暦の上では、既に「立秋」。確かに夜には鈴蟲の聲も聴かれ秋の気配も感じられるようにはなりましたが、日中の暑さは寧ろ一層厳しさを況しているかのような日が続いています。皆さま、暑さに負けず夏を満喫してお過ごしですか?大変にご無沙汰しておりました。お百姓を目指す、川口です。
恥ずかしながら、当コラム、なんと、2か月以上も更新しておりませんでした。
反省しようと、改めて過去の記事を眺めてみると、どうもこれは今年に限った事ではなく、毎年毎年、初夏から盛夏に掛けて更新が滞っています。
一体全体、毎年何にうつつを抜かして居るのか?と申しますと、そう、お米を育てているのですね…。
早いもので、今年はわたしたちにとってもう5回目のお米作りになりました。
ひと口に「お米作り」と謂っても、世界中には実に様々なやり方があるのですが、わたしたちは「自然農」に沿ってお米を育てています。
私がここで「自然農」と申しておりますのは、耕さず、農薬(除草剤)も、肥料も用いることなく、草や蟲を敵としないで、作物を栽培する、という事です。それ以外の細かい点については夫々条件に応じて別々ですけれどね。
6月には田植えをします。田植え機を使えば1時間も懸らない作業ですが、わたしたちの場合には、約10日程懸ります。
田植えを終えたら除草をします。除草剤を使っている方々にとっては全く発生しない作業ですが、わたしたちの場合は、稲が幼穂を育て始める8月初旬までの間、時間の許す限り、延々と続けることになる作業です。
ですから、この初夏から盛夏にかけての日々は、
朝起きて、田に行き、
お昼に戻ってご飯を食べたら昼寝をして、
夕方再び田に行き、
戻ってご飯を食べたら、
寝る。
ただそれを繰り返して日々を過ごします。
今年もそんな風に過ぎました。
田植えも、除草も、実に単調で、かつ、なかなか終わりが見えない、将に気が遠くなるような作業ではあるのですが、もう疲れ切って他に何もする気が起きない、などという程の重労働という事では決して無いのです。
そうではなくて、どうも、そうしているだけで満たされてしまって、敢えて他の事を求める気が起きない、そんな感じになってしまうのですね…。
朝のヒンヤリとした空気を吸い込みながら朝露を踏んで田へと歩いてゆく時の新鮮な心持ち。
夕暮れの空に拡がる夕焼けの美しさを見上げ、その一日の暑さ疲れを忘れてぽかんと立っている解放感。
そして、足元には水滴を浮かべた稲の葉先が光りながら風に揺れて、その真珠のような水滴は、朝には日の出と共に輝きつつ消えてゆき、夕べには残照に輝きつつ拡がって夜の帳に包まれてゆきます。
あぁ、美しいなぁ…、と眺めて過ごす、朝、夕…。
畑や山や家の手入れ、気になっている工作など、したい事はそれこそ幾らでもあるのです。
以上、夏休みの宿題、いや、コラムの更新をしていなかった言い訳でした・笑
豆の季節は、陽射しが強くなって山菜採集に歩き廻るにもそろそろ少し暑いなぁ、という初夏にやってきます。
我が家の畑の一番手は、キヌサヤエンドウ。
海に面した街の魚屋さんから、瀬戸内ではこの季節、青豆が美味し過ぎるから、皆が魚を食べるのを忘れてしまって魚の売り上げが落ちるのだ、という話を聴いた事があります。本当かどうかは解りませんが、その魚屋さんに我が家の摘み立ての青豆を少し持って行ったら、凄い量のお魚をオマケしてくれた事がありましたっけ。
確かに、筍の季節の終わりを告げる、淡竹、蕗に各種青豆を散らした精進散し寿司はこの季節のオールスターを揃えた最高のご馳走だ、と想います。
今年の梅雨時も、お豆を沢山食べて、マメマメしく働いて参りたいと想います。
すっかり更新間隔が開いてしまっているのに、桃生さんから素敵なお手紙(ライター紹介記事)を頂いてしまい、恐縮しつつ、とても嬉しくて、喜んでおります。今はこんなになってしまいましたが、6年前までは東京の外資系企業のサラリーマンだった、お百姓になりたい、川口巽次郎です。
実は、桃生さんのお手紙を読んでから、改めて自分がこちらで最初に書いたコラムを読み返してみました。
わたしがこの谷間での田舎暮らしを始めてから5年、こちらにコラムを書かせて戴くようになってからでも、既に3年もの月日を過ごして来たのですね…。
誠に光陰流水の如し、の感を深く致しますが、実は、今の暮らしの基本はこの連載を書き始めた頃、田舎暮らし3年目には既に出来上がっていた事に改めて気付かされて、少し驚きました。(言い換えるならば、この三年間で大して進歩、成長していないのかなあ、と苦笑せざるを得なくもあるのですが…。)
