2008.07.15

■くらくらした。

地球の舳先から vol.65
番外編 

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飛びたい。
きっかけは、いろいろあった。

大切なひとが、パリに住んでいること
(っていうか帰ってきやしないこと怒)。
会社の同期(スイス育ち)が
「パリかニースあたりで療養してきなよ」
と言っていたこと。

で、写真のアパルトマンに予約を入れた。3週間分。
エールフランスで行きたかったけど25万円もかかるというので
7万円のCHINA AIRで妥協。
さすがに3倍もしちゃうと考慮の余地もなく、
そもそも飛行機なんか移動手段のものに金をかけるなら
現地で豪遊したい、と思うあたりがわたしはガイジン的思考らしいが。

セーヌ川のほとりで絵でも描いて 踊って過ごせば
なんだかいろいろ清算ができる気がした。

わたしの旅は、いつも唐突で でも立ってもいられないほどの
なにかこう 切羽詰った感じがあるわけで
「飛びたい」
そう言う頃はもう、末期だとわかりながら
自分のいろんな不器用さとか 逆に器用さを呪いながら
大事なものをあたりまえに大事に出来る人は ものすごく少ない

でも毎日 
パリの1区から15区までをひとつずつ歩きながら
すごすのも悪くない、とおもって
年末にひきつづき、バカンス時期で観光客以外は誰も居ないパリを

2008.07.08

■旅の終わりの、3日前。

地球の舳先から vol.64
番外編

旅が終わる3日前。
わたしは3つ目の財布をつくる。

1つ目は持ち歩くための、小額紙幣と小銭だけが入る、
つまりは襲われて強奪されてもそこまで影響力のない財布。
2つ目は隠し金。トラベラーズチェックもクレジットカードも毛嫌いするわたしには
滞在中の大金(なのである、わたしにとっては)を現金で一元管理する必要があるのだ。
3つ目は、あるときはみやげ物屋で買った封筒だったり、布袋であったり
はたまたスーツケースのサイドポケットだったりする。

3つ目の財布に、わたしは旅の終わりが近づくと小銭をため始める。
ユーロが統一通貨になってもなお、コインだけは万国万様。
1枚ずつ、すべての種類を貯めることに躍起になる。
もちろんコインには流通の頻度というものがあって、
つまりはレアキャラが存在する。
レアキャラがでてきたときの感慨は、Jリーグ開幕当初にJリーグチップスを買ったら
ラモスのカードが出て泣いた、あの感じである。
ああ、ラモスに感化されるなんて、なんて馬鹿だったんだろうあの頃のわたしは。

そうして、貯めた以外のコインは、使い物にならなくなる。
銀行や両替所で他国の貨幣に変えてもらえるのは紙幣だけで、
コインはその国を出てしまえばただの鉄とか銀とかのカタマリでしかなくなる。
だからその3つ目の財布にキープしたコインをのぞいて、
ぎりぎりまで使いきってから、最後に空港で両替所に向かう。

年始のパリへ行ったときのわたしも、そうだった。
ワインをしこたま買い込み、その重さにちょっとだけ後悔しながら
あまった最後の小銭で、機内で食べるブルーチーズと小さなワインのボトルを買った。
それでも計算を間違えて残った小銭は、シャルルドゴール空港でなら1ドルと少しで買える、
大好きなプロヴァンスのコスメティックブランド「ロクシタン」の石鹸に消えた。

今回の旅もうまくやりきったぜ、と自己満足にひたりながら、出発ゲートへ向かったとき。
1枚の絵葉書が、わたしの目を捉えた。
エッフェル塔もなければ凱旋門も、海に浮かぶモンサンミッシェルもない。
ただ、雑草のようにたなびく草の絵葉書だった。
なぜか、わたしはそれを、ひどくパリらしい、と思った。

帰国してから、パリの風景がテレビで流れると、それがパリだと言われなくても
ひどく懐かしい感じがして涙さえ出る、ホームシックならぬパリシックに陥った。
あの感覚と近く、ちっともパリらしくなんてない1枚の写真が、わたしの足を止めさせた。

「パリへ行って来るといい」
おフランスなんて、と敬遠していたわたしにそう言ってくれた人に手土産を買っていないことを思い出した。
なぜか素直に従って、年末年始の超繁忙期のチケットを取ってしまった自分も。
結局わたしはリュックのポケットの、いちばん奥(だってもう出さないと思ってたから)から
フィルムケースを取り出して、25と書かれたコインを払ってその絵葉書を買った。

