開け放してあるカーテンの向こうはすっかり黄昏色になっている。帰ってきた息子は呆れ顔で洗面所に向かい、慣れた手つきでリビングの電気をつけた。ご飯の支度をしなければ。
読みさしの「猿の手」を伏せて立ち上がると、カーテンの紐をすっと引いた。
昔から、集中すると周りが見えなくなる性格だった。
勉強にしろ、おしゃべりにしろ、一度スイッチが入ると自分で切ることが出来なくなる。手が腱鞘炎になるまで英単語を書きまくり、相手が言いにくそうに帰りを促してきて初めて自分がどれだけ時間を費やしていたかに気付く、そんなことは日常茶飯事だった。
ふつう、集中力があるのはいいことだと褒められるはずなのだけれど、わたしの場合は行き過ぎということになるらしい。凄いですね、と嫌み混じりに感嘆されることにも、それに頭を下げることにも慣れてしまった。
一人の時はそれでよかった。
どれだけ時間を使っても、翌日に響きさえしなければいいのだから。
でも、今は違う。息子がいるからだ。
わたしは母として、息子の食事をあつらえ、清潔な服を着せ学校に送りだし、風呂に入れて適切な時間に眠らせるという責任がある。仕事の日もそうでない日も、息子は同じリズムで起きて食事をし、学校へ行き、部活をして帰ってくる。そのリズムを侵害してはいけないのだと、わたしはなんとなく思っていた。子供には子供のリズムがある。
だから、集中はいやおうなく切られる。息子の声で。
わたしのスイッチを入れ替えるのは、常にまだ声変りをしていない声だ。
おかあさん、おかあさん。おかあさーん。
呼びかけの声音でなんとなく心情を図ることも上手になり、促されるようにわたしはわたしのジョブをこなす。湯を沸かし味噌汁を作り魚を焼きサラダを作り。その一連の動作の最後には、息子と並んで食卓を囲む時間がついてくる。
――何の本読んでたの、さっき?
息子が聞く。ジェイコブズ、とわたしは答える。
ストーリーをかいつまんで話すと、またかと息子は呆れたような顔をする。上手い話には裏がある、という非常にありふれた骨組の話だけれど、ひきつけられて何度も読んでしまう。
猿の手が本当にあったらいいのに。今ここにあったらいいのに。
願うことは決めてある。返してほしい。からだを。あの跳ねるように走る足を、まだ声変りのしていない声を、暖かな体温を、あの子を、
――おかあさん。
目の前の息子は、手を付けていない食事の前で少しだけ寂しそうに見える。
わたしは自分で作った焼き魚を食べ、味噌汁を飲み、ご飯を食べる。
わたしは、彼に生かされている。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
チャンネルを回したら、“あの日”を扱った特番が繰り返し繰り返しあの時のことを伝えていた。
写真で、動画で、証言者の声で。
居たたまれなくてテレビを消して、窓の外を見た。遠くに見える公園の桜は、まだ咲かない。
あれから、もうすぐ4年になる。
わたしはあの町を追われ、別な街に住んでいる。生まれ育った町は小さくて、それこそ近所の誰もが顔見知りで、こちらが大人になっても名前にちゃん付けで呼ばれる、そんなところだった。
スーパーは二つ、ガソリンスタンドがひとつ。ビデオのレンタルショップにわざわざ車を出して出かけるのがデートとして成立するようなところで、何もないのがいいところ、っていうのが同窓会では定番のネタだった。
その町に今、立ち入ることはできない。
地図のうえでは確かに存在しているのに、入ることは出来ない。――まだ、出来ない。
時々、思い出す。
あの四つ角にあったお店は何屋さんだったっけ。豆腐屋、それとも洋品店?
