ジャンクステージ読者の皆様、ほぼコラムを更新出来ず、放置状態となってしまっており、申し訳ありません。
私の事情ではございますが、しばらくの間、コラムを更新出来る見込みがなく、また、過去の掲載記事につきましても、その記事を書いた時にはそう思ったものの、現在は考え方が変わったと思う内容が少なくなく、それを公開しておくことに疑問を感じる様になりました。
だからと言って、過去の記事の直したいところを全て直す…ということを行なうとしても、やはり、もともと公開していた内容があまりにも大幅に変わってしまうのはよろしくないと思いますし、考え方が二転三転して、キリがなくなるかもしれません。
そのため、いったん、このコラム「和に学ぼう!」の掲載記事を、全て“非公開”の状態としました。
いずれ、整理がついた時に、また公開を行い、連載を再開するかもしれませんが、しばらくの間はお別れです。
これまで本当にありがとうございました。
なお、過去の記事の内容等で酒井にお問い合わせがございましたら、sakai.taka2013@gmail.comまでご連絡下さい。
LOVE…愛です。
2016年第一号のコラムは唐突にこんな単語から始まります。
2015年の年末に、酒井はふと気がつきました。
それは、全ての芸術作品における根本的な原動力は“愛”であると。
それが絵であろうと写真であろうと、映画であろうと舞台であろうと、歌であろうと朗読であろうと、そこに愛がないことはあり得ない。
それは、良いものを見せたい、良い時間を過ごしてもらいたいという、お客様への愛であったり、より素敵な姿を見せたいという被写体への愛、舞台上で魅力的に輝いて欲しいと願う俳優への愛、創作に対するインスピレーションを与えてくれた自然への愛…実に様々な形での愛が存在します。
昨年末に急にそんなことを考えるきっかけとなったのが、実は「忠臣蔵」という作品です。
一口に「忠臣蔵」と言っても、赤穂浪士の討ち入り事件をもとにした「忠臣蔵」と、別時代に置き換えて、登場人物の名前も実際の赤穂事件の人物とは変えられた「仮名手本忠臣蔵」とではだいぶストーリーが異なり、そもそもは「仮名手本忠臣蔵」のことを「忠臣蔵」と呼んでいたりすることもあり、ややこしいのですが、ここでは両方をひっくるめて話をします。
赤穂浪士の討ち入りが行われたのが12月であることにちなんでか、毎年12月になると、「忠臣蔵」であったり、「忠臣蔵」をモチーフにしたりオマージュ的に扱った作品を目にする機会が多くなります。
昨年も、そんな「忠臣蔵」関連の作品、元来の「忠臣蔵」とは異なるスタイルでの上演であるものの「忠臣蔵」を題材とした作品をいくつか目にしました。
元ネタがあって、それをパロディ化したりアレンジした様な作品が、その元となる作品の完成度を上回ることはそれほど多くないと思います。
やはり「忠臣蔵」を題材にした別作品が、本家の「忠臣蔵」に勝つのは難しいと思います。
だったら本物の「忠臣蔵」を観れば良いんじゃないの…?という考えもよぎるかもしれませんが、そういった「忠臣蔵」ものの作品を観ているときに、何に共感してその作品に心を引きつけられるのかと言えば、それはもしかしたら、作り手側の持つ「忠臣蔵」への“愛”なのではないかと思います。
酒井は、演劇の戯曲の中で最高だと思う作品を一つ挙げよと言われたら、迷わず「仮名手本忠臣蔵」と答えます。
今年も改めて思ったのですが、「仮名手本忠臣蔵」は戯曲として本当に良く出来ていて、お客の心をドキドキさせたり、ウワーッと盛り上げたりする要素がてんこ盛りで、耳に心地良い名台詞も山ほどあります。
「仮名手本忠臣蔵」をお芝居の王様の様に思い、この作品にどれだけ心動かされ、名台詞に酔いしれたか分かりません。
要は、「忠臣蔵」を愛しています。
作り手側に「忠臣蔵」を愛する気持ちがあるからこそ、「忠臣蔵」の中での、これは見せたい!聴かせたい!という要素が上手い具合に作品に盛り込まれ、それが絶妙である程に、観る側の愛とシンクロして、客席と舞台の心が一つになるのかもしれません。
逆に、「忠臣蔵」をネタにはしているけれど、あまり知識がない…というか作品に対する愛がないのかな…?というものが見えてしまうと、ちょっと幻滅してしまうことがあります。
「仮名手本忠臣蔵」にて、実際の赤穂事件での吉良上野介に相当する高師直という人物の名前の読み方は、文献資料的には“こうの もろなお”と表記されることもあるかもしれませんが、歌舞伎や文楽の中の台詞上では“こうの もろのお”と呼びます。
“もろのお”という言葉の響きであるからこそ伝わってくる、悪役としての粗野な雰囲気があり、もしも呼び方が“もろなお”で同じ台詞を言ったとしたら、だいぶニュアンスが変わってくると思います。
