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今日はひそかに、アニメオタクの淳さんと「JunkStageライター交流企画」を実行しておりました(爆)。
その模様は近いうちに、こちらでご報告させていただこうと思います。
それでは今回は、連載シリーズの続きをお送りいたしましょう(笑)。
1985年については、ストリップ業界全体にも大きなターニングポイントが 訪れました。
それは、改正された「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」(風営法) の施行です。
当時のストリップの主流は、一言でいえば「風俗」そのものでした。
すなわち、もっぱら男の性的欲求を満たすためのものだったのです。
だから、ここでそれを詳しく書くわけにはいかなかったのですよ(苦笑)。
しかし上記の「風営法」の施行を境に、こういった「風俗」に対する取締りが強化されていくことになりました。
(それでも、「風俗」としてのストリップも21世紀初頭までは、どうにか生き延びていたようですが・・・))
そこでストリップ業界でも「風俗」からの脱却を試みてか、「アイドルストリッパー」とも言われる若い世代の踊り子が登場するようになりました。
ただ、踊りのレベルは当時はまだいまひとつで、高度な技と鍛え抜かれた体の魅力あふれるアクロバットを知っている私としては、あまり積極的に見る気にはなれませんでした(苦笑)。
もし私が大学を卒業する1987年までに、アクロバットを見せてくれた2人 の踊り子と出 会わなかったら、おそらくその時点でストリップを「卒業」していたと思 います。
さて、毎週「内外タイムス」を購入しこの2人の踊り子の名前を追っていた私でしたが、なにしろまだ大学生だったもので行けるのはおおむね首都圏内の劇場に限られ、それらの劇場にはなかなか来てくれなかったのでした(苦笑)。
そうこうしているうちに1年が経過し、ようやくB嬢に再会できたのは大学生活も4年目に入った1986年の春のことでした。
それからは首都圏の劇場にわりと来演するようになったので、B嬢の出演しているときには出向くよう心がけました。
その当時はアクロバットが終わった後に少し話ができる機会があったのですが、そんなときに私も、「すごい技だったねえ」とか「どうしたらそんなに柔らかくなるの?」とか話しかけたりしたものです。
彼女いわく「練習です」ということでしたが、単なる練習であんなに柔らかくなるとは思えませんでした。
そのアクロバットの魅力にもっと触れたい、そしてその秘密をそして彼女自身をもっと知ってみたい、そんな気持ちが私の中で大きくなっていきました。
今考えてみれば、それは「恋心」と言ってもいいくらいのものだったかもしれません。
そして1987年の3月、無事公務員試験にも合格して大学も卒業しいよいよ社会人としての第一歩を踏み出そうとしていた時期に、もうひとつのターニングポイントが訪れました。
これも今はなき東京都立川市にあった劇場でのことで、その日雪が降っていたことは今でも忘れません。
例によってアクロバットを披露した後の「交流タイム」のときに、私は思わず「出番が終わった後に、少しお話しさせてもらえないかな」と彼女に「店外デート」を申し込んでいたのです(原爆)。
なんかこのときは、自分でも半ば無意識のうちに言ってしまったという感じで、まさか彼女が承諾してくれるとは思いませんでした。
このときは、劇場の中のロビーの一角で10分くらいだったでしょうか。
しかしこれによって、初めてストリップの踊り子とステージ以外の場で交流を持つことができたという、いわば新境地が開けたことになりました。
そしてこれ以降、B嬢とは劇場でアクロバットを観賞した後で、喫茶店等で話したり時には飲みに行ったりという付き合いもするようになったのです。
アクロバットのことやストリップのことに限らずいろいろな話をしましたが、意外だったのはステージであれほど見事なアクロバットを見せ鍛え抜かれた体の持ち主である彼女が、スポーツはほとんどできないということでした。
学校の体育の授業は、ほとんど見学だったとか。
しかしそんな彼女でも長年アクロバットの練習を積むことによって、サーカスに出しても恥ずかしくないほどの芸を身に着けることができたのですね。
私も働くようになって自由になるお金が増えましたし、ストリップの入場料はそれほど高くありませんでしたから、学生のときよりも頻繁にストリップ劇場に通うようになりました。
もちろん、一度は彼女を抱きたいという下心もないわけではありませんでしたが(爆)、それを行動に出すのだけはグッと抑えてきましたし、だからこそ長くよい関係が続いたのかなと思っています。
それに、早い段階で彼氏の存在は聞かされていましたからね(苦笑)。
一方もう一人のアクロバットダンサーのK嬢ですが、なんでも山梨県が本拠地らしく、B嬢に比べれば見る機会は少なかったですね。
いずれにしても当時は、この2人のアクロバットダンサーをもっぱら見続けていました。
ただ、彼女たちのアクロバットを見ることができるのは、一回り3時間弱のショーの中でほんの20数分くらいしかなく、それ以外の時間は私にとっては正直苦痛でしたね(苦笑)。
だから、毎回見るのはおおむね二回り(約6時間)が限界でした。
しかも当時は観客も多く、1回目だとまず座れることはなくて2回目でようやく座れるという感じでした。
それでも、それを我慢してでも見る値打ちがあったのがアクロバットだったということです。
世が昭和から平成に変わってもこの充実した生活は続きましたが、それにもやがて終わりが訪れました。
そのお話は、また次回以降のお楽しみとさせていただきましょう(笑)。