18日はアニメオタクの淳さんとご一緒に、先月に引き続いて勝手に「JunkStageライター交流企画」(爆)を、挙行いたしました。
すでにご本人のコラムでご報告ありましたが、この日は午後にたかはしういかさんのオペラ養成所卒業公演が、川崎市麻生区の昭和音楽大学で行われたので、先月ご一緒した仲間として見に行きました。
そして夕方からは、ジャズピアニストの外山安樹子さんがソロでピアノ演奏をしていた、品川駅ビル「アトレ」内の「トランスファー」というレストランで、ディナーという企画でした。
先月のメイド喫茶訪問企画のときにういかさんから卒業公演のお話を聞いて、行ってみようと思っていたところに淳さんも賛同。
しかも当日の夜は、ちょうど外山さんが品川で演奏することになっていたので、ぜひ淳さんにも外山さんのピアノを聞いてもらいたいと思い、「二毛作」を提案したところこれも賛同していただけたものです(笑)。
さて、せっかくですのでお二人に差し入れでも持って行こうかな、と思っていたところにひとつのアイディアが思い浮かびました。
「そうだ、差し入れは和菓子にしよう。それも、高橋由美さんお勤めのあのお店で」
そんなわけで、早めに家を出た私はまず高座渋谷に向かったのでした(原爆)。
そして「みどりや」さんで和菓子を買っていきました。
残念ながら、由美さんにはお会いできませんでしたが(苦笑)。
そして午後2時に新百合ヶ丘駅で淳さんと落ち合い、昭和音楽大学に乗り込んだのです。
会場となった昭和音楽大学の北校舎は新百合ヶ丘駅北口のほとんど目の前にありまして、ここの5階にあるホールが今回の公演会場というわけです。
オペラは全編イタリア語で演じられ、舞台の上のスペースに日本語の字幕が表示される形になっています。
ういかさんからは、演技をより近くで見たければ前方の席で、字幕を見てストーリーを把握したければ後方の席でと事前にアドバイスを受けていましたが、私たちは思いっきり前方の指揮者席のそばで観賞しました。
この公演では「聖母マリアの月」そして「リタ」の2つの短編オペラが上演されましたが、ういかさんが出演していたのは前半の「聖母マリアの月」の方でした。
その「聖母マリアの月」の方ですが、まずは簡単にストーリーなど。
舞台はとある修道院(孤児院併設)で、複雑な家庭事情のため1年前にわずか1歳の息子をここに預けたカルメラという女性が主人公です。
1年ぶりに息子に会いにカルメラは遠路はるばる修道院に来たのですが、なんとその息子は当日朝に死んでいたのです。
結局修道院側はその死を隠し、「彼は今学校に行っているので会わせられない」という突っ込みどころ満載の理由で面会を拒否せざるを得ませんでした。
理不尽な理由で再会を拒まれたカルメラは、それでも後日の再会を信じて息子のために作ってきたお菓子を託して去っていきますが、最後はそのお菓子さえ修道女に踏みつぶされるという、不愉快極まりない終わり方でした。
そしてういかさんは、そのカルメラの古くからの友人でかつて「ニーナ」という名前だった修道女「パツィエンツァ」を演じていました。
修道院の女性の中ではもっとも小柄なパツィエンツァでしたが、最初は後援者の伯爵夫人から孤児院の子供たちへと寄付されたおもちゃの入った大きな箱を、ずっと持っていて大変そうでした(笑)。
そしてカルメラと10年ぶりに再会し、彼女の不幸な身上を院長に説明して息子との面会を「援護射撃」するパツィエンツァ。
しかしその息子の死を知らされると修道院の一員としての立場上、ついにカルメラに事実を告げられなかったのです。
この修道女「パツィエンツァ」としての自分と、カルメラの友人「ニーナ」としての自分との「板挟み」に苦しむ姿は、強く伝わってきたと思います。
ういかさんによれば、「パツィエンツァ」とは「忍耐」を意味するとのことですが、まさにその名の通りの役回りだったということでしょうか。
しかし驚いたのは、小柄なういかさんが声量豊かに歌いコミカルな動きからシリアスな演技まで自在にこなしていたことですね。
とてもあの、先月一緒にメイド喫茶を渡り歩いたかわいいういかさんとは思えない、見事な姿だったと思います。
この公演によって、「初花の芽」はいよいよ開き始めたのではないでしょうか。
さて、不愉快な終わり方でストレスがたまった「聖母マリアの月」の後は(爆)、休憩をはさんで愉快な「リタ」が演じられました。
登場人物はわずか3人、主人公のリタと夫そして死別したはずのリタの前の夫だけでしたが、リタは代わる代わる4人の女性によって演じられていて、プロレスのタッグマッチばりの「タッチ」で交代した場面もありました(原爆)。
簡単にストーリーをお知らせしますと、リタと現在の夫が経営するレストラン併設の宿屋が舞台です。
前の夫は船乗りで典型的な「亭主関白」でしたが、結婚式の後すぐに出た航海で遭難しそれっきり音信普通で、遭難死したものと思われていました。
そしてリタは現在の夫と再婚して宿屋を営むのですが、今度は見事なまでの「カカア天下」で以前の鬱憤を晴らす毎日でした。
そこへ、死んだはずの前の夫が帰ってきてしまったのです。
そこですったもんだがあったのですが、結局元のさやに収まることなく前の夫はそのままカナダに旅立ちました。
こちらは歌はもちろん踊りも豊富にあり、まずコミカルな踊りの決めポーズで笑いが取れました。
また宿屋で男2人ワインを飲むシーンでは、イタリア語の会話の中で突然「まずい!もう一杯」と日本語のアドリブが炸裂して、場内大爆笑でした。
また、前の夫にリタを押しつけて自分は自由の身になれると思い込んだ現在の夫が喜ぶシーンで、最後に一言「自由だ」とこれまた日本語でもらしたところでも、淳さんと一緒に大笑いしてしまいました。
実はそういったところを、ういかさんは控え室のモニターですべてご覧になっていたようです(水爆)。
ともあれ、陽気なイタリアオペラの楽しさを満喫できた後半の「リタ」で、前半の不快感も見事に吹っ飛びました(笑)。
終演後、シスター姿のままのういかさんにお会いすることができ、このときに「みどりや」で買った和菓子をお渡ししました。
どういう和菓子かは、ういかさんのコラムをご覧ください(笑)。
ういかさんにこれから品川に行くことをお話ししたら、「フットワーク軽いですね」と言われてしまいました(爆)。
そして昭和音楽大学を後にした私たちは、品川に向かいました。