ですから、「忠臣蔵」を題材にした作品で、舞台上の役者が高師直のことを“こうの もろなお”と呼んでいるのを聴いてしまうと、演出が意図的にそう読ませているのかな…?それとも勉強不足なのかな…?と思う以上に、「仮名手本忠臣蔵」の台詞に酔いしれた経験がないのかな…?だとしたら、是非ともそれをお勧めしたいな…などと思ってしまいます。
そう思ってしまうのも、より素敵な作品を作って欲しいと願う愛ゆえなのかもしれません。
愛に溢れた沢山の作品が創られ、人々が愛で満たされることを祈りつつ、ジャンクステージももうちょっとは頻度を上げて更新していきたいと思う2016年です。
次回は、「無駄遣い!?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
酒井は高校生の頃に、中国の古典の水滸伝にハマっていたことがありました。
108人の豪傑が登場する痛快劇のような話で、最初は日本人の書いた漫画版から入り、その後で原作を読んだのですが、漫画版ではカットされていたシーンで、驚愕すべきものが多々ありました。
読んでいるだけで気持ちが悪くなる様な残虐なことが行われ、そんな人道外れたことを平気で行う人間が英雄として描かれる類いのことが当然の様にあります。
一番酷いと思ったのは、ある豪傑を仲間に加えるため、心残りが無いようにとその家族を殺害し、家族を殺された豪傑の方も、「自分のためにそこまでしてくれるなんて…」と感動してしまうというくだりでしょうか。
現代の日本人の道徳感では到底考えられない話です。
国民性もあるのかな…などと考えたりもしましたが、その後、水滸伝とはややタイプが異なるものの、日本の古典作品においても、現代の道徳感からすれば信じられない様なことが行われていると知りました。
その最たるものは、やはり「熊谷陣屋」や「管原伝授手習鑑」の様に、主君への忠義のために、自分の子どもの首を身代わりに差し出すことでしょうか。
その首を取られる子どもの方も、自分の首が役に立つと笑って死んでいくというくらいですから、いくら忠義を尽くすのが美しいとは言っても、もはやそれは過剰を超えすぎていると、現代の道徳感からすれば、思えてしまうことでしょう。
太平洋戦争終結後に、封建的との理由で、そういった作品の上演がことごとく禁止されたのも無理はないと思います。
しかし、そこまで現代的な道徳感と離れていながらも、なお現在にいたってもその演目が頻繁に上演されるのは、そのシーンで、お客の心が強く動かされるからだと思います。
忠義のために子どもを殺すことが出来たとしても、親として子に愛がないわけはなく、子も親を愛している。
その愛がある上で、忠義のために事をなしたという演技には、鬼気迫るものがあります。
現代の道徳感と離れている様に思えながらも、その根底にある人間の愛は普遍なのかもしれません。
次回は、「LOVE」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
コラム更新がほぼ停止している中、公演のご案内ばかりで恐縮ですが、この度、“殺陣師屋本店”作・演出によるお芝居に出演させていただくことになりました。
「劇場まで演劇を観に行くことを、身近なものとして楽しんでいただく。」
という目的で、北区の後援のもと、チケット代金1000円という破格の金額で作品が上演される、北とぴあ演劇祭への参加作品です。
総勢23名の出演者による、殺陣エンターテインメント作品にて、酒井は“一橋(徳川)慶喜”、まさかの将軍役を演じます。
殺陣の勉強目的で参加しながら、アクションシーンへの出演自体は少なそうですが、ストーリー上かなり重要な役どころとなり、気を引き締めております。
1日だけの上演ですが、お時間とご興味がございましたら、是非お越し下さいませ。
★北とぴあ演劇祭2015
aHSネオドリームファクトリー 公演★
「三人吉三」
作・演出:布施 伸吾 (殺陣師屋本店)
【日時】2015年10月3日(土)19:00開演 (18:30開場)
【会場】北とぴあ2階 つつじホール
・JR京浜東北線:王子駅より徒歩2分
・東京メトロ南北線:王子駅5番出口直結
【チケット代】前売/当日:1000円
【ご予約方法】酒井宛(sakai.taka2013@gmail.com)にご連絡下さいませ。
【作品概要】
歌舞伎作品「三人吉三」から想を得た完全オリジナルストーリー。
幕末、次期将軍候補は、一橋家の慶喜と信三(架空人物)であったが、人望の厚い慶喜に対し、信三は苛烈で狂気じみた人柄。
信三の暴虐的な振る舞いにより、家臣の威張吉三郎は、父親と妻の命を奪われてしまう。
家名を捨て、復讐に燃える吉三郎のもとに、同じ吉三郎の名を持つ者等が集い、そして…
勧善懲悪の痛快劇に止まらず、現代日本にも通ずる社会的メッセージをも含んだ熱い作品に、乞うご期待!
