こんにちは。タモンです。
大河ドラマ「平清盛」も第一部が終わり、明日から第二部のはじまりだそうですね。
これについては、「N☆Kが男色を描いた!!」というところに衝撃を受けました~。攻めてますね!N☆K。だから、前回、頼長の男色を描かないだろう、と予想を言ったのは撤回します。これに関しては、また改めて書きたいなーーと思います。
今回は、3月上旬に観た「現代能 春と修羅」by 練肉工房 について書きます。
テキスト=宮沢賢治 構成・演出=岡本章
鵜澤久 古屋和子 横田桂子 北畑麻実 牧三千子 村本浩子 吉村ちひろ
宮沢賢治の童話や詩に多く見られるオノマトペ(擬音語、擬態語)を手掛りにして、詩集『春と修羅』を中心に、童話『かしわばやしの夜』、戯曲『饑餓陣営』、書簡などからも引用し、夢幻能の様式で構成されることで、生と死が、また人間と動物たち、木や石や虹や月あかりたちが直接交わり、戯れる賢治宇宙がくっきりと浮き彫りにされる。
参照:https://confetti-web.com/detail.asp?tid=111325
考えさせられる舞台だったので、全体的な印象について書き留めておこうと思います。
私は宮沢賢治が好きですが、舞台で取り上げられていた作品全てを覚えているわけではなく……。
マニアックに言えたら良かったのですが、
特に印象に残ったところを取り上げようというものです。
鵜澤久師は第一線で活躍されている女性能楽師です。
舞台上に座る、立つ。
これだけのことが、長時間そうしていてもブレない身体という凄さを感じました。
同じポーズをとり続けるって、慣れていない人は10分でも大変ですよ。
これらかも鵜澤師が現代演劇の舞台に立っている姿を見てみたいと思います。鵜澤師の身体性が新しく広がっていくのではないかと期待します。
鵜澤師の身体性は、その意味で他の6人と明らかに異質でした。
七人の女性たちが発する言葉から、地獄のなかで魂が浮遊しているようなイメージを思い浮かべました。
タイトルを「春と修羅」としてのも、女性が修羅だからなのかな、と。
そして、紡がれる言葉から成仏できぬ魂たちが苦しんで痛がっていると思ったのです。
ただ、身体がその苦痛を表現しているか、といったら否でした。
身をよせあう・倒れるといった表現はありましたが、全体的に見ると地獄にいる怖ろしさは伝わらないなぁと思いました。
身体と言葉のズレを感じたんですね。
パンフレットを読むと、「鎮魂」がテーマのひとつであるとありました。
率直な感想として、表現されたのはもっともっと生々しいものではないかと思いました。
魂を鎮めることよりも、うつろわぬ魂そのものを描くことに力点を置いていると感じたんです。
最後に、触れておきたいのが、
語られる言葉のなかで最も記憶に残ったのは、『春と修羅』所収「青森挽歌」の一節だったことです。
ここに登場する、
ギルちゃん=賢治の妹・とし子(早くに亡くなります)
ナーガラ=蛇。インドの蛇神をナーガラージャと云う。
という解釈で読んでいたのですが、今では違うのでしょうか?踏み込みすぎでしょうか?
《ギルちゃんまつさをになつてすわつてゐたよ》
《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
《ナーガラがね 眼をじつとこんなに赤くして
だんだん環をちひさくしたよ こんなに》
《し 環をお切り そら 手を出して》
《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
《鳥がね たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちゃんだまつてゐたよ》
(中略)
《ギルちゃんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた》
(中略)
《どうしてギルちゃんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》
(新潮文庫『新編 宮沢賢治詩集』天沢退二郎編。以下同じ。)
有名な「永訣の朝」では賢治がとし子の死が描かれています。
「青森挽歌」では死後のとし子が描かれます。
おそらくそこは地獄。そして死んだとし子は、生きている賢治とは決して交わらぬ存在。
ナーガラが環を小さくし、とし子に巻き付き苦しめるのでしょう。
自分はその姿を見ているのに、「ギルちゃん」は全く自分を見ようとしない。
この舞台を見て、私は「青森挽歌」が二人が交錯することのできない者同士になった哀しみが描かれているのだと解釈しました。
そんなこと全然思ったことなかったのに…。
舞台の最後は、『春と修羅』序の一節でしめられました。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
「鎮魂」がテーマならば、「青森挽歌」の最後の一節、
「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます」
で括れば「鎮魂」になったと思うのです。ひとりよがりの感想かもしれませんが、
「私」のなかに「みんな」がいるように、みんなに一人一人がいるならば、それは地獄に堕ちた死者が生者に存在しているに過ぎません。
生者もまた死者と同じように地獄を歩いている「青森挽歌」の最後のほうが、
苦痛に満ちた死後を送る死者の魂を鎮魂するに相応しいのではないか。
ただ、タイトルに「現代能」と冠して「夢幻能的世界」を表現しようとしている意図が伝わってきたことは確かです。
普段言葉について考えることが多いので、どうしても言葉の解釈に関心がいってしまいました。
「飢餓陣営」や書簡の一節など他に取り上げたい箇所もたくさんありましたが、このくらいで切り上げたいと思います。
〔牛を捜索中です〕
今日、牛を飼っている知り合いが、牛舎から逃げ出した子牛を捜索していました。その人は、牛を捕まえるためには、追うのではなく囲うのだと言っていました。その話を聞いて、私は禅宗で悟りの道程を描いているとされる「十牛図」を何となしに思いだしたのでした。牛は追ってもなかなか追いつかないものなんですね。「十牛図」の意味するところはともかく、悟りを追うことが牛を追うことで譬えられていることに、妙に納得したのです。牛が身近な人にとっては当たり前のようなことが、それを経験したことのない者にとっては、わからないものであります。古典を読むときにも、そういった、昔の人々との経験の差を埋めることが大事だな、とふと思ったのでした。もちろん、すべては無理ですが。
とはいえ、逃がした子牛は乳牛だそうで、もし見つからなければウン十万円の損失だそうです。のんきな事を思っている場合ではありません。みなさま、もし耳にタグが付いていないノラ牛を発見したら諒までご一報ください。あ、その前に農協か警察に…。子牛でも力は相当あるそうなので、素人が決して自力で捕まえようとしてはいけません。
〔ここからが本題〕
そんなわけで、おひさしぶりの諒です。最近、読書不足、勉強不足でなかなかテーマが決まらずに、更新が遅れてしまいました。遅らせたわりに、よい話も思いつかず、今回は歌でも鑑賞してみよう、と思いまして、『萬葉集』を繙いたのです。(なんちゃって)
志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌一首
石灑(いははし)る垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(巻八・1418)
萬葉歌の中でも秀歌として名高い、巻八の巻頭におさめられている、志貴皇子の歌です。私自身、好きな一首です。現代語訳をすると、「岩に当たって水しぶきをあげる、垂水(滝)のほとりのさわらびが、萌え出る春になったことだなあ」という、特にひねりのない、実に単純な歌に見えますよね。でも、実際は、とてもよい歌として受け入れられる。一体、どんなところがこの歌のよさなのか、鑑賞したいと思います。
作者、志貴皇子(?~715又は716)は天智天皇の第七皇子です。壬申の乱(672)以後、天武系の天皇が続く時代では、政治の表舞台に立つことはありませんでしたが、一方で『萬葉集』に残る六首はいずれも佳作とされ、文才に秀でたことが知られます。「さわらび」の歌は、白鳳期のものと考えられます。題詞に「懽歌」とありますが、何に対してよろこんだのか、その内容は書かれていません。契沖(1640~1701)という江戸時代の僧が、水戸光圀に依頼されて著した『萬葉代匠記』という注釈書に、「若(もし)、帝ヨリ此処ヲ封戸ニ加ヘ賜ハリテ悦ハセ給ヘル歟」と推測しています。つまり、政治的に不遇の皇子がその時、天皇から恩賜をたまわった、そのよろこびを春の芽吹きとして歌った、というのです。たしかに、そのように取れなくはないですが、四季分類されている巻八の「春雑歌」の冒頭に「さわらび」の歌は置かれていることが注目されます。四季の雑歌では、基本的に、季節の景物を精緻な視点で歌い出している作品が集められています。とすれば、少なくとも、『萬葉集』が編纂される時点では、春の到来のよろこびを歌う、その代表的な作品として理解されていたと考えられます。
「さわらび」の歌が秀歌と評される理由のひとつに、リズムと音律が明るい響きをもつことがあります。
