2013/05/18

皆さん、おはようございます。
閑話休題。
せっかくだから、ちょっと考察してみました。

橋下弁護士が米兵に風俗の利用をお勧めした件について。

ただし、論点は一般的な是非とはちょっと違ったところです。
まず、日本的な感覚からいえば、
彼の申し出そのものは、さして問題のない内容です。
そのお店の嬢たちが、他人に強要されたり、
売り飛ばされたりして入店したのでなければ、
人権侵害との誹りが発生すること自体が失当ですから、
現在の一般的な性風俗店への言及を、
昔の従軍慰安婦などと並べて考えることは、
やるだけ意味のないことです。

軍に所属する、あんなに大勢の男たちが、
全員聖人君子であるなどと考えるのは不自然ですし、
それを要求することには無理があります。
ですから、性風俗は大いに利用すればよろしい。
そして、本論に入る前に一言、橋下弁護士には申し上げたい。
「そんなことは耳打ちなどのオフレコで言えよ!」

では、本論に入りますが、
その論点はどこにあるかというと、
「米兵」つまりアメリカ人と「性風俗」の関係です。
これは橋下弁護士も認めるところのようですが、
アメリカには、日本でいうところの「風俗」と
定義を同じくする適当な言葉がないのだそうです。
この場合の「風俗」とは何かというと、
「法律で認めている範囲の性風俗」、
平たく言えば、「本番がないという前提の性風俗」のことです。
日本でいえば、「ファッションヘルス」がその典型ですね。

もちろん、その実態は店ごとに違い、
インターネットではどこそこの店のどの嬢は本番OKだった、など
本番情報はいくらでもあるわけですが、
それは嬢の個人裁量における裏事情の話なので、
一応店側は認めないのですから、ヘルスは本番がないもの、
という前提で考えることにします。

それで、私は少し調べてみました。
日本で言う「風俗」が、アメリカにはありや、なきや?
事実上、なさそうです。
どういう建前にせよ、本番の期待度が、
日本よりかなり高いようです。
これでは日本で言う「風俗」という言葉が、
アメリカの言葉には存在せず、
風俗へ行け、と言われたら、
買春しろ、と言われたのと同義語と捉えてしまっても、
無理のない話です。

ここまではニュースなどで報道している話ですね。

そこで私が考えたこと。
では、日本における風俗の概念を司令官に伝え、
司令官が兵たちにそれを解説し、
日本の合法性風俗の店に行かせたとしましょう。
これで解決するかといえば、おそらく解決しません。
本番が前提、それが風俗だ、という頭で育った人間が、
本番なしに納得して帰ると思いますか?

結果的には、合法性風俗での本番行為、
それも、強要された、レイプされた、
というような話題が増加するのではないかと思うのです。
また、アメリカ兵に本番を許してしまった嬢がいたとしたら、
結構そんな情報が伝わるのは早いもの。
日本人の一般客もその嬢に対し、
当然のこととして本番を要求し始めるでしょう。
風紀の乱れは避けられないだろうと思います。

結局、性欲を満足させることで性犯罪を避けよう、
という方向性の解決法になると、
米兵たちにはやはり従軍慰安婦が必要、
という結論になるしかないだろうと思います。
今更そんなことが出来るでしょうか?

橋下弁護士も、
ちょっと日本人の感覚の本音を言っちゃったねえ、
というのが、私の感想です。
だからもう一度言わせてね。
「んなことは耳打ちで言え!」

しかしその前に、
「あちらの背景を勉強してから言え!」

お後がよろしいようで・・・。

2013/05/18 01:26 | 雑筆 | No Comments
2013/05/17

皆さん、おはようございます。
まずご報告があります。
正式なコンサートのタイトルを決定しました。
場所の性質を勘案して、少々変更を致しました。

題して「連作歌曲集~恋といふもの 今昔物語」

ただし、ここでは仮題としておりました、
「吾輩の恋と連作歌曲集」ということでお話を進めていきます。
結局やることは何も変わらないわけですし、
つまるところこの題の通りのことを歌い、
詩作して進めていくことになりますので。
また、実際のコンサートの中で、
「またの名を」という名目で
「吾輩の恋と連作歌曲集」という言葉を用いて説明致します。
まあ、副題のようなものにするとお考えください。

さて、それでは一つ一つの曲を考えていきましょう。

「水車小屋」のNo.3とNo,4とは、
どちらも小川というものに対して、
「君が導いてくれたのはそのためだったんだね」
という言葉を述べることになるのですが、
No.3は気持ちの良い職場を得ることができたことについて、
No.4では、その職場に自分のハートを持って行かれるような、
美しい娘がいたことについて、
「そのためだったんだね」と納得する見解を述べているのです。