その基本とは、
食材は田畑と山から調達し、自分で調理する。
車や農業機械は持たない。
田舎のコミュニティーには無理に入らない。
の三つです。
どれも深い考えがあってした事ではなかったのですが、
たまたま住まわせて戴いた家の目の前、近所に田畑山があったから…。
車は持っていなかった(免許を失効していた)し、農機もこの家には無かったから…。
集落の皆さんとは縁の薄い余所者だったから…。
といった感じで、全て偶々そのような流れだったからそれに任せただけなのです。が、結果的には、これらを基本とした事で、わたしのこの谷間での田舎暮らしは自分の想像を越えて豊かになり、続けられるようになったのかもしれないな、と改めて想います。
田畑山からのめぐみを余さず戴こうと工夫を重ねている内に、全く買い物などに出掛けなくとも食べるモノが無くて困るという事は無くなりました。
勿論、塩や昆布、油、小麦粉など、今はまだ此処だけでは調達出来ないものはまとめ買いして備蓄しています。が、東京で暮らしている頃には毎日のようにせっせと買って来ては冷蔵庫に入れていた牛乳、お肉の類は、ご縁がある方々から月に一度だけ届けて戴く贅沢品になりました。それだけで十二分なのです。
この谷間の周辺に毎日出掛けて行かねばならないような用事などありませんので、基本的にはずっと此処の家(田畑山)で過ごします。自転車で動くのも精々週一回程度。概ね往復2時間程度の行程を走る事が多いですが、それ位がとても良い気分転換になります。(毎日田畑山で身体は動かしていますので、運動は別にしたくは無いのですけど。)車があったら良かったのに…、と想うこともほぼ全くありません。
田畑では、こちらの記事でほんの少しだけご紹介させて戴いた川口由一さんの「自然農」を実践しているので、エンジンの付いているような農機を使う必要性も全く感じていません。まぁ、農機は車以上に高価ですし、置く場所もありませんから、そもそも持てませんけれどね・笑
川や道路、共同墓地の掃除などの集落総出の共同作業には参加させて頂いていますが、伝統行事の当番やお役には未だに一切入れて頂いていません。最初は何だか寂しく感じた事もありましたが、特にお祭り事などについては、集落独自のやり方や権利(お金)も絡む個々の事情があって、余所者が加わっても早々にお役に立てるような事は無いのだ、と後になって知りました。今まで入れて頂かなくて良かったなぁ、と今では想っています。
そんな暮らしが、僕にとっては快適で、何らの不便も感じないどころか、愉しくて仕方がない、というのが正直な所です。
3年前にも書きましたが、田舎に移った当初はこんな暮らしを長く続けられるとは全く想像していませんでしたので、こうして5年を過ぎてもまだまだこの暮らしが続けられそうである事は驚きです。
田舎暮らしを始めた当初の私は、よく自分の状態をこんな風に喩えて考えていたものです。
それまでのわたしのサラリーマン生活は、ポンコツなエンジンを騙し騙ししつつ懸命にゴンゴンと廻して雲の上の高空を維持して飛んでいたプロペラ機のようなもだった。墜落したら大変だ!と、これでも随分とじたばた足掻いて飛び続けていた20数年間だった。
でも、そんな此処での暮らしの中では最も大変な時期すらもが、何か愉しみに満ち溢れたものに感じられます。
春分を過ぎました、 田畑では麦の緑が眼にも鮮やか。梅の花が散り始め、木瓜が咲きました。桃の花ももうすぐ開きそう。 間もなく桜の季節、春爛漫を迎えつつある谷間より、久しぶりのご挨拶です。
ご無沙汰しておりました。百姓を目指して丸五年を過ごそうとしています。 川口巽次郎です。
昨秋にお迎えしたJunkstageの皆さんとの想い出も最早、春霞のかなたに朧に浮かぶばかり。 でも、しつこく書かせて頂きます。
yuuさんが書いて下さっていましたが、皆さん、夕食の準備が終わった頃には将に「疲れ切って」いました。 直接の原因は、以下の3つです。
1) お米の籾摺り
この件については、既に先回書かせて頂きました。改めてYuuさんから頂いた写真をアップしておきました。しつこいですが、とても現代日本の光景だとは想えません(笑) ぜひご覧ください。
2) お魚の調理
最初のお買い物編で当日仕入れた魚についてはご紹介しました。が、この仕込み、大変に手間のかかるものなのですね。
そして、
