久しぶりに知床の奥地を歩いた。
川ではカラフトマスの遡上が始まり、それらを狙ってヒグマも出てきているよう
だった。付近に立つトドマツの幹にはヒグマの爪痕もある。
河原の大きな苔蒸した岩の上にエゾシカの頭骨があった。
目の前の川の流れの中には倒木に引っ掛かった背骨がゆらゆらと揺れている。
そっと置かれるように、そして川面を見つめるように静かに佇む頭骨がなんだか
不思議に思えて何度かシャッターを切った。

厳しい冬を越えられなかったのか、それともヒグマに襲われたのか、この命の
クライマックスを想像する。
残された肉片はきっと他のたくさんの命の養分となって生まれ変わったに違い
ない。
野生の世界では、ひとつの死は決して無駄になることはないのだから。

遠い山の向こうから日が登る頃、下界に雲海が広がる。
「なんてきれいなんだろう・・・。」
山の上の空気は既に冷たく、ここではもう夏が終わりに近づいていることを
実感する。
僕が今生活している大雪山の標高1200m付近は朝晩は12℃前後まで気
温が下がるようになった。
夜には透き通った空気の中でたくさんの虫の音に耳を傾けている。
短い夏に凝縮された山の動物達や植物の世界。
そのめまぐるしい変化にはいつも驚かされる。
これから生き物達は駆け足でやってくる厳しい季節に備えて冬支度を始める。
その様子をできる限り見てゆきたい。
太陽の光が谷の中に差し込んだ頃、岩肌にエゾシカの群れを見つけた。
彼らもまた厳しい冬に備えてたくさんの栄養を取らなくてはいけないだろう。

これから短い秋が大雪山を駆け抜けてゆく。
そしてあと一ヶ月もすると初雪の季節だ。
今まで個体識別をして観察してきた一頭の雄グマがカップルとなった。
雪渓の上でじゃれあう姿は本当に楽しそうだ。
寝っ転がって絡み合いながら何度も雪渓の斜面を滑り落ちてゆく。
ヒグマは野生動物の中でも感情表現が豊かな動物。
2頭のクマのやりとりを見ていて深い愛情のようなものを感じた。

大雪山では下界のクマより一足遅く今が交尾のシーズン。
新しい命を授かる季節だ。
交尾に成功した雌グマは、冬の冬眠穴の中で静かに出産を行う。
この雌グマは来年新しい子供を連れてこの場へ戻ってくるだろうか。
僕たちとは違う空間と時間の中で生きている動物達。
そこには人間と同じように様々な物語があるのだろう。
ここのところ北海道では天気の悪い日が続いている。
大雪山でも毎日雨が降り続いていた。
晴れてさえいれば夜にはいつも天の川が輝いているのだが、
そんな夜はしばらく過ごしていない。
先日、雨上がりの夜に何気なく空を見上げてみると、流れる雲
の切れ間から満月が見え隠れしていた。
速い雲の流れ、時折顔を出す眩しいほどの月の光。
雲が月に重なる瞬間、空の周囲が一瞬虹色に輝いた。
どこか不思議な光景に、僕は時間を忘れて見入っていた。
光にあふれる文明から離れ、暮らしてみると、
闇の世界を照らす月の光がどれだけ貴重なものかがわかる。
きっと、遠い昔の先人達にとってもそうであったに違いない。

何気ない自然の奥深さに気が付く瞬間。
もっともっと、
たくさんのことを見て
ココロに感じてゆきたい。
ヒグマの体の特徴は意外にもバラエティに富んでいる。
大きさはもちろん、顔つきや体の色や毛の長さなどが違っている。
性格も臆病なものから、のんびり屋、遊び好きなものまで様々だ。
仕事上ヒグマの個体識別が必要なのだが、特徴のないクマは識別
が難しく、いつも悩まされている。
それは普段の撮影対象としての見方とは全く違っている。
フィールドスコープを覘いて細部まで観察し、決定的な特徴を捉え
なければいけない。
このヒグマは顔と背中の色が白い。そして額にははっきりとした黒い点
があった。体の一部ではあるが、これほど色の薄いヒグマは初めて
見た。

北方領土やカナダには全身真っ白なヒグマが生息しているという。
もちろん「シロクマ」ではなく、「突然変異」でもないらしい。
数も少なくはっきりと解明はされていないようだが、「幻の白いヒグマ」
はいつの時代になっても解き明かされることなく「幻」であっていて
ほしい。
未知の世界があるからこそ、人はそこに様々な思いを抱き、ワクワク
とするものだ。
もしかしたら北海道のどこかにも「白いヒグマ」がいるのかもしれない。
大雪山の森では今、たくさんの野鳥達のさえずりが聞こえている。
雪解け間もない緑の広がり始めた森で美しい声を競い合うように披露するコマドリ
やミソサザイやルリビタキ。
先日、森の水場でキセキレイの雛を見つけた。
まだ産毛が残るこの雛は巣立ちをするにはまだ早すぎる。