誰か・・しかも人間以外の誰かに向かって、
「そのためだったんだね。君が導いてくれたんだね。」
そういうコメントをしたくなるような、
運命を感じる出会いというものは誰しもあるものです。
我々でもそうです。
オペラなど、仕事現場での出会いも多いものですが、
そういう仕事はオーディションで得るのであれ、
友人知人の紹介で得るのであれ、
そこには「運」というものが働いています。
あの時あれがなければ、今の自分はない、
などということだらけで成り立っているのが、
私たちの人生というものでしょう。

後々それを幸運と呼ぶことになろうが、
災難と呼ぶことになろうが、
すべては縁で成り立っているのです。
マッチ箱サイズのオーディション広告が、
人間一人の運命を変えてしまうのですよ。

そしてターゲットの異性をみつけて、
我が身をどう考えられるかはそれぞれの性格によります。
自信を持って声をかけられる人、かけられない人、
そもそも自分に自信を持てる人、持てない人。
相手にどの部分を認めてもらいたいかも人によるでしょう。
No.5では仕事で認めてもらいたいが、自分の非力さに失望し、
到底相手の女性に認めてもらえないだろうと考えるのです。

仕事の後、親方を囲んでの集い。
ねぎらいの言葉をかける親方。
そして娘は挨拶をする。
「皆さん、おやすみなさい」
そう、「あなた、おやすみなさい」ではないのです。

恋の初期症状というやつでしょうが、
いや、初期に限らず、倦怠期でもなければ、
恋なんてものは不安とお付き合いしているようなものです。
下手すると、相手の異性よりも、不安の方が、
お付き合いする時間は長いでしょう。
根拠のないことに一喜一憂。
そりゃそうでしょう、そもそも恋に根拠はないのですから。

そして再び小川に語りかけるNo.6。
さんざん前置きをしてから発する言葉が、
「彼女は僕のこと、愛してくれるだろうか?」
傍目には何とも馬鹿げた長さの問答です。
しかし、私はその気持ちがよくわかります。
「彼女はどう思っている?」
「これからどうなる?」
自分でタロットカードを引いてみることすら、
恐ろしく思って委縮している自分がいるのですから。
無神論者でさえ神に祈りたくなる時です。

この4曲のプロセスというものは、
何度恋に落ちても経験することですし、
おそらくは恋する人は誰でも通る道だろうと思います。
そして、その1回1回が、その人にとって、
大変特別なことであるのです。

さて、このプロセスは4曲にとどめておきましょう。
時間も限られているわけですし、
何よりこの先のプロセスは私の心が悲鳴をあげてしまいます。

そこで、破局の後の思い出に意識を移してみたいと思います。
今ならメールでしょうが、
破局したあの人から、ひょっとしたら何か連絡があるかも、
いや、ひょっとしたらどこそこで出くわすかも。
そんな思いに駆られることがないとは申しません。
これまた根拠のない期待というものです。
破局する以前ですら、そんな期待が胸を苦しめるのですから、
ひょっとすると一生ものの煩悩かもしれませんね。
それが「冬の旅」No.13の郵便馬車なのです。

少し曲順が前後するのですが、
意図的にNo.11を後にもってきました。
この「春の夢」の前に朗読する詩は、
私の会心の作であると同時に、
私が朗読しようものならどうなるか、
一番不安になってしまう詩であります。
私、というより、男が朗読すると、
そう申し上げた方が良いでしょうかね。

ほわっとで「冬の旅」をする時は、
理解を助ける意味もあって、
半分以上の曲の前に、詩の朗読を入れます。
2009年版では、理解のための補助だったのですが、
2010年版では、前年朗読して下さった方の実力を買って、
大幅な書き直しをし、単なる理解の助けではなく、
かなりリアルな筋立てが見えてくるような、
サブストーリーともいえる詩を導入したのです。
その2010年版で投入した、
ある意味最も危ない、その人の朗読だけを前提に書いた詩。

ところが、2009年末、その人は不慮の交通事故で
亡くなられてしまいまして、
私の意図は幻のものとなってしまいました。
幸い代わりの人は見つかりましたが、
余人をしてこれが読めるのか、甚だ心配だったものの、
合わせの際に朗読してくれたのがピタッとはまり、
ピアニストは自然の力で然るべきテンポで前奏を弾くことができた。
そんな逸話のある詩と曲なんですよ、No.11は。
読んでるとドキドキする詩なんですが、
そんな状態で歌えるんでしょうか、No.11は?(笑)

さて、シューベルト最後の曲は、
おなじみの「セレナーデ」です。
「秘めやかに闇をぬう 我が調べ」という訳詩で知られるあれです。
皆さんよくご存知の曲だけに、まったくご存知でない作り方をします。
1番と2番では、テンポも変えます。
端正なドイツリート、というイメージで聴いておられると、
とてつもなくやんちゃな歌い方に聞こえるはずです。
乞うご期待(?)