過去の記事でも、演劇と結婚披露宴においての共通点を述べましたが、今回も演劇に絡めてのブライダルの話題です。
ここ最近、演劇の舞台に足を運ぶ人が減ってきて、お芝居に出たがる人も減ってきているという話を耳にする様になってきました。
そして、消費税率のアップなども影響してやむを得ないことなのかもしれませんが、チケット代金の相場が、何年か前に比べて上がってきており、ますます舞台に足が遠のく要因になっているかもしれません。
テレビが普及していない時代には、大衆は、劇場や寄席まで娯楽を求めて出かけていったことでしょうが、今や、テレビどころか、タブレットなどを用いれば、いつでもどこでもドラマティックな世界に入り込むことが出来ます。
そんな時代に、わざわざスケジュール調整までして、劇場まで足を運ぶなどというのは、面倒な行為です。
まだしも映画であれば、最寄の映画館まで行けば済む話ですが、特定の演劇公演を観るためには、それが上演されている唯一の場所まで移動する必要があります。
知らない場所で、もしかしたら道に迷うかもしれないと考えれば、ますます億劫になりますし、早く着いたなら、開場や開演まで待たされなければなりません。
けれど、どんなに映像の技術が進歩しようとも、生の舞台でなければ、俳優さん達のエネルギーを、その場で創り上げられた感動を、直接体感することは出来ません。
例えば、全く同じ内容の作品をテレビと舞台とで見たとしたら、それぞれのクオリティによるにしても、より心に強く刻まれ、記憶として残るのは生の舞台の方だと思います。
もちろん生の感動は、必ずしも演劇からでなければ得られないというものではありませんが、そういったものに触れる機会のある生活と、全くない生活とでは、やはり、人生の豊かさに差が出てくるのではないでしょうか?
劇場まで足を運ぶという面倒なことだって、ショッピングのためにお出かけをしたり、軽く旅行をしたりする様な感覚を持てば、それ自体が楽しいことになりますし、そういうことを経て観劇するからこそ、ただ漠然と部屋でテレビのスイッチをつけるのとは違う種類の感動が得られるのかもしれません。
そして、これは酒井独自の持論であって、色々反対な意見を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、ブライダル業界に携わる人達こそ、日頃から、演劇などで生の感動を求めることを習慣化すべきだと思うのです。
なぜなら、その生の感動は、結婚式場でお客様に与えるものと同じ種類のものだからです。
演劇において、客席にいるお客様に対して、舞台上にいる俳優をいかにして魅力的に見せるか、演出が試行錯誤されます。
結婚式・結婚披露宴では、新郎新婦を魅力的に見せ、ゲストに感動していただくことを目標に、全スタッフは試行錯誤します。
それにあたっては、生の感動の引き出しがあることは強い武器になると思うのです。
また、結婚式に参列するゲストだって、演劇のお客様と同じ様に、わざわざスケジュールを空けて、多くは馴染みの無い場所にまで足を運びます。
そのゲストをおもてなしの心でお迎えするヒントは、劇場での受付担当や場内整理のスタッフの応対や気配りの中からも見つけ出すことが出来ると思います。
冒頭で、演劇の客が少なくなってきていると述べましたが、実は、結婚式を挙げる人も一昔前よりも減ってきていて、近しい人達だけで行なう少人数ウエディングの需要も増えてきています。
それは、日本において、舞台離れ、言い換えれば、生の感動への追求が希薄になっていることと無関係ではないとも思えてきます。
もちろん、結婚式や結婚披露宴を盛大に行なうことが、どんな状況においても絶対的に良いことであるとは言い切れないと思います。
けれど、例えば結婚式でウエディングドレス姿の新婦を生で目の当たりにする感動と、ウエディングドレス姿を写真だけで目にする感動とでは、心に刻まれるものが異なってくるでしょう。
演劇業界やブライダル業界がもっと盛り上がれば、日本人の心ももっと豊かになっていく…なんて言うのは考え過ぎですかね。