4年もたてば、記憶はどんどんあいまいになっていく。あの日避難した公民館の床の冷たさ、おにぎりに海苔がべったりくっついていたことは鮮明に覚えているのに、学校への通学路でよく吠えていた犬の名前やよく出た変質者のおじさんの顔や雑貨屋の名前をもう思い出せなくなっている。
忘れるな、とテレビは言う。あの震災を風化させてはなりません。悲劇を繰り返してはなりません。
南三陸の目覚ましい復興を報道し、立ち直っていく人々の暮らしを伝え、物産展での賑わいを写しだし、人々に訴え続けている。忘れてはなりません。記憶していなければなりません。
わたしの町は、そのような番組には出てこない。小さい町だから。そして、いまだに原発の影響を色濃く受けている地域だから。かすかな被害者意識を持って、既に別な街に住民票も写し仕事も得たわたしは、そのような報道をあまり見ないことにしている。メディアのせいだけではない。忘れることに決めたからだ。
あの時の恐怖も、そのあと晒された視線のことも、忘れてしまいたかったから。
落ち着いたこの街で、わたしは自分の出身地を話したことはない。
ここはわたしの町ではないけれど、最初からずっとここにいました、って顔で過ごしている。自分から振らなければ“あの日”の話は出てこない。だから少しずつ忘れていく。
なかったことにはできないけれど、おぼえているには、抱えていくには、自分にとっては大きすぎることだったから。
あの町にはいたるところに桜があった。近所に桜で有名な町があって、そこに比べたらささやかに過ぎるので観光地にもならない、小さな並木がたくさんあった。その桜を、わたしはかすかに楽しみにしていた。どの木が一番最初に咲くのかも知っていたし、どこの土手から見るのがいいかも知っていた。
わたしだけじゃなくて、あの町ではみんなが花見の時期はどこどなくうきうきしていた。
あのさくらは、もう蕾になっただろうか。
この街の桜は、まだ咲かない。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
*桜の花言葉は「純潔、優美」
いつも通りの時間に目が覚めて、ああ、もうこの時間に起きなくてもいいんだと思った。
35年勤めた会社を昨日退職してきたというのに、体のほうは律儀に習慣を守り続けている。
二度寝しようかと思ったが、薄く開けられたドアの向こうからコーヒーのいい匂いがしてもそもそとベッドから出た。キッチンでは妻が今までと全く同じに朝食の用意をしてくれていた。
出勤していく妻を見送り、さてどうしようかと途方に暮れた。
気儘といえば気儘な二人暮らしだ。とりあえず掃除でもしようかと思ったが、道具がどこにあるのか分からない。完璧主義の妻は勝手に棚を荒らされるのを嫌がるので、今晩聞いてからにしようと思った。
何事も最初が肝心だ。何しろ今までほとんど家事らしきことをしたことがない。妻には妻のルールがあるのだろうと希望的慎重論で諦めた末、さしあたって暇をつぶすために散歩に出ることにした。
よく考えたら、通勤路ではない道を歩くのも久しぶりだ。子供が小さかった頃はなんだかんだと歩いていたが、それぞれ社会人となった今ではそろって歩く機会もない。
しばらく顔も見ていないが、あいつらは元気なのだろうか。
落ち着いたら妻と顔を見に行くついでに旅行するのも悪くないなと思いながら、細い路肩からはみ出さないように注意して歩いた。
娘たちが通っていたピアノ教室が確かこの辺りだったはずだ。うろ覚えだったが、しばらく歩くと細いピアノの音が風に乗って聞こえてきた。
二人とも10年以上習ったはずだが、せがまれて買った電子ピアノは既に物置と化していて、家ではぽろんとも鳴らない。近所迷惑だからと夜は弾くことを禁じていたことを思い出していると、小さな看板を出した教室の前に行きあたった。
まだ早い時間だからなのか、演奏しているのは先生のようだった。繊細で、滑らかな……曲名が思い出せないが、私が知っているのだから有名な曲なのだろう。
しばらく耳を傾けていると演奏が終わり、急に首元がすうすうした。どうやら無意識に集中して聞いていたようだ。先生は確か妻よりも少し年上だったはずだから、私と同じくらいか、あるいはもう70歳近いのかもしれない。
いまだに現役で教えているのか、と感嘆して立ち去ろうとすると、唐突に聞き覚えのあるフレーズが流れてきた。明るく、短く、元気よく。
「……伯方の、塩?」
あっけにとられていると、それきり音は止んだ。
立ちすくむ私の脇を、犬の散歩をしていた女性が不審者を見る目で通り過ぎたので、慌てて家のほうに向かって踵を返した。
想像するとなんだか妙におかしかった。家の中で伯方の塩のメロディを弾く自分と同じくらいの歳の女性。
きっと明るい人なのだろう。いや、もしかしたらやけくそか?