そして最後は前回ご紹介したコラムに書いてある、
大阪に帰ってから書いた作品の中から、
「式子内親王」と「陽成院」の2曲を歌って、
2ステージ「詩人の恋」への橋渡しをして
1ステージを終わる予定です。

次回は「詩人の恋」について解説します。
今回の最後は「式子内親王」と「陽成院」の歌詞をご紹介して、
閉じることと致しましょう。

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらえば 忍ぶることの 弱りもぞする

筑波嶺の 峰より落つる 男女の川 恋ぞ積もりて 淵となりぬる

2013/05/17 12:48 | 演奏会情報, 雑筆 | No Comments
2013/05/16

皆さん、おはようございます。
さてそれでは、6月9日にヒルトンプラザイースト、
アトリウムでのコンサートに向けて、
当日にプログラムなどない分、
予告編たるこちらで詳細を書き綴っていくことに致しましょう。

とりあえずはまず、演奏曲目をざっと列挙いたします。

1ステージ
 「美しき水車小屋の娘」より
  No.3「止まれ!」
  No.4「小川への感謝の言葉」
  No.5「仕事を終えた夕べにの集い」
  No.6「知りたがる男」

 「冬の旅」より
  No.13「郵便馬車」
  No.11「春の夢」

 「白鳥の歌」より
  No.4「セレナーデ」

  以上シューベルト作曲

 「式子内親王」
 「陽成院」

  以上梵智惇声作曲

2ステージ
 「詩人の恋」(梵智セレクトヴァージョン全16曲)

  以上シューマン作曲

以上がこのプログラムですが、
このコンサートの仮題は
「吾輩の恋と連作歌曲集」といいます。
私はあまり単品の歌曲というのは歌わない傾向があります。
一曲一曲になると、感情移入しにくい、というのが理由です。
それで連作歌曲集がターゲットになるのですが、
そこで扱われているのは大抵恋愛です。

そうなると、私自身の恋愛感情をベースに、
それらの作品と取り組んでいくことになります。
結局、「水車小屋」、「冬の旅」、「詩人の恋」については、
それぞれ、私の中だけでの話ですが、別称が存在しています。

「水車小屋」は「ドイツ歌曲」とか「M(名前は伏す)歌曲」とか。
「冬の旅」は「Yちゃん歌曲」、「Uちゃん歌曲」、あるいは「F歌曲」、
さらには「K歌曲」、
「詩人の恋」は「T歌曲」。

「水車小屋」は、一度だけドイツに行った折、
通訳として同行してくれていた現地の女性への思いが、
帰国後、この歌曲集に目を向けるきっかけになったのです。
この歌曲集ではWanderschaftといって、
遍歴修業をする職人が、ある親方の娘に恋をして、
失恋するというプロセスが描かれています。
遍歴修業には色々と掟があり、
その中には同じ親方のところに3ケ月以上いてはならない、
というものがあるのですが、
この歌曲集の若者が色々と焦るのは、そんなリミットがあるからです。

考えてもみて下さい。
繊細で内気な若者が、親方の娘をどうにかしようとするには、
3ケ月というのは少し短い期間かもしれませんよ。
女たらしならば3分で済むことが、内気では3年かかっても怪しいでしょう。

この状況が、数日間というリミット付の旅行である我が身に、
とてもしっくり来たことをいまだに覚えています。
加えて場所はドイツの、最もドイツらしい片田舎。
この時点での私はまだこの歌曲集を、
とりあえず歌いとおす技術さえなく、
全曲歌ったのは、シューベルトがこれを書いた26歳で開いた、
付曲されなかった詩を朗読しつつの完全版リサイタルでのことでした。

そのようなわけで、私は「水車小屋」のことを、
相手の名前である「M」をとって「M歌曲」、
あるいはドイツでの思い出、ということで
「ドイツ歌曲」という名前で呼んでいるのです。

「冬の旅」は比較的早く、22歳の折に、
フォルテピアノの伴奏でリサイタルを開いた作品です。
それが私の初めてのソロリサイタルでした。
この作品を歌う背景は、別名がいくつもあるように、
上手くいかなかった経験のたびに名前が増えていく、という
取り上げた回数は一番多いであろう歌曲集なので、
煩雑にもなりますし、詳細をいちいち説明することはやめます。
その中の「Uちゃん」など、私がこの歌曲集を扱うことについて、
考え方の相違でもめたのがきっかけとなって、
縁が切れてしまった、といういわくつきの歌曲集でもあります。

