こんな記憶がある。
記憶の中で、わたしは繕いものをしている母の隣でラジオを聞いている。戦争、という言葉が時々聞こえる。母はその単語を聞くたび、ほんのわずか身を固くする。
戦争ってなに、と聞くと、とてもとても嫌なことだよ、と母は言った。
「兵隊さんにとられて、運が良ければ帰ってこれる、そういう時代のことだよ」
母の眼は、戦死した父の肖像画を無意識のうちに追っている。
モノクロの写真の父は、今のわたしより、ずっとずっと若い。
もはや戦後ではない、という言葉を何度か聞いた。
その頃日本は好景気に沸いていて、わたしは家の近くの工場で働いていた。働きたい、と言えばどこでだって働くことができた。今では考えられないほど仕事はいくらでもあり、その代り一生懸命働かなければ代わりのものはいくらでもいたから、わたしは毎日小さな部品の検品を節だらけの指で続けてきた。
工場で作っていたのは車の部品だった。
贅沢品だった車はあっという間に大衆の持ち物になっていた。あらゆるものがそうなっていた。
初めて“自分の”車を持ったわたしを母は眩しそうに眺めたが、やはり分不相応な贅沢をしているようで妙な気兼ねをするらしく、好んでは乗りたがることはなかった。
足を悪くしてからも、医者なしでは生きていけなくなってからも、ずっと。
けれどわたしは便利な車がありがたかった。黙っていても一応のニュースが得られるテレビも、接続すれば何でも情報を与えられるパソコンも、わたしは喜んで使った。
便利で何が悪い。知りたいと思って何が悪い。
学校へ行くことなど望んだことはなかったのに、今は学がないのが切なかった。多少無理をして大学に入れた息子からは今更そんなに頑張ってどうするんだと言わんばかりの目を向けられ、そうして大して勉強する風もなく、ひょうひょうと遊んでいるのが憎らしくさえあった。
わたしは知りたかった。どうして戦争は起こるのか、どうして運の良し悪しで生死が決まってしまうのか、どうして父は死んだのか。父のいた部隊もインターネットで検索したらすぐ出てきた。関連本というのを調べて図書館で読んだ。
「せめてもの救いは、たぶん殺すこともできなかったということだろうよ」
母はそう言って、深い深いため息をついた。父は終戦の二日前に死んでいた。
「おおきな大義名分があると、考えることもできなくなる」
やさしい人だったから、と母は話を聞くことを途中で辞めた孫の背を眼で追った。
戦わなくてすむ子供のことを愛おしむような顔をしていた。
父は兵隊さんになりたくてなったのではない。出撃はしたくてしたのではない。命令されて行ったのだ。
正義のために。少なくとも、正義だと信じ込ませられたもののために。
わたしは知りたい。どうして戦争は起こるのか。
インターネットを開いても、難しい本を読んでも有識者だという人の話を聞いても、根本的な答えはまだ得られない。
得たい、と思う。知識が欲しい。
わたしが、そして自分の子や孫や運のために人生を左右されることのないように。
――知識が、欲しい。
乾いたひとのように、そう思う。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。