
月に1回、丁寧な言葉と対応に見送られてデパートを出る時は、たいていわたしの腕には重たい紙袋がぶら下がることになっている。紙袋の中身は鞄だったり財布だったり服だったりアクセサリーだったりするのだけれど、その重量があればあるほど、そして遣った額が高額であればあるほど、わたしの気持は高揚する。ああやってしまった、と思うことが快感なのである。この靴を買えば来月の支払いに苦しむことが分かっていても、先月買ったばかりのピアスのローンがまだ残っていると分かっていても、買い物を辞めることができないのは結局のところ今の自分がこの快感だけで生かされているということを自分で分かっているからなのだろう。
恋人もいない。友人と呼べるほど親しい相手もいない。田舎の両親は兄がきちんと面倒を見ており、わたしの出る幕はない。仕事に対する熱意もないわたしは、とりあえず、毎月きちんと送られてくるクレジットカードの返済に追われることで生きている実感を得ることができているのではないかと思う。支払をしなければいけないということは金を稼がなくてはいけないということで、それは働かなくてはいけないということであり、働いてさえいれば毎日何かを考えたりする必要もなく、ちゃんと夜には眠れるし朝には目が覚める。それはすごくいいことだと思う。
お金を使ってしまう、それもばかばかしいほどの額を――たとえば今日は30万を――使ってしまうのは、たぶん働く理由もそれぐらいしか思いつかないからなのだろうか。
電車で帰るつもりで駅までの道を歩いていたが、あまりの人の多さに疲れ、わたしは手を上げてタクシーを止めた。乗り込んで自宅付近の駅名を告げ、ぐったりとシートに座り込む。
「お客さん、すごいですね。それ、新作の鞄でしょう?」
わたしとは一回りくらい歳の違う運転手はどうやら話し好きの性質らしく、ロゴの入った袋に目を止めてにこにこ笑った。無邪気な笑顔。
「そこの鞄、うちのも欲しがってるんですけどねえ。なかなか買ってあげられなくて」
そりゃそうだろう、と思う。どれだけ稼いでいるといっても、普通はなかなか買える代物ではない。たぶん、まともな仕事をしてまともな経済観念を持っている人ならそう答えるのだろう。でもわたしはそのあたりが壊れている。
「不良品なんですよ。だから買ったの」
「え? 鞄がですか?」
「いいえ、わたしが」
わたしの答えに、運転手は微妙な愛想笑いを返して黙り込んだ。
まったくわたしときたら頭がおかしいのではないだろうか。タクシーまで乗って、今月の支払いはリボ払いでも10万円を下ることはないだろう。今の時点で完済するまであと3年残っている。3年間は生きなければならない。生きていてもいい、ではなく、生きなければならないということがこんなにも嬉しい。
今月の明細が届くのが楽しみだな、とずっしり重い鞄を見つめてわたしは唇をかみしめた。気を付けていないとけたたましく笑い声を上げてしまいそうで、そうしたいような気持で、汗でじっとり濡れた掌をぎゅっと握りしめていた。
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花言葉:知性
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

割れそうに痛む頭を抑えて郵便受けの中をのぞくと、色褪せた封書が一通入っていた。表面には俺の名前が書いてあり、汚い字で綴られた実家の住所は母の手でこの家宛に書きなおされている。差出人の名前はない。それでも俺には誰からの手紙かすぐにわかったので、一度コンビニに戻って、さっきまで吐くほど飲んでいたビールをまた買った。
この手紙だけは飲まなければとてもじゃないけど読めそうになかった。
十年前、俺は地元にある中学校に通っていた。そこではそれなりに優等生で通ってきて、生徒会役員も務めていた。田舎の学校で大したことが出来るわけもなく、ほとんど名前だけの役員だったが、二年生の時にあるイベントを役員会議で提案したことがある。それは二十歳の自分に手紙を書こう、というもので、確か全校で実施したはずだ。手紙は教師が一度預かり、差出人になる生徒が二十歳の誕生日を迎える日に届くよう、全校生徒の誕生日と名簿を代行会社に委託したことを覚えている。
スーツを脱ぎ、ビールを一口飲んで喉を焼く。酒を飲んでいるのにさっきまでの酔いが急激に冷めていくような気がした。時計の針は朝六時。いつもなら眠くなる時間だというのに、寝酒にすらならない。諦めて読むべきかどうするか、俺は往生際悪く迷っている。