「詩人の恋」についての背景は、こちらを見ていただきましょう。

http://www.junkstage.com/bonchi/?p=27

http://www.junkstage.com/bonchi/?p=28

これは同時に、「式子内親王」「陽成院」の説明にもなるはずです。
これら2曲も含め、当該女性の名前をとって「T歌曲」なのです。

以上、これらがコンサートのタイトルについての解説になります。
次は、1ステージの曲目について思うところを綴っていきましょう。

2013/05/16 12:31 | 演奏会情報, 雑筆 | No Comments
2013/05/08

皆さん、おはようございます。
日本の中には様々な宗教が混じり込んでいます。
それは、ただ共存している、ということのみならず、
一人の人生の中で、いくつもの宗教にお世話になる、
ということは、日本人の皆様にはもはや当たり前かもしれません。

たいていの人は、赤ちゃん時代を神道形式で過ごし、
キリスト教式で結婚し、キリスト教由来の行事で浮かれ、
仏教の儀礼によって死んでいきます。
そして、たいていの場合、その行事にまつわる意味合いや、
その起源、宗教的教訓を知ることなく墓場へ行きます。

このような中で、ある特定の宗教の儀礼しかしない、
という人がいれば、それはかなり珍しいことになります。
あるいは、カルトな信仰に染まれば、そういう人生が待っています。
そして、キリスト教系カルトの信者の手にかかれば、
キリスト教徒が異教徒と結婚することすら、
堕地獄の憂き目を見ることになる大悪業という非難も辞しません。

ある仏教系カルトの経験者いわく、
クリスマスを祝うなら、花祭りも祝え!

これらの人たちは、物事をかなり表面的に見ています。
日本で現在のようなごちゃまぜの信仰形態が普及しているのはなぜか、
その背景やそこから来る豊かな精神性を考慮することなく、
ごちゃまぜにしている行為だけを捉えて非難するわけです。

いいとこどり、と言われたらそれまでなのですが、
ごちゃまぜであることには、なかなかの意味合いがあると思います。
ただし、日本で、日本人(生来の在日外国人)に対してのみ、
その意味はあると思うのですが。

例えば、対照のようにいわれるキリスト教結婚式と仏教葬式ですが、
あれはあれでそれぞれの宗教の特徴を捉えた方法論です。
キリスト教は徹底的に生を扱っています。
死でさえも、来たるべき最後の審判と、その先にある永遠の生、
そこを期待し、見据えた教えが展開されています。
結婚式とは生を扱った儀式です。
結婚する本人たちのこれからの生、
そこから生まれるであろう子供たちの生、
その生が幸せであることを祈る祈祷が行われます。

結婚の誓約というプロセスがあります。
「健やかなる時も病める時も、豊かな時も貧しき時も、
 これを愛し、敬い、慰め、助け、
 命の限り固く節操を守ることを誓いますか?」
という牧師の問いかけに対し、
「誓います」と応答する、有名な儀式です。

この問いかけの意味は、何らかの理由で、
それが宗教的理由だろうと個人的理由だろうと、
結婚という選択肢を人生から排除している間は、
決して理解することのできない、含蓄のある言葉です。
端的に言えば、言葉尻だけを考えてみると、
そんなことをする気もないかもしれない人に対して、
これを守れ、誓え、と強要しているようなものです。
結婚という形だけが欲しい人の場合も、
いらん規則を押し付けられているように感じるかもしれません。

しかし、心の底からこの人と結婚したい、
という気持ちになった時、
この言葉は自分たちを応援し、後押しし、
守ってくれる言葉に様変わりするのです。
如何なる時も、この人を愛し、敬い、慰め、助け、
この人と生きていきたい、と思うこと、
それが、結婚したいということなのですから。
そして、まさに今、それをこそしたいと思っているのですから。

この点、仏教というのは結婚式にはいささか分が悪いです。
仏教は基本軸を「苦」という点におきます。
ですから、どこをどう取り繕ってみたところで、
上記の、「結婚したい」という気持ちは、
浮ついた意味であろうが、心底そう願っていようが、
それは「渇愛」の一言で片づけることができます。
そこを軸にしてしまうと、説教できることは一つ。
「配偶者にあんまり執着しなさんなや」
これでは結婚式にはなりません。
ですからそれなりにお茶を濁しているようですが、
仏教の神髄を新郎新婦や参列者に味わっていただく、
ということにはなりにくい宗教だろうと思いますね。

人間にとって、自分の死、近親者の死は「苦」の最たるものです。
ですから、葬式になると仏教は息を吹き返します。
逆にキリスト教は、神の許へ、とか何とか言葉はあるものの、
仏教の観点から見れば、気休めにしかならない言葉の羅列になります。
もっとも、仏教だって葬式の時の遺族の状態を鑑みれば、
葬式の時点ではキリスト教のような気休めが中心になるのですが。
真に教えを説くとしたら、四十九日法要以降の、
いわゆる「法事」と呼ばれる儀礼での席になります。