なんでもいいけれど、そういう習慣があることがちょっとうらやましかった。
今はまだ何もなくなってしまったけれど、私も何か習ってみようか。できれば意外性のあるやつがいい。子供たちがびっくりするような、ちょっと笑ってしまうような。
帰ったら妻に相談してみようと思いつつ、私は退職後の一日を歩いていく。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
こんな記憶がある。
記憶の中で、わたしは繕いものをしている母の隣でラジオを聞いている。戦争、という言葉が時々聞こえる。母はその単語を聞くたび、ほんのわずか身を固くする。
戦争ってなに、と聞くと、とてもとても嫌なことだよ、と母は言った。
「兵隊さんにとられて、運が良ければ帰ってこれる、そういう時代のことだよ」
母の眼は、戦死した父の肖像画を無意識のうちに追っている。
モノクロの写真の父は、今のわたしより、ずっとずっと若い。
もはや戦後ではない、という言葉を何度か聞いた。
その頃日本は好景気に沸いていて、わたしは家の近くの工場で働いていた。働きたい、と言えばどこでだって働くことができた。今では考えられないほど仕事はいくらでもあり、その代り一生懸命働かなければ代わりのものはいくらでもいたから、わたしは毎日小さな部品の検品を節だらけの指で続けてきた。
工場で作っていたのは車の部品だった。
贅沢品だった車はあっという間に大衆の持ち物になっていた。あらゆるものがそうなっていた。
初めて“自分の”車を持ったわたしを母は眩しそうに眺めたが、やはり分不相応な贅沢をしているようで妙な気兼ねをするらしく、好んでは乗りたがることはなかった。
足を悪くしてからも、医者なしでは生きていけなくなってからも、ずっと。
けれどわたしは便利な車がありがたかった。黙っていても一応のニュースが得られるテレビも、接続すれば何でも情報を与えられるパソコンも、わたしは喜んで使った。
便利で何が悪い。知りたいと思って何が悪い。
学校へ行くことなど望んだことはなかったのに、今は学がないのが切なかった。多少無理をして大学に入れた息子からは今更そんなに頑張ってどうするんだと言わんばかりの目を向けられ、そうして大して勉強する風もなく、ひょうひょうと遊んでいるのが憎らしくさえあった。
わたしは知りたかった。どうして戦争は起こるのか、どうして運の良し悪しで生死が決まってしまうのか、どうして父は死んだのか。父のいた部隊もインターネットで検索したらすぐ出てきた。関連本というのを調べて図書館で読んだ。
「せめてもの救いは、たぶん殺すこともできなかったということだろうよ」
母はそう言って、深い深いため息をついた。父は終戦の二日前に死んでいた。
「おおきな大義名分があると、考えることもできなくなる」
やさしい人だったから、と母は話を聞くことを途中で辞めた孫の背を眼で追った。
戦わなくてすむ子供のことを愛おしむような顔をしていた。
父は兵隊さんになりたくてなったのではない。出撃はしたくてしたのではない。命令されて行ったのだ。
正義のために。少なくとも、正義だと信じ込ませられたもののために。
わたしは知りたい。どうして戦争は起こるのか。
インターネットを開いても、難しい本を読んでも有識者だという人の話を聞いても、根本的な答えはまだ得られない。
得たい、と思う。知識が欲しい。
わたしが、そして自分の子や孫や運のために人生を左右されることのないように。
――知識が、欲しい。
乾いたひとのように、そう思う。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
大きな仕事が終わると、なにかたまらなく寂しくなる。
その仕事に関わっている最中は顔も見たくないと思っていた人たちに会いたくなり、時間が惜しくて片手で食べていたサンドイッチではなくもっと手間暇をかけた食事を摂りたくなり、腹が立って仕方がなかったメールすら懐かしさを覚える。
とはいえ仕事は終わってしまったので、次の問題に取り掛からなければならないのだけれど、気の抜けたビールみたいになってしまった頭はそう簡単には切り替わらない。
そういうとき、私は猫の顔を見に行くことにしている。
