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Twitterは少し前から始めていたものの、Facebookにはなかなか手が出せず
ようやく最近、重い腰を上げてアカウントを作った。
世の中“ソーシャルメディア”の時代です、と言われ、
仕事でも割とその手の話になるけれど、
正直“ソーシャルメディア”の意味がさっぱり身体に染みてこない
それでもなんとか出した私の結論は、
TwitterもFacebookも結局生活の1つのツールと思えばいいのかな、と。
デザイン業界にAppleのDTPアプリケーションが登場し、
まるであれさえあれば誰でもデザインができる、と思わせぶりだったけれど
結局本人のセンスは手作業の版下や写植時代と変わらず必要で
コンピュータやアプリケーションは、やっぱり1つの手法なのね、というのと同じ事で。
ただ、多分たどり着ける“その先”が近くはなっている。
立体図を書くのに数週間、色を付けるのに数ヶ月、
動かすのに数年かかっていたものが
そのテクノロジー性機能により、数時間でできるうようになり
ヒトが頭に思い描いていたものが、頭の外から出る時間が断然短縮された。
で、その結果、“個人の考えているコト”が、ビジュアルで氾濫し始める
それと同じで、TwitterやFacebookや、もちろん前からあるブログも含め
“個人の考えているコト”が、文字でだだ漏れになっている。
残念ながら、唯一変わっていないのは人間の情報許容量。
ただ黙ってるだけで、“知るコトができる”情報があとからあとからやってくる
全部受け取っていたらパンクしてしまうから、“あるモノ”をスルーするしかない
そんな風に考えると、自分が発信する内容も、コントロールしたいと思う。
大事なコトは大事なヒトだけに伝えればいい。
皆に伝えたいことは、きちんと言葉や色を練って世の中仕様に仕立てて出したい。
私のFacebookでは唯一1人アメリカの友人がいる。
その友達がいると、ただただ日本語で、湧いた気持ちをだだ漏れしただけの
メッセージを出したくないとそう思い、時々、自分のコメントに英訳をつける。
すると、何気なく書いた自分の日本語の言葉に真剣に向き合うことになる。
時にふとした弱音の一言だったりすると、何に不満に思ったかの理由を考える。
ふとした喜びの言葉だったりすると、なんで嬉しかったかの理由を考える
何気なく目に付いた画像をアップしようと思えば、
何が私の気持ちを動かしたのか考える。
そして気がつく、
ああ、自分が何を誰にどうして伝えたかったのかを。
そして感動する。
“ソーシャルメディア”と呼ばれるモノたちが運んでくれる、その先の距離の可能性を。