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“特に小劇場において、日本人の俳優は身体的な基礎が出来ていないのに舞台に立っている人が多い。”
と主張する、外国人の演出家に出会いました。
それが尤もなことだと思わされ、酒井自身も身体的な基礎がまるで出来ていないことを思い知らされたため、ここ最近は初心に戻り、その人の下で身体の基礎訓練に励んでおります。
やはり、俳優、パフォーマーには、強い身体能力、体力があった方が良いと思われます。
舞踊的なパフォーマンスを行うために、身体を自在に動かす技能が求められるのはもちろんのこと、お芝居の中で、ただ舞台の上に立つというそれだけでも、立ち姿を美しくするために、それを支える筋力が必要です。
特別アクション的なシーンがなかったとしても、舞台上に2時間近くも立ち続けるには、それなりに体力が必要です。
単に声を発することでさえ、身体の筋肉によって支えられています。
情動的に泣きじゃくったり怒り狂ったりすることでも相当エネルギーを浪費しますので、体力がなかったら、その次の場面で動けなくなってしまうでしょう。
もちろん、そういう場面では、ある程度エネルギーをセーブすることも必要です。
ところで、話は飛躍しますが、その様なセーブも必要なく、どんなに身体に負担がかかろうと、無茶な動きをしようと、平然と舞台上でお芝居を続ける、超強靭的な肉体をもった、最強の俳優、パフォーマーの存在をご存知でしょうか?
さらに驚くことなかれ、そのパフォーマーは、宙に浮いて空を飛ぶなんて人間離れしたことも可能なのです。
その最強のパフォーマーとは、日本では文楽に代表される“人形”です。
人形なんて、道具であって生きているわけでもないのだから、俳優やパフォーマーとして扱うのはおかしいのではないか…という尤もな意見もあるでしょう。
しかし、前述した外国人演出家も言っていたのですが、文楽、人形浄瑠璃を見た人が、口を揃えて述べることがあります。
それは、人形が生きているみたいだと。
最初は人形というモノとして見ていたのが、いつの間にかモノであることを忘れ、完全に生きた存在であると認識してしまっているという感想を、色々な人から聞きました。
文楽人形であれば、それを操作している人は一体につき3人もいて、そのうち2人は黒子頭巾もつけずに素の顔を出していますが、もはやその操っている存在も見えなくなっている程に、人形に惹き付けられているということです。
人形というパフォーマーは、生身の人間では絶対に出来ない様なダイナミックなアクションをやってのけ、それでも、よほどのことがなければ身体が壊れることもありません。
たとえば、切腹するシーンがあって、お腹に刃物が刺さった痛みを表現するのに、人形は、尋常でないほどに激しく動きながら、もがき苦しみます。
現実に、お腹の中に刃物が刺さったとしたら、そのくらいのテンションで苦しむであろうと、実際に人が切腹するのを見たことがなくとも、リアルさを感じさせられる動きです。
その人形と全く同じ様に、生身の俳優が動いたとしたら、筋や関節を痛めて、次の公演から使い物にならなくなってしまうでしょう。
プロフェッショナルな操り手に命を吹き込まれた人形こそ、生身の俳優がどんなに鍛練しても敵うことがない、最強のパフォーマーかもしれませんね。
次回は、「踊りの中の台詞」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。