きゅうりとナスで馬と牛をつくり、お盆に乗せてベランダに出た。ガラス戸を開けるだけでむあっと熱気に顔を焙られる。これでは立ち寄るにしてもしんどいだろうと、お盆の周りに打ち水をした。
きゅうりの馬とナスの牛。この風習を教えてくれたのは母方の祖父だった。両親は僕が夏休みに入ると同時に田舎で過ごすよう段取りしていたが、それは僕にとっても願ったりで、小学校も高学年になれば自分で荷造りしてその日を楽しみにするくらいだった。じいちゃんちでは塾はないしカブトムシは取り放題。茹でトウモロコシやスイカなど毎日のようにおやつは出たし、テレビは自分の見たいものを優先して見せてくれた。見ることが出来ないのは、お盆の期間だけだった。
祖父にとって、お盆は神聖な期間だったのかもしれない。ことさらに衣服を改めることはしなかったが、なまぐさものを避けて毎日新しい蝋燭を灯した。位牌に供えられた膳には三食すべてに豆腐がついた。「どうして」と聞いたら、祖父はふっと遠い目をした。
「兄さんが好きだったからな」
位牌に並べられた写真の中で、いっとう若い男の人。それが戦死した祖父の兄だと、僕はいつ知ったのだろう。そして、その兄の妻だった女性が祖母だと知ったのは。
「よくある話だったんだよ、あのときは」
祖母はそう言い、あんたはよく似てるねと髪をなでてくれた。そういう祖母を、祖父はだまって見つめていた。
学生のうちはよかったが、卒業後は祖父の家から遠のいた。就職してからは盆休みもなく、家に帰るのでさえ正月にあるかないかだ。そのうち家取りである叔父が祖父母をひきとり、自分の自宅近くの施設に入れたと母から聞いた。そのうち会いにいかなくてはと思ううち、まず祖母が死に、後を追うようにして祖父も死んだ。立て続けの葬式で見た祖父母の写真は長い年月を経たものだけがもつ確かさがあって、あの子供のころの夏の日をくっきりと思いださせた。
祖父母の家は、母と叔父との話し合いの結果、取り壊すことになったらしい。どちらもそれぞれこの家からは遠い場所に住んでいるし、維持するのも難しいということなのだそうだ。僕だけのわがままで残しておけるものではないという分別はあった。もちろん、寂しくはあったけれど。
掃除を手伝いにいって、一泊だけ一人寝させてもらった。小さいころから散々眠った畳の部屋は、しっとりと夏の気配を滲ませてひやっこかった。
そのときの報酬に、僕は写真を一枚貰って来た。モノクロの写真だ。大真面目な顔で映っている紋付の若い男、その隣で微笑んでいる白無垢姿の女性、そして二人の後ろに立って笑っている男。これが祖父の兄と、祖母と、祖父の在りし日の姿だった。
打ち水を済ませると、少しだけ夏の暑さが和らいだ。
もちろん本宅は位牌のある叔父の家なのだろうけれど、なんとなく僕はこちらにも祖父母はよってくれるような気がしている。そのために馬や牛は三頭ずつ用意してあるのだ。もちろん陰膳にはきちんと豆腐と、祖父のすきなトウモロコシと祖母のためにスイカを一切れつけてある。
帰り道でもいいから寄ってくれることを期待しつつ、僕ははじめてお盆を迎える。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
セールで服と靴を買って、気になっていた映画と美術展をはしごして、洗濯物を洗って部屋の掃除をしたら、やることがなくなってしまった。あと三日ほど、予定はなにも入っていない。どうしようかな、と持て余した気持ちでわたしは昼間っからビールを飲みながら、ネットニュースを斜め読みしている。
夏季休暇の時期になると、部署内はなんとなくそわそわした雰囲気になる。わたしの勤める会社では最大一週間の連続取得が許される。会社員には貴重な旅行の機会でもあるし、狙っている期間がある人には切実な問題なのだろう。昨年の取得時期を参考にしながら計画を立てたり、ランチのときには同期のだれそれがいつ狙いか、なんて話も出たりするようだ。