おかげで、いままでありとあらゆる手を尽くしてコンプリートしてきたコイン集めは
フランスなどというすごくメジャーな国の「よくあるコイン」だけ、抜けている。
絵葉書は、売れなくなったセットものをバラにして売ってあったもので、そのなかでも
まったく人気のなさそうな図柄だけを買う日本人を、妙な目つきで店員も見ていた。
ふつう、パリなんかで買ったら絵葉書1枚で平気で1ユーロ(いまや160円以上)取ったりする。
つまりそいつは、店の人も疎むくらい、売れ残っていたのだ。

「パリへ行って来るといい」
と言ったひとは、これパリっぽくない、とわたしが絵葉書を見せて言うと
「ブローニュかぁ」と、映画の『アメリ』で話題になったパリのある有名な森の名を言った。
その後小一時間、「わたしは全盛はパリジェンヌなのよぅ」と主張するわたしと
「知らぬ間にアメリで風景を叩き込まれていたんだ」というその人で論議を交わした。
ロマンティック一直線に浸っていた自分を映画ミーハーみたいに言われて、
わたしは「女は合理主義だ」なんて嘘っぱちだっていうか間逆だと思ったおぼえがある。

あのとき泣く泣く取り出した25セント分のコイン。
決して同じ国を2度訪れない(そんなことするなら他の国を見てみたい)わたしの後ろ髪を
もう1年も、引っ張りつづけているのはやっぱり、
あのときコンプリートできなかったコインコレクターの意地と、
25セントを一蹴された愛憎なのである。

2008.06.13

■年金のない国

地球の舳先から vol.63

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グァテマラ旅行記 vol.2

「イヤッホウ」
くらいの勢いで、こうしてとにかくグァテマラ入りしたわたしは
バスへのって一路、アンティグアの街中へ入っていった。
この地でスペイン語を学ぶ日本人K氏とともだちになった。
彼は、中南米大縦断のため、まず物価の安いグァテマラでスペイン語を勉強していたのだ。
噴水公園のまえで話をする。彼いわく

「たまにキューバに住んでる人がここ来るんですけど、
 みんなユウさんみたくものすごい疲れた顔して、
 『観光には最高だけど住む国じゃない。ずっといると本当に疲れる』
 って言うんですよー」
とおっしゃる。そのとおりである。
わたしはキューバの表面的な部分だけを礼賛する村○龍をさんざんこきおろしていた。

そのとき、腰の曲がった老婆がいやな感じで近寄ってきた。
インドでもどこでも、この手の光景には飽き飽きしていた。
日本人と見れば、ぼったくろうとしたりお金や物を乞う。
もちろん彼らにとって日本人はその程度の存在でしかなく、
いくらわたしが「金持ち大国ニッポンのお嬢が道楽でバカンス、うふっ」
ていうのとは違うんだ、と思っていたところで、現地の人にしてみたらそんなに差はない。
わかってはいても、さみしさやむなしさを感じたりするし、
逆に観光地スレしていない国で子どもたちとかと接すると感動したりもする。

どちらにせよキューバにはない光景なので久しぶりの出来事。
無視を決め込むか、席を立つか、つたないスペイン語で断るか・・・
どうしようかなぁ、面倒くさいなぁ、と思ったときだった。
隣に座っていた友人K氏は、老婆が何か言う前にポケットから財布を出し、
小銭を老婆に渡したのだった。
わたしと会話を続けながら、さも当たり前のように。
その彼の「普通さ」が逆に不思議に映って、びっくりしたわたしに、彼は話し始める。

「グアテマラって、年金制度がないんですよ。
 だから、若いころに老後暮らせるだけの資金を貯められずに
 身寄りもないお年寄りは、野垂れ死ぬか、物乞い金乞いになるしかない。
 観光客の人ってみんなそういうの知らなくって、ただの物乞い、って思うんだけど。
 こっちでは、グァテマラ人もほとんどみんなあげるんですよ。」

なるほど。
見れば確かに、現地の人もすくない小銭だがなんらかのものを渡している。
しかし世の中には年金なんてない国の方が多かろう。
そこで老人を見捨てずに、国内外の多くの人が見ず知らずの人間にお金を渡すのは
国民性なのか、それとも明日は我が身という共同意識の潜在なのか…。

