絵を描くうえで、ルールがいくつかあります。
モチーフ
・知人であること
描画様式
・何が描いてあるか、即座に判別できるように描くこと
色彩
・目視している現象から離れすぎないこと
形
・崩さないこと
マチエール(絵肌)
・故意に表情を作らないこと
道具
・筆、ペインテイングナイフ以外は用いないこと
材料
・油絵具、溶き油以外は用いないこと
僕の場合、このくらい縛りがないと、毎回毎回わけのわからないことを始めて、収拾がつかなくなるということもあり、 けっこうなルールを敷いてます。
表現というのは、「強調と省略」 と、よく聞きます。
僕もそうだと感じています。
そこで考えると、僕の敷いたルールで描くと、とっても平均的な絵ができると思うのですよ。 形が洗練されているわけでもなく、色彩が目を見張るほど美しいわけでもなく、絵肌に面白みを感じるほど凝ってもいない。
そして、平均的の究極である写実というわけでもない。
これは、けっこうな問題だ。
「強調と省略」
なんか引っかかるのが、強調って、基本ワザとらしいんですよね。 意識して足す、もしくは増すわけですから。
省略なら、意識しても結局は見えにくくなるわけだからワザとらしく見えないかも。
最優先は形なんだから、それを見えにくくしている要素をすこし削ろうかしら。
つづく
それぞれが「当たり前」と思い込んでいることがある。
僕は絵を描いていて、それはほとんどの場合、人がモチーフです。 そして、「その人らしく描けているかどうか」を重視します。
妻も絵を描いていて、風景だそうです。 画面にはカタチが何もなく、全体が常に真っ赤です。 「あの感じ、あれが、あれのあの感じ。」を重視しているそうです。
僕の絵の先生は、自分の好きなものを、第三者が単純に見てそれとわかるように描きますが、材料や道具の機能性にこだわり、作業の段取りもしっかりと計画します。同じ構成の絵を何枚も描き、熟練された仕事をします。
もう一人の先生は、材料であったり、道具であったり、作品に関わること全てに、作品の主題との関係性を見出し、象徴的な意味を持たせます。
このように、なにかしら描いたり作ったりする人はなにかしら重視していることがあるのですが、自分以外の人のソレは聞いてみないとわからなかったり、聞いてみてビックリすることが多々あります。
そして、これは、なにも作品を作る世界の話だけではなくて、日常、生活していてもよくあります。よね?
よく聞く話では、「目玉焼きに何をかけるか。」 その話すると皆さんすかさず、
「オレ醤油。」
「うっそー!私ソース!」
「いやいやマヨネーズでしょう。」
「塩でよくね?」
て、なるじゃないですか。あの現象。 そういうことって、けっこうあって、敢えて話すことでもなくスルーされてる。 で、知るとビックリする。
僕の場合で言いますと、なんと、僕、学生生活が終わり、社会に出るまで、世の中の人全員が、もれなく絵が好きだと思っておりました。 実際はちょっと絵に興味がある人を探すのも大変な感じですよね。 でも、ほんと、みんな絵が好きで、「絵という分野で少なからず自信のある僕はなんてラッキーなんだ!」くらいに思ってました。
「野球か、サッカーか、絵か。」くらいな温度で。
そんなだったから、もう、びっくりですよ。
本当の「当たり前」って自分で思ってるより、意外に少ない。というか、物理的な現象以外では無いんじゃなかろうか。
ほとんどは少なすぎる判断材料を少ないとも気づかずに華奢に積んで、「当たり前」と思っているだけだったりする。
だから、もっと色んな人と色んな話をしたいなあって思ってます。
まとまりがありませんが、昨夜、バイトでシフトが一緒のI君から、
「床屋に行ったらそこの主人が自分の描いた絵をグイグイ見せてきてウザかった。」
というホットな話題を提供してくれたので、そんなこと考えました。