わたしは、いつも夏季休暇をさっさと取ることにしていた。お盆の時期は遠方に地元がある子にあげたいし、家族がいる人は子どもたちの夏休みの期間にあたるよう優先する暗黙の了解がある。7月の間ならまだ腹の探り合いをしている人が多く、したがってまだ多くの社員が残っている。休むことで迷惑をかけるのは申し訳ないし、そのフォローをするのも面倒だった。
けれど、最大の理由はお盆の時期に――あるいは、それに近い時期に、実家に帰りたくないからだった。
わたしの実家は千葉で、帰ろうと思えばドアツードアでも三時間で帰れる。しかし、その家には両親だけではなく妹夫婦も住んでいて、更にその子どもたちも一緒なのだ。姪っ子はかわいいが、結婚は幸せなことで結婚できないおねえちゃんはかわいそうだという無言の圧力がうっとうしい。とはいえ家族はもう諦めムードに入っているが、親戚だのその子供だのにもみくちゃにされながら「まだ結婚していなかったのか」と言わんばかりの目線で見られるのはしんどかった。おせっかいなことに母を責めるものまでいるのだ。帰ればそういうことが起こるリスクが上がるのだから、話題に出ないうちにさっさと消化してしまったほうがいい。
というわけで早めの夏休みの前半はやりたかったことを一気に片付けた。気にかかっていたことを終えてしまうと、思いのほか時間が余った。友人たちはみな忙しく仕事をしていることはSNSを見ていれば分かる。旅行に行ってもよかったが、そろそろマンション購入に向けて貯金もしておきたい。そうだ、不動産屋めぐりでもしておこうか。予算と物件のつり合いなども考えておいたほうが目標も立てやすいだろうし。
冷蔵庫から二本目のビールを出して、ぷしゅっ、とプルタブをひく。タブレット端末でマンション、新築、と検索する。都心のマンションの間取りは1DKから4LDK、果ては5LDKなんてのまである。ファミリーにおすすめです、と書いてあることばに少しだけイラッとしながら、それでもいい感じの間取りなのでスクリーンショットを撮って保存。そうやっていくつかの物件の写真や間取りをチェックして、どんな感じで家具を置こうかとかどんなカーテンを掛けようかって想像するのは結構楽しい作業だ。ひとりだし。この部屋は書斎にして、こっちは映画用の部屋にして、キッチンはIHよりガスコンロ。おひとりさまの楽しみはこういう気儘さで、わたしは見繕った不動産会社に内覧のアポを取った。
夏休みはまだ、はじまったばかりだ。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
美しくなりたい、と思わずにいられる女はいったいどれだけいるのだろう。たとえば女優のように整った顔で、モデルのようにスレンダーな体型だったらと願わずにいられるような女は。いるとしたら、既にそれを手にしている存在なのではないかとわたしは思う。
わたしには理想の存在がいる。彼女は夭折したバレエダンサーで、驚くほど均整の取れた肢体に小作りの整った顔の持ち主だった。楽曲を理解するために物語を読み込んでいるのだとインタビューで語る笑顔はほんとうに晴れやかでうつくしかった。表現力を磨くために膨大な量の本を読んで知識を得る努力をしていたことも、そうして得た名声でチャリティイベントを開いては慈善団体に寄付していたことも、すべて彼女が死んでから知ったことだ。それだけの功績がありながら、彼女は生前そういったことは一切伏せて万事控えめに身を処していた。本業としていたバレエでさえ、プリマの陰に隠れるようにして逝ったのだった。
(どうして、黙っていられるのだろう)
不思議だった。名声欲はなかったんだろうか? あれだけの美貌を利用しようとは考えなかったのだろうか。あんなにも恵まれた人生を得ていたのに、それを誇示したいとは思わなかったんだろうか。
