2010/03/09

皆様、おはようございます。

話は中学校3年にさかのぼりますが、
音楽の先生であった小林先生の出るオペラやコンサートを
数回見に行ったものです。
その中に、奈良在住のある作曲家のオペラで、
先生がタイトルロールを演じたことがありまして、
我が家のすぐ近く、南御堂で上演されましたので、
見に行って気に入ってしまった作品があります。

それは尾上和彦という作曲家の「ブッダ」というオペラです。
今は「仏陀=求道の人=」という1本のオペラに完結していますが、
私が見た時は「ブッダⅠ=真理の人=」という1作目、
「ブッダⅡ=永遠の今=」という2作目が現存し、
3作目として「ブッダⅢ=生命の歌」が予定されている、
という3部作ものとして上演されていました。

その後、小林先生が留学される少し前、
「ブッダⅠ」は改訂・増補されて「=散華=」というタイトルになり、
そのタイトルロールであるシッダルタ(釈迦)を演じて、
先生はウィーンに留学されました。

大変暗いというか、陰気というか、
異様な雰囲気で始まるオペラでしたので、
一発で気に入ってしまいました。
また、これには1人2役で演じられる、
キャラクターテノール用のパートがあり、
いつかこのオペラに関わりたいものだ、
楽譜を見たい、と思うようになりました。

それとは別に、高校になって音楽の先生が替わり、
音大を出たばかりの女性の先生になったのですが、
どういうわけか、昔から年若い女性の音楽の先生とは
ウマが合わず、冷ややかになってしまったり、
険悪な空気になってしまったり、という傾向がありました。
この時もやはりそうなってしまいましたが、
私の歌の能力に目をつけてくれた人が1人現れました。

大阪音楽大学4回生で、教育実習にやってきた女性です。
その時、昼休みに音楽室で、
モーツァルトのオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の一節を
ピアノを叩きながら歌っていたのですが、
それを聞いたその女性が私を自分の師匠のところに
連れて行ってくれました。

それから、大阪音楽大学受験を目指して、
声楽のレッスンを始めることになりました。

レッスンに通いだしたことで一定の自信が出来たのか、
オペラ「ブッダ」の事務局に、連絡を取りました。
次の公演予定はあるのか、と問い合わせたわけです。
すると、10月に東大寺大仏殿前で公演するが、
是非合唱に参加して下さい、というお誘いを受けました。
楽譜が手に入るのです。
即座にYesの返答を致しました。

稽古は基本的に、作曲家自身によって行われます。
彼は公演の指揮もするのです。
合唱の稽古には合唱の部分だけ抜き出した楽譜が配られましたが、
作曲家に頼み込んで全曲の楽譜をもらいました。
とりあえず東大寺の公演はそれで終わったのですが、
引き続いて、宇陀のお寺で上演されることになっていたため、
稽古が続行されました。

その中のある時、私のやりたい役をしているキャストが
いない状態での稽古がありました。
その時までにその役を覚えきっていた私は、
飛び入りでその役を歌いきりました。
それ以来、その役に限らず、
誰か男性歌手がいない時はそのパートの穴埋めをする、
という私独特の下積み修業が始まりました。

これは「ブッダ」に限らず、
その後初演された「堅花子の花(現・ヤカモチ)」でも
やはり全曲の楽譜をもらって準備したものです。
また、基本的に私は作曲もしますから、
「アイデアの変遷」「作品の変遷」というものにも興味があります。
以前のバージョンがどうなっていたのか、
という研究も、音源を借りて行いました。
ここが、私の「音楽学的研究」の基礎を作ったようです。
今でも、作曲家が初めはどういうアイデアを出し、
それをどう書き直して最終的な形に至ったか、
そこを追求せずして私の演奏はあり得ません。

このような研究のおかげか、
今でもこの作曲家のスタイルで作曲することが可能です。

ところで、こんな風に送っていた私の音楽生活ですが、
肝心(とは私は思ってませんでしたが)の高校生活は、
この音楽生活のためにメチャクチャになっていました。
なにせ、音楽の先生はお互いに気に入らないものだから、
まったく交流がなく、教えてももらわない。
そして学校へもろくに行かずに音楽ばかり研究してましたから、
学校の勉強、とりわけ元々苦手な理数科目は散々、
数学Ⅰに至っては2点という栄えある点数をとったこともあります。

私が自信あるのは音楽と宗教についての経験だけ。
およそ今とまったく変わらない状態が、
この時からあったわけです。
ただ、普通の人であれば、自信ある部分は部分として、
そういう散々な成績に対しては何らかの危機感を持つものです。
しかし私は、むしろ自慢にさえ思っています。
散々な成績を屁とも思わない自分を!