中学までは優等生だった。
高校に入って初めての学力テストで、校内の成績は悪くなかったのに、俺は学年最下位に近い順位を取った。初めは嘘だと思った。次に必死で勉強して、順位を十番上げた。たった十番。俺は友達と遊ぶ時間までけずったが、授業の学習速度はそれより早く、いつの間にか落ちこぼれになっていた。自然友達もそういう奴らばかりになり、英単語の代わりに深夜に煙草を吸うことを覚えたり数式を覚えるかわりに女の家に遊びに行く方法を覚えた。気がつけば、俺は立派な不良になっていた。今更大学に行く気もせず、予備校に行くという名目で上京してからはまさに箍が外れたような生活をした。そしてスカウトを受け、俺はホストになった。「かっこいーじゃん」と言われれば悪い気はしない。でも、酒の回った女たちの言うことは俺の言葉を同じぐらい薄っぺらく、しかも華やかな世界の割に実入りはそんなに良くなかった。それでも俺が辞めないでいるのは、今のところ他で働くあてがないからだ。
手紙の内容はおおよそ覚えている。
確か将来の夢について書いたはずだ。何になりたかったんだっけ、と煙草に火を付けて考える。天文学者、NASAの職員、パイロット……あの頃は星や宇宙が好きで、やたらと何回も科学雑誌を読み返した。不思議なことに中学生の俺は自分がなりたいものになれると本気で信じていて、両方から声をかけられたらどうしようなんて夢想したこともあった。馬鹿だな、早く気づけよ。俺は思う。そんなにうまくいくわけないじゃないか。
でも過去の俺はそれに気づかない。気付かないからこんなに澄んだ顔をして、二十歳の俺に夢の結果を突き付けてくる。
目の前の封筒には、あの頃の俺の夢が詰まっている。
まだ開けることのできないそれを前にして、俺はビールを喉の奥に流し込んでいる。生まれてから二十回目の誕生日が、ようやく明けようとしていた。
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花言葉:あなたに従う、失恋
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あたしの好きな人には恋人がいる。
その人は隣の女子高に通っていて、男勝りで顔も綺麗で帰国子女で、スポーツも勉強もできる。女から見てもすごい素敵な女の子、で後輩にも憧れられているらしい。彼はその恋人のことを、たぶん世界で何より大切に思っている。
あたしの入る隙は、ない。
顧問との打ち合わせのあと部室に行ったら、彼が一人でトランペットを吹いていた。軽騎兵序曲。クラシックなんて全然興味なかったのに、彼があんまり吹くのでついつい覚えてしまった。美術部なんてほとんど幽霊部員ばっかりだから、好きに使っていいよ、と言ったのが良かったらしい。モデルを頼んだときにおまけみたいに付けくわえたら彼はものすごく喜んで、こうして自分から入り浸るようになった。
「お疲れさま。遅かったね」
「待たせてごめんね。ちょっと作品展の話があって。……じゃ、はじめよっか」
イーゼルを立てかけて絵筆をとったら、彼はふにゃりと微笑んだ。
目の前のキャンバスにはあらかたデッサンの終わった彼の姿が映されている。すこし緊張混じりの横顔が夕日に照らされて綺麗だ。トランペットを構えた彼の姿を目に焼き付けながら、慎重に線を書き足していく。ずっとこうしてデッサンを続けていられたらいいのに、と思う。
あたしも彼もすでに推薦で大学が決まっている。彼は京都の有名校、あたしは東京の美術学校。三年のこの時期になるとたいていの部活はほとんど引退になるから、彼とあたしはこの部屋で顔を合わせることが出来ている。こちらから頼みこんで今月の頭から始めたこの習慣は、デッサンが完成するまで、という約束になっていた。塗りは写真や効果をつけながら一人で行うから、彼が立ちあう必要はない。そしてもうすぐこのデッサンは完成する。
二人きりでいるせいか、それともモデルをしているという意識からか、彼は思っていた以上によく話した。あたしがもともとモデルを頼んだのはこの時期に暇そうだったから、というのが大きかったけれど、話を聞いているとどんどん彼を好きになった。正しくは彼女を語る彼の声を、あたしは好きになったのか。
「彼女の話、してよ」
「いいよ。って言っても、最近すごく忙しそうで、僕は電話でしか話してないんだけどさ」