昨今、結婚式を行なう人が少なくなってきているかもしれない反面、以前にはあまり見られなかった傾向として、結婚をしてすぐではなく、お子様も産まれて落ち着いてから挙式をする人達なども増えてきており、新郎新婦お二人だけでなく、元気なお子様の姿も併せて披露される姿も見かける機会が多くなってきています。
生の感動をいかに伝えていくかのバリエーションも、今後広がっていくかもしれませんね。
次回は、「道徳観」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
一昔前まで、ビデオカメラと言えば、手が届かない程ではないけれども、気軽に購入出来る程のものでもありませんでした。
ところが最近では、誰もが持ち歩くスマホの標準機能で、簡単に動画を撮影出来てしまいます。
日舞のお稽古場でも、お稽古の様子をスマホで録画する人が増えてきています。
お稽古場によっては、録画すること自体を禁じていることもありますが、僕が通うお稽古場では、現状、個人の判断に任されています。
しかし、自分の中で決めました。
録画は非常手段にすることを。
ここ最近、人様の前で踊る本番があるのに、稽古日数が少なかったり、2人組の踊りで、一緒に踊る相手役と合わせての稽古がなかなか出来ない様なことが続きました。
そのために、あまり望ましいことではないと思いながらも、毎回稽古を録画して、何度も見返して、その次の稽古に挑みました。
その結果、当然のごとく振りは入り、曲と動きも合うようになってきました。
しかし、その時は良いものの、次に新しい振りを稽古する際に、もともと振り覚えが悪いのに、本当に振りが覚えられなくなりました。
稽古が終わった後に振りを思い出して、舞踊符という記号に置き換えて書き記そうととしても、ど頭の形だけは覚えていても、そこに続く流れが全く思い出せない。
もちろん、毎回録画すれば、簡単に覚えられることでしょう。
しかし、それによって、自分の中の振り覚え機能が劣化していくのは恐ろしいことです。
稽古を録画することによって、この稽古中に出来なくとも、後で見返せば出来るという安心感が生まれ、その限られた稽古時間で集中的に身につくものが減っていきます。
それが毎回の様に繰り返されていけば、そのマイナス要素の量が積み重なっていき、毎回録画をして稽古した一年と、そうしなかった一年とでは、自分の心技体に身に付くものの量が、大幅に変わってくる気がします。
踊りに限らず、あらゆることにおいてそうなのですが、何かの道を進んでいるときに、その道をしっかり進んでいるという確証が得られないと、とても不安になります。
道に迷ってしまい、自分の進む方向が目的地に向かっているかどうか分からないときに、遠くに目的地の建物が見えたり、以前そこに行く途中で目にして覚えている目印があったりすると、とても安心すると思います。
踊りにおいてその安心感を得られるのは、振りを覚えて、その通りの形で覚えられた時だと思います。
目的地に向かうためには、GPS機能を使えば手早く目標を見つけられる様に、踊りにおいては、稽古を録画すれば、手早く振りが覚えられます。
でも、それがないときには何も出来なくなってしまうのは恐いこと。
たまたま見知らぬ土地に行くというその場しのぎのことであれば問題ないものの、ずっと踊りを続けたいと思うのであれば、遠回りの様であっても、録画は極力避けた方が良いかと思います。
もちろん、本番までの稽古回数が足りていない状態で、その本番を成功させるためのツールとしては非常に有効ですし、人によっては、録画をすることによって、飛躍的に成長したという話も聞きます。
次回は、「生の感動」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
先日、日本舞踊のお稽古場での浴衣浚い会が行われました。
今回、その本番が、自分が別に出演する演劇公演の本番と近く、その演劇公演の稽古拘束時間が長かったために、浴衣浚い本番が近い時期に、日舞の稽古にはほとんど参加出来ませんでした。
最後のお稽古に行って、それから2週間以上も間が空いてからの本番ですから、ほとんどぶっつけ本番です。
本番当日、お稽古場の他のお弟子さん達の話を聞いていると、身内だけの稽古場内公演とは言え、人前で踊ることに対して、目標を定めている人が多かったです。