近所のスポーツバーで外国産ビールに揚げ物メニューに感動し、わたしは宿へ。
地下一階に掘られた一室は、とてもきれいだが電気を消すと夜目もきかないほど暗い。
そんなとき。
ブチッ、と音がして部屋中の電気が切れた。
わたしはパニックである。かばんの位置も全くわからず、匍匐前進だ。
オーナーの老婆がろうそくを持って入ってきてくれたのに、あまりの老衰加減に
オバケに見えてしまい(失礼)、また「ぎゃっ」となる。

ああ、せっかくの資本主義のはずが、キューバで数日に1回は悩まされる停電
(というよりも節電のために定期的に地区ごとに停電をかます陰謀である)を
ここで経験するとは・・・
ちなみにわたしがキューバへ行ってはじめて覚えたスペイン語は
「Se fue la luz」(光がいっちゃった=停電)。

2008.06.03

■資本主義グアテマラへ

地球の舳先から vol.62

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グァテマラ旅行記 vol.1

南米大陸は、遠い。
日本から直行便がほぼないので、心理的にも遠い。
アメリカを通らなければならないというのも、政治的に遠い(私の場合)。
だから、キューバにいるうちに、近隣の中南米国を旅することにしていた。
それは単に旅がしたいというよりは、モノとか食べ物とかがたくさんなくてもいいから
選択肢のある国へ逃げたい、という衝動も含まれていたと思う。

キューバにいたころ、よくすすめられたのがグァテマラだった。
偶然知り合ったグァテマラ在住日本人の方の存在もあり、
わたしはグァテマラ&ベリーズに行ってくることにした。
情報はない。ハバナ大学でみつけた日本人から地球の歩き方を借りる。

そしてわたしの逃亡は始まった。
けだるいキューバの空気。どこまでも続く舗装された道路と、
至る所にある政治的な落書きとチェ・ゲバラの似顔絵。
その光景に慣れきっていたわたしは、予想できたこととはいえ
グァテマラの地に降り立って「おお」「おお」「おお」ばかり連発していた。

バーガーキング。マクドナルド。サブウェイ。ダンキンドーナツ。
トヨタ。アルファロメオ。ディオール。
すべてキューバにはあるわけないものだ。
「資本主義や~!」と、バーガーキングのワッパーセット片手に叫ぶ。
挙動不審にきょろきょろしながら歩くので、階段から落ちたりして、また生傷。
ちなみにわたしがワッパーの次に買ったものは、
キューバでは物価高騰で1箱3ドルまで値上がりしたマルボロだった。

空港近くのタクシー乗り場でうろうろしていると、
私の胸の高さくらいの黒人の男の子たちが
靴磨きの道具を持って、しきりに男性に声をかけている。
素手でクリームを塗るその掌は、手の甲よりも数段黒い。
ぴかぴかに靴を磨き終えるとコインをもらい、
また靴台と道具を下げて休む暇もなく別の人の足元に早足で寄っていく。

キューバじゃ子供は働けないからなあ…と、
もの珍しいものでも見るように、しげしげ眺めてしまう。
しかし子供たちには不思議と暗さはなく、働くことが当たり前だと言わんばかりだ。
チップを多めにもらった、と嬉しそうに他の子供に自慢している。
大人もろくに働かない国と、子どもも働かなければいけない国。
ほんとうに豊かなのは、いったいどっちなんだろうか・・・

わたしはそのままタクシーをつかまえ、先に値段を聞くことを忘れずに
アンティグアという大きめの街へと向かった。
中南米の、いかにもいなかくさいという根拠のないイメージとはかけ離れた空港周辺の景色は
しだいに変わっていく。でも、田舎ではない。こじんまりした、コロニカルな風景が続く。

つづく

2008.05.30

■宿敵は言葉です

地球の舳先から vol.61
番外編

わたしには、こらえ性というものがない。
先日、仲良くしていただいている制作プロダクションの社長が
「“石の上にも3年”って、3年も座ってたらカビが生えるわ!」
と豪語していたのだが、わたしもそう思う。(思うな)

飽きっぽいのを正当化するつもりはなく、わたしはダメ学生だった。

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中学の時に挑戦したNHKイタリア語講座。
思えば受験英語からの現実逃避だったのだが、最初は鬼のように頑張った。
が、3か月でジローラモの濃い顔に飽きる。