3) 竈の火の番
当日の夜ご飯のメイン料理は、蟹と鶏でしたが、この2品は共に庭の竈で皆さんに火の番をして調理して頂きました。いまどき、キャンプでも無いのに、もしくは、キャンプであったとしても、野外で薪炊きで調理をする、というのは珍しいですよね。
という事で、今日はお魚について。
こちらでご紹介した通り、仕入れた魚は全て海から揚がったままの状態、というか、殆どが調理する時まで活きてます。 都会の魚屋さんの店頭や、スーパーの鮮魚売り場でパックされて並んでいる魚たちとは全くの別物なのです。
当然ながら、鱗もついているし、鰓も内臓もついている。
勿論、そんな素材だからこそ美味しく頂けるのですが、実は、瀬戸内の魚には大きな特徴があります。
それは、大きくない、というか、小さい!という事です。
当日のメニューからお魚料理を振り返ってみましょう。
1) お刺身(サヨリ、コチ、カレイ、スズキ、チヌ) 2) ネブトと小蝦の唐揚げ: 3) 小蝦と南瓜のサラダ: 4) 釜茹で渡り蟹:
4) の蟹については下拵えは要りません。釜で茹でる。以上です。
が、他のものは結構手間が懸るのです。
先ず、2) のネブトと小蝦。
ネブトの正式名は、「テンジクダイ」。岡山県東部では「イシモチ」とも呼ばれる小魚です。(関東でイシモチと呼ばれる魚ははるか大型の別物、瀬戸内ではグチと呼ばれます。)実は沖縄の珊瑚礁で無数に群れている姿が有名なのと同じ種類のお魚です。
このネブト、どれ位のサイズかと申しますと、小さいのは小指の先位、大きくても精々親指の先程度のものです。 まぁ、唐揚げにしたら1人で10匹程度は軽く食べてしまいますので、当日の10名分は軽く100匹を超えていたと想います。
先ずはその100匹以上のネブト君たちの鱗を綺麗に洗って外してから、一匹ずつ、頭を外します。「イシモチ」という別名が示す通り、ネブトの頭の骨は非常に硬く、食べ難い為です。胸鰭の辺りを摘まんで身体の1/3位の大きさの頭を引っ張ってちぎりとります。
これ、お魚係りになった皆さんにやって頂きました。
言うは易しですが、結構難しい。取り組んで下さったお嬢さんから、「え、私、これ無理!身が壊れちゃう。」という聲が漏れたのを聴いたような覚えがあります。
でも、100匹以上、きっちり頭を外して頂きました。
次は小蝦。 瀬戸内では1年を通じて実に様々なサイズ、種類、名称の小蝦を食べます。 この日の蝦はまぁ、小さい方でしたね…。どれ位小さいかというと、大きくても小指位のサイズでした。
小蝦の唐揚げは頭ごと丸ごと全部揚げて食べられますので特に下拵えはありません。嬉しい事です。
が、サラダの方は、茹でた蝦の頭を外して殻を剥いてから使います。 こちらも、まぁ、お一人5匹は軽いという感じですので、50匹以上は、剥いて頂きました。
言うは易しですが、これも結構チマチマとして難しい作業です。取り組んで下さったお嬢さんから、「え、私、これ無理!剥けないで身が壊れちゃう。」と呟いていたのを聴いたような覚えがあります。
でも、50匹以上、きっちり殻を剥いて頂きました。
そして、お刺身。
サヨリ5本に、コチ3本、カレイ、スズキ、チヌ。
実は、わたくしもお刺身用にこんなに沢山の種類のお魚を用意したくは無かったのです。 が、何故かその朝の市場には小型の魚ばかりで人数分を纏めて取れる大きな魚がいなかった・・・。 コチやスズキ、チヌは1枚で10人前のお刺身が採れる程のサイズにもなりますが、この日のものはどれも小さかった。
それで仕方なく数を増やすしかなかったのです。
しかも、買い物から戻ってから、皆さんの到着までに下拵えをしておく時間が無かった為、私が卸した身から小骨を抜いてお刺身にする工程は全て皆さんにお任せする事となってしまったのでした。
合計、20枚以上ものわたくしが卸した切り身をお刺身にひいて盛り付けて頂きました。
上記の作業を全てやって下さったお魚係りだった方々、あなた方は本当に素晴らしいです。 あなた方は、間違いなく、どこに行っても、どんな時代が来ても、生き伸びて行ける方だと想います!(笑)
でも、やっぱり、「これ、絶対無理。私がやると身が壊れる。」という呟きも聴こえた覚えが…(笑)
何もそんな小さな魚を食べなくても…、と想われる方も多いと想います。かつて東京で暮らしていた頃のわたくしも間違い無くそう想っていたでしょう。
しかし。。。、
実は、瀬戸内の魚の美味しさの神髄はこうした小魚、雑魚にこそあるのです。