「『石走ル たルみの上の』とル音を重ねた出だしの調子は小刻みだが、それはやがて『垂水ノ上ノ さわらびノ』という開放的呼吸のうちに吸収され、高められてゆく。小休止を置いての『萌え出づる春』で転調が示され、『なりにけるかも』の強い詠嘆をもって一首を結ぶのだが、この結句がいささかの過剰も感じさせないのは、三句までの句勢の高まりによく応じているからだ。」(『注釈万葉集〈選〉』)
一首がもつ、洗練されたリズムは、人を驚かせるほどに記憶力が欠如している私でも覚えられるほどに心地よく調っています。音律については、ア段の開口音が明るい印象を与え、有名な「春過ぎて夏きたるらし」(持統天皇、巻一・28)と通じることが指摘されています(『萬葉集注釈』)。リズムと音律は、後の家持の歌の繊細さなどに比べると、もう少し力強い爽快さがあるように思います。個人的な感想ですが。
もうひとつ、「さわらび」の歌には早春の季節感がよく歌われている、という評が見られます。わかりやすい歌なだけに、分析するのは難しいのですが、単純なことばの選択が季節感をダイレクトに伝える、要因のひとつとなっているのではないでしょうか。岩、水、さ蕨、そして春、自然と景色が想像されます。岩にほとばしる水は、凍てついた冬を割るような、雪解けの、澄んだ流れでしょうか。さ蕨の若々しく瑞々しい青、そこに透明なしぶきがかかります。その情景が、何よりも春の息吹であり、それこそが懽びを誘うのです。この歌には、絵画的、というよりも一枚の写真のような印象をもちます。景色を切り取ることで、すべてを美しく見せるような。
『萬葉集』において、景物への精緻な視点は、第三期を経て四期に至るまでにより洗練され繊細になります。その出発点に「さわらび」の歌はあります。今回は触れませんでしたが、ワラビの植生というのも気になります。現在、ワラビは五月頃に食卓に並ぶのが一般的ですよね?でも、歌では「萌え出づる春」のことですから、もう少し早い時期のことかと推測されます。早く本格的な春になって欲しい気持ちを込めて、季節ネタとして取り上げました。
お久しぶりです。タモンに風邪をうつされたなおです。
『源氏物語』をめぐる「都市伝説」について考えるシリーズ、第二弾は、「光源氏ロリコン説」の検証です。
「光源氏ロリコン説」は、以前このコラムでも扱った「マザコン説」と並んで巷でよく唱えられる説だろうと思います。
一目惚れした少女、若紫(10歳程度)を、少女の父親の許可無く勝手に自邸に連れてきてしまう光源氏(この時18歳)。
現在だったら、
「ロリコンの18歳、10歳の少女を誘拐。わいせつ目的か!?」
とニュースになりそうなこのエピソード、確かに現代人の目から見ると、この光源氏の行動は、かなりアブナイ。ロリコンの変態と糾弾されても仕方がないようにも思われます。
しかし、もうちょっと厳密になってみる必要があるようにも思います。
「ロリコン」とはどんな人たちか?
(←「そこ!?」というつっこみはちょっと待ってください。)
辞書は、「男性が、性愛の対象として少女に偏執すること。V=ナボコフの小説「ロリータ」による語。ロリコン。」と定義しています(『日本国語大辞典』)。(社会学や心理学等の立場からの定義はまた別にあるのかもしれませんが、とりあえず一般的な用いられ方を確認して良しとしましょう。)
「光源氏がロリコンか?」という問いは、厳密に言えば、「光源氏が10歳前後の少女、若紫に性的な欲望を感じたか」ということになるのではないでしょうか。
そして、本文を丁寧に読めば、その答えはNOだということが言えるのではないかと考えています。
具体的に見ていきましょう。
まず取り上げたいのが、光源氏が初めて若紫を見いだした場面。古文の授業で良く読まれる箇所です。北山に病気療養に行った光源氏が、北山のある邸宅の様子を垣根の隙間から除く(垣間見をする)と・・・
そこにいたのは、ペットの雀に逃げられたと泣きじゃくる、絶世の美少女。しかも、光源氏の最愛の人で許されない恋の相手、藤壺に生き写しだったのでした。
ここでの光源氏の心情を引用してみましょう。
「つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざしいみじううつくし。ねびゆかむさまゆかしき人かな、と目とまりたまふ。さるは、限りなう心を尽くしきこゆる人にいとよう似たてまつれるがまもらるるなりけり、と思ふにも涙ぞ落つる」
(顔つきがとても愛らしく、(まだ大人の女性としての手入れをしていない)眉のあたりがほんのりとした美しさで、子供らしくかきあげている額つきや髪の生えている様子がたいそうかわいらしい。大人になっていく様を、是非見届けたいと思わせる人だなあ、と源氏の君は少女から目を離せないでおいでになる。というのも、限りなく深い心をおよせになっているあの方にとても似ていらっしゃるからなのだ、とお気づきになるそばから涙が流れてくる)
ポイントは、少女を見つめて「生い先を是非見届けたい」と言っているところです。彼が限りない思慕をよせる相手、藤壺にそっくりの少女ではありますが、今すぐどうこうしたいとは言っていないのです。
ただし、次のあたりは、ちょっと怪しい。
「さても、いとうつくしかりつる児かな、何人ならむ、かの人の御かはりに、明け暮れの慰めにも見ばや、と思ふ心深うつきぬ。」
(それにしても、ほんとうにかわいらしい女の子だったことだ。どういう人なのだろう。あの方の代わりに、明け暮れの心の慰めとして見たいものだ、と思う心に深くとりつかれた。)
光源氏が、少女への執着を深めていく心境が描かれます。この執着が、性的なものでないと言い切れるか。「見ばや」も「妻として側に置きたい」の意にとれそうで、「ロリコン説」に反論したいなおとしては、ちょっと苦しい箇所です。
とはいえ、若紫を屋敷に引き取った後の光源氏は、彼女のよき教育者であり遊び相手であり、それらの場面からは、特に性的な要素は感じられません。むしろ、大人の女性達の愛執に苦しめられる光源氏が、少女の純真さに癒されている面が強調されていると思います。
光源氏が、紫の上を「女性」として意識するのは、正妻葵の上を亡くして、葵の上の実家で喪に服していた彼が、久しぶりに紫の上に対面した場面です。少女だった若紫を引き取ってから4年が経過、彼女は14歳になっています。
「久しかりつるほどに、いとこよなうこそおとなびたまひにけれ」
(「久しぶりにお会いしたら、すっかり大人になられましたね。」)
と光源氏が声をかけると、恥じらう紫の上。その姿を、光源氏は「飽かぬところなし」(非の打ち所がない)と評しています。
「姫君の何ごともあらまほしうととのひはてて、いとめでたうのみ見えたまふを、似げなからぬほどにはた見なしたまへれば、気色ばみたることなど、をりをり聞こえ試みたまへど、見も知りたまはぬ気色なり」
(姫君の何事も申し分なくすっかり成人なさって、とてもすばらしいご様子であるので、もう不相応な年齢ではあるまいとお考えになって、結婚のことなど、折に触れてほのめかしてみるのだけれども、女君の方は、まるでお分かりにならないご様子である)
ここでも、紫の上が成人し、結婚の適齢期を迎えたことが強調されています。(本人は結婚など思いもよらないようですが)
すごく具体的に言ってしまえば、紫の上が初潮を迎えて、光源氏と結婚する準備が整ったことが読者に示されているのです。
この直後、ついに光源氏と紫の上は結ばれます。
紫の上と新枕を交わす決断をする光源氏の心境にも注目してください。
「心ばへのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとの中にもうつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ、忍びがたくなりて、心苦しけれど・・・」
(姫君は気性が賢く、魅力的で、なんでもない遊戯をするときも、筋のよさをお見せになるので、結婚相手としては思ってもみなかったこれまでの年月は、ただ子供らしいかわいらしさは感じていたのだが、(今は女性としての魅力に)抗いきれなくなって、心苦しくはあったが・・・)
ここには、光源氏は紫の上が身体的に大人になるまで手を出さなかった、大人になった紫の上に、初めて結婚相手としての魅力を感じた、ということが明示されています。
以上のことを踏まえると、物語はむしろ、光源氏が、「ロリコンの変態」と読者に認識されないよう、かなり意識して、繰り返し説明を加えていると言えるのではないでしょうか。
但し、光源氏と結ばれた紫の上、体は大人でも、心はまだおこちゃま、いきなり強引に関係を迫ってきた光源氏には、腹を立てたりすねたりしています。
そういう点では、ちょっと「ロリコンチック」とは言えるのかもしれません。
ええっと。結論。光源氏は少女に手を出してはいません。だから、(たぶん)「ロリコンの変態」ではないはずです。物語作者としても、そのようなグロテスクな展開にならないよう、かなり注意を払って筆を進めているように思います。
こんにちは。前回に引き続きタモンです。
今日、起きたら雪が降っていました。
朝よりも今のほうが本格的になっている気がします。寒い。
前回、大河ドラマの感想が長くなってしまったので、第7回を見て面白かった箇所3点のうち2点目までで区切りました。
今回は3点目からです。前回と同じく、箇条書きなので文体を「である調」にします。
3、頼長・忠実・忠通の眉毛!!