さて、恵まれているとはいえない学校生活だったのですが、
・・・まあ芸術的な方面にですけれども、
私を発奮させてくれた人がクラスメートにいました。
宝塚歌劇団雪組の元トップ娘役の「紺野まひる」です。
彼女は1年だけ、雲雀丘学園に在学したのですが、
1年間音楽の授業を受けていて、歌わされると
音楽室の中で聞こえる声は私と彼女の2人分だけでした。
音楽家目指して声楽のレッスンを受ける私と、
宝塚目指して励む彼女、
他に類似の方面を目指す人はいなかったのですから、
仕方のない話だったかもしれません。
この年頃の子は、滅多に声を出しませんから。

3年後、彼女は・・・彼女自身は意図せずしてですが・・・
私が東京でオペラデビューをするきっかけとなります。

さて、今日はこのあたりにしておきましょう。
次は、オペラデビューの話を書きたいと思います。
このあたりから、身の回りのどの事象を考えても、
これが起きなければ、今の私はない、
と言い切れそうなことばかりが起こっています。
その中のどれか一つがなかった、あるいは別のことだっただけでも、
現在の私はかなり違っていただろう、ということばかりです。

2010/03/09 04:08 | 私の説明書 | No Comments
2010/03/03

皆様、おはようございます。

両親の離婚によって大阪に帰ってきた私は、
祖母の姉の夫に作曲を習い始めました。
一応これでも、音楽大学に入ろうと考えたわけです。

ちょうど鹿児島にいる頃、映画「アマデウス」が
テレビで放映されました。
モーツァルト好きの私としては見ないはずがありません。
ここで描かれている、「オペラ」というものに興味を持ちました。
そこで、オペラ「魔笛」のCDと楽譜を買ってみたのですが、
音情報だけではイマイチ全貌がわからなかったのです。

そして大阪に帰って1ヵ月後のことでした。
大阪芸術大学の学生オペラが「フィガロの結婚」を上演する、
という情報を心斎橋のYAMAHAで仕入れた私は、
これを見に行ったわけです。
今の私なら絶対に選択しない、日本語上演だったのですが、
これを見た私は歌の道も決意します。

別に華やかな主役に憧れたわけではありません。
この「フィガロの結婚」には、
ドン・バジリオという音楽教師の役が存在します。
一般的なイメージを申し上げますと、(私の演出では違います)
お喋りで、軽薄で、場合によってはオカマチックな、
その場を引っ掻き回してしまう、という感じでしょうか。
音楽と芝居が結びついて、これほど面白いことが出来る!
そこに大いなる魅力がありました。

その頃、変声期を終えた私の声帯は、
子供の頃からの予想通り、テノールであろうと思われる、
そういう声を出すようになっていました。
幸い、「フィガロの結婚」のドン・バジリオは、
テノールで書かれています。

もっとも、普通テノールといえば、王子様や英雄、
色男など、いわゆる2枚目の役に充てられるのですが、
ドン・バジリオや「魔笛」のモノスタトス、
「マダム・バタフライ」のゴローなどは
一般にキャラクターテノール、
ドイツ語でシュピールテノール、イタリア語でテノーレ・ブッフォ、
という呼び方で、「性格的テノール」と言われています。

私がなりたい、と思ったのはこの「性格的テノール」です。
「ヘンゼルとグレーテル」やバロックオペラでは、
我々キャラクターテノールが魔女などの女装役をすることもあります。
もしここに、私に向かって
「どうして歌をしようと思ったの?」
と尋ねる人があれば、答えは至って簡単です。
「ドン・バジリオやりたさに。」
結局大阪でも東京でも、ドン・バジリオは何度かしていますから、
私をご覧になったことのある方もいらっしゃるでしょう。

私はさっそく「フィガロの結婚」の楽譜を買ってきて、
・・その時は中1の2学期でしたが・・
3学期が終わるまでにはドン・バジリオのパートを、
すべて暗譜してしまっていました。
この後、随時他の男性役パートも制覇していきます。

さて、大阪に帰って来て、転入した学校はやはり私立。
宝塚市にある雲雀丘学園中学校でした。
その頃、この学校の音楽の先生は、
今も私が所属している関西二期会の準会員で、
バリトン歌手の方でした。

・・・実はこの先生、劇団四季に詳しい方ならば、
おそらく知らないということはないでしょう。
先年、若くして亡くなられてしまいましたが、
劇団四季で活躍しておられた、小林克人さんです。

小林先生には中学卒業までお世話になりました。
歌のことはかなり教えてもらいましたし、
色んな楽譜を貸してもらったりもしました。

中学が終わる直前の、学年最後の音楽の授業となりました。
いつも、簡単に発声練習をしてから始めていたのですが、
この授業に限っては、その発声練習が異常でした。
やたらとハードで、私以外誰もついていけなかったのです。

この学校は中高一貫でしたから、そのまま高校に上がりましたが、
その時、小林先生がウィーンに留学されたことを知りました。
小林先生29歳の時です。
後で、中3の時に別の学級だった友人に確認したところ、
最後の授業で別に難しい発声をやらされたことはなかった、
ということでしたから、
私のいた授業の時だけ、私への形見分けのようなつもりで
ハイレベルな発声練習をしてくれたのでしょう。

その後、ウィーンで劇団四季のオーディションを受けられ、
日本で活躍するようになった頃、
こちらも東京でオペラに出演するようになっていましたので、
オペラやリサイタルに何度も来てくれました。
私が自筆譜などの原典資料の研究もしていることを知ると、
シューマンの歌曲自筆譜のことで質問してきたりもされました。

最後にお会いしたのが、2006年7月、
東京で「皇帝ティートの慈悲」というモーツァルトのオペラで、
ローマ皇帝ティート役をした時のことです。
当日になってメールでチケットを予約して、来てくれました。
その次の年、ふとYahoo検索で先生の名前を検索すると、
出てきたのが「小林克人 死亡」の文字。
これを機に、幾人かの親しかった人たちが亡くなられました。
中には私より1つか2つ年上、という女性もいました。

