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いつも通りの時間に目が覚めて、ああ、もうこの時間に起きなくてもいいんだと思った。
35年勤めた会社を昨日退職してきたというのに、体のほうは律儀に習慣を守り続けている。
二度寝しようかと思ったが、薄く開けられたドアの向こうからコーヒーのいい匂いがしてもそもそとベッドから出た。キッチンでは妻が今までと全く同じに朝食の用意をしてくれていた。
出勤していく妻を見送り、さてどうしようかと途方に暮れた。
気儘といえば気儘な二人暮らしだ。とりあえず掃除でもしようかと思ったが、道具がどこにあるのか分からない。完璧主義の妻は勝手に棚を荒らされるのを嫌がるので、今晩聞いてからにしようと思った。
何事も最初が肝心だ。何しろ今までほとんど家事らしきことをしたことがない。妻には妻のルールがあるのだろうと希望的慎重論で諦めた末、さしあたって暇をつぶすために散歩に出ることにした。
よく考えたら、通勤路ではない道を歩くのも久しぶりだ。子供が小さかった頃はなんだかんだと歩いていたが、それぞれ社会人となった今ではそろって歩く機会もない。
しばらく顔も見ていないが、あいつらは元気なのだろうか。
落ち着いたら妻と顔を見に行くついでに旅行するのも悪くないなと思いながら、細い路肩からはみ出さないように注意して歩いた。
娘たちが通っていたピアノ教室が確かこの辺りだったはずだ。うろ覚えだったが、しばらく歩くと細いピアノの音が風に乗って聞こえてきた。
二人とも10年以上習ったはずだが、せがまれて買った電子ピアノは既に物置と化していて、家ではぽろんとも鳴らない。近所迷惑だからと夜は弾くことを禁じていたことを思い出していると、小さな看板を出した教室の前に行きあたった。
まだ早い時間だからなのか、演奏しているのは先生のようだった。繊細で、滑らかな……曲名が思い出せないが、私が知っているのだから有名な曲なのだろう。
しばらく耳を傾けていると演奏が終わり、急に首元がすうすうした。どうやら無意識に集中して聞いていたようだ。先生は確か妻よりも少し年上だったはずだから、私と同じくらいか、あるいはもう70歳近いのかもしれない。
いまだに現役で教えているのか、と感嘆して立ち去ろうとすると、唐突に聞き覚えのあるフレーズが流れてきた。明るく、短く、元気よく。
「……伯方の、塩?」
あっけにとられていると、それきり音は止んだ。
立ちすくむ私の脇を、犬の散歩をしていた女性が不審者を見る目で通り過ぎたので、慌てて家のほうに向かって踵を返した。
想像するとなんだか妙におかしかった。家の中で伯方の塩のメロディを弾く自分と同じくらいの歳の女性。
きっと明るい人なのだろう。いや、もしかしたらやけくそか?
なんでもいいけれど、そういう習慣があることがちょっとうらやましかった。
今はまだ何もなくなってしまったけれど、私も何か習ってみようか。できれば意外性のあるやつがいい。子供たちがびっくりするような、ちょっと笑ってしまうような。
帰ったら妻に相談してみようと思いつつ、私は退職後の一日を歩いていく。
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*今回の画像は「Photolibrary」さまからお借りしました。