« | Home | »

2014/11/17

f281

旅行かばんに荷物を詰め終えてから、腰を下ろしてミルクを沸かした。生暖かく、乳臭い匂いを嗅いでいると不意にコーヒーの香りが恋しくなる。カフェインは少しなら摂ってもいいと言われたけれど、一杯飲んだら歯止めが利かなくなるような気がしてこの二月ほど一切飲んでいない。休みを取る前は十杯ではきかないくらい飲んでいたのに。

自分が子供を産むなんて考えたこともなかった。

まさか、まさかと思い、堕ろそうかと考えている間にもすくすくと腹は膨れていた。妊娠すればいまの仕事は続けられないとわかっていたのに、もう二度と子を持つチャンスがないと思えばその機会を逃すことも怖かった。迷っている間に会社のトイレで吐いてしまい、その現場を後輩に見られて、部長からやんわりと予定日を聞かれた。

「頑張ってたのに、出来ちゃったんだね、あの人」

いつか自分が言った言葉を、後輩たちが話しているような、気がした。

 

仕事が一番大事だった。

ずっと憧れていた出版の仕事。思っていたよりもハードだったし、理不尽な残業もあったけれど、でも忙しいことはこの仕事では勲章だった。暇だと干されていると笑われたから。体力に任せてがむしゃらに仕事をして、徹夜もしている間に使い走りではない記名記事も少しずつ任され、あたらしい雑誌の立ち上げメンバーに入れて貰えたときは一人でシャンパンを抜いて祝った。女性向け経済誌は自分たちと同じ働く女のための雑誌だった。誰にも養われず、男よりも自由に、したたかに生きる女たちへ向けて発信する情報を集め、裏をとり、撮影をして原稿を書いているとたまらなく誇らしかった。

でも、そこには妊婦の居場所はなかった。妊婦だけではない。子を持つ母もいない。当たり前だ、彼女たちは私たちと違うのだから。同じようには働けないのだから。
だから、異動の内示を聞いたときはかすかにほっとした。ほっとした自分が、恥かしくて悔しかった。

迎えの車がついたらしい。インターホンで呼び出されると、カップを洗い、戸締りをして旅行かばんを持って出た。風が冷たい。ひえた手すりをつかみ、慎重に階段を降りてタクシーに乗った。

次にここに帰ってくるときには一人ではない。
次にここに戻ってくるときは、もう今までの私ではない。

仕事は一年の休みを許されている。次に働くのは新人のころに配属されていた機関紙の編集部だ。
どこまで出来るだろう、私は――何が一番大事になるんだろう。
そう思いながら、今にもはちきれそうになっている腹をなで、ハイヒールのまま走ったこともある駅までの道を眺めていた。

================================================
*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。

2014/11/17 11:00 | momou | No Comments