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2011/08/29

アメリカの生活と日本の生活、どちかが良い? と、よく聞かれる。
もちろん、食生活や家族が皆日本にいて、週末会おうと思えば会える
という意味では、日本の暮らしになんの不満はなく、
どちかの甲乙をつけるのは難しい、と答える。

けれど、だいたいいつも 『ただし・・』 と続く。
『日本の生活の方が、若干文化的なモノが足りないかな』、と。

私にとって文化的なモノ、とは、ボストンバレエや、ボストン美術館に始まり、
NYブローウェイのミュージカル鑑賞、リンカーンセンターのオペラ鑑賞、
セントラルパークでのクラッシク・コンサート、ホィットニー・ミュージアムや
だだっ広いメトロポリタン・ミュージアムで過ごす週末。

つまり、多くが芸術的なモノを鑑賞する、というもの。

坂本龍一を初めて生で見たのは、セントラル・パークの無料野外コンサートで
舞台の真ん中にピアノがどーんと置いてあって、そこで坂本さんが
‘Merry Christmas Mr. Lawnce’を弾いていて、空に響くその音にすごく感動した。

最近のブロードウェイもオペラも、少し良い席で見ようと思えば
価格はやっぱり1万円前後で、日本より格別安い!というワケではない。

けれど、散歩していたらたまたま公園で野外コンサートをやっていて、
皆思い思いに芝生に座り、ワインとサンドイッチでピクニックしていたり、
演奏を聴きながら日光浴していたり、みたいなことや、
リンカーンセンター前を通りかかり、今やっている演目が目に入りチェックしたりと
そういう楽しい遭遇が、ボストンでもニューヨークでも多かった。

日本の公園の芝生の多くが、整備上の関係か『立ち入り禁止』になっているが
戻って来た当初、そして今でも、本当に意味が分からない。

話が反れたが、とにかく普通の生活動線上にそういう文化的なモノたちがあった。

地理的にボストンもニューヨーク(シティ)もぐっと範囲が狭く、
何もかもがコンパクトにまとまっていた、という立地条件もあるだろうけれど、
それでも人々の芸術への感心が高く、文化的なイベントが
ナチュラルに多く、街の中で行われていたように思う。

美術館も規模が大きいものから小さいものまでたくさんあって、楽しかった。
一番のお気に入りは『イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館
【Isabella Stewart Gardner Museum】』。

ケンブリッジにあるハーバード大学内の『フォッグ美術館【Fogg Art Museum】』
も好きだったが、大学に近くて良く通った、という点で
イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館の方が思い入れが深い。
ニューヨークに移り住んでからも、ボストンに行く機会があれば必ず寄った。

私邸のように建てられた3階建ての美術館で天窓まで吹き抜けの中庭もあり、
行くと異次元の世界に来たようで、世の中の喧噪を忘れ、時間を楽しめた。

もちろんレンブラントやフェルメール、ラファエロなどの著名な作品もあったけれど
特に好きな絵画やコレクションがあったわけではなく、むしろ、
邸宅全体の雰囲気が好きで、学割もあったので気がつけばふらりと通っていた。

この‘意味もなく美術館に通う’というのが
今の私の渇望する‘文化的な生活’の原点なのだろう。

‘ふらり’と出かけた先で、
自分の人生に関係なくずっと流れ続けている‘コト’や‘モノ’を確認し
そしてまた自分の生活に戻る。
そういう場所がまだ東京にはできてないなーと、と最近そう思う。
いつか巡り会えるものだろうか。

イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館はボストン美術館のすぐ近くなので、
ボストンへ行く機会がある方は、ぜひに覗いてみてもらえると嬉しい。

03:33 | masaki | 文化的な生活の原点/イザベラ・スチュワート・ガードナー美術館 はコメントを受け付けていません
2011/08/17

E.T.
【E.T. THE EXTRA-TERRESTRIAL】1982年
小学校中学年

映画館では見てないと思うけれど、ずっと昔のコトなので覚えていない。
急行列車で2駅隣の町に映画館があって、2本立ての映画をよく見に行った。

そう、その時は映画はなんでも2本立てだった、少なくともそこでは。
今思えば3時間から4時間も映画館にいられるなんて、贅沢な話だ。
しかもスクリーンは1つしかなく、話の区切れも関係なく入場でき、
2本観て1周したら出てくるという具合の、アバウトさ。

子供だったからおまけしてくれてたのかもしれない。
ずるをして3本観ていた気がするけれど、よく考えればそれだけで5時間ほど。
記憶が観た気になっているだけで、本当は2本観たら出てきていたのだろう。