わたしは、わたしなら。そんな風に考えて自嘲する。なんて卑しい。持ってもいないもののことを考えて、身のほどもわきまえずに手を挙げて。卑しくて、醜い。そう考えて落ち込むことすらおこがましいことのように思えて、暴走する自意識を持て余した。わたしは認められたかった。美しいのだと。容姿だけではなく、その心映えも美しいのだと――誰かに、言ってほしかった。言われるはずがないことを一番自分が分かっていて、それでもその評価が欲しかったのだ。ないものねだりだ。馬鹿みたいだ。
だけど、それでも、わたしには切実で、とても欲しい言葉だった。
一度だけ、美容クリニックを訪ねたことがある。誰ともすれ違わないように完璧に配慮された部屋のなかで、手に汗をかきながらカウンセリングシートを書いた。なりたい理想の顔はバレリーナの名を挙げたが、一世を風靡した女優によく似たドクターは知らなかった。そして、淡々と料金の説明を行った。わたしがなりたい顔、なりたい体になるためにはプロテーゼを入れたり脂肪吸引をしたり骨格を削ったりする必要があり、それにはそれぞれにお金がかかるとのことだった。
ひるがえせば、お金さえ出せばある程度は美しくなれるのだ。それは福音にも思えた。そのつもりで貯金をはじめ、でも実際には踏み切れなかったのは、中身の卑しさを消すことはできないと思ったからだった。彼女を真似て、ボランティアにも取り組んでみた。自分を磨くという名目でカルチャースクールで英詩を学び、会社の制度を利用して資格もとった。そしてその全てを誰にも言わずにやってみた。それらは楽しさも難しさもわずらわしさもあったけれど、黙っている、ということそれ自体がひどく難しかった。
わたしは。わたしも。
自分を主語にせずに話すことは、なんて難しいんだろう。
わたしは、憧れている存在がある。彼女は心も体も顔も、すべて美しかった。非の打ちどころのない美しさに憧れることも分不相応だと思うけれど、それでも。
わたしは“美しいひと”に憧れる。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
つむじ風みたいだ、と思った瞬間には通り過ぎていた。見知らぬ子どもたちだ。男の子と女の子、ゴムまりのような身体はすぐに見えなくなって、残響のように笑い声だけが耳に残る。
うちの子たちも、あんな感じだったのだろうか。
自分たちだけで世界の全部が満ち足りているかのような顔をして、元気がぱんぱんに詰まったような手足を振り回して、高らかに笑って。そうだといいと思う。そうであって欲しかった。
ぐらぐらする初夏の日差しに、私は知らず俯いていた顔を上げる。目的地までは、まだ少し歩かなければならなかったから。
私が子供を置いて家を出たのは、上の子が5歳、下の子が3歳になった春だった。その頃はまだなんとか夫婦の体裁は取れていて、寝室は別だったけれど家族仲も悪くはなかったと思う。相手には既に恋人らしき存在があるようだったが、私は追求しなかったし、できなかった。そこに触れた瞬間に瓦解しそうな、妙な緊張感に包まれて、私は食事を作ったり子供に食べさせたりして過ごしていた。
「もうやめよう」と言ったのは向こうからだった。私と別れて恋人と一緒に暮らしたいのだそうだ。先方はすぐにでも結婚したいと言っているとのことだった。離婚、という言葉が初めて実感を持って落ちてきた。そうか。いつか来るかもしれなかった未来が、手の届くところまで来ていた。
「わかった。でも、……子どもたちはどうするの?」
絞り出した声はかすれていた。まだあの子たちには両親が必要だ。でも、もし、もし離婚するとして、どちらかが子供を引き取るとなったら? 私は勝てるだろうか。この人に? 生活力も経済力もある、この強大な母親に。
「申し訳ないけど、引き取りたいの。だって、あなたはまだ自分の子供を作れるでしょう」
妻はそういって、はっきりと私の眼を見た。あなたは男だからまだ子どもは作れるでしょ、だけど私はもう無理なの、幸いあの人は跡取りの子どもが欲しいみたいだし養子縁組してもいいっていってくれてるし、ね、だから、わたしが。