宗教とは人を幸せにするためのもの、という言葉があります。
私は全面的に賛同することは出来ませんが、
ある側面を示してはいると思います。
平然と、安らかに、苦しまずに生きるためのもの、という意味では、
少なくとも日本における仏教、キリスト教は、
その任を果たすのに相応しい宗教であるとはいえるでしょう。
ひたすら心の救いを願うならキリスト教がよかろうし、
修行によって心平らかでありたいならば仏教がいいでしょうし、
選択肢は無数にあるわけです。
このあたりのことを宗教指導者の皆様、
そして信者の皆様、一般人の皆様にはお考えいただいて、
真の意味で豊かで、平和な日本を実現していただきたいと願っています。

2013/05/08 03:58 | 坊さんからの話 | No Comments
2013/04/30

皆さん、おはようございます。
まずはご報告を。
昨日、ほわっとオペラ「フィガロの結婚」が
盛況と好評のうちに終演致しました。
関係者の皆様、お客様方、
そしてご声援いただきましたすべての方々に、
心より厚く御礼申し上げます。

反省点は色々ありますが、
このタイトルにおいてそれをすることは
私の意図するところではございませんので、
省略させていただくとして、
このフィガロ、及びバタフライについて、
その主題が「差別」に焦点を当てており、
その他の作品でも「差別」がたびたび顔を出す、
私の演出の要となっている理由について
解説申し上げて、このシリーズを終えたいと思います。

度々、再三再四申し上げておりますように、
人間とは「差別大好き動物」です。
人間以外の動物にも差別的なことはありますが、
それらが生きるための弱肉強食として存在しているのに対し、
人間の場合はそれ以外のところに理由があるように思えます。
つまり、弱肉強食の結果としてある差別ではなく、
本当に好きでやっている、という印象があるのです。

そして、人間と人間、集団対集団、国家対国家での問題は、
差別ということがその根本になければ生じない、
あるいは一時的に生じてもすぐに解決する、
そんな風に思うのですが如何でしょうか?
弱肉強食において、強者が弱者を食料として確保したところで、
それは強者が食料を確保した安堵感があるだけでしょうが、
人間はそれ以上に、自分が優位であることなど、
形でないことに関しても喜びの意識を持っているようです。

そして、建前として差別が許されない間柄に対しては、
いじめという形で差別行為が表現されることになります。
このあたりのことは「こうもり」で描くつもりです。
(そう、楽しいオペレッタのはずの「こうもり」で!)

カルメンというオペラは、
スペインに支配されているバスク地方出身のホセと、
ヨーロッパ全体で差別されているロマのカルメン、
日本人にわかりやすく置き換えるなら、
戦前、戦中の日本において、
在日朝鮮人の男と被差別部落出身の女の泥沼、という
スキャンダラスである以上に、汚らわしく思われる事件、
そういう風に考えると事の性質が理解できるはずです。
汚らわしいと思って見ている観客がいれば、
その人の差別意識さえ作品で糾弾されるわけです。

こんな風に、オペラというのは実は「差別」の宝庫です。
そもそもオペラなんていうものの成立背景にあるのが、
差別を下敷きとした貴族社会なわけですから。
そしてそんなオペラを使って糾弾されるのが「差別」、
何とも皮肉なことですね。
でも、私はこれを貫きたいと思います。

2013/04/30 11:59 | オペラの話 | No Comments
2013/04/26

皆さん、おはようございます。
さて、それではいよいよ、
バタフライという作品から私が発信する主題について、
ご披露申し上げましょう。

それは、やはり人間が差別大好き動物である、
ということです。
そして、非難できる隙が相手に出来ると見るや、
仲間内であろうとも、容赦せず非難し、
相手を劣位に置きたがる、という性質についてです。

これは、国際間レベルにおいてもそうだし、
家族間という最小単位においてさえそうである、
そしてそれが心の傷として残り続けるのです。

これをどういう切り口で見せるか、聴かせるか、
ということですけれども、
キャスト各人について、その役である、という以外に
別の立ち位置を役に内在させてほしいと考えています。

やっていただきたいことは、
キャスト全員が、初演メンバーを筆頭とする、
初期の頃の、イタリア人歌手たち、
という立場を維持していただくことです。
これは、本来私が意図していた完全版での演出としては、
舞台装置はもちろんのこと、衣装なども、
例えばバタフライの婚礼衣装は、和洋が体の右半分と左半分で混じっていたり、
ヤマドリの衣装は志村けんのバカ殿のようなメイクと衣装だが、
なぜか袴ではなく、フンドシ姿だったとか、
日本人が演出し、日本人がデザインしているにも関わらず、
わざと間違え倒したものにしてしまうわけです。