女の子の踊りを踊る人であれば、若さ、可愛らしさを出すことを目標にしたり、荒々しい踊りを踊る人であれば、とにかくパワーを見せることを目標にしたり等といったことですが、中でも聞いていて面白いなと思ったのは「間違いを3回までにおさめる」という目標でした。
もちろん、間違いは一度もないに越したことはありません。
しかしながら、何が何でも絶対に間違えないことを目標にしてしまうと、その目標によって自分を緊張させてしまい、その緊張がミスに繋がってしまうこともあり得ます。
また、完璧にやろうという意識を最初に強く持ってしまったばかりに、本番中で些細なミスをしたことでその完璧性が崩れ、動揺したばかりに全体が駄目になってしまうことだってあり得ます。
だからこそ、敢えて3回まではミスを許すことで、自らの緊張を解き放とうという発想には、成る程と思いました。
かく言う酒井は、その考えを受けたことが一因となったのかもしれませんが、“諦めの境地”で本番に挑んでみました。
あまり良いことではないかもしれませんが、
「どうせ今回は稽古出来ていないし、お客さんも身内だけでお金払っているわけじゃないんだから、上手く踊れなくても、何回間違えてもいいや。」
と思って踊りました。
結果、自覚症状としては、ノーミスで踊れました。
「上手く踊りたい!」「間違えたくない!」「評価されたい!」という余計な思考や緊張がなかったためなのか、曲が凄く身体に入ってきて、その曲に合わせて体か自然に動いていく様な感覚でした。
よくお芝居において、俳優は役に身体を明け渡すなどと言いますが、踊りにおいては、曲に身体を明け渡せた状態がベストなのかな…と思ったりしました。
小さい子どもの踊りが、技術的には当然未成熟なのに、見ていて面白いのは、余計なことを考えずに純粋な気持ちで踊っているからなどと言われます。
大人になったら、余計なことを考えるなと言っても難しいのですが、“諦めの境地”で挑むことは、意外とやりやすいかもしれませんね。
次回は、「録画」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
コラムを更新する余裕が全くない状態で恐縮ではございますが、演劇公演の告知をさせていただきます。
★劇団遊戯第3回公演★
「指令 ある革命への追憶」
作:ハイナー・ミュラー (訳:谷川 道子)
演出:ぺ・ミヒャン
【日程】
2015年
7/29(水) 19:30~
7/30(木) 19:30~
7/31(金) 19:30~
8/1 (土) 14:00~ / 19:00~
8/2 (日) 14:00~
※受付・開場は開演の30分前、上演時間は90分以内を予定
【会場】
日暮里 ART CAFE 百舌
(荒川区東日暮里6-28-5 サカイリグリーンパークB1F)
※日暮里駅・西日暮里駅から徒歩10分強、三河島駅(JR常磐線で日暮里から1駅)から徒歩2~3分
【料金】
前売3500円、当日3800円 (全席自由)
【出演】
ドゥビュソン/アントワーヌ:泉 正太郎
ガルデック:酒井 孝祥
サスポルタス:久保 直也
初恋:やん えみ
絶望の天使/母:寿々 翠
旅人:小林 咲子
父:笛木 敬司
仮面の男:神田 純平
【ご予約・お問い合わせ】
sakai.taka2013@gmail.com
昨年、俳優として1から勉強し直す決意をせざるを得ない程に、圧倒的に演技指導力に優れた女優さんに出会い、次の様なことを言われました。
「男性3人の役がとても魅力的な作品がある。その1人を演じてもらいたいが、今のあなたの力ではとても無理だ。他所ではお芝居をせずに、一生懸命私の授業に集中し、来年、その舞台に出演することを約束してもらいたい。」
そして約束通り、本年、その公演に出演する運びとなりました。
今年5月にも、彼女演出による韓国短編戯曲の公演に出演しておりますが、実は、今度の「指令 ある革命への追憶」が非常に高度な作品であるため、それに挑むためのステップアップの様な目的で出演いたしました。