3人で話し合っている場面があった。めっちゃインパクトあるわ~。「麿まゆ」はすごい。それらについての衣装さんのこだわりは、大河ドラマホームページで窺い知ることができる。
(http://www9.nhk.or.jp/kiyomori/special/cd/09/01.html)
この眉毛がギャグにならないのも、3人の怪演が光っているからだろうな。
ドラマでは、超神経質な頼長が描かれていた。様々なことが乱れている朝廷内を粛正しようと意気込む彼の姿が全面に押し出されていた。
山本耕史は、潔癖な男気があって野心溢れる頼長というキャラクターをきちんと演じていたんじゃないだろうか。
実際の頼長も相当奇天烈な人だったようで、『今鏡』には「「何事もいみじく厳しき人にぞおはせし。(中略)公事行ひ給ふにつけて、遅く参る人、障り申すなどをば、家焼き毀(こぼ)ちなどせられけり。」とある。
頼長は何事にも厳しい人で、遅刻した貴族の家を焼き払ったというのだ。
……嘘!?という厳しさだな。
当時の貴族の風紀が乱れていたための措置だったと伝えられている。
つまり、めっちゃざっくり言うと、貴族たちは仕事は真面目にしないで遊んでばっかりだった。
頼長は悪左府(あくさふ)と呼ばれていた。「悪」は「能力・気力・体力などがずば抜けている」の意。なんといっても、1136年、彼は17歳で内大臣となったことが特筆に値しよう。その才は「日本第一の大学生、和漢の才に富む」(『愚管抄』)と評されるほどのものだった。恐ろしく勉強ができたらしい。彼は、中国の制度を勉強して貴族社会の改革の断行に臨もうとする。
1136年、清盛は18歳だった。
頼長の母は、忠実の家司(けいし・親王、摂関以下三位以上の家々の庶務をつかさどる職)藤原盛実の娘。頼長はいわば妾の子である。兄・忠通(頼長より23歳年上)はきちんとした家の母(右大臣源顕房女従一位師子)。
父は、兄忠通よりも才能ある弟頼長を愛した。
これが3人の不協和音を誘引することになるし、保元の乱の遠因ともなる。
ところで、藤原頼長が一般的に最も知られていることは、
彼の男色(癖?)
ではなかろうか。
彼の日記『台記(たいき)』は、男色の記録が多くみられることで知られる。
いわゆる腐女子にもファンがいるみたいだ。
中世を勉強していると本当に男色関係の記事が多くあることに気付く(まあ、近世もだろうけど)
一見、現代的な感覚からするとわからなくても、実は…という記事も多い。
たくさんそんな記事を見過ぎたせいか、もう男色に関するどんな記事を見ようが絵巻を見ようが、特に驚きはしない。
それでも、頼長の『台記』の記事はインパクト大である。
簡単に『台記』の記事から一部列挙してみた。
1、康治元年七月五日 今夜於内辺会交或三品(件三品兼衛府)、年来本意遂了。
意訳:今夜、衛府三位と会って交わる。数年来の念願を遂げる。
2、同年十一月二十三日 謁或人(彼三位衛府)、遂本意、可喜ヽヽ。不知所為。更闌帰宅、与或四品羽林会交。
意訳:衛府三位と思いを遂げる。とても嬉しい。深夜に帰宅してから、近衛四位とも交わった。
3、天養元年十一月二十三日、深更向或所(三)、彼人始犯余、不敵々々。
意訳:深夜、彼が初めて私の上になる(彼は初めて私を犯した)。なんと不敵なことよ
4、天養二年一月十六日 彼朝臣漏精、足動感情、先々、常有如此之事、於此道、不恥于往古之人也。
意訳:彼が精を漏らすさまに感動する。いつも彼はすばらしく、先人と比較しても全く恥じるものがない。
5、同年一月五日、今夜入義賢於臥内、及無礼、有景味(不快後、初有此事)
意訳:今夜、義賢(木曽義仲の父)と床に入る。彼は私に無礼をしたが中々よかった(腹は立ったが、初めての事で意外と気に入った)
人名はボカしているものの、男色関係が赤裸々に書かれている。
…あまり詳しくないが、ボーイズラブ?的な人気もあるみたい。
それにしても、漢文って妙に艶めかしいというか生々しいというか。
ちなみに頼長には妻がいる(8歳年上の姉さん女房)。
4・5は…。具体的なことはご想像におまかせします。
当時の貴族は、女性との関係だけでなく、男性間で肉体関係を持つことが広く行われていた。
ただし、日記に書くような変な趣味を持っていたのは頼長だけ。
あ。当時の日記は、現代のようなプライベートなものではなく、公的行事について私的心情を入れずに真名(漢文)で記録するものであった。だから紀貫之の『土佐日記』は「女もすなる~」と平仮名で書かれたことが画期的だったのだ。
男色にもさまざまな関係性があって、
たとえば、
●恋愛(のような)関係を結ぶもの。これは対等の関係。
●妻の兄弟と関係を持つことで政治力を高める効果を狙った関係。頼長は特に妻の家族中心に男色関係を結んでいる。
●主従で肉体関係を持つもの(武士の乳兄弟なども広く行われていたようだ)
●稚児・舞童などの少年と関係を持つものもあった(白河院・鳥羽院の寵童趣味はよく知られている)。
頼長は、秦公春という随身(従者)が大のお気に入りだった。「無二に愛し寵し」たと評されるほどで、公春亡き後、『台記』には彼の死を悼む長大な記事が記されている。
大河でこのようなことが描かれるだろうか。
……いや、描かれないだろう。
…だって無理だ!!(笑)
そんなことをやったら、大河が違う方向にいくこと間違いなし。
でも、全国の頼長ファン(笑)が固唾をのんで今後の展開について少し期待しているのではないか、ともタモンは想像してしまいます。頼長はコアなファンが多いと思うんですよ。
でも…佐藤二朗演じる藤原家成との男色が背景にある事件とか。
…すんごい愛憎劇が描けますが、大河が昼ドラになりますね。
まあ、これからも超神経質で完璧主義の頼長が描かれていくんだろうなぁ、と思います。日本史史上、異色の公卿であることは間違いないから、それはそれで楽しみです。
今後、祇園社の事件とかもどのように展開するのか(←これ、けっこう大きな事件です)。
いままで全く触れていませんでしたが、
阿部サダヲ演じる高階通憲(後の信西)も重要なキーパーソンです。
これから彼も大活躍すること間違いなし。
今度彼についても書くと思います。
信西の政治的行動を見ていると、フランス革命の革命家のなかでも特に過激派・ロベスピエールにちょっとだけ似ているような気もする人です。
一ウォッチャーとして、今後も大河の展開に期待したいです。
こんにちは。タモンです。
長野に温泉に行ったら風邪をひきました。雪山のなかの露天風呂なんかに入るからか…。しかも、なおに風邪をうつしても治らない(おい、とツッコむ)。
前回の大河ドラマの感想が、意外にもご好評いただいたようなので、今回もその感想にしたいと思います。
今回、ちょっと長くなりそうなので、2回に分けようと思います。
大河は2月26日で第7回になりました。
第7回は、鳥羽院は得子(このドラマでは「なりこ」と称しています。)を寵愛すること甚だしく、藤原頼長が内大臣になり、清盛は宋との貿易を夢見て、清盛の妻・明子が懐妊するところ(この時誕生するのが、後世、善人の鑑として描かれる重盛です)で終わりになりました。
大河に関する感想をいくつかネットで見ていて、「大河ドラマで描かれている内容が史実か否か」を物差しに見ている視聴者がいることを実感します。大河って、なんで「このドラマはフィクションです」っていうテロップを映さないんでしょうね。
タモンがお勧めする記事に、その点をさりげなく指摘しながら、平清盛についての書籍や研究動向をまとめておられる田中貴子氏の書評(朝日新聞)があります。読み応えがあります。
(http://book.asahi.com/reviews/column/2012012200005.html)
第2回か第3回?で、清盛が石清水臨時祭で舞人を務めた場面がありました。
史実だとこの時清盛は12歳です。大河ではその様子を物陰から見つめていた義朝を描いていましたが、義朝は当時8歳です(1123年生)。ちなみに西行と清盛は同い年です。
小ネタにはなりますね。
ここ何回か見ていて、清盛と宋貿易、保元の乱、これら2つの伏線が張られていると思います(小さいのが他に幾つもあります。これらもよく出来ていると思います)。
箇条書きなので、前回と同じく、である調にしたいと思います。
今回は、3点に絞って感想を述べます。
1、清盛のニキビ。
撮影が大変なのだろうなぁ…。と思わずにはいられない、清盛のニキビ。
すみません、こんな小さなことが気になって。
私は松ケンを映画「デスノート」で初めて知った。それ以降、松ケンの作品を見るには二度目だと思う。このニキビ、制作陣にとっては不本意だと思うが、私にしてみたら顔に野性味を増していて面白く感じる。それに加えて、彼の顔立ち(演技力とも云える)が、青年清盛の直情さ・豪毅さを、(たぶん)図らずも良く表していると思うのだ。いや、気になるは気になるけど、清盛の魅力を損ねていないのが凄い。これから朝廷のなかでどのように揉まれ、のし上がっていくのか。そして、どのように世間の汚さを身につけていくのかが楽しみだ。
忠盛・清盛は西海の海賊討伐に実際に行っているらしい(はっきりと行ったと記した史料はないが、まあ、行ったんだろう)。
1135年4月に西海の海賊討伐が命じられている。源為義も候補に挙がったが、以前からの忠盛の海賊討伐の実績や、西国に平家家人が多かったことなどから、忠盛が選任されたのであろう。
ドラマは忠盛が密貿易をしていたという設定だが、なぜそのような設定にしたのかはよくわからない。しっかり調べればわかるのだろうが…。
忠盛が日宋貿易に力を入れていたのは事実だ。
忠盛は肥前国(現・佐賀県と長崎県の一部)と神崎荘をおさめていた。博多にも神崎荘の土地はあったらしい。ドラマでは密貿易の要所で、平氏の富の源として描かれている。
ここは後院領(院の直轄地)で、その特権を利用して忠盛は富を築いたようだ。院のコレクション癖に応じて、宋からの輸入品を院に献上していた。その富は、頼長が「数国の吏を経、富巨万を累ぬ」と評しているほど豊かであった。
このあたり、フィクションの醍醐味を発揮しているなぁ-、と思います。
脚本家の腕がなっている気がします。宮廷内のドロドロも力入っているのでしょうが、こちらは楽しく書くぞーーっていう意気込みを感じるんですね。
2、美福門院得子の野心と負けず嫌いっぷり。
「私を汚してください」
「皇子をお産みしとうございます」(細かいところ違うかもしれない)。
セリフが強烈です!!!