小田急線で新宿まで行き、山手線に乗り換えて品川に到着した時点でちょうど午後6時を回ったところで、6時半から始まる外山さんの演奏によいタイミングで間に合いました。
この「トランスファー」に来るのも1年2ヶ月ぶりで、私もここで初めて外山さんの演奏を聞いたのです。
ちょうど夕食の時間帯で店内はけっこう混んでまして、最初ちょっと奥の席を案内されたのですが、「ピアノのそばで」とお願いしたところ見事ピアノど真ん前の席に移していただけました。
そして6時半から外山さんの演奏がはじまったのですが、今回もジャズのスタンダードナンバー中心の演奏でした。
私の知る限りでは、「ムーンリバー」や「星に願いを」そしてスティービー・ワンダーの「愛するデューク」などが演奏されました。
しかし、ピアノに置いてあった譜面は「愛するデューク」のみで、あとはなんとすべて暗譜で弾いていたのです。
また演奏しながらすばやくiphoneのスイッチを入れて時間をチェックするなど、実に芸が細かいと思いました(爆)。
約30分の演奏終了後少し外山さんともお話しさせていただき、「みどりや」のお菓子をお渡ししました。(内容はういかさんにお渡ししたのと同じです)
こうして午後7時過ぎに、淳さんと私の「交流企画」は無事終了したのです。
しかし今度の週末も、また何かあるかもしれないぞ、と(笑)。
今日はひそかに、アニメオタクの淳さんと「JunkStageライター交流企画」を実行しておりました(爆)。
その模様は近いうちに、こちらでご報告させていただこうと思います。
それでは今回は、連載シリーズの続きをお送りいたしましょう(笑)。
1985年については、ストリップ業界全体にも大きなターニングポイントが 訪れました。
それは、改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」(風営法) の施行です。
当時のストリップの主流は、一言でいえば「風俗」そのものでした。
すなわち、もっぱら男の性的欲求を満たすためのものだったのです。
だから、ここでそれを詳しく書くわけにはいかなかったのですよ(苦笑)。
しかし上記の「風営法」の施行を境に、こういった「風俗」に対する取締りが強化されていくことになりました。
(それでも、「風俗」としてのストリップも21世紀初頭までは、どうにか生き延びていたようですが・・・))
そこでストリップ業界でも「風俗」からの脱却を試みてか、「アイドルストリッパー」とも言われる若い世代の踊り子が登場するようになりました。
ただ、踊りのレベルは当時はまだいまひとつで、高度な技と鍛え抜かれた体の魅力あふれるアクロバットを知っている私としては、あまり積極的に見る気にはなれませんでした(苦笑)。
もし私が大学を卒業する1987年までに、アクロバットを見せてくれた2人 の踊り子と出 会わなかったら、おそらくその時点でストリップを「卒業」していたと思 います。
さて、毎週「内外タイムス」を購入しこの2人の踊り子の名前を追っていた私でしたが、なにしろまだ大学生だったもので行けるのはおおむね首都圏内の劇場に限られ、それらの劇場にはなかなか来てくれなかったのでした(苦笑)。
そうこうしているうちに1年が経過し、ようやくB嬢に再会できたのは大学生活も4年目に入った1986年の春のことでした。
それからは首都圏の劇場にわりと来演するようになったので、B嬢の出演しているときには出向くよう心がけました。
その当時はアクロバットが終わった後に少し話ができる機会があったのですが、そんなときに私も、「すごい技だったねえ」とか「どうしたらそんなに柔らかくなるの?」とか話しかけたりしたものです。
彼女いわく「練習です」ということでしたが、単なる練習であんなに柔らかくなるとは思えませんでした。
そのアクロバットの魅力にもっと触れたい、そしてその秘密をそして彼女自身をもっと知ってみたい、そんな気持ちが私の中で大きくなっていきました。
今考えてみれば、それは「恋心」と言ってもいいくらいのものだったかもしれません。
そして1987年の3月、無事公務員試験にも合格して大学も卒業しいよいよ社会人としての第一歩を踏み出そうとしていた時期に、もうひとつのターニングポイントが訪れました。
これも今はなき東京都立川市にあった劇場でのことで、その日雪が降っていたことは今でも忘れません。
例によってアクロバットを披露した後の「交流タイム」のときに、私は思わず「出番が終わった後に、少しお話しさせてもらえないかな」と彼女に「店外デート」を申し込んでいたのです(原爆)。
なんかこのときは、自分でも半ば無意識のうちに言ってしまったという感じで、まさか彼女が承諾してくれるとは思いませんでした。
このときは、劇場の中のロビーの一角で10分くらいだったでしょうか。
しかしこれによって、初めてストリップの踊り子とステージ以外の場で交流を持つことができたという、いわば新境地が開けたことになりました。
そしてこれ以降、B嬢とは劇場でアクロバットを観賞した後で、喫茶店等で話したり時には飲みに行ったりという付き合いもするようになったのです。
アクロバットのことやストリップのことに限らずいろいろな話をしましたが、意外だったのはステージであれほど見事なアクロバットを見せ鍛え抜かれた体の持ち主である彼女が、スポーツはほとんどできないということでした。
学校の体育の授業は、ほとんど見学だったとか。
しかしそんな彼女でも長年アクロバットの練習を積むことによって、サーカスに出しても恥ずかしくないほどの芸を身に着けることができたのですね。
私も働くようになって自由になるお金が増えましたし、ストリップの入場料はそれほど高くありませんでしたから、学生のときよりも頻繁にストリップ劇場に通うようになりました。
もちろん、一度は彼女を抱きたいという下心もないわけではありませんでしたが(爆)、それを行動に出すのだけはグッと抑えてきましたし、だからこそ長くよい関係が続いたのかなと思っています。
それに、早い段階で彼氏の存在は聞かされていましたからね(苦笑)。
一方もう一人のアクロバットダンサーのK嬢ですが、なんでも山梨県が本拠地らしく、B嬢に比べれば見る機会は少なかったですね。
いずれにしても当時は、この2人のアクロバットダンサーをもっぱら見続けていました。
ただ、彼女たちのアクロバットを見ることができるのは、一回り3時間弱のショーの中でほんの20数分くらいしかなく、それ以外の時間は私にとっては正直苦痛でしたね(苦笑)。