さて、今回はオペラに目覚めたきっかけと、
それを応援してくれた小林先生のお話を致しました。
次回は・・・これも若干小林先生絡みになりますが、
高校1年になってから始まった、
オペラ現場での下積みについてお話し致しましょう。

2010/03/03 01:13 | 私の説明書 | No Comments
2010/02/23

皆様、おはようございます。

まずはゴジャゴジャ抜きにしてこの写真を拝め!(笑)

img1341.jpg 
これは、鹿児島で貰ってきた、
小学校6年生の時の写真です。
撮影と写真提供は、母親の江田ときえ女史。
場所は転校先の西田小学校。
転校して1ヵ月後にあった、学習発表会での一コマです。

転校してきたばかりの児童に指揮をさせる方もさせる方ですが、
それに乗っかってちゃっかり振ってしまう私も私ですね。
しかし、よくご覧下さい。
私もここ数年、学校廻りの仕事をよくやりましたから、
小学生の指揮姿というものを沢山見てきています。
その目から見て、この写真を母親に見せられた時、
我ながらびっくりしたし、感心したものです。

・・・およそ小学生の指揮姿ではありません。(笑)
My指揮棒ですから、持ち慣れているのは言うまでもないですが、
姿勢と視線が全く違います。
(というか、My指揮棒持ってる小学生なんてあまりいないだろう・・)
この頃は指揮法の本を読み漁ってましたから、
今よりも図形はきれいだったはず。
図形というのは、指揮棒を振るラインのことです。

さて、自慢話はここまで!
その後のことを書きましょう。

中学受験のために鹿児島市に転校した、と書きましたが、
そもそもなぜ中学受験をしたか、というと、
その理由を聞けば、今の私を知る人は笑うはずです。
このページに私の写真がありますから、
読者の皆さんもお笑いになるかもしれませんね。

当時、鹿児島県内の公立中学校で、
長髪可だったのはたった一校。
大根占中学という、大隅半島にある遠い学校だけ。
つまり、川内にいても鹿児島市にいても、
丸刈りにしなければならなかったわけです。
その長さの基準は、手を突っ込んで、
指の間から出ない程度、でした。

そう、坊主頭になるのが嫌で私立受験をしたのです。
今や、手を突っ込んで指の間から出ないどころか、
手を突っ込もうとしても、数時間前に剃って伸び始めた髪が、
ジャリジャリと音をたてるだけの無防備な頭・・・。

動機がそんなのですから、
鹿児島中学校、志學館中等部、ラサール中学校のうち、
ラサールが落ちたのは言うまでもありません。
(国語と社会だけなら通っていたと思いますが。)
どうしても理数の点数は伸び悩み、
鹿児島中学校と志學館中等部は通りまして、
志學館中等部に進学致しました。

また、鹿児島市に引っ越したのにはもう一つわけがありまして、
この頃から両親の離婚訴訟が始まり、
父親からの仕送りがなくなりましたので、
母親には働く必要が生じました。
そこは女手のこと、しかも都合よく向いてもいた職業、
大阪にいた頃からやりたかったクラブのホステスに、
やっと手を染めることになったわけですが、
生憎川内市では職場が・・・・まあほとんどないわけです。
今の過疎状態ではなおさらありませんが、
当時でもやはりなかったように記憶しています。

さて、小学校の頃からモーツァルト好きになっていた私が、
中学校に入ってから、徐々にオペラに興味を持ち始めました。
そのうち、秋になって両親の離婚が確定し、
私は父親に引き取られることに「しました」。
私がそれを選んだのです。

初めのうち、どちらに行くか、感情で色々考えていたのですが、
感情で考えていては千年経っても結論は出ない、とわかりました。
それで、「どちらに行った方が音楽の勉強ができるか」
ということのみにポイントを絞り、大阪に戻ることを決めたのです。

話は少し遡りますが、小学校4年生の頃から、
作曲にも手を染めるようになってきました。
他人の曲を演奏するばかりでは面白くない、
そう思い始めたのがきっかけでした。
ピアノに関しても、バイエル終了程度の曲であれば、
初見でパラパラと弾けるようになっていました。
これは、特別に練習したわけではありません。
気付いたら出来ていたのです。
そもそも練習嫌いな傾向があるので、
地道に練習することはしていないのですが。

このような状況では、音楽の道しか考えることは出来ず、
大阪に戻るとすぐに、作曲家だった祖母の姉の夫に、
作曲を習うことにしました。
それと同時に、オペラとの本格的な出会いがあり、
今に至る道筋が出来上がっていくのですが、
次回はそれについてお話し致しましょう。

2010/02/23 02:45 | 私の説明書 | No Comments
2010/02/16

皆様、おはようございます。

母親が鹿児島出身であることは申しましたが、
私が小学校3年になったばかりの頃、
母親がかねて患っていた気管支炎の療養のため、
鹿児島に引っ越すことになりました。
もちろん、父は一緒ではなく、
私がついていきました。

ただ、鹿児島とはいっても母親は東シナ海に浮ぶ、
甑島(こしきじま)という離島の出身。
10人兄弟の2番目の女性が嫁いだ先である、
当時鹿児島県川内市(せんだいし)に住むことにしました。
今は甑島も川内市に併合され、
周囲の町も合併して薩摩川内市となっています。
私はその伯母の家に1ヶ月ほど身を寄せ、
同じ校区内にマンションを借りて居を構えました。

