写真は、先日行われた日舞の稽古場公演のときのものですが、その公演にいらしたお客様より、こんな質問をいただきました。
「踊っているときに、表情があるのと無表情なのとでは、どちらが正しいの?」
その公演では、複数の踊り手が、それぞれ趣の違う作品を踊っていたのですが、ちょっと怖いと感じるくらいに無表情で踊っていた人もいれば、やたら表情が豊かだった人もいたそうです。
その質問に対して、あくまで僕の解釈にもとづく回答ですが(ここでの連載コラムの内容全てが僕の独自の解釈によるものではありますが…)、以下の様に答えました。
踊りはお芝居みたいなものだから、その踊っている人物のキャラクターになろうとして、歌詞に当てはめられた行動をとろうとしたときに、それに見合った表情は、自然に出てくるものと思います。
ですから、表情が豊かであるかどうかは、作品の内容にもよると思われます。
例えば、何かに驚いたということを表現する動きがあったとして、顔の表情が全く驚いていなかったとしたら、それは不自然でしょう。
例外的に、“人形振り”と呼ばれる、生きた人間が操り人形になった体で踊る作品では、踊り手が人間ではなく人形であることを表すために、意図的に無表情になることもあろうかと思います。
しかしながら、表情が出た方が自然であるとは言いながらも、意図的に顔で表情をつくろうとしたら、アマチュアっぽくなってしまいます。
お芝居においても全く同じかと思いますが、性格や感情を表現するために、内的なものが出来上がっていないのに、顔の表情を作るという表面的なところを拠り所にしてしまったら、パフォーマンス自体も表面的であざといものになってしまうでしょう。
見る側にしてみれば、顔がうるさくて踊りに集中出来なくなってしまうかもしれません。
実は、先日の稽古場公演の最終稽古で僕が受けたダメ出しは、踊りではなく、顔の表情に関するものでした。
踊りの振りが入って、音にも合ってくるようになり、役者として曽我五郎を演じたいという欲求が出てきて、五郎の強さを表現したいと思っていたら、顔の表情が怖く、深刻そうに見えてしまっていたとのこと。
それまではそんな表情をつくったことがなかったのだから、それまでの稽古通りにやる様に注意を受けました。
パフォーマー側の、こうしたい!ああやりたい!という自意識が顔の表情に出てしまったら、お客様にとっては見苦しくて仕方がないかもしれませんね。
本番ではなく、最終稽古の段階で指摘していただいて、幸いでした。
次回は、「久々の大舞台」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
日本舞踊では、身体表現のみならず、実は台詞回しの能力も求められる…と聞いたら意外に思われるでしょうか?
僕の稽古場で、定期的に稽古場公演が行われますが、毎回の傾向として、本番が近付いて、踊りの形が出来上がってくると、終盤の稽古では、台詞回しにもダメ出しが多くなってきます。
踊りなのに台詞があるの?と疑問に感じる方もいらっしゃるかもしれません。
比率的に言えば、台詞が全くない作品の方が多く、あったとしても一言二言だけというのが多いと思いますが、中には「橋弁慶」の様に、牛若と弁慶とが、互いに名乗りを上げ、対話する作品などもあります。
日本舞踊の、他のジャンルのダンスと異なる特徴の一つとして、御祝儀もの等を除けば、多くの作品において、踊られる人物の役柄が設定されていることが挙げられると思います。
前述した牛若や弁慶、そして曽我五郎や安倍保名などの様に、固有名があって、人物像が明確に定まっていることもあれば、「かつお売り」や「水売り」の様に、特定の人物ではないけれども、職業設定およびその職業から連想される気質が定まっているものもあります。
「手習子」や「羽の禿」の様に、幼くて可愛らしい女の子と設定されているものもあれば、「年増」の様に、ある程度年齢を重ねた女性が設定されていることもあります。
踊りの中での短い台詞には、短いながらも、その踊られているキャラクターの人物像、気質が集約されていたり、あるいは、その踊りの中で起こっている出来事が要約されていると感じます。