だから、毎回見るのはおおむね二回り(約6時間)が限界でした。
しかも当時は観客も多く、1回目だとまず座れることはなくて2回目でようやく座れるという感じでした。
それでも、それを我慢してでも見る値打ちがあったのがアクロバットだったということです。
世が昭和から平成に変わってもこの充実した生活は続きましたが、それにもやがて終わりが訪れました。
そのお話は、また次回以降のお楽しみとさせていただきましょう(笑)。
早いもので、あの東日本大震災から今日でちょうど1年が経ちました。
地震の起こった時刻でもある14時46分には、私も千葉県某所で黙祷を捧げました。
この歴史に残る震災からの復興は長い道のりになるとは思われますが、一日も早い復興を改めて祈りまた協力していきたいと思います。
さて少々古い話題で恐縮ですが、先月スイスで行われたローザンヌ国際バレエコンクールで、菅井円加(まどか)さんが第1位に輝いたことは 、ニュースでもかなり大きく扱われたので、ご存知の方も多いと思います。
このJunkStageでも、エイミーさんがタイムリーに取り上げてくださいました。
なんで私が今さらこの話題を取り上げたかと申しますと、先週テレビでその決勝の模様が放映されて、菅井きんもとい(爆)菅井さんをはじめとする入賞者の踊りを見ることができたからなのです。
菅井さんに関しては、クラシックとコンテンポラリーの2種類の踊りを見ることができたわけですが(他のダンサーはクラシックのみ放映)、クラシックでは伸びやかにそしてコンテンポラリーではダイナミックにと、見事に踊り分けている感じではなかったかと思います。
また意外と体つきがしっかりとしていて力強ささえ感じるほどで、まさにこれが「強いものは美しい」ということではないかと感じましたね。
このコンクールは、15歳から18歳までのバレエダンサーを対象としたコンクールで、完成度よりも将来性を重視した審査を行うそうですが、今回放送を見て初めて知ったのが、まず一次審査を通過したダンサーが一堂に会してレッスンを受けるのですが、そのレッスンが入賞者を選抜する審査の対象にもなっているということです。
その審査を通過したダンサーのみが、決勝で踊ることができるわけですね。
菅井さんは私の地元でもある神奈川県(厚木市) 出身ということに、個人的に親近感を感じます。
また通っているバレエ教室も大和市にあるとのことで、同じ神奈川県民としても誇らしく思うところです。
もっとも、在学中の高校は東京都町田市にあるそうですが(爆)。
ところで、神奈川県出身のバレリーナといえばもう一人思い出す人物がいます。
それは鎌倉市出身の上野水香さんなんですが、上野さんは2007年以降「かながわ親善観光大使」を務めているので、私も知っていたのでした(笑)。
他にもこの親善観光大使に任命されている有名人はいるのですが、任期は確か2年のところ上野さんは現在3期目に入っている模様です。
その親善観光大使としての活躍ぶりは、こちらに詳しく出ています。
また私の職場でも、神奈川県の観光地をアピールしている上野さんのポスターを見かけました。
バレエの世界にとどまらずに神奈川県のために尽くしてくれる上野さんには、私も好感を持っているところでいつかは舞台を見てみたいと思っております。
とここまで書いているところ恐縮ですが、実は私バレエの公演を生で見たことは今まで一度もありません(原爆)。
テレビで少し、見たことがある程度でしょうか。
「choreography」のコラムを書いている私が、その最たるものとも言えるバレエを見たことがないとは何事か、と読者の方からはお叱りを受けるかもしれませんが・・・
小学生低学年の頃に、「赤い靴」というバレエのテレビドラマがあって家族で見ていたのですが、そのストーリーの主体は主人公がライバルにいじめ抜かれるという、陰湿なものでした(苦笑)。
そのため、「バレエをする女性の多くは性格が歪んでいる」という思い込みが生まれ、ひいてはバレエ嫌いになってしまったのでしょう(爆)。
私自身、小さい頃にはいじめを受けていただけに、テレビなどでもいじめのシーンとかが出てくると、生理的なレベルで拒否反応を起こすのです。
だから、いわゆる「スポ根ドラマ」でのしごきのシーンなどにも、同じように強い拒否反応を起こしてしまうので見ないようにしています。
また小学校のときとか、同級生にバレエを習っている女の子もいたのですがやはり性格がきつかったもので、そういう身近な体験からも「美しいバラにはトゲがある」という言葉通りの固定観念を植え付けられてしまったのではないかと思っています。
そういうわけで、バレエは私にとって「choreography」観賞におけるいわば「鬼門」になってしまったまま、現在に至っております(苦笑)。
とはいえ、こういうことでは視野が狭まってしまいますし「食わず嫌い」はよくありませんので、今年は一度はバレエの公演を見てみたいと思います。
見ることによって、バレエに対する考え方が変わるかもしれませんしね。
前回の続きです(笑)。
一旦秋葉原駅に戻り、先に帰られる石川ふくろうさんと東出達也さんをお見送りして、淳さん・たかはしういかさん・私の3人で、いよいよメインのメイド喫茶に「突入」しました(爆)。
淳さんからは、「次に行く所は、相手の言うことをハイハイ聞いていると、かなり高くつきますよ」と忠告をいただいたので、気を引き締めて事に臨んだつもりでしたが・・・
私たちが向かったのは、秋葉原駅すぐそばのビルの2・3階に入っていた「めいどりーみん」という店です。
ここはチェーン店で秋葉原には複数の店がありましたが、入ったのは「秋葉原電気街口駅前店」でした。
エレベータで3階に上がり扉が開いた瞬間、「お帰りなさいませー!」と複数のメイド姿の店員さんに叫ばれました(原爆)。
確かにここは、正真正銘のメイド喫茶でした。
まあとにかく、ハイテンションなメイドさんがたくさんいて、店内はやたら盛り上がっておりました(笑)。
そんな中私たちは、奥の方の4人掛けテーブル席についたのですが、ほとんどの席は長いテーブルのカウンター席となっていたように思います。
私は初めてということで「デビューセット」を勧められたので、とりあえずそれを頼んでみました。