個人的な意見だが、人と宇宙人の関係を客観的に映画で見るとおもしろい。
と、
ここでアメリカ映画と宇宙とエイリアンについて一節いれようと思ったが
裏取りし始めたら思いの他に広がってしまったので、
別の機会にふれることにする。

E.T.のような子供が主人公の映画をみるとつくづく思うコトがある。

英語には『お兄ちゃん』とか『お姉ちゃん』と弟や妹が兄や姉を呼び合う単語がない。
でも字幕では『お兄ちゃん』と言ってたりする。

主人公のエリオット【Elliot】は兄マイク【Michael】のことを
『マイク!』とか『マイケル!』と呼び捨てるし
妹のガーティー【Gertie】だって、エリオットのことを『エリオット』と呼ぶ。
そして根本的なことだけれど、常に会話は『you』から始まる。

初めてE.T.に遭遇した翌日、森にチョコレートを蒔き、夜に庭で待ちぶせをするエリオット、
そこにE.T.が姿を現す。怯えながらエリオットがつぶやくのは、

『Mom, Michael,』『Michael, Mom,』
『ママ・・・、お兄ちゃん』『お兄ちゃん・・・ママ・・・』

妹のガーティーと兄マイケルにE.T.の秘密を約束させる時も、

『約束するか?』『お兄ちゃんも?』
『Promise?』『Do you promise?』

部屋から出てきたガーディーに母がどこへ行くのかと尋ねる
『I`m going to play in Elliot`s room』
『エリオットの部屋で遊ぶの』

ガーディーのセリフが字幕では『お兄ちゃんの部屋で遊ぶの』ではないのは
恐らく日本文化的にもこのぐらいの歳の子は、まだ『お兄ちゃん』という単語が難しく
名前で呼んでいることが多いからだろう、と推測する。

日本ではいつから、そしてどうやって名前で呼んでいた習慣が
『お兄ちゃん』や『お姉ちゃん』になるのだろうか。

もちろん英語でも一般単語の『brother』や『sister』を使う時もあるが、
それば呼びかけではなく、お互いの立場を認識し合うような会話の時である。

E.T.を部屋に隠し、翌日体温計をデスクランプで温め、仮病で学校を休むエリオット、
放課後兄マイクが帰ってきたところをつかまえ、E.T.を見せる前に秘密をせまる。

『OK, Now, swear it– The most excellent promise you can make.』
『Swear as my only brother on our lives』
『マジに命を懸けて秘密を守ると誓って』
『僕とお兄ちゃんの秘密だ』

『brother』や『sister』は客観的な第3者からみる生物的な事実のみに留まる。

つまり、日本語で兄や姉が弟や妹を呼ぶ時に『弟』とか『妹』と言わないように
英語では『お兄ちゃん』や『お姉ちゃん』を名称としては使わず、
名前や『あなた』を意味する『you』を使うことで、その対等さが保持されている。

年齢の差を『お兄ちゃん』や『お姉ちゃん』で区切らないことが良いのか悪いのか
という論争は別問題として、
少なくともその違いが生物学的なコト、単なる生まれた順と生きている時間の差のみ
ということを理解してから使う、ということの方がより個々を尊重し会えるように思う。
だから、日本ももっと兄妹同士が名前で呼び合い続けてもいいとのではないかな、と。

ちなみに私には妹がひとり、弟がひとり、お姉ちゃんと呼ばれることはなく
常に『マサキ』だったし、お互いを名前で呼び合い育った。

近年社会人になってから、たまに弟が『姉ちゃん』と呼ぶようになり
私もつられてくん付けで弟を呼び、ちゃん付けで妹を呼ぶ。
ついに弟も私を敬うようになったか、なんてことを思うわけでもなく、
ただ、年月で培った姉弟の親しみさのひとつの表れ、とそう捉える。

04:01 | masaki | E.T./英語で意味するお兄ちゃんとお姉ちゃん はコメントを受け付けていません
2011/07/31

本の原題と邦題についての話が主で、
内容に関してはネタバレにならない程度に書いたつもりですが、
これから 『13時間前の未来』 を読もうと思われる方で
事前に少しも内容を知りたくない!という方は後でお読みください。

++++

映画を見るのも好きですが、本を読むのも大好き。

アメリカに行く前は、海外の作家のSF小説をよく読んでいたけれど、
日本に戻ってきてからは、日本の作家やエッセイ、短編集が多くなったのは、
少し大きな変化。
それでもノンフィクションより“小説”を好む、というのはあまり変わらず、
それがそのまま選ぶ映画のカテゴリーと類字しているのも否めない。

そんな最近 久しぶりに翻訳モノ、
リチャード・ドイッチ【Richard Doetsch】 の 『13時間前の未来』 を読んだ。

読み始めようと思ったら、映画化されるということに気がつく。
余談だが、つくづく映画に続く道を選ぶよう。

内容はともかくとして、題名について。
原題は “The 13th Hour” 直訳すると “13時間目”
 