彼女と見た映画の話。彼女が進路で迷っていること。僕と同じ京都の大学に行くか、それとも東京の大学に行くか……彼女の話をするときの彼の声は、穏やかでとてもあたたかい。好きな人の話をしているせいか、表情ははにかんで少し照れくさそうで、とても可愛い。
以前読んだ特集で、モテる女の条件は相手の一番興味のある話題を聞き出せること、って書いてあった。そのときは相手は気持ちよく話せて、そして大好きな話題を話せることに喜びを感じるからと。だからあたしは彼の一番興味のある話題を毎日こうして聞いている。ずっと話しているのに、彼の口から彼女の愚痴が出たことは一度もない。本当に本当に、彼は好きであるらしい。
「僕としては、やっぱり同じ大学がいいなあ、って思うけどね」
「そう言っちゃダメなの?」
「うん。僕が言ったって聞かないもの、あのひと」
それに彼女の邪魔したくないんだ。
そう言ってへらっ、と彼は笑う。しあわせ、って書いてあるような完璧な顔で笑う。その表情をキャンバスに写し取りながら、あたしは思う。この時間が少しでも長く続けばいいのにって。
彼には好きな人がいる。
彼よりも自分の道を行き、将来は外務省だかに入って通訳になりたいのだという完璧な彼女がいる。彼はそのひとのことをものすごく愛しているので、とてもとても幸せそうだ。あたしと二人きりだというのに、やましそうな顔はちっともしない。
あたしの入る隙は、ない。
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花言葉:慰め、忍耐
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

六年間住んだ家を出ることになった。
赴任先への挨拶は昨日のうちに済ませて、今日は一日荷物の梱包に追われている。自分の部屋だけでも段ボールが積み上がるほど荷物があり、懐かしい本やCDや靴や鞄を詰め終えると、日に灼けた壁の色ばかりが目立った。
七・五畳のワンルーム。
たったこれだけの狭い部屋なのに、何でこんなに荷物が増えていたのだろう。
一息入れようと思った時には、すでに日が暮れかけていた。
こんなに住んでいたのに結局お湯を沸かす以外には大して使わなかったコンロで湯を沸かし、インスタントコーヒーを入れる。暮れかけた街を見ながら啜ったコーヒーはなんだか気の抜けた味がした。
この部屋は僕が初めて一人暮らしをした家だ。
大学への進学と同時に家を出て、初めて不動産屋に入って物件を回って、日当たりがいいのが気に入って借りた。駅から15分も歩くし、近くにスーパーもなくて不便だったけれど、それでもこの家は僕のお城だった。ハマっていたパンクバンドのポスターも貼ったし、友達を呼んで馬鹿騒ぎをしたこともあったし、初めてできた彼女と寝たのもこの家だった。オシャレだね、と言われたくて焚いたアロマキャンドルはあのあとどこに行ったのか。その彼女とも今は別れ、馬鹿騒ぎをした仲間はそれぞれ自分の道を歩き出していて、この部屋に残っているのは四角く切り取られた真っ白な壁だけだ。
たぶん、一人で暮らすというのはそういうことなんだろうと思う。
上京することになったとき、ターミナル駅までついてきてくれた両親は「東京に行って悪いことだけはするなよ」とからかうような口調で言った。それは東京の気風に染まるな、というように聞こえた。信州の田舎で生まれ育った両親には、都会というものがそれだけで罪悪の源のように思えたのだろう。僕は勿論聖人君子ではないからそれなりに東京の色に染まったけれども、毎日がお祭りのような都心と違ってこの家のあたりはどこかひなびた匂いが残っていた。狭いユニットバスで入浴すれば体以上になにか深いところの汚れが落ちて行くような気がしたし、実家から持ってきたベッドに寝そべればリセットされた毎日がきちんと毎日続いていくような錯覚がもてた。そうやって毎日過ごしていた。なのに、やっぱり染みついた汚れは目に見えない形で残っている。壁の一部分だけに残された白を浮かせるような薄い茶に。
そして僕はまた、この家を出て行く。
次の赴任先もまた別な都会で、僕はやっぱりその町で、どこかしら垢にまみれて暮らしていく。そして彼女を抱いたベッドで一人で眠り、実家から送ってもらった林檎を食べ、あたらしい部屋を汚す頻度でその町の色に染まる。
きっと僕は二度とあの穏やかな田舎町には戻らない、ような気がする。