具体的には、まずパフェを1つ飲み物を1つ選び、おまけ(キーホルダー)が付いて、さらにメイドさんとのツーショット写真が撮れてしまう、というものでした (水爆)。
このメニューの説明の仕方が独特で、「4種類のパフェからひとつ選べちゃいます」とか、「お好きなメイドさん1人と、ツーショット写真が撮れちゃいます」という感じでしたね(苦笑)。
それとこの店には独特の「作法」がありまして、店員さんを呼ぶ時には「にゃんにゃん」と呼ばなければいけないらしく、しか も店内超うるさい状況だったので、なかなか「にゃんにゃん」しても気付いても らえず、恥ずかしかったですね(苦笑)。
私は「ペタカワユスwwくまたんパフェ(≧(ェ)≦)」(苦笑)と、「カプチーノ」を頼みました。
「デビューセット」は本来2100円ですが、飲み物でカプチーノを選ぶとプラス400円になります。
なぜそんな高いカプチーノを選んだのかには、ちょっとした理由があります(笑)。
ちなみに淳さんは「プールでぷかぷか くまたんカレーライスス」、そしてういかさんは「ふわふわオムライスス」を注文しました。
こういったメニューのセンスだけでも、かなりクラクラきてしまいましたね(苦笑)。
あと店内独特の言い回しもあって、たとえばトイレは「お花畑」と言うそうです (爆)。
そういえば登山仲間での隠語でも、用を足すときには「花を摘む」と表現すると聞きますが・・・
それで注文したパフェとか来るたびに、メイドさんと一緒に「おいしくなーれ、う~、もえもえ」とか「おいしくなーれ、う~、にゃんにゃん」とか、振り付きで一緒に言わされるんですよね(中性子爆)。
このノリ、47歳の私にはかなりこたえました。
さて、そして来たパフェと飲み物なんですが、ご覧のとおりです(笑)。
カプチーノの表面にはかわいい「ラテアート」が描かれていました。
このいかにもメイド喫茶らしいラテアートは、ちょっと外せないなあと思った次第です(笑)。
そしてツーショット写真なのですが、店内になぜか小さなステージもあって、そこでなんと「犬耳」までかぶらされて、こんな写真を撮られてしまいました(苦笑)。
さらに4つのキーホルダーから1つを選び、ツーショット写真と合わせて持ち帰れます。
すなわちこれが本当の、「メイドの土産」というわけです(水爆)。
そう、だから今回は「メイドの土産に」ではなくて、「メイドの土産を」教えたわけなんですよ(笑)。
これで私もどうやら、迷わず成仏できそうです(爆)。
でも金銭的にはけっこう高くついたもので、2軒合わせて結局5000円ほどかかってしまいました(苦笑)。
しかしまあ、47年間生きていてもまだまだ世の中わからないことばかりですね (笑)。
とにかくいい経験をさせていただきました。
こうして店を後にすると、夕方も5時を回って夕暮れ時となりました。
再び秋葉原駅に戻り、淳さん・ういかさんとお別れしたわけですが、横浜へ帰るはずの私はなぜかつくばエキスプレスの駅に向かったのでした(爆)。
そしてどこへ行ったのかといいますと・・・それは、いずれまた機会を改めてお話しさせていただこうと思います(原爆)。
今回ご一緒させていただいた皆さん、どうもありがとうございました。
特に、今回の企画を立ててくださった淳さんには厚く御礼申し上げます。
さて今回は、またも番外編をお届けしてしまいます(笑)。
ご存知の通り先月JunkStageの総会があったわけですが、その際にライター仲間の淳さんとたかはしういかさんの間で、なぜか「メイド喫茶に行きましょう」という話が盛り上がったらしく、今月に入って淳さんからfacebookを通じて「メイド喫茶行きませんか?」というお誘いを受けました(爆)。
そういえば私も、生まれてこの方「メイド喫茶」なるものの存在こそ知ってはいましたが、今まで行ったことはありませんでした。
そこで、視野を拡げるためにもひとつ参加してみようと思い、お誘いに乗ることにしたのです。
日時は紆余曲折ありましたが、2月26日の午後2時にJR秋葉原駅の電気街口に集合と決まりました。
当日は東京マラソンも行われていたわけですが、我らがイトウシンタロウさんがそのゴールを目指してラストスパートに入っておられた頃(爆)、集まったのは「首謀者」の淳さん・ういかさんに加えて、ライターOBの石川ふくろうさん・東出達也さん、そして私の計5人でした。
しかし首謀者のお2人が20代で、参加した私たち3人が40代と見事に年代が分かれましたね(笑)。
そういえば、石川さんは第1回の東京マラソンに参加されたことがあるとのことでした。
また、音喜多駿さんも参加されたことがあるそうですね。
さてまず最初に行ったのは、コスプレ喫茶の「Cos-Cha」でした。
ここは普段は店員さんはメイド姿だそうですが、この日のコスプレは「スクール水着」でしたね(苦笑)。
なお、スクール水着の日は「プール入場料」として、1人あたり500円余分に取られます(原爆)。
またなぜか一部の席は、小学校とかの頃教室にあった机と椅子で、壁には黒板まであったりします(爆)。
私たちが座った席は、普通のテーブル席でしたが・・・
でも思っていたよりもまったりした感じで、リラックスして楽しめたと思います。
ここでは、「ちゅーちゅーごっくん」や「あーんぱく」などを楽しみました(水爆)。
「何それ?」ですよね(笑)。
それでは、ご説明申しあげましょう。
まず「ちゅーちゅーごっくん」ですが、冷たい飲み物を頼みますとストローがついてきますよね。
で最初の一口を飲むときに、店員さんがストローに手を添えて「ちゅーちゅーごっくん」と言ってくれるのです(爆)。
それに合わせて「ちゅーちゅーごっくん」と飲むのが、ここでのしきたりのようですね(原爆)。
そして「あーんぱく」の方ですが、温かい飲み物を頼むとスプーンの上に小さなお菓子が乗っていまして、それを店員さんが「あーんぱく」と食べさせてくれるというものです(水爆)。
ちなみに私はカプチーノを頼みましたので、「あーんぱく」でした(笑)。
なお、そのカプチーノの表面にはこんなかわいいイラストが描いてありました。
ところでこの日はちょうど石川さんがお誕生日ということで、店員さんがお祝いをしてくれました。
何をしてくれたかといいますと、皿の上にチョコレートシロップでお祝いのメッセージとイラストを書いてくれたんですね。
さらに帰り際には、店員さん心尽くしのバースデーカードまでもらえてしまいました。