時代も錯誤していて構わないでしょう。
長崎の景色に富士山なんてのはもちろんのこと、
東京タワーくらいあってもいいし、今ならスカイツリーもありかと。

当然、日本人役のキャストが土足で家に上り込み、
日本人として明らかにおかしい所作をやってもらいます。
その一方で、外国人役については考証を正確にします。
英語の発音を除いては。

・・・と、このようなことは、ほわっとではできません。
ですから、これらのことはグッと影をひそめるわけですが、
しかし、発音などの点においてこれをやっていただきます。

テキストを、固有名詞であってもイタリア語読みしてもらうのです。
Nagasaki は当然「ながざき」というように。
英語もPinkertonが「ピンケルトン」なのは当たり前。
Butterflyが「ブッテルフライ」とまでならないのは武士の情けです。
つまり、日本のことなど何も知らないし、知る気もないくせに、
自分たちの観念だけで日本での出来事を演じているイタリア人、
というものを風刺するわけです。

念のため申し添えておきますが、
イタリア人を風刺しているだけではありません。
その裏には、各国の人に対して、特に先進国の人に対して、
お前らも同じじゃないのか、との問いが含まれています。

もう一度申します。
これはおそらく、最も過激な部類のバタフライでしょう。
人間としての習性、日本人としての習性も、
すべて非難対象として扱われるのですから。
そして、バタフライの死、という形で、
カタルシスを味わうことを、私は許さないのですから。

2013/04/26 03:54 | オペラの話 | No Comments
2013/04/19

皆さん、おはようございます。
今回はおおよその演出プランです。

その始まりは、葬式のセッティングから始まります。
喪服を着たコーラスとスズキが、葬式のセッティングをしていて、
続いて奥から子供の遺影を抱いた蝶々さんが登場、
しかし子供を亡くした悲しみのあまり錯乱してしまっており、
セッティングや掃除を続ける人たちを尻目に、
「結婚した」というあの日のことを追想し、
ゴローやピンカートン、シャープレスの会話を目の当たりにしていく、
そこでは、自分の人権など踏みにじられるような会話が展開されていた。

そういう第1幕にしようと考えています。

やがて、通常ならば蝶々さんの登場シーンに当たるところで、
温和なメイクを施したボンゾがやってくる。
女たちはそれを出迎えるが、蝶々さんの耳には、
あの日、この家に来た時に、友人たちが自分を取り巻いて歌っていた、
まさに登場の歌に聞こえている・・・。

ここからが中間のカット場所です。

ボンゾは読経を始めるが、それが蝶々さんには
結婚式の司式にしか聞こえない。
そしてボンゾは帰って行き・・・。
もう蝶々さんはさらに妄想の世界へ入っています。
現実は消え失せ、婚礼の宴でヤクシデが変な歌を歌っている・・・。
そこへ、鬼のようなメイクになったボンゾが怒鳴り込んで来て・・・。
後は皆さんの知る愛のデュエットが、
完全な妄想として繰り広げられることになり、1幕が終わります。

2幕1場は割とスタンダードに進みます。
ただ、子供が存在しないことにまず観客は気付くでしょう。
エア子供、つまりいるような仕種で演じるだけですから。
そして、花のデュエットになって観客は思うはずです。
花をばらまいている割には地味・・・
そうです、ばらまいているのは樒(しきみ)の枝々。
仏前に供える花の定番です。

そしてハミングコーラスから2場への間奏曲となりますが、
ここで初めて、配役などのクレジットを流そうと考えています。

そして子供を寝かせにいくも、蝶々さんの意識は
やはり舞台上に固定され、さまようことになります。
子供を渡せ、というシャープレス達の3重唱を聞くことになるのです。
そしてケートとの直接対決、自殺、となるのですが、
自殺しかけて躊躇いを覚えます・・・死ぬほどのことなのか、と。
人々の渦が晴れると、夢から覚めた現実の蝶々さん、
子供は死んでしまっているけれど、まだ待ち続けている、
死んで悲劇のヒロインとなる方がマシな現実が続くことを提示して幕となります。

かなり違和感を覚えるでしょうし、
いきなり見せられても混乱する方は多いでしょう。
ですから、プレトークをして概略は説明するつもりです。

もちろん、事前の説明を要するような演出は本来望ましいものではありません。
しかし、前回説明したように、今回はカットを逆手にとった方法です。
特殊事情ということで、説明をすることはお許しいただきたいと思います。