川内での暮らしにもなじんできた秋のこと、
10月だったと思いますが、校内音楽会が開かれました。
各学級が、器楽合奏と合唱(あるいは斉唱)を披露する、
という内容だったのですが、
うちのクラスは器楽合奏「アマリリス」と、
タイトルは忘れましたが、もうひとつ歌の曲を演奏しました。
ところが、本番一週間前になって話が変わりました。

本来、そのクラスの担任の先生が指揮をするのですが、
うちの担任が急遽、出張で指揮できなくなってしまったのです。
そこで、クラスから指揮者を出すことになりました。
やりたい人!と言われて手を挙げたのが、
目立ちたがり屋の私一人。
はい、即決です。(笑)

それから一週間、どう準備したのか忘れてしまいましたが、
とりあえず、本番を振ったわけです。
生まれて初めての「指揮」という行為でした。
どういうわけか、これで音楽にはまってしまったのです。

大変にベタな選択ではありましたが、
大阪の祖母にせがんで、ベートーヴェンの交響曲第5番、
そう、日本人が「運命」と呼んでいるあの曲の、
テープとオーケストラスコアを送ってくれるように頼みました。
その後も他の曲のテープとスコアを送ってもらい、
これが私の音楽修業の始まりとなりました。

小学校2年生あたりまで、私はろくに楽譜は読めませんでした。
幼稚園の頃にピアノは習ったものの、
ごく初歩でやめてしまったので、小学校に入った時に、
楽譜を教えられてもよくわからなかったことは覚えています。
で、小学校4年生になった時には、もう楽譜は読めました。
オーケストラスコアもだいたい理解していましたが、
なぜそれが出来るようになったのか、今もわかりません。

どうやって読めるようになったのかもわからない私なので、
実は恥ずかしながら、楽譜を読めない人に、
楽譜の読み方を教えることは出来ません。
おそらく、スコアを読んでいるうちに、
楽譜という「記号」と実際の音との関連性が
頭の中で確立されていったんでしょう。
正直、基本に忠実とはいえない、乱暴な方法です。
ひょっとしたら、音楽に興味のある子供だったからこそ、
出来たことなのかもしれません。

さて、1年たって再び校内音楽会の時期がやってきました。
今年も振りたい、と音楽の先生に申し出たのですが、
一蹴されました。
実は、前年の音楽会が終わった後、
父兄から苦情が出たらしいのです。
曰く、1人だけ目立って不公平だ・・・。
これが、生まれて初めて経験した、
政治的理由による挫折、指揮者の地位から排除された経験です。
この心理的外傷は、今にまで影響しているように思えます。

私は今、「生まれて初めて経験した」と書きました。
そうなのです、15年後以降に2度も同じ経験をするなどとは、
当然ながら、この時は全く考えていませんでした。
幼少時の体験に基づく、ショックの増幅はすさまじいものです。

その次の年、小学校5年生の音楽会で何をしたのか、
それはもう覚えておりません。
なぜ覚えていないのかも、全く思い出せません。
ただ、校内音楽会では振らせてもらえなかったものの、
クリスマス集会などの催し物があり、
クラスで歌の出し物をするような時には、
クラス全員一致の選出で私が指揮棒を振り回していました。

さらにその翌年、6年生には、音楽会直前に私は引っ越しました。
中学受験を控えており、志望校はいずれも鹿児島市内でしたので、
鹿児島市に引っ越したわけです。
もっとも、引っ越した先の小学校、西田小学校でも
やはり音楽会の1ヶ月前であり、
何をどう画策したのか、私が指揮者になりました。
この時の音楽会ではかなりの喝采をもらいました。
後ろの方で、アンコールを叫んでいた父兄もいたくらいです。

この音楽会については、卒業文集にも書いたのですが、
その下書き段階において、私のあまり良くない性格、
嫌味なことを書いてしまう、ということをやらかしています。
「他の子のような、拍子取りだけというのはしなかった・・・」と。
これは担任に指摘され、削除しましたが、
今でもわざと嫌味を書くときには使用する「技法」です。

ともあれ、この頃には作曲と指揮によって、
音楽で飯を食おう、という意思が固まっていました。
そう決め始めたのは、小学校4年、
校内音楽会の指揮者を蹴られた時のことです。

さて、今回はこれくらいにしたいと思いますが、
明日から、今日のお話の舞台であります薩摩川内市に行って来ます。
土曜日には帰ってきますが、ちょっとしたバカンスです。
川内や鹿児島市には、食べたいものも沢山ありますから、
グルメツアーでもありますね。(笑)

では次回は、音楽の道をどのようにして踏み分けていったのか、
オペラに出会うまでを書いてみたいと思います。

2010/02/16 12:32 | 私の説明書 | No Comments
2010/02/07

皆さん、おはようございます。
今回から、音楽の話を始めていきたいと思います。

音楽との出会い、と一言でいうのは簡単ですが、
我が身にその言葉を突きつけてみた時に、
我ながら「どの?」という問いが返ってまいります。
というのは、生まれながらにして、音楽というものは、
おそらくは他の家庭に比しても、
少しは多く転がっていたのですから。
すると、生まれたと同時、ということにもなりますね。