石川さんには、さぞいい記念になったことと思います。
それから、淳さんからは今日のために用意した秘密アイテムがお披露目されました。
それが「女子高制服百科かるた」です。
要するに日本全国から厳選された、48校のかわいい女子高生の制服をかるたにしたものです(爆)。
ちなみにういかさんの母校もありましたが、ういかさんの在学時とはデザインが変わってしまっていて、ういかさんはおかんむりでしたね(原爆)。
あと外山安樹子さんの母校も、あったようですよ(笑)。
とりあえず1軒目はこれくらいでということで、「Cos-Cha」を後にした私たちは秋葉原駅に向かいましたが、その途中でこんな車を見かけました。
これがいわゆる「イタ(痛)車」だそうです。
まあどう見ても、フィアットやランボルギーニではなさそうですが(笑)。
淳さんの案内で、駅近くのフィギュアやプラモデルなどのマニアックな店を見学してから、先に帰られる石川さんと東出さんをお見送りして、残る3人でいよいよ2軒目の本格的なメイド喫茶に「突入」したのです(爆)。
ういかさんの「山根さんをアッと言わせたい」という意味深な言葉に何か悪い予感を感じつつも(爆)、ここまで来たら行かないわけにはいかないと覚悟を決めた私でした。
かのアントニオ猪木も言っていた、「迷わず行けよ、行けばわかるさ」の心境でしたね(原爆)。
とここでちょうど時間となりました(笑)。
2軒目の体験レポートは、次回のお楽しみとさせていただきましょう。
ただ、今週中には書くことをお約束したいと思いますので、どうぞご期待ください。
今回はかなり遅れてしまいました(苦笑)。
最近我が家のパソコンの調子がおかしいうえに、携帯電話(ウィルコム)の調子までおかしくなり、携帯は昨日買い換えました。
ようやく腰を落ち着けて、今回のコラムを書けそうです。
しかしこんなことばかり書き続けていたら、いつか「公務員の信用失墜行為」に該当してしまうのではないかと危惧しつつ、このシリーズを続けております(苦笑)。
さて、ストリップを見始めてから1年少々経った1984年のある日、例によって「内外タイムス」のストリップ劇場広告のページを見ていた私は、ある文言に目を奪われました。
そこには「アクロバットソロ・○○○(踊り子の名前)」とあったのです。
そう、この「アクロバット」と言葉にピンときたんです。
ちなみに、ストリップにおける踊り子の名前は当然のことながら本名ではなく、いわゆる「源氏名」です(爆)。
ここではその頭文字をとって「K嬢」と呼ぶことにいたしましょう。
さっそく週末に、そのK嬢が出演している今はなき大宮市(現さいたま市大宮区)の劇場に出向きました。
最初銀のロングドレスに身を包んで登場したK嬢は、とても小柄でまた年齢的には若くはなかったのがわかりましたが、後ろ向きでドレスを脱ぐと背中にキリッと筋の入った、見事に引き締まった体が現れました。
そしてそこから始まった「アクロバット」に、私は完全に心を奪われたのです。
まずは立ったままの状態から体を弓なりに反らして、バク転から180度前後開脚。
立って再び体を反らせると、今度はブリッジからさらに体を反らせたかと思うと、肘で支持した逆立ちの状態になりました。
そしてバランスをとりつつ、伸ばした脚を前の方に。
言葉で説明すると難しいですが、以前ご紹介した写真のイメージではこれです。
しかしストリップですから、K嬢はこれをTバック1枚で演じていたわけです。
しかもサーカス等とは違って、それこそ手の届きそうな至近距離で見るわけですから、その迫力にもはや呆然とするしかありません。
そして最後の決め技は、うつ伏せに寝た状態から勢いをつけてあごと胸だけで支える逆立ち状態になり、さらに体を反らせて前の方に足をついて立ち上がるという、これまた説明に苦しみますが驚くべきものでした。
一瞬、こういう状態になります。
こうして、私が長年求め続けていたイメージ通りの「ストリップ」と言う名の「Choreography」についに巡り会うことができました。
しかしながら、この後K嬢の姿を見ることはなかなかできませんでした。
その後眼を皿のようにして、毎週の「内外タイムス」でK嬢の名前を追ってみたのですが、1年以上再会できない日々が続きました。
そんな中1985年の5月に、幸運にももう1人アクロバットを見せてくれる踊り子を発見したのです。
こちらは「B嬢」としておきましょうか。
初めて見たのは地元横浜の劇場でしたが、こちらも現在は存在していません(苦笑)。
この時の衣装も記憶に残っておりまして、チャイナドレスのミニスカート版に大きな羽根扇を持って、最初はゆったりとした踊りでした。
1曲踊り終えるとチャイナドレスを脱ぎビキニ姿となりましたが、ここでもB嬢の鍛え抜かれた体に思わず息を呑みました。
彼女のアクロバットは、K譲とは少し違ってゆっくりとした動きでしたが、驚異的な柔軟性と小柄な体からは意外とも思えるパワー、そして卓越したバランス感覚が高度に組み合わさった、まさに「究極のChoreography」でした。
まずは立った状態から体を反らせて見事なU字型のブリッジになり、そこからなんと足を浮かせて逆立ちに持っていってしまいました。
そして逆立ちしたまま、脚を180度近く開いたりまたつま先で頭を触れたりと、多彩なポーズを見せてくれたのです。
さらに、再び足を前方に降ろしてブリッジに戻り、そこからバク転して立ち姿勢に戻るという、見事な一連の技でした。
アクロバットの後半はビキニさえも脱ぎ、身に付けているのは網タイツのみとなりました。
再びブリッジになった彼女は、今度はなんとブリッジしたまま歩きだしたではありませんか(爆)。
そして舞台中央で片脚を真上に上げたポーズをとったあと今度は逆向きに歩き、しまいにはさらに体を反らせてこういうポーズになってしまいました(原爆)。
これはまさに、コントーション(柔軟芸)そのものでした。
それをストリップ劇場の中で、しかも至近距離で見られるのですからすばらしい。
ここに私のストリップ遍歴は、充実の「第2期」に突入するのでした。
この第2期はこの後8年ほど続くのですが、その長い間にはいくつかのターニングポイントもありました。
それについてはまた、以降のお楽しみとさせていただきましょう(笑)。
参考までに、後半2枚の「イメージ写真」は中国雑技からですが、2001年の10月に東京都練馬区で撮影したものです。