私は気おされて頷いた。子どもたちがかわいそうだというより、彼女がひどく痛々しかった。
緑にまみれたような路地を抜けて大通りに出る。目当ての店はもう見えていた。教えられていた通り、とても分かりやすい看板が出ている。重たい扉を開けると、中に座っていたブレザーと学ランの二人連れがハッとしたような顔をした。
私はゆっくり手を振った。そして、眩しくて目を細めながら、静かに二人のほうに足を踏み出した。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
散歩から帰る道すがら、わたしは初めてそのケーキショップでケーキを買った。チーズケーキと、フルーツタルトを一つずつ。いつもガラス越しに見ていたショーケースを店内で覗くのは、なんだか不思議な感じがした。そして、なんだかふわふわした気持ちで、ケーキが倒れないように、いつもより慎重に慣れた道を戻った。
退職することについて、わたしは誰にも一言も相談をしなかったから、理由を説明することもほとんどなかった。親には一応電話をしたが、母の反応はごく薄かった。母は母の世界があり、その中での重要度で測れば娘の仕事などだいぶ優先順位も低いのだろう。給与はたいして変わらないと話すと、安心したのか話題はさっさと流行りの俳優のゴシップに流れた。
仕事を辞めたのは、辞めてもよい経済状況になったからだった。先月、宝くじがあたったのだ。ほとんどアホのような高額当選で、通帳に記帳された数字は年収の約25年分ほどになった。わたしはそのお金の半分で店子付きのアパートを買った。そして、その収入を自分の労働で超える可能性について考え、おそらく無理だという結論に達し、退職した。仕事への未練はあまりなかったし、辞表を出してもお義理程度にしか引き留められることもなかった。
退職したら、やりたいことをなんでもやろう。今まで忙しく働いてきたんだから、趣味でもなんでも我慢しないでやろう。そう思ったのに、――わたしには、やりたいことがひとつもなかった。
グルメな食事をしようにも相手はおらず、旅行に行くのは面倒くさい。好きだった漫画のシリーズを全巻揃え、録画機能付きの大型テレビを買ったら、おそろしく贅沢をした気になった。ちょっとやけになって化粧品をフルラインで買い替え、ワンピースやサンダルといった仕事では絶対に着ることが出来ない服を買い、デパートの高い喫茶室でコーヒーを飲んだら、それでもう十分だった。わたしは服にこだわりがあるわけでもないし、飾り立てて見せたい相手も特にいなかった。
というわけで、最近はケーキを買うことが、一番やりたいことになっている。
三日に一度ほど、わたしは長い散歩をする。そこで見つけたパティスリーでケーキを買う。特別な日ではないのにケーキを買う、しかも一つではなく二つも! 一つだけ買うのは恥かしいし申し訳ないと思って始めたのだけど、今はその行為がもたらす多幸感がとてもとても好きだ。
帰ったら、この間買って来た豆を挽いてコーヒーを淹れようと思う。行き付けになりつつある近所のケーキ屋さんで薦めてもらったブレンドだが、よそのケーキにも合うだろう。
やりたいことはまだ、見つからない。
でも、今からパティシエの勉強をすることも、悪くないかな。それともお店の経営だろうか。
わたしには時間がある。だから、焦らずに考えようと思っている。
みどりちゃんが、先輩と別れた。久しぶりに一緒に帰ろうって誘われたのは、どうやらそれが理由だったらしい。アスファルトも溶けてしまいそうな暑さのなか、私たちはコンビニでアイスを一つずつ買って、三か月前は毎日のように来た公園に向かった。
「先輩ね。好きな子、出来たんだって。だから別れてほしいんだって」
ほんとふざけてる。みどりちゃんは絞り出すような声で少し笑い、それから、ちょっと溶けてしまったアイスを怒ったみたいな顔で急いで食べた。まだ五月なのに、真夏みたいだ。