たとえば“かつお売り”であれば、台詞とはいっても「かつおー、かつおー」と言うだけなのですが、この一言の台詞で、出てきた人物がかつおを売る商売をしている人だと分かりますし、声の調子で、威勢の良い江戸っ子気質だと分かります。
そのたった一言でさえ、声に威勢の良さがなかったら、まるで没落した武士が不慣れな商売をしているかの様に思えて、踊りの雰囲気自体が変わってしまいます。
だからこそ、踊りと同等に、台詞も重要になってくると思います。
先日酒井は、日舞の稽古場公演にて、「いきほい」という踊りを踊りました。
これは、鎧を片手にいざ戦いに赴かんと血気盛んな曽我五郎を、今はそのときではないと、五郎の世話役である朝比奈(あるいはその妹の舞鶴)が鎧を引っ張って引き止めるという踊りです。
この作品の冒頭に台詞のやりとりがあるのですが、以下の通りです。
舞鶴「止めた。」
五郎「離せ。」
舞鶴「止めた。」
五郎「離せ。」
舞鶴「止めた止めた。」
たったこれだけのやりとりなのですが、実はこの踊りの内容自体、止めようとする舞鶴を五郎が離そうとすることの繰り返しで、この台詞が作品の全体像を表しているかの様です。
僕が踊ったのは五郎だったので、台詞は「離せ。」と2回言うだけなのですが、その、平仮名にして3文字の言葉を発するのが、意外に難しいのです。
この曽我五郎は、怪力の持ち主で、荒々しく無鉄砲なキャラクターです。
単純思考で、物事を深く考えることがなく、ある意味、子どもっぽい性格とも言えます。
冒頭の「は・な・せ」という一言で、五郎の人物像をお客様が想像出来るか否かによって、その後の踊りの見え方も変わってくるでしょう。
今回、この演目を踊るにあたり、現役の歌舞伎役者さんに上記の台詞を録音していただきましたが、
「はなぁ~あぁ、せえ~!」(文字で表現するのが難しい…)
と、結構高いキーで、瞬発的なエネルギーが突き刺さる様な発声で、確かにこの台詞を聞けば、声の主の力強さ、短絡さが、見えてくるかの様でした。
しかし、僕の声の音域では、それをそっくりそのまま真似ようとすると、キーが高くて裏返ってしまいます。
ポイントは、声の調子が途中で下がらずに最後まで上がっていくこと…下がってしまうと、落ち着いた雰囲気が出てしまうことを気を付けつつ、自分の出せる声で、途中で地声から裏声に切り替える箇所を決めたりしながら、試行錯誤していきました。
演劇の台本を読んでいると、出番の多い登場人物は、わりとその台本の台詞の中で、生い立ちやら性格やらが語られているのですが、出番が少なく、台詞の少ない登場人物ほど、なかなか人物像が見えて来ず、少ない台詞の中でキャラクターを確立するのに、俳優の力量が求められるかと思います。
踊りの中の台詞は、それに通ずるものがある様に感じます。
次回は、「表情」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
“特に小劇場において、日本人の俳優は身体的な基礎が出来ていないのに舞台に立っている人が多い。”
と主張する、外国人の演出家に出会いました。
それが尤もなことだと思わされ、酒井自身も身体的な基礎がまるで出来ていないことを思い知らされたため、ここ最近は初心に戻り、その人の下で身体の基礎訓練に励んでおります。
やはり、俳優、パフォーマーには、強い身体能力、体力があった方が良いと思われます。
舞踊的なパフォーマンスを行うために、身体を自在に動かす技能が求められるのはもちろんのこと、お芝居の中で、ただ舞台の上に立つというそれだけでも、立ち姿を美しくするために、それを支える筋力が必要です。
特別アクション的なシーンがなかったとしても、舞台上に2時間近くも立ち続けるには、それなりに体力が必要です。
単に声を発することでさえ、身体の筋肉によって支えられています。
情動的に泣きじゃくったり怒り狂ったりすることでも相当エネルギーを浪費しますので、体力がなかったら、その次の場面で動けなくなってしまうでしょう。
もちろん、そういう場面では、ある程度エネルギーをセーブすることも必要です。
ところで、話は飛躍しますが、その様なセーブも必要なく、どんなに身体に負担がかかろうと、無茶な動きをしようと、平然と舞台上でお芝居を続ける、超強靭的な肉体をもった、最強の俳優、パフォーマーの存在をご存知でしょうか?