今回の公演、上演時間が90分に満たない短さでありながらも、稽古期間は丸2ヶ月間ほぼ毎日、後半1ヶ月は毎日昼夜通しての稽古で、呼吸の仕方、発声の仕方、立ち姿や歩き姿においてまで、一切の妥協が赦されない厳しい稽古が続けられます。
稽古に集中するために、稽古場近くに引っ越してきて正解だったと感じております。
ドイツ演劇界において、ブレヒトの後継者とも称され、「ハムレットマシーン」の作者として有名なハイナー・ミューラーの作品に、韓国の一流劇団コリペにてトップ女優として活躍してきたペ・ミヒャンによる演出のもと、日本の若手俳優達が挑みます。
なお、「指令 ある革命への追憶」が日本で演劇上演されるのは、本公演が初かもしれません。
フランス革命の時代を背景とした、重厚なテーマの作品でありながら、「そこまでやるの!?」と思ってしまうような遊び心も盛り沢山に、とても見応えのあるお芝居に仕上がりそうです。
お時間とご興味がございましたら、是非、劇場まで足をお運び下さいませ。
チケットご予約は、酒井宛にご連絡をお願いいたします。
もう半月以上も経ちましたが、先日、日舞の稽古場公演が無事に終了しました。
諸事情で、稽古場が建て替えられることになり、今の稽古場で最後の公演でした。
普通、日本舞踊のお稽古場では、大きな劇場を借りてのお浚い会が定期的に行なわれるものですが、役者の勉強の一環として通っているお弟子さんがほとんどである我が稽古場では、経済的事情もあって、それがありません。
けれど、いくら踊りをお稽古しても、人に見てもらわなければ成長は出来ない、お客の目こそが芸を育てる。
そんな考えのもとで、普段お稽古をしているスペースに簡易的な客席を作り、入口に幕をつったり、衝立をうまく利用して舞台袖として使用したりと工夫を重ね、30人お客が入ったらぎゅうぎゅう詰めになる様な小さなスペースで、年2回ペースで、実に17回も公演を重ねてきました。
ちょうど、この日舞の稽古場公演の本番が、次のお芝居の公演の稽古期間と重なったため、日舞と芝居のダブル稽古状態になって、体力的にも結構きつかったです。
お芝居の稽古中、あから様に疲れた表情をしていた僕に、演出家はこう言いました。
「日舞の方は発表会なんだから、そんなに頑張らなくてもいいじゃないの。」
それに対して僕は感情的に反論してしまいました。
「発表会じゃなくて、ちゃんとした公演なんです!」
言ってから思ったのですが、それでは、発表会と公演の違いは何なのだろうか?
発表会というのは、お稽古したことの成果をお友達に見てもらって自分の成長に繋げる場。
公演というのは、来てくれたお客様に対して、プロの意識を持って、チケット代をいただいた対価として、お客様に伝えるもののあることが必須なのかもしれません。
確かに、この稽古場公演は、自分達が成長させていただくために行なうものであります。
しかしながら、毎回色んなテーマに沿って演目を集め、分かり易い解説なども考えながら、敷居の高い劇場に足を運ばなければ見られない印象のある日本舞踊の魅力を、身近な距離で楽しんでいただくことを目標に挑んでいます。
根底にあるものは、日本舞踊の魅力を知ってほしいという純粋な想い。
小さな稽古場で、小道具もほとんど手作り、衣装も持ち合わせで行なうからこそ、決して発表会ではなく、伝えるべきものがある公演なのだと、自信を持って伝えることが出来ます。
日本舞踊の稽古場公演のお知らせです。
日本舞踊を、身近に、分かり易く、お気軽に楽しんでいただくことを目的に、年に2回行っている、我らの稽古場公演ですが、諸事情により、今度の4月公演の後は、しばらく行われないことになりました。
今回は、華やかなフィナーレに相応しく、日本舞踊の中でも“おめでたい”踊りに分類される演目ばかりを集めての上演です。
平日1日だけの公演ですが、お時間とご興味がございましたら、是非足をお運び下さい。
ご連絡お待ち申し上げております。
【日時】
2015年4月30日(木)
14時~/19時~
【会場】
有楽町線「護国寺駅」もしくは副都心線「雑司ヶ谷駅」より徒歩
※詳細はお問い合わせ下さい。
【料金】
2500円
【演目】
「万歳」「鶴亀」「七福神」、他1曲
【お問い合わせ先】
sakai.taka2013★gmail.com
(★を@に変えて下さい)