次回は、何を主題としているかについて、説明致しましょう。
そして、どのような切り口でアプローチするのかも。

2013/04/19 02:51 | オペラの話 | No Comments
2013/04/18

皆さん、おはようございます。
ほわっとでのバタフライが10月5日に決定しました。
ついてはしばらく、ぼんち流バタフライ論にお付き合い願いましょう。

正式な公演の名称は、
「マダマ・バタフライ(蝶々夫人初演版)」です。
これは、私も出演したNPOみんなのオペラ「改訂版蝶々さん」が
プッチーニフェスティバルに登場するに際し、
つけられた公演名称でもあります。(ただし初演版ではない)
この名称を選んだ理由がいくつかあります。

よく使われる名称が「蝶々夫人」です。
これを使わない理由は、初演版である、
そして演出の設定が特殊である、
以上2つにより、「蝶々夫人」という一般的な名称から期待される、
スタンダードな上演とはかけ離れていることです。
ですから、(蝶々夫人初演版)という形で、
説明文的に使うだけにとどめました。

また、ここは関西ですので、
同じく、スタンダードな方法論で上演されている、
関西歌劇団が用いている公演名称「お蝶夫人」も、
同様の理由から使用を避けました。

では、ある意味それらと同じように、
正しい日本の風物を、スタンダードに上演しようとする、
みんなのオペラと同じ名称にしたのはなぜかといいますと、
その演出意図とは、真逆の、
日本の風物を正しく紹介しよう、という姿勢を全く排した、
作品中にある間違いを逆手にとって、
見せつけるようにして上演してやろう、
そういう演出意図を私が持っているからです。
そして、それがより一層できる初演版を用いるからです。

さらに、ほわっとには収容人数の限界というものがあります。
狭い店内のことですから、スコアの指示通りの人員配置をすると、
お客さんを全員追い出さねばならない事態となります。
当然これでは上演する意味がありませんから、
一番人員を要する、蝶々さんの登場より後を
ばっさりカットせざるを得なくなります。
ノーカット主義者たる私には断腸の思いですが、
ここを逆手にとった設定を盛り込むことで、
そのフラストレーションを取り払いました。

もう一つ言えば、このバタフライという作品は、
1幕、そう、まさにカットするところですが、
そこは内容的に、付け足しというか、
2幕の背景を実際に演じさせて説明する、
という役割を担っている幕です。
実際、原作の小説にしろ、戯曲版にしろ、
内容はオペラの2幕に該当するものしかありません。
つまり、このオペラの本質は2幕にあるのです。

ゆえに、2幕は1場、2場ともに完全に上演します。
間奏曲も含め、1小節たりともカットは致しません。

さて、次回は特異な設定についてご説明致しましょう。

2013/04/18 03:09 | オペラの話 | No Comments
2013/03/31

あ、別に前回の日記、
宣伝のために嘘を書いたわけではありません。
誇張もしてません。単なる事実です。
予め、一言申し添えておくのでございます。(笑)

まずは、概要を書いておきます。

ほわっとオペラ第41回公演

歌劇「フィガロの結婚」
4/29(祝)11時開場 13時開演
全四幕 原語・字幕付

4900円(お食事付)

伯爵…坂上洋一
伯爵夫人…山田恵
フィガロ…佐野充信
スザンナ…久保尚子
ケルビーノ…安達咲月
マルチェリーナ…水野昌代
バルトロ…富永奏司
バジリオ…神矢匡
クルツィオ…木村庄輔
アントニオ…山崎亨
バルバリーナ…向谷紗栄
ピアノ…石原綾乃、西田晴香、澤田奈津季
指揮・演出…梵智惇声

お好み工房ほわっと
豊中市桜の町6-10-3
ロマンチック街道T.sビル2階
06-6855-8303

お食事は例によりまして、前食事、後食事をお選びいただけます。

さて、あれだけ愛しているフィガロなんですが、
それだけのことあって、今回もいじくりは満載です。
演出の仕方なんて、ある意味いろいろあるんですが、
こういう分類も出来るでしょう。

・好きだからいじらず、そのまま。
・好きだからいじくる。
・嫌いだからいじくる。
・嫌いだからやらない。

嫌いなものを、そのままいじくらずにやる、
なんて選択は、私には考えられません。
気に入らないのだから、気に入るような形に読み直すか、
初めからやめておくか、どちらかが紳士的な態度というものです。

私のフィガロは、「好きだからいじくる」パターンです。
ただ、いじくるといっても、奇抜なことをするわけではありません。
原作の設定に近づける、ということと、
ボーマルシェの続編「罪ある母」の前日譚として作る、ということ、
それだけです。
しかし、それだけのことをした結果、
あくまで結果的に奇抜になる場面も出ます。
それだけのことです。