なお次回のコラムは、番外編をお送りする予定です(爆)。
今回はかなり遅れてしまいました(苦笑)。
最近我が家のパソコンの調子がおかしいうえに、携帯電話(ウィルコム)の調子までおかしくなり、携帯は昨日買い換えました。
ようやく腰を落ち着けて、今回のコラムを書けそうです。
しかしこんなことばかり書き続けていたら、いつか「公務員の信用失墜行為」に該当してしまうのではないかと危惧しつつ、このシリーズを続けております(苦笑)。
さて、ストリップを見始めてから1年少々経った1984年のある日、例によって「内外タイムス」のストリップ劇場広告のページを見ていた私は、ある文言に目を奪われました。
そこには「アクロバットソロ・○○○(踊り子の名前)」とあったのです。
そう、この「アクロバット」と言葉にピンときたんです。
ちなみに、ストリップにおける踊り子の名前は当然のことながら本名ではなく、いわゆる「源氏名」です(爆)。
ここではその頭文字をとって「K嬢」と呼ぶことにいたしましょう。
さっそく週末に、そのK嬢が出演している今はなき大宮市(現さいたま市大宮区)の劇場に出向きました。
最初銀のロングドレスに身を包んで登場したK嬢は、とても小柄でまた年齢的には若くはなかったのがわかりましたが、後ろ向きでドレスを脱ぐと背中にキリッと筋の入った、見事に引き締まった体が現れました。
そしてそこから始まった「アクロバット」に、私は完全に心を奪われたのです。
まずは立ったままの状態から体を弓なりに反らして、バク転から180度前後開脚。
立って再び体を反らせると、今度はブリッジからさらに体を反らせたかと思うと、肘で支持した逆立ちの状態になりました。
そしてバランスをとりつつ、伸ばした脚を前の方に。
言葉で説明すると難しいですが、以前ご紹介した写真のイメージではこれです。
しかしストリップですから、K嬢はこれをTバック1枚で演じていたわけです。
しかもサーカス等とは違って、それこそ手の届きそうな至近距離で見るわけですから、その迫力にもはや呆然とするしかありません。
そして最後の決め技は、うつ伏せに寝た状態から勢いをつけてあごと胸だけで支える逆立ち状態になり、さらに体を反らせて前の方に足をついて立ち上がるという、これまた説明に苦しみますが驚くべきものでした。
一瞬、こういう状態になります。
こうして、私が長年求め続けていたイメージ通りの「ストリップ」と言う名の「Choreography」についに巡り会うことができました。
しかしながら、この後K嬢の姿を見ることはなかなかできませんでした。
その後眼を皿のようにして、毎週の「内外タイムス」でK嬢の名前を追ってみたのですが、1年以上再会できない日々が続きました。
そんな中1985年の5月に、幸運にももう1人アクロバットを見せてくれる踊り子を発見したのです。
こちらは「B嬢」としておきましょうか。
初めて見たのは地元横浜の劇場でしたが、こちらも現在は存在していません(苦笑)。
この時の衣装も記憶に残っておりまして、チャイナドレスのミニスカート版に大きな羽根扇を持って、最初はゆったりとした踊りでした。
1曲踊り終えるとチャイナドレスを脱ぎビキニ姿となりましたが、ここでもB嬢の鍛え抜かれた体に思わず息を呑みました。
彼女のアクロバットは、K譲とは少し違ってゆっくりとした動きでしたが、驚異的な柔軟性と小柄な体からは意外とも思えるパワー、そして卓越したバランス感覚が高度に組み合わさった、まさに「究極のChoreography」でした。
まずは立った状態から体を反らせて見事なU字型のブリッジになり、そこからなんと足を浮かせて逆立ちに持っていってしまいました。
そして逆立ちしたまま、脚を180度近く開いたりまたつま先で頭を触れたりと、多彩なポーズを見せてくれたのです。
さらに、再び足を前方に降ろしてブリッジに戻り、そこからバク転して立ち姿勢に戻るという、見事な一連の技でした。
アクロバットの後半はビキニさえも脱ぎ、身に付けているのは網タイツのみとなりました。
再びブリッジになった彼女は、今度はなんとブリッジしたまま歩きだしたではありませんか(爆)。
そして舞台中央で片脚を真上に上げたポーズをとったあと今度は逆向きに歩き、しまいにはさらに体を反らせてこういうポーズになってしまいました(原爆)。
これはまさに、コントーション(柔軟芸)そのものでした。
それをストリップ劇場の中で、しかも至近距離で見られるのですからすばらしい。
ここに私のストリップ遍歴は、充実の「第2期」に突入するのでした。
この第2期はこの後8年ほど続くのですが、その長い間にはいくつかのターニングポイントもありました。
それについてはまた、以降のお楽しみとさせていただきましょう(笑)。
参考までに、後半2枚の「イメージ写真」は中国雑技からですが、2001年の10月に東京都練馬区で撮影したものです。
なお次回のコラムは、番外編をお送りする予定です(爆)。
今回はかなり遅れてしまいました(苦笑)。
最近我が家のパソコンの調子がおかしいうえに、携帯電話(ウィルコム)の調子までおかしくなり、携帯は昨日買い換えました。
ようやく腰を落ち着けて、今回のコラムを書けそうです。
しかしこんなことばかり書き続けていたら、いつか「公務員の信用失墜行為」に該当してしまうのではないかと危惧しつつ、このシリーズを続けております(苦笑)。
さて、ストリップを見始めてから1年少々経った1984年のある日、例によって「内外タイムス」のストリップ劇場広告のページを見ていた私は、ある文言に目を奪われました。
そこには「アクロバットソロ・○○○(踊り子の名前)」とあったのです。
そう、この「アクロバット」と言葉にピンときたんです。
ちなみに、ストリップにおける踊り子の名前は当然のことながら本名ではなく、いわゆる「源氏名」です(爆)。
ここではその頭文字をとって「K嬢」と呼ぶことにいたしましょう。
さっそく週末に、そのK嬢が出演している今はなき大宮市(現さいたま市大宮区)の劇場に出向きました。
最初銀のロングドレスに身を包んで登場したK嬢は、とても小柄でまた年齢的には若くはなかったのがわかりましたが、後ろ向きでドレスを脱ぐと背中にキリッと筋の入った、見事に引き締まった体が現れました。
そしてそこから始まった「アクロバット」に、私は完全に心を奪われたのです。
まずは立ったままの状態から体を弓なりに反らして、バク転から180度前後開脚。