ストーリーは第12章【Chapter 12】午後9時から始まり
主人公が1時間前の始め、厳密に言うと2時間前に遡り、
その1時間をやり直しては59分また前の1時間の初めに遡るという
2歩下がり1歩進む、的なタイムスリップ式で進んでいく。
9:00~10:00pmをすごし、8:00pmに移動する、という具合だ。

第12章が午後9時だから、第1章は午前10時、それが物語の全てが始まる時刻。

では、題名となる13時間目の第13章は?
もちろん第12章が午後9時なら第13章は午後10時である。

読み終えて考えさせられたのは、原題“13時間目”を
邦題として13時間前の未来”と“後”を“前”に変換し、更に“未来”を付けた
訳者の佐藤耕士さんのセンス。

13時間目という時間軸は何をしようが変わらないけれど
その内容は毎時間主人公が過去を変えることによって、
常に新しい内容の“13時間目”が生成されるパラドックス。

だから結果、13時間前にとっての13時間後の未来を変えるべく、
12時間奮闘するという、13時間前の未来を変える話で意味は違いない。

更に、これは私の深読みかもしれないけれど、1時間ずつ過去に遡っていても
主人公の時間軸では1時間ずつ時間は進んでいく。
だから午前10時までの12時間は主人公にとっては未来であり
その後にやってくる1時間を13番目とすれば、やっぱり、13時間前の未来となる。

・・・その場合午前10時から午後10時までまた戻ってきたら、
実質24時間後になるから、やっぱり違うかな、、、などと頭が痛くなるパズルだが、
結末を読むと、それもあり、と思える。

ちなみに主人公は一体自分が何時間前まで遡るかなんて知りはしないから
13時間と知っているのは読者だけということを、決して忘れてはいけない。
その方がずっと話が楽しめる。

++++

日本に戻ってきてからは、英語を忘れない為のトレーニングも兼ね、
英語圏の本は、なるべく原書で読むことにしている。

ただ残念ながら、そのスピードは日本語の本の何十倍もかかり
結局読み始めることも出来ないままリストだけが増え続ける現状。

そうそう英語で読めばイイってもんでもないと、
この本を読んでみて、方針を変える気になった。

11:31 | masaki | ネタバレ注意:小説:13時間前の未来とは はコメントを受け付けていません
2011/07/09

前に、“アメリカ行って、人生が変わったか?というコト” の劇的な出来事として
『だって、電車こないんだもん』
と語ったことがあったけれど、
他にもボディーブローのような、プチ衝撃がいくつかある。

言って見れば“人生を変えた、事件タチ”だ。

アメリカの食品店での品物の扱いは、日本のようにデリケートではない。
潰れちゃいけないような、トマトだとかパンだとかの原型がなかったり
ある日の箱入りシリアルの棚で、潰れてない箱が見つけられなかったりする。

たまに袋モノが開いていて、中身が散乱しているのは
多分、買い物客が勝手に開けて味見した結果だろうし、
“3個ネット入りタマネギ”がどれも2個入りになっていて、
それでもレジに持っていくと、単品の値段で売ってくれたりする。

ある日、コーンスープを作ろうと、スーパーで牛乳を買った。
もちろん賞味期限確認は、最も重要なコトで、チェックにぬかりはない。

キッチンでタマネギを炒め、バターを入れ、ホールコーンを開けて
後は牛乳を入れて煮詰めるだけ。
買ってきたばかりの牛乳を、冷蔵庫から取り出し封を開け鍋に入れる。

とぽとぽとぽ。と。と。と。。。

パックは重いのに、それ以上牛乳が出てこない。
あれ、っと思って中を見てみたら、パックに沿って四角くなった白い塊が!
あんな見事な形状のものは人生初で、そして今だにまだ再会したことがない。

もちろん中身は腐っていたので、それまで作ったスープはもはや食べれるモノではなく
結局全部捨てることになった。
その日の料理は諦めて、食べに出たのか、インスタントですませたか。

この出来事から習慣づいたのは
牛乳を料理に使うときは、“パックから注がず、まずコップに注いで確認する”というコト。

スーパーで購入した賞味期限内での未開封の“新品”モノだから、大丈夫
なんてのは、なんの根拠もない信頼なんだ、と思ったら、
私の人生観が割と大きなカーブを描きつつ微調整されたワケで。

05:54 | masaki | 人生を変えた、事件タチ はコメントを受け付けていません
2011/06/25

Dedicated to the memory of Junko B T.

