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1ヶ月ぶりに登場のなおです。
年内最後の滑り込み更新、当初の予定では「光源氏ロリコン説」を検証する予定だったのですが、たまたま12月10日公開の映画、「源氏物語 千年の謎」を見る機会があったので、その感想を書きたいと思います。
以下、まだご覧になっていない人に出来るだけ配慮したいと思いますが、公式ホームページに載っている程度の情報については、ネタバレあります。ご了承ください。
「主演の生田斗真クンの魅力を上手に引き出した演出だったね」とは一緒に見たタモンの言。
『源氏物語』を映像化する場合、誰を光源氏にするかがもちろん、一番の問題になるわけですが、光源氏という人物の超人的な魅力と、人間としての限りない大きさを表現するのは、残念ながらどんな俳優でも不可能でしょう。
とにかく若くてイケメンで、演技力もある俳優さんを連れてきて(これだけの条件が揃っている俳優さんを選ぶのも大変でしょうが)、その俳優さんの魅力を引き出すような脚本・演出を整える方が得策であろうと思います。
原作の光源氏の人間としての大きさ、深さというのは、年齢も美醜も様々なたくさんの女性と関係を持ちながら、それぞれの女性に対しての情が細やかであることによって表現されていると言ってよいでしょう。つまり、広くかつ深く女性を愛するのですね(笑)
原作では、巻を重ね、光源氏と女性達の間にある様々に印象深いエピソードを書き連ねることによって、このような光源氏像を造型することが可能になっています。
しかし、映画の場合は上映時間が限られていますから、原作をそのまま再現することは出来ません。
原作に登場する個性豊かな様々な女性を登場させれば、光源氏と彼女たちの関係を十分に描くことが出来ず、光源氏が女性を次々と乗り換える単なるプレイボーイになってしまうことでしょう。一方、一人か二人の女性をクローズアップすれば、光源氏との関係を精緻に描き、彼の限りない優しさを表現することも可能になるのでしょうが、たくさんの女性を愛した彼のスケールの大きさを描くことが出来ず、光源氏が凡人になってしまいます。
「源氏物語 千年の謎」はこの難しいバランスを、上手に取っていたように思うのです。
光源氏の青春時代に絞って、重要な数人の女性を登場させ、彼女たちとの間の恋の葛藤を描いています。斗真源氏には、女性をおおらかな愛で包む包容力はないけれども、生真面目さ、年上の女性が彼を愛さずにはいられない危うい魅力がある。幼くして母を亡くした光源氏の、女性達に母の面影を求めないではいられない切なさが、年上の女性たちにはたまらない魅力だったことが、生田クンが光源氏を演じると結構説得力がありました。
作中人物のうち、紫の上は登場させず、藤壺(真木よう子さん)、夕顔(芦名星さん)、六条御息所(田中麗奈さん)、葵の上(多部未華子さん)で構成したのは、そのような構成上の意図があったからでしょう。藤壺への許されない恋と、六条御息所の生霊化を軸として複雑なストーリーをよくまとめていたと思います。
ただ、この構成を効果的に表現するには、葵の上が多部未華子ちゃんだったのは、ちょっとミスキャストだったかな・・・と思います。個人的には大好きな女優さんなのですが、そもそも光源氏の正妻となった葵の上が、光源氏にうち解けた態度をとれないのは、映画で説明される東宮妃候補として誇り高く育てられたことの他に、自分の方が4歳年上であることへのこだわりが捨てられなかったからです。(原作では光源氏と年齢的に不釣り合いだ、という葵の上の思いが語られます。)
多部未華子ちゃんは、実年齢も生田斗真クンよりも結構年下ですし、映像的にも幼妻、若紫?と見まごう可憐さでした。やはり葵の上役には、斗真源氏よりも4つ程年上の女性をキャスティングした方が、映画が紡ぐ物語の意図は伝わりやすかったのではないかな、と思います。
また、六条御息所の生霊化をめぐっては、そのきっかけとなるかなり重要な場面を省いてしまっています。嫉妬が六条御息所が生霊になる理由であるという映画の解釈を強調するための演出かな、と理解しましたが、原作を知っている人の間では賛否両論分かれるかも・・・
映画の構成上のもう一つの大きな柱である藤原道長と紫式部の恋ですが・・・
古くから彼らの間に肉体関係(業界用語で「実事」と言います・汗)があった、という説はあるのです。 『尊卑分脈』という室町期成立の系図には、紫式部が藤原道長の「妾」(「めかけ」、ではなくて「しょう」、格下の奥さん)だったという記述があります。これが、事実なのか、伝説の反映なのか・・・国文学者の一部には真剣に議論する人もいますが、決定的な証拠はないので、議論の決着はつかないだろうな・・・と思います。
実際の紫式部は、中谷美紀さんのような美女ではなく、地味な年増女であったようですから、果たして道長が、恋心を抱いたかどうか。道長が、女性としての外面的な魅力ではなく、紫式部の才能そのものを愛したかどうか、(そしてその愛が、「実事」につながるような愛だったか)が問題になるのでしょうが、うーん。分かりません。
このあたりは、専門家およびその見習いは口を噤んで、創作家たちの自由な想像を楽しむのがいいのだろうと思います。
細かいところを指摘し出すとキリがないですし、指摘することにさほど意味があることとも思いません。
たとえば、映画の中で女性が外を歩いたり、顔を見せたりしているのは、平安朝の史実に忠実に、女性は原則御簾の中にしかいない、とすると映画になりませんし、また、衣装の直衣や狩衣に模様が入っているのも不思議な感じがしましたけれども、現代的な感覚の反映なのだろうと考えれば納得できます。「専門家見習い」としての目で見たとき、不満に感じることの多くは、結構、演出上の理由で納得できるものだったりしました。
ただ、細部で比較的変更が簡単に出来ただろう箇所については、史実や原作に忠実でなかったことが、もったいないな、という思いはあります。
たとえば、生田クンの大きな見せ場である「青海波」の舞。映画の時系列では、元服前の出来事とも解釈出来てしまうのですが、藤壺との恋において重要な場面なのですから、是非大人になった光源氏の舞であることを明確にして欲しかった。
また、台詞の言葉遣いは、もう少し工夫の余地があるかな、と思う箇所もありました。時代劇なので文語を織り交ぜながら・・・というのは雰囲気を出すために重要ですし、かといってすべて文語にしてしまうと、古文になってしまい通じなくなってしまう(笑)ので、これもバランスが大事なのだろうと思います。しかし、文語混じりの台詞に、極端に口語的なことば(たとえば、「けれど」とか「だけど」など)が混ざってしまってひどくアンバランスな感じになってしまっていることが、何度かあり、気になりました。
あと、個人的には藤原行成をもう少し格好良く書いて欲しかったな、江戸時代の版本みたいな『白氏文集』をいつも手にしているのは、ちょっと・・・
などと、細かい所にぶちぶち文句を言いながらも、136分(!)の長丁場の映画を結構満喫したなおでした。まだご覧になっていない方で、時代劇が好きな方は、美しい映像を見ているだけでも、そこそこ楽しめる映画なんじゃないかと思います。
色々あった一年が暮れようとしています。お世話になった皆様、読んでくださった皆様に心より感謝いたします。来年が皆様にとってよい年でありますよう、祈っております。