
小さいころから、選ぶことに自覚的に生きてきた。
そして、選ばないことで切り棄ててしまう多くのものを、出来るだけ覚えておきたかった。
覚えている限り、人生で一番最初の選択は幼稚園の時だったと思う。
両親が離婚したとき、二人は僕に「どっちと一緒に暮らしたい?」と聞いた。僕は父さんについていくことを選んだ。父さんについていけばお金の苦労はしなくて済むと、誰かに吹き込まれたからかもしれない。母さんは僕の返事を聴いて、悲しそうに「そう」と言った。
何かを棄てた、あれが最初の瞬間だった。
父さんとの暮らしは思ったより悪くなかった。お小遣いは多すぎるくらいくれたし、僕は勝手に部活や塾に行き、それはそれで満足できた。家事だけは面倒だったけど、家庭科の授業をやってからは料理もできるようになったし、ジャージが乾かないなんて厭だったから洗濯もした。そんな僕に父さんは感謝し、そしてすまなそうな顔をした。お酒を飲んでいるときに、「ごめんな」なんて謝ったり。そんな姿を見てしまうと、僕はなんとも言えない気持ちになった。
謝るくらいなら離婚なんかしなきやよかったんだよ、父さん。
自分が選んだことなんだから、それぐらいの後悔は覚悟しなきゃいけなかったんだよ、きっと。
僕みたいな子供が「生きる」なんていうと、みんなきっと笑うかもしれない。何考えてるんだって、笑うかも。でもまあ、それは仕方ない。万人に理解される言葉なんてないし、伝わる真実なんてありえないって思うし。もしそれが可能なら戦争だって起こるわけないし、両親は離婚なんてしなくて済んだし、僕も勝手にこんな自分のルールをつくる必要なんて、きっとなかったんだ。
僕は父さんを恨んではいない。母さんのことも、もちろん僕に何か影響を与えたすべてのものも。でも、時々無性に叫び出したいときがある。あれは間違いなんだって、全部投げ出して逃げたくなる。あの日、もし僕が母さんと暮らすことを選んでいたら。父さんと母さんが離婚しなかったら。僕が生まれてなかったら?
毎日は「もし」ばっかりだ。
でもどこにも逃げるところなんてないから、全部自分で選んできた結果なんだから、僕は学校へ行って勉強し、塾や習い事にも通い続ける。自分が棄ててきたものはたかがしれているけれど、それでも、あの日の母さんの顔を思い出すと、少しだけ鳩尾が痛くなる。
選ぶこと。選ぶことで棄てていくものを覚えていくこと。
後悔しないで生きていくって、たぶん本当に難しい。
でも僕はそうしていきたいって思ってる。自分で自分に責任を取るって、きっとこういうことだと思うんだ。
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花言葉:不安を鎮める
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

昔からコンプレックスだったのよ、と彼女は投げやりに言って、ベッドサイドの煙草に手を伸ばした。気だるさを隠そうともせず、別段俺がいてもいなくても構わないような感じだった。
「痣、っていうか、シミっていうかね。服着ちゃえば目立たないけど」
ふう、とため息の代わりのように吐いた煙が安っぽい蛍光灯の明かりの中にゆらゆらと吸い込まれていく。こんな匂いにももうすっかり慣れてしまった。俺は煙草を吸わないし、めったに人の出入りはないから、部屋に帰ると非常にクリーンな匂いがする。彼女は違う。雑踏の中でも、ホテルの中でも、彼女はいつもかったるそうな煙草のにおいに包まれて俺の前に立っている。
彼女の背には大きな痣がある。
肩甲骨の下から縦に伸びた痣は彼女が身じろぐたびに少しずつ形を変えた。沼のように重たく襞を寄せることもあれば、さらさらと乾いた砂のように薄く上下することもある。
共同で参画していた大きなプロジェクトの打ち上げ後、俺は最高に酔っ払っていて、最後まで付き合ってくれた彼女を酔いに任せて抱いてしまった。後悔したのは翌朝だ。ホテルの名前が入った真っ白なシーツの上に残った赤と呼ぶには重たいしるし。頭を抱えた俺に、「気にしないで」と彼女はうすく笑った。