特に後者、着替え中の鳥羽院を押し倒してのセリフです。
私もそのくらいの気合いをもって……(いや、美貌がなければ言ってはいけないな)。
しかし、押し倒したかいもなく、次も内親王(のはず)。その次に生まれるのが、やっと皇子。つまり近衛天皇(だったはず)。ドラマでは端折るかも。
松雪泰子は気の強い女性の役柄がハマる気がする。
たんに映画「フラガール」のイメージが続いているだけかもしれない。今回は平安貴族なので身体を使った表現が限られている。改めて、松雪泰子の肌の透明感と眼力の強さを感じた。
得子は1134年ごろから鳥羽院の寵愛を受け(たしか、ドラマの現在時間は1136年?だったはず…)、叡子内親王、八条院、近衛天皇、高松院を生んだ。女の子3人、男の子1人。得子は、鳥羽上皇を説いて、崇徳天皇を退位させ、3歳で近衛天皇を即位させる。自らは皇后の位につく。はい、あからさまですね。しかし、近衛天皇は17歳で崩御してしまう。そこで得子は、皇位継承権第一位の崇徳上皇の皇子・重仁親王を退けて、鳥羽上皇の皇子・雅仁親王(後白河天皇)を即位させる。これらのゴタゴタが保元の乱の原因のひとつとなった。
ドラマの展開より先走って言ってしまう!
美福門院と鳥羽院にとって、後白河天皇の即位は「中継ぎ」的なものだったと指摘されている。彼らには、本当は美福門院の猶子(養子に似たもの)だった、後白河天皇の皇子・守仁親王(後の二条天皇)に即位してほしかったという。
彼らにとっての計算外は、後白河の破天荒キャラだと思うね。
源頼朝は後白河を「日本第一の大天狗」と評したという。彼は芸術家肌の破天荒さと政治家としてのしたたかさを併せ持った稀有な人物として、これから大活躍するだろう。
次回、初登場のようだ。松田翔太がどのように演じるのかも期待大である。
当時、女の「ある野心」を達成するには、天皇・上皇の男の子を産んで、天皇に即位させなければならない。
ドラマ内で、得子は璋子に対抗心を燃やしているが…。史実だと、璋子は得子より16歳上。得子が17歳頃から寵愛を受けたとき、鳥羽院は28歳、璋子は33歳。平均寿命が約40歳と云われた当時としたら、33歳は「女」が終わった頃なんじゃないかなぁ、とも思う。
それとも「女」はいつまでも「女」なのか。
次、3点目にいこうと思いましたが、随分長くなってしまったので、次回に回したいと思います。また明日、アップしますね。
そういえば、次回の大河予告を見て、璋子と憲清(後の西行)が…!
タモンの予想があたりそうです。
璋子を見ていると、無垢な大人は人を傷つける、そう思います。
無垢はえげつない。壇れいの美しさが怖いです。
いつ、彼女がただの大人になるのかが気になります。それともこのまま表舞台から消えていくのでしょうか…。
こんにちは。最近の寒さときたら、耐えがたいものがあります。南国に移住したいと切望する諒です。
前回、何となく高橋虫麻呂の菟原処女(うなひをとめ)の歌を取り上げて、おもむろに現代語訳をしてみたわけですが。今回は、その内容を具体的に見てみたいと思います。
でもその前に、少し菟原処女伝説の舞台について触れておきます。題によると、歌は「墓」を見て作った、とあります。この墓は、現在の神戸市東灘区にある古墳を指します。古墳は三基並んでいて、中心が「処女塚(おとめづか)」(前方後方墳)、東側が「東求塚」、西側が「西求塚」(ともに前方後円墳)と呼ばれます。現在では堆積や埋め立てによって、海岸線から離れてしまい、古墳自体も整備されてしまっていますが、古くは三基とも船からよく見えただろうと考えられています。面白いことに、「東求塚」と「西求塚」は中心の「処女塚」に前方部を向けて造られているのだそうです。もとより、これらの立派な古墳が一介の男女の墓であるわけがありませんけれども、もとの被葬者の存在が忘れられ、古墳だけが残ったとき、墓は伝承の舞台として機能し始めたのでしょう。墓にまつわる妻争いの伝承は、海岸のランドマークである古墳とともに、そこを行き来する人々にも知られていたと想像されます。
土地に伝わっていた話が、元々どのようなものであったのかを正確に知る手段はありません。でも、当時の人々がどのような話として伝えていたかは、菟原処女伝説の場合、歌の内容からわかります。虫麻呂の歌を順に見てみましょう。長歌は、初めに菟原処女についてを歌い出します。
〔1〕 葦屋の 菟原負処女の 八年児(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚(うつ)木綿(ゆふ)の 牢(こも)りて座(を)れば 見てしかと 悒憤(いぶせ)む時の 垣廬(かきほ)なす 人の誂(と)ふ時
菟原処女は八歳から家で大事に育てられていたために、その姿を一目見たいと求婚者が集ったとされます。菟原処女の姿への言及はありませんが、「垣廬なす」といった表現から、美しい女性として噂されていたであろうことがわかります。ヲトメの名前は、「葦屋」(大地名)の「菟原」(小地名)に住む女性、という意味です。
〔2〕 血沼壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 蘆屋(ふせや)焚き すすし競(きほ)ひ 相ひ結婚(よば)ひ しける時には 焼き大刀(たち)の 手穎(たかみ)押しねり 白檀弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競(きほ)ひし時に
求婚の最終候補となり激しく争う男が二人。血沼壮士と菟原壮士です。菟原壮士はヲトメと同じく「菟原」を冠するので、同郷の男です。「血沼」は和泉国の「茅渟(ちぬ)」地域のことです。つまり、ヲトメは、同郷の男と外部の男から一度に求婚されたことになります。
〔3〕 吾妹子(わぎもこ)が 母に語らく 倭文手纏(しつたまき) 賤しき吾が故 大夫(ますらを)の 荒(あらそ)ふ見れば 生けりとも 合ふべく有れや しくくしろ 黄泉に待たむと こもりぬの 下延(したは)へ置きて 打ち歎き 妹が去ぬれば
ヲトメの心はどこにあるでしょうか。「母」への語りで本心をにおわせます。「生きていても一緒になれないのであるのなら、いっそあの世で待とうという、心を隠して」死んでいったのです。どちらに、とは言いませんが、どうも、不利な方の男に思いを寄せていたようです。
〔4〕 血沼壮士 その夜夢に見 取り次(つつ)き 追ひ去きければ
ヲトメは死んだあとで血沼壮士の夢に現れます。夢での逢瀬は、『萬葉集』でもよく歌われますが、当時の考え方では、それは、夢に「会いに行く」ものでした。ヲトメは自ら夢に現れたのです。ここで、血沼壮士を恋しく思っていたことが、はっきりします。血沼壮士は「菟原」の地において同等の力を持つ菟原壮士と妻争いをするには、圧倒的不利な立場にあったと推測されます。でもヲトメはどうしても、血沼壮士でなければならなかった。そして、血沼壮士はヲトメのあとを追うのです。