親父がきた。の巻
絵描きの皆様、「自分の親を描く」を実行されたことはありますか。
僕はまだありません。
特に描かない理由はないのですが。
前日に山に登ったおかげで、じんわりとした心地よい気怠さの午前中、有名登山家の山行文を読みつつ、 自分も強くなったような気でいると、電話が。
親父だ。なんだろう。
出ると、いつもの調子。敬語で話しかけてくる。
もう慣れてしまっているのでそれが普通になってしまっているが、なぜか父は家族内でも敬語で話す。
父の仕事は建築関係の自営業で、工場などの大きな建物の屋根にルーフファンという巨大な換気扇を設置するというものだった。 僕も何度もその現場に行っているが、機械や工具の音、他の業者が入り乱れるその環境下でも、父は敬語でやりとりしていた。
事務所には図面を引く時に使う大きな木製のT型定規があったり、受注内容の記されたFAXが乱雑に積まれている仕事風景の一方で、 壁は一面本棚になっており、手の届く位置にはだいぶ読み込まれたと思われる古びた夏目漱石や石川啄木などの純文学が収納されていたり、上段の方にはなぜか六法全書がデデンと存在感を主張していたりと、業種からは到底判断し難い内容の書物で埋め尽くされていた。
B型の左利き、趣味は将棋とピアノ。なつかしい情報だが、動物占いでは「ペガサス」だ。
なんというか、我が親ながらつかみどころのない人物。
「もしもし、諭史ですか。夏帆が東京に観光に行って、そのお土産を預かっています。夕方4時頃に持っていきますね。」
夏帆というのは従姉の子で今年六年生。GWに家族で東京スカイツリーにでも行ったのだろう。 僕は夜のアルバイトをしているので、昼間はいつも寝ていると気をつかったのだろう。 僕の実家に僕の分のお土産を預けて、それを後日受け取りに行くというのが慣例になっている。
今回の場合は父が届けに来るというパターン。 最近はこのパターンが多い。 というのは、うちには「マメ」という室内犬がいるのだが、父は「マメ」に会いにくるのだ。 どうやら可愛くて仕方ないらしい。 来るたびに大量のオヤツを持ってきて、嬉しそうに「マメ」にあげている。 が、「マメ」の歓迎はかなりの勢いと持続性があるので、そのうち父は面倒くさそうになる。
さて、そうなると男どうし。無口な親父となにを話すのやら。
とりあえず将棋を一局指した。
一緒に現場仕事をしている時より、政治経済について話をする時より、 将棋を指している時が一番父親を感じる。
いつもコテンパンに僕が負ける。 というより、父は本気ではない。
「こう指すと、僕がどう指すか。」を愉しんでいる。
なるほど、父親の威厳を感じるわけだ。
父親と息子っていうのは何やら独特な関係だ。
母親とのそれとは全く違う。と僕は思う。
今回、初めて親父を描いた。
制作手記10
永遠に続く曖昧を許容するすることができるか。
作品をつくる。そういった場合、どこをどうするのか、どこで完成とするのか、
作者はすべてたるすべてを判断し、やりきらねばなりません。 (だからこそ作者なのですが)
「ここはこう。」「そこはそう。」とすべて。
このことは僕のような絵描きくずれな絵描きでも物凄く重圧を感じます。
第一線でご活躍される作家の方々のそれは測り知れないものです。
だって、「本当にそうなのか?」と疑い続けなきゃならないんだもの。
しかも、この先も続くであろう制作活動であるのに、そういった答えが出るのかって。
僕の場合、そこで厄介なのは、「なんでも白黒つけたがる癖」。
さらに厄介なのは、「自信が持てなくなると言葉による理を持ち出し、無理やり自身を納得させる癖」。
そうなった場合、100パーセントの確立で作品の出来が良くない。100パーセント。
作品の出来が良い時ってのは色々がすんなり納得できるものなんです。
見て、イイと感じてるわけだから、いちいち考えないし。