ペネロピ
【PENELOPE】2006年
日本で初めて転職した年。
仕事が嫌だったわけではなく、手のひらにない見えない何かを求めた、というコト。

子役で売れると、薬やお酒に溺れることなく大人になるのは、
何故かアメリカの俳優界は難しいようで、
1991年の“アダムス・ファミリー【THE ADDAMS FAMILY】”の娘役で
すっかり有名になったクリスティーナ・リッチ【Christina Ricci】も危なっかしかった。

いろいろな役柄に挑戦するけれど、背伸びした印象がなかなか抜けない。
“ペネロピ”はそんな彼女を、唯一安心して見れるようになった
最初の映画かもしれない。

先祖にかけられた呪いから、豚の鼻と耳を持って生まれた少女ペネロピ、
呪いを解くためには、“one of our kind” ・・・同じ“種”が彼女に永遠の愛を誓うこと。

娘を思う母親は、呪いを解く資格のある同じ“貴族出の花婿”探しに懸命になる。
その度に“拒絶”される娘の心の痛みを知らず、ただただ、“元”に戻ること願って。

その秘密を探る記者レモン【Lemon】、潜入捜査の為に、ちょっと落ちぶれて、
お金で協力してくれそうな“花婿候補”に適した貴族の青年をカジノでスカウトする。

+++++
レモン: 『待ってくれ』
マックス: 『誰だ?』
レモン: 『あんたを探して ここへ来た』
     『たった数年で 一族の財産をスッたようだな』 
     『待てよ 損はさせない』
マックス: 『人違いだよ』
レモン: 『5000ドルの話だぞ』

Lemon: Hey, pal, wait up.
Max: Do I know you?
Lemon: No, but I know you. Did a little research.
     And it seems in a few shot years you’ve managed to gamble away
     the fortune your famjiliy spent generations building.
     Hey, hear me out. I’ll make it worth your while.
Max: You got the wrong guy.
Lemon: Five thousand bucks worth your while?
+++++

“You got the wrong guy.” は文字通り、人違いだよ、、っていう意味もあるけれど、

何か無理なコトや、都合の悪いこと、はたまた興味がなくて断りたいときも
悪いけど、頼むヒトを間違っているよ、という意味合いで
“You got the wrong guy.” と返事する。

浮気現場を見られたり、犯人と見破られそうな時にも、
そいつは俺じゃないね、ヒト違いさ、っていう意味で 
“You got the wrong guy.” と返事する。

つまりだいたいが本人なワケで。

うさんくさいレモンに声をかけられ、最初に相手にしなかったマックス
でもカジノ通いですっからかんの彼に、5000ドル【Five thousand bucks】、
日本円だと50万円ぐらいの大金に、結局引き受け、
ペネロピに会いに行くことになるわけだ。

ネタばれになるので、これ以上は・・・・だけれど、
この “You got the wrong guy.” は後になってキーワードとなり
このシーンが再度リプレイされる。

この映画は全体的に人間の自分勝手な願望と、思いこみと、欲望のるつぼである
その中で、豚の耳と鼻を持つペネロピだけが
自分の気持ちを偽らず、まっすぐに向かい合う。
何故って、きっと、人と違う耳も鼻も、どんなに瞬きしても消えないから。

*****
“ペネロピ”の“クリスティーナ・リッチ”はちょっぴり私の友人に似ている。
友人の奥さんで、友人となった、10歳まではいかないけれど割と年下の友人。

このコラムを書く為に“ペネロピ”を選んだのは、少し前のコトで
たまたま木曜の夜中2時に、映画の中で街へ出ていろんな発見をするペネロピを見て
ああ、誰に似ているのかと思ったらジュンちゃんだわと、ふと思った。

きらきらした目は、新しいことを少しも逃す気はなくて、
何より、しぐさや動きや後ろ姿、ビビッドな柄の襟巻きを選ぶあたりに
共通の雰囲気を見たのだと思う。

翌日朝9時に、そのジュンちゃんが亡くなったとのメールが来た。
2年ほど前から入院生活をしていた。

お通夜に行って、別の友人ふたりが不思議なコトを言う。
“昨晩の夜中に電話してた時に、ジュンちゃんどうしているかって話してたんだよ”と。
そして、はっと気がついた。
ちょうどその時間に、ペネロピって彼女に似ているなって、そう思っていたわ、と。

superstitiousなコトは、ただ起こるモノだから、特別意味を持つとは思っていないけれど
昔遠方でじいちゃんが亡くなった時に、夢で最後のさよならを言いに来たときから
大事なことはヒトの心が呼び合うことかもしれないと、そう思い、
あの日はその瞬間のひとつだったのかもしれないと、そう思う。

04:14 | masaki | ペネロピ/心に素直に生きる はコメントを受け付けていません
2011/05/27

アメリカに行って人生が変わったかと、聞かれれば
私はいつだって『変わった』と答える
なんでそんなに断言できるかって?
そんなの人生が終わらないと分からないじゃないって?