ところが、周囲にクラシック音楽があったわけではありません。
祖父から考えてみましょう。
祖父は基本的に芸能の人です。
若い頃は詩吟、謡、仕舞、浪花節などの邦楽に明るく、
実際に稽古しておりました。
私の知る頃からは、どういう風の吹き回しか、
カラオケの先生を始めるようになっていましたが、
実際に生徒が望むのは演歌が多かったようです。
本人はポップスも範疇にしておりました。

祖母は、女学校時代にピアノを始めた人間です。
バイエルなどは1年で通過、
数年でショパンを弾きこなしたのだから、
まずまず音楽の才能はあったのでしょう。
もっとも、西尾家に嫁いでからはピアノを禁じられ、
数十年弾いていませんから、今ではもうろくに弾けません。

父親に行く前に、父親の兄、つまり伯父ですが、
これは幼少の頃からヴァイオリンを習い、
中学生の頃には名だたるコンチェルト、
チャイコフスキーやメンデルスゾーンなどを弾きこなした口。
もっとも、曽祖父が西洋音楽家など河原乞食呼ばわりでしたから、
プロになるのは絶対に許されることではなく、
今でも趣味としてバリバリ弾いております。

父親はかなり器用な人間で、
兄と共にヴァイオリンを習い、そこそこに弾きますが、
その他にもフルートは吹ける、マリンバも弾ける、
ドラムを叩かせたら一級品、
まあ、運動神経がやたらと発達している人間です。
私とは正反対。(笑)

母親は・・・音痴ではなし、
オペラ歌手の真似をしたらそこそこの声を出しよりましたが、
基本的に音楽に対して明るい人間ではありません。

結局、小学校2年が終わるまで、
祖母以外にはクラシック音楽をどうこうする人間と
恒常的に接することはありませんでした。
祖母もその頃にやっと買った電子ピアノで
昔取った杵柄の「乙女の祈り」を弾いてみる程度。
伯父についてもヴァイオリン云々という側面に接することもなし。

ただ、私は幼稚園の頃、ある発表会を見て、
少しだけピアノを習ったことがあります。
この発表会は、祖母の姉の嫁いだその夫が作曲家で、
ピアノ教室を開いていて、そこで少し習い、
次の発表会で「メリーさんの羊」を弾いて、
それで満足してやめました。
つまり、発表会という場に出たかっただけ。
およそ、目立ちたがり屋の為せる業です。

ほぼこの状態で、舞台は九州に移動することになります。
次回は、この九州での出来事を書くことにしましょう。
これが決定打となり、音楽を職業とすることになるのです。

2010/02/07 12:36 | 私の説明書 | No Comments
2010/01/31

おはようございます。
およそ宗教という名のつくものに、
「事相」と「教相」があることは前回お話ししました。
「事相」は作法や修法など、実践面に関すること、
「教相」は教義、哲学などの側面です。

この中の「事相」に興味のあった私でしたが、
「教相」に興味を持つきっかけになる日は、
数年たってやってきました。
小学校4年の冬休みでしたが、
母親と二人で北海道にスキーに行きました。
最初の日、札幌で宿泊したのですが、
その夜、本屋に立ち寄り、ある本と出会ったのです。
それは「死後の世界」に関する本。

少なくとも「日本人用」に用意されているあの世として、
49日までの裁判と、その先の6つの世界、
ということが書かれてありました。
そう、輪廻転生、六道輪廻です。
地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人間、天のどこかに
死後生まれ変わる、という思想です。

畜生は身近にある世界ですから、(ペットも含まれます)
どの程度しんどい世界かは、何となくわかります。
地獄や餓鬼は、腹を空かせた経験、渇きの経験、
怪我をした経験、火傷した経験など、
それらを拡大して考えれば身の毛もよだつ世界ですから、
子供心にも、こんなところに転生するのはイヤだ、
そう強く思われました。

ここが私の「教相」への入り口でした。

これら苦しみの世界に転生する要因は、「悪業」です。
「カルマ」というやつです。
これには行動のカルマ、言葉のカルマ、心のカルマがありますが、
およそ人間の欲望に忠実に生きた場合、
まずどれかのカルマを積み上げることとなる理屈です。
発想としては、刑事犯の容疑がどんどん増えていくようなものです。
このカルマが増えれば増えるほど、
来世において悲惨な経験をする確率は高まり、
その悲惨さも、より残酷なものになっていく、というわけです。

では、それを避けるためにはどうするか。
どうやって悪業を積み上げないようにするか、
という一点に尽きます。
これが、この私の課題でした。

その次に、「解脱」ということによって、
もはや六道輪廻の外(つまりそれよりも上の世界)に
転生してしまえば、あるいは「涅槃」に入り、
どの世界にも生まれない状態を達成すれば、
地獄には落ちない、という理屈も獲得しました。

すると、今度は具体的な「解脱」の方法も模索することになり、
結局は「事相」と「教相」が、欠くべからざる柱として、
私の中に植えつけられたのです。

ところで、この「カルマと転生」の問題ですが、
シビアに考えれば考えるほど脅しの様相を呈していきます。
興味本位で書かれた本は、
「こんなことをしたら、こんな地獄へ行く」
ということばかり書かれていて、
これはもう、対策のない脅しです。
どうすればそうならずに済むか、書かれていないからです。