先輩と、私たちは中学が一緒で、家も近かった。いわゆる幼馴染ってやつだ。先輩は一つ下の私たちのことを妹のように可愛がってくれ、私たちも慕っている先輩と同じ部活に入った。吹奏楽部。先輩は花形のサックスで、みどりちゃんはフルート、私はユーフォニウムを選んだ。みどりちゃんは木管ならアンサンブルで一緒に演奏する機会が多いのにと不思議がったが、ちゃんと理由はあったのだ。ユーフォの位置なら二人が演奏している姿をいつも見ることが出来たから。
先輩は進学先の高校でやっぱり吹奏楽を部活に選んだから、私たちは中学のころから今通っている高校の吹奏楽部に出入りしていた。定期演奏会や合同発表会で、先輩はいつも私とみどりちゃんを呼んで、みんなに紹介してくれた。先輩がみどりちゃんの癖の強い髪の毛をからかうのはいつものことで、みどりちゃんも真っ赤な顔でむくれるのが恒例だった。私はそれをまあまあとなだめる係で、なんとなく、決まり切ったお笑いの型のように吹奏楽部の全員がそこで笑った。
私も笑った。眩しくて目を細めながら、みどりちゃんが先輩の隣で笑ってるのを見ていた。
それがなんだか本当に尊い光景みたいに思えて。
だから、みどりちゃんから先輩がそういう意味で好きなんだと言われた時も、なんだか腑に落ちたような気がした。女同士なのに、とは思わなかった。むしろ、それだからこそ、二人はすごく大切だったんだと思った。私の大事な先輩。私の大事なみどりちゃん。大事な二人が、そういう意味でも思いあえるなら。そしてそれを、私が近くで見守っていいのなら。
「おめでとう」
付き合うことになったから一緒に帰れないとみどりちゃんが言ったとき、私はたぶんそう言って笑ったんだと思う。
好きだったから。本当に、二人が、ふたりでいるのを見ているのが大好きだったから。
恋の真夏はあっという間に終わって、みどりちゃんは私の隣に帰ってきた。
先輩は戻ってこなかった。
卒業式に告白して、春休みいっぱいお付き合いして、それでも大学の授業が始まったらひと月で、先輩は普通に男の人を好きになったのだそうだ。みどりちゃんは大学の吹奏楽サークルにも呼ばれて遊びに行ったけれど、そこでは妹扱いで、男勝りな先輩が媚びたみたいな声で話すのも聞いていたらしい。悔しかったし悲しかったそうだけど、みどりちゃんは泣かなかった。妹として、かわいく振る舞っていたんだって、みどりちゃんはアイスを食べながら話してくれた。たいへんだったね、そう言ったらみどりちゃんは頷いた。
「でも、好きだったから。あたしは本当に先輩が好きだったから」
だからいいんだと、みどりちゃんは吹っ切ったような顔を作った。痛々しくてりりしくてかわいくて、大好きで、私は黙って頷くことしかできなかった。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。
新宿西口のコンコースを抜けて、地上階ゆきのエスカレーターに乗っているとき、久しぶりに彼とすれ違った。手元のスマホをいじったまま、私に気付くことなく彼はエスカレーターで地下のフロアへ運ばれていく。彼は俯き加減の姿勢のままで、振り向かずに賑やかな光の中へ消えていった。
彼と私は友人の家で知り合った。バーベキューが趣味だというその友人は、月に1回自慢の燻製キットと無煙ロースターを使ってのランチ会を催している。そこに彼は友人の後輩の友人の……という胡乱なつながりで招待されていて、誘った当の本人は仕事だかで欠席していた。申し訳ないです、とワインを三本抱えてきた彼は、途方に暮れたような顔で謝った。なんだか笑っても泣いてもおんなじ顔をしそうな人だなあと思った。
私はその会の常連だったから、新参者の世話を当然のように任された。勝手知ったる他人の家を案内し、人気のないリビングでワインを飲んだ。みんなは庭で肉を串に刺したり燻製にするチーズだのサーモンだのを切り分けたりしていたが、彼はその輪にはどうにも入れないらしかった。