さらに驚くことなかれ、そのパフォーマーは、宙に浮いて空を飛ぶなんて人間離れしたことも可能なのです。
その最強のパフォーマーとは、日本では文楽に代表される“人形”です。
人形なんて、道具であって生きているわけでもないのだから、俳優やパフォーマーとして扱うのはおかしいのではないか…という尤もな意見もあるでしょう。
しかし、前述した外国人演出家も言っていたのですが、文楽、人形浄瑠璃を見た人が、口を揃えて述べることがあります。
それは、人形が生きているみたいだと。
最初は人形というモノとして見ていたのが、いつの間にかモノであることを忘れ、完全に生きた存在であると認識してしまっているという感想を、色々な人から聞きました。
文楽人形であれば、それを操作している人は一体につき3人もいて、そのうち2人は黒子頭巾もつけずに素の顔を出していますが、もはやその操っている存在も見えなくなっている程に、人形に惹き付けられているということです。
人形というパフォーマーは、生身の人間では絶対に出来ない様なダイナミックなアクションをやってのけ、それでも、よほどのことがなければ身体が壊れることもありません。
たとえば、切腹するシーンがあって、お腹に刃物が刺さった痛みを表現するのに、人形は、尋常でないほどに激しく動きながら、もがき苦しみます。
現実に、お腹の中に刃物が刺さったとしたら、そのくらいのテンションで苦しむであろうと、実際に人が切腹するのを見たことがなくとも、リアルさを感じさせられる動きです。
その人形と全く同じ様に、生身の俳優が動いたとしたら、筋や関節を痛めて、次の公演から使い物にならなくなってしまうでしょう。
プロフェッショナルな操り手に命を吹き込まれた人形こそ、生身の俳優がどんなに鍛練しても敵うことがない、最強のパフォーマーかもしれませんね。
次回は、「踊りの中の台詞」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
日本舞踊を“身近に”“分かりやすく”“お気軽に”楽しんでいただくことをテーマにした稽古場公演のお知らせです。
小さな稽古場での公演ながらも、なかなか凝った趣向をこらし、毎回ご好評いただいております。
今回、酒井が踊る「菊寿の草摺」(別称:いきほい)は、父の敵を討とうと、鎧を片手に血気にはやる“曽我五郎”を、今はそのときではないと、“舞鶴”という美女が、鎧の下の方についている草摺(くさずり)というビラビラした部分を引っ張って止めるという内容です。
力強さの権化の様な存在である“五郎”と、見た目は華奢なのに、負けず劣らずの怪力を持った“舞鶴”とが、互いの力を尽くして鎧を引っ張り合う、とてもエネルギッシュな舞踊作品です。
僕は“五郎”を踊り、女形の名手である、劇団の大先輩にあたる男性が“舞鶴”を踊ります。
乞うご期待!