「別に大事にしてたわけじゃないから。この年でなんでって思うかもしれないけど」
「……でも、」
「いいの。きっかけがなかっただけなの」
でも俺は負い目を感じずにはいられなかった。別に彼女顔をされたわけでもなかったけど、なんとなく申し訳なさが先に立ち、俺は率先してデートに誘った。学生の頃のように「好きです」「付き合ってください」的な手続きを経由せずに結果を手にしてしまったことが、どこかひどく不実に感じられた。
「気にしなくたっていいのに。わたしじゃなくて、可愛い子と遊べばいいのに」
「そんなわけにいかないだろ」
「いいひとだよね、あなた」
彼女はそこまで言って言葉をきり、何かを飲みこむような顔で俺の髪をなでた。短い毛に余った指が首筋をひやりと滑り、俺はうつぶせたまま彼女の背中を盗み見た。俺しか知らない彼女の痣。気にするほどではないけれど、きっと彼女にとっては大きな意味のある痣が、ゆっくりと伸びていくのを俺はなんとなく目で追っていた。
「ありがとう」
首筋を辿っていた指が不意に離れ、かちりとライターの音がする。
煙草のにおいに包まれながら、俺はまだゆらゆら揺れる痣を見ている。
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花言葉:控え目な美
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

東京じゃ久しぶりに雪が降った日、あたしは彼と別れた。
出来るだけ湿っぽくならないように、格好良く別れ話ができるように、普段よりも濃い目に化粧していつもよりもカチッとした服なんか着て会いに行ったのに、涙なんか一滴も出る暇はなかった。話を聞いた彼は、ああそう、じゃあ、と退屈そうに席を立ち、あたしは茫然としてその背中を見送った。ドラマティックなのは、ただ彼の背中に雪が降っていることだけだった。
あたしにとって、彼は出会った瞬間から「孤独な完璧主義者」だった。
少なくとも、あたしにそう感じさせる何かを彼は全身に纏っていた。それをオーラというなら、そうなのかもしれない。みんなが楽しそうに談笑しているというのに、その輪に加わらず一人でお酒を飲んでいる彼に話しかけてしまったのは、寂しそうだったからでなくわざわざそうしているように見えたからだ。
そのときから、あたしの目には何らかのフィルターがかかっていたんだろう。勤めていた会社を辞めてからフリーで食べてる、っていうのも自立してるみたいで素敵だと思ってたし、実際はフリーで食べてるわけじゃなくてただ小遣い稼ぎ程度の仕事しかしてないって知った時も、あたしはますます彼を尊敬した。
「おれはつまんねえ仕事はしたくねえんだよ」
そんなことをベッドの中で言われた日には、あたしはまったく痺れてしまった。そしてあたしがお金稼ぐから、あなたはやりたい仕事だけやって、とつまらないことまで口走った。我ながら馬鹿だと思う。そもそも彼は孤独を愛している訳じゃなく単に周囲とコミュニケーションをとるのが下手なだけだったし、つまるつまらないの問題でなく仕事の発注数自体が少ないってことに、こんなになるまで気づかなかったんだから。
「しみったれた人生なんておれは厭だね。いつか絶対認められるんだ」
あたしが稼いだ生活費を使いながら、彼はその言葉を実現するための努力など彼はしなかったのに。でもあたしは彼みたいな才能のある男が傍にいてくれるだけで有頂天だったし、幸せだった。嘘だってよかった。だってあたしだって、彼に嘘をついていた。
あたしは彼のことなんか別に好きじゃなかったんだ、と冷めてしまったカフェオレを飲みながら気づいた。彼は才能もなかったんだと思うし、そもそも才能があったとして発揮するための準備を全然しなかったし、働くことを軽蔑するくせにお金は大好きだったんだから。あたしの渡してきたお金は全部パチスロに消え、そして今、わたしの貯金はゼロになってしまった。お金が消えれば夢も消える。愛して支えて尽くしたいと思ってきたのに、別れ話は5分もかからずに終わってしまった。
あたしは伝票をつかんで、外を見た。
雪だけが何も変わらず、ただ町を白く白く埋め尽くしていた。