有名な「ママカリ」も実はそんな雑魚の一つなのですが、私が特に凄いなぁ、と想うのは「ギギ」です。
「ギギ」は「ヒイラギ」と呼ばれる魚ですが、精々体長5cm程度の薄い菱形のお魚で、しかも、殆ど身らしい身が付いていません。お醤油で煮付けるのが一番ですが、そのまぁ、薄っぺらで小さい事といったらありません。その薄く小さいお頭付きを1枚だけお皿に乗せて戴くのが基本です。尖ったお箸の先でチマチマチマチマと身を突いては有るか無しかの身を解し、チョビチョビと摘まんでは口に運びして頂きます。身を解して食べてしまったら、これまた小さな骨を上下裏表しゃぶって間に残っている僅かな身までを舐め尽くします。小さな身体に似合わず、実に旨味の濃いお魚なのです。
純粋な量的には、ギギ1枚を食べ尽くすのと、鮭の切り身の「一口分」とで殆ど変りがありません。
ところが、そんなギギ1枚が、鮭の切り身「一切れ分」を遥かに超える美味と満足感とを与えてくれるのです。
「ギギ」を戴くと、食べるという事の奥の深さを想わずにはいられません。
瀬戸内に移って来た当初は、わたくしも勿論そんな事は想像も付きませんから、どうして、瀬戸内の魚というのは調理にも食べるのにも、こんなに面倒臭い小魚ばかりなのだろう?と想っていた事でしたが、今は、小魚にこそ本当の美味しさがあるのだ、と想うようになっています。
ですから、皆さんをお迎えした当日、偶々市場に調理のし易い大型の魚が無かったのは、そんな、瀬戸内の真実を東京からのお客様達に伝えたいと想った瀬戸内の神様たちのお計らいだったのかもしれないな…、と今振り返りつつ想うのです。
皆様、寒中お見舞いを申し上げます。
旧暦の師走も後半、大寒の候となり、日本列島は毎日よく冷え込んでおるようですね。
毎日、勤めに出掛けることもなく日々を過ごすようになって、いつの間にやら5年の時が過ぎようとしています。基本的に、半径100m 以内だけで日々の全ての用事も食べ物の調達も済んでしまい、お金には触れることすら珍しい、という生活になりました。当初は不安ばかりでしたが、今ではそんな暮らしが当たり前のこと、大きな安心感をもたらして暮れる様になって来てました。
さて、第弐回でぴたりと更新が滞っているわたくしの「合宿の想い出」の記事を後目に、Yuu さんの連載は新しい年を迎えてすぐに完結してしまいましたが、皆さん、お読み頂きましたでしょうか?私もまだしばらくはこの「合宿」について書かせて頂こうと想っておりますが、お客様としていらして下さった Yuuさん、そして、ジャン子さんの記事もぜひご覧になってください。
さて、今回は、自然農仲間の友人が制作した素晴らしい百姓グッズをご紹介しておきたいのです。
こちら「百姓かるた」 !!! です。
日本中、いや、世界中の「百姓」を目指して日夜奮闘する全てのご家族にっ!(って、そんな家族、あんまり居ないかな…?)
京都新聞でも紹介されました。
皆様のご家庭にもぜひ一組常備いただけますれば、寒い冬の夜も、ほのぼのとした家族団欒の時が約束されることでしょう!
ご興味を持たれた方は、ぜひ、こちら hyakushoukaruta☆gmail.com まで、(☆を@に変えて)お問い合わせください。
それではまた!
いつの間にか、暦も小雪、雨に雪が混じり始める頃となりました。 「北風木の葉を払う」候と云ふ通り、荒神様の銀杏も木枯らしに吹かれていつの間にかすっかり裸になっています。
稲刈りを終えた私たちの田では稲架に架けた稲がカサコソと風に吹かれています。日に日に募る寒さに追い付かれない様にこれから12月初旬にかけて稲の脱穀を進めて行きます。こうして寒くなってくると、新米のいのちが身体に沁み通るような美味しさが何よりも待たれるようになってきます。葉物や根菜も美味しくなる季節です。
さて、先回のお買い物編に引き続きまして、Junkstageのライターの皆さん、8名様が秋の合宿と称してお越しになった時の想い出、第弐回です。
殆どのメンバーは、前夜東京から今や残り少ない夜行列車で岡山に早朝にご到着、それから目一杯観光などを愉しまれてからのご到着でした。お若い方々ばかりとはいえ、お疲れだったと想うのですが、ここでは容赦ない労働が待っております。
自分で食べるものは自分で誂える!
というのが、この谷間にご滞在になる方々の基本です。それでも、今回の皆さんは徹底してそれを実践なさって下さいました。エライなぁ!