【日時】
2014年10月1日(水)
昼の部14時/夜の部19時
(開演15分前より受付開始)
【料金】
一般2500円
【会場アクセス】
・有楽町線「護国寺」駅1番出口徒歩6分
・副都心線「雑司が谷」駅1番出口徒歩10分
※詳細は酒井までお問い合わせ下さい。
《上演作品》
「老松」
「菊寿の草摺」
「鐘の岬」
「手習子」
「供奴」
「子守」
「蓬莱」
満席になってしまう恐れがあるため、ご来場ご希望の方は、出来るだけお早めにご連絡下さい。
下記が酒井の連絡先です。
sakai.taka2013★gmail.com
(★を@に変えて下さい)
日本舞踊に触れたことのない皆様には、是非この機会に日本舞踊を体感していただきたく、日本舞踊に携わる皆様には、これだけコンパクトなスペースでもここまで面白いことが出来ると実感していただきたく存じます。
ご連絡、お待ち申し上げております。
8月も終ろうとしています。
その時期になぜこの話題…?と僕自身もタイミングを外したと思っており、来年に向けてかどうか分かりませんが、浴衣に関する話題です。
毎年花火大会の時期になると、電車の中で、浴衣を着た男女を目にします。
浴衣は、厳密に言えば肌着であって正装ではなく、それを着て外に出かけるのは、本来はおかしいのかもしれません。
(もっとも、花火大会の様な気取らない場所へは浴衣のまま出かける風潮は、江戸期からあった様です。)
それでも、結婚式や成人式などのごく限られた場以外で、普段は着ることのない、日本人にとって最も日本人らしい衣装を身にまとう流行があるのは、とても喜ばしいことかと思います。
しかしながら、日常で着物を着る機会がない人が、その日だけちゃんと浴衣を着ようとしてもなかなか難しいものがあり、あからさまに着慣れていない様子の人達を多数目にするのも事実です。
我々の様に、着物を着て舞台上に姿を晒すような人間は、着物の着方はとても厳しく注意されます。
踊る人はもちろんのこと、舞台上で動くことなく、唄ったり三味線を弾いたりする人も、着物を美しく着ることにかなり気を使っています。
そういう環境の中にいる人間からすれば、花火大会などで大勢の人達が着慣れていない浴衣を着ている様子を見ると、どうしても幻滅してしまうのはやむを得ないことかもしれません。
以前は、帯の結び方が何を結んでいるのかが分からない光景をよく目にしたのですが、近年は、結び目が先にびっちりと形づくられていて、マジックテープで固定するだけで済む様な、簡略的な帯がかなりのシェアを占めている様です。
そういう帯の結び目は、見る人が見れば不自然ではあるのですが、帯の結び方は、1回や2回でなかなか覚えられるようなものでもありませんので、無理に覚えようとして的外れな結び方をするよりは、その方が良いかもしれません。
結び方を覚えずに済んでハードルが下がった分、ちょっとしたことでも、随分見栄えは変わってくると思います。
特に浴衣男子を目にして非常に思うのは、帯の位置が高すぎるということです。
恐らく、ベルトの様な感覚で帯を締めていると思われ、足を長く見せたいという気持ちもあって、そうなっているのかもしれませんが、元来日本人は胴長短足で、それに似合う様に出来ている衣装なので、おへそがあるくらいのラインで帯が締められていると、どうしても無理がある様に見えてしまいます。
イメージとしては、太っている人の出っ張ったお腹が、帯の上に乗っかるくらいの位置が望ましいでしょうか。
ですから、痩せている人が浴衣や着物を着る場合、タオルなどでお腹につめものをしないとうまく収まらないものです。
ただ、自分の体型にとって、どのくらいつめるのかが丁度良いかなども、何度も試行錯誤してみないと分からないので、たまにしか着ないのであれば、無理につめものをしない方がよいと言えるかもしれません。