立って再び体を反らせると、今度はブリッジからさらに体を反らせたかと思うと、肘で支持した逆立ちの状態になりました。
そしてバランスをとりつつ、伸ばした脚を前の方に。
言葉で説明すると難しいですが、以前ご紹介した写真のイメージではこれです。
しかしストリップですから、K嬢はこれをTバック1枚で演じていたわけです。
しかもサーカス等とは違って、それこそ手の届きそうな至近距離で見るわけですから、その迫力にもはや呆然とするしかありません。
そして最後の決め技は、うつ伏せに寝た状態から勢いをつけてあごと胸だけで支える逆立ち状態になり、さらに体を反らせて前の方に足をついて立ち上がるという、これまた説明に苦しみますが驚くべきものでした。
一瞬、こういう状態になります。
こうして、私が長年求め続けていたイメージ通りの「ストリップ」と言う名の「Choreography」についに巡り会うことができました。
しかしながら、この後K嬢の姿を見ることはなかなかできませんでした。
その後眼を皿のようにして、毎週の「内外タイムス」でK嬢の名前を追ってみたのですが、1年以上再会できない日々が続きました。
そんな中1985年の5月に、幸運にももう1人アクロバットを見せてくれる踊り子を発見したのです。
こちらは「B嬢」としておきましょうか。
初めて見たのは地元横浜の劇場でしたが、こちらも現在は存在していません(苦笑)。
この時の衣装も記憶に残っておりまして、チャイナドレスのミニスカート版に大きな羽根扇を持って、最初はゆったりとした踊りでした。
1曲踊り終えるとチャイナドレスを脱ぎビキニ姿となりましたが、ここでもB嬢の鍛え抜かれた体に思わず息を呑みました。
彼女のアクロバットは、K譲とは少し違ってゆっくりとした動きでしたが、驚異的な柔軟性と小柄な体からは意外とも思えるパワー、そして卓越したバランス感覚が高度に組み合わさった、まさに「究極のChoreography」でした。
まずは立った状態から体を反らせて見事なU字型のブリッジになり、そこからなんと足を浮かせて逆立ちに持っていってしまいました。
そして逆立ちしたまま、脚を180度近く開いたりまたつま先で頭を触れたりと、多彩なポーズを見せてくれたのです。
さらに、再び足を前方に降ろしてブリッジに戻り、そこからバク転して立ち姿勢に戻るという、見事な一連の技でした。
アクロバットの後半はビキニさえも脱ぎ、身に付けているのは網タイツのみとなりました。
再びブリッジになった彼女は、今度はなんとブリッジしたまま歩きだしたではありませんか(爆)。
そして舞台中央で片脚を真上に上げたポーズをとったあと今度は逆向きに歩き、しまいにはさらに体を反らせてこういうポーズになってしまいました(原爆)。
これはまさに、コントーション(柔軟芸)そのものでした。
それをストリップ劇場の中で、しかも至近距離で見られるのですからすばらしい。
ここに私のストリップ遍歴は、充実の「第2期」に突入するのでした。
この第2期はこの後8年ほど続くのですが、その長い間にはいくつかのターニングポイントもありました。
それについてはまた、以降のお楽しみとさせていただきましょう(笑)。
参考までに、後半2枚の「イメージ写真」は中国雑技からですが、2001年の10月に東京都練馬区で撮影したものです。
なお次回のコラムは、番外編をお送りする予定です(爆)。
さて、それではお約束ですからしかたありません(苦笑)。
前回の続きを書くことといたしましょう。
今回は、ストリップを見始めた頃の「第1期」のお話をさせていただこうと思います。
最初に書きましたとおり、私が初めてストリップを見たのは1983年の3月の、大学受験が終わった翌日のことでした。
とは言いましても、当時はインターネットのように便利に調べられる時代ではなく、まして「ストリップ劇場ってどこにあるの?」なんてことは、とても人に聞けたものではありませんでした(爆)。
そんな中、ひとつの手掛かりを与えてくれた本が地元の図書館にありました。
「芸双書3 さらす ストリップの世界」(白水社)
今思えば、よくこんな本がだれでも手に取って読める図書館に置いてあったなという感じでしたが、この「芸双書」シリーズには他にサーカス・手品・浪花節・大衆演劇なども取り上げられていて、「大衆芸能」のひとつとして扱われていたようですね。
そしてその本を熟読して、最初に見る場所としてストリップ発祥の地でもある、東京の浅草の劇場と決めました。
浅草には当時、2つの劇場がありました。
今はなき「フランス座」と、現在もある「ロック座」です。
そして私が入った劇場はロック座の方でしたが、決め手は1000円という格安の入場料でした(原爆)。
半ばビクビクしながら入り、満席の場内で立ち見で観賞していたことを記憶していますが、見ていたショーはほとんど記憶に残っておりません(苦笑)。
ただ確かだったのは、私が想定していたものとはどうも違うようだということでした。
どう違ったのかは微妙な内容になりますので(爆)、あまり具体的には書けないのですが、「Choreography」として見たときの満足度がそれほどでもなかったのですね。
そして晴れて大学生になってからしばらくは、私が求めていたイメージに合致するストリップを求めて、ストリップ劇場に出向いたものです。
ただ当時は学生だけに金がなく、もらえる小遣いも月にわずか6000円くらいなものでしたから、何ヶ月かに一度行ければいい方でした。
通学定期のおかげで、交通費はそれほどかからなくて済みましたけどね。
また最初に入った浅草ロック座は、ほどなくして1年ほど改装のため休業になってしまったので、この時期主に行った劇場は浅草フランス座でした。
ここも入場料が1500円と安く、さらに「学生割引」があったので私は1300円で入場できたのです(笑)。
しかし、その浅草フランス座は2000年をもって閉館し、現在は「東洋館」という演芸場になっています。
また、前述の「芸双書」から首都圏のストリップ劇場及び出演者の情報は、「内外タイムス」という今はなき夕刊紙に掲載されているとの記述があり、これは駅の売店で簡単に入手できましたので、以後10日に1回必ず購入するように心がけました。
そしてこれを手掛かりに浅草以外の劇場にもいくつか巡りましたが、それらの劇場は入場料が高かった(2000円以上)うえに、その劇場内で行われていたことはもはや「Choreography」とは到底言えないものでした(水爆)。
