2010/03/01

地球の舳先から vol.158
フィンランド編 vol.7

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旅、4日目。ちょうど折り返し地点のこの日は元旦。
前日の経験(前回コラム参照)からわたしは、僻地旅8年目にしてはじめて心を入れ替えた。
「サンポクルーズへ行きます」と英語で言い、「タクシーを呼んでください」と英語で言った。
もう、「タクシータクシー!ぴぎゃー(日本語)」と喚かない。伝えたいことがあるなら、伝わる言葉で。

そう、何も理由が無くてこんな地方都市(失礼)に来たわけではない。
ケミの街には、世界に誇れる観光産業がある。それが「サンポクルーズ」。
フィンランドでもとくに西側で、ボスニア湾に面している湾岸都市は、冬の間に海を凍結させてしまっては貿易も輸出入も成り立たなかった。
そのため、船の自らの重みで流氷を砕いて海を進んでいくハンパなくでかい船を開発。
その砕氷船「サンポ号」はいま、氷上の航路をつくる傍ら、観光客を乗せて流氷の間を行き、極寒の海に突き落として遊ぶ(もちろんハイパーなウェットスーツで)というツアーを組んでいる。
この発着地点が、ケミだったのだ。
わたしがこの存在を知ったのは「フィンランド冬物語」というガイドブック。夏と冬で、できることがまったく違うフィンランドは、正直、「地球の○き方」も、神様・「ロンリープ○ネット」もあまり参考にならなかったりする。
夏物語と冬物語に分かれているこのガイドは、季節に特化してその季節ならではで楽しむ方法を提案してくてくれるので、フィンランド旅行者には必須だろう。

タクシーに乗り、港まで向かう。クルーズのホスピタリティは驚くほどだった。
出航の30分も前に着いてしまったにも関わらず、船からスタッフが出てきて、(アジア人はここでもいなかったのですぐに見分けがついたのだろう)わたしの名を言い当て、「待ってました」と言う。
手配内容を確認し、タイムスケジュールを書いた紙を渡してくれる。
ランチにはサーモンスープを頼んでいたのだがトナカイスープという手配書になっていたので、日本から持参したeチケット(予約内容が書いてあるメール)を出すと(決してクレームのようなテンションではない)、顔を曇らせて「手配の不行き届きを詫びる。今後こういうことのないようみんなで共有して運営にあたっての反省材料にしたいので、eチケットのコピーを取ってもよいか」と申し出られたときにはさすがにビビった。
ここは日本か、と。
山手線がたった20秒遅れただけで始末書を書かされる、日本か、と。

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船はほんとうに、流氷を砕きながら道をつくって進む。
氷を割ってできた道を、小船がたくさん追随していくのだ。
埼玉生まれ東京育ちのわたしはほとんど雪の無いところで生きてきて、加えて小学生のときにスキーで両腕を骨折して以来、雪とはテキセツな距離を保ってきたので、はらはらと落ちてくる雪の一粒一粒がほんとに雪の結晶の形をしていることに感動してしまった。
あまりにはしゃぎ過ぎて甲板で滑って転び、そのまま階段の中腹まで滑って「イタイ…」となりながらも、真っ平らな氷の上に雪が降り積もった大地を、自分の乗った船がバリバリと氷を砕いて進んでゆくさまはかなりな見ごたえである。
4日目にもなるとマイナス10度以下との付き合いもわかってきて、皮膚の薄い顔や手を、ちょっとした布でもいいから覆っておけばずいぶん長い間外に居ても大丈夫なこともわかってきた。

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(雪ってほんとに1粒1粒がこのカタチしてるのね!)

サンポクルーズには3つほどハイライトがある。
まずは、時間差でスタッフが案内してくれる船内ツアー。それにランチタイム、最後が特殊ウェットスーツを着て、乗っているサンポ号が氷を砕いてできたスペースで北極圏の海でプカプカするスイミングタイム。
ひとりで参加したわたしはイギリス人4人とスイス人2人のグループに組み込まれ、7人ほどのチームとなった。
これがまた、文化の違いを思わせる。とくに、イギリス人。
イギリス人もスイス人も積極的に干渉しようとはしない国民なので、わたしがひとり外へ出て写真を撮ったりしても見て見ぬ振りをするわけだが、船内ツアーでは一変。
ウロウロしているとかならず、ツアースタッフよりも目利きのするイギリス人男性がわたしを見張っていて、最後尾にはなにがなんでも自分が立つのだ。
ご一行様がまとまって行動するので、イギリス人グループはまとめようとわたしが先を譲ろうものなら、「女性に最後尾を歩かせるなんてとんでもない」という価値観よろしく、かならずイギリス人男性は自分が最後尾を歩く。急な階段ではなおのこと。
「友達と一緒に行かなくていいの」と思わず突っ込むと「でも(君が)迷子になるかもしれないし、階段から落ちるかもしれないから」と言う。
決して妙な下心ではない。それが当たり前だという教育を受けているのだ。

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(船長室案内にて。)

ランチタイムも、わたしには単独テーブルを予約してくれていたのだが、「日本のことが聞きたい」とのオファーで、せっかくのご縁なので混ぜてもらうことにした。
このイギリス人グループはカップルと夫妻の2組だったのだが、ひとり旅のアジア人をいろいろとフォローする男性陣を女性陣は当たり前のように眺め、日本の「鬼嫁」なんて言葉がかわいいくらいに女王様である。自分たちはただ、わたしを含む女同士の会話を楽しむ。
まだ20歳代のカップルであったが、話し相手であるわたしのワインがなくなっても、アイコンタクトでパートナーの男性に持ってこさせるし、とにかく女性が目を配らせて守られることは当たり前らしい。日本人のわたしにとっては、カルチャーショックである。
こんなに気を使われたら、恋人である女性陣のほうの目線が日本人としては気になってしまうのだが、ソツなく女性のエスコートをこなしている自分のパートナーをむしろ満足げな表情で見守っている。
そして無邪気に、「一昨年銀座に行ったのよ」とか「秋葉原はどんなところなの?」と男性陣をシャットアウトするかのごとくガールズトークを持ちかけてくる。
…な、なんなんだ、これは…。
でも確かに、わたしが日本でかなりお世話になった、イギリス育ちのS氏やA氏も、相当に思慮深いレディファーストな人種であったが…。
出されたサーモンスープが、具沢山でたいへん美味しく満足感の高いものだったことは、言うまでも無い。

ランチのあとは男女の更衣室に分かれ、最後のハイライト。これまで乗ってきたサンポ号が砕いた流氷のためにできた海水に浮かぶアクティビティだ。
必要以上に厚いウェットスーツに着替え、海へ。北極圏の極寒の海にぷかぷかと浮かぶ不思議な感覚。

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這い上がるのは難しく、スタッフに、アザラシよろしく引き上げてもらう。
ウェットスーツを脱いで身軽になり、凍った氷の上に積もった雪景色の中ではしゃぐ一行。
本来は海である場所の水面上を走り回るというのは実に不思議な感覚だった。
何よりも忘れられないのは、凍った海の上で沈んでゆく太陽の光だった。