でも、そういうのって滅多にない。
だいたいが、「納得いかないが、手詰まりだ。」で描き終える。
20代の頃はこれが嫌で嫌で、言葉で理論武装して傷つかないように必死でした。
なぜこんな話をするかと言いますと、 今回、モデルになっている彼の言ったことによって、すごく楽になった経緯がありまして。
この「彼」も絵描きで、おもにエアブラシを使用した具象作品を描くのですが、 ガチガチに決めていく僕の仕事に相反して、彼の仕事は常にフンワリしているのです。 まあ、エアブラシがそういった道具なので当たり前と言えば当たり前なのですが。 で、僕から見たら、どの段階で、どういった判断で完成としているのか、疑問に思い、聞いてみたのです。
「ねえ、どこで完成とか、どういう判断というか、そういうのどうなの?」と。
彼は作業をとめて、軽く首をかしげて言いました。
「完成とか、ぶっちゃけなくない?むしろ完成させたくない的な~。次に繋げる的な~。」
…マジか… …そんなこと考えたこともなかった……眩暈がする…
「完成できないことを理解したうえで、尚且つ完成させようと努力する。」
すげえ。
この出来事があってから、以前より自分を許容できるようになりました。
で、制作の経過ですが、7割くらい。 ようやく決まる気配がしてまいりました。
ビビり出す頃合いですが、感じた通りにやります。
失敗も、曖昧も、ずっと続く。 理をこねても意味がない。
制作手記9
ええと、バカ正直に言いますと、僕、絵を描いていながら、 画面全体の構成というか、そういうのあんまり興味ありません。
それが絵画表現の要たる要ってことは散々思い知ってきましたが、 なんかピンとこないのです。 無意識にいいようにしてることはありますが、積極的にそこを重視したことがないのです。
具体的にモノを描いていくことしか、ピンとこないのです。
なので、構図といったら大抵、描くモノをド真ん中に描きます。
しかし、大いなる問題が。
背景。
これは、ずーーーっと考えていることなのですが、未だに明確に思いきれません。
描くのか、描かないのか。
よくある、素描での話では、紙に鉛筆なり木炭なりの白黒の濃淡のみで描く場合、背景に手を入れないことはよくあります。 勿論、その場合でも、背景が立体的な空間であることを感じさせるように、メインのモチーフの際(背景との境目)を工夫したりします。
こんな感じに。(モデルは同じ人。正面からの素描。)
その意識を油彩でも。と考えて、実際に試したことは何度もありますが、思うようにいかないんですよねぇ。 先に載せた「美容師さん」も、その意識を持って臨みましたが、成功とはいえないです。
これは、まず、有彩色であることが難しいところで、理想的な際の処理が見い出せないことと、 もうひとつ、油絵具の持つ物質感が原因と思われます。
当然ですが、メインの箇所は描けば描くほど物理的に表面は厚みを増し、反対に手を入れていない背景はキャンバスの素地のまま。 マチエールの関係性がうまくいかないのですよ。
メインの箇所を描かないわけにはいかないし、背景をメインに合わせて塗ったとしても、妙に物質的な抵抗感が出てしまうし。
そんなで、悩んだ挙句、今回は背景も描くことにしました。
本来ならば、こんなこと制作開始時に決定されていなければいけないことなんですが、 僕の場合なので仕方がないです。
この話を絵を描く知人に持ちかけると、大抵、『 大昔に「笛吹の少年」で決着の着いた話 』とされてしまいますが、 「笛吹の少年」て、背景バッチリ描いてますよねぇ。モノがないだけで。位置感あるし。
そうじゃなくて手を入れないでどうするのかって話。
制作手記8
「何か」の話。
絵を描く時って、作業の動作を追えば、まず心が動き、そのことを頭で作業に変換し、利き手で施すわけですが、 その行程の一端の概念として、器用・不器用というものがあります。