〔5〕 後れたる 菟原壮士い 天(あめ)仰ぎ 負けては有らじと 懸け佩きの 小剣(をだち)取り佩き ところつら 尋(と)め去きければ
さて、衝撃をうけたのは、菟原壮士。現代風な言い方をすれば、「イタい」立場です。三角関係に、この上もない形で敗北してしまいました。でもこの人、そんなことでは挫けません。悔しく思いながらも、二人のあとを追います。この慟哭の表現は、いかに「イタい」立場でも、敗北者への同情を誘うように思います。
〔6〕 親族(うがら)ども い帰(ゆ)き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遐(とほ)き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方(こなたかなた)に 造り置ける
彼らの死を受けて、親族たちはこの争いを永代に語り継ごうと考えて、墓を造ったそうだ、と一連の話をまとめます。古代では、恋にまつわる悲劇的な死を遂げた女の話を語り継ぐための「しるし」として墓をたてた、という伝説がしばしば見られます。「墓(しるし)」と「悲恋譚(話)」はワンセットで土地のアイデンティティのひとつであったと思われます。
〔7〕 故(ゆゑ)縁(よし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)の如(ごと)も 哭(ね)泣きつるかも
〔反歌1〕葦屋のうなひ処女の奥槨(おくつき)を往き来と見れば哭のみし泣かゆ
〔反歌2〕墓の上の木の枝靡けり聞きし如血沼壮士にし依りにけらしも
長歌の最後と反歌1は、悲劇を聞いて実際に墓を目にした虫麻呂の反応です。反歌2は、現在の墓の様子にヲトメの心を思って、全体を歌い収めています。
ちなみに。虫麻呂の歌は妻争いの話を「語りだしている」ところに特徴があります。登場人物の余計な心情などは詠まないのです。ひたすら、「このようなことがあって…」と続けています。その態度は、伝説を記す態度に等しく、虫麻呂は、伝えられていた話を歌によって「語りだした」のだといえます。長歌の最後の部分と、反歌は現在の状況に立ち戻って、「墓を見て」(題にありました)思われることを歌います。但し、その歌い方も、「墓を見たから(その背後には、衝撃的な妻争いの話があるから)泣けてくる」という原因に重きを置いた、自己の心情・態度に客観的であるような印象が持たれます。虫麻呂の感動は「伝説」そのものにむけられています。「伝説歌人」の「ワザ」ですね。
「求塚」以前(といっても上代のみですが)の菟原処女伝説、いかがでしたでしょうか。『萬葉集』だけでも、虫麻呂の他に、田辺福麻呂、大伴家持がこの伝説に取材した歌を作っていて、それぞれに特徴が見られます。同時代でもそうなのですから、当然、異なる時代のものでは、話の伝わり方、伝え方に違いがあります。平安時代のものでは、『大和物語』(147段)に「生田川伝説」があります。ここで私たちははじめて、「生田川」という地名に接します。この川は、二人の男が勝負のために「水鳥」を射るという、重要な舞台となるのです。謡曲「求塚」では、墓(塚)と「生田川」とが主要な場所として取り上げられ、テーマが娘の成仏へと転じます。時代を追うごとに、ずいぶんと印象が変わりますね…。
最後に、この伝説について、読み易いおススメの本を一冊。廣川晃輝氏の『死してなお求める恋心―「菟原娘子伝説」をめぐって―』(新典社新書、2008)です。上代文学を御専門とされている方なので、『萬葉集』が中心となりますが、中古以降のものにも少し触れられています。「墓」についての考察が見どころ。
それでは、今回はここまで。
こんにちは。タモンです。
今回は大河ドラマ「平清盛」第一回を見た感想にしようと思います。
なおの真似をして、「平清盛」の感想を忘れないうちに書くのが今回の目的です。
なぜなら、予告編を見て「面白そう」と思って見たら、予想以上にハマりそうだからです。
なんだが議論を巻き起こしているようですが…。
私には、いずれの批判も、ドラマ全体の致命傷になるような瑕瑾ではないと感じました。エネルギーを感じたんですよね。
以下、番号をふって、私が面白いと思った魅力をつらつら書き連ねていこうと思います(箇条書きなので、「である調」にします)。
1、ホコリっぽさが際だった画面
色調を押さえ、埃が舞い上がる感じを際だたせていた画面に釘付けになった。そうそう!こういう演出の平安末期ドラマが見たかったのよ!馬小屋で忠盛と舞子が争う場面とかね。朧月の子どもが死体から物を盗もうとする姿も、『羅生門』の世界っぽくてよかった。
なおが見た(私も見た)『源氏物語~千年の謎~』で描かれる豪華絢爛な画面は、それもフィクションとして「アリ」だ。だけど、リアルを追求すると大河みたいな感じになると思う。平安貴族の実際の生活を垣間見ているような感じや、画面の質感が映画を見ている感じなのも良い。
2、松田聖子の眉毛
1のようにリアルを追求した一環なのか、女優さんの眉毛が薄い。とくに北条政子役の杏なんて、眉毛なかったし(いや、化粧で隠してるんだろうけど)
そのなかで、松田聖子演じる祇園女御だけ眉毛くっきりで面白かった。そうすることで「特別」に見えるし、彼女のぽちゃっとした頬がキュートに浮かび上がる効果が生まれていたと思う。ぽっちゃり頬は公家の特徴だし。
祇園女御はその名の通り、出身が祇園社であったことからつけられたらしい。ドラマでは出自を白拍子と言っていたが、(さまざまな説があるものの)もとの職業は水汲女だったようだ。どちらも春を売る側面を持っていたことは共通する。『今鏡』が「三千の寵愛、ひとりのみなり」と記すように彼女が白河法皇の寵愛を一身に受けたことは、祇園社の南東に豪奢な祇園堂を建てたことでも窺える。平清盛は祇園女御の生んだ子であるとの説があるが、現在は、女御の妹が産み、生母の死後清盛を養育したとする説が有力である。
3、白河法皇役の伊東四朗と鳥羽天皇役の三上博史が好き
伊東四朗が悪役をやっているのを初めて見た。ほんとうに底意地悪そうで…。三上博史が嘆いている姿も好き。直衣が意外と似合ってびっくり。思い詰めるタイプを、涙を目に溜める演技で表現していたと思う。ドラマ「リップスティック」や舞台「三文オペラ」を見て好きなんだな。
鳥羽天皇の女御・待賢門院璋子は白河院の養女。義父と関係をもち、鳥羽天皇の子どもとして男の子を産む設定だ。この展開、鎌倉時代からまことしやかに囁かれていたのもので、鎌倉時代の説話集『古事談』には、この男の子こそ白河院の子どもであり、その事実を憎んだ鳥羽天皇がその子を「叔父子」と呼んだ、と書かれている。すさまじい蔑み。その男の子こそ、後の崇徳天皇である。この公然の秘密は、ドラマでも保元の乱の遠因ともなっていくだろう!!間違いなく!!