私の処でのご飯の支度と云えば、何と云っても「籾摺り」です。以前の私の記事を読んで下さっている方も多く、驚いたことに皆さんこぞって挑んで下さいました。
8名もの方々が続々と籾を摺る光景は大変な圧巻だったと想います。何しろ、スペースの制約もあって、今回は屋外、庭先に広げた茣蓙の上での籾摺りだったのですから。
私自身は魚を捌くのに忙しくて残念ながらその場の様子を観ることが出来なかったのですが、実に驚くべき積極性で皆さんが籾摺りに挑戦して下さっている様子は聲で聴こえておりました。実は今回いらっしゃった方々はほぼ全員うら若くも美しいお嬢様方ばかりです。そんな皆さんがひたむきに籾を摺る、とても、現代の日本の光景とは思えません。
素晴らしい写真もありますので、出来ることならばこちらに掲載させて頂きたく、著作権者に交渉したいと想っております。
わたしの妻が籾摺りの指導をしたのですが、量を間違えて最初にお願いしたのは必要量の半分。で、改めて更に籾摺りして戴いた為、結局真っ暗になるまで摺って頂きました。寒かったと想います。とても、現代の日本の光景とは思えません。
それでも、皆さん、不平の一言もおっしゃらずにひたむきに摺って下さいました。
摺った玄米は無事、翌朝のお粥になり、皆さん、完食して下さいました。
美味しかったのだと想います。うれしいことです。
自分で手を懸けたいのちを戴くこと、そんな行為から湧き出てくる感謝の気持ち、歓び、そして、美味しさに少しでも触れて頂けたならば、わたくしにとって、それ以上に嬉しいことは無いのであります。
いつの間にか、立冬を過ぎました、
荒神様の銀杏も黄金色、私の田の稲もすっかり黄金色です。
早生種からすこしづつ進めて来た稲刈りも今週中には終わります。
あっという間の4年目のお米作り。まだまだ食卓にあがるまでには手が懸りますが、それでも確かな実りを手にしてほっとしている百姓見習いの川口巽次郎です。
先週末、そんな谷間に、嬉しいお客様をお迎えしました。
Junkstageのライターの皆さん、8名様が秋の合宿と称してお越しになったのです。
その際の顛末は、yuuさんを始め、いくつかのコラムでご紹介下さっております、
そこで、私も、お迎えした側の視点から、その愉しかった時間を何回かに分けてここに記録させて頂こうと想います。
先ずはお買い物編。
ランチ作り体験で10名様以上のお客様に里山暮らし体験をして頂いた事は何度かありますが、泊まり掛けで来て戴いたのは初めての事です。折角の機会ですし、お魚の美味しくなる季節でもありますので、早朝から自転車で買い出しに出掛けました。
一番近くの市場ではないのですが、敢えてお気に入りの海沿いの魚市場まで、自転車で往復2時間以上の道のりをものともせずに参りました。
以前書きましたが、流石に毎日これでは身が持ちませんが、月に一度も無い事ですから、十二分に愉しめるサイクリングです。幸いお天気も良く、峠を越えて下りにかかる頃には丁度目の前に日が昇って来て、霧の間に差し込むオレンジ色の光がなんとも美しく輝いておりました。
海沿いの道に出ると、多島美の美しい波も穏やかな瀬戸内海が拡がり、吹く風も爽やかです。
市場に着くと、そこには既に沢山の人が溢れていました。祝日の朝ですからね。
次々とトロ箱に詰まった蟹や蝦が獲り合うように売れていってしまうので、買い負けないように頑張りました。お刺身用の中大型魚がやや品薄でしたが、それでも、皆飛び切り新鮮な魚を仕入れる事が出来ました。
こんな感じです。
お刺身用: ハネ(鱸)、チヌ(黒鯛)、鰈、鯒(コチ)、細魚(サヨリ
豪勢です。
ちなみに、この魚たちは皆主に定置網で漁ったものです。
定置網というのは、瀬戸内でもこの辺りで特によく見られる漁法です。
その名の示す通り、魚を採る網そのものは決まった場所にいつも設置されていて動かしません。沿岸から見ると、海の上に棹が何本か規則的に立てられてその棹に沿って網が張られています。わざわざ舟や人が引っ張って網を動かさなくてもお月様の力でとどまることなく日々繰り返される潮の干満によって魚が勝手に入って来てくれる、そんな聴くだに素晴らしい漁法なのです。
先ず、潮が満ちると陸近くの浅瀬で大量に発生するプランクトンを求めて小魚たちが寄せ集まって来ます。
すると、続いて中大型の魚たちがその小魚たちの後を追って集まります。
潮が満ちている間の浅瀬は謂わば魚たちのダイニングルームなのですね。
やがて、潮がひき始める頃になると宴を終えた魚たちが沖へと戻って行きます。が、この帰り道に待ち構えているのが、上記の定置網。
岸に向かって長く伸びた網にぶつかった魚たちはその網に沿って沖へと泳ぎ、自然にその先に円く張られた網の中に誘導されます。そして、出口を見失ってその網の中をぐるぐると回遊しているうちにやがて漁師さん達がやってきて掬い上げられる、という寸法です。
この定置網には特に出口を塞ぐ蓋らしきものはありませんので、実は一旦は円い網の中に誘導された魚たちもその7割程はそのまま外へと泳ぎ出て行ってしまうものなのだそうです。
3割ほどの、私のようにのんびりした(というよりも有体に謂えば間の抜けた)お魚たちだけが網の中である事を特に気にも留めずにぐるぐると廻っている内に、漁師さんに掬い上げられる、ということになるのだそうです。
我が同類ながら、実に何とも間が抜けているというか、のんびりとしたお話ですよね?
