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こんにちは。タモンです。
大河ドラマ「平清盛」も第一部が終わり、明日から第二部のはじまりだそうですね。
これについては、「N☆Kが男色を描いた!!」というところに衝撃を受けました~。攻めてますね!N☆K。だから、前回、頼長の男色を描かないだろう、と予想を言ったのは撤回します。これに関しては、また改めて書きたいなーーと思います。
今回は、3月上旬に観た「現代能 春と修羅」by 練肉工房 について書きます。
テキスト=宮沢賢治 構成・演出=岡本章
鵜澤久 古屋和子 横田桂子 北畑麻実 牧三千子 村本浩子 吉村ちひろ
宮沢賢治の童話や詩に多く見られるオノマトペ(擬音語、擬態語)を手掛りにして、詩集『春と修羅』を中心に、童話『かしわばやしの夜』、戯曲『饑餓陣営』、書簡などからも引用し、夢幻能の様式で構成されることで、生と死が、また人間と動物たち、木や石や虹や月あかりたちが直接交わり、戯れる賢治宇宙がくっきりと浮き彫りにされる。
参照:https://confetti-web.com/detail.asp?tid=111325
考えさせられる舞台だったので、全体的な印象について書き留めておこうと思います。
私は宮沢賢治が好きですが、舞台で取り上げられていた作品全てを覚えているわけではなく……。
マニアックに言えたら良かったのですが、
特に印象に残ったところを取り上げようというものです。
鵜澤久師は第一線で活躍されている女性能楽師です。
舞台上に座る、立つ。
これだけのことが、長時間そうしていてもブレない身体という凄さを感じました。
同じポーズをとり続けるって、慣れていない人は10分でも大変ですよ。
これらかも鵜澤師が現代演劇の舞台に立っている姿を見てみたいと思います。鵜澤師の身体性が新しく広がっていくのではないかと期待します。
鵜澤師の身体性は、その意味で他の6人と明らかに異質でした。
七人の女性たちが発する言葉から、地獄のなかで魂が浮遊しているようなイメージを思い浮かべました。
タイトルを「春と修羅」としてのも、女性が修羅だからなのかな、と。
そして、紡がれる言葉から成仏できぬ魂たちが苦しんで痛がっていると思ったのです。
ただ、身体がその苦痛を表現しているか、といったら否でした。
身をよせあう・倒れるといった表現はありましたが、全体的に見ると地獄にいる怖ろしさは伝わらないなぁと思いました。
身体と言葉のズレを感じたんですね。
パンフレットを読むと、「鎮魂」がテーマのひとつであるとありました。
率直な感想として、表現されたのはもっともっと生々しいものではないかと思いました。
魂を鎮めることよりも、うつろわぬ魂そのものを描くことに力点を置いていると感じたんです。
最後に、触れておきたいのが、
語られる言葉のなかで最も記憶に残ったのは、『春と修羅』所収「青森挽歌」の一節だったことです。
ここに登場する、
ギルちゃん=賢治の妹・とし子(早くに亡くなります)
ナーガラ=蛇。インドの蛇神をナーガラージャと云う。
という解釈で読んでいたのですが、今では違うのでしょうか?踏み込みすぎでしょうか?
《ギルちゃんまつさをになつてすわつてゐたよ》
《こおんなにして眼は大きくあいてたけど
ぼくたちのことはまるでみえないやうだつたよ》
《ナーガラがね 眼をじつとこんなに赤くして
だんだん環をちひさくしたよ こんなに》
《し 環をお切り そら 手を出して》
《ギルちやん青くてすきとほるやうだつたよ》
《鳥がね たくさんたねまきのときのやうに
ばあつと空を通つたの
でもギルちゃんだまつてゐたよ》
(中略)
《ギルちゃんちつともぼくたちのことみないんだもの
ぼくほんたうにつらかつた》
(中略)
《どうしてギルちゃんぼくたちのことみなかつたらう
忘れたらうかあんなにいつしよにあそんだのに》
(新潮文庫『新編 宮沢賢治詩集』天沢退二郎編。以下同じ。)
有名な「永訣の朝」では賢治がとし子の死が描かれています。
「青森挽歌」では死後のとし子が描かれます。
おそらくそこは地獄。そして死んだとし子は、生きている賢治とは決して交わらぬ存在。
ナーガラが環を小さくし、とし子に巻き付き苦しめるのでしょう。
自分はその姿を見ているのに、「ギルちゃん」は全く自分を見ようとしない。
この舞台を見て、私は「青森挽歌」が二人が交錯することのできない者同士になった哀しみが描かれているのだと解釈しました。
そんなこと全然思ったことなかったのに…。
舞台の最後は、『春と修羅』序の一節でしめられました。
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)
「鎮魂」がテーマならば、「青森挽歌」の最後の一節、
「ああ わたくしはけつしてさうしませんでした
あいつがなくなつてからあとのよるひる
わたくしはただの一どたりと
あいつだけがいいとこに行けばいいと
さういのりはしなかつたとおもひます」
で括れば「鎮魂」になったと思うのです。ひとりよがりの感想かもしれませんが、
「私」のなかに「みんな」がいるように、みんなに一人一人がいるならば、それは地獄に堕ちた死者が生者に存在しているに過ぎません。
生者もまた死者と同じように地獄を歩いている「青森挽歌」の最後のほうが、
苦痛に満ちた死後を送る死者の魂を鎮魂するに相応しいのではないか。
ただ、タイトルに「現代能」と冠して「夢幻能的世界」を表現しようとしている意図が伝わってきたことは確かです。
普段言葉について考えることが多いので、どうしても言葉の解釈に関心がいってしまいました。
「飢餓陣営」や書簡の一節など他に取り上げたい箇所もたくさんありましたが、このくらいで切り上げたいと思います。