ちなみに、璋子に対して、西行も恋心を持っていたとする伝承がある。恋の懊悩のため、出家してしまったとも(現在ではほぼ否定されているが、辻邦生『西行花伝』ではその説を踏襲している)。どんだけ色っぽかったんだ、璋子。なお、後白河天皇の生母も彼女である。誰が演じるんだろう。
4、人間・清盛の魅力がでてくるのではないか!?と期待させる
「犬になりたくなければ、強くなれ」と養父忠盛に言われた平太(清盛)。来週、楽しみだ~。
『平家物語』に描かれる平清盛は極悪非道の人物として描かれている。高校時代、「祇王」やったなぁ…。あれで血も涙もない平清盛像ができあがったんだよなぁ…。しかも、『平家物語』で描かれる平清盛の最期は、「あっち死」といって焼かれるように苦しみながら死んでいったと書かれている。このような悲惨な最期は、自身の反対勢力であった東大寺等を焼き討ちにせよと息子・重衡に命を下したための仏罰だ、と噂された(『百練抄』。
この人物像は『平家物語』によって作られたもので、一面的であるのは否めない。
だから、平清盛は「公家」から「武家」の世を草創した開拓者としての側面を取り上げてもいいと思っていた。別にオリジナルというわけでは全然なく、最近の研究動向全般がそうなんです(吉川弘文館『平清盛』五味文彦、山川出版社『平清盛』上杉和彦などなど)。
だって、非道いことって言ったら織田信長も相当非道いよ。日本人って、日本人っぽくない日本人、本当に好きなんだよね…。坂本龍馬とか。
今回の大河は、新しい清盛像を創るんだっていう意気込みを感じました。以前の大河を見ていないので、間違っていたらごめんなさい。切り口次第で、こんなにも違った人物像を見せられるんだぞ!っていうのを期待しています。
たぶん、今後も感想を書くと思うタモンでした。
1ヶ月ぶりに登場のなおです。
年内最後の滑り込み更新、当初の予定では「光源氏ロリコン説」を検証する予定だったのですが、たまたま12月10日公開の映画、「源氏物語 千年の謎」を見る機会があったので、その感想を書きたいと思います。
以下、まだご覧になっていない人に出来るだけ配慮したいと思いますが、公式ホームページに載っている程度の情報については、ネタバレあります。ご了承ください。
「主演の生田斗真クンの魅力を上手に引き出した演出だったね」とは一緒に見たタモンの言。
『源氏物語』を映像化する場合、誰を光源氏にするかがもちろん、一番の問題になるわけですが、光源氏という人物の超人的な魅力と、人間としての限りない大きさを表現するのは、残念ながらどんな俳優でも不可能でしょう。
とにかく若くてイケメンで、演技力もある俳優さんを連れてきて(これだけの条件が揃っている俳優さんを選ぶのも大変でしょうが)、その俳優さんの魅力を引き出すような脚本・演出を整える方が得策であろうと思います。
原作の光源氏の人間としての大きさ、深さというのは、年齢も美醜も様々なたくさんの女性と関係を持ちながら、それぞれの女性に対しての情が細やかであることによって表現されていると言ってよいでしょう。つまり、広くかつ深く女性を愛するのですね(笑)
原作では、巻を重ね、光源氏と女性達の間にある様々に印象深いエピソードを書き連ねることによって、このような光源氏像を造型することが可能になっています。
しかし、映画の場合は上映時間が限られていますから、原作をそのまま再現することは出来ません。
原作に登場する個性豊かな様々な女性を登場させれば、光源氏と彼女たちの関係を十分に描くことが出来ず、光源氏が女性を次々と乗り換える単なるプレイボーイになってしまうことでしょう。一方、一人か二人の女性をクローズアップすれば、光源氏との関係を精緻に描き、彼の限りない優しさを表現することも可能になるのでしょうが、たくさんの女性を愛した彼のスケールの大きさを描くことが出来ず、光源氏が凡人になってしまいます。
「源氏物語 千年の謎」はこの難しいバランスを、上手に取っていたように思うのです。
光源氏の青春時代に絞って、重要な数人の女性を登場させ、彼女たちとの間の恋の葛藤を描いています。斗真源氏には、女性をおおらかな愛で包む包容力はないけれども、生真面目さ、年上の女性が彼を愛さずにはいられない危うい魅力がある。幼くして母を亡くした光源氏の、女性達に母の面影を求めないではいられない切なさが、年上の女性たちにはたまらない魅力だったことが、生田クンが光源氏を演じると結構説得力がありました。
作中人物のうち、紫の上は登場させず、藤壺(真木よう子さん)、夕顔(芦名星さん)、六条御息所(田中麗奈さん)、葵の上(多部未華子さん)で構成したのは、そのような構成上の意図があったからでしょう。藤壺への許されない恋と、六条御息所の生霊化を軸として複雑なストーリーをよくまとめていたと思います。
ただ、この構成を効果的に表現するには、葵の上が多部未華子ちゃんだったのは、ちょっとミスキャストだったかな・・・と思います。個人的には大好きな女優さんなのですが、そもそも光源氏の正妻となった葵の上が、光源氏にうち解けた態度をとれないのは、映画で説明される東宮妃候補として誇り高く育てられたことの他に、自分の方が4歳年上であることへのこだわりが捨てられなかったからです。(原作では光源氏と年齢的に不釣り合いだ、という葵の上の思いが語られます。)
多部未華子ちゃんは、実年齢も生田斗真クンよりも結構年下ですし、映像的にも幼妻、若紫?と見まごう可憐さでした。やはり葵の上役には、斗真源氏よりも4つ程年上の女性をキャスティングした方が、映画が紡ぐ物語の意図は伝わりやすかったのではないかな、と思います。
また、六条御息所の生霊化をめぐっては、そのきっかけとなるかなり重要な場面を省いてしまっています。嫉妬が六条御息所が生霊になる理由であるという映画の解釈を強調するための演出かな、と理解しましたが、原作を知っている人の間では賛否両論分かれるかも・・・
映画の構成上のもう一つの大きな柱である藤原道長と紫式部の恋ですが・・・
古くから彼らの間に肉体関係(業界用語で「実事」と言います・汗)があった、という説はあるのです。 『尊卑分脈』という室町期成立の系図には、紫式部が藤原道長の「妾」(「めかけ」、ではなくて「しょう」、格下の奥さん)だったという記述があります。これが、事実なのか、伝説の反映なのか・・・国文学者の一部には真剣に議論する人もいますが、決定的な証拠はないので、議論の決着はつかないだろうな・・・と思います。
実際の紫式部は、中谷美紀さんのような美女ではなく、地味な年増女であったようですから、果たして道長が、恋心を抱いたかどうか。道長が、女性としての外面的な魅力ではなく、紫式部の才能そのものを愛したかどうか、(そしてその愛が、「実事」につながるような愛だったか)が問題になるのでしょうが、うーん。分かりません。
このあたりは、専門家およびその見習いは口を噤んで、創作家たちの自由な想像を楽しむのがいいのだろうと思います。
細かいところを指摘し出すとキリがないですし、指摘することにさほど意味があることとも思いません。
たとえば、映画の中で女性が外を歩いたり、顔を見せたりしているのは、平安朝の史実に忠実に、女性は原則御簾の中にしかいない、とすると映画になりませんし、また、衣装の直衣や狩衣に模様が入っているのも不思議な感じがしましたけれども、現代的な感覚の反映なのだろうと考えれば納得できます。「専門家見習い」としての目で見たとき、不満に感じることの多くは、結構、演出上の理由で納得できるものだったりしました。
ただ、細部で比較的変更が簡単に出来ただろう箇所については、史実や原作に忠実でなかったことが、もったいないな、という思いはあります。
たとえば、生田クンの大きな見せ場である「青海波」の舞。映画の時系列では、元服前の出来事とも解釈出来てしまうのですが、藤壺との恋において重要な場面なのですから、是非大人になった光源氏の舞であることを明確にして欲しかった。
また、台詞の言葉遣いは、もう少し工夫の余地があるかな、と思う箇所もありました。時代劇なので文語を織り交ぜながら・・・というのは雰囲気を出すために重要ですし、かといってすべて文語にしてしまうと、古文になってしまい通じなくなってしまう(笑)ので、これもバランスが大事なのだろうと思います。しかし、文語混じりの台詞に、極端に口語的なことば(たとえば、「けれど」とか「だけど」など)が混ざってしまってひどくアンバランスな感じになってしまっていることが、何度かあり、気になりました。
あと、個人的には藤原行成をもう少し格好良く書いて欲しかったな、江戸時代の版本みたいな『白氏文集』をいつも手にしているのは、ちょっと・・・
などと、細かい所にぶちぶち文句を言いながらも、136分(!)の長丁場の映画を結構満喫したなおでした。まだご覧になっていない方で、時代劇が好きな方は、美しい映像を見ているだけでも、そこそこ楽しめる映画なんじゃないかと思います。
色々あった一年が暮れようとしています。お世話になった皆様、読んでくださった皆様に心より感謝いたします。来年が皆様にとってよい年でありますよう、祈っております。
こんにちは。本格的な寒さが到来し、ミノムシ化しつつある諒です。