「自分、不器用ですから。」じゃなくて、単純に思った通りに手を動かす「運動神経」や、扱う材料の物理的変化を無意識に感じ取り作業に反映させる「素材感」だったり、まとめた言い方をすれば、思い描いたイメージのとおりに作業を施す「判断力」。
今までたくさんの絵描きさんたちに出会ってきましたが、自分は器用さで言ったら中の下くらい。平均的よりやや下だと思います。 「素材感」はまあまあ備えてるほうかと思いますが、運動神経がまるでなっちゃいません。すぐ手がプルプルしちゃったり。 そして「判断力」。これが厳しい。まさに「自分、不器用ですから。」のレベル。
だから、なかなか思い通りに進まない。
勿論、描き始める時には、想像した完成のイメージに向かって描き進めますが、
まあ自分の不器用さに失望するったらないね。
観察しながら描くもんだから、実際の現象に引きずられて、ドンドン「描く」から「写す」になっちゃうし。
うーん困ったんだ。
しかし困ったもんかと思いきや、時々、制作開始時の完成イメージを、連続した観察の結果が超えることもある。
そんなで、いつもじゃないけど、時々思う。
「何も考えずひたすら観て描けばいいんじゃねえの?バカなんだし。」と。
いつもじゃないから、こうも思う。
「興味があるのはモデルだってわかるためのカタチなんだし、他は省略していこう。」
うーん。判断力がねえくせに色々考えちゃう。
「自分、不器用ですから。」
でもこうやって悩んだ作品て、すんなりいった作品よりずっとイイんですよ。 思い入れとかそういうんじゃなく。
なんでしょうね。「何か」が宿るもんなんですよ。
本当ですよ。
悩んでばかりで進んだようにみえないかもですが、 口周辺を詰めました。
うーん。
制作手記7
「楽しい」の話。
作品を作っていて、「楽しい」とはよく聞く言葉ですが、 どのように「楽しい」のか、僕の場合について考えてみます。
今日、発展、研究、発表し尽された「美術」という分野において、その目的は、「表現する」です。 僕も平面絵画以外で散々色々な手段、方法を用いて、どのようにすることが自分の主題を表現するにあたり適切なのか考えてきたのです。
考えてきたのです。
しかし、この、「考える」はけっこう「楽しい」のですが、 それによって捻出したコンセプトを、具現化し、作品と呼べるクオリティーに押し上げるまでには、 当然ですが、様々な「実作業」が存在するわけです。当然ですが。
その「実作業」自体が、それほど「楽しい」ではない、「楽しい」が、体質的にもっと好きな作業がある、だとしたら、 それまで頭では最高だと信じていた自分のコンセプトが途端に色褪せていくのです。 というより、急に怖くなってしまうのです。僕は。
何が怖いかと言いますと、「口車に乗せられた感」に突然苛まれ、自分で捻出したコンセプトだというのに、 「クソッ!騙された!!空クジ引かされた!!二度とやらねえ!!」という気分になるんです。
うーん自分で書いててほんと頭おかしい。笑っちゃいますね。 あくまで僕の場合で、僕の人格にも問題があることなので、広く捉えないでください。
そんな具合で、僕の場合、「実作業そのものが楽しい」でないと続けることすらできない。 このことに気が付いて、色々と他の可能性を諦めるのに20年もかかってしまった。
では、僕にとって、絵における「実作業」がどのように「楽しい」のか。
それは、「考える」と「実作業」が交互に進行され、双方が完成まで絶えず繰り返されるというところ。 「実作業」が即座に制作中の作品に反映することで「考える」が生じるというループ。 この行ったり来たりな感じが「楽しい」のです。
前回「しんどい」と表現した途中の作業も、 「しんどいけど、その先に何かあるのがわかる。だから楽しい。」のです。