こうして第三の目的、サンポクルーズを終え、わたしは団体ツアーの帰路に混じってロヴァニエミへと長い距離を戻っていったのであった。
サンタの街ロヴァニエミへと向かうバスの中では、オトナもコドモも区別無く、はしゃぎ過ぎた人々が爆睡する場と化した。
わたしも、Hotel Merihoviでテイクアウトしてきたサンドイッチを腹におさめ、しばし眠った。

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2010/02/23

地球の舳先から vol.157
フィンランド編 vol.6

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(フィンランド有数の観光地、のバスターミナルらしくないターミナル。)

「うーーーーーーーーん。」

簡易すぎる手書きの地図(地上手配=日本からの航空券以外の現地交通手段などをしてもらった会社の担当者がくれた、というか描いてくれた)を眺めながら、サンタ村から市街地ロヴァニエミに帰ってきたわたしは唸る。
クリスマスの街であるロヴァニエミの観光を入れるため、翌日またこの地に帰ってくるのでこの日は観光はスルー。
とにかくこの大晦日の12月31日、わたしのミッションは、ロヴァニエミの鉄道駅から至近のバスターミナルへ移動し、第3の目的地「ケミ」の街へ向かうこと。だけ。だった、はずだった。

まず、地図が見れないという自分の特徴にもっと危機感をもつべきである。
乗り継ぎに確保した時間はほんの30分。二度迷えば乗り遅れる計算だ。
「たぶん、あそこだろう」というポイントはすでに視界には入っているのだが、何せ日本で言う国道レベルの大通りを挟んでいるので信号のないところでは道を渡れないし、歩道かと思いきや積雪で通行不能というトラップもある。
つまり、目的地(推定)はすぐそこに見えているのに、どうしたらそこへ辿り着けるのかの道がわからないという、なんとももどかしい感じ。

かくしてわたしが最初にとった道は鉄道駅のパーキングに突っ込んだし、二度目にとった安全策の道では「そこは倉庫です。入らないで」と警備員に突っ込まれ、結局スーツケースを無理やり引っ張りながら道のない雪の坂を這ってすすむ羽目になった。
「どうせ、早く、行ったってさ、また超寒くてさ、足が、冷たくなってさ…」と、息を切らしながら、サラサラ過ぎてまるで足場が確保できない雪の中を一歩一歩すすみながらひとりごと。一人旅に独り言はつきものなのだ。

なんとかまる20分かかってバスターミナルだとわたしが判断した場所には着いたものの、バスは1台もおらずほとほと不安になる。
事務所は、佐川急便の荷物流通センターのような雰囲気。
「あの、ここは、バスターミナルですか」と質問をして、キョトンとされた。
バスが来るまで事務所の中の待合室で待つ。と、フィンランド兵2人組と遭遇。

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(か…かっくいい!!!!!)

フィンランド軍といえば、あのロシアと地獄の冬戦争を戦った世界軍事史に残る伝説。
ロシアとの冬戦争で壊れゆくフィンランド軍司令官の精神面を描いた映画『フロントライン』が思い出され、アドレナリンが沸騰し敬礼したい気持ちをぎりぎり抑制する。
方向性を大幅に間違えることも多いし、戦争を肯定するつもりもまるでないが、国や不特定多数の人のために命を投げ出せる人種に、わたしはいつでも畏怖をもったある種の敬意を感じる。
それは、「誰かがやらなきゃいけないことだから」という以上のなにかを。
「ケミに行くんですけど、ここで合ってるんでしょうか」と勇気を絞って問いかけると、iPodを耳から外して、以外にもまだ若い兵士は「僕らはヘルシンキへ行くけれど、そのバスは途中でケミに停まる。一緒のバスだから、来たら知らせるよ」とやはり流暢な英語が返ってきた。

更けた夜、フィンランド兵2名とわたしだけの乗客でヘルシンキ行きの夜行バスに乗車し、2時間ほどで途中駅のケミに着いた。
あまりメジャーなところでもないので、またひとりぽつねん、である。
ひとりは慣れているのだが、ドのつく観光地へ来たつもりだったのにここまで日本人と出会わないと、さすがになんだか調子が狂ってくる。
ケミでバスターミナルを降りて、また北欧の寒さにとりまかれながら、わたしは人を探した。
とあるホテルの前で、煙草を吸っているやたら化粧の濃い女性が居た。
そこは、ホテルという看板は出ているのだがなんだかカジノ付バーのような雰囲気で、彼女はフィンランドには珍しい褐色の肌に縮れ毛で、ニューイヤーを迎えるために呼ばれたシンガーか何かのようだった。

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わたしにとってここまでのフィンランドという国は、なんだか出来過ぎていた。
教育水準が世界一だとか福祉が凄いとか、国としてもなんだか可愛げのないところである。
そして実際に見たフィンランドも、人は親切、英語はぺらぺら、公共交通機関は定刻、売春婦も物乞いも物売りも(目に付くところには)居ない、というスマートな印象。
それはやっぱりなんとなく、可愛げがないというよりは、リアル感がなくて逆に正体のない不安に変わる。とにかく、リアルな生身のヒトが生きている感じがしないのだ。
まるで、九州にあるガリバー王国ランドとか、ディズニーランドのようなところからその国の綺麗な景観だけを見ているような、なんとも不確実な気持ちになっていて、それは北朝鮮で「外国人に見せてもいいもの」だけを観光していたときよりもよほど嘘くさくて居心地のよくないものだった。
完璧すぎると機械みたいだ、などと昭和的価値観を持ち出してはいけないのだろうが、なんだか無性に旅をしていて肩身がどんどん狭くなっていくような感覚もあった。
そんなことを思うと、かつてフランス人を日本に案内したとき(それはとても重要な国民の休日だった)に言われた「日本は、ナショナルホリデーじゃなくても“こう”なのか?」という困惑に似ていたような気がする。

それが、その、上品なんだけれどもすこしヒト感のあるバーの入り口で煙草の白煙を追う彼女をみたときに、わたしは「ヒトの住んでいる国へ来た」という感覚をようやく得て、ほっとしたのである。
すべてを日本語で通していたわたしは、自分の口からまず「Happy Year-end-day」という英語が出てきたことにも驚き、次にそのわけのわからない英語に自分で呆れた。
しかし彼女はにっこり微笑んで頷くと、無言で空を仰いだ。
つられて空を見上げると、港のほうから決して派手ではない花火が打ちあがっていた。

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(ホテルの部屋からもよく見えた花火は、夜が明けるまで静かに続いた)

首都のヘルシンキでは大晦日はお祭り騒ぎだという。大晦日のパリも凄かった。
しかしこんな地方都市ではなにもないだろうと思っていたし、実際彼女に会わなければ気付かなかったかもしれないくらい地味な花火の打ち上げに、わたしは目を見開いた。
そして地図を出し、泊まるホテルを指して「どこにあるか知ってますか?」と尋ねると、「Ah,Melihovi」と彼女はうなずき、道を教えてくれた。まっすぐ、右折、そしたら右側。
その顔には「そんなにたくさんホテルのある街じゃないし、そりゃ知ってるわよ」と書いてあったが、無駄な会話は一切しないようにできているようだった。