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花言葉:純潔
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

これは中年になって初めて気づいた、彼女との思い出の話だ。
最初は、向こうから声をかけてきたのだった。
噂じゃ女からのナンパなんて珍しくなくなっている、と聞いたことはあったけど俺には衝撃的な出来事で、だから声をかけてきた彼女の顔をまじまじと見てしまった。全然美人ではなかったしちっともタイプじゃなかった。そしてすくなくとも、俺より5歳は年上に見えた。
「びっくりしたでしょ。でも期待しないで、別に襲ったりしないから」
彼女はいかにも年上らしく、そんなことを言って軽く笑った。キャリア、って言葉を絵にかいたような身綺麗な服を着て、高そうな香水のにおいがしていた。だからだろうか。俺は断ろうとすればできたのに、気が付いたらなぜか居酒屋で一緒に飲んでいた。俺が未成年であることを彼女は知っていたと思うけど、ビールを呷っていても説教臭いことは何一つ言わなかった。
「今、君たちの世代って何がはやっているの?」
彼女は若い大学生に関するマーケティングの仕事をしているとかで、飲み飽きて煙草を吸う俺にくだらないことばかり聞いた。そして、帰りがけに取材費だと言って一万円を俺の手にねじこんだ。
次からは俺から連絡を取って会うことにした。
大学生って何をするにも金がかかる時期なのかもしれない。彼女とデートする費用だって殆ど俺が出していたし、遊ぶにも旅行するにも金はやっぱり必要で、しかも彼女にはそれなりにプレゼントだって贈らなくちゃならなかったから、バイトと仕送りだけじゃすぐ足りなくなる。だから俺がメールするのはいつも月末、彼女は呼べば必ずやってきた。もっとも、指定された時間は結構夜遅いことが多かったけど。
「それで、今度はどこに行くのよ?」
財布から金を出しながら、彼女は口の端に笑みを浮かべてそんなことばかり知りたがった。誰といくのか、は聞かれなかった。彼女がいることを隠すつもりはなかったけど、聞かれなかったから黙っていた。別に言いふらすほどのことじゃないし、彼女は仕事の一環で俺と会っているのだから、その方がビジネスライクでいいかと思ったのだ。彼女は最初に口にした言葉通り俺をホテルに誘うこともなかったし、終電で必ず帰って行った。これでなかなか忙しいのよ、と笑いながら。反対側のホームで見送った背中は、会っているときの明るい印象よりきびきびとして見えた。
確かに忙しいのかもしれない、と俺は思った。
大学卒業を控えた2月、就職が決まったから、と報告すると、彼女は一瞬目を見開いて俺を見、それからゆっくりと「おめでとう」と言った。正直に言うと俺はすこし残念でもあった。ただ一時間かそこら会話するだけで金になる、こんなうまいバイトはほかになかったから。大学生のマーティングなら、俺はもう御役御免ということだ。
「残念だな。会うのも今日が最後だね」
「どうして?」
「だって大学生のマーケティングが仕事なんだろ?」
「馬鹿ね。そんなこと、本気にしていたの?」
彼女は伝票を持って立ちあがると、にっこり笑ってもう一度「馬鹿ね」と繰り返した。それから二度と振り返らずに店を出て行った。怒らせたのか? そんな馬鹿な。俺は二人の決めごとをそのまま繰り返しただけなのに?
帰りがけに彼女の携帯にメールしてみたが、宛先不明で戻ってきた。俺はそれから、彼女に連絡することをやめた。
彼女は何を考えて俺にお金を渡していたんだろう。
若い男を金で買う、という言葉が連想させるような関係は何もなかった。俺がキャバクラで金を使うように、彼女は俺には使わなかった。会えば金を渡されたが、彼女はひょっとしたら、買われていたのは俺じゃなく、時間だったのかもしれない。若い男と話す時間を、彼女は一万円で買っていたのだろうか。アクセサリーのように、彼女の何かを満たすものみたいに。
これは中年になって初めて気づいた、彼女との思い出の話だ。
女性ならこの気持ちがわかるんだろうか?