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高校の時にはペトロヴィッチという当時浦和レッズの選手に憧れ、
1種類しかなかったセルビア語の教科書を買ってかじる。
結論:「やっぱりアルファベットの言語にしよう」。

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大学の第二外国語はフランス語を選択。
「ムッシュ」のスペルを100回書いたけど覚えられず諦めるものの
最後の学年まで単位を落とし続け、先生をたぶらかして無事卒業

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キューバ帰りで自信満々でスペイン語の授業に出たら
マドリッドがぶれの先生に「お前が喋ってるのは全部スラングだ!」と言われ
魔物のように日本語ぺらぺらのスペイン人にいじめられ登校拒否に

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韓国企業でアルバイトしていた1年間を経て韓国語に興味を持つも、
先生が面白すぎて笑いすぎて腸ねん転になりそうになって辞めた
健康第一。

旅をするにあたって、日本語とジェスチャーで何も困らないことを知ったが、
「ハロー」「ボンジュール」と、カタカナ英語ながらもその国の言葉で挨拶をすると
それだけで相手の機嫌がよくなるので、挨拶大魔王のごとく挨拶をする。

パリへ行った時も、
「ハロー、ホエア イズ ヒア?(ここはどこですか)」と言うのと
「ボンジュール、ホエア イズ ヒア?」と言うのでは大きな違いで
彼らは、なんだこの日本人、と苦笑しながらも、親身になってくれるのである
こうして旅の処世術を覚えていった。

そもそも初めて海外へ出たときにアメリカで
「ウオータープリーズ」と言って「ああん?!」とおばちゃんに凄まれてからというもの
わたしは、自分の語学力というのを信じたことがない。

ところが、これがひっくり返される、
しかしあまり嬉しくはない体験を、北朝鮮でした。
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北朝鮮の雰囲気にも慣れ、人民軍兵士を紹介されたときのこと。
「アンニョンハシムニカ」と言ったわたしに、彼は目を見開き、
途端に警戒を含んだ眼差しでわたしの隣にいたガイドになにごとか話しかけたのだ。
あまりに突如として消えた笑顔にびびりまくるわたしに、ガイドが笑って言った。

「在日の同胞ですか、と聞かれています」

・・・。

・・・同志!!!

・・・違うて。

そのくらい、わたしの「アンニョンハシムニカ」の発音は
めちゃくちゃナチュラルらしい。
1年間、韓国語飛び交う新宿の韓国企業でアルバイトしていた功績か。

それにしても・・・。

喜んでよいものか。

2008.05.16

■キューバ日記

地球の舳先から vol.60
キューバ居住編 vol.1

昨日、得意先のところへ行ったら、恐ろしいことを言われた。
「こないだ深夜にユウさんの名前をネットで検索してたら、キューバ日記が出てきたよ。」
腹をかかえて笑ってくれたらしい。それはどうも。

わたしの原点ともなっているのだが、19歳の頃、キューバに住んでいた。
1日15時間くらい、踊っていた。はじめてのひとりぐらしだった。
キューバがものすごく好きで、でも、村上龍の書くようなキューバは笑っちゃうほど勘違いで、
この国にはなにかがあって、圧倒的になにかが足りない、とおもった。

結果、わたしはキューバが一時期、大嫌いになって帰国した。
いま、その気持ちは完全に薄れ、週末には踊りにも行く。
それは「いまならあのときなんでああ思ったのかがわかる」という類の感情ではなく
わたしはいまも、かの国がわからない。
今日からは少しずつ、このコラムにもキューバの話を織り交ぜていこうと思う。
いまでもわからない、この違和感を見直すためにも。

これは、私が2004年の滞在時に、Mixiにて公開していた日記のデータベースである。
その後、お蔵入りをさせていたのだが、当時のボックスを今、ひもといてみることにする。
いまより幼いのは、わたしがいまより5歳若かったからだと思ってほしい。笑

  *  *  *

cuba■滞在先発見! 2004年4月28日

というわけで、おうちが見つかりました。大学まで2~3分です。
民宿は奥の間がいい、という鉄則がありますが、
出かけるのに気兼ねしなくてよいので私はドアからすぐのお部屋にしました。
オーナーは独身のおっちゃんです。
「そんな危ない!」と言われそうですが、このおっちゃん、あっちなのです。
つーわけで彼の恋人(男)と、半同棲してるわけです。
(どうでもいいけど今年のあたしはゲイに縁がある気がする…)
さすがキューバ、愛の国です。