礼をいい、「Have a nice ….. next year」とこれまた破滅的な英語を発するも、
「You too」と彼女はまたにっこりと微笑んだ。
“英語”は教科や科目ではなく、言語の違う誰かと会話をするための道具だったらしい。
つまりは学問としての「語学」ととらえて、語法文法がおかしいとビビったり、流暢でないことをナーバスにとらえる必要なんてなく、そして逆をいえば、いくら語学としての英語を知っていても、伝えたい相手や伝えたいことが無ければ、なんの意味も持たない能力だったのだ、とも。
彼女は、自分が指示した曲がり角でわたしが曲がるまでじっと見つめていて、わたしはそこで曲がるときにもう一度、彼女に手を振った。
彼女にとってわたしは、「意味不明な英語で話しかけてくる日本人」だっただろうか?いや、「ニューイヤーにこんな街に来た物好き」―このほうが近かったはずだ。

その晩泊まった Hotel Melihovi は地方都市らしくアットホームで、民宿のよう。
部屋の窓をあげると、5階の部屋から真正面に花火が一晩中打ち上げられているのが見えた。
しかし騒ぐ人々もおらず、ただ静謐に。

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フィンランドで一番ふわふわで爆睡できたベッドに横たわりながら、3日目にしてようやくフィンランドに出会えた、と思った。
なぜ旅をするのかと聞かれたとき、わたしはよく「ナマモノとミズモノ」と答える。
りっぱな建築にも美術館にも世界遺産にも興味は無い。
そこに暮らす、1日ごとに変わってしまう「人」や「生活」こそが、面白いのだと。
だから旅がやめられないんだ、とも。

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(それでも観光もするのだ。興味の無い寺も教会もキチンと回るのは、勿体無いという貧乏根性だけだけれども。これはケミの街に建つ大きな教会。)

ケミへ来たわけは、流氷にダイブするためである。
そのお話は、また次回。

2010/02/15

地球の舳先から Vol.156
フィンランド編 Vol.5

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さて、フィンランドの食事情。
わたしの旅経験からいうと、「暑いところはマズい。寒いところは美味しい。」である。
今回のフィンランドも、その経験則を更新してくれた。

まずはホテルで出る一般的な朝食から。

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フィンランドはとかく、乳製品が豊富。
朝のミルクも、4種類くらい用意されている(違いがわたしにはわからない)。
加えてベリー類がたくさんとれるので、好きなものをチョイスしてヨーグルトにトッピング。
というのが正しいフィンランド朝食のようだ。
それだけではなく、だいたいパンはホテルで焼いていて、焼き立てがホールでサーブされる。
バイキング式なのだが、焼きたてのパンにナイフを入れて持っていくというのは素敵。
当然、乳製品であるチーズも豊富で、最低でも4種類は並んでいる。
たっぷりの野菜に、これまた名物のニシン漬け(トマト、オリーブなど多種)、ソーセージ類、なかにお米の入ったカレリア地方の郷土料理、カレリア風パイ。
そんなこんなで、まず不自由しない食事情。
わたしはいつまでも旅においては(いや、すべてにおいてかも)学生気分が抜けていないので、パンにチーズとハム・サラミ類を挟んでテイクアウトし、金欠の場合やレストランにありつけなかった場合の昼食に備える。
日本のバイキングだとお持ち帰りなんてご法度だけど、海外ではそうでもない。

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次。これがトナカイである。
骨つき肉や肉厚のステーキなどはどうも気が引けたので(だって数時間前にトナカイにラップランドの自然を案内してもらったばっかりだったし)、薄切り肉のソテー。
味はというと、ヘラジカとうりふたつ。まあ外見もそっくりだものね。
鹿肉とほぼ同じ味とわたしの味覚上では分類された。
ラムなどのほうがよほど臭味もあると思うのだが、付け合せには、食べ慣れていない外国人用なのであろう、臭味消しのピクルスやベリーが添えてある。
肉の下にもりもりと敷かれているのはマッシュ・ポテト。
北欧諸国の主食はジャガイモなのだ。ライスのかわりに、ジャガイモ。
この世のなによりジャガイモが好きなわたしにはたまらない。
量がハンパないのだが(日本の大きさのジャガイモなら、3個分くらいだろうか)、いたくご満悦でいただいた。

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こちらは、もしかしたらフィンランドで一番おいしかったかもしれないもの。
エスカルゴを供されるときによくある器に、エビのオイル煮。
…と思いきや、ザリガニです。
でもまあお味は甲殻類だし、このオイルが色々調合してあるらしく美味。
パンにつけて1滴のこらずいただきたくなる味です。
パンもフライパンで両面を焼くらしく、さくっ、ふわっ、と。
そして、あったまるんだな。これに限らず、やっぱり寒いところの食事は「いかに暖を取り、いかに栄養を取るか」という、サヴァイヴ思考が根底の基本にある。

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こちらは写真が失敗してスイマセン。
これもフィンランド名物、サーモンスープ。
当然の立地ゆえ、サーモンはとっても中心食材、なのですが。
やはり寒い地方にはあったかいスープが似合う。
ジャガイモをはじめとした各種野菜と煮たクリームスープの中には、サーモンがごろごろ。
そのサーモンの角切りの大きさ、ハンパなし!
ちなみにこれは、3回先くらいでコラムする予定のバルト海クルーズで出されたものなのですが、ボリュームもたっぷり。
日本人なら、これ1皿で十分1食分。(おかわりも自由)いや、深夜までお腹空かない。
実際、事前の予約でヨーロッパ人はこのスープはあくまで「前菜」でメインディッシュを選べるようになっていたのですが、日本人は「サーモンスープ or トナカイスープ」の選択のみ。
それくらい、ボリューミー&日本人と欧州人の胃袋キャパシティの違いを実感しました。

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最後は、夜食。(これも写真がフレたー)。
フィンランド人の好物は、ソーセージなんだそう。
現地語では「マカッラ」といって、バースタンドにたくさん、メニューがありました。
日本のようにギトギトな感じではなく、ボロニアソーセージのようなあっさりめの味。
食感も実にやわらかで、夜食にしても罪悪感が芽生えない。
下に敷かれるのはもちろん、たっぷりのフライドポテト。
わたしはサーリセルカ滞在時、ほぼ24時間営業の移動軽食屋(トラック1台で軽食を作ってくれ、ソーセージやバーガーなど色々)にお世話になりました。

ちなみに、「旅の指差し会話帳」を見ながらわたしは「ありがとう」と「ソーセージ」以外のフィンランド語を放棄しました。
だって、英語やラテン語よりも複雑で、「私の」「私が」「私を」など、動詞がその次に来る単語によって、11種類か12種類も変幻自在に活用するんですもの。ムリすぎる。
でも、フィンランド語はなんだか響きが可愛かった。
ヘルシンキを舞台にした映画『かもめ食堂』で興味をもたれた方も多いかと思うけれど、
「ありがとう」は「キートス」。
「~はどこ?」は「ミッサオン ~?」
「おいしい」は「ヒュヴァー」
「トナカイ肉」は「ポロンリハ」。
…なんか可愛くないですか?