「また来てたの?」
薄暗い室内で猫に遊んでもらっていると、彼女は帰ってくるなり露骨に面倒くさそうな顔をした。
学生時代からだから、彼女とももう古い付き合いになる。
いっときルームシェアをしていたこの部屋で、私が出て行くのと入れ違いに彼女は猫を飼い始めた。今の子で二代目だ。
まったく居るならいるで電気くらいつけなさいと小言を言いながら彼女はパンプスを片付け、冷蔵庫の中を整理して、溜まった郵便物を仕分ける。私は一応の謝りを口にし、それでも猫から視線は外せない。
猫は今、わたしの膝の上で丸くなって寝ている。
ふさふさとした毛並を通してほのかに温みが伝わってくる。
猫には名前がない。ねこ、とだけ彼女は呼んでいる。
一度に一匹しか飼わないから、名前はいらないのだそうだ。
それに倣って「ねこ」と呼びかけると、賢いこの猫はきちんとこちらのほうを向く。機嫌がよければ構ってくれるし、悪ければそのまま離れて一人遊びを始めてしまう。
その気儘さがなんだか気持ちよくて、彼女より猫に会いに私はこの部屋によりついてしまう。
勝手知ったる他人の家は、男の部屋で気持ちの探り合いをするよりはるかに私のことを寛がせる。
「あんたはわたしじゃなくて猫に会いに来てんのよね」
ひと段落ついたのか、コーヒーをカップに注ぎ分けながら友人は呆れたように言う。
動けなくなっていることを察したのか、手が届くところにカップを置いてくれた。家主の気配に一瞬身を固くしたが、猫はそのまま眠り続けた。
「自分で飼えばいいのに」
「そうだけど、世話が出来ない」
自分一人の世話でも手に余るのに、と愚痴をこぼせば、そうでしょうね、と涼しい返事。
毎日きちんと仕事にゆき、日課のように同じスケジュールをこなせる彼女と違い、私の本質は基本的にずぼらなのだと思う。仕事の忙しさにも波があるし、家に帰れないことも多い。片付かない部屋では猫はこんなにも寛げまいし、だいいち、そんなところで暮らすのは気の毒だ。
言い訳だと分かっていながら、私はこの部屋にたまに遊びに来る方が楽なことを実感してしまっている。
「この子が起きたら、帰る」
私の言葉に彼女はうなづく。いつものことだ。帰れば、私は私の部屋で眠り、また仕事をする。
けれどこの子が起きるまでは、この部屋のありがたさに包まれて癒されているつもりだ。いまでもこんなことはできないとわかっているから。
猫はそんな勝手な思いを知っているのかいないのか、ほかほかと暖かく眠っている。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
……行きたく、ない。
携帯電話のアラームを止めて、ベッドの中で寝返りを打つ。
早めにセットしてあるのは年明け早々遅刻することはできないからで、つまり仕事がある、行かなくてはならないということくらい重々自覚している。何しろ年末に無理やり納めた……というか本当は全然納まっていない仕事のことが次々と脳裏をよぎり、昨日はなかなか寝付けなかったくらいだ。
とはいえいつまでもうだうだしていてもどうしようもない。
おれはサラリーマンなのだし、その給料で生活しているのだし。
えい、と覚悟を決めて起き上がると、やけに重たい足を引きずって洗面所へ向かった。
昔から、休み明けが嫌いだった。
しっかり者の子や計画性のある級友たちは早々に課題を仕上げて海だプールだ祭りだと楽しんでいるのに、特に何もしないまま漫然と惰眠だけをむさぼっているこちらは最後の数日で半泣きで徹夜するのが当たり前。
その癖は社会人になってもなかなか改まらず、納期の直前にならないと手が動かない。
もちろんサボっているわけではないが、毎日何かしらの締め切りに追われている間に年末が来て、今度は年賀状だ大掃除だと騒いでいる間になんの感慨もなく新年を迎えてしまった。
満員の電車の中にはおれと同じようなくたびれた感じのサラリーマンや身ぎれいにしているOLなんかで溢れていて、見慣れた改札を抜けても別段改まった感じもしない。
年始ってそんなもんかなぁ、と思いながらエレベーターに乗り込むと、急に目の前が華やかになって一気に箱の中が狭くなった。
「あ、ごめんなさい。ぶつかっちゃいました?」
いいえ、と答えながら思わず顔を見る。
去年入った受付の子だ。着物に慣れていないのか、重たそうな袖を揺らせている。隣にいるのは見ない顔だが、彼女は営業部署の子なんだろう。
年明けの初日、外部の人間と接する新入社員の女の子たちは振袖を着て出勤するようにという申し送りがあったのを、今の今まで忘れていた。こちらは男だから忘れてたっていいのだけれど。
「きれいだね」
「ありがとうございます。振袖なんてって思ったけど」
こんなことでもないと着る機会ないですし、と営業の子が笑う。早くから美容室に行ってきたんですよ、と教えてくれた受付の子は帯が重たいのかさっきからしきりに後ろを気にしていて、なんだかほほえましく思えた。
新しい年。
なんだか急にそれが来たみたいな気がして、鼻歌を歌いながらエレベーターを降りた。
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冬は好きだ。特にこの時期、イルミネーションが街に溢れるこの季節は。
足が悪くなってからはあまり外を歩くのは好きではなくなったし、病院通いは面倒だけれど、バスから見える景色が劇的に変化する。夕方、まだ夕日が薄く残っていて、夜の空がだんだんに深くなっていって、そのあわいからきらきらした光が溢れるように灯される。いつもはくすぶっているような商店街でもイルミネーションをするようになったのはここ数年の話だと思うけれど、華やいだ気分をくれるこの催しはやっぱりいいものだと思う。
かつて、あの下を歩いたことがあるわたしならなおさら。
あのとき、どうして二人で歩いていたんだろう。
寒くて、互いに外套を掻き合わせながら取り留めのないことを話していたような気がする。
彼女は職場の同僚で、年が明けたら寿退社をすることが決まっていた。ご主人の地元に行くのだという。二人して空を見上げながら、こんなに贅沢な景色はもう田舎では見られないと笑っていた。
わたしは彼女が好きだった。気が強く、経理の仕事をさばきながら男勝りに仕事をしている姿はどこか子供のようなみずみずしい健康に溢れていたし、きれいに切りそろえられた項も美しかった。寒ければ真っ赤に染まる頬も、指サックを取った時のはっとするほど小さな指も、女の子らしいもののように思っていた。少しどんくさいところのあるわたしを叱咤する声は明るかった。
告白をしよう、と決めた翌日、社長から彼女の結婚を知らされた。社長の声がかりの縁談では横槍を入れる気も起きず、大体彼女も幸せそうで、わたしは買っておいた指輪をそっと質に流した。
彼女は無論そんなことは知らない。ただ、きれいですよねえ、と目を細めて光の帯を眺めていた。
わたしはそのあとも会社に残り、結局結婚はせずにいままで来てしまった。
たぶんこれからもしないだろう。還暦をとうに過ぎた男のもとに嫁にくるような女はいないだろうし、独り身に慣れてしまった自分では誰かと一緒に暮らすことも気ぶっせいだ。甥は施設に入れと盛んに進めてくるが、気乗りもしないし今のところ不自由らしき不自由もない。
それに、その施設がいかにいいところでも、この商店街のイルミネーションはたぶん見れない。
きれいですねえ、といった彼女が見たあのときの光より、今はずいぶん色々な工夫が増えた。
一連でつるされていたライトは小型化され、間なくみっちりとつまり、帯の幅は伸びて高さも増した。圧倒的なほどの鮮やかさの洪水は彼女のご主人の在所にもあるのだろうか。
窓の外に輝くあざやかな光は、今年もあの商店街を華やかに照らしている。
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宝くじを買ったのはほんのついでだった。会社の近くによく当たるチャンスセンターがあって、同僚数人と面白半分で並んだのだ。どうせ当たらないと言いながら、連番で10枚買った。どうせ飲み会1回分だ。300円分当たったんだと酒の席の話のネタになればいい。その程度の気持ちで手に入れた紙だったから、無造作に財布に突っ込んだまましばらくすぎてしまっていた。
だからそのなかの一枚が前後賞と言われる大きな額に化けたときも、リアリティのない薄っぺらな芝居の中に入りこんでしまったような気がして、全然現実味が沸かなかった。
日本橋の大きな銀行で換金の手続きをした一週間後、わたしは会社に辞表を出した。
ちょうど潮時でもあった。唯一わたしより年上だった女子社員は去年退社していたし、入れ替わりの激しい不動産会社の中でも古株になりつつあった。若手の女の子からはお局的な扱いを受けていたし、男性社員の中にはお茶くみをわたしにさせることを躊躇するような子もいた。総合職ならまだしも、単なる事務員ではどうせこの先が保障されるわけでもない。職なしの独身であることを案じた上司は一応引き留めの言葉を掛けてくれたけれども、一度断ったら無理強いはせず、かえってほっとしたような顔を見せていた。
引継ぎやなにかを済ませて身軽になってしまうと、東京にいる必然性もなくなった。というか、働くことの必然すら消えてしまった。わたしが今まで働いて稼いできた額をすべて合わせても当選額には満たなかったし、このお金があれば贅沢しなければ一生暮らしていくこともできるように思った。付き合いのある同業の会社を慎重に外して、郊外のマンションを店子付きでいくつか買った。あとのお金はどう使えばいいだろう、そんな今まで考えたこともないことをいくつもいくつも思い浮かべながら、とりあえずのつもりで旅に出た。
旅は刺激的で、でも退屈だった。
知らない場所に行くのは楽しい。でも、知らない場所は所詮他人の場所だった。未知の情報を得るのは楽しい。でも、それはいずれ既知になる。高級なレストランの食事も一人ではなんとなく気ふさぎだし、リゾートホテルは要するに田舎にあって、ひと月も飛び歩いていたらすっかりその状態に慣れてしまった。なるほど人は何にでも慣れるものなのだと思った。お金はちっとも減らず、というか減ってはいるのだけれど現実感がちっともなくて、どうしようかと思いながら彷徨うように街から街へ移っていって、飛行機に乗り海を渡り陸路を線路で走り、気が付いたらわたしはお金がある状態にすっかり慣れて、そして疲れてもいることに気がついた。
――帰ろうかな。
でも、とりあえず残したままの東京のアパートに帰りたいわけじゃない。実家は両親が死んだときに更地にして売ってしまった。親しい付き合いをしている親戚も少ない。帰る場所は、わたしは、どこに帰りたいのだろう。
帰る場所が欲しい。帰ってきたと落ち着いて思える家が欲しい。
宝くじの使い道は、どうやらここに費やすことになるのだろうと思いながら手持ちの地図を開いた。世界地図。目を閉じて一番最初に目に入った街に、とりあえず行ってみようと思った。
はじめて夢を買ったような気がした。
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久しぶりに降り立った駅は、記憶の中よりも寂しく感じた。
と言っても、子供のころにほんの五年だけ住んでいた街だ。記憶の中で美化されていたのかもしれない。
まだ自分の足で行ける範囲だけが世界だったころ、駅前といえばなんだかひどく都会に感じたものだったけれども。
記憶にない店ばかりのアーケードを通り抜けると、目的のホテルはすぐそばだった。
荷物を預けてもまだ開始時間までは余裕がある。
ふと思い立ったのは学校に行ってみようかということだった。
僕はその思いつきに従い、うっすらと覚えのある道を慎重にたどりながら、かつての学び舎を目指して歩き始めた。
連絡は学級委員長だった男からもらった。
最近SNSで再開を果たした彼はかつてのあだ名で僕にメッセージを寄越し、クラス会をするからと連絡をくれたのだった。
僕にとっては初めてのクラス会だ。
転勤族の父親を持ったせいでひとつの土地に長くいたことがないが、ここだけは中学生時代をまるまる過ごせた。
当時は携帯も持っていなかったし、実家と呼べるものもない我が家だったから、こうして連絡が取れるようになったのは殆ど僥倖というものだろう。聴けば今は当時のクラスメイトの大半がSNSで繋がっていて、それぞれの近況も分かるようになっているのだという。
そんなことを委員長はメッセージのやり取りで教えてくれ、僕もさっそく参加の意思を伝えたのだった。
大通りを過ぎると、とたんにベッドタウンが広がる。流石にあまり変わり映えのしない風景のなかの、見慣れた道を選んで歩いた。
あの頃自分たちが住んでいた団地の前は綺麗に整地されてずいぶん高さのあるマンションになっており、なんとなくすうすうするような気持ちで脇を通った。こうして元住んでいた場所に戻るのはこれも初めてで、残っているとは思わなかったけれどあっさりと消えてしまったのもなんだか浮気相手に結婚されてしまったような気分だ。
変な気持ちのまま記憶の中より微妙に整備された通学路を進む。
はがれかけたスクールゾーンの文字をたどると、思いのほか早くに楓並木を発見した。見事に紅葉したその並木は卒業生たちが一本ずつ植樹したもので、この中のどこかに自分が植えたものもあるはずだった。まだ苗木のうちに植えたからそう大きくはなっていないはず……などと思いながら目を走らせると、グラウンドの隅のほうに比較的細い木の群れが見えた。
校庭は施錠されていて入れないが、ぐるりと回ってみると平成…卒という文字の向こうに見覚えのある校舎と、見知らぬ校舎が立っていた。
記憶の中の校舎はひとつだったはずだ。四階建ての、最上階が図書室だの化学室だの家庭科室だのが入っている、歩くと床が少しきしむような板張りの廊下。老朽化が進んで新しく立て直したのか、それとも古いほうも現役なのか、そんなことを思いながらこれは変わらない時計台の針が動くのを漫然と眺めた。
真っ赤な楓が、ざわざわと揺れる。あと15分したら、会場に向かおうと思った。
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旅行かばんに荷物を詰め終えてから、腰を下ろしてミルクを沸かした。生暖かく、乳臭い匂いを嗅いでいると不意にコーヒーの香りが恋しくなる。カフェインは少しなら摂ってもいいと言われたけれど、一杯飲んだら歯止めが利かなくなるような気がしてこの二月ほど一切飲んでいない。休みを取る前は十杯ではきかないくらい飲んでいたのに。
自分が子供を産むなんて考えたこともなかった。
まさか、まさかと思い、堕ろそうかと考えている間にもすくすくと腹は膨れていた。妊娠すればいまの仕事は続けられないとわかっていたのに、もう二度と子を持つチャンスがないと思えばその機会を逃すことも怖かった。迷っている間に会社のトイレで吐いてしまい、その現場を後輩に見られて、部長からやんわりと予定日を聞かれた。
「頑張ってたのに、出来ちゃったんだね、あの人」
いつか自分が言った言葉を、後輩たちが話しているような、気がした。
仕事が一番大事だった。
ずっと憧れていた出版の仕事。思っていたよりもハードだったし、理不尽な残業もあったけれど、でも忙しいことはこの仕事では勲章だった。暇だと干されていると笑われたから。体力に任せてがむしゃらに仕事をして、徹夜もしている間に使い走りではない記名記事も少しずつ任され、あたらしい雑誌の立ち上げメンバーに入れて貰えたときは一人でシャンパンを抜いて祝った。女性向け経済誌は自分たちと同じ働く女のための雑誌だった。誰にも養われず、男よりも自由に、したたかに生きる女たちへ向けて発信する情報を集め、裏をとり、撮影をして原稿を書いているとたまらなく誇らしかった。
でも、そこには妊婦の居場所はなかった。妊婦だけではない。子を持つ母もいない。当たり前だ、彼女たちは私たちと違うのだから。同じようには働けないのだから。
だから、異動の内示を聞いたときはかすかにほっとした。ほっとした自分が、恥かしくて悔しかった。
迎えの車がついたらしい。インターホンで呼び出されると、カップを洗い、戸締りをして旅行かばんを持って出た。風が冷たい。ひえた手すりをつかみ、慎重に階段を降りてタクシーに乗った。
次にここに帰ってくるときには一人ではない。
次にここに戻ってくるときは、もう今までの私ではない。
仕事は一年の休みを許されている。次に働くのは新人のころに配属されていた機関紙の編集部だ。
どこまで出来るだろう、私は――何が一番大事になるんだろう。
そう思いながら、今にもはちきれそうになっている腹をなで、ハイヒールのまま走ったこともある駅までの道を眺めていた。
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