今回のネタを探していたのですが、タモンの記事を読んで、ちゃっかり乗っかってみようという企画を勝手に立てました(事後承諾。書いたもの勝ち!)。謡曲の中には、さまざまな伝説や説話から題材を得たものが多く見られますが、みなさま、もとの話って気にならないですか? 「求塚」の記事を読んで私は思いました。そういえば、これって『萬葉集』ではどうなっていたかしらん? と。
謡曲「求塚」は「菟原処女伝説」(「うなひをとめ」と読みます)と呼ばれる、妻争いをテーマとした伝説をもとにして創作された曲です。この伝説は、つとに『萬葉集』において高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持が詠んだ歌としてその形成が見られます。上代の「菟原処女伝説」はどのような話だったのか。それを見てみたいと思います。中世に成立した「求塚」との雰囲気の違いというようなものを感じていただければと思います。
ただ、歌をご紹介する上で問題がひとつ。
長い。
上記のように、三人の歌人が菟原処女を詠んでおりますが、ともに長・反歌からなり、とくに長歌の方では、謡曲「求塚」での莵名日少女の語りよろしく、長々とものがたりを展開させています。歌としてはそこが面白いのでありますけれども、一気に読むのはちょっとたいへん。そこで今回は、もっとも「伝説歌的」とされる高橋虫麻呂の歌を特に取り上げたいと思います。
菟原処女が墓を見る歌一首〈幷せて短歌〉
葦屋の 菟原負処女の 八年児(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚(うつ)木綿(ゆふ)の 牢(こも)りて座(を)れば 見てしかと 悒憤(いぶせ)む時の 垣廬(かきほ)なす 人の誂(と)ふ時 血沼壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 蘆屋(ふせや)焚き すすし競(きほ)ひ 相ひ結婚(よば)ひ しける時には 焼き大刀(たち)の 手穎(たかみ)押しねり 白檀弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競(きほ)ひし時に 吾妹子(わぎもこ)が 母に語らく 倭文手纏(しつたまき) 賤しき吾が故 大夫(ますらを)の 荒(あらそ)ふ見れば 生けりとも 合ふべく有れや しくくしろ 黄泉に待たむと こもりぬの 下延(したは)へ置きて 打ち歎き 妹が去ぬれば 血沼壮士 その夜夢に見 取り次(つつ)き 追ひ去きければ 後れたる 菟原壮士い 天(あめ)仰ぎ 負けては有らじと 懸け佩きの 小剣(をだち)取り佩き ところつら 尋(と)め去きければ 親族(うがら)ども い帰(ゆ)き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遐(とほ)き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方(こなたかなた)に 造り置ける 故(ゆゑ)縁(よし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)の如(ごと)も 哭(ね)泣きつるかも (巻9・1809)
反歌
葦屋のうなひ処女の奥槨(おくつき)を往き来と見れば哭のみし泣かゆ (同・1810)
墓の上の木の枝靡けり聞きし如血沼壮士にし依りにけらしも (同・1811)
ね?長いと言ったでしょう。せっかくなので現代語訳も長々と付けちゃいます。
菟原処女の墓を見た時の歌一首〈あわせて短歌〉
葦の屋の菟原処女は八歳の幼い時から小放りに髪をあげる年ごろまで、隣の家にも姿を見せずに、(虚木綿の)家にこもって育ったものだから、男たちは娘を何としても見たいともどかしがって垣をなして取りまくのであった。中でも血沼壮士と菟原壮士は、廬屋を焼いた時の煤のように先を争ってともに求婚したのだけれど、その様子ときたら、焼き太刀の柄に手をかけ握って白檀弓と靫とを持って水にも火にも入らんばかりに争って競争するありさまである。時に菟原処女がその母に語るところには、「(倭文手纏)賤しいわたしのために、立派な男たちが争っているのを見ると、(簡単に意中の男と)合うこともできなかろう、それならばいっそ彼を(しくくしろ)黄泉で待っていよう」と。(こもりぬの)下延に心を隠して、打ち歎きつつ娘が身を損なったその夜、血沼壮士は夢でそのことを知って、急ぎ黄泉へ追って行ったのである。後れをとった菟原壮士といえば、天を仰ぎ、相手に負けるものかと小剣を帯びて(ところづら)後を追ったのだった。親族たちは相談して、永代の標にするために、はるか後まで語り継ぐために、菟原処女の墓を真ん中に造り置いて、壮士らの墓を両脇に造り置いたという。(わたしは、)その由縁を聞いて、実際には知らぬことだけれども、まるで新喪の時のように声を出して泣いてしまったことだ
反歌
葦屋の菟原処女の奥槨(墓)のあたりを旅の往き来に見るたびに声をあげて泣いてしまう
墓の上の木の枝が靡いている、聞いたとおりに、菟原処女は血沼壮士に心をよせていたのだな
ふう。ざっくりとした訳になりました。通常、歌の訳は、歌に意味上の句切れがない限り句点を付けずに、歌の通りに続けて行くのですが、それですとあまりに読みにくいので敢えて区切りを付けました。
1811歌の後には「高橋虫麻呂歌集」所載の歌であるという左注があります。高橋虫麻呂は、伝説を歌い出すことに優れた歌人と言われます。この菟原処女歌も、田辺福麻呂(巻9・1801~1803)や大伴家持(巻19・4211、4212)の歌に比べて、話を「語りだす」ということに重きを置いている印象が持たれます。福麻呂や家持の歌には、以下のような表現があります。
「…処女らが 奥つ城所 吾さへに 見れば悲しも 古思へば(三人の墓の場所をわたしまでもが見ると悲しくなる、古を思うと)」(福 1801)
「…たまきはる 寿(いのち)も捨てて 相争(あらそ)ひに 嬬問ひしける 処女らが 聞けば悲しさ…(命を捨てて争って妻問をした処女たちのことは聞くも哀れだ)」(家 4211)
二人の歌にも争いの経緯が詠まれてはいるのですが、虫麻呂と異なる点は、それが「自分が悲しくなる(或は哀れに思う)理由」となっているところです。虫麻呂は自分が話を聞いて泣けてきた、とは歌いますが、「悲しく思った」とは言いません。この構造は、話そのものがメインになっていることを示します。私たちが話しをする時でも、「こんなことを聞いて、泣けてきたよ」と言う時と、「こんなことを聞いて悲しくなったよ」と言う時は違いますよね。違いませんか?「泣けてくる」の時は「泣き所」が、「悲しくなるよ」の時には「どうしてか」という理由を伝えることがそれぞれ先行しませんか?もっと言えば、「泣いた」というのは現象で、「悲しい」というのは感情そのものです。ここで同意が得られなくても、歌の解釈ではその区別がとても重要であることは動きません。(開き直った!) そんな虫麻呂歌の「菟原処女伝説」を見て行きたいと思いますが、現代語訳をしたらとても疲れたので、つづきは次回とさせて下さい。
更新が不規則になってしまい申し訳ありません。お久しぶりです。なおです。
□「都市伝説」??
『源氏物語』は、日本の古典文学の「最高傑作」、あるいは「世界でも評価の高い」長編文学作品ということになっています。
それ故に、皆さんの関心も並々ならぬものがあるようで、テレビなどのメディアで話題になることも少なくないのですが、中には(というより、率直に申し上げれば、しばしば)「ん??」と首をかしげざるをえないような、説明や解釈に出くわします。
古典文学に限らず、どの分野でもあることでしょうが、テレビや新聞の紙面など、限られた時間と場所で分かりやすく説明するためには、どうしたって説明を単純化せざるをえないという事情があるのだろうと思います。
加えて、衆目を集めるためには、より人の注意を引く論、極端な論、が好まれるということもあるのでしょう。
(それから、まあ、メディア側の方の理解がいまいちだったり、取材を受けた専門家が・・・だったり・・・もっとも、専門家の善し悪しは、評価する側の研究上の立ち位置によってものすごく変わってしまうので、そう単純に決められるものでもないのですが)
また、専門家ではない人が「『源氏物語』なんて所詮はポルノだから」などと言っておられるのも、よく耳にします。「ポルノを規制するのなら、『源氏物語』も発禁にしろ!」などという主張もちらほら。
そこで何回かに渡って、巷にあふれる『源氏物語』に関する言説、『源氏物語』の「都市伝説」を取りあげ、検証してみたいと思います。
お上品な方は、面食らうかも・・・
『源氏物語』の優雅な世界に心ひかれて、このコラムを見てくださっている方、もしいらっしゃいましたら、今回からしばらく、なおのエントリはご遠慮下さい。
そして、Junk Stage的には、どのあたりまで大丈夫なのでしょうか・・・まあ、いざとなったら桃生さまにご相談して、表現を穏やかなものに変更することにいたしましょう。
と予防線を張ったところで、思い切って行きたいと思います!!
□ 光源氏はマザコン?