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そしてフィンランドといえばやっぱり頭にまず浮かぶのは「福祉国家」。
税制がホントにしっかり、というか、ちゃっかりしてる。
交通の罰金なども年収ベースで掛かってくるから、ちょっと駐車違反してン百万円(ヘタしたらン千万)なんてことも現実に起きてる。
もっとも、だからこそ良い人材が他国に逃げてしまうっていう現実もあるんだけれど。
わたしがびっくりしたのは、酒税。
フィンランドのお酒には、アルコールの含有率パーセントによって「Ⅰ」とか「Ⅱ」とかが明記してある。
これは、アルコール含有率によってかかる税金が違ってくるからだそうな!
スーパーでお酒を買ったら、明確に「コレは○レベルだからtaxが○%」といちいち明記されていた。びっくり。

福祉大国、さすがだな…。

2010/02/12

地球の舳先から vol.155
フィンランド編 Vol.4

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さて、話は戻るが、サーリセルカの話をしよう。
前回、サンタ村の話を先に書いたのは、クリスマスから遠のけば遠のくほど
サンタクロース村の価値が下がるような気がしたからである。

青く淡んだ街、いや、「街」というにはあまりに小さいサーリセルカ。
オーロラも犬そりも目的ではない(両方カナダでトライ済みのため)わたしが、
日本人のフィンランド旅行者の間ではオーロラ観測ならまず選ばれるこの地を組み込んだのは、
「ラップランド(北極圏)に居たい」という情緒的な理由だけである。
かわりにわたしはヘルシンキをすっ飛ばし、国内線をすぐに乗り継いで北極圏へ到達。
気温はマイナス15度から20度の間を推移しているが、湿気がないので体感温度はそれほどでもない。しかし風が吹くと、風速4メートルごとに1度体感気温が下がるのでぐっと冷え込む。
とはいえ、各アクティビティ会社が貸し出している防寒具をレンタルすれば、
暑いということはあってもまず寒いということはない。…動いていればの話

実際わたしは日本でなにも準備と予約をしてこなかったので、サーリセルカに着いた翌朝から
当日参加できるアクティビティを探すことになった。
街いちばんのスパホテルを取っていたので、当然のことながらホテルのフロントの隣にはコンシェルジュがいてツアーの予約を請負い、日本語対応ツアーは割高に設定されているもの…というわたしの想像はもろくも外れた。
「あの、トナカイぞりは」と言っても、アクティビティ会社のパンフレットは見せてくれるが予約もしてくれないし、コンシェルジュデスクなんてものは存在もしないらしい。
「意外と…」とひとりごとを言いながら「雷鳥」という名のホテルに併設されているアクティビティ会社まで出向き、「トナカイ乗りたいです」と主張。その場でお金を払って、予約をした。
ちなみに夜は、スノーモービルで雪山をひたすら走りまくるというツアーを予約した。

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そう、ソリ。自分は動かない。これが盲点であった。
トナカイは犬ぞりのように疾走するわけもなく、ぽっくぽっくと歩くのみ。
その割にラップランドの自然の森をぐるーりと一周するので、防寒具を着ていてもブルブル。
たまにデカいトナカイが振り返ったりすると、「ヒィィ」とおそろしい。
そうトナカイの顔は意外にもスゴク怖いのである。
おまけに、草(エサ)をあげないと威嚇してくる始末だ。
鼻もぜんぜん赤くない。どうなっているんだ!と憤慨しながら結局2時間もトナカイに揺られた。
「絶対今晩食ってやる!!!!!」となぜか戦闘モードに入るわたし。

寒すぎるのだが、絶妙のタイミングで、ホットベリージュースなるものが供される。
文字通り、ベリーのジュースをあたためたものなのだが、こちらではかなりメジャーなようで、
ティーバッグの商品もたくさん出ているよう。
ベリージュースをテントの中でサーミ族(現地原住民)のおじさんにジンジャークッキーと共に出され、心は和むのだが、体温を取り戻すには至らない。
ここで、マイナス15度の世界で何が起きるかを記録しておきたいと思う。

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1)バナナで釘が打てる。
これは試していないので知らないが、凍ったものが相当な強度を発揮することはよくわかった。

2)凍傷になる。
上述のとおり、あまり体感温度が下がらないので、「なんだこんなもんか」と見くびっていると気づかないうちに凍傷になったりするらしい。
地肌の肌色に白い斑点が浮かんできたら要注意だそうだ。怖っ。

3)カイロが効かない。
サーリセルカからサンタ村へ行くバスを待つため、15分ほど前にバス停へ行った。
どれほど遅延や早着があるのかわからないのと、1本逃すと長距離バスは次の便まで4~5時間ということも珍しくないので、賢明な判断だったとは思うのだが…
防寒具を返し、サーモインナー2枚とスウェット、ヒートテックのハイネック、ジャケット、スキーウェアでも所詮日本製は日本製。
地面に接した足からとにかく凍ってくる。スーツケースをあけてカイロを出し、足裏に装着。
ところがカイロはものの1~2分で完全沈黙。どうやら、有効な気温層を下回るとまるで使い物にならないらしかった。これも盲点であった。

4)鼻水が凍る。
わたしは、後述の5)の反省から、つねに顔まわりを覆っておくことにしたのでこの被害には遭わなかったのだが、乾燥しているため、「鼻血が凍る」ということが多く起きるらしい。
で、もぞもぞするから鼻に手を突っ込んで引っ張ると、完全に自分の鼻の形に固形化した鼻血が採取できるらしい。
鼻の内部の形など、なかなか見ることがないため、なかなかに感動する経験らしい。

5)睫毛が凍る。
これはほんとう。フェイスマスク(いわゆる目出し帽)をかぶるのは、外気に顔の地肌が触れないためと思っていたのだが、もうひとつ意味があった。
とにかく、自分の吐いた息というのがいちばん温かいので、それが瞬時に蒸気となって凍るのである。
そして、位置関係上、吐いた息の蒸気は睫毛につく。で、瞬時に凍る。
このとき、マスカラをつけているとそのまま睫毛がボキッと折れるらしい。
とわたしは聞いていたのでつけなかったのだが、息をすると睫毛が凍り、次いで下睫毛も凍り、まばたきをすると上睫毛と下睫毛が凍ってくっついて目が開かなくなる。
というなんだか物凄い体験をした。「目ッ、目があーッ!」と、ひとりパニックに陥るニホンジン1名。