例えば2幕フィナーレの冒頭ですが、
結果的に伯爵の怒り方が通常のものとはおよそかけ離れます。
根拠から先に述べますと、「罪ある母」で伯爵がこのように言うのです。
「夫人だけを愛していた。他の女は征服欲の対象でしかなかった。」と。
だから、夫人の浮気相手と思しき人物が、
ケルビーノという、自分と対等、いずれは爵位も上となる男とわかった途端、
怒るのではなく、壊れ、半狂乱になるのです。

今回の演出では、伯爵は足下さえ覚束なくなり、
床を這い、夫人に「出ていけ」と言いながらしがみついたり、
取り出したピストルを自分の体に向けたり、
という風に、まともとは思えない行動に出てもらいます。

一方、スザンナが自分のものにならないかも、くらいのことでは、
ただ怒り、嫉妬し、権力を振りかざして下手な策謀に出るだけのこと。
この「愛情」の違いをはっきり出そうと考えています。
型通りの芝居では出て来ない、人間の真実を、
お客様と共有できればな、というのが私の願いです。

一つ申し上げておきますが、
人間の愛情というものは、階級社会の中にあっては歪むのですよ。
今後は血筋ではなく、経済力による格差という形で、
新たな階級社会が出現することでしょう。
その時、やはり「フィガロの結婚」のようなことは
いくつも起こって行くと思うのですよ。
女性が結婚相手の条件として、
しかもかなり切実な条件として、
経済力を挙げるのは、まさにこの兆候です。
それも、最近は結構増えているんでしょう、専業主婦志願が?
人間が差別大好きな動物である以上、
この傾向が完全になくなることはあり得ないでしょうが、
悲惨な歴史を繰り返さないうちに、よくよく考えていきたいものです。

2013/03/22

皆さん、おはようございます。
本日は関西二期会研究生の修了公演、
「フィガロの結婚」のゲネプロを鑑賞してきました。

まあ、まだまだ未熟な研究生の修了公演。
何かと穴はあったし、見苦しい箇所、聞き苦しい箇所も
それなりに散見されたけれども、
そんなこととは無関係な体験をすることになりました。

もっとも、あまりにひどいようでは邪魔以外のなにものでもないので、
邪魔には感じない程度にちゃんとやっていたと思います。

さて、事は4幕、マルチェリーナのアリアが始まるなり起こりました。
舞台の上は無事に進行していますから、関係ありません。
このアリアは、弦楽4部の編成で伴奏され、
バロック的な古いスタイルのアリアといわれており、
大抵の場合、カットされてしまう運命に甘んじてきたアリアです。
理由は、筋とは関係ないから。

ところが、このオペラの中で、
とてつもないメッセージ性を持たされているのが、
このマルチェリーナのアリアと、続くバジリオのアリアです。
いずれも、スタイルが古い、筋に関係ない、
そういってカットされがちな2曲なのです。
しかし、今日の演出家は松本重孝氏。
重孝演出にこの2曲は不可欠なものです。

そんなわけで演奏されたのですが、
・・・これはこのオペラを熟知していればこそですが、
マルチェリーナのアリア、前奏からメッセージを受け取ってしまい、
その強烈なメッセージ性に目が潤み始めました。
次の瞬間思ったのが、
「ああ、私はこの作品がよほど好きなんだなあ・・・」

ここからが苦労の始まりでした。
え?何の苦労かって?
嗚咽をこらえるのに、一苦労しました。

みるみる涙があふれ、流れるのを止められませんでした。
嗚咽も、タオルで口を押えて、漏れないようにするのが大変でした。

私はこの作品が好きで好きでたまらない。
このことだけで大変な切なさを覚え、
号泣せずにはいられなかったのです。
何かの間違いで突然客席の電気がつこうものなら、
マルチェリーナやバジリオのアリア聞きながらボロ泣きしている、
そんな私が観客の目にさらされたでしょう。
・・・知らん人が見たらアホですな。(笑)

時々女性が、男を好きになって、
好き過ぎて泣いてしまう、という話を聞くことがあります。
今日は初めてその気持ちがよくわかりました。
私はこの作品に対し、完全に恋をしているようです。
この作品をめぐって、色々なことがありました。
それらもみんな含んでの、この感情です。
もう泣くことでしか、私の気持ちは表現しきれません。
あえて出来るとすれば、「泣くしかない」と説明できるくらい。

こう書くと、私とフィガロをやる人たちにとって、
妙なプレッシャーを感じることになるかもしれないです。
ええ、是非プレッシャーを感じて下さい、
でも少しだけ・・・。
私も、本番を指揮してる最中に泣くわけにはいきません。
そもそも、そんな余裕自体ないでしょう。
だから、鑑賞していた今日だけは、
存分に泣かせていただきました。

愛してます、私の「Le nozze di Figaro」!

2013/03/22 11:56 | オペラの話, 雑筆 | No Comments

Next »