俺にはさっぱり分からない。
もし彼女にまた会うことがあれば、聞いてみようと思っている。
あなたはあの時、どうして俺に声をかけたのか、って。
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花言葉:お互いに忘れましょう
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

久しぶりにつけたテレビで、あの人を見た。
あたりまえだけど以前より老けた顔で、やんちゃだった話し方は大人のそれに代わり、コメントを求められた彼はごく平凡な感想を口にしていた。とりなすようなアナウンサーの合いの手さえ白々しいような、明らかに台本の存在が透けて見えるような話し方だった。
それでもわたしは、画面から目を離すことができなかった。
一瞬でも彼の姿が視界から消えないように、切り替わるカメラの位置を追いかけるように彼の姿を追いかけていた。
わたしにとって、彼は“特別”なアイドルだった。時代にとっても彼は特別な存在だった。歌番組で、バラエティで、CMで、映画で彼の姿を見ない日はなかったし、彼の声を聞かない日はなかった。大ブレイクという言葉にぴったりな存在感で、彼は毎日小さな窓の中で飛び跳ねていた。
その頃わたしは何もかもに疲れていた。婚約を控えた彼の浮気癖にうんざりしていたし、仕事のほうでも大きなプロジェクトが終わって虚脱感に包まれており、そのくせ忙しさになれた心は急に与えられた暇を持て余してささくれていた。すべてに投げやりになっていて、朝起きることも夜眠ることも苦痛だった。砂を噛むようにすべてが疎ましく、つまらない日々だと思っていた。
それを変えたのは彼の存在だった。
まったく、彼はバカみたいに明るい少年だった。女の子みたいな顔立ちと、小動物のようにくりくりと変化する表情で頭角を現した男性アイドル、それが彼の持ち味だった。天然ボケといわれるほど的のずれた話し方をし、それが許される存在だった。すくなくとも、わたしにとっては。
ラジオで聞いた明るい歌い声と話し方を求めて、わたしは毎日テレビ欄をチェックし、小馬鹿にしていたバラエティを追いかけるようになった。彼がテレビに出ない日は憂鬱だったし、深夜番組の5分だけのコーナーでも彼の笑顔を見られた日は幸せな気分で眠れた。年下の、まだ10代の男の子に夢中になるなんて、と思わないでもなかったが、それでもわたしは自分の欲望に忠実に彼の姿を探し続けた。コンサートに通い、ファンクラブに入り、DVDや写真集を買って、落ち着かない日はそれを眺めて過ごすだけで不思議な充足感を得ることができた。
たぶん、わたしは彼がアイドルだったからこんなに惹かれたんだろうと思う。
自分の欲のままに彼を愛し、見返りが最初から期待できない一方的な想いを押しつけること、そしてそれがたとえ彼の本意でなくても芸能人とファンという大義名分のもとに許されること。それがわたしにとっての癒しだった。浮気を繰り返す恋人にさえ気を使ってしまい、自滅してしまっていた気分を浮上させてくれたのは絶対にこの感情に反応しない“彼”だった。
ブラウン管越しの彼の笑顔は本当に素敵だった。
あの時、わたしは本当に、彼の存在に救われていた。
結局、わたしはその番組を終わりまで見てしまった。
そして、いつの間にか彼への興味を失なっていたことに、いまさらのように気付いた。彼自身がトップアイドルの座から滑り落ち、「あの人は今」みたいなコーナーで取り上げられるような存在になっていたことが、ショックだった。あのとき、わたしは本当に彼のことが好きだったのに。
「どうしたんだ、急にこんな詰まんない番組なんか見て」
背中に聞こえた夫の声が、急に遠く感じられた。
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花言葉:あなたを癒す
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

最近、好きな人が出来た。
好きな人が出来ると女は変わる、とはよく聞くけど、男だって恋をすれば多少は変わる。僕の場合はメールがとても丁寧になった。今までは何を書いていいか全く分からず、したがって返しそびれてしまうことが多かったのだけど、最近は絵文字や顔文字を使うことも覚えた。そのほうが明るいし、そっけない印象にならないのだ。今まではメールなんて興味もなかった。簡潔であればあるほうがいいと思っていた。それが多大なる勘違いだったということを、僕は恋をして初めて知った。