「僕、いまいち社交ってわかんないんですよね。こういう場ってどうも苦手で」
「気を遣う必要ないよ。仕事じゃないんだしさ」
「仕事じゃないから難しいんですよ」
照れたように彼は言い、すいませんと笑った。二人で笑っていると、肉を焼くからとベランダから数人が呼びに来て、その日はそのまま最後まで隣で過ごした。
帰り際、またねと約束したらその日のうちにメッセージが来て、二人でラーメンを食べに行くことになった。ラーメンを食べた翌週には寝ていた。恋愛感情はあまりなかったけれど、この人はおだやかなセックスをしそうだなあと思った。そう思ったら自分から誘っていた。
案の定、お手本のように優しい優しいセックスだった。
律儀なところのある彼はそういうことをする相手とは交際をするものだと思っており、交際する相手にはティファニーのアクセサリーを贈るべきだと思っていたので、私のジュエリーボックスには今も小さなダイヤのペンダントが保管されている。
彼にその思い込みを与えたものを、私は知らない。
きっと、育ちのいい女の子か、おかあさんか、あるいは雑誌の受け売りだったのだろう。
彼はそういう男の子だった。誰に対しても、丁寧にまじめに、マニュアルのような反応で接した。そのマニュアルがない場所では急に足元がおぼつかなくなるみたいだった。そんなところがかわいいと思ったし、頼りなくもあった。
付き合って半年で、頼りなさが勝ってしまった。ちょうど自分の仕事が忙しい時期でもあった。別れを切り出したときも、彼は諦めたような顔で「分かった」と言っただけだった。すがることも、泣くことも、怒ることも、浮気を疑うこともせず、淡々と彼は離れていった。
反対側に回り、下りのエスカレーターを駆け下りて、私は何がしたいのか自分でもわからなくて混乱する。追いかけてどうするんだろう。いや、でも久しぶりなんだし声くらいかけてもいいんじゃないかと言い聞かせて、さっき見たポロシャツの後ろ姿を探した。
彼は、すぐ分かった。フレッシュフルーツのスタンドの脇に立って、ストローでちゅうちゅうと何かピンクっぽいジュースを飲んでいた。その口元にさっと白い指が伸びた。隣に立っていた、落ち着いた感じの女性が彼の頬についたジュースをぬぐい、何か言って笑うのを私は見ていた。
見ていることしか、できなかった。
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僕らにとって、4月はめまぐるしいほどの変化の季節だ。入卒の時期でもあるし、クラス替えもある。今年は担任も含めての持ち上がりだから去年よりはましだけど、それでもいままではひとつだった階段をふたつ昇って教室に入るのはなんだか変な気分がした。
高校三年生。ふいに、なんだか最後って感じがして、何が最後なのかわかんないけど寂しくなった。僕はナイーヴなんだ。クラスメイトのみんなは勝手知ったるなんとかで、二年のときのグループに分かれてもう寛ぎだしている。僕もそのうちの一人に声を掛けられて、割り振られた席についた。机にはナイフで小さく「FIGHT!」って掘ってある。あまり上手ではないけれど、かなり古い傷らしく、指で触れても滑らかな感触が残った。
今年は転校生もいないらしく、ホームルームは時間割を渡されて終わった。今日はこれで終わりだ。僕は同じ塾に通う幼馴染と連れ立って教室を出る。春休みに受けた模試の話をしながら廊下を曲がると、開け放された窓から校庭を走る野球部の掛け声が聴こえてきた。
うちは進学校を自称しているので、だいたいの部活生は二年の秋の大会で引退となる。春まで残っているのはスポーツ特待で進学するやつだけで、せいぜい地区大会二回戦どまりの僕たちは悔しさを味わう余裕もなくさっさと追い出されていた。なんとなく気が引かれて、トラックを横切っていく後輩たちの背を追いかける。一人、二人……たった十一人。選手登録下限人数ギリギリの二年生たち。その背はなんだか妙に頼りなく、細く、華奢に見えた。