カルト教団になると、対策は明確です。
その教団の教えに従い、実践することで・・・
という理屈なのですが、
およそ綺羅星の如く存在する教団の中で、
最もシビアな見方をしているのはオウム真理教だったと思います。

普通、信者になり、ごく普通に活動していれば救われる、
というのが新興宗教の特徴なのですが、
この教団だけは違います。
まず、現在生きている人間の9割以上は地獄に落ちる。
これが前提でした。
現代社会は、普通に生きているだけで地獄に落ちる、
なぜなら、潜在意識においてカルマが蓄積するよう、
情報がばら撒かれているから、というものです。
だから、入信して普通に修行しているくらいでは
とても追いつかない、
死に物狂いで修行して、人間レベルを超えなければ、
悲惨な来世からは逃れられない。

・・・つまり、スーパーマンにならなきゃ地獄行き、
というシビアにすぎる理屈です。
よく考えれば、これはもう脅しのレベルを超えています。
しばしば、超能力主義、の謗りを受ける教団でしたが、
そんなレベルの人間(?)を目指しているのならば、
超能力はついて当たり前、レベルを測る基準、
という理屈は容易に納得できます。

色々と「教相」を模索する中で、
これほどシビアな見方があることを知ってしまうと、
なにぶん死後の世界はまだ見ぬ世界、
ひょっとしたらこういう基準が本当である可能性も否定できません。
すると、何を目指し、何を切り捨てて生きていくべきか、
かなり悩むことになりました。
これが私の中学から大学くらいまでの宗教世界でした。

その中で、おそらく活路が見出せるとしたら、
輪廻転生に対して詳細な解説があること、
具体的な修行法があること、
これらの条件を満たすもの・・・
チベット密教ではないか、という結論に達しました。
ですから、チベット密教についてはある程度知っています。

さて、ここまでが私の人間としてのベースです。
人間として、というのは、音楽家であろうがなかろうが、
無関係に、こういう人間だ、という意味です。
もちろん、まったく無関係だとも思えませんが、
音楽家でなかったとしても、そう違いはなかったと思います。

ということで、宗教的な側面についてはひとまずここで置き、
次回は音楽家としての私の来し方を書いてみたいと思います。

2010/01/31 10:18 | 私の説明書 | No Comments
2010/01/26

皆様、おはようございます。
前進し始めると凝り性になるぼんちです。(笑)

音楽にしろ、仏教にしろ、
この凝り性が私をここまで進めてくれた、
(こんな私にした、とも言う)
というわけですが、
今回は仏教への傾倒についてお話し致しましょう。

初めは仁王像、続いて仏像全般に興味を抱いた私は、
次には僧侶の所作に興味を抱くようになりました。
ちょうどその頃、母親が流産を致しました。
妊娠し、弟か妹が出来ることを楽しみにしていたのですが、
残念ながら、流産となってしまいました。
これは、確かに流産であり、中絶ではなかったと思います。

この頃、アニメ「ドラえもん」が大好きで、
未来の道具を考案することが好きだったのですが、
この時期、何の道具を考えていたかといえば、
いわば「人間製造機」でした。
どれほど兄弟が出来ることを楽しみにしていたか、
どれほどその機会が奪われたことを残念に思っていたか、
「人間製造機」は物語っています。

この流産の後、母親は水子供養をすることにし、
以前に宿った水子の分も含め、
三重県津市の大観音寺という水子供養メインのお寺に
供養をお願いしに行くことになりました。
これに私も同行したのですが、当時そこで売られていたと思われる、
お経のテープを買い求めてきたことが、
私の読経人生の始まりです。

ここはやはり生まれつき音楽家だな、と思うのですが、
このお経のテープに完全に心奪われてしまいました。
読経というのは、広い意味の「声明(仏教声楽)」に含まれ、
それは広い意味での「音楽」に含まれるものだと思います。
そう、「音楽」、「音」なのです。
奇しくもこの時買ったテープが、誰の収録かはわかりませんが、
内容は高野山真言宗の「仏前勤行次第」と同じものでした。
頭の柔らかい子供のこと、すぐに覚えてしまいました。

あらゆる宗派のお経のテープを買い込みましたが、
最終的にしっくりきたのは高野山真言宗と曹洞宗でした。
結局、今の今まで自分としてあり得るのはこの二宗派です。
・・・とは言いつつも、テープと経典を使って、
一通りの読み方を2年生くらいまでの間にマスターした宗派は、
浄土宗、浄土真宗(東西共)、日蓮宗、天台宗、
プラス上記二宗派といったところでしょうか。
まあ、主だったところは制覇しているといって良いでしょう。
実際、親戚の家を回っては仏壇で読経し、
お布施をせしめては貯金していたものです。

さて、仏教を学び、実践する上で、
「事相」と「教相」という2つの言葉に行き当たります。
「教相」とは教義、哲学と、その学習なのですが、
「事相」とは、実際の所作、作法、修法のことです。
読経はいわば「拝むことの実践」ですから、
当然のことながら「事相」に属します。
この頃の私は、僧侶の所作や読経にのみ興味がありました。
つまり、「事相」にのみ興味があったことになります。

実のところ、今でもどちらかといえば「事相」人間です。
基本的に「事相」が中心にあり、
それをいくばくかの「教相」が取り囲み、
支えている、というのが私の姿であると思います。
では、どのようにして「教相」に目覚めていったのか、
そこを次回にお話ししたいと思います。