いやいや

『だって、電車こないんだもん』

このセリフ、何度はいたコトか。

高校時代の私は、通学に関しては遅刻常習犯だったけど、
友達との約束にはちゃんと行っていた。(と思う)

同じ地元ばかりの中学と違って、
高校の友達はそれぞれいろんな地区から来ている。

別々の駅を利用しているから出かける時は必然的に
『○○駅8時発の電車の1両目で待ち合わせね!』といった、
電車の中で待ち合わせ、ってことがしょっちゅうあった。

そんなペースで3年間すごし、ボストンへ。

車もないし、日常使う交通は『T』と呼ばれる、
途中から路面電車になる地下鉄。
新生活をスタートさせ、まずは最寄駅で時刻表を確認!

・・・時刻表がない。
え、え、え!!!

よーく見れば、柱の影だか、どこかだかに貼ってあったのかもしれない
でも、私の記憶では 『ない』 になっている

じゃあ、どうすんの?ってまぁ、ひたすら駅で待って
来た電車に乗る。

これがかなりカルチャーショックで
ああ、電車って時間通りに来るもんでもなく、時間通りに着くもんでもないんだ、
とそう思った瞬間、私の18年培った基礎ががらがら崩れた。

電車は10~15分程度に1本と、まあまあ頻繁に来るから
適当に時間を計算して、出かければいい。

ってことに慣れるまで、どうやって生活を積み立てればいいんだろうって
本当に途方にくれた。

なので、私の人生は、あの時確実に岐路があり
確実に角を曲がったと断言できる。

07:32 | masaki | アメリカ行って、人生が変わったか?というコト はコメントを受け付けていません
2011/05/13

トッツィー
【tootsie】1982年

“ダスティン・ホフマン【Dustin Hoffman】”の映画は『アウトブレイク』と思っているけれど
恐らく彼を初めて知ったのは、年代的にこの映画と思う。

ただ、あまりにも女装姿があっぱれで、途中何度も男の姿に戻っているけれど
記憶の中には男性としてのダスティン・ホフマンのかけらもないから不思議だ。

1993年の映画で、同じようにロビン・ウィリアムズ【Robin Williams】が
女装して話題を呼んだ『ミセス・ダウト【Mrs. Doubtfire】』があるけれど、
こちらの映画は割とロビン・ウィリアムズらしさが感じられ、
そしてやっぱり最後には、“ロビン・ウィリアムズの映画”と記憶に残る。

ところが、このトッツィーは、何度見ても、どう見ても
“ダスティン・ホフマン”という要素が抜け落ちてしまう。
役者としてこの事実を考えれば、その変身ぶりはすごい才能、ってことだろう。

そんなダスティン・ホフマン、映画の中でも俳優役で
NYの売れない役者ドーシー【Dorsey】を演じる。
そのオープニングでは、いかに役者の世界が厳しいかが語られ、
それにも負けないぞ、というドーシーの意気込みが熱気と共に語られる。

+++

You gotta work. You gotta work.
There’s no excuse for not working.
There’s no excuse.
There’s unemployment.
There was unemployment when my friends and I started acting.
And it’s not chaneged.
You got 90-95% unemployment.
It’s never going to change.
You’re an actor.
You’re in New York City.
There is no work.
But you gotta find ways to work.

仕事を探せ
仕事がないのは言い訳にならん
役者には昔から失業がつきものだ
90~95%の役者は常に失業
それがNYの役者だ
なくても仕事を見つけろ

+++

『役者には昔から失業がつきものだ』なのはもちろんだけど
役者じゃなくても『失業』はつきまとい(There’s unemployment.)
それはそうそう変わることがない(And it’s not chaneged.)という厳しい世の中で
90~95%の失業率というから役者の世界は無茶苦茶だ。

とにかく狭い入り口がいくつかあるにすぎないかも知れないけれど
職に辿り着く道を見つけなくちゃならない(But you gotta find ways to work.)