6)カメラが結露する。
これはトラベラーにとって一番痛い。
フィルムカメラと違って、デジタルカメラは色々なICチップや電子回路でいっぱい。
ここに水分が入ると当然、電子機器は死亡。
冷たいところに居る間はカメラは意外と丈夫なのだが、あたたかい室内に持ち込んだ瞬間蒸気が発生してカメラを壊す。これがおそろしい、「結露」という現象だ。
わたしも、マニュアル通りに冷たいところから持ち込むときはタオルで巻いてジップロックに入れて最低数時間、できればひと晩かけて室内温度に慣らす、ということをしていたのだが、それでも1台は壊れた。北極圏へ行くなら、予備のカメラは必須。
加えて、寒いとバッテリーの消耗が激しいので、いつでも充電をできる環境に無い旅中では、電池で動くものがベター。

と、以上のようなことがわたしが北極圏で学んだことである(えっへん)。
次はフィンランドの食事特集でもしようと思う。

2010/02/01

地球の舳先から vol.154
フィンランド編 vol.3

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実際の行程とは前後するのだが、先にサンタヴィレッジの話をしよう。
なんでこんな極寒の時期に物好きにもフィンランド、と突っ込まれるのだが、理由は幾つかある。
1)トナカイを食う。
2)サンタ村へ行く。(フィンランドはサンタの故郷)
3)夜行寝台列車に乗る。(その名もサンタクロースエクスプレス)
4)ムーミン博物館へ行く。
とこの4点が主なテーマであった。北欧は夏が美しいのは勿論なのだが、やはり涼しいとはいえ雪の無いサンタ村など、あまりシズらないではないか。
前回の投稿にも「写真が美しい!もはや文章はいらない!」という、嬉しいんだか、もの書きとしては寂しいんだかな感想を複数いただいたが、今回も写真がかわりに語ってくれるだろうと思う。

サーリセルカから凍死からがら長距離バスで、サンタ村のあるロヴァニエミへ。
乗車時、スーツケースを荷物入れにしまってくれる運転手に「サンタヴィレッヂへ行きマス!!」と
宣言(日本語)すると、「OK,Santa Village.」とうなずく。やはり日本語は万国共通語なのだ。
しかしメジャーなはずのこのサーリセルカ~サンタ村のルートにも、観光客がいない。
サンタ村へ着くと運転手はピンポイントでわたしのほうを振り返って「Santa Village」と知らせる。
バス停がわりの小さいテントで降り、トンネルをくぐってサンタ村へ。入場はすべて無料。
正午近くなって、ようやく日が出たが、もくもくと曇っている。

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まずは、サンタに会いに行くことにした。
このサンタ村、実際巨体のサンタがいるわけなのだが、カメラ撮影は禁止。
そうかサンタは聖職だからか、と最初は思ったのだがとんでもない誤解。
法外な値段で「サンタさんとのツーショット」写真を売りつけるためである。
なんと夢の無いサンタ! というわけで、わたしはどんなにサンタが凄くても写真は買わない。
ホーンテッドマンションのようななぜかおどろおどろしい通路を抜けると、サンタスペース。
サンタは世界中をまわるために時間を操作することができるとのことで、大きな時計が。
サンタの部屋にはならんでひとりずつ入る。で、バシャッと写真を撮られて一人15秒、みたいな世界なわけであるが(問答無用に全員写真は撮られる。ただし買わなくてもよい。)
ドアの前でサンタの手下が「ニホンジン デスカー」と話しかけてくる。
「日本語喋れるんだ」と突っ込むと、「ダッテ、トゥントゥ ダカラ」。
ちなみにトゥントゥとは、サンタの手伝いをする魔法使いの小人のことなのだが…。
そして対面したサンタは、とにかくおなじ人間とは思えないほどデカかった。
(いや、同じ人間ではないのか。)

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そのあと、サンタの家の裏につくられたスノーパークで遊ぶ。
雪を固めて長い滑り台にしてあって浮き輪のようなもので滑ったり、土地土地の人たちはほんとうに自然を生かして遊びを発明するのが天才だなと思ってしまう。トナカイも、スノーモービルもある。北極圏のアクティビティが売りのサーリセルカとは規模が違うが、体験版には良いようだ。
寒くなってきたので室内に戻り、サンタクロース郵便局へ。
当然、世界中の子供たちから大量のサンタ宛の手紙がここに届くのである。
ここから手紙を出すことも当然できて、郵便局には沢山のポストカードとサンタの切手(特別な消印がつくらしい)、それにポストが2種類。
1つは通常配達、もう1つは、次のクリスマスに発送されるポストだという。なるほどねえ。

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北欧といえばサーモンなわけで、小さなテントをカフェにしているスペースへ。
民族衣装的なものを着たおじさんが、豪快にサーモンを焼いてくれる。
これが、日本の鮭の切り身のゆうに4倍はあるかというボリューム。
これにまるいパンと、半パック分のポテトサラダがついてくる。
非常に美味しいのだが…4分の1でいい…。
ホテルの朝食ビュッフェから、非常食用に拝借してきたパンに残りを挟んで、テイクアウト。
14時をすこし回ったくらいで再び外に出ると、早くも日が傾いていた。
夕暮れのサンタ村は、ライトアップが映え非常に美しい。
建物と建物を結ぶ青いラインが、北極線の境目なのだそうだ。

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なるほど、とわたしはまたもここで感心した。
この短すぎる日照時間は、タイトな旅行スケジュールの味方だったのである。
わたしもサンタ村への滞在時間は3時間ほどしか確保できていなかった。
できれば1日じゅういたいものだが、他にも見たいところも沢山あり、効率重視で組むとそうなる。
普通の場所なら12時から15時の滞在だと昼の顔しか見られないが、
たった3時間で昼景、夕景、そして夜景まで楽しめるのである。これは良い。

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(注:14時半)

気温も急に下がってきたので、出たり入ったりを繰り返しながらショッピングアーケードをのぞく。
オンナゴコロを刺激する可愛いモノがたくさんあるのだが、まだ旅も前半。買い物は最小限に。
というわけでわたしが買ったのはこれだけ。マッチとクリップ。しめて1ユーロ(笑)。
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こうしてサンタ村の滞在を終えたわたしは、ふたたび路線バスでロヴァニエミ市街へと向かった。
ちなみに、サンタ村からロヴァニエミまでのバスの途中で、サンタパークというものもある。
こちらは経営不振でこのほど株式売却。…不況はメルヘンな世界にも現実をもたらすらしい。

2010/01/29

地球の舳先から vol.153
フィンランド編 vol.2

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イエメンに行くより前に予約のリクエストを入れていたフィンランド。
これが、チャイナ・エアーと永久決別したわたしが見つけた、旅を安く上げる方法。
旅行会社にリクエストだけ前々から入れておき、金額が発表になったらすぐに押さえてもらう。
気の向くままに、おもむくままに、とはいかないけれど。
ヘルシンキに着いたのは、15時半。太陽はすでに翳っていて、一面が青かった。
1日中太陽が沈まない「白夜」に対し、1日中太陽が出ない「極夜」がフィンランドには1~2ヶ月あり、
これは「カーモス」といって第5の季節と呼ばれている。
わたしは極夜といえば一日中真っ暗なのだと思っていたのだが、これは誤解で、水平線すれすれのところに太陽がくるために、あたり一面が「青く」なったままになるのだそうだ。
まさにヘルシンキ空港の夕方がこの「青い」状態で、ビール片手にスタンディングバーで相席したフィンランド人のご夫人にわたしは「これが1日中続くのがカーモス」と教えてもらった。
こちらから聞けば喜んで親切に流暢な英語で答えてくれるが、それ以上ぺちゃくちゃお喋りしまくってこないのがフィンランド人のようだ。