もうおじいちゃんに近いようなおっちゃんなのに、2人ともとても楽しそうに暮らしてます。
ごはんも(異常に美味い)洗濯も掃除も、このおっちゃんがトランクス1丁でやってくれるわけです(笑)
キューバでは1世帯につき2部屋までしか貸してはいけないのですが、
もう1部屋には日本人のお姉さんが今住んでます!
大阪でスタジオも持っているプロのダンサーさんで、
ちょくちょく帰国しながら、もうキューバには3年いるそう。
民家の1部屋というよりは、全部の部屋が廊下沿いにあるので、アパートに近い感じです。

さて、さっき「愛の国」と書きましたが、この国は本当にフリーセックスならぬフリーラブの国です。
そしてナンパ大国です。
「きみがキューバで一番きれいだよ」という意味の「1語の」単語があるくらいです。
マチスモ(男性優位主義)が根付いているせいなのですが、
レベルがレディーファーストの域を超えています。
道は空けてくれるし、信号赤でも車のほうが止まるし。
暑いとあおいでくれるし。花とかピザとかくれるし。
しかし油断すると10分後には「結婚してくれ」の決め台詞がやってくるので
適当にあしらわねばなりません。

どうりで日本で旅行代理店の人が二言目には「結婚してこないでね…」と言ってたわけだ。
まあそんなこんなですが、映画のラブシーンのような、
思わず見とれてしまうような恋人同士の情景に朝から出くわします。
なんか、見てるこっちが恥ずかしくなるのを通り越して、見てるこっちが幸せになります。
この国の恋人たちって、本当に世界で一番私が幸せ! って顔してるんですよね~、みんな。
その割に熱しやすく冷めやすいのでしょうか? 3回離婚は当たり前というし。
前の奥さんと今の奥さんと、その子供たちが同居してる…なんて複雑な関係もよくある話。
また言葉の話を持ち出しておくと、この国では「恋人」と「奥さん」はおんなじ単語だったりします。

キューバではまだまだ、国民のインターネットは禁止されています。
というわけで私もホテル・ナシオナルという高級ホテルの中にあるビジネスセンターから繋いでいます。

  *  *  *

2008.05.02

■「キューバ リョウリガ タベタイデスカ?」

地球の舳先から vol.59

番外編

旅や海外生活を、豊かにも荒んだ感じにもするもの。
それが食べ物である。
私は美食家とはほど遠く、だいたいなんでも食べる。
目の前に出されたものにケチをつけたりとか、
うまいだのまずいだのということで騒ぐ人種ではない。
・・・と、思っていた。かの国、キューバへ行くまでは。

キューバの朝。
のどがかわいたと言えば透明で水にしか見えないラム酒をなみなみ注がれ
配給のコメに大量に混じっている豆をよりわけてキューバの一般家庭の一日は始まる。
食卓に並ぶのは、来る日も来る日も炭水化物ばかり。
コメ、豆、イモ、豆、キャツサバ、豆。
配給のパンは、この世のものとは思えないほどかたいときがある。(いいときもある。)

中でも最強なのは、「Congris」という、キューバの伝統的な料理だ。
見た目は、赤飯の豆がでかい版。これが……まずい。
なんというか、味がまずいのである。なんとも形容しがたい、妙な味。

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こいつがコングリだ

「えぇー、おいしいよー!」一週間で帰っていく観光客のなかには、そう言う人もいる。
が! これを3食、半年間食べてみよ。
留学生仲間で外食するときはかならず、こんな会話が交わされる。
「何食べよっか?(そんなに選択肢ないけどね)」
「うーん、コングリだけはヤダ」

加えて町へ出れば、ヒネテーロと呼ばれる「ヒモ志望」にかならずつかまる。
ヒネテーロというのは、外国人をつかまえてヒモになろうとする不届き者たちだ。
滞在中、相手のカネでデートで贅沢ができるし、あわよくば結婚して脱国、を夢見る。
実際、キューバ人と恋に落ちて婚約し、手をつないで帰国する日本人も多い。
まあ彼らは信じられないくらいマメだし、尽くすし、優しくて情熱的なラテン人なんだけど。
わたしも帰国時、キューバに詳しい旅行代理店のお兄さんにしみじみと
「よくひとりで帰ってこられたね。」と言われたものだ。

キューバにはまじめに仕事をしていない人がいっぱいいたりもするので
(実質、働かなくても食うに困らない国だから)
朝、昼、夜を問わず、ヒネテーロたちは目を光らせている。
スキあらば、いや、スキがあるかどうかなんて関係なく、からんでくる。
北野武が流行っていて、道で「アニキ」「ヤクザ」と声をかけられるのも日常茶飯事。
「コンニチハ」「キレイデスネ」 等々はまだかわいいもの。
「アイスクリーム ガ タベタイデスカ?」
「キューバ オンガク ガ キキタイデスカ?」
と、自分がしたいことをストレートに「おごれ」と暗に言う誘い方もある。

この手のヒネテーロをわたしは無視し続けていたのだが、
ある日、ほんとうにびっくりして思いっきり振り返ったことがある。
彼はこう言ったのだ。
「キューバ リョウリ ガ タベタイデスカ?」

折しもわたしはそのとき、7キロ痩せたのは栄養失調に違いないと妄想し
ドルと現地兌換通貨のペソを握りしめ、肉魚を求めて
ふらつく炎天下のなか市場から市場をハシゴしていたとき。
こんなに海が近くなのに、魚は高級レストランへ流れていく。
「コングリなんか、もう食べたくないよ!」
ヒネテーロに結構本気で怒るわたしは、真剣に涙目。
 
「航空便」であるはずの国際郵便・EMSが2か月かかって日本から運んできた荷の中に
佃煮が入っていた。キューバのコメと一緒に炊いたときのあの感動は、忘れない。

2008.04.09

■「パスポートをお預かりします。」

地球の舳先から vol.59

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番外編

ギャンブルな旅などしていない、と言ったところでどのくらいの人が信じてくれるかは微妙だが。
わたしが最も憤った事件は、さきのイラク人質事件である。
裏の事情や陰謀説は無視して考えるが、国家に迷惑をかける行為など言語道断。
あんなものに、勇気も信念もあったもんじゃない。
わたしも微妙な国には出入りしているが、紛争地帯にはいかないし、
現地の情報収集、そして実際に現地で行動を共にしてくれるガードマン代わりも用意する。
綿密に調べあげてみれば、(あくまで「今の」)北朝鮮なんて、観光にうってつけの国だという意外な事実がわかったりも、するのである。

ただ。
旅先でギャンブルな選択を要求されることは、多々ある。
「危険」という意味ではなく、「賭け」だ。
最たるものが、北朝鮮でのこの、タイトルの一言だった。
旅行体験記からも代理店の人の話からも、そういう対応をされるということはわかっていた。
飛行機が着陸し、ひとつ線を超えると、携帯電話の電波が圏外になった。
「世界でつながる、日本で圏外」のVodafoneが電波を失った国は、経験上ここだけだ。
観念し、電源を落とし、入管をびくびくしながら抜けると、約束通り現地のガイドが待っていた。
(北朝鮮では、現地ガイド+監視ガイド+専用運転手+専用車を入国前に手配し
北朝鮮の大使館に事前に報告をしなければ観光ビザの申請ができない。)

ほかに日本人などいるわけもなく、例にもよってマナーも品格もない中国人にまみれた私を
まったく難なく見つけると、出迎え用のチマチョゴリを着た女性のガイドは、にっこりと笑いかけてきた。
「ようこそ朝鮮へ。パスポートをお預かりします」
こうなることは、はじめからわかっていたし、入国した時点で完全にアウェーである。
何をされても文句は言えないし、何をされる可能性もある。
しかしそれでも、パスポートという、旅行中は命と同じくらいの価値をもつものを旅先で手放すことは
命を預けることと同じである。
しかも北朝鮮の旅行者に対する公式な外交官である相手にというのは
かなりな覚悟がいる行為だった。
実際、わたしの友達のバックパッカーも「それがあるから北朝鮮に行くのはやめた」と言っていた。

「よろしくどうぞ……」
手渡すと彼女は丁寧にきんちゃく袋のなかに入れ、かばんの奥底にしまった。
もちろん、返してくれたからわたしはいまこんなところでこんな文章などを書いているのだけれど。
ひと昔前の日本のパスポートには、「このパスポートは北朝鮮以外の国で有効」の文字があった。
そんな時代ではない。
けれどいまだに、国交はない。
でも街で一番のホテルには日本資本が入っていて、ホテルのテレビにはNHK-BSが映り、
日本の廃棄自転車は日々北朝鮮に送られている。

脅したいわけではない。何度も言うが、「ルール」さえ守れば、
常時3人のガードマンがついているのと同じなので、興味深い旅になる。
宿泊の部屋の両隣には滞在の間じゅうガイドが泊まっているし、
許可なくどこかへ行ったり夜にホテルから一歩出れば「スパイ罪」である。
そんな国もあるのだ。

こんな国もあるのだ、
あのときのわたしも、そう思った。
信用したから渡したわけじゃない。
パスポートを渡すリスクと、北朝鮮に行かないことを天秤にかけたわけでもない。
彼らには彼らのルールがあり、わたしは踏み絵を踏んだのだ。

だから、「賭け」であったことには変わりない。
でも、旅における「賭け」なんてね、とも思う。
わたしが北朝鮮にパスポートを渡してなんらかの事情により帰れなくなる可能性と、
モンゴルで馬に乗っていて頭から落ちて死ぬ可能性と、
どっちが高いかなんて、わからないのだから。

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2008.04.04

■ウマと会話をする

地球の舳先から vol.58

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モンゴル旅行記 vol.3(全5回)

かくして到着したのは、ゲルが10棟のほかには遠くを見渡しても
視界になにひとつ入ってこない地の果てだった。
視界が開けすぎて、地平線が湾曲して見える。

馬を普通に乗りこなす現地ガイドにゲルを案内された。
しろつめくさのような花を踏みながら、ゲルに入る。
中の壁がオレンジを基調とした派手な絵柄で塗りたくられ、
中央には薪を燃やす暖炉と、煙を吸い上げて外へ出す煙突が下がっている。
相部屋のゲルに、4つの木彫りのベッド。
手をひろげたくらいあるクモが、屋根の梁のところでじっとしていた。

簡易的につくられた食堂らしきところで、朝食をとる。
小さい肉まんのようなものが、ほぼ毎日出た。
肉はだいたいラムなので、苦手な人にはキツかったことだろう。

そしてついに、わたしの乗るウマを現地の人がつれてきた。
自身もウマに乗りながら、10頭以上のウマを引いている。
3人兄弟のようで、3人で大量のウマをどこからか走らせてきている。
いちばん下の男の子は、10歳に満たないようだがウマを当然乗りこなす。

日本語も英語も通じないのだが、妙にコミュニケーションがとれるから不思議だ。
いやに元気そうなウマもいて、ここでふいに不安になった私はお兄さんに
「暴れないやつにしてね(←もちろん日本語)」と言うと、
お兄さんはいちばんうしろでぼけっとしていたウマを連れてきてくれた。
目が眠そうである。たしかに暴れはしなさそうだが、ちゃんと走るのかコイツ。
ついでに、ここにきてふと、傷害保険に入ってこなかったことに気がついた。
こけるわけにはいかない。

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よいしょ、と乗るが、ウマの背が低いので、高さの恐怖はない。
しかし予想以上に、つかまるところがないバランスのとりにくさがすごい。
これは腹筋が鍛えられそうだ。
ぽっくぽっくと歩くウマに乗って、道なき道を進み始めた。
20人くらいをいちどに面倒見なくてはならないお兄さんは、すでにわたしとトロいウマのことなど放置である。
取り残されたわたしは、どうやったらウマが走ってくれるのか、方向を変えてくれるのかもよくわからず、ウマが走りたい時に走り、草を食べたい時に食べるのに付き合うがまま。
右手側の手綱を引っ張ったら右に曲がってくれると聞いていたのだが、ウマはふと立ち止まって首だけでわたしを振り向いただけである。

これは…。トロいのではなく、完全になめられている。

しかしやたらに走られるほうが困るので、あまり何も考えずまかせることにした。
一定のペースで揺られながら、緑と山の起伏と雲の影だけを見ていた。
もとは、曲がり角や道なんかじゃなくて、こうしたひとつの「地」だったのだろうと感じる。
アフリカの人の視力が6.0あるとかいう話も、嘘ではないと思えた。

突然、ウマが小走りになった。焦るわたし。なんだ。エサでもみつけたのか。
ウマはじょじょにペースを落とし、今度は静かに立ち止まる。
ぶるるん、とくしゃみのような鼻息を鳴らして、また首だけでわたしを振り返る。

これは…。ウマに気を使われているのか?!

「あ、大丈夫です。(←もちろん日本語)」と話しかけ、振り向いたウマの首のあたりをぽんぽん叩くと、ウマはふたたびさっきと同じ小走りスピードで走りはじめた。
そして、さらに加速する。ちょっと怖いが、自分の姿勢すら保てば平気なようだ。
ウマはまたスピードダウンして立ち止まり、振り返る。「大丈夫です」と返すわたし。
こうしてウマがスピードアップしていくうちに、置いて行かれた集団に追いついた。

これは…なんて頭の良いウマなのか!!

生まれてはじめて、ウマと会話をしたわたしは、なにか自分の小ささを思いながら
しかしやっぱりどこを目指しているのかわからないままにウマに乗せられて走った。

つづく

2008.03.19

■小泉首相とウマ

地球の舳先から vol.57

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モンゴル旅行記 vol.2(全5回)

羽田から発つわたしの乗る飛行機が、1週間前にビジネスクラスに格上げとなった。
なんでも、予約していた首都ウランバートルで一番いいホテルが急遽取れなくなり、
1ランク下のホテルになってしまったので、それのお詫びですということだった。
「ちょっと事情が」を繰り返す旅行代理店スタッフは電話口でしつこいくらい平謝りだったが、
ホテルなんて、刺す虫が出なくて窓にガラスがはまってりゃいいのだ(案外このハードルが高い)。
むしろ、ビジネスクラスに乗れるほうが嬉しかった。

出発前は当然知らされないこの「ちょっとした事情」を、出発日にわたしは知ることになる。
新聞の紙面を飾ったそのニュースは、「小泉首相ウランバートルへ」。
当時首相だった小泉氏の電撃訪問。
当然、首相様とその御一行に、「ウランバートルで一番いいホテル」は占拠されたのだ。
そりゃ、しかたない。

なんだか、胡錦濤中国国家主席と同じ日に北朝鮮入りしたり、
小泉当時首相と同じ日にモンゴル入りしたりと、わたしの旅はいつも政治くさい。
生まれてはじめてビジネスクラスに乗ったわたしは、空港からそわそわそわそわ。
180度に倒れるドーム型の座席に、ちゃんとカラフェで出てくるワイン。
しかし高級すぎるおかげで、いつもエコノミーで出されるちいさな瓶の白ワインを1本
くすねてくるという蛮行はこの日は身を隠すことになった。
手元のボタンで背中や足の高さを調節し、あとは爆睡あるのみ。

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晩に着いて1泊し、ウランバートルを出発した。
モンゴルといえど、都会なところは都会なもの。
いきなり空と草原とゲルしかない、というわけではないのだ、もちろん。
バスに乗って、だんだんと首都を離れてゆく。
だんだんと建物がなくなり、ついに視界をふさぐものがなにもなくなる。
たまに建ったゲルがお土産物屋になっていたりするが、それも明日にはここにはないかもしれない。

草原のなかに、石の積み上げられた小さな山を発見した。
地元の人々か、ジェスチャーで、その小山に石を投げろと言っている。
石を投げて、その小山のまわりを何回か回る。
どうやら、なにか旅の安全祈願的なならわしらしい、と雰囲気だけで知る。

鞍もつけていない馬を、まだすごく小さな男の子が後ろに妹を乗せて操る。
カメラを構えると、照れくさそうに、でも離れた所にいる友達を嬉しそうに呼び、
一緒に写真におさまった。
ちなみにモンゴルで移動に使われている馬は、競走馬のような外見ではない。
背丈はおとなの男性が立ったのと同じかすこし小さいくらいのもので、足もごつごつして短い。
そう、「馬」というよりも「ウマ」という感じだ。

のちに、このウマだからこそ乗っても安定感があって怖くないことを知るのだが、
競走馬のような馬に乗ると勝手に妄想を膨らませていたわたしは
長い足にも長い首にも切れ目にもさらさらのたてがみ(?)にも程遠いウマ達を見て
ちょっぴりガッカリした。失礼な話である。

つづく

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