で、その方法がドーシーの場合は女装だった、というわけで。
ダスティン・ホフマンが役作りで究極の女装の男性を演じたのか、
ドーシーが職が欲しくて渾身の女性を演じたのか、すっかりごちゃまぜ。

動機はなんであれ、女装した男が男にプロポーズされることになり、とか
気になる女の子にキスしようとしたらレズと間違えられてみたり、、、と
とにかく楽しい楽しい映画。

***
びっくりしたのは監督のシドニー・ポラック【Sydney Pollack】が
ボビー・フィッシャーを探して』の製作総指揮としてかかわっていること。
好みというモノは、やっぱりどこか深いところでつながっているモノらしい

11:40 | masaki | トッツィー/渾身の女装 はコメントを受け付けていません
2011/04/29

Twitterは少し前から始めていたものの、Facebookにはなかなか手が出せず
ようやく最近、重い腰を上げてアカウントを作った。

世の中“ソーシャルメディア”の時代です、と言われ、
仕事でも割とその手の話になるけれど、
正直“ソーシャルメディア”の意味がさっぱり身体に染みてこない

それでもなんとか出した私の結論は、
TwitterもFacebookも結局生活の1つのツールと思えばいいのかな、と。

デザイン業界にAppleのDTPアプリケーションが登場し、
まるであれさえあれば誰でもデザインができる、と思わせぶりだったけれど
結局本人のセンスは手作業の版下や写植時代と変わらず必要で
コンピュータやアプリケーションは、やっぱり1つの手法なのね、というのと同じ事で。

ただ、多分たどり着ける“その先”が近くはなっている。
立体図を書くのに数週間、色を付けるのに数ヶ月、
動かすのに数年かかっていたものが
そのテクノロジー性機能により、数時間でできるうようになり
ヒトが頭に思い描いていたものが、頭の外から出る時間が断然短縮された。

で、その結果、“個人の考えているコト”が、ビジュアルで氾濫し始める

それと同じで、TwitterやFacebookや、もちろん前からあるブログも含め
“個人の考えているコト”が、文字でだだ漏れになっている。

残念ながら、唯一変わっていないのは人間の情報許容量。

ただ黙ってるだけで、“知るコトができる”情報があとからあとからやってくる
全部受け取っていたらパンクしてしまうから、“あるモノ”をスルーするしかない

そんな風に考えると、自分が発信する内容も、コントロールしたいと思う。
大事なコトは大事なヒトだけに伝えればいい。
皆に伝えたいことは、きちんと言葉や色を練って世の中仕様に仕立てて出したい。

私のFacebookでは唯一1人アメリカの友人がいる。
その友達がいると、ただただ日本語で、湧いた気持ちをだだ漏れしただけの
メッセージを出したくないとそう思い、時々、自分のコメントに英訳をつける。

すると、何気なく書いた自分の日本語の言葉に真剣に向き合うことになる。
時にふとした弱音の一言だったりすると、何に不満に思ったかの理由を考える。
ふとした喜びの言葉だったりすると、なんで嬉しかったかの理由を考える
何気なく目に付いた画像をアップしようと思えば、
何が私の気持ちを動かしたのか考える。

そして気がつく、
ああ、自分が何を誰にどうして伝えたかったのかを。
そして感動する。
“ソーシャルメディア”と呼ばれるモノたちが運んでくれる、その先の距離の可能性を。

05:22 | masaki | Facebookと英語と素直な気持ち はコメントを受け付けていません
2011/04/18

マイケル・ジャクソン THIS IS IT
【THIS IS IT】2009年

あまりにポピューラーすぎて、
ファンじゃない私でも知っているマイケル・ジャクソン【Michael Jackson】

私の記憶は妹のジャネット・ジャクソン【Janet Jackson】がPVに出てた
95年の“Scream”まで。映像と曲のバランスだと、これが一番好きだった。

2009年に“THIS IS IT”が公開され、
多分これは“映画館で観ておいた方がイイ、と思いつつ
1回目の限定公開を逃す。

横浜での撮影の仕事終わりに最終週平日、最終回に間に合う!と知ったものの
観たら最終電車に間に合わない!という葛藤。

結局観ずに帰ったその数ヶ月後の年末年始に再公開。
品川の劇場で観た。

ドキュメンタリーなので割とだらだらとしてて、途中なかだるみした事も事実だけど、
それ以上にマイケルの音楽への熱意と、確固たる音への探求ぶりがすごい。
と言うより、彼のこんな一面はこの映画を見るまで知らなかった。

1曲1曲の出だしのタイミング、テンポ、振り付け、キー設定
まるでオーケストラの指揮者のようにリクエストを出していく。
マイケルもすごいが、同じ舞台に立つパフォーマー達は
ものすごい技術を要求された人達の集まりなんだと、改めて知る。