2010/01/26 02:57 | 私の説明書 | No Comments
2010/01/17

皆様、おはようございます。

さて、今回は仏教との出会いについて書いてみたいと思います。
仏教との出会いは音楽よりも早く、
小学校3年での音楽との出会いより遡ること2年、
小学校1年の遠足が、私と仏教の出会いの場となりました。

その場所は大阪と京都の境にある、
山崎という地、天王山という山の中でした。
羽柴筑前守(秀吉)と惟任日向守(明智光秀)の決戦地です。

目的地で昼食を済ませ、下山の途中でその出会いがありました。
その時はお寺の名前がわからなかったのですが、
インターネットが普及してから調べてわかりました。
お寺の名前は「宝積寺(ほうしゃくじ)」。
通称、「宝寺(たからでら)」と呼ばれています。
行基を開基とするお寺で、真言宗智山派です。

ここを通る時、そこに仁王像が立っていました。
どう感じたのか、もう今では詳しく記憶していませんが、
大変興奮して帰宅したことは覚えています。
誰がその二つの立像を仁王像だと教えてくれたのか、
これもまた記憶にありませんが、
まず仁王像に興味を持った私が、
おそらく日本で最も有名な仁王像の一つである、
東大寺の仁王門に行くまでに、そう時間はかかりませんでした。

もちろん、およそ仏像と名のつくもの全体に興味を持つにも、
何ヶ月もかかりはしませんでした。
小学校3年になるまでの間に、相当数のお寺にお参りしました。
大半は祖父といったものです。
この祖父、それまでは全くの無信心で、
月参りに来る菩提寺と僧侶に対して、
「お布施は倍やるからお経は半分にしろ」という人だったのが、
いつの間にか熱心に寺参りをし、
ついには何度も四国八十八箇所を車で巡拝し、
公認ではありませんが、先達並に詳しくなったものです。
半分眠りながらも、近道、裏道をスイスイ走るくらいでした。

ともあれこのような経緯を経て、
私と仏教との付き合いが始まったのですが、
次回は、仏教にのめり込んでいったことをお話し致しましょう。

2010/01/17 09:43 | 私の説明書 | No Comments
2010/01/02

あけましておめでとうございます。
今年は昨年にも増して大変な世の中となっていきましょうが、
勇気と忍耐で乗り切っていただきたいと思います。

前回は断片的にエピソードを綴ってまいりましたが、
如何思われましたでしょうか?

大変異常な雰囲気に包まれた夫婦間の中にあって、
それだけがそのまま続けられていたら、
私はきっと今こんなものを書き綴っていられなかったでしょう。
音楽家として存在したかどうかが危ういですし、
坊さん方面もどうだったのか・・。

こう書くと説教じみてしまいますが、
核家族が増えたことでその子供たちが成人した時、
大きな事件を起こすような人間から、
社会で軋轢ばかり起こすような人間まで、
規模の大小はあれども、「問題人間」になる人が
いくらかは増えたように思います。

思えば、核家族の最大の弱みは、
家庭の雰囲気が夫婦間の関係一つでほぼ決定する、
というところにあるのではないでしょうか。
例えばスタンダードな核家族のあり方を考えてみた時、
どんな家族がスタンダードな形として想定できるでしょうか?

都心から30分から1時間離れた住宅地。
あまりに低収入な父親でもなければ、
ローンとはいえ、一応マイホームに住んでいて、
今のところクビにもなってはいない。
これならば概ね、「幸せな家庭」「円満な家庭」
という風に称される家族ではないでしょうか。

しかしながら、本当に幸せかどうかは、
中を覗いてみなければわからないものです。
夫婦間で大喧嘩こそしていないかもしれないけれど、
夫は仕事に追われて満足に帰宅もしないので、
時間的な理由で問題が浮上しないだけかもしれない。
そこにあるのは信頼と愛情ではなく、
信頼と称される甘えの構造と冷えた感情かもしれないのです。

このような家庭から、人間的温かさの十分な子供が輩出される、
とはとても思えないのですが、如何でしょうか?
えてして、こういう家庭に限って、
「教育」という名の受験戦争にはお金が投入されていたりします。
この「教育」が成功すれば、冷血エリートが、
失敗すれば劣等感落伍者、下手すると世の中の落伍者、
そう、犯罪者までもが輩出されてもおかしくはないと思います。

なぜそんなことになるか、といえば、
核家族の場合、すべては夫婦間で決まります。
ゆえに、その夫婦間の醸すものが居心地の悪いものだと、
それは即、家=居場所としてNG、ということになります。
しかし、普通に考えると、他にわざわざ居場所を作らない限り、
その子供にとって居心地の良い居場所はどこにもないのです。
自分を守ってくれるはずの両親はとてもそんな状態ではないのに、
両親以外に守ってくれそうな人も周囲に存在しないのです。

居場所を求めて、思春期の一時期だけグレた、
などというのは、被害が最小限に抑えられた事例でしょう。
学歴と引き換えに、かえって人間味は手に入れられたかもしれません。

さて、私の場合、この核家族の否定的側面から見れば、
いろんな要素において条件が異なっていました。
まず、そもそも核家族ではない。
父、母、子供、という構造ではなかった。
ではどういう構造だったかというと、
「祖父、祖母、父、母、子供、祖母の婆や、社員」
このような構造だったわけです。