北の最果てで空港を降りて、文字通りわたしはひとりになった。
年末というのはむしょうにいろいろなものを整理したくなるものらしい。

スパホテルだというホリデイクラブ・サーリセルカで荷を降ろし、死んだように眠った。
のもつかの間、時差ぼけで数時間ごとに目を覚ましながら、朝を迎える。
暗闇から一転して、カーモスの青色に染まった町へと繰り出したわたしを待っていたのは、
息を呑むほど美しい、この世のものとは思えない光景だった。

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淡い青色に染まった街。外套のオレンジの光が、一面の白い雪に反射する。
木の風情を生かした建物と、樹氷のなかを一歩一歩、降り積もっては跡を消していく雪を踏みしめ、また新たな足跡がスノーブーツとこすれて音をだす。
ざっく、ざっく、という定期的な自分の足音しか聞こえない一本道。
道路といっても車道と歩道の境もなく、少ない車通りは、歩行者をみつけるとなんとなく止まる。

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「これがカーモス…」
わたしは文字通りすっかり空気に呑まれながら、サーリセルカという、日本人旅行者にはおなじみの北極圏の街を歩く。
寒すぎるからあんまり長時間散歩はできないかな、と思っていたのだが、1時間もあれば街の中心部がぐるっと回れてしまうコンパクトで便利なところ。
大きな主要ホテルが目印のようになって道がつくられている。
ホテル街を抜けるとスーパーマーケットにショッピングアーケード。
そのとちゅうに、可愛い雑貨屋さんがこぢんまりと佇む。

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街の入口である小さな協会に着いて、サーリセルカ一周は終了。
大きなホテルに併設してあるアクティビティツアーの受付で、トナカイぞりとスノーモービルを予約し、一旦暖をとるために帰った。

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2010/01/22

地球の舳先から vol.152
フィンランド編 vol.1

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出発のその朝に使った化粧品と、携帯の充電器を詰め込んで、わたしのパッキングは終わる。
がらごろと引きずる小さめのスーツケースは、5年前の北朝鮮旅行のとき新調したもの。
ソフトタイプのため荷物が大幅にはみ出ても上に乗って押せばなんとかカギがしまるすぐれもので、ほとんどの旅を一緒にわたった相棒だ。
相棒を守るため、わたしはオレンジ色のスーツケースカバーを愛用している。
なぜなら初回の使用時、1発目のフライトを終えて出てきたこやつには、新品とは思えない豪快な傷がついていたからである。
その後、面倒ながらカバーをかけて預けるのだが、このカバー、年2回程度の旅行にも関わらず
小さな穴は無数に空き、いろんな色の汚れがつき、取っ手は4回縫い直してまたやぶれた。
そのくらい、やつにとっての旅はハードなのである。
もしかしたら、僻地に行きたがる持ち主にあたってしまった運の問題かもしれないが。

久々のひとり旅、しかも最低限の現地手配しかしていない珍しい旅行。
だれかにがっちり守られる旅が多かったため、旅能力が落ちていそうでちと不安。
向かう先は羽田空港、これまた海外旅行の緊張感を醸し出しにくいシチュエーション。
そして実際、わたしの旅能力はやはり大幅に低下していた。
まずは羽田のチェックインカウンターでなぜか1時間も国内線の行列に並び、
「えっ、海外?!ターミナルからして違うけど」と突っ込まれ、軽いジョグ。
「海外っていうけど、関空までは国内なんですけど」などという素人じみた返しをしてしまう。

さっそく遅延のJAL。乗継時間が短くなった。のはわかってはいたものの、関空でぼーっと歩いていたらなぜか空港の外に出てしまう。「どこだここ!出ちゃダメだよ!」と一人ツッコミ。
関空は3度目だが、いまだに構造がわからない。
寄り道をしているとまた何か起きる気がしたので、すなおに搭乗ゲートへ進む。
初日だけで、羽田-関空、関空-ヘルシンキ、ヘルシンキ-イヴァロと3フライトを乗り継ぐ。
8時20分に羽田を出て、現地時間19時着、時差7時間をみて、都合18時間移動の日。
離陸のときの、ガタンという最後の車輪が外れる音は、いまだにぞっとしない。
ヘルシンキまで、たった9時間半。映画を2本見て過ごす。寝る時間でもないのに電気が消えたり、食べる時間でもないのに食事が出てきたりするので、すっかり腹時計がこわれる。

フィンランド航空は、巷で絶賛されているほどのクオリティではなかったが、不足もなかった。
ヨーロッパ系の直行便なんかで旅をする日が、わたしにも来るとは。
まわりを見渡すと、パリやロンドン、イタリアのガイドブックを手にした乗客が多い。
安めのフィンランド航空で、ヘルシンキから乗り継いでいくのだろう。
意外にもわたしがドのつく観光地であると考えていたフィンランドに行く人は少ないらしい。
ヘルシンキから、フィンランドで日本人に一番人気のオーロラ帯であるイヴァロという地に飛ぶ飛行機に乗り継いだ頃には、日本人はわたし一人になっていた。
おまけにこの国内線、大家族連れだらけ。子どもがぎゃあぎゃあ喚き、叫び、飛ぶ。
ここでも飛行機が遅延したため、絶好の密室保育園と化した機内でわたしは頭を抱えた。
キャビンアテンダントももはやシートベルトを締めさせるのを放棄している…。
「勘弁してくれ」何度日本語でそう呟いたか…
おもしろかったのは、飛行機が着陸する瞬間、子どもだけでなくフィンランド人の大人からも一斉に拍手が起こったことだった。国民性なのだろう。パイロットに届いただろうか。
そうだよな。飛ぶはずのないものを飛ばしているんだもんな。とわたしも納得して拍手。

こうして無事、荷物のロストも無く相棒を引き上げ、わたしはフィンランドの地を踏んだ。
もう暗い。というか、日照時間が数時間とのことだから、これがデフォルトなのだろう、
とおもっててくてく歩く。日本人は、ほんとうにいなかった…。

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(北極圏のイヴァロ空港。)

つづく

2010/01/13

地球の舳先から vol.152
フィンランド編 序章

たったの9時間半で着く、直行便も週15便も出ている、実はとても近いフィンランド。

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(自分の足跡。スノーブーツで歩きにくいからか、意外と小幅だ)

2010年、1月3日。わたしはフィンランドで予定していたすべてのスケジュールを消化し、
ヘルシンキ空港へ降り立った。午後2時、気温マイナス15度。
豪雪でも電車もバスもぴったり時間通りに運行し、街中で話しかける人々は流暢に英語で答えてくれる、キッチリとして民度も高そうなこの国の国民性をひしひしと感じる旅だった。

