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すっかり更新間隔が開いてしまっているのに、桃生さんから素敵なお手紙(ライター紹介記事)を頂いてしまい、恐縮しつつ、とても嬉しくて、喜んでおります。今はこんなになってしまいましたが、6年前までは東京の外資系企業のサラリーマンだった、お百姓になりたい、川口巽次郎です。
実は、桃生さんのお手紙を読んでから、改めて自分がこちらで最初に書いたコラムを読み返してみました。
わたしがこの谷間での田舎暮らしを始めてから5年、こちらにコラムを書かせて戴くようになってからでも、既に3年もの月日を過ごして来たのですね…。
誠に光陰流水の如し、の感を深く致しますが、実は、今の暮らしの基本はこの連載を書き始めた頃、田舎暮らし3年目には既に出来上がっていた事に改めて気付かされて、少し驚きました。(言い換えるならば、この三年間で大して進歩、成長していないのかなあ、と苦笑せざるを得なくもあるのですが…。)
その基本とは、
食材は田畑と山から調達し、自分で調理する。
車や農業機械は持たない。
田舎のコミュニティーには無理に入らない。
の三つです。
どれも深い考えがあってした事ではなかったのですが、
たまたま住まわせて戴いた家の目の前、近所に田畑山があったから…。
車は持っていなかった(免許を失効していた)し、農機もこの家には無かったから…。
集落の皆さんとは縁の薄い余所者だったから…。
といった感じで、全て偶々そのような流れだったからそれに任せただけなのです。が、結果的には、これらを基本とした事で、わたしのこの谷間での田舎暮らしは自分の想像を越えて豊かになり、続けられるようになったのかもしれないな、と改めて想います。
田畑山からのめぐみを余さず戴こうと工夫を重ねている内に、全く買い物などに出掛けなくとも食べるモノが無くて困るという事は無くなりました。
勿論、塩や昆布、油、小麦粉など、今はまだ此処だけでは調達出来ないものはまとめ買いして備蓄しています。が、東京で暮らしている頃には毎日のようにせっせと買って来ては冷蔵庫に入れていた牛乳、お肉の類は、ご縁がある方々から月に一度だけ届けて戴く贅沢品になりました。それだけで十二分なのです。
この谷間の周辺に毎日出掛けて行かねばならないような用事などありませんので、基本的にはずっと此処の家(田畑山)で過ごします。自転車で動くのも精々週一回程度。概ね往復2時間程度の行程を走る事が多いですが、それ位がとても良い気分転換になります。(毎日田畑山で身体は動かしていますので、運動は別にしたくは無いのですけど。)車があったら良かったのに…、と想うこともほぼ全くありません。
田畑では、こちらの記事でほんの少しだけご紹介させて戴いた川口由一さんの「自然農」を実践しているので、エンジンの付いているような農機を使う必要性も全く感じていません。まぁ、農機は車以上に高価ですし、置く場所もありませんから、そもそも持てませんけれどね・笑
川や道路、共同墓地の掃除などの集落総出の共同作業には参加させて頂いていますが、伝統行事の当番やお役には未だに一切入れて頂いていません。最初は何だか寂しく感じた事もありましたが、特にお祭り事などについては、集落独自のやり方や権利(お金)も絡む個々の事情があって、余所者が加わっても早々にお役に立てるような事は無いのだ、と後になって知りました。今まで入れて頂かなくて良かったなぁ、と今では想っています。
そんな暮らしが、僕にとっては快適で、何らの不便も感じないどころか、愉しくて仕方がない、というのが正直な所です。
3年前にも書きましたが、田舎に移った当初はこんな暮らしを長く続けられるとは全く想像していませんでしたので、こうして5年を過ぎてもまだまだこの暮らしが続けられそうである事は驚きです。
田舎暮らしを始めた当初の私は、よく自分の状態をこんな風に喩えて考えていたものです。
それまでのわたしのサラリーマン生活は、ポンコツなエンジンを騙し騙ししつつ懸命にゴンゴンと廻して雲の上の高空を維持して飛んでいたプロペラ機のようなもだった。墜落したら大変だ!と、これでも随分とじたばた足掻いて飛び続けていた20数年間だった。
でも、そんな此処での暮らしの中では最も大変な時期すらもが、何か愉しみに満ち溢れたものに感じられます。