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花言葉:あなたを待っています、不信
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

「眠れないの?」
明るい声が聞こえたので、わたしは振り返って頷いた。寝付けなくて開いたパソコンには二つの花の画像が並んでいる。菖蒲と杜若。良く似た二つの花を、姉と二人して覗きこんだ。
わたしと姉は一卵性双生児である。
だから見た目はほとんど同じだったはずなのだけれど、高校を出たあたりからそれぞれの顔に個性が出てきた。小さいころはまさに「いずれ菖蒲か杜若」だったのだけれど、今は歴然とした差ができているらしい。親戚はだれもわたしたちを間違えないし、一度だけダブルデートした姉の恋人もわたしの彼氏も互いの恋人を間違えなかった。どうやら、表情が違うようなのだ。
活発な姉と控えめな妹。
月並みな文句がそのまま当てはまるわたしたちは、それでもとても仲が良かった。どこへでも出かけて行く姉は保護者のようにわたしのことを連れ歩いたし、そんな姉を心配するそぶりでわたしもどこへでも付いていき、知らない世界を垣間見る楽しみを覚えた。子供のころはなんでもお揃いにしたがったし、リボンも服も色違いだった。姉はいつでも赤やオレンジなどはっきりした色を好み、残された色は自動的にわたしのものになった。……ああ、この言い方では姉に対して卑怯かもしれない。わたしはきっと、選ばなくていいことに、喜んで甘んじていたのだから。
姉はなんでも先駆者だった。揃いで伸ばしていた髪を切ったのも、初めて恋人を作ったのも、アルバイトを始めたのも全部姉が先だった。まるでそれが自分の使命でもあるかのように、姉はどんどん道を切り開いていった。わたしはそして、いつも一歩遅れて姉のあとをついていく。既に開かれた安全な道を。それは安らかだったし、迷わなくて良かったし、あとから付いてくる方はいくらでもアレンジができるので比べられることもない、幸せな道だった。わたしはそれでよかったのだ。できればずっと、姉の開いた道の後ろをひっそりとついて歩きたかった。
「それにしてもあんた、菖蒲と杜若、って、またなんで急に?」
「さあ。わかんない」
「昔あたしたちもよく言われたね」
姉はそう言ってさばさばと笑った。それから、すっとホットミルクを差し出してくれる。湯気の立つマグはわたしが起きていることを知っていたように最初から二つだった。二人で暗い部屋で、パソコンの電気だけで静かに温かい飲み物を飲む。小さい頃のように、眠れない夜によくそうしていたように。
「それ飲んだら寝とかなきゃダメよ。明日お式なんだから、眼の下にクマなんかつくったら大変」
姉はまるで経験者のように言って、いたずらっぽく笑った。なんだかぐっとせり上がってくるものがあって、ぐっと堪えて我慢した。わたしは聞いてみたかった。先頭を歩くときの怖さを、一人きりで前を向く強さを、その向こうにある光の話を、姉に聞いてみたかった。
「お姉ちゃん、」
なに?と首をかしげた姉の顔は優しかった。初めてひとりで道を歩き出した妹のことを遠くから見守るような顔。だからわたしは何も言えなくて、なんでもない、とミルクを飲んでごまかした。姉は少し笑って、変な子、とわたしの髪を撫でてくれた。
わたしは明日、姉より早く嫁に行く。見たことのない世界を、姉ではない人と、一緒に見に行く。
「杜若も菖蒲も、そろそろ咲くね」
姉の声が、暗い部屋にぽつり、響いた。
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花言葉:幸運が来る、雄弁
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

僕には大事なものがいっぱいある。
たとえばお母さん。リコンしてお父さんがいなくなってからも、お母さんは毎日お弁当を作ってくれるし僕のために遅くまで会社で働いてくれる。それからサッカー。レギュラーになって二年、今はリトルリーグのために毎日走りまわっている。チームのメンバーもすごくいいやつばっかりだ。お母さんはイジメとか気にしてるみたいだけど、少なくとも僕らのチームではそういうことはめったにない。だって、メンバーがぎりぎり11人しかいないから。喧嘩なんかしたら、すぐ隣町のチームに負けてしまう。僕らもそれは分かっているから、みんなめちゃくちゃ仲がいい。なんか仲良すぎな気もするけど――でも、けっこうみんなそれを分かって楽しんでる。