ちなみに、最高の状態に突入した時、交互に行われていたこの2つの事柄が完全に同時に行われるようになり、 体感的には何も聞えなくなったり、時間の感覚がなくなったりします。 で、なんかすごく幸せな気分になります。なぜか。ふしぎ。
今日は目と鼻を決めにかかった。
が、決まらなかった。もうひと含み欲しい。
制作手記6
描き方にも、描く人にもよりけりなので、あくまで僕個人のことです。
油絵っつーのは、描いていて楽しくなってくるまで、まー 時間のかかること。
描き出しは新鮮な気持ちで臨むのでけっこう楽しい。 アタリをとったり、
感覚的に色を乗せてふくらましたり。
そっこらがけっこーしんどい。 行ったり来たり、迷ったり、二の足踏んだり、無駄な寄り道したり。 モデルのことを考えたり、コーヒー飲んだり。
その辺りを抜けると、ようやく到達点がうっすらと見えてくる。
と思ったら、それは全くの「気のせい」で、到達点がまだまだかなり先だと気づかされ、愕然とする。
「なんか、山みたい。」と登山を始めてから思うようになった。
と、いうのは、山ってふもとからは山頂がよく見えるじゃないですか。で、ワクワクするんですよ。 しかし、登山口まで近づいてしまうと、自分がこれから到達するはずの山頂が障害物で目視できなかったりするんです。 特に、低山なんか木々が生い茂ってますから、「山頂はアレか?」くらいなもんです。 で、尾根に出て、目の前の隆起した部分を「山頂が見えた!」と思いながら登りあげると、
実際は尾根のちょいとした盛り上がりで、山頂ははるか先。 愕然。
テレビで見た話ですが、 日本人で唯一のヒマラヤ8000m峰14座 全登頂を成し遂げた、プロ登山家の竹内洋岳さんも、 同行したテレビクルーの人が山頂を眺めて、「近そうに見えますけどね。」と言ったことに対し、 即座に「今まで近いと思って実際近かった山は一度もなかった!」と応えてました。
「ほんとそうだよなあ。近くねえよなあ。絵もよう。」と心から思いました。
さて、クダもまいたことだし、気を取り直して筆をとりましょう。
前回、全体を繋げる意識で描き進めました。 単に人の顔の図像と考えれば、このままグイグイ描いても問題はないのです。
しかし、僕の場合、特定の、実際に存在する、僕の好きな人を描いているので、大問題が発生しています。
似てねえ。。
カタチが合ってないのも然ることながら、なんつうかニュアンスで似てねえ。
似せよう。なんとしても。
これは、モデルの彼を知らない人にはわからないわけだから、僕個人の問題です。 が、だからこそ、もっとも重要なことなのです。
どうしよう。
立体的にカタチを起こす際には不向きですが、こういった場合、 印象を即座に捉えやすいように、線で「説明的」に描きます。 つまり、目は目、鼻は鼻、口は口、というように。 日本人の得意分野ですね。
「説明的」という言葉が出たので、ちょっとだけそのことを。
「説明的な絵」、「説明的な作業」 絵の場合、あまりいい意味で使われません。
例:「上手いけど、説明的でつまらないよね。」
例2:「途中までよかったのに、説明的な作業が入った。それがよくない。」
と、まあ、卑下される「説明的」。
僕は、そんなことはないと思っています。 「うまく説明するのって、けっこう大変なんだぜ?説明をバカにするんじゃあない。」と。
似た。オシ。
制作手記5
常々、思うことがあります。
絵画に対してのメディアの解説で、「こう描くことによって○○を表現している。」とか厳かなBGMに乗せて語られますが、 それってあくまでそうあって欲しいとか、そうあるべきだ、といった願望にすぎないと思うのですよ。
例えば誰もが知っている ゴッホ。 筆のタッチが見えやすいことと、晩年に自分で耳を切り落とした行為が有名なことで、 すっかり情念的な画家として印象付けられていますが、僕は全くの正反対だと思うのです。 画面に入る形や色彩の構成なんて、ものすごく神経質に計算し尽されていて、胃が痛くなりそうだし。