「おれらもあんなんだったかなぁ?」
覗き込んできた友人は首を傾げる。僕はちょっと笑って、だろうねと応える。こいつとはリトルリーグのころから一緒だったが、お互いからきしセンスがなくて、定位置はライトがせいぜいだった。でも野球が好きで、楽しくて、部活と塾の両立も苦にならなかった。休みの日はどっちかの部屋で試合の録画を見たりして、人気投手のフォームを真似してみたりもした。
「こうやってみると、あれはあれでセイシュンって感じだな」
「そりゃそうだよ。よわっちかったけどさ、弱いなりに頑張ってたしさ」
後輩たちは一生けん命に声を掛け合って、ひたすら前を見て走っていく。最後尾のやつが視界から消えるのを見届ける僕らの横を、級友たちがぞろぞろと通り過ぎていった。みんな、進学していく。進路によってはもう会えなくなるやつもいる――そのことを、今から考えるのはちょっと気が早いんだけど、僕はなんだか感傷的な気分で将来に思いをはせた。
たとえばこいつ。隣にいる友人は、東京の私立大の経済学部を志望している。僕は法学部だから、仮に大学が一緒でも今みたいに毎日あったりは出来ないだろう。同じクラスにも法学部志望はたくさんいるが、希望大学はみんなバラバラらしい。地元の国立大にいくやつもいれば、関西や北海道、果ては海外、って声も聞く。さみしい。寂しいけれど、まあ、仕方のないことだって頭ではわかる。だからこそ僕らは、最後の一年を大事にしなくちゃならないよなってことも。
「なんか、まさにセイシュンだなあ」
急にそんなことを言ったものだから、友人はびっくりした顔で僕を見ている。それからぷっと吹き出して、春だもんな、と笑った。
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終わりは、あっけなかった。はじまりの仰々しさに比べ、離婚は紙切れ一枚で済む。もめごとの素となるほどの財産もなく、子どもも幸いなことにまだおらず、私たちは静かに二人の生活を終えて離婚届を提出すると、それぞれの日常を再開した。
私はあっけないほど簡単に、ひとりでの生活に馴れた。ちょうど繁忙期に差し掛かったころで、思い悩む暇がないほど忙しかったのもよかったのかもしれない。企画書を作りプレゼンをし営業に駆け回って、くたくたにくたびれた体が欲するだけの睡眠は思ったよりも深かった。眠れないかも、と悩んでいたのがバカバカしくなって、自分の好みの硬さの寝具を一式新たに買い替えた。新しいふかふかの布団はやっぱり気持ちよくて、結婚していたころは遠慮して買い控えていた高反発のマットレスにごろりと寝転がる。そうしたら、不眠気味だったのが嘘みたいに熟睡できるようになった。我ながら現金な身体だと呆れた。
結婚生活がストレスだったわけではない。共同生活者としては、ちょうどよい距離感だった。節度と距離を守った、快適な関係。お互いに踏み込まない。違う。――いつの間にか、踏み込めなくなっていた。
結婚して3年。普通の夫婦なら、とっくに“らしく”なる期間だと思う。付き合う前は、そのドライな感じがよかった。自分を尊重してくれているのだと思っていたから。付き合ってからは、その節度ある丁寧さを好ましく感じた。私の価値観を大事に考えてくれているのだと思ったから。
でも本当は、なんとなく気付いていた。私は彼にそこまで興味がなかったのだ。彼も私に干渉するほど、熱意を持っていなかったのだ。本当はきちんと、お互いがお互いについて理解したり共感したり反発したり一緒に未来について考えたりすべきだった。夫婦なら。家族になるつもりであったなら。でもしなかった。出来なかった。それをする代わりに、私たちは沢山の不義理をして別れた。お互いがお互いのことを大事にしているポーズをとってはいたけれど、私も彼も、お互いよりも自分のほうが好きだっただけなのだ、たぶん。