それから誕生日に買ってもらった望遠鏡。学校のみんなと作った秘密基地。やりこみまくったゲーム。ドリトル先生航海記。ラブレター。僕はまだ10歳だけど、大事なものはいっぱいある。
僕はそれで充分で、そんな自分のことを、きっと恵まれた子どもなんだって思う。
先週、お母さんがお寿司を食べに連れてってくれた。
近所のお寿司屋さんだけど、誕生日以外にここに来たのは初めてで、僕は嬉しくなってちらし寿司とマグロを食べた。お母さんは漬け丼とウニを頼んだけれど、半分くらい僕にくれたから、白いご飯ばっかり食べていた。テレビでは野球のナイターをやってて、ジャイアンツが8点リードしているところだった。
「あのね、……お母さん、好きな人ができたの」
お母さんは、白いご飯を食べながら、ぽつんとそう言った。僕に言ってるのか、寿司屋のおじちゃんに言ってるのか、分らなかった。だから僕は答えないで、ただ目の前のエビのしっぽを噛んでいた。
「怒る?」
僕は黙って首をふった。僕にも好きな子――っていうか気になる子くらいはいるし。僕にっているんだからお母さんに好きな人ができたってしかたないと思った。
「お母さんには大事な人なの。ね、今度、会ってみてくれる?」
頷いた僕をみて、お母さんはとても安心したような顔で、追加でサヨリを注文した。そして美味しい美味しいと何度も言って、にこにこと笑った。
お母さんにとって大事な人なら、きっと僕にも大事な人になるんだろう。でもお母さん、僕はいま十分幸せで恵まれた子供なんだから、これ以上大事なものが増えたら、僕のこころは溢れてしまうよ。
僕はそれを言わなくちゃ、って思ったけれど、あんまり嬉しそうなお母さんの顔を見てたら胸がいっぱいになってしまって、勢いよくお茶を飲んでもやもやをごまかした。
それからお母さんの好きな人って、どんな人なんだろう、って少しだけ思った。
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花言葉:無邪気、親愛の情
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

オフィスには、わたし以外誰も残っていないらしかった。半年前とはすごい違いだ。不景気のせいでサービス残業オンリーになってから、22時ごろオフィスを出るのは前よりずっと簡単になった。なにしろ、誰もいない。ただ残っているだけで電気代がかかると文句を言われるから、わたしは自腹で乾電池式の卓上ライトを買った。小さな明かりとパソコンの液晶の光だけで一人きりで残業する時間は、なんだか不思議な安らぎに満ちていた。
書き終えた書類を一時フォルダに保存してから、卓上ライトを消すと大きく伸びをした。がちがちに固まっていた体がほぐれたせいか眠たくなった。ほのかに明るいせいかもしれない。パソコンだけでなく、暗いオフィスからは窓の外がよく見えた。眼の高さより高いビルの窓から漏れるたくさんの灯り。その部屋のひとつひとつに、今も残って仕事をしている人がいる。
ぐぐぐ、と腰をひねってから、ポーチを持って歩きだした。向かっているのはベランダにある喫煙所だ。社内では誰も知らないだろうけど、わたしは実は隠れ喫煙者だ。休日になると一箱開けるチェーンスモーカーだったけれど、ここへの就職を機に減らそうと決意して一年がたつ。入社時に恵比須顔で「たばこは吸うの?」と聞かれた時も、だから笑顔で嘘を言った。以来、就業中に吸ったことはおろか昼休みも喫煙所には寄りつかず、本数自体も減ってきていたのだけれど、最近になってまた増えた。理由は簡単で、喫煙所にも誰もいないので見とがめられる恐れもないからだ。
ベランダには思ったとおり誰も居なかった。
安心して火をつけ、胸一杯に煙を吸い込む。ぷはあ、とビールを飲んだみたいな息を吐いたら白い煙がゆらゆら揺れた。なぜか仕事をしているときの煙草はやたらとおいしく感じられる。これを吸ったら未読のメールを読んで帰ろう、と思ったところで、かつんかつんと足音が聞こえた。
「お疲れ様です。隣いいですか?」
許可も得ず灰皿をはさんで隣に立ったその人は、にへらとしまりのない顔で微笑んだ。まったく見覚えのない人だった。上の階から来たということは人事か経理の人だろうか。とりあえず、わたしのように自主的に残っている人であることは間違いなかったが、なんとなく気まずくてわたしは視線をそらしたまま口を開いた。