でも、そんな風にして漁られた魚はどれもその季節に旬を迎えたものばかり。しかも、満腹で幸せの絶頂状態、ストレスも受けていない最高の状態で水から揚がってくるのですから、これ以上に美味しいものは望めない、という素晴らしいお魚たちな訳です。
こうして仕入れたとびきり新鮮な瀬戸内のめぐみを皆さんと一緒に調理して戴いた訳ですが、その模様は第二回以降に詳述させて頂きます。
ところで、市場で魚を仕入れる愉しみはそのとびきりの品質と安さだけではありません。(ちなみにお値段はこれだけ大量でも1人分は諭吉さんを越えない程度なのですから驚きですが。)
更には、今回のように大人数分の仕入れになると、色々なオマケを戴くことが出来ます。
お会計の際に、あ、あのママカリを少々、それから、そっちのトロ箱に入っているいろんな魚、安く分けてくれないかな?なんてお願いをしますと、それこそ、まぁ、持って行って、という事になったりするのですね。
瀬戸内の魚の本当の美味しさは「雑魚」と呼ばれる小魚にこそあるのですが、そんな「雑魚」をオマケに付けて貰っていただくのがまた何とも贅沢な幸せなのです。
今回は、食べ切れない分をお隣のおじいさんにもお裾分けをして、普段から頂戴しているお野菜のお礼とすることもできました。
いやぁ、ちょっと疲れるけど、たまの買い物は愉しいなぁ…笑
では、また次回。
今日は大型の台風が本州を襲っていますが、この谷間ではお昼過ぎには雨雲が去って吸い込まれそうに高い秋の青空が拡がっています。今夜は中秋の名月、美しいお月様を拝めそうな、お百姓を目指す、川口です。
さて、我が家の自然農の畑の一角では、今年も和棉たちの莢が弾けて綿を吹き始めました。 こちらは弓ヶ浜棉の在来種の茶棉です。
所謂、「コットンボール」ですが、元々の英語では Cotton boll と綴ります。実は、ball (球)ではないのです。bollとは「莢」(さや)の事なのですね。
上の写真の右上に緑色をした桃の果実のようなモノが見えますよね。実はこれが弾ける前の棉の莢なのです。開花、受粉から10日程でこのような実を膨らませ、40日程して種が成熟するとこの莢が弾けて左側のように綿が吹き出すのです。
英語的には、どちらも綿の莢、コットンボール、という事になるのでしょうが、日本では昔は綿が弾ける前の緑色をして垂れている莢を「桃(モモ)」とか、「朔(サク)」と呼んで弾けて垂れている「綿」とは区別していたようです。
戦後すぐの頃の小学一年生の「いろはにほへと」を教える教科書の「わ」の所には絵付きで、弾けた棉の実を「わた」、そして弾ける前の朔を、「もも」、などと書いて区別して教えていたのを博物館などの展示で見た事があります。
江戸時代頃からその頃までは日本人にとってそれ程に身近なものだったのに、今は知ってる人の方が珍しいですよねw
最近はお花屋さんなどでドライフラワーとして綿の枝が売られているのを目にするようになりましたが、それらは米綿などの新大陸綿で、旧大陸のアジア綿に属するこの写真の和棉とは随分風情が違います。米綿の方が大きさもずっと大きいのですが、一番の違いはその綿の吹き出す様です。米綿は、莢が弾けても莢と綿は上(空)を向いたままで、莢と綿も殆どくっ付いたままなのです。
それに対して、和棉の場合は写真のように綿が下方向に吹き出して、しばらくすると垂れ下がって綿がぶらぶらと揺れるようになるのですね。
これは、元々熱帯地方の植物であった棉が長い期間をかけて多雨のモンスーン気候に適応する種へと人の手で選別されて来た結果だと想われます。莢を下に向ける事で種が水で痛まないように守っているのでしょう。
実は、室町時代までは、まだ日本の気候で育つ棉はなかった為に、木綿布は輸入品の超高級品があるのみで、庶民には決して手の届かないものでした。
そんな辺りの事情を、民俗学の創設者柳田國男は『木綿以前の事』に書いています。
今では夢のようなお話です。
そんな訳で、「和棉」、ぜひぜひ、大切にしてゆきたいものです。
私はこの棉を収穫し、繰り、打って、糸を紡いで、自家製の布を織る、という贅沢極まりない作業もしています。
糸を紡ぐのにはこんな手作りの独楽(コマ)をもっぱら使っています。
立て簾越しに差し込む、すっかり穏やかになった秋の陽を浴びつつ、独楽で紡ぐそのスピードは糸車(チャルカ)の数百分の一、紡績機械と比べたら数千億分の一かな…。でも、その歓びは無限大なのです。
今日は台風へと吹き込む温かい湿った空気の影響で雨が降ったりやんだり、秋冬野菜の種降ろしも終盤を迎える頃ですが、一休みの一日になりました。 ご無沙汰しております。お百姓になりたい、川口巽次郎です。
今年の夏もこの谷間は小雨でした。灌水もしてあげない中、野菜たちは一生懸命に身を縮めて暑さと乾燥に耐えつつ実を結ぶ準備をしていました。中には耐えきれずに枯れてゆく作物もあります。が、こんな小雨でも乾燥を好む瓜類はとても元気で、今年は胡瓜、縞瓜(冬瓜の親戚みたいな瓜)、メロンなどが特に良く採れました。中でも、余計な肥料や水をあげないで育った自然農のメロンの美味しさには、将に目を見張らされました。