「光源氏はマザコンでロリコンで女ったらしの変態である」
というのは、よく聞く『源氏物語』の「都市伝説」です。まずは「光源氏マザコン説」の検証から始めたいと思います。
「光源氏マザコン説」がしばしば取りざたされるのは、彼が、藤壺の宮という女性に恋いこがれるあまり、ついに男女の関係を結んでしまったことによるものと思われます。
この藤壺という女性、先回のコラムでも触れましたが、光源氏の父である桐壺帝の奥さん、つまり光源氏からすると「義理の母」にあたる人なんですね。この二人の間には、子どもまで誕生し、なんと後に冷泉帝として即位します。
義理の母への行き過ぎた思慕が、ついに肉体関係になってしまった、これぞマザコンの極み!という訳です。
でも・・・ちょっとおかしくありませんか?
世間一般でいう「マザコン」は通常、実母もしくは養母を対象として想定していますよね。
お母さんのご飯を食べるために、飲み会は一切参加しないとか、彼女とのデートにお母さんも同席とか、すごいのだと、お見合い結婚したハネムーン先の行く先々で、「これをお母さんに」とお土産を買いまくり、めでたく(??)成田離婚と相成った・・・・・・など、嘘だか本当だか、という話を聞いたこともあります。
これに対して、光源氏の恋の相手、藤壺は光源氏の育ての親ではありません。
このあたりの事情をちょっと詳しく見ていきましょう。
光源氏の実母、桐壺更衣は光源氏が数え年で3歳の歳の夏に亡くなります。今の年齢でいうと、2歳ぐらいでしょうか。母更衣が亡くなっても「何ごとかあらむとも思したらず、さぶらふ人々の泣きまどひ、上も御涙の隙なく流れおはしますを、あやしと見たてまつりたまへるを。」(一体何があったのかもおわかりにならず、お仕えする人々が泣き惑い、帝もとめどなく涙を流していらっしゃるのを、不思議そうに眺めていらっしゃった)と、母の死を理解していない様子。
つまり、光源氏には、実母の記憶はほとんどないのですね。一般的な「ママ大好き」な男性たちのように、「マザコン」になろうにも、実母がどのような女性であったかを、確かめるすべはないのです。
そんな光源氏が成長し、少年になった頃、父帝に入内(じゅだい・天皇の奥さんになること)したのが、藤壺の宮でした。
この藤壺の宮は、帝(もちろん桐壺帝とは別の帝です)の娘という、大変身分の高い女性です。そして何より、桐壺帝が長年忘れることが出来なかった桐壺更衣に生き写しの女性だったのです。帝は、すぐにこの若い奥さんに夢中になりました。そして、光源氏もまた、「母御息所も、影だにおぼえたまはぬを、「いとよう似たまへり」と典侍の聞こえけるを、若き御心地にいとあはれと思ひきこえたまひて、常に参らまほしく、なづさひ見たてまつらばやとおぼえたまふ。」(実母である御息所(=桐壺更衣)のことは、面影すらも覚えていらっしゃらないのだけれども、「とてもよく似ていらっしゃいますよ」と典侍(ないしのすけ・宮中の女官の№2の地位にある人)が申し上げるのを、幼いお心にもとても懐かしく感じられて、いつもお側に参っていたい、むつましく近くでお姿を拝していたい、とお思いになる)と、母に良く似たと言われる藤壺を「いとあはれ」と思い、側にいたいという気持ちを強く持ちます。
父帝も、藤壺に「若宮(=光源氏)と仲良くしてやってください。あなたは亡くなったこの若宮の母によく似ていらっしゃるのですよ。お二人並んでいると、まるで母子のようですよ」などと言い、光源氏と藤壺を仲良くさせようとします。普通は夫以外が入ることが許されない御簾の内に、光源氏も一緒に連れて入り、対面を許しています。まさか、息子の義理の母への親しみが、恋へと変ずるなどと、夢にも思わず・・・・・・
藤壺の入内から間もなく、光源氏は12歳になり元服します。元服の夜に、葵の上という左大臣家の娘と結婚もします。大人になった光源氏は、もう以前のように藤壺のいる御簾の中に入ることは出来ません。
「御遊びのをりをり、琴笛の音に聞こえ通ひ、ほのかなる御声を慰めにて」(宮中で管弦の遊びがある折々に、共に演奏する琴と笛の音に互いの心を通わせ、御簾の奥からほのかに聞こえる藤壺のお声を慰めにして・・・)とあります。
この、「琴笛の音に聞こえ通ひ」の部分を、共に楽器を演奏する時、お互いの心が通っているのだ、決して光源氏の一方的な思慕ではなく、藤壺の宮もまた光源氏の思いに答えて琴を掻き鳴らしているのだ、という読み方があり、誠に卓見だろうと思います(鈴木日出男さんという偉い先生の説です)。
光源氏のみならず、藤壺もまた光源氏への思いを抱えていた。何故か。
物語は、このことをあまり踏み込んで書くことはしません。ですから、私もあまり深読みはしたくないのですが、二人の年齢はヒントになるかな、と思います。
色々計算してみますと、藤壺の宮は、光源氏の5歳年上ということになっているようです。
方や、藤壺の夫桐壺帝は、既に光源氏や、その兄である後の朱雀帝など十代の息子がいる年齢。具体的に明らかにはされていませんが、藤壺よりはだいぶ年長だったと思われます。この時代、もちろん年の差夫婦は珍しくないのですが、藤壺が年の近い光源氏により親しみを感じたとしても不思議ではなかったのかな、と思います。(妻よりもかなり年長の夫と、若い妻、そして妻と通じる同年代の男、という構図は若菜巻でも繰り返されます)
何が言いたいかと言いますと、藤壺と光源氏は義理の母子という設定ではあるのですが、藤壺が光源氏の父帝の妻であることを除けば、恋愛関係に発展してもおかしくない要素があるということです。義母と言っても、5歳年長なだけですし、育ててもらった訳でもない。もちろん、藤壺が父の妻であったことは大問題なのですが、そのことに目をつぶれば、5歳年上の若くて美しく、身分が高く、さらに深い教養を身につけている完璧な女性である藤壺に、光源氏が恋をしないほうが不自然ではないでしょうか。もちろん藤壺は、桐壺更衣にうり二つの容姿であったとされていて、それ故に光源氏は藤壺を慕うのですが、だからといって、光源氏にとって、藤壺が母も同然であり、光源氏は言ってみれば母と関係をもったのだ、と言うのは乱暴なのではないかと思います。
二人の関係を、世間一般の「マザコン」と一緒くたにしてしまうことに、ましてや近親相姦に準じるものとすることに、私が強い抵抗を覚えるゆえんです。
但し、光源氏の藤壺への恋が、おぼろげな記憶すらない母への思慕から始まっていること、母と似ているといわれたからこそ、光源氏が藤壺に強い愛着を覚えたことには、やはり注意しなければならないだろうと思います。
母を恋い慕う気持ちが、光源氏の最初の恋のきっかけとなっていること、そしてそれ以後も藤壺への思いが、紫の上、女三の宮という新たな女性をたぐり寄せていることを思うと、少年時代の実母への思慕こそが、光源氏の恋愛の基盤だったとも言えるのです。
光源氏の藤壺への恋慕は、記憶にすら残っていない母を強く追い求める気持ちがきっかけになっている点においては、「マザコン」的とも言いうるかもしれません。
また、光源氏と藤壺のストーリーは、古今東西にみられる「エディプス王の話型」(父親を殺害し、母親と結婚するというギリシャ神話の登場人物による)のずらし、と見ることも可能なのかな、と思います。(光源氏は、父帝を殺しませんし、結ばれた相手も血の繋がらない母ではありますが。)
このエディプス王の話をもとにフロイトが唱えたのが、「エディプスコンプレックス」、すべての男性が女親に性的願望を持つ時期がある、という概念だと言われています。そして、巷で言われる「マザコン」という言葉はどこが出所なのかよく分かりませんが、フロイトのこの概念と全く無関係ではないでしょう。そう考えてくると、光源氏が広い意味での「マザコン」を象徴するような存在であることは、否定できないだろうな、とも思うわけです。
・・・という訳で、「光源氏はマザコン」という「都市伝説」は、正しいとも正しくないとも言えます。そもそも「マザコン」の定義もあいまいですし。この「都市伝説」に遭遇すると、私なおは、ぱくぱくと口を動かしたまま、何も言えなくなってしまうことが多いのです。悩ましいことです。
読者の皆さまには、一般的に言われる「マザコン」とは、ちょっと違うのだな、と認識していただければ幸いです。
次の更新では、懲りずに(編集サイドからストップがかからなければ)「ロリコン説」を検証してみたいと思います。
それでは、次回は諒が担当いたします。お楽しみに!