同じ予備校に通っていながら、僕が彼女と親しく話すようになったのはここ最近のことだ。受験校別の模試で隣り合わせに座ったのがきっかけだった。彼女の落とした消しゴムを拾ったご縁。だからだろうか、メールアドレスまで交換しておきながら会話の内容はいまだに情報交換レベル止まりだけれど、僕は結構満足している。
高校3年生の一年というのはものすごく短い。桜が咲いても勉強漬け、予備校と図書館の往復で夏が終わったと思ったらすぐ文化祭や体育祭が待っている。そして正月明けにはセンター試験に私大受験、それから国立。思い出を作るのが大事だと先輩たちは口をそろえて言うけれど、正直なところそんな時間はほとんどないに等しかった。
「また赤本やってるんだ。偉いなあ……今、何年のやってるの?」
「2002年。でもこの年辺りから傾向変わったらしいんだよね」
「なんかまた変わりそうなんでしょ? もうやだよね、そういうのって」
だからこんな風に、自然に話をする女子が出来たことで十分思い出が出来たような気がする。彼女は椅子を引いて向かいに座ると、ごく自然に自分のかばんから過去問集を出してページを開いた。今見ているのは先週講義でやったところだ。授業の後、分からない点があったことを思い出して彼女に訊くと、すぐすらすらと教えてくれた。ありがたいようなくすぐったいような、変な気分になった。
「そーいえばね、かなちゃん、大阪君のメール褒めてたよ」
「え? なんで?」
「男の子なのに、ちゃんと絵文字使ってるって。そういうの、地味に嬉しいんだよね」
絵文字を使ったくらいでクラスメイトの女子に褒められても嬉しくもないけど、彼女がにこっと笑っていたから僕もつられた。なんてバラ色の青春なんだろう。
「受験、がんばろうね」
君と同じ大学に行けるようにね、と心の中で付け足して、僕は大きくうなづいた。
好きな子がいるって、楽しいって初めて知った。
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花言葉:隠された美
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

ばすんばすん、というリズムに乗って体を揺らしているだけで、あたしは勝手にハイになる。鼓膜が破れちゃえばいいのに、と思いながら肩を動かして、指先から足元まで全部耳になっちゃったような気分で音に震える。振動でしびれる爪が嬉しい。かき混ぜられそうなシャウトがまぶしい。たまんなくって声を上げてゆられていたら、終電の時間になっていた。
今日のライブはすごく良かった。彼のたましいが波を伝ってぎゅんぎゅんなだれ込んでくるような気がした。つまんないセックスより感じたし、なんだか自分の体が空気かなんかみたいに薄くなって音の波を伝える楽器か何かのように思える、そういうライブが一番好き。足元も見えないくらい暗い階段を下りて、轟音に貫かれると勝手に足がリズムを叩き、喉が歌い、空っぽの頭の中は完全に音楽に支配される。お酒より下手なドラッグよりずっと気持ち良くしてくれる。そういう音を奏でられるミュージシャンはすごく貴重だし、そういう場所は天国だと思う。いまのところ、彼があたしのマイ・フェイバリット・神様だ。
東京は音にあふれているから、探せば毎日こういう場所が見つかった。どんな小さい駅で降りてもライブハウスのひとつくらいはすぐ見つかるし、そこでは誰かしらが脳を揺らすようなドラムを叩いたりしわがれた喉で歌ったりしている。彼もそういうライブハウスで見つけた。厭なことも嬉しいことも全部、叩きつけていくような音に痺れた。彼のスケジュールはよくわからなかったけど、よく出演しているイベントを追っかけていたら月に1・2度は音を拾うことができるようになった。全身全霊で戦ってる感じに、なんか知らないけど引き込まれた。
一度だけ、直接話したことがある。ライブが終わって駅に向かう途中、狭い階段を大きなドラムが塞いでいて、手伝おうとしたとき。彼はすごく楽器に触られるのが厭みたいで、手を出しかけたあたしのことを凄い目で睨んで「大丈夫ですから」と断った。でもそれから、「あんたいつも来てる人でしょ」と、嬉しくもなさそうな顔で、言った。
「気づいてたんですか? ハコのなか、あんなに暗いのに」
「気づくよ。あんた、なんかちょっと変な感じだから」
俺の音、楽しい? 聴かれてあたしはちょっと困った。正直に言うと楽しいわけじゃなかった。どっちかっていうと欲情してた。音に、響きに触れられてたかった。でも、それを口にするのはさすがに憚られた。あたしにだってモラルはあるのだ。