むしろ、写実に近い具象絵画を描く人のほうが、よっぽど気分屋で、 「なんかこうしたほうがいいから」みたいなノリであんまり考えず描いてるような気がしてなりません。 言い換えれば、あんまりクドクド考えていると、集中力の問題で写実寄りの具象って描けないんじゃないかと思います。
勿論、絵の描き方がそれぞれであるように、絵の見方もそれぞれなので、どう見るかは自由ですが、 解説としてというよりは感想としてあってほしいものです。
ちなみに僕の妻は、「日本人は絵を観たとき、無理やり感想を述べようとする。不自然だ。」という意見を持っております。 まさにそのとおり。さすが妻。
前回の段階ではノリに任せて描きすすめたのですが、色々がバラバラで、荒れた状態。 まだどこも決まっていない。決まる気配すらない。もちろんまだ決める意識ではないけど。
「決める意識」 これをどう考えるか。
人によっては描き出しの段階ですでに構成における各部分の関係性をピタリと決めないと気が済まないという意見もあります。 僕の場合は最初から決めすぎると次に予定している作業の失敗にビクついて上手く進められません。 なので、しばらくグチャグチャいじくってから決めにいくことが多いです。 今の段階ではまだだな。といった感じです。
に、しても荒れすぎているので、少し全体をつなげる意識で空間感を補正します。
背景はかなり明るくなる予定なので、その背景につなげる理由で、安直ですが全体の調子を明るくします。
うーん。
家でひとり、絵を描いていて、日が落ちていくと、世界に自分ひとりしかいないような気がしてこわい。
犬が吠えるだけでちょっとホッとしたりする。
制作手記4
一度目の描き起こしはあまりいいものではなかった。 というより、いいものであった例がない。 これは僕の意識と技術双方の拙いところで、 描き起こす作業の理想としては色味を生かしながら位置としてのカタチをより具体的にしたいのだが、 頭では解っていても、それができない。 描く作業になるとどうしても明度にしか目が利かなくなる。 このように、色を置く意識と具体的に描く意識が別々に働いてしまうことが問題。
結果、描けば描くほど色彩は鈍くなる。中途半端なグレーになってしまうのだ。 (ちなみに絵画でのグレーというのは、いわゆるネズミ色のことではなく、中間色全般を指します。)
こんな時はモデルのことを想うことにしている。 今、彼は何をしているだろう。 エアブラシで奥さんの絵を描いているのだろうか。(彼も絵描きなのです。) そういや最近は樹木を題材にしているとか。 山に行く機会があれば誘いたいな。是非。 彼の中間色は鈍くない。淡く、深い。何故だろう。
なんだかノッてきた。
溶剤のことを少し。
油絵具を溶く溶剤(溶き油)は主に3種に分類されます。
・揮発性油 常温で揮発。 粘性:低 (テレピン、ペトロールなど)
・乾性油 酸化による自然硬化。 粘性:中 (リンシード、ポピーなど)
・樹脂 硬化補助、画面保護、他。 粘性:中~高 (ダンマル、マスチックなど)
上記の他にも、描画補助仕様のものなどたくさんあり、 使いやすいように調合するわけです。 また、油絵においての積層は、上の層ほど粘性を高めないと絵具が画面に載りません。 そこを溶剤の特性を生かし、工夫する必要があります。
僕の場合は、
・テレピンのみ(描き出し)
・テレピン3:リンシード3:マスチック1(中間層)
・テレピン1:リンシード2:マスチック2(最終層)
と、3つの調合油を使用しており、状況に応じてこれらに何か足したり引いたりしています。
さてさて、さっきよりイイ感じになってきた。オレが。
絵がイイ感じになってくると、自分のコンディションも良くなり、 自分がノッてないと、なんだか絵もしんどそう。
連動です。