そしてその“THIS IS IT”で初めって知って好きになった歌が“Earth Song”
“Scream”と同年にリリースされたのに、今まで全く知らなかった。

タイトル通りの環境破壊について歌った曲。
そのサビのパート。

マイケルが人間の行いの数々を問いかけ、
コーラスの女性達がヒトを代弁するかのごとく
“What about us” 【それより私達の事は?】 と答える。

  『そしたら私達はどうなるの?』と言う解釈もあるけれど、
  個人的にはそれ以上の傲慢さがヒトにはあり、
  『それより』と言う意があるように思う。

それでも問いかけるマイケルに、更にヒトの無責任さが生まれ始める
“What about it” 【そんなの構ってられない!】

……
What about animals (What about it)
動物はと問われ、
What about the holy land (What about it)
大地はと問われ、
What about baby boy (What about it)
赤ちゃんはと問われ、それがどうした、と言ってしまうヒト。
What about Abraham (What was us)
そして変わり果てた末、私達は一体どんなだったの? と今を見失う。

最初のこ曲を聴いた時 “What about us” が
“What about earth” にも聞こえた。

たくさんいるヒトの中には、ちゃんと“地球”のことを考えているヒトもいるのに
それが自分しか考えないその他大勢にかき消されて聞こえない。
だから最後に “What was earth” 地球の元ある姿が
分からないぐらいになってしまったと嘆いている。
でもそういいう人タチがいるなら、まだなんとかなるのかも。

勝手な想像ですが、そういう風に想いをはせらせるような曲を作ったマイケルは
やっぱり音楽の天才だったのかなと。

映画では“Earth Song”のように社会的な曲ばかりではなく、
楽しい曲もたくさんある。

ファンではなくても、マイケル・ジャクソンの歌を1曲でも知っていて、
そしていくつか好きな曲があるのなら、
この映画で彼の音楽への情熱を知るのもいいと、そう思う。

+++

Hey, what about yesterday (What about us)
What about the seas (What about us)
The heavens are falling down (What about us)
I can’t even breathe (What about us)
What about apathy (What about us)
I need you (What about us)
What about nature’s worth (ooo, ooo)

It’s our planet’s womb (What about us)
What about animals (What about it)
We’ve turned kingdoms to dust (What about us)
What about elephants (What about us)
Have we lost their trust (What about us)
What about crying whales (What about us)
We’re ravaging the seas (What about us)
What about forest trails (ooo, ooo)

Burnt despite our pleas (What about us)
What about the holy land (What about it)
Torn apart by greed (What about us)
What about the common man (What about us)
Can’t we set him free (What about us)
What about children dying (What about us)
Can’t you hear them cry (What about us)
Where did we go wrong (ooo, ooo)

Someone tell me why (What about us)
What about baby boy (What about it)
What about the days (What about us)
What about all their joy (What about us)
What about the man (What about us)
What about the crying man (What about us)
What about Abraham (What was us)
What about death again (ooo, ooo)

Do we give a damn
Aaaaaaaaah oooooooooo

01:25 | masaki | ヒトと地球と/THIS IS IT はコメントを受け付けていません
2011/03/31

2011年3月11日、“東北地方太平洋沖地震”が起こり
16階にある会社のオフィスで30分とも1時間とも思える間揺れ続け、
エレベーターの止まったビルの階段を1往復半しつつ、8時間ほどの待機。

夜9時頃に東京メトロと都営線が復帰し、最寄駅から5駅ほどの駅までたどりつき、
更にそこから1時間歩いて帰ったその日に思い出したのは
ワールド・トレード・センター【World Trade Center】が跡形もなく消失してしまった
2001年9月11日の“N.Y.同時多発テロ”のこと。

その日、1機目の突入を日本の友人からの電話で知りテレビのニュースで見た後、
その意味の重大さも知らず、いつもどおりにバスで出勤した。
車内では誰もがその話をしていて、今思えば映画のワンシーンのようにザワザワしていた。

職場に到着すると2機目が突入していて、お昼前にはビルが崩壊した。
まるでプロのビル崩壊作業のように、WTCだけが真下に崩れたそう。
もし横倒しになっていたら、街中がパニックになるのがもう少し早かったと思う。

テロ事件で大変、と実感が出てきたのは午後に入ってから。
続々とニュースでテロの可能性が放送され始め、
オフィスに訪れるお客さんから、地下鉄がすごいことになっていると聞き
その内、窓の外が粉塵と思われる塵でもうもうとし始める。

WTCから34丁目のオフィスまでは5kmほどで、かろうじて煙が見えるぐらいの距離で、
同じ街にいたけれど、正直今でも別世界の出来事のように思えてならない。

+ + +
【災害】異常な自然現象や人為的原因によって、人間の社会生活や人命に受ける被害。
【天災】暴風・地震・雷電・洪水など、自然界の変化によって起こる災害
【人災】人間の怠慢・過失・不注意などが原因で起こる災害。
   天災の被害が、防災対策の不備や救援の遅延などで増幅された場合にもいう。
【二次災害】ある災害をきっかけに、それから派生して起こる別の災害
※参照: 広辞苑 第六版発行(2008年(平成20年))