斜めにしてドラムを抱え直してから、彼はどっか困ったみたいに笑った。それからぎこぎこ鳴るドラムを抱えて、ゆっくりゆっくり階段を上って行った。町の明かりが遠くに見えて、吸い込まれちゃうんじゃないかと思った。
東京は凄い街だ、ってなんとなく思った。体中を音で満たして、詰め込んだものを吐き出して。それは彼の意志に拘わらず行われる。体の中のクリ―ニング。だからあたしはきっとまた彼の音を探してしまうんじゃないかと思う。
その間は、彼の背中もまぶしく見える、ような気がする。
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花言葉:孤独、休息
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

「申し訳ございませんが、お客様のカードはお取り扱いができないようでございます」
慇懃な笑顔を張り付けた店員に告げられ、俺は黙ってカードを受け取った。ああもうそんなに使ってしまったのかと思った。すでにタグを取ってしまった新品のスーツが妙にくたびれた品のように見えた。笑顔のままこちらを注視している店員に財布から現金を取り出して渡すと、先方もほっとしたような顔で恭しく動作を再開し始めた。
10分後、俺はスーツの入った紙袋とともに店を出て、繁華街の雑踏にまぎれた。に必要なものではなかった。なのに、なぜかレジに品物を投げ出していた。重たく膨らんだ袋が邪魔に感じたが、5万円もすると思えばもったいなくて棄てられなかった。
気付けばそんな買い物ばかりするようになっていることに、俺はふと気がついた。嘘だ。とっくに気が付いていたのに、気がつかないようなふりをしていることに、気がついたのだ。
最初にキャッシングに手を出したのは、自分で立ち上げた事業の資金繰りのためだった。親類じゅうに大見得を切って始めた手前、借金はとても申し込めなかった。初めてカード会社で自分の名義のカードを作った時は恥ずかしくて目がくらんだ。そして無人の機械から現金が弾きだされてきたときは、魔法のようだと思ったことを覚えている。
最初の50万はすぐに運転資金に消えた。毎月の返済額は2千円ちょっとだった。その次の50万もいつの間にかどこかに消えていた。そうやって魔法の機械と遊んでいたら、月々の返済額はじわじわと俺の首を締めてきた。大した額じゃないと思っていたのに、気づけばもうカードなしでは何も買えなくなってしまっていた。
小さくとも社長という身分におさまっていれば、そうみっともないことは出来なかった。バブルの名残が残っていたころで、取引先は毎日のように接待を要求し、社員の首を切っても自分の首を切るわけにいかなかった。
離婚した妻が冗談で言いだした保険金の額を計算し始めたのもこの頃だ。独り身になってから俺は毎月5千円の保険金を支払っている。年金も健康保険も払うのは止めた。いずれこの金が俺のことを助けてくれるのだと信じた。
曲がり角を左に折れて、俺は駅のコンコースを横切った。段ボールにくるまったホームレスたちがまばらに眠っている。不景気が続いているならホームレスも増えるはずなのに、見慣れた新宿駅に眠る人の数はいつでも一定のような気がする。まっとうな暮らしを見つけたものでもいるのか――それとも存在すること、それ自体をやめたのか。
切符を買ってホームに立ち、俺はふと手に提げた紙袋を見つめた。これは無駄な買い物ではなかったのかもしれない。借金も相続されてしまう、と知ったのはつい最近だ。妻について出ていった娘の顔を思い浮かべ、掛け金ばかり高い生命保険の額を思いだし、俺は少しだけ安心した。このスーツは俺の死に装束になるかもしれない。
軽やかなメロディに乗せて、明るい色彩の電車が滑り込んできた。目を閉じたら、5歳の娘の笑顔が浮かんだ。
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花言葉:清らかな祈り
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

お風呂に入ったら、気が緩んだのか勝手に頬が緩んできた。思い出し笑いはよくないって思うけど、我慢しきれずに笑うことにする。軽い声が反響してきらきら湯船に降ってくる。バスタイムを充実させるのはとっておきの入浴剤、お気に入りのシャンプーだけじゃない。お風呂には楽しみを持ち込むべきだ。
ああ、なんて男の子って簡単な生き物なんだろう!