「あの。……つかぬことを伺いますが、何で降りてきたんですか?」
「なんでって、そりゃあ」
その人は一瞬驚いたような顔をしてから、「同じような感じの人と会いたかったからですよ」と笑った。それから煙草の火を消して立ち去ろうとしたわたしの名を呼び留め、がんばってくださいね、とエールまで添えた。煙草を吸っていることを知られた悔しさより、名前を知られている驚きの方が大きくて、わたしはばくばくする心臓をなだめながら書き上げたばかりの書類を立ち上げ、目で追いかけた。つらつらと連なる文字が意味をなすまで、ただそうやってこの気持をやり過ごしていた。
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花言葉:警戒、危険
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浴室の扉がばたんと閉じてから、僕はゆっくり目を開けた。彼女はお風呂が長いので、いったん入浴したら一時間は戻ってこない。テレビの音がかすかに聞こえだしたので、音をたてないように枕もとのミネラルウォーターを一口飲んだ。ごくん。彼女の気配のするからっぽの部屋に、飲み下す喉の動く音だけがやたらと大きく響いた。
元通りにペットボトルを戻してから、さっきのように横になる。ガラス張りの天井に間抜けな自分の顔が映っていた。ラブホテルで一人で眠っている男というのはなんだかそれだけでも情けないような気がするけれど、仕方ない。彼女は絶対に一人で入浴することにしているのだし、待つには寝るか本でも読んで時間をつぶすしかない。そして彼女がそれを望んでいることも分るのだけど、普段ならいつでも寝足りない頭はこういう時に限ってますます冴えてしまうのだった。
そういうとき、僕は心の中で折り紙を折った。かえる、兜、やっこさんなんていうのはたぶん紙を見ずとも折れると思う。僕が最近取り組んでいるのは一枚の折り紙を切り離さずに二羽の鶴を折ることで、それは今のところ紙がないと成功できない。できないから暇つぶしになる。百貨店でやっていた「折り紙博」で見た作品を頭の中で正方形の紙に解き、まず三角に折り、そのあとに対角線に添って端を合わせていき、イメージを擦り合わせて折っていく。実際の紙と違って折り跡がつかないから、便利でもあるしやり直しがきく。そんなところも、僕は気に入っている。
最初にこの話をしたとき、彼女は一瞬目を丸くして、「すごい才能だね」と褒めてくれた。
「空間図形っていうの? そういうの、わたし出来ないのよね」
「別にそんな大層なものじゃないよ。役に立つわけでもないし」
「謙遜しなくていいのに。ね、いつか目の前で折って見せてよ」
彼女はそう言って僕の頬にキスをした。あのときも情事のあとで、彼女が風呂から上がってきたときのことだった。正直に言って僕自身はカラスの行水もいいところだし、彼女がそこまで入浴に固執する理由も知らないけれど、初めて笑われずに済んだので、なんだかとてもうれしかったのだ。一人でラブホテルの広いベッドに置き去りにされていることを忘れるくらいには。
僕はたぶん、彼女のことがめちゃくちゃに好きなわけではない。
でもいつか、彼女には見せてあげたいと思うのだ。あのときみた番いの鳥を、その複雑な感覚を、彼女になら分かってもらえるような気がする。それが妄想か思い込みかは分らないけれど、とにかくそうしたい、という熱意のもと、僕は一生懸命頭の中で二羽の鶴を折り続ける。
角を合わせ、袋を広げて翼を作り、少しだけ紙をひねって二羽目を作り、嘴をつけて、……そこまで考えたところで、一気に最後まで折り上げることができた。完璧だった。出来ると思った瞬間に、どうしても実際に折ってみたくなった。彼女がまだお風呂にいることを確認して、そろそろと鞄の中から紙を取る。
上がってくるまでに作り上げることができるだろうかと、僕はそれだけを考えて、丹念に角を合わせると、四角い紙を一気に折った。
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花言葉:愛されることを知った喜び
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

セックスをすると男の子が優しくなるというのは、いったい誰が吹きこんだ嘘なのだろう。経験豊富な友達だったか、それとも本か何かで読んだのだったか。どちらにしても大した嘘だと思う。
