退任した後、若干の空白期間があり、
その間に、今回のワールドカップ一次予選の試合が組まれていたために、
臨時監督として、プレイヤーとしてもブータン代表の経験がある、
チョキ・ニマ (Chokey Nima) 氏が暫定的に指揮を執った。

しかし、予選突破直後に、新たな日本人監督が就任することが決まった、
という報道が出るやいなや、ブータンサッカーファンの世論は、
「なぜ予選突破に導いたニマ監督を解任するのか!?」
という方向に傾き、ニマ氏の続投を望む声が大勢を占めるようになった。

これに対して、ブータン代表チームオフィスからの公式声明として、
新監督の就任が、試合前からの既定路線であった点、
ニマ氏は解任ではなく、ブータンサッカー協会の技術部長という立場で、
引き続き代表チームと関わっていく点、が説明された。
つまり、完全なファンの誤解であり、その火消しを図った、というわけだ。

その後、国際経験豊かな外国人監督への交代を容認する声もあがりはじめ、
不満の声は鎮火しつつあるが、ちょっと尾を引きそうな問題ではある。
そもそも、試合以前にはそれほど自国の代表チームに関心が無く、
意外(といっては失礼だが…)な勝利によって、にわかに関心が高まり、
結果として、情報の錯綜を招いた、というところだろうか。

新監督の築館氏は、若干の逆風の中での船出となってしまいそうだ。
さらに、二次予選では苦戦が目に見えているために、仮に全敗ともなれば、
その責任を問う声が再び高まる、ということも容易に想像できる。
この問題、しばらくの間、注視して見る必要がありそうだ。

なお、ブータン国内では、日本人監督就任について、
「もし、日本と対戦することになったらどうするんだ!?」
という懸念の声があがっているが、
日本だって、かつて、トルシエ監督時代にフランスと対戦し、
ザッケローニ監督時代にはイタリアと対戦している。

国際舞台では、そういうことは何も不思議なことではないし、
だからといって、そこに手心が加えられるようなことは有り得ない。
ブータンサッカー界は、そういった、世界のサッカー事情をも、
今後、経験していくことになるのだろう。

(了)

2015/03/29 12:00 | ブータン, 雑記 | No Comments

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