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2012/03/21

〔牛を捜索中です〕

今日、牛を飼っている知り合いが、牛舎から逃げ出した子牛を捜索していました。その人は、牛を捕まえるためには、追うのではなく囲うのだと言っていました。その話を聞いて、私は禅宗で悟りの道程を描いているとされる「十牛図」を何となしに思いだしたのでした。牛は追ってもなかなか追いつかないものなんですね。「十牛図」の意味するところはともかく、悟りを追うことが牛を追うことで譬えられていることに、妙に納得したのです。牛が身近な人にとっては当たり前のようなことが、それを経験したことのない者にとっては、わからないものであります。古典を読むときにも、そういった、昔の人々との経験の差を埋めることが大事だな、とふと思ったのでした。もちろん、すべては無理ですが。

とはいえ、逃がした子牛は乳牛だそうで、もし見つからなければウン十万円の損失だそうです。のんきな事を思っている場合ではありません。みなさま、もし耳にタグが付いていないノラ牛を発見したら諒までご一報ください。あ、その前に農協か警察に…。子牛でも力は相当あるそうなので、素人が決して自力で捕まえようとしてはいけません。

 

〔ここからが本題〕

そんなわけで、おひさしぶりの諒です。最近、読書不足、勉強不足でなかなかテーマが決まらずに、更新が遅れてしまいました。遅らせたわりに、よい話も思いつかず、今回は歌でも鑑賞してみよう、と思いまして、『萬葉集』を繙いたのです。(なんちゃって)

   志貴皇子の懽(よろこ)びの御歌一首

 石灑(いははし)る垂水(たるみ)の上のさ蕨の萌え出づる春になりにけるかも(巻八・1418)

萬葉歌の中でも秀歌として名高い、巻八の巻頭におさめられている、志貴皇子の歌です。私自身、好きな一首です。現代語訳をすると、「岩に当たって水しぶきをあげる、垂水(滝)のほとりのさわらびが、萌え出る春になったことだなあ」という、特にひねりのない、実に単純な歌に見えますよね。でも、実際は、とてもよい歌として受け入れられる。一体、どんなところがこの歌のよさなのか、鑑賞したいと思います。

作者、志貴皇子(?~715又は716)は天智天皇の第七皇子です。壬申の乱(672)以後、天武系の天皇が続く時代では、政治の表舞台に立つことはありませんでしたが、一方で『萬葉集』に残る六首はいずれも佳作とされ、文才に秀でたことが知られます。「さわらび」の歌は、白鳳期のものと考えられます。題詞に「懽歌」とありますが、何に対してよろこんだのか、その内容は書かれていません。契沖(1640~1701)という江戸時代の僧が、水戸光圀に依頼されて著した『萬葉代匠記』という注釈書に、「若(もし)、帝ヨリ此処ヲ封戸ニ加ヘ賜ハリテ悦ハセ給ヘル歟」と推測しています。つまり、政治的に不遇の皇子がその時、天皇から恩賜をたまわった、そのよろこびを春の芽吹きとして歌った、というのです。たしかに、そのように取れなくはないですが、四季分類されている巻八の「春雑歌」の冒頭に「さわらび」の歌は置かれていることが注目されます。四季の雑歌では、基本的に、季節の景物を精緻な視点で歌い出している作品が集められています。とすれば、少なくとも、『萬葉集』が編纂される時点では、春の到来のよろこびを歌う、その代表的な作品として理解されていたと考えられます。

「さわらび」の歌が秀歌と評される理由のひとつに、リズムと音律が明るい響きをもつことがあります。

「『石走ル たルみの上の』とル音を重ねた出だしの調子は小刻みだが、それはやがて『垂水ノ上ノ さわらびノ』という開放的呼吸のうちに吸収され、高められてゆく。小休止を置いての『萌え出づる春』で転調が示され、『なりにけるかも』の強い詠嘆をもって一首を結ぶのだが、この結句がいささかの過剰も感じさせないのは、三句までの句勢の高まりによく応じているからだ。」(『注釈万葉集〈選〉』)

一首がもつ、洗練されたリズムは、人を驚かせるほどに記憶力が欠如している私でも覚えられるほどに心地よく調っています。音律については、ア段の開口音が明るい印象を与え、有名な「春過ぎて夏きたるらし」(持統天皇、巻一・28)と通じることが指摘されています(『萬葉集注釈』)。リズムと音律は、後の家持の歌の繊細さなどに比べると、もう少し力強い爽快さがあるように思います。個人的な感想ですが。

もうひとつ、「さわらび」の歌には早春の季節感がよく歌われている、という評が見られます。わかりやすい歌なだけに、分析するのは難しいのですが、単純なことばの選択が季節感をダイレクトに伝える、要因のひとつとなっているのではないでしょうか。岩、水、さ蕨、そして春、自然と景色が想像されます。岩にほとばしる水は、凍てついた冬を割るような、雪解けの、澄んだ流れでしょうか。さ蕨の若々しく瑞々しい青、そこに透明なしぶきがかかります。その情景が、何よりも春の息吹であり、それこそが懽びを誘うのです。この歌には、絵画的、というよりも一枚の写真のような印象をもちます。景色を切り取ることで、すべてを美しく見せるような。

『萬葉集』において、景物への精緻な視点は、第三期を経て四期に至るまでにより洗練され繊細になります。その出発点に「さわらび」の歌はあります。今回は触れませんでしたが、ワラビの植生というのも気になります。現在、ワラビは五月頃に食卓に並ぶのが一般的ですよね?でも、歌では「萌え出づる春」のことですから、もう少し早い時期のことかと推測されます。早く本格的な春になって欲しい気持ちを込めて、季節ネタとして取り上げました。

2012/03/21 02:11 | rakko | No Comments