その手の幻想を捨てて数年。
隣でいぎたなく眠りこけている横顔を一瞥して、わたしは裸足で浴室に向かった。彼に内緒で吸っている、マルボロのメンソールに火を付けて。
ラブホテルの浴室はとにかく広くて快適である。
なにしろ家より2倍くらい浴槽が広いので悠々と手を伸ばせるし、テレビもあるし、ジャグジーもミストサウナもある。ホテルでするのが好きなわけではないけれど、お風呂だけは捨てがたい。自宅でも1時間は余裕で入浴する癖のあるわたしは、こんな風呂なら3時間は入ってられるのではないかと思う。ただし、それは一人でいるなら、の話だが。
今の彼は終わった後、すぐに眠ってくれるので助かる。以前付き合っていた男はなんだかとてもアグレッシブで、終わった後もカラオケや食事やテレビ観賞などまるでホテルを征服するかのように遊び倒していたので、お風呂に入るどころかへとへとになって帰途につくことの方が多かった。やっぱり終わった後は汗をきちんと流したいし、リラックスして気分よく帰りたい。
わたしにとって、入浴はどこか儀式に似ている。
禊とでもいうのだろうか。
入浴さえすれば、体から出たいろいろな重たいものが一気に消えていくような気がする。期待だとか惰性だとかそういうものが全部流れて行くような気がする。気がするだけのことは分かっていて、それでもわたしは風呂に入る。
事が終わった後、それをするための広い浴室で、一人きりでこころを清める。
すい終わった煙草の吸殻を濡らしてティッシュにくるんでから、ごみ箱に捨てた。証拠隠滅、それが付き合いを長続きさせる秘訣だ。それから勢いよくシャワーを出して、一生懸命髪を洗った。
フローラルブーケの香り、といういかにも合成の甘い匂いがふわりと残った。
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花言葉:情事、絆、優しいよしみ
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お疲れさま、と差し出されたタオルを受取ってマスクを取ると、真夏のような太陽が目を焼いた。反射的に目を閉じて、目の中の残像を追い払う。休憩の後は模擬戦だ。白球と残像を見間違えてはいけないと、下を向いて何度も目を瞬かせた。
「調子、あんまり出てないわね?」
俯いたままの俺に、マネージャーは天気の話をするように言った。こいつも三年で、今年の夏の大会が終わったら引退する。野球部のマネージャーはモテポジションだったはずだが、男よりも男らしいところのあるこいつはちっともモテず、かえって部員に恐れられている始末だった。
「まだ痛むの、」
「別に。大丈夫だよ、これくらい」
ぐいと汗を拭いて、つっけんどんにタオルを返す。肩を壊したのは今年の春の地区選抜で、相手チームの走者とぶつかったのが原因だけど、ほとんど今では治っていた。けれど二か月くらいは肩をかばう癖が抜けず、こいつに指摘されたことを考えるといまだにそれが出ているらしい。
まずいな、と思った。変な癖があれば、相手チームにそこを突かれる。直さなければ。
「ま、無理しないでよね。キャッチャーの控えはいないんだから」
「煩いな。分かってるよ」
あらそう、とマネージャーは肩を竦め、掌を翳して影を作った。暗い影の中で、悪戯っぽいくりくりした瞳が眇められている。眩しいものを見るような眼をしていた。いや、実際眩しいのだろうけど。
選抜で勝ったことで、今年の地区大会ではシード権が決まっている。相手高はまだ分らない。来月にくじ引きをして、それで決める。選手の引退がかかっている一大事をくじで決めるなんて、いつもながらずいぶん乱暴なやり方だと思うけれど、仕方ない。それが決まりなんだ。
俺たちが勝っても負けても、9月には引退しなければならないように。
それでも、勝ちたい、と思う。最後までこのメンバーで戦いたい。試合に勝ちたい。勝って最後までちゃんと野球をしていたい。
「期待してるんだからね、キャプテン」
「当たり前だろ。優勝すんだよ優勝」
マネージャーは俺の言葉を聞いて、照れたように笑い、それから大きく頷いた。
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花言葉:スポーツ、遊び、心静かな愛
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