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2011/12/23

こんにちは。本格的な寒さが到来し、ミノムシ化しつつある諒です。

今回のネタを探していたのですが、タモンの記事を読んで、ちゃっかり乗っかってみようという企画を勝手に立てました(事後承諾。書いたもの勝ち!)。謡曲の中には、さまざまな伝説や説話から題材を得たものが多く見られますが、みなさま、もとの話って気にならないですか? 「求塚」の記事を読んで私は思いました。そういえば、これって『萬葉集』ではどうなっていたかしらん? と。

謡曲「求塚」は「菟原処女伝説」(「うなひをとめ」と読みます)と呼ばれる、妻争いをテーマとした伝説をもとにして創作された曲です。この伝説は、つとに『萬葉集』において高橋虫麻呂、田辺福麻呂、大伴家持が詠んだ歌としてその形成が見られます。上代の「菟原処女伝説」はどのような話だったのか。それを見てみたいと思います。中世に成立した「求塚」との雰囲気の違いというようなものを感じていただければと思います。

ただ、歌をご紹介する上で問題がひとつ。

長い。

上記のように、三人の歌人が菟原処女を詠んでおりますが、ともに長・反歌からなり、とくに長歌の方では、謡曲「求塚」での莵名日少女の語りよろしく、長々とものがたりを展開させています。歌としてはそこが面白いのでありますけれども、一気に読むのはちょっとたいへん。そこで今回は、もっとも「伝説歌的」とされる高橋虫麻呂の歌を特に取り上げたいと思います。

菟原処女が墓を見る歌一首〈幷せて短歌〉

葦屋の 菟原負処女の 八年児(やとせこ)の 片生ひの時ゆ 小放(をばな)りに 髪たくまでに 並び居(を)る 家にも見えず 虚(うつ)木綿(ゆふ)の 牢(こも)りて座(を)れば 見てしかと 悒憤(いぶせ)む時の 垣廬(かきほ)なす 人の誂(と)ふ時 血沼壮士(ちぬをとこ) 菟原壮士(うなひをとこ)の 蘆屋(ふせや)焚き すすし競(きほ)ひ  相ひ結婚(よば)ひ しける時には 焼き大刀(たち)の 手穎(たかみ)押しねり 白檀弓(しらまゆみ) 靫(ゆき)取り負ひて 水に入り 火にも入らむと 立ち向かひ 競(きほ)ひし時に 吾妹子(わぎもこ)が 母に語らく 倭文手纏(しつたまき) 賤しき吾が故 大夫(ますらを)の 荒(あらそ)ふ見れば 生けりとも 合ふべく有れや しくくしろ 黄泉に待たむと こもりぬの 下延(したは)へ置きて 打ち歎き 妹が去ぬれば 血沼壮士 その夜夢に見 取り次(つつ)き 追ひ去きければ 後れたる 菟原壮士い 天(あめ)仰ぎ 負けては有らじと 懸け佩きの 小剣(をだち)取り佩き ところつら 尋(と)め去きければ 親族(うがら)ども い帰(ゆ)き集ひ 永き代に 標(しるし)にせむと 遐(とほ)き代に 語り継がむと 処女墓 中に造り置き 壮士墓 此方彼方(こなたかなた)に 造り置ける 故(ゆゑ)縁(よし)聞きて 知らねども 新喪(にひも)の如(ごと)も 哭(ね)泣きつるかも  (巻9・1809)

反歌

葦屋のうなひ処女の奥槨(おくつき)を往き来と見れば哭のみし泣かゆ (同・1810)

墓の上の木の枝靡けり聞きし如血沼壮士にし依りにけらしも (同・1811)

 

ね?長いと言ったでしょう。せっかくなので現代語訳も長々と付けちゃいます。

 

菟原処女の墓を見た時の歌一首〈あわせて短歌〉

葦の屋の菟原処女は八歳の幼い時から小放りに髪をあげる年ごろまで、隣の家にも姿を見せずに、(虚木綿の)家にこもって育ったものだから、男たちは娘を何としても見たいともどかしがって垣をなして取りまくのであった。中でも血沼壮士と菟原壮士は、廬屋を焼いた時の煤のように先を争ってともに求婚したのだけれど、その様子ときたら、焼き太刀の柄に手をかけ握って白檀弓と靫とを持って水にも火にも入らんばかりに争って競争するありさまである。時に菟原処女がその母に語るところには、「(倭文手纏)賤しいわたしのために、立派な男たちが争っているのを見ると、(簡単に意中の男と)合うこともできなかろう、それならばいっそ彼を(しくくしろ)黄泉で待っていよう」と。(こもりぬの)下延に心を隠して、打ち歎きつつ娘が身を損なったその夜、血沼壮士は夢でそのことを知って、急ぎ黄泉へ追って行ったのである。後れをとった菟原壮士といえば、天を仰ぎ、相手に負けるものかと小剣を帯びて(ところづら)後を追ったのだった。親族たちは相談して、永代の標にするために、はるか後まで語り継ぐために、菟原処女の墓を真ん中に造り置いて、壮士らの墓を両脇に造り置いたという。(わたしは、)その由縁を聞いて、実際には知らぬことだけれども、まるで新喪の時のように声を出して泣いてしまったことだ

反歌

葦屋の菟原処女の奥槨(墓)のあたりを旅の往き来に見るたびに声をあげて泣いてしまう

墓の上の木の枝が靡いている、聞いたとおりに、菟原処女は血沼壮士に心をよせていたのだな

ふう。ざっくりとした訳になりました。通常、歌の訳は、歌に意味上の句切れがない限り句点を付けずに、歌の通りに続けて行くのですが、それですとあまりに読みにくいので敢えて区切りを付けました。

1811歌の後には「高橋虫麻呂歌集」所載の歌であるという左注があります。高橋虫麻呂は、伝説を歌い出すことに優れた歌人と言われます。この菟原処女歌も、田辺福麻呂(巻9・1801~1803)や大伴家持(巻19・4211、4212)の歌に比べて、話を「語りだす」ということに重きを置いている印象が持たれます。福麻呂や家持の歌には、以下のような表現があります。

「…処女らが 奥つ城所 吾さへに 見れば悲しも 古思へば(三人の墓の場所をわたしまでもが見ると悲しくなる、古を思うと)」(福 1801)

「…たまきはる 寿(いのち)も捨てて 相争(あらそ)ひに 嬬問ひしける 処女らが 聞けば悲しさ…(命を捨てて争って妻問をした処女たちのことは聞くも哀れだ)」(家 4211)

二人の歌にも争いの経緯が詠まれてはいるのですが、虫麻呂と異なる点は、それが「自分が悲しくなる(或は哀れに思う)理由」となっているところです。虫麻呂は自分が話を聞いて泣けてきた、とは歌いますが、「悲しく思った」とは言いません。この構造は、話そのものがメインになっていることを示します。私たちが話しをする時でも、「こんなことを聞いて、泣けてきたよ」と言う時と、「こんなことを聞いて悲しくなったよ」と言う時は違いますよね。違いませんか?「泣けてくる」の時は「泣き所」が、「悲しくなるよ」の時には「どうしてか」という理由を伝えることがそれぞれ先行しませんか?もっと言えば、「泣いた」というのは現象で、「悲しい」というのは感情そのものです。ここで同意が得られなくても、歌の解釈ではその区別がとても重要であることは動きません。(開き直った!) そんな虫麻呂歌の「菟原処女伝説」を見て行きたいと思いますが、現代語訳をしたらとても疲れたので、つづきは次回とさせて下さい。

2011/12/23 04:00 | rakko | No Comments