災害【disaster】
天災【natural disaster】/人災【human-made disaster】/二次災害【secondary disaster】
※各辞書からしっくりきた訳を抜き出しました
+ + +

明らかに“地震”と“テロ”では、同じ災害であっても本質は全く異なるものであり
その性質に関してこれ以上論点を広げるのは困難なのでここで止めさせてもらおうと思う。

かつ、私の置かれた立場だけに断言すれば、どちらも私は被災地にいた被災者ではなく
第二次災害が起こった中の最も話題になった土地にいた、ということだと思ってる。
そして両方に共通し重要なのは、その土地が一国の経済を担う土地だったというコト。

“同時多発テロ”の後のNY市内はいろんな意味で騒がしかった。

WTCの次に狙われるのは、34丁目のエンパイア・ステート・ビルディングや
42丁目のグランド・セントラル・ステーションだと、毎日“爆破予告”のニュースが飛び交った。
私が知る限り、本当に爆破されたところはなかったと思うけれど。

テレビでは木の葉のようにWTCから落ちる人たちの映像が流れ、
街中に“アメリカはテロに負けない”と国旗があふれる。

14丁目より南は封鎖され、街の東と西を走るハイウェイが通行止めになり、戦車が走る。
教会には敷地の外のフェンスにまで行方不明者を探すメモが覆いつくしていた。

関係ない東南系の人たちがテロリストだと襲われる事件が多発し、
それを抑制する呼びかけが行われるような、胸が痛むニュースも飛び交った。

そのうちNYを訪れる人々の絶対数が少なくなるのに比例し、仕事が少なくなる。
まわりには失業の話ばかりが溢れ、誰もがテロの恐怖と同じくらい、
自分たちの生活がこの先どうなるんだろうという二重の不安に押しつぶされていった。

人の生活って、なんて不安定なモノなんだろう、
人の心って、なんてもろいモノなんだろう、と、そう強く実感した。

正直あんなコトに遭うことは一生に一度、あれきりと思っていた。

今、私のいる場所・東京は、震災地から約250kmほどとずいぶん離れているけれど
同じような状況にあると思う。

続く余震と、燃料不足、根本的な物資不足。
更に“東北地方太平洋沖地震”による二次災害として、
福島の原発が正常機能しなくなり、関東圏への電気の供給がストップした。

電力が足りない。原発からの放射線による大気汚染、水質汚染。
作業者の被ばくのニュース、今だ解決しない原発問題。
そのうち、この不安定な土地にやってくる人タチの減少によって、
少し上向きだった経済に再び不況が訪れ、雇用にも影響してくるかもしれない。

それでも私タチにできることはたくさんある。
震災者の方の今の悲しみやこれからの苦労を思えば、頑張れることがある。

震災地に行きボランティア活動したり、義援金を送ったり、物資を送ったり、と
直接働きかけることももちろんだけれど
今の日本の生活を普通に維持すること、生活の営みを止めないこともそのひとつ。

ここまでは、普通のハナシ。
ここからは、個人のイケン。

わたしの今までの普通、本当に普通?

不安から燃料や水、その他物資を買占めをするヒト、生ものを買い控えするヒト
国は過剰に反応しないように、普通に生活するように、と言うけれど
普通の生活ってなんだろう。

今電力不足で“節電”が求められているけれど、
それは今を乗り越えるだけの為にすればいいこと?

不安から必要以上に物資を買占めないように、というけれど
必要ないのは今だけ?

今まで経済は、日本も含め、世界も含め、すっと“右肩上がり”を基本としていて、
“消費が減る”という選択肢はなかったように思う。
正直私も、いらないモノを作らず“消費が減る”ことになっても、
“まわる”世の中のしくみが、一体どうあるべきかさっぱり分からない。

けれど、多分今、特に都心に必要とされる意識改革はそういうことなんじゃないかと思う。
供給を超えない消費のシェアマインド、無駄な消費を促さない供給。

これから徐々にニュースから災害の話題が消えていくだろうけれど
震災地では長い復興作業が始まったばかりにすぎない。

それを長く支えるのは、私たちひとりひとりの意識。
今、瞬間に節電したり、節制したりするだけじゃ補いきれない
気の遠くなるような積み重ねの時間が震災地の人々には待っている、と想像する。

シンプルに、それを忘れないように。

言葉にするのにずいぶんかかってしまったが
震災地の方々が、心くじけることなく、一日でも早い復興を遂げることを
日本中の皆々が、心なやむことなく、未来への道をつなげて行くことを
そう望む。

09:18 | masaki | 普通のコトを整理して改善し、普通を続けるコト はコメントを受け付けていません

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