そして、男性の帯を横から見たときに、前の方より後ろの方が少し上がって、斜めのラインが見えるのが望ましいです。
まさに、出っ張ったお腹にきれいにフィットする様な形になりますね。
細かいことを言っていたらキリがないですが、帯をベルトの様に認識されている浴衣男子の皆さんが、思っているよりも帯の位置を下げる、そして、前よりも後ろが上がるという意識を持つだけで、だいぶキマッてくると思います。
一昔前の任侠映画などには、着流しを物凄く格好良く来た俳優さん達が沢山出てくるので、参考してみると良いかもしれません。
折角、日本人が一番日本人らしく映える格好をするのですから、それを格好良い方法で着ることが出来たら最高ですね。
次回は、「最強のパフォーマー」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
演劇関係者が結婚式場で働くと、感じると思います。
それは、結婚披露宴は演劇に似ていると…
僕は、結婚披露宴のことを、新郎新婦を主役としたパフォーマンスの様に捉えています。
そして、結婚披露宴の現場と演劇公演の現場には、肩書きが違ったりしても、果たす役割が似通ったポジションがある様に感じるのです。
具体的に挙げます。
・主演俳優=新郎
・主演女優=新婦
言わずもがなですね。
・演出=プランナー
作品全体の構成を考え、役者の芝居や舞台効果をディレクションし、まとめあげて一つの作品として完成させていく演出家。
そして、新郎新婦に様々なことを提案しながら披露宴の全体像を作り上げ、各スタッフへの連携を取りまとめるプランナーさんは、似通った存在かと思います。
・舞台監督=キャプテン
舞台(会場)を設営する指揮を取るという点と、本番当日のタイムスケジュールを管理し、進行においてGOサインを出す責任者という点において、同一の役割を果たしていると言えましょう。
・照明=サービススタッフのスポット担当
スポットライトのある会場だと、サービススタッフがそれを操作することが多いのですが、まさに照明さんですね。
・音響=音響
そのまんまです。
・衣装=衣装
これもそのまんまです。
・舞台美術=花屋
結婚披露宴の会場において、もともと会場に備わっていない装飾物を特別に建て込むことはあまりないですが、メインテーブやゲストテーブルなどに置かれた花達が、会場を鮮やかにします。
キャンドルの類も花屋さんが扱っていることもあり、ホテル等であれば企業の会議などにも使われるのと同じ部屋を、お二人の晴れ舞台として彩っていく花屋さんは、美術さんの様な存在ですね。
・アンサンブルキャスト=サービススタッフ
料理やお飲物をサービスするスタッフ達は、単にお客様のところまで皿やグラスを運ぶだけではありません。
揃いの制服を身にまとったサービススタッフ達の立ち居振舞い全てが、おもてなしを受けていることをゲストが実感出来る演出かと思います。
ケーキ入刀と同時に、全員が一斉にポンと音を立ててシャンパンを抜いたり、綺麗に並んで拍手をしたり…
また、全員揃って一礼をした後に、流れる様に動いてサービスする姿は、まさにアンサンブルキャスト達がダンスを踊っているかの様ですね。
・受付スタッフ=コンシェルジュ
劇場で、チケットを確認して座席へ誘導する受付スタッフと、お客様を会場まで案内するコンシェルジュは似ています。
お客様が遅れていらっしゃったときなど、イレギュラーな事態が起きたときに、臨機応変にご案内することが求められる点でも共通しています。
・観客=ゲスト
俳優達が客席の皆様に素敵なパフォーマンスを披露する様に、新郎新婦はゲストの皆様に最高のおもてなしをお届けします。
そして、肝心の司会者は何かと言えば、出演俳優の中で、一番実力が求められる脇役、名バイプレイヤーとは言えないでしょうか?