それが具体的にどういうものなのかは、こちらで書くことはなにとぞご勘弁くださいませ(苦笑)。
そんなこんなで、理想と現実のギャップに戸惑いながらも細々とストリップ観賞を続けていた私でしたが、1984年に最初のターニングポイントを迎え「第2期」に突入したのですが、そのお話はまた次回に(笑)。
ところで昨日、実はその浅草フランス座の「なれの果て」でもある「東洋館」に行ってまいりました。
それはなぜかといいますと、ライター仲間の三増巳也さんのお父様でもある、源氏太郎さんの芸を拝見するためでした。
通常は毎月「0」の付く日(10日・20日・30日)にしか出ておられないそうで、なかなか休日にタイミングが合わなかったのですが、三増さんからfacebookを通して「11・12日は出ますよ」とうかがったので、お邪魔した次第です。
ここは漫談や形態模写(ものまね)、コントなどいわゆる「色物」を見せる演芸場なのですが、12日の公演の「トリ」(最後)を演じていたのが、その源氏太郎さんでした。
ゴムバンドを付けたハーモニカを手も使わず演奏したり、口にハーモニカ・手にギター・足にカスタネットで「一人バンド」をやってのけてしまったり、82歳とは思えない見事なパフォーマンスを目の当たりにして、私も大いに驚かされました。
またしゃべりの方もまさに「立て板に水」のごとく非常になめらかで、これが「本物の芸」というものだと改めて感じました。
最後には、三増さんおっしゃるとおりギターを弾きながら皿回しまでやってのけ、見事に1日の公演を締めくくりました。
ほかにも、漫談や形態模写などバラエティに富んだ内容で、1時間半程度の短い時間ではありましたが、十分に楽しむことができたと思います。
特に「筋肉漫談」の「ぶるうたす」は、昔(約30年前)にテレビでわりと見ていたのですが、初めて生で見て感動しました(笑)。
しかしもうあと2年で還暦と聞くと、やはり時の流れの速さを感じますねえ(苦笑)。
客の入りが多くて40人ちょっとくらいで、日曜日にしてはちょっとさびしいかなと思いましたが、肩の力を抜いてリラックスして楽しめました。
観客の中には若いカップルもいて、終演後に「面白かったね」「うん」と会話していたのが印象的でした。
後半はストリップから離れてしまいましたが、浅草フランス座つながりということでご容赦ください(笑)。
前回の最後に、今回は「あれ」の続きを書きますと予告してしまったのですが、急遽書きたいことができてしまいましたので、すみませんが今回はそれを優先させてください。
まあ連載ものは、いつでも続きを書けますからね(笑)。
まず最初に、今日行われた「別府大分毎日マラソン」の話題からまいりましょう。
ご存知の方も多いかと思いますが、今年のこの大会にはこちらでもご紹介した「猫ひろし」ことカンボジア人・瀧崎邦明選手が参戦していました。
昨年11月の東南アジア競技大会(SEA Games)では、2時間37分39秒の5位に終わり代表確定とはいかなかったので、今大会にロンドン五輪代表の座を賭けたというわけです。
といいますのも、カンボジアには北京五輪代表にもなったヘム・ブンティン選手というライバルがいて、この選手の最高記録が2時間31分58秒なので、この記録を上回ることをカンボジアの五輪委員会に求められていたからだそうです。
当初は東京マラソンに出場を予定していたところを変更したみたいですが、別府大分の方がコースが平坦でタイムが出やすいと判断したのでしょうか。
しかし彼は、見事に2時間30秒26(50位)という「結果」を出しました。
SEA Gamesで出した自己新記録を7分以上短縮し、目標タイムをクリア。
テレビ中継を私も見ましたが、沿道での応援に対して笑顔を返したりガッツポーズを見せたりしながら、これだけの記録を残したことには驚かされました。
欲を言えば、2時間30分を下回ってほしかったところでしたが、もしロンドン五輪に出場して真剣勝負に徹すれば、さらなる記録更新も期待できるのではないでしょうか。
ちなみに、公式ホームページの結果では氏名が漢字とローマ字で表記されているのですが、漢字氏名が「猫 ひろし」になっているのにローマ字では「Takizaki Kuniaki」になっていました(笑)。
相変わらずいろいろ言われているようですが、ここまで来たらぜひ彼がロンドン五輪のマラソンに出場するところを見てみたいな、と個人的には思っております。
そういえば瀧崎選手が着ていたユニフォームの胸には、カンボジア国旗の図柄がありました。
カンボジア国旗の中心には、世界遺産の「アンコールワット」が描かれています。
日本代表選手がマラソンを走るときには「日の丸を背負って走る」と言いますが、それなら瀧崎選手はさしずめ「アンコールワットを背負って」ロンドンを走ることになるのでしょうか(爆)。
さて続いては、これも今日見てきたばかりなのですが、横浜の中華街で「春節」のイベントが行われていました。
いわゆる旧暦でいう正月のお祝いなのですが、イベントも中華街らしく中国文化のオンパレードでした。
そしてその中には、中国雑技芸術団のパフォーマンスも含まれていたのです。
ご覧のとおりのすごい人出の中なんとか撮影したショットですが、羽田空港のときとは違って屋外で高さの制約もないので、椅子はしっかり6個積み上げられていましたから、高さも半端ではありませんでした。
こちらは神戸市の高校の生徒による、「龍舞」です。
ほか写真は撮りませんでしたが、獅子舞や中国舞踊のパフォーマンスもありました。
短い時間ながら内容の濃い観賞でしたが、ちょっと観客が多過ぎですね(苦笑)。
それともうひとつ金曜日(3日)のお話ですが、昨年5月以来久々に大塚の「ESPETO BRASIL」に行ってまいりました。
そう、我がJunkStageのライター仲間の廣川昭彦さんとエイミーさんにお会いしてきたのです。
ただ時間の関係で、「オルケスタ うっかり☆ソン」のライブが始まる前に失礼させていただいてしまったので、今回は残念ながら「ノーカウント」ということになりそうですね(苦笑)。
また改めて、お邪魔させていただこうと思います。
なおどうでもいいお話ですが、エイミーさんもiphoneユーザーでした(原爆)。
というわけで、今回も小ネタ集で失礼させていただきました(笑)。