立派に大人に成長し、出穂・開花した田のお米や畦の豆たちも今はもう結実して、これからは日夜、実を太らせて立派な子孫を残す為の営みへと入っています。幸せな晩夏の時間が過ぎて行きます。
先日、そんな田の様子を畦から眺めていると、お隣の畑の方が声をかけて下さいました。
「あなたの稲は農薬も使っていないのに、病気にもかからずに立派に育っていますねえ!一本づつ植えているから、株間も大きく空いていて風通しが良いからでしょうね。」
ちなみに標準語に翻訳する前の原語では以下のような感じです。
「ああさんとこんいねあくすりもせんのにええようんなっとってどがんもねえな!いっぽんばあうえよるんじゃけえ、ようかぶがすいとうでかぜんとおるけえらくじゃ。」
煩雑になりますので、以下は標準語のみで。
私:「そうですね、よく育ってくれますよね。」
お隣さん: 「それでも蝗(イナゴ)に食べられるのは避けられないな。沢山居るなぁ。」
私:「全く沢山跳んでますよね。皆さんはイナゴ対策でも農薬を撒くのですか?」
お隣さん: 「蝗(イナゴ)対策に農薬撒く人もなかには居るけれど、蝗はその時だけ他所の田畑に逃げて出てしばらくしてから戻って来るだけだから大した効果はないな。」
私:「そうでしょうね。でも全部食べ尽くされてしまうような事はないし、我が家の稲の葉はしっかりしていて固いから、寧ろ稗を好んで食べてくれたりもするみたいですから、気にしなくても例年通り何とかなりますよ。」
お隣さん:「せっかく沢山居るのだから採って食べたらよいでしょう。」
というと、サッと手を伸ばして握った拳の中には蝗(イナゴ)が見事に治まっていました。
そして見る間に二匹三匹と捕まえて…。
という事で、仕方が無いから、わたくし、蝗を食べてみることにしました。
以前、お隣のおばあちゃんが遠くを見るような眼差しで、「田で捕って帰ったイナゴを炉端で塩焼きにして喰うたのが旨かったんじゃぁ…」と云うのを聞いて以来、いつかは喰べてみたいものでもあるな(でもちょっと怖い・笑)、と想っていましたが、ついにその時がやって来たのです。記念すべき我が百姓人生における狩猟生活への第一歩です。
数年前には猪を倒して豪快にその肉を焼いて喰っているマッチョな自分、というのを妄想していた事もあったのですが、意外にもスケールダウンしたデビュー戦となりました。
先ずは、私も蝗を捕まえてみます。最初は結構難しいものですが、何故か個体によっては私を舐めているのか碌に逃げようともしないで捕まるものもいます。何度か逃げられながらも試すうちには、子供時代に蝉やバッタを捕まえた頃の身体感覚も甦り、あっと云う間に10数匹を捕まえる事が出来ました。
この調子ならば売る程に捕獲する事も出来そうだ、と調子に乗りそうにもなりましたが、買ってくれそうな人も想い付かないし、もとより自分たちではそんなに沢山食べる気にはなりませんので、あっという間に狩猟は終了。
お隣のおばあちゃんは、蝗を捕まえてはその場で腰にぶら下げた針金に刺して筏(いかだ)のように並べていたものだった、と言っていましたが、初心者のわたくしにはそれは高度な荒業に想われましたので、現代人らしく、取り敢えずはビニールの袋に入れました。
袋の中でバシャバシャと跳ね回る音が哀れを誘います。
家に帰って、竹串に刺し並べ、直火で炙って羽やらを焼いてから、フライパンで塩煎りにしました。
なんだか香ばしい良い匂いが漂いました。
そして、晩ご飯の日本酒の肴に。
妻が小さな一匹を口にして言いました。「これは、ししゃもだねぇ!」
……
まぁ、そういう事です。
自然農の田では蝗も格別の味に育つようでした。
実はわたくし、大人になってからは蟲さんが大の苦手だったのです。自分がとうとうこんな事になったなんて、と感慨も一入に深いものがありました。
わたくしの狩猟生活、もうこちらの方面にはこれ以上進まなくても良いよなぁ、ともおもふ夕べ。
お酒が沁みました。
ちなみに、サラッと書きましたが、活きた蝗を火に炙る為に串刺しにするのが都会っ子には結構ハードルが高い様に想われました。まぁ、活き海老に串を打つのに比べればカワイイものですけど、蟲はまた格別ですからね…。
実は、後にご年輩の方に蝗の捕り方を見せて頂いたのですが、その方はその辺に穂を伸ばしている稗の穂軸を折り採って、捕まえた蝗の腹側の胸の辺りから背中に向けてさっとその穂軸を貫き通していました。すると蝗はぴくりともせずに静かになります。実に鮮やかな適切な殺め方でした。使うモノも全て身近な自然に還る素材でエコの極みです・笑。今後は私もこのやり方を見習おうと想います。
さて、次の狩猟生活へのステップアップの道は、池の鮒、空の雀か、はたまた、最近復活しつつあるという山の野兎か?乞う、ご期待を。
ピーカンの夏空の下、黙々と朝夕の田の草刈りに励んでいる百姓志望の川口巽次郎です。
田植えを始める6月中旬から田の除草を終える8月上旬までの期間は、私のような「なんちゃって」な自給農にとっても農繁期、存分に田畑で過ごす日々となっています。
そんな日々の一番の愉しみは何と言っても毎度のごはん!