あるベテランの時代劇俳優さんが仰っていた言葉で印象的な言葉があります。
それは、一話完結型の連続ドラマにおける本当の主役は、毎回のゲストキャラクターであるということで、主役と銘打たれたレギュラーキャラ達はいわば狂言回しであり、彼らが脇を固めることで、真の主役が引き立てられ、作品が面白くなるのです。
時代劇って、毎回ストーリーのパターンが同じなのに、なぜ飽きられることなく、何年も続くのか、疑問に思われる方もいらっしゃるかと思います。
その答えは、毎回主役が違って、それをレギュラーメンバーが脇役としてきちんと引き立てるから、同じ様なストーリー展開に思えても、毎回斬新だということなのかもしれません。
このことは、結婚披露宴も似ているかもしれません。
披露宴と言えば、新郎新婦が入場して、挨拶があってケーキ入刀があって、ドレスチェンジがあって…と、進行において、基本的なパターンの様なものが存在します。
それでも、主役となる新郎新婦は毎回違う人で、それぞれ異なる人生を歩んで来ているのですが、名脇役である司会者が、しっかりとお二人の魅力を引き立てれれば、たとえゲストがそれまでに何回の披露宴に列席しようとも、一生思い出に残る披露宴となることでしょう。
披露宴の良し悪しは司会者で決まるとさえ言われています。
それは、演劇や映画が、ときには主役よりも脇役によって面白さが左右されることにも似ていると思います。
次回は、「浴衣男子の皆様へ」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
先日、我が日舞のお稽古場での浴衣浚い会が行われました。
“浴衣浚い”とは、邦楽関係のお稽古場において、夏の時期に行われるおさらい会、発表会のことで、本衣装ではなく、簡略的に浴衣を来て行うことからその様に呼ばれると思われます。
一般的な浴衣浚い会は、劇場などを借りて、チケット代を取って(無料のケースが多いですが)お客さんを呼んで行う、公演の様なものですが、我々のお稽古場の浴衣浚い会は、少し趣が異なります。
うちの場合は、普段お稽古をしている場所と同じお稽古場にて、身内だけで行われるのです。
踊る演目も、1曲まるごとではなく、そのときにお稽古している曲の一部分です。
そして、踊り終わった後には、稽古の日々のことや、近況など、軽くインタビューを受けます。
日頃のお稽古の成果を、外部のお客様にお見せするのではなく、仲間同士でお互いに見合うのです。
普通の浴衣浚いであれば、自分の準備やらお客様への応対やらで、客席から見られる仲間の踊りの数も限られてしまいますが、うちの浴衣浚いでは、実質仲間の踊りを全て見ることになります。
そして、衣装は全員お揃いのお流儀の浴衣を着て踊るのです。
日舞のお稽古場では、定期的にお揃いの浴衣が作られます。
お揃いの浴衣を購入する…と聞くと、MサイズとかLサイズ等と大きさを指定して、スポーツのユニフォームをお店に発注する様なイメージをもたれるでしょうか?
浴衣の場合は少し違って、まずお稽古場全体で、浴衣の材料となる反物を大量購入し、自分の分の反物をお弟子さんが購入し、それを自分のサイズに併せて仕立てに出すのです。
もちろん、お稽古場にて、反物の購入から仕立てまでを一括でまとめて受け付けることが多いかと思いますが、中には、とりあえず反物だけ購入しておいて、浴衣として仕立てていない人などもいたりします。
また、最近入門したばかりだけれど浴衣浚いに出ることになり、まだ浴衣が用意出来ていないということもあります。
浴衣もそれほどすぐには出来るものではなく、仕立ての業者さんが混み合っていたりすることもあるので、なんとか本番までに間に合わせなければと、知り合いのツテで仕立てが出来る人に頼めないか、頑張ればミシンを使って自分で縫えるのではないかと仕立て方を調べたりと、本番近い時期になると、慌ただしくなったりもします。
やっぱり、一門が全員お揃いの浴衣を着て、仲間としての連帯感を持つことが出来るのが何よりですから。
(うちの稽古場はお揃いでやりますが、もちろん、それぞれが自分の浴衣でやるところもあれば、流儀によっては、同じ流儀の中でもデザインが何パターンかの中より選ぶことが出来るそうです)
日舞のお稽古場のほとんどは、師匠と弟子とのマンツーマンでお稽古が行われます。
ですから、同じお稽古場に通っていても、お稽古場に来る時間帯が異なる人だと、下手すると、浴衣浚いのときにしか会わない人なども出てきます。
また、今はお稽古場に通っていないけれど、この日だけは顔を出すという人もいて、そんな人達と、終わった後に懇親会も行う、うちのお稽古場の浴衣浚い会は、年に一度、一門の絆を確かめ合う様な会でもあります。
何しろ、古典芸能のお稽古場では、名取になれば苗字も同じになるわけですから、同門の仲間達には家族の様な繋がりがあるのです。
そしてもちろん、ただ仲間内でワイワイ楽しくやれれば良いというわけではありません。
浴衣浚いは成長するための試練でもあります。
特にうちのお稽古場の場合、観客がお弟子さんと師匠しかいないので、客席にいるのは、全員踊りに関しての玄人ということになります。
一般のお客さん相手なら、仮に間違えたとしても、間違えたという顔をしなければ分かりません。
しかし、同じところに通って同じ振りを知っているいる人達が観客だったら、ミスをしたらすぐにバレてしまいます。
その緊張感の中で、ノーミスで踊りきることはもちろんですが、ミスをしたとして、それがお客さんにバレバレだと分かっていながらも平然と踊りきることには、それなりの度胸が必要となります。
酒井はわりとそういう度胸はあるかも知れませんが、次こそはノーミスで踊ろうと、毎年思ってしまう浴衣浚いでした。
次回は、「結婚披露宴を演劇に置き換えると…」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
「結婚披露宴って、何をすれば盛り上がりますか?」
とてもよく聞かれる質問です。
そして同時に、回答が難しい質問でもあります。
結婚披露宴において、ゲストがワーッと盛り上がるシーンには、どの様なものがあるでしょうか?
