こんにちは。最近の寒さときたら、耐えがたいものがあります。南国に移住したいと切望する諒です。
前回、何となく高橋虫麻呂の菟原処女(うなひをとめ)の歌を取り上げて、おもむろに現代語訳をしてみたわけですが。今回は、その内容を具体的に見てみたいと思います。
でもその前に、少し菟原処女伝説の舞台について触れておきます。題によると、歌は「墓」を見て作った、とあります。この墓は、現在の神戸市東灘区にある古墳を指します。古墳は三基並んでいて、中心が「処女塚(おとめづか)」(前方後方墳)、東側が「東求塚」、西側が「西求塚」(ともに前方後円墳)と呼ばれます。現在では堆積や埋め立てによって、海岸線から離れてしまい、古墳自体も整備されてしまっていますが、古くは三基とも船からよく見えただろうと考えられています。面白いことに、「東求塚」と「西求塚」は中心の「処女塚」に前方部を向けて造られているのだそうです。もとより、これらの立派な古墳が一介の男女の墓であるわけがありませんけれども、もとの被葬者の存在が忘れられ、古墳だけが残ったとき、墓は伝承の舞台として機能し始めたのでしょう。墓にまつわる妻争いの伝承は、海岸のランドマークである古墳とともに、そこを行き来する人々にも知られていたと想像されます。
土地に伝わっていた話が、元々どのようなものであったのかを正確に知る手段はありません。でも、当時の人々がどのような話として伝えていたかは、菟原処女伝説の場合、歌の内容からわかります。虫麻呂の歌を順に見てみましょう。長歌は、初めに菟原処女についてを歌い出します。
〔1〕 葦屋の 菟原負処女の 八年児(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚(うつ)木綿(ゆふ)の 牢(こも)りて座(を)れば 見てしかと 悒憤(いぶせ)む時の 垣廬(かきほ)なす 人の誂(と)ふ時
菟原処女は八歳から家で大事に育てられていたために、その姿を一目見たいと求婚者が集ったとされます。菟原処女の姿への言及はありませんが、「垣廬なす」といった表現から、美しい女性として噂されていたであろうことがわかります。ヲトメの名前は、「葦屋」(大地名)の「菟原」(小地名)に住む女性、という意味です。
〔2〕 血沼壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 蘆屋(ふせや)焚き すすし競(きほ)ひ 相ひ結婚(よば)ひ しける時には 焼き大刀(たち)の 手穎(たかみ)押しねり 白檀弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競(きほ)ひし時に
求婚の最終候補となり激しく争う男が二人。血沼壮士と菟原壮士です。菟原壮士はヲトメと同じく「菟原」を冠するので、同郷の男です。「血沼」は和泉国の「茅渟(ちぬ)」地域のことです。つまり、ヲトメは、同郷の男と外部の男から一度に求婚されたことになります。
〔3〕 吾妹子(わぎもこ)が 母に語らく 倭文手纏(しつたまき) 賤しき吾が故 大夫(ますらを)の 荒(あらそ)ふ見れば 生けりとも 合ふべく有れや しくくしろ 黄泉に待たむと こもりぬの 下延(したは)へ置きて 打ち歎き 妹が去ぬれば
ヲトメの心はどこにあるでしょうか。「母」への語りで本心をにおわせます。「生きていても一緒になれないのであるのなら、いっそあの世で待とうという、心を隠して」死んでいったのです。どちらに、とは言いませんが、どうも、不利な方の男に思いを寄せていたようです。
〔4〕 血沼壮士 その夜夢に見 取り次(つつ)き 追ひ去きければ
ヲトメは死んだあとで血沼壮士の夢に現れます。夢での逢瀬は、『萬葉集』でもよく歌われますが、当時の考え方では、それは、夢に「会いに行く」ものでした。ヲトメは自ら夢に現れたのです。ここで、血沼壮士を恋しく思っていたことが、はっきりします。血沼壮士は「菟原」の地において同等の力を持つ菟原壮士と妻争いをするには、圧倒的不利な立場にあったと推測されます。でもヲトメはどうしても、血沼壮士でなければならなかった。そして、血沼壮士はヲトメのあとを追うのです。
〔5〕 後れたる 菟原壮士い 天(あめ)仰ぎ 負けては有らじと 懸け佩きの 小剣(をだち)取り佩き ところつら 尋(と)め去きければ
さて、衝撃をうけたのは、菟原壮士。現代風な言い方をすれば、「イタい」立場です。三角関係に、この上もない形で敗北してしまいました。でもこの人、そんなことでは挫けません。悔しく思いながらも、二人のあとを追います。この慟哭の表現は、いかに「イタい」立場でも、敗北者への同情を誘うように思います。
〔6〕 親族(うがら)ども い帰(ゆ)き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遐(とほ)き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方(こなたかなた)に 造り置ける
彼らの死を受けて、親族たちはこの争いを永代に語り継ごうと考えて、墓を造ったそうだ、と一連の話をまとめます。古代では、恋にまつわる悲劇的な死を遂げた女の話を語り継ぐための「しるし」として墓をたてた、という伝説がしばしば見られます。「墓(しるし)」と「悲恋譚(話)」はワンセットで土地のアイデンティティのひとつであったと思われます。
〔7〕 故(ゆゑ)縁(よし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)の如(ごと)も 哭(ね)泣きつるかも
〔反歌1〕葦屋のうなひ処女の奥槨(おくつき)を往き来と見れば哭のみし泣かゆ
〔反歌2〕墓の上の木の枝靡けり聞きし如血沼壮士にし依りにけらしも
長歌の最後と反歌1は、悲劇を聞いて実際に墓を目にした虫麻呂の反応です。反歌2は、現在の墓の様子にヲトメの心を思って、全体を歌い収めています。
ちなみに。虫麻呂の歌は妻争いの話を「語りだしている」ところに特徴があります。登場人物の余計な心情などは詠まないのです。ひたすら、「このようなことがあって…」と続けています。その態度は、伝説を記す態度に等しく、虫麻呂は、伝えられていた話を歌によって「語りだした」のだといえます。長歌の最後の部分と、反歌は現在の状況に立ち戻って、「墓を見て」(題にありました)思われることを歌います。但し、その歌い方も、「墓を見たから(その背後には、衝撃的な妻争いの話があるから)泣けてくる」という原因に重きを置いた、自己の心情・態度に客観的であるような印象が持たれます。虫麻呂の感動は「伝説」そのものにむけられています。「伝説歌人」の「ワザ」ですね。
「求塚」以前(といっても上代のみですが)の菟原処女伝説、いかがでしたでしょうか。『萬葉集』だけでも、虫麻呂の他に、田辺福麻呂、大伴家持がこの伝説に取材した歌を作っていて、それぞれに特徴が見られます。同時代でもそうなのですから、当然、異なる時代のものでは、話の伝わり方、伝え方に違いがあります。平安時代のものでは、『大和物語』(147段)に「生田川伝説」があります。ここで私たちははじめて、「生田川」という地名に接します。この川は、二人の男が勝負のために「水鳥」を射るという、重要な舞台となるのです。謡曲「求塚」では、墓(塚)と「生田川」とが主要な場所として取り上げられ、テーマが娘の成仏へと転じます。時代を追うごとに、ずいぶんと印象が変わりますね…。
最後に、この伝説について、読み易いおススメの本を一冊。廣川晃輝氏の『死してなお求める恋心―「菟原娘子伝説」をめぐって―』(新典社新書、2008)です。上代文学を御専門とされている方なので、『萬葉集』が中心となりますが、中古以降のものにも少し触れられています。「墓」についての考察が見どころ。
それでは、今回はここまで。