個人旅行でここまですべてが予定通りに進むなど考えられないような奇跡で、
東ティモール以来、ひとり旅を長らくしていなかったわたしにとってはありがたかった。
スーツケースの取っ手をみじかくして、eチケットを握り締め、チェックインカウンターへ向かう。
こういう旅も、あるんだ。安堵感とともに顔を上げたわたしは、
目の前で繰り広げられる騒然とした光景にふと冷静さを取り戻し、自分で自分に突っ込んだ。

…いや、あるわけないじゃん、そんなの。

8つあるフィンランド航空のカウンターの中には、グランドスタッフがわずか2名。
その先には、100人はいようかという多国籍な旅客の超行列。
閑散としたカウンター。「乗り遅れる」というヒステリックな叫び声。

これは…

明らかに…

その光景を見て、わたしの頭のなかに浮かんだ一語が、明確な確信で結ばれた。

“ストライキ”

こうしてわたしの「完璧だったフィンランド旅行」は、最後の最後であっけなく覆された。
しかしこれだけのことになっているんだから、飛行機が遅れるだろうというわたしのヨミを裏切り
予定通りに離陸の30分前には緑色の「搭乗開始」表示が灯り、「まもなく最終案内」に変わる。
2時間半、行列に並び、チェックインカウンターで先頭に立ったのは離陸の10分前。
ところがギリギリすぎてデータセンターが閉まっており予約が確認できないと言われる。
ようやくつながった空港の日本人スタッフの「いや遅いことは遅いので、やっぱ2~3時間前
には空港に来てくれないと」の台詞に(日本語で)「あたしは2時からいたんだぎゃー」と吠え、
ほぼ手書きのボーディングパスを握りしめる。離陸5分前。
軽装で手荷物チェックを抜け、出国管理で「ヨーロッパ在住?」となぜか突っ込まれる。

それでも本気ですべりこんだ機内で「アナタの席いまないから、みんな乗ったら空席を案内する」と後方に立たされる。なに、コレ!
「あんたんとこのおかげでお土産も買えなかったしおなかもすいたからなんか食わせろ」
と主張すると、「ユーロ余ってる?」と2ユーロでカップ麺を買わされた。なに、コレ!!
(フィンランド航空はおつまみ、カップ麺、スピリッツ酒類は有料。ご注意)

結局飛行機は、「荷物にトラブルがありました」とのことだったのだが、強引にもわずかに30分遅れで出発。絶対に乗り遅れた人がいたと思われる。
このあたりでわたしは「時間に正確なフィンランド人」のデメリットを見た。
成田へ着くと、99%ロストするだろうと最初から諦めていたわたしのスーツケースは
意外や意外、一番最初にコンベヤーに乗って現れた。はて、と機内放送を思い出す。
「荷物にトラブル・・・」・・・もしかしてこの子?

とはいえ、最後のどんでん返し以外は素晴らしかったフィンランド。
次回から、フィンランドの旅行記をおとどけします。

2010/01/06

地球の舳先から vol.151
イエメン編 vol.12(最終回)

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サッカー日本代表対イエメン代表の試合を控え、一昨日から不穏なニュースが流れている。
イエメンの武装組織アルカイダの活動激化により、米英両大使館が閉鎖され、足並みを追い掛ける形で日本大使館も業務停止に入った。
そしてその中間日の今日、奇しくもわたしのイエメン旅行記も最終回を迎える。

もう3ヶ月も前のイエメンでの日々が、いまでも目を閉じると風のやわらかさまでが鮮明に蘇る。
先日、街宣車の騒音に「アザーンっ?!」と言って飛び起きたくらいに。
(熟睡すると、覚醒時に「ココドコ」病が、たまにでる)
現地で会ったイエメン大使館、JETRO、世界食糧計画や国連、マサさんをはじめとするユニセフ、JICA(青年海外協力隊)のイエメン駐在日本人ひとりひとりの顔が思い出される。
彼らはいま、この日-イエの状況を、どう思っていることだろう。

もちろん、問題は山積みだ。しかしわたしは、今日この日にも、あえて言いたいと思う。
わたしの見たイエメンは、とてつもなく豊かな国だった、と。
狂ったような高度成長期と資本・経済原理主義に呑み込まれたわたしたちが失ってしまったものが、イエメンにはあった。

GDPは低いし、将来を見据えたら人口が多すぎて崩壊する、などの統計もあるようだが、
人々は曲がりなりにも整備された家に住み、みんなおしゃれでいいものを着ていて、
子どもたちも遊んだり働いたり、充実感溢れる暮らしをしていた。
観光客摺れしている地域もあったが、基本的にはぼったくりや物乞いも比較的とても少なく、
スリなどの軽犯罪もなきに等しいくらいだった。

それは、どこか日本に似ていた。
軽犯罪も少ない(電車の中で爆睡できるくらい)し、一人あたりの平均所得は世界最高峰。
でも、GDPで見れば成長薄ということになるらしい。不思議な話だ。
GDPという基準を離れれば、日本という国は実際、とても豊かだというのに。
島耕作が社長になったりカンガルーが死んだりするのがヘッドラインニュースになるのは、マスコミがゴミだというよりは、日本が“そういう国”だから。
自殺者が多いのは困ったもんだが、裏を返せば「今日の暮らしに困っていない」わけでもある。

「世界基準」なんて、なんていい加減なものなのだろう。
いつからGDPというもので国のクオリティをはかるようになったのだろう、などと考えると、かの国と、かの国が世界征服をするために打ち出した資本原理主義がどうしたって浮かぶのだが。

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かく言うわたしも、イエメンに着いたばかりの頃は、不思議でしかたなかった。
お金はない。飲食も十分にはない。環境、衛生に関しても世界最悪レベルの部類に入る。
それなのに、イエメンで会う現地の人々の笑顔にはいつも、余裕と幸福が浮かんでいた。
そして、外国人のわたしたちを、歓迎と感謝いっぱいに、これでもかとばかりもてなしてくれた。
後進国と呼ばれる国へ行くと、負の視線を向けられることがしばしばある。
それは、羨望まじりの嫉妬だったり、差別だったり(そしてそれは多くの場合「アジア人のくせに」ってやつである)、ぼったくってやろうという商売根性だったりするのだが、
イエメンでは逆にあたたかい腕を広げられ、わたしはその中でたくさん遊ばせてもらった。
そんな気がした。まさに自分の小ささと、心地よいアウェー感を満喫した気がしてならない。