ファーストバイトで、新郎の口元に、溢れんばかりのケーキが運ばれた瞬間…
ご友人達が大勢で登場しての、余興のダンスや歌の披露…
ムービー映像で、お二人の意外な過去の姿が写し出された時…
可愛らしい親戚の子どもから花束のプレゼント…
挙げればいくらでも出てきます。
しかし、いくらネタがあっても、
「ズバリこれをやるべきです!これをやれば絶対に盛り上がります!」
と回答するのはなかなか難しいものです。
100組の新郎新婦がいれば、一見同じ様に思えても、100種類の異なるタイプの披露宴があり、全ての新郎新婦にあてはまる統一したアドバイスというのはなかなか出てこないものです。
例えば、お二人が歌やら楽器演奏やら、何かパフォーマンスを披露すれば盛り上がるかもしれませんが、人前で何かすることが苦手なお二人だとしたら、何かを披露しようとしても、それがプレッシャーになってしまうかもしれません。
楽しくしたい、盛り上げたい、そのためには何かをしなければいけない…と思い、無理に何かをしようとすると、結果的に楽しくなくなってしまうかもしれません。
酒井の実感ですが、進行上、余興などが少なく、その分お食事・歓談時間がゆったりと長い披露宴の方が、むしろ新郎新婦のメインテーブルにゲストが集まり、ワイワイ盛り上がって楽しそうに見えることもあります。
それから、通常の進行で行われることに、プラスアルファ何か加えると、それだけでワーっと盛り上がることもあります。
例えば、ケーキ入刀をした後にファーストバイトを行うことはあるかと思いますが、それに加えて、それぞれのお母様からケーキを食べさせるラストバイトを行うですとか…
カラードレスにイメージチェンジをしての再入場を行う場合に、ドレスの色あてクイズとして、事前に何色のドレスで登場するかをゲストに予想していただいたりすると、そうでないときよりも、再入場のときのゲストのテンションは高くなることでしょう。
このドレス色あてクイズの様に、ゲスト参加型のイベントを何か組み込むというのは、結構効果的かもしれません。
折角だから披露宴を盛り上げなければ…と思うよりも、色々と楽しいことを思い浮かべて、想像の中に浸っているうちに、答えは出てくるかもしれませんね。
次回は、「浴衣浚いがありました…」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
先日から後見に関して色々述べていますが、肝心なことの説明が漏れていました。
「後見」は“こうけん”と読みまして、決して“うしろみ”等ではありません。
さて、後見は影の様な存在であり、お客様のフォーカスを集めない様に、目立たない様に動くことが出来る後見こそが、優秀な後見と言えることでしょう。
しかし、自分が後見を行う機会が増えてくると、踊りの会や歌舞伎などをお客として見にいったとき、どうしても、本来は注目すべきではない後見の姿に目がいってしまいます。
そして、格好良い後見の姿を見ると、自分もその様に在りたいと憧れを抱きます。
後見が舞台上で座って待機しているときの、真横向きよりもやや客席に背中を向けた姿、いわば裏向きに斜に構えた背中…
そこには、流儀の紋が背負われています。
もしも舞台上でトラブルがあればいつでも動きだすことを予感させる、適度な緊張感がその背中から滲み出ているのを目の当たりにすると、なんとも凛々しさを感じるものです。
以前、僕が「三社祭」という舞踊の後見を行ったときの話ですが、作品中、二人の踊り手の姿を隠す程の大きさの、雲の作り物が登場します。
そして、雲には、それぞれ「善」と「悪」の象りが施された丸いものが2つついており、それが外れた後に、踊り手がそれと同じデザインのお面をつけて登場する場面があるのですが、酒井は後見として、それを外す役割を与えられました。
