こんばんは、酒井孝祥です。
オムニバス形式で毎回複数の作品で構成される今昔舞踊劇ですが、過去何年も上演されているため、結構多くの作品レパートリーが蓄積されています。
そのレパートリーの中から何作品かをピックアップして、それに加えて新作が執筆されます。
新作が脱稿するまでの間は、既に出来上がっている過去作品を、上演VTRを見て浚いながら稽古します。
逆に言うと、新作が出来上がるまでは、稽古出来る作品が限られているので、それまでの間、その作品にじっくりと時間をかけて稽古を行うことが出来ます。
今の時点で、酒井が確定しているのは2役で、そのうちの1役は、今の時点でほぼ動きがついております。
まずは、この役を徹底的に作り込んでいこうと決めました。
下人の役なのですが、この役は、常に六尺棒を持って舞台上にいます。
六尺棒とは、六尺の長さの棒、つまり一尺が約30センチなので、180センチもの長さがある棒です。
酒井の身長は170センチとちょっとなので、自分の身長よりも長い棒を得物にした立ち回りシーンがあるのです。
立ち回りシーンにおいて、最も大切なことは何か?
それは、人に怪我をさせず、自分も怪我をしないことでしょう。
立ち回りは、安全に行うことが最低限の条件であり、それがクリア出来て、初めて芝居のことをが考えられる様になるかと思います。
今回のような長い得物は特に危険です。
周囲の状況と自分が持っているもののリーチを常に意識していないと、即怪我に繋がり得ます。
2年前に今昔舞踊劇に出演したときにも、六尺棒を使った立ち回りがあり、本番近くで稽古で小道具が使えるまでは、木刀で代用して稽古しておりました。
しかし、本番近くで初めて六尺棒を握ってみると、あまりにも長いので、いかに周囲にぶつけないようにするために、自分の身体に沿わせるようにするか等、その扱いに戸惑いました。
今回は、稽古の初期段階からこの棒の長さに慣れようと思い、ホームセンターでマイ六尺棒を購入しました。
それを持ち歩くのはなかなか大変で、電車に乗るときなど一苦労ですが、逆に、これを持ち歩くのが当たり前になって、狭いところを通る際のさばきなどが自然になってくれば、舞台でも棒が活きてくると思います。
ですから、稽古がない日でも、出来るだけ六尺棒を持ち歩こうと思います。
こんばんは、酒井孝祥です。
歌舞伎や文楽で、黒い衣装と黒い頭巾を纏って舞台上に登場し、小道具を役者に渡したり回収したり、衣装チェンジの補佐をしたり、舞台の転換の補助をしたり等する人を、黒子と呼びます。
元来は黒衣(くろご)という名称であったものが、誤用されているうちに、黒子(くろこ)という名称で定着したようです。
作品の種類によっては、黒装束で顔形を隠すことなく、紋付き袴などを身につけて、黒子と同じ役割を果たす人が後見として登場することもあります。
今昔舞踊劇では、歌舞伎の様に黒子が登場します。
黒子は、目立たない格好をしてはおりますが、どう見たってお客様の目に入ります。
もちろん、お客様の方でも、黒子は本来そこにはいない存在として認識する必要があります。
しかし、いくらお客様がいない存在だと思おうとしても、舞台上で動くものに自然に目がいってしまうのはどうにもならないことです。
そうである以上、黒子の方でも、自身の姿を目立たなくする努力が必要です。
今昔舞踊劇は、小道具のアイテム数が多く、その出入りが激しいため、結構大人数の黒子を必要とします。
今回、黒子専属メンバーもいるのですが、それだけでは賄えないため、役者として出演するメンバーも、自分の出番がないときには黒子衣装に着替えて働かなければなりません。
そんなわけで、稽古の中で、黒子としての身体の扱い方の練習も行います。
役者として舞台に上がるときには、アンサンブル的な役割でない限り、いかに自分の存在をお客様に印象付けるような目立つ存在になるかが重要ですが、黒子の場合は全く逆のことが要求されます。
目立ってはいけないと思い、こそこそと動くと、余計にお客様は気になってしまいます。
黒子は、いないことになっている存在であっても、いてはいけない存在ではありません。
必要があって動くべきところは、変に身を隠そうとせずに、堂々と、そして素早く無駄なく動く。
その方がかえって目立ちません。
黒子として、存在を目立たなくする方法を体得した役者は、その逆にも応用出来ることでしょう。
良い役者は良い黒子たれ。
こんばんは、酒井孝祥です。
本年の今昔舞踊劇の東京公演本番は9月ですが、稽古は早くも5月からぼちぼち始まりました。
本格化するのは7月に入ってからにせよ、ウォーミングアップ的に、基礎的な身体訓練や早替えの練習などからスタートです。
諸事情があって、僕が参加したのは6月からですが、その最初の稽古日で、あることを質問されました。
「今回はどっちの名前で出るの?」
そう、昨年までと違うこととして、僕が日本舞踊の名取になったということがあります。
この公演は、日本舞踊の公演ではないにせよ、日本舞踊的な要素がたっぷり含まれた公演ですから、日本舞踊の名取名で出演するのが筋かもしれません。
しかし、色々と厄介な事情もあります。
劇団の主要メンバーにも日本舞踊のお名取さんがいるのですが、僕とは流派が違います。