――あんた、キャバ嬢にでもなればよかったのに。
友達にそう評されるわたしの生きがいは男の人を落とすことだ。付き合いたいとか結婚などの目的じゃない、単純なパワーゲームとしての恋愛を楽しむこと。だからターゲットは手ごわいほうが燃えるし、その方が楽しめる。
今日の相手は結構長く持ったほうだった。堅い職種の彼に合わせて髪を黒く染め、リーマン雑誌を読んで清楚な態度を研究した。恋愛のノウハウなんてパターン化されている。刺激、抑制、刺激、抑制。その繰り返し。最初は興味なんかない、って顔をしてたのに、ベッドの中ではちゃんと男の顔をしていてわたしも少し興奮した。このゲームにセックスを持ち込むのはそんなに好きじゃないけれど、今回は有効な手段だったと思う。
誤算だったのはまじめな彼が本当に結婚を考えだしてしまったことだけれども、それは何とでもなるし、なんとか出来る自信はあった。いつか刺されるよ、なんて言われたこともあるけど、それならそれで本望だ。
だって、「好き」って言葉ほどわたしを気持ち良くしてくれることはない。
男の数だけ「好き」という言葉の響きは違っていて、甘いのや掠れたのやどこか寂しそうな響きを帯びたそのフレーズがわたしを一番蕩かせる。ささげられた言葉の数だけわたしはもっときれいになる。アクセサリーのように散りばめられた好意の破片を身に纏って、次の狩りに出かけるって、なんて楽しいことなんだろう。
勿論、常に成功するわけじゃなかった。友達は少ないし、恋人はいたためしがない。ゲームを先降りられてしまうこともあるし、そんなときは落ち着いて身を固めたいって思ったりもする。でもそれはたいてい一過性のもので、わたしは結構飽きっぽいから、思い煩うほどの痛痒はない。
寂しい人生じゃないの、なんてしたり顔のお説教は勘弁だ。
次はどんな人を狙おうかなあ、とラズベリー色のお湯をすくいながら考える。進行中のゲームは1件、こっちを片付けたほうがいいだろうか。こっちももうすぐ陥ちそうだけど――考えるだけでわくわくする。
あの人の声はどんなふうにわたしをきれいにしてくれるだろう。どんな響きで、どんな形で、わたしを気持ち良くしてくれるんだろう。こんなに心弾む遊戯なんてきっとない。
お風呂からあがったら、彼に電話してみようかな、思った。不真面目と遊びといわれても、まだまだやめるつもりはなかった。
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花言葉:我儘な美人
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

「あけましておめでとう」
誰もいない部屋で、ぽつんと落ちた自分の声がやけに耳に大きく響いた。テレビが賑やかに新年を祝っているのがなんだか嘘みたいに感じられた。年越し蕎麦のつもりで食べかけたインスタントラーメンが、ベッドサイドで所在なく伸びていくのを僕はぼんやり眺めていた。
初めて新年を一人で迎えたというのに、何の感慨もないのが不思議だった。いつもなら帰省するのだけれど、今年は両親が揃って妹夫婦と海外に行っている。誰もいない家に帰るのも億劫で残ることにしたワンルームの部屋は、大掃除らしい掃除もせずいつもどおり雑然としたままだった。賑やかに叱咤監督されながら掃除をして家族で紅白を見る、そんな恒例の年越しに比べれば、なんともあっさりした新年の始まりだった。
見るともなしにテレビを眺めながら、僕は携帯を開いてメールを打った。相手は最近知り合った女の子だ。まだ付き合っているとは言えない相手だけれど、なんとなく気があって時々はデートめいた外出もする。そういう相手がいるのは久しぶりで、僕はひとりきりの孤独は味合わずに済んでいた。彼女のほうでも僕のことを便利な友達か何かだと思っているらしく、屈託なく下ネタを開陳しお笑い番組の話題で盛り上がり、けらけらと笑った。どこか取りすました猫のような女の子ばかり付き合ってきた僕には、そういう彼女は新鮮な存在に映った。
彼女からの返信は早かった。
いまどきの女の子らしからぬ、絵文字も顔文字も使わない電報のような短さで、「あけましておめでとう」いう言葉のほかに簡単なテレビの感想が付け加えられている。僕が好きなタレントが出てるから見てみたら、という勧めに惹かれてチャンネルを変えると、賑やかしの画面が一気に明るく感じられた。
僕はCMまで番組を見続け、彼女に御礼のメールを返した。
それから布団に入って眠った。
なんだか今年は幸先がいいような気がした。
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花言葉:栄光、青春の喜び
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。