崖の上の絶景に息を呑み、ありえない建築物にあきれながらも感心し、カート中毒のイエメン人に苦笑し、お祈りへ向かう列に顔の布を巻きなおした。
山岳地帯で、ごつごつの岩を指してガイドが「あの中に3つくらい部屋がある」と言った。
英語力不足ゆえの聞き間違いか、と思っていたらほんとうに岩の間から人が出てきて驚いた。
彼らはわたしたちと同じ地球上に住んでいるのに、
わたしたちのように自然を支配するのではなく、順応していた。
生活に合わせて自然を変えるのではなく、環境に合わせて生活をつくる。
そんな、ひとむかし(そう、「ひとむかし」なのだ)前までわたしたちが当たり前にやっていた、
原始的だけれども本質的な生活を、彼らはいまだに続けている。
ある意味で、それはほんとうに、2000年前から変わらない生活を。

しかしわたしはそのとき思ったのだ。
自然を支配し、思うが侭に発明や開発といった言葉で生活を変えていくわたしたちのほうが、
きっと彼らからしてみればよっぽど“宇宙人同然”なのではないか、と。
彼らを形容するのであればそれはきっと、「原始的」というよりは“最後の人類”なのだろう。

人間は、どこでだって、どんな状況になったって、とにかく生きていくことはできるのだ。
そして、喘ぎ苦しみながらではなく、幸福に生きようとする力があらかじめ備わっているのだと。

それが、わたしがイエメンで見た“強さ”だった。

<イエメン編、了>

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ユニセフイエメンのマサさんをはじめ、イエメンでお世話になった全ての方に感謝します。
Special thanks to Masa,and all of the Japanese&Yemeni Ive met while we stayed.

2010/01/06 01:19 | ■イエメン | No Comments
2009/12/28

地球の舳先から vol.150
イエメン編 vol.11

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とうとう最後の夜がやってきた。高地にも慣れたので、最上階の部屋に代える。スイート仕様でかわいらしい部屋。最終日はサナアの街を名残惜しみながら歩くことに。
まず一行は、マサさんの運転する子ベンツでサナアの少しだけ郊外へ。
かつてユダヤの大富豪が所有していたという、これまた崖の上にある村である。
今では人は住んでいない、ということなのだが、ヤギを連れた人たちが見えた。

ここへ行くときは要注意。ファティーマというおてんば娘がものすごいイタズラをしてくる。
最初は英語などで話しかけてきて可愛いものだったのだが、ガイド料をよこせとか言い始め、そこまでは普通(イエメンではあまりないけれど)なものの、断ってクルマに乗り込むとフロントガラスにダイブしてくる。
弟を応援で呼んで、2人でやりたい放題。汚い言葉で恐縮だが、久々に「くそがき」という単語を思い出した(苦笑)。
ファティーマとその弟を振り切って下山したわたしたちは、一路大統領モスクへ向かう。

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これが「大統領モスク」の外観だ。
中東にはよくありそうな光景だが、アラビアンナイトの雰囲気漂うサナアには場違いな巨大なモスクである。
相当な建設費がかかったらしいのだが、そのお金の出所は様々に噂されているという。
近隣のイスラム諸国との政治問題に絡んだこのモスク、住民からも評判が悪い。
まずは靴を脱ぎ、モスクの外にある下駄箱にしまう。すごい量の下駄箱なのだが、4万人が一度にお祈りができるキャパシティだという…

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モスクの入口まで、炎天下の中、熱せられた屋外の大理石の石畳を歩かねばならない。熱い。とにかく熱い。この記念撮影でわたしの顔が歪んでいるのはまさにそのせいである。
入口で手荷物検査をして、中へ。わたしは、文字通り言葉をうしなった。
写真の中の人間の大きさを見ていただければ、このスケールがわかると思う。
きらびやかなシャンデリア。大きなステンドグラスに、降り注ぐ陽光。
昔見た曼荼羅図の天国の絵のようである。
だだっ広い広間で人々はコーランを読んだり昼寝をしている人もいる。
「なんだこりゃ…」これが率直な感想だった。
マサさんもこの大統領モスクには初めて入ったそうで、「柔道場…?」と呟いていた。

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モスクを出ると、社長(現地の旅行代理店の社長がずっと付き添ってくれていたのだ)がカート禁断症状を起こしている。
カートを買いに行くことを「故郷へ行く」というようなジョークがイエメンにはあるらしいのだが、空ろな目でしきりに「マサ・ヴィレッヂに行きたい…」とうわごとを言っている。
これはヤバイ。というか、カートヤバイ。何が「常習性はない」だ。大嘘ではないか。
しょうがないので社長を放出し、カートを買いに行かせることにした。

ちなみにイスラム教徒でないわたしたちは、昼のお祈りの時間を避けて見学に行った。
昼のお祈りの時間は、近くの食堂で念願のラクダを食べた。臭みがあってあまりおいしくなかったが、人生経験ということで。
添乗員で2カ国以外全世界を旅している立花さんは、アフリカかどこかの奥地でカバを食べたらしい。カバに乗ったらしい。危険らしい。
「It’s so dangerous」と言ってしかめっ面で首を横に振る警備員に5ドルを渡すと、とたんににこにこして「Not so dangerous~♪」と乗せてくれたのだそうだ。
恐るべし、袖の下文化。イエメンの話ではない。

さて、カートをドーピングして元気になった社長と再び合流し、マーケットへ。
が、わたしは、僻地旅の経験から、あまりお土産には期待をしていない。
その地では魅力的に見えても、日本に持って帰ると「なんでこんなもの買ったんだろう」ということがとかく多いのだ。ある意味ディズニーランドマジックとも似ている。
今回は世界遺産のシバーム・ハドラマウト砂漠で拾った砂を星の砂よろしくお土産にすることにしていた。下手にあやしい食べ物やよくわからない小物よりも、こういう究極的に役に立たないもののほうが好きなんですが、迷惑ですか。
砂を入れる小瓶を10個買って、わたしの土産物は終了。ラクなもんである。
リツさんはしきりに絨毯を選んでいる。もちろん、日本で買うより異常に安い。

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右側が絨毯屋のおやじ。タイムスリップしたようであろう。
マーケットはこの日も断食明けのイード休みの名残で多くの店が閉まっていたのだが、ダダをこねて(わたしではなくリツさんが)開けてもらったのである。
そうこうしているうちに日も暮れ、わたしはわたしでいいものを発見した。

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暗くてわかりにくいが、「窓屋」である。窓枠を作っている工房だ。
この窓屋が、イエメンの芸術的ともいえる伝統的な窓枠の形を模した写真立てを、観光客向けに副業で作っているのである。
わたしはここで精巧にホンモノと同じ要領で作られ、ちょうつがいを開け閉めしてひらく窓の形のフォトフレームを買った。

夕食はマサさんのお友達の日本人(国連に勤めている方で、地雷除去プロジェクトをやっているそう)とともにとったあと、マサさんの提案で夜景を観に行くことに。
サナアに夜景が…?とすこし不思議だったのだが、完全に真っ暗な山をのぼって見下ろすサナアの夜はとてもきれいだった。もちろん、光量が少なめだから、星もキレイ。
崖の手前に車を止めて、車中で音楽をかけてデートをしているイエメン人もいる。
こうして最後の夜もフルスロットルで更けていったのだった。

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2009/12/28 11:46 | ■イエメン | No Comments

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