そして、そちらの方達は諸事情があって、チラシやパンフレットに名取名を出さないので、僕が名取名で出演するとなると、流派の名前で出演するのは僕だけになります。
また、もしこれが日本舞踊の踊りの会だったら、一人だけ別流派の人が出るというのは、賛助出演という扱いにもなりかねます。
そんなこともあるので、名乗らない方が無難であると思いつつも、仮に名乗るとしても、家元の了承が必要になる話なので、家元に相談してみました。
すると、想定外のお答えをいただきました。
僕は、名取名を名乗ってよいものかどうかの確認の様なニュアンスで相談したのですが、返ってきたのは、酒井孝祥という名前を大切にした方が良いというお言葉でした。
折角これまで酒井孝祥と名乗って俳優として活動してきた経歴があり、まして同公演に出るのは初めてではないので、酒井孝祥の名前で覚えてくれているお客様だっているはずです。
新しい名前をいただいたことで、自分がもともと持っている、親からいただいた名前にも素晴らしい価値があることを忘れてしまっていた自分に気が付きました。
今回の今昔舞踊劇には、酒井孝祥の名前で出演いたします。
こんばんは、酒井孝祥です。
毎年出演させていただいて、今年で3年目になるのですが、本年9月に東京の靖国神社、10月には山梨の甲斐善光寺にて行われる、「今昔舞踊劇」という公演に出演いたします。
今回からしばらくの間、古典芸能修行中の酒井が、古典芸能の要素を含んだ一つの作品に携わって、その作品を創り上げていく道のりを「今昔舞踊劇への道」と題して連載していきます。
第一回目は、酒井がこの公演と出会った発端です。
もう数年前になるのですが、たまたま知人が出演している、あるお芝居のチラシを見つけて、足を運びました。
そのお芝居がなかなか面白い内容だったので、後日その劇団のホームページを見たところ、主要メンバーが日本舞踊を習っており、主催者は日本舞踊のお名取さんであることが分かりました。
このJunk Stage「和に学ぼう!」の趣旨の通り、酒井は、古典芸能の持つ魅力を、古典芸能そのものではない別のジャンルの舞台で活かすことを、その当時からも目指しております。
もしかしたら、この劇団は、その自分が抱いた志を実践しているのではないか…?
そう思って、その劇団が次に行う「今昔舞踊劇」という、靖国神社内の野外ステージで行われる公演に足を運んだのですが、自分が想像していた以上のものを目の当たりにしました。
決して歌舞伎や狂言の家に生まれたわけではない俳優達が、能舞台を模した舞台上で、古典芸能的な演出要素をふんだんに盛り込んだ作品の中で生きていました。
日本に古くから伝わる物語の数々をオムニバス形式で上演するスタイルの公演ですが、特にそのときに印象を受けたのは「ろくろ首」という作品です。
「ろくろ首」と聞くと、首が長く伸びる妖怪がイメージされるかと思いますが、この作品では、首だけが身体から離れて飛んでいく妖怪達が登場し、怪力の僧がその首達を蹴散らしていくというアクション仕立ての構成です。
その妖怪達が、日本舞踊的な扇子の扱いと衣装の引き抜きに加え、イリュージョン的な演出によって、実に見事に表現されていました。
僕はその公演を観て、思わず次の日のチケットも買ってしまいました。
パーカッションの生演奏をバックに、日本舞踊と殺陣、そしてイリュージョンの演出が盛り込まれ、早替えに次ぐ早替えにも定評のある、大人から子どもまで楽しめるエンターテインメント作品…
「今昔舞踊劇」こそが、自分が理想とする公演に最も近いという確信があったのです。
そして、今はその公演に出演し、同時にその魅力を広める立場にあります。
こんばんは、酒井孝祥です。
舞台は、物理的には、木で出来たただの板です。
しかし、そこに演者が立ち、照明があたり、音楽が流れれば、どんな空間にもなることが出来ます。
舞台空間を利用して、演者とお客さんは、宇宙にだって飛んでいけます。
そこは、無限の想像世界への入り口なのです。
一般的に「舞台」「Stage」と聞くと、どの様なビジョンを思い浮かべられますでしょうか?
多くの人は、客席が沢山並んだ前方向に、段差があって客席の床より高い空間が、横長でワイドが広くなっており、幕が開閉出来るようになっているもの、いわば学校の体育館にあるステージの様なビジョンを思い浮かべるのではないかとおもいます。
しかし、舞台空間の形状には、それ以外にも沢山の種類があります。
小劇場等だと、平台や客席の位置が動かせるようになっていて、同じ劇場であったとしても、仕込みの仕方次第で、ときにはコロシアムの様な円形の舞台になったり、真ん中に花道の様に作られた舞台の両側に客席があったりすることもあれば、リノリウム等で仕切られているだけで、客席と舞台に段差がないこと等もあります。
開閉出来る幕がない舞台も珍しくありません。
そして、日本独自の舞台として、能舞台(能楽堂)と呼ばれる舞台があります。
版権上、このコラムで能舞台の実物の画像を載せることは出来ませんが、ネット検索すれば沢山出てきますので、もし、能舞台と聞いてイメージが湧かない人がいたら、検索してみるとよいかと思います。
能・狂言を演じるための舞台ではありますが、それ以外を演じてはいけないというルールがあるわけではない様で、稀に別ジャンルの