早朝から朝露の輝く畑を抜けて田へと向かう。田で草を刈る間に陽は高くなり、眩しい日差しに焼かれて汗びっしょりになって戻る。火照った身体を水を浴びて冷ましてから食べる昼食!
そして、漸く傾いた太陽に焼かれた大地の熱気がまだ冷めぬ中再び田に向かい、夕焼けの残照が青黒い帳へと変わるまで作業して、月の明かりに映された自分の影を追うように家に戻る。ほっとするような涼しい風を感じながら頂く夕食!
毎食、これ以上のご馳走なんて有り得ないよなぁ…!と、文字通り噛み締めています。
最近は、自分たちの「自然農」の田畑からの作物だけで食卓を満たすことが出来る日が多くなった事も美味しさが益している一因なのでしょう。
より多くの人が、この素晴らしい美味しさに目覚める日がきたらどんなにか良いだろうに、と(誠に大きなお世話ではありますが・笑)想いを馳せずには居られない、そんな日々(毎食)です。
さて、唐突ですが、私がここJunkstage書いてにコラムを書いている「川口巽次郎(かわぐちたつじろう)」という名前、これは本名ではなくペンネームです。
わたくしの母方の祖父の氏名の漢字一文字だけを変えたものです。
件の祖父は、先の戦争中に満州で亡くなりましたので、私が生まれた時には既にこの世には居りませんでした。時に想い起こす縁(よすが)にと、ここで使わせて貰うこととしたのです。ただ、祖父と全く同じ氏名にすると、何やら重いモノを背負うような気がして、敢えて一文字だけは別にご縁のあった漢字に変えてあります。
ちなみに、「川口」と謂いますと、「自然農」に取り組んでいらっしゃる方々は、川口由一さんを連想されるでしょう。
川口由一さんは、30年ほど前からただお一人で取り組みを始めた「農」の在り方を、「自然農」と名付けられて、静かに、たんたんと、世に伝える活動をなさっていらっしゃる方です。
以前、極く簡単にご紹介した通り、私自身も5年前に田舎で暮らし始め、畑で野菜を育て始めた当初から、基本的に作物の栽培は「自然農」のやり方に倣って取り組んできました。
が、私がこのコラムを書き始めた頃には、まだ川口由一さんにはお会いしたことも無く、それどころか、「自然農」に取り組んでいる何方(どなた)とも一切の面識すらありませんでした。勿論、私のペンネームである「川口巽次郎」と、川口由一さんとの間にも、そもそもは、何のご縁も無かったのです。
そんな私ではありましたが、5年前、仕事を辞めたばかりだった頃に出会ったある本が切っ掛けで、一人密かに「自然農」をやってみよう、と想い、実践を始めたのでした。
それは、「自然農・栽培の手引き」という本でした。
仕事を辞めて田舎暮らしを始める半年程前、偶々旅した鹿児島で、偶々訪れた開聞岳の麓の植物園で、全くの偶然に妻に薦められるままに購入にした本だったのです。
パラパラと捲っては眺めている内に、この本に紹介されている作物の栽培方法ならば、「僕にも出来そうだな…。」と想ったのでした。
先ず、「自然農」の栽培方法は、一切の農業機械を必要としません。 基本的な道具は、鋸鎌(のこぎりがま)、スコップ、平鍬(ひらぐわ)の3点セットだけ。初期投資は一万円もかかりません・笑。
更に、当時のわたくしは、農作業というものは、毎朝夕に必ず畑に水を担いで行って灌水(かんすい、みずやり)をし、雑草は一本残らず除草して、折りある毎に耕すもの、要するに、重労働を伴うものだ、と信じていたのですが、このご本を読む限りでは、そのような重労働は尽く不必要である、とされていたのです。
将に、怠け者のわたくしに打って付けたようなお話だ!と、大いに悦んだものでした。
今、5年目を迎えている私の「自然農」。畑だけでなく、田でお米も作るようになりました。既に何回かご案内しているとおり、味噌、醤油、酢などの調味料、パンなども自家製で賄うようになって、日々の食事の為の買い物に出掛ける事も無くなりました。そして、自然農の農作業は、日に日にその愉しさを益しています。
それでも、「ほぉ、「自然農」とはそんなに愉しいものですか?一体、それはどんなものですか?」と訊かれても、今の私には端的にご説明することは難しいのです。
ただ、今のわたくしにとっては、「自然農」は、生活の一部、あるいは、生活そのものになっています。それは、とても愉しい、歓びに溢れた経験です。
ですから、そんな「自然農」についても、私に出来る範囲で折々に少しづつこのコラムでもご紹介が出来るようになれたら良いな、と想っています。