身軽になったのだと思った。好きなだけ仕事のことが考えられて、お給料全部を自分のためだけに使うことが出来る。好きでもない料理もしなくてもいい。新しいショップで新作のバックを買ってもいいし、流行りのマクロビカフェに行ったっていい。嫌味かな、なんて考えながらソムリエ資格の勉強をする必要もないし、旅行だって好きなタイミングで行ける。自由だ。自由なのだ。
でも、自由であることが、孤独だとは誰も教えてくれなかった。
心が通っているんだかいないんだか分からない夫婦だったけれど、いなくなってみると寂しかった。いつもあると思っていたお店が閉店してしまったような、その程度の寂しさではあったけれど、きっと恋でもすれば忘れてしまう程度の寂しさだけれど。
それでも。
その程度は、私は彼を好きだったのだ。
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故郷へ向かうために、久しぶりに車を運転した。おっかなびっくり踏み込んだアクセルは思いのほか重くて、慣れない道をナビにしたがっていくつも曲がり、高速に乗る。ラジオをつけていない車内は静かで、時折ナイロンの包みが擦れて小さな音を立てた。助手席に乗せてある、姪へのプレゼント。今年十二歳になった彼女は母親に似たぶっきらぼうな口調で、定期を入れるパスケースが欲しいのだとねだってきていた。
姪は僕の姉の子供だ。よっつ違いの姉は、僕にとって神様みたいな存在だった。力は強いし体は大きいし声も大きかった。僕はいつも姉の前ではいい子だった。だって、僕の生活のほぼ半分以上は姉によってその質を左右されていたのだ。共働きの両親にかわって小学生のころから姉は台所に立っていたし、掃除や洗濯も率先してやっていた。徐々に僕と家事を分担するようになったけれど、それだって姉が教えてくれなくてはできなかっただろう。歴代の彼女たちが賞賛してくれる料理の腕は、全部姉が教えてくれたからこそだ。
「あんた、ホントに子供なのね。だから何も出来ないのね」
ため息をつきながら、出来の悪い生徒を叱るように姉は根気よく僕に繰り返した。ピーラーで誤って指の皮を傷つけたとき、ポケットに千円札を入れたままのジーンズを洗濯してしまったとき、揚げ物をしてやけどしたとき。姉は泣く僕を慰めはしなかったが、その代わりに怒りも叱りもしなかった。まだ自分だって子供だったはずなのに。
姉は、まじめで努力家で、どちらかといえば地味だった。実家から通える国立大学を卒業し、指導教授の推薦である会社の経理に収まった。こう聞けばなんとなく誰もがイメージするお堅い女史だったのに、僕の知らない間に恋をして、あっという間に一児の母になった。未婚の母だった。
「ねえちゃん、いいの? あと戻りできないよ」
「戻る気なんかないよ。だって、もうかわいいって思ってるんだから」
病室で、二十九歳の姉はいとおしげに腹を撫でた。強い強い大きな姉が泣いたのは、僕の知る限り姪を産んだ時だけだ。難産で、予定日よりもひと月ちかく生まれた姪は本当に小さくて、生きているのが嘘みたいだった。小さい爪があることにびっくりして、髪の毛が生えたことにびっくりして、いちいち驚いている僕を見て姉はおかしそうに笑っていた。
姉は姪を得て変わった。沢山食べるようになったし、冷めた顔をすることが減って喜んだり嬉しがったりすることを惜しまなくなった。姉はいつも、全身全霊で娘を愛していた。大好き、大好きとからだじゅうで伝えていた。
あの春の日に向こうへ行ってしまった、姉。
終業式の帰り、姪と海の近くをドライブするのだと言っていた。姉だけが、帰らなかった。
姪は不器用な子だ。姉によく似ていて、甘え下手で、強がっている。僕を自分の母に倣って名前で呼び、僕のことを家来みたいにして遊んでいた可愛い姪は、今年から中学生になる。
もう五年。まだ五年。
母をなくした娘と姉をなくした弟は、どっちもまだ、傷だらけだ。
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