天敵などが近付いて巣から飛び出してしまったのだろうか。
時々雛の元へやってくる親鳥は雛を連れ戻そうと森に向かって歩いては振り返り、
自分の後を付いてくることを促がすが、どうしても途中であきらめてしまう。
一生懸命に細く小さな声をあげて親鳥を呼んでいたこの雛は、結局2日間見守って
3日目の朝には姿を消していた。
無事に親鳥と一緒にいるのか、周囲をウロウロしていたキツネに食べられてしまった
のかはよく判らない。
この雛を目の前で見た時、逃げることもできない雛を手ですくって世話をしてあげたい
気持ちになったが、あえて止めることにした。
僕達の見えないところでこんな出来事が日常茶飯事に起こっているのだとすれば、これ
は一匹のキツネが子供に与える貴重な食料となっているのかもしれない。
この雛にはかわいそうだが、人間の一時的な感情によって自然界の成り立ちに手を出す
ことは結果的には自然の為にならないような気がした。
6月下旬、北海道では暑い日が続いていた。
山の稜線では高山植物が開花のピークを迎えている。
厳しい風雪をじっと耐え抜いた高山植物達が今、命を吹き返す。
高山には「お花畑」と云われるエリアがある。その景色を求めて大雪山
へ分け入った。
まだたっぷりと残雪を抱く山の斜面を滑り落ちないように、しっかりとつま先
を蹴り込んで一歩一歩進んでゆく。
ザックの重さが肩にのしかかった。
そして数時間かけて辿り着いた天上の楽園。
その景色を見た瞬間、一気に疲れが吹き飛んだ。
一年ぶりに出会うたくさんの高山植物達。

チングルマやウルップソウなどの高山植物がゆらゆらと風に揺れている様子
は可愛らしく、そしてなんだか意地らしくも見える。
全く人手が加えられていない土壌で、毎年これだけ美しく花が咲くことに不思議
さを感じた。
全ては自然のまま。
その事に大きな魅力を感じていた。
彼らは決して人間の目を楽しませる為に咲いている分けではない。
ただ「今」という時を精一杯に生きている。
太陽に向かって咲いている一輪一輪の花を見て、自然にそう思えた。
山の中腹にはまだたくさんの雪が残っている。
雪解け水によってできるこの大きな沼は、秋には水が涸れて広い
草原となる。それがこの沼が空沼(からぬま)と言われる所以だ。
鮮やかな新緑の中でゆっくりと雪が融けてゆく様子はなんだか
不思議な光景だ。
この雪の下には高山植物達が遅い春を待っている。
やっと地上に芽を出し、花を咲かせたかと思うと、それから3ヶ月
もするとまた雪が降り始める。
大雪山の夏の短さにはいつも驚かされる。
ここ数日、周囲でヒグマの痕跡がいくつも発見されている。山の裾で
冬眠していたヒグマ達は、雪解けと共に周囲に芽吹く柔らかい植物を
求めて徐々に標高の高いところへ登ってくる。
大雪山の短い夏を前にして、森の中で野生の息遣いが聞こえ始めている。

知床半島の最先端部、「知床岬」といえば普段は人が近づけない領域。
先日、そこへ行く機会を得た。
地元の漁師さんの小さな漁船に乗って断崖が続く海岸線を進むこと1時間。
そこにはひと気の無い深い自然の世界が広がっていた。
「深い自然の姿」とは、決して私達が想像する美しい景色や躍動に満ちた野生
動物の姿ばかりではない。
それはあらゆる自然の営みや偶然性によって創り上げられる「偽りの無い姿」。
辺りにはこの地の厳しい冬を物語るかのように、動物の骨が散乱していた。
広い草原から林へ向かう途中、大きな角を持ったエゾシカの頭骨が転がっていた。
その光景を前にして、僕はどんな美しい景色よりも深い自然を感じた。
厳しい冬を越えられなかったエゾシカは生命の境界を越えて、今穏やかな表情で
初夏の知床の空を見上げている。
他者の死を前にして知るのはいつも、生命のもろさであり、同時に私達人間も
決して強くはない生命力で、限りある時間の中を生きているということ。
そのことに気が付いた時、失望するのではなく、むしろ「今という時」を精一杯生き
なければいけないという気持ちが強くなる。
一頭のエゾシカの死は他のたくさんの動物達に恵みを与え、そして人間にも大切な
ことを教えてくれる。
「全ての生命が繋がっている」と感じるのは、つまりそういうことなのかもしれない。


森の中から大きなヒグマが現れた。
ヒグマは体の大きさの割りに歩き方は驚くほど静かで、ほとんど物音を立てない。
過去にも森の中を歩いていて、気が付くとすぐ近くにヒグマが立っていることが
何度もあった。
初めてヒグマに出会った時はとても冷静になることができず、心臓が止まり
そうになりながら一目散に走って逃げてしまったものだが、今は少し冷静に
向き合うことができている。
彼らを前にして感じるのは、「森の主」、「自然の神」としての「威厳に満ちた
空気」。
その延長線上に「恐れ」という感情があるものかもしれない。
「恐れの感情」とは、実は私達が生きていく上で大切な感情のひとつ。
人間以外の他者を恐れることが少なくなった今、日常の中で私達の行動や
感情を抑制するものはほとんどない。
そう考えると人間を戒めてくれる「ヒグマ」の存在がとても貴重に思えてくる。
ヒグマの存在は、森を守ってくれているのだ。
毎年何度かニュースで耳にするヒグマによる人身事故や農作物被害。
その事実を受け止めた時、ヒグマを憎むのか、人間側の責任と問うのか、その
捉え方がとても重要になってくる。
ただひとつだけ思うのは、人間は決して「この世の支配者」ではないということ。