雲が舞台のセンターに位置し、その前に回らないと外せない構造であったため、稽古のときには、極力、自身がど真ん中に移動することは避けて、少しでも端の方から手を伸ばしていました。
ところが、それを見ていた、その場にいた中で一番キャリアのあるお師匠さんから、こうアドバイスを受けました。
「端の方からやろうとせずに、堂々とセンターまで出てきて、サッと背中を向けてきちんとその場で膝をついて座り、パッと外して、スッと去っていく。」
それは、本来目立つべきでないはずの後見が、舞台の中央という一番目立つ場所で、その背中を堂々と晒すことになり、瞬間、背中についた自らの紋が、最も舞台上で際立つ場所に位置することになります。
そのときに、別の師匠から
「後見も一役だから。」
と言われました。
裏方の様な存在であっても、その背中で魅せることも、役割の一つなのかもしれません。
格好良い後見姿のポイントは、背中にあるのかな…と思います。
次回は、「何をすれば盛り上がるの?」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
日本で行われる結婚式においては、チャペルでのキリスト教式のシェアが多い様です。
皆様が結婚式と聞いてまず思い浮かべるビジョンは、チャペルの階段をフラワーシャワーを浴びながら降りていくお二人の姿や、外国人の牧師先生の前で、指輪交換をしている様子など、キリスト教式にちなんだ場面であることが多いかと思います。
さて、実際には、気にされている方はそれほどいないというのが酒井の実感ですが、
「クリスチャンでもないのにキリスト教式で挙げてもいいの?」
と疑問に思われることはないでしょうか?
結論を言えば、キリスト教の結婚式を挙げるにあたって、カトリックとプロテスタントでは異なるところがあり、カトリックでは、最低限、新郎新婦のどちらかがクリスチャンであることが必須であるものの、プロテスタントではその制限がないとのこと。
ですから、日本にあるホテルや結婚式場に併設されたチャペルは、大部分がプロテスタントのチャペルの様で、クリスチャンでなくとも、挙式は可能です。
そうではあっても、結婚式にあまり宗教的な色合いを出したくないというカップルもいらっしゃるかと思います。
また、例えば、地元の神社にて親族だけで式を挙げて、都内で友人を招いて改めて結婚式を行うとして、チャペルの併設された会場を選んだとしたら、また別の神様に誓うの…?といったことになりかねないと思います。
そんな方達にお勧めなのが、「人前式」というスタイルです。
チャペルや神社などにおいて、神様に対して結婚を誓う式とは異なり、当日そこに集まった人々に対して結婚を誓い、その人達に証人になっていただく儀式です。
基本的に、進行は司会者やゲスト代表の立会人などが行い、結婚証書への署名や指輪交換などを行い、参列者の拍手をもって結婚を承認していただきます。
会場によっては、キリスト教式のチャペルにおいて行うことも出来る様です。
また、披露宴にお招きするゲストの人数が多く、チャペルに収まりきらずに全員が参列出来ない様な場合などには、チャペルでの式の後、披露宴会場の中で結婚の誓いを述べ、列席者に証人になっていただく様な、簡易的な人前式もありかもしれません。
場所を選ばず、ガーデンや船上などでも出来、厳かなチャペルなどとはまた違った雰囲気が出せたり、式の内容の制約が少なく、オリジナリティを出せるのも魅力かもしれませんね。
次回は、「後見への道 ~格好良い後見姿~」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。