その分、両親の夫婦仲は前回書いたように派手でしたが、
その他に4人も大人が揃っていれば、
両親の至らなさを十分フォローすることができます。
刃物恐怖症のような断片的な傷は残ってしまいましたが、
私の精神構造そのものの破壊は免れました。

最後の2人をご紹介しましょう。
祖母の婆や、というのは祖母がうちに嫁いで来る際、
つれて来た婆さんです。
私が12歳の時に、100歳間近で往生した人です。
社員、というのは父が中学生の頃に入社、
住み込みで働いてくれていた、女性の経理社員です。
年齢は祖母より5つ下、
結局は、私の婆や、というような関係となりました。

このようなメンバーで、大阪のど真ん中、
90坪の3階建てに住んでいました。
この建物はうちの店が入る前はスーパーだったらしく、
1階が店舗、2階と3階が倉庫だったのを、
2階の奥半分を社長室と応接、社員食堂、
そして風呂場と女性社員の居室に作り変え、
3階の倉庫のいくつかを壊して居室と家族の食堂に作り変えた、
という、当時でさえボロい建物でした。
もちろん、1階では繊維卸の店舗をやっておりました。

これが、私の基本的な育成環境でした。
次回は、音楽より早かった、仏教との出会いについて書きましょう。
これまで私の基本的な環境について書き綴ってきたのも、
こういう基本情報なしには、私のいかなる活動についても、
その背景を理解することが難しいと思われるからです。
もちろんこれからも、適宜背景について補足しつつ書き進めます。

2010/01/02 07:32 | 私の説明書 | No Comments
2009/12/25

「夫婦の営みの時、他の男性の名前を呼ぶ」

おはようございます。
この衝撃的ともいえる一文は、
両親の離婚裁判の折、父が訴状に記したものです。
これを読んで、「そういう楽しみ方もあるのか」と
ニタニタ笑いながら読んでいた12歳の私。

これが私の感覚なのですが、これは明らかに母親譲りです。

両親が同棲するようになってから数年後に曽祖父が亡くなりますが、
それまでの間にこういうことがあったそうです。
曽祖父には、船場の儲かっている商家がよくそうしていたように、
2号さん、つまり愛人を囲っていたわけですが、
それを私の母親は曽祖父の正妻、つまり曾祖母に
電話で密告したのだとか。
どうやらこういう行為で騒動を起こすのが好きなようです。

こういう一面も、私は明らかに受け継いでいます。

他にも枚挙に暇はありませんが、
こうした女性が、船場の商家の嫁でいられるわけがありません。
そして、本人は働きたがっているけれど、
その職種はクラブのホステス。
これも船場の嫁として相応しからざるもの。

そもそも大変に気が強いのですが、
父もこれまた途方もなく気が強い。

わざと少しとりとめもない書き方をしましたけれど、
このような夫婦が同居していて、
家庭内が穏やかであろうはずがありません。

この母親の出身地は鹿児島の甑島という離れ島。
フェリーと高速船が日に各2便という僻地です。
一般に九州、ことに鹿児島の女は、
男の後ろを三歩下がってついてくるというイメージがありますが、
そんなイメージは母親を1時間も見れば吹き飛ぶでしょう。

もちろん、ホステスに向いているだけあって、
表面上、常々居丈高なわけではありません。
しかし、いきなり怖くなる。
それも、怒ったら最後、まず刃物を持ち出します。
私もナイフをつきつけられたこと数回、
母親が自殺すると喚いて自ら喉に当てたこと数回・・・

そんなわけで、私は刃物恐怖症です。
普通、包丁というものは食べ物を刺したり切ったりするもの、
という発想がまずあると思いますが、
私の場合、人間を刺したり切ったりするもの、
という発想が先に来るわけです。
だから、他の人が包丁を握った時、
その人がどんなに信頼のおける人間であっても、
私はその瞬間、その人が信用できなくなりますし、
自分が包丁を握れば、自分が信用できなくなります。
いつ気が狂って目の前の人間を刺すかもしれない、
あるいは私が自身を刺すかもしれない、
という感情が私の頭を支配するのです。

このような性格である一方、
優しい時は徹底的に優しいのです。
ただ、その優しさは気まぐれなものですし、
近親相姦的な一面も持ち合わせています。
私は、キスの実地訓練を母親から直接受けました。
もちろん、それなりのセックスアピールの持ち主でしたから、
幼少期の私がこの色気にノックダウンされており、
離婚によって私が母親と別れるまで、
母親というよりは一人の女として意識していました。

冒頭に掲げた、離婚訴訟訴状の一文は、
どうやら父と一緒になる前から付き合っていたらしい男性と、
一緒になった後もデートを重ねており、
(しかも父は待ち合わせ場所までアッシーとして使われた)
床の中でその男性の名前を呼んでいたんだそうです。
このような浮気性な女性を性的対象として育った私が、
先日、あまり本気でなく「彼氏になってよ~」と
ある女性の友達に言われた時、
「浮気しないからさ~」と付け加えられたので言った言葉。

「浮気しないような女はいらない」

今回はわざと自由奔放に、飛躍させて書いてみましたが、
これが私の置かれていた精神的環境の一端です。
次回はこれを緩和する働きをしていた環境について書きましょう。
これだけがすべてでは、いくら私でもグレてしまいますからね。(笑)

2009/12/25 12:12 | 私の説明書 | No Comments

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