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2015/03/30

m290
おかあさん、と呼ばれて我に返った。

開け放してあるカーテンの向こうはすっかり黄昏色になっている。帰ってきた息子は呆れ顔で洗面所に向かい、慣れた手つきでリビングの電気をつけた。ご飯の支度をしなければ。
読みさしの「猿の手」を伏せて立ち上がると、カーテンの紐をすっと引いた。

 

昔から、集中すると周りが見えなくなる性格だった。

勉強にしろ、おしゃべりにしろ、一度スイッチが入ると自分で切ることが出来なくなる。手が腱鞘炎になるまで英単語を書きまくり、相手が言いにくそうに帰りを促してきて初めて自分がどれだけ時間を費やしていたかに気付く、そんなことは日常茶飯事だった。
ふつう、集中力があるのはいいことだと褒められるはずなのだけれど、わたしの場合は行き過ぎということになるらしい。凄いですね、と嫌み混じりに感嘆されることにも、それに頭を下げることにも慣れてしまった。

一人の時はそれでよかった。
どれだけ時間を使っても、翌日に響きさえしなければいいのだから。
でも、今は違う。息子がいるからだ。

わたしは母として、息子の食事をあつらえ、清潔な服を着せ学校に送りだし、風呂に入れて適切な時間に眠らせるという責任がある。仕事の日もそうでない日も、息子は同じリズムで起きて食事をし、学校へ行き、部活をして帰ってくる。そのリズムを侵害してはいけないのだと、わたしはなんとなく思っていた。子供には子供のリズムがある。

だから、集中はいやおうなく切られる。息子の声で。
わたしのスイッチを入れ替えるのは、常にまだ声変りをしていない声だ。
おかあさん、おかあさん。おかあさーん。
呼びかけの声音でなんとなく心情を図ることも上手になり、促されるようにわたしはわたしのジョブをこなす。湯を沸かし味噌汁を作り魚を焼きサラダを作り。その一連の動作の最後には、息子と並んで食卓を囲む時間がついてくる。

――何の本読んでたの、さっき?

息子が聞く。ジェイコブズ、とわたしは答える。
ストーリーをかいつまんで話すと、またかと息子は呆れたような顔をする。上手い話には裏がある、という非常にありふれた骨組の話だけれど、ひきつけられて何度も読んでしまう。
猿の手が本当にあったらいいのに。今ここにあったらいいのに。
願うことは決めてある。返してほしい。からだを。あの跳ねるように走る足を、まだ声変りのしていない声を、暖かな体温を、あの子を、

――おかあさん。

目の前の息子は、手を付けていない食事の前で少しだけ寂しそうに見える。
わたしは自分で作った焼き魚を食べ、味噌汁を飲み、ご飯を食べる。

わたしは、彼に生かされている。

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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2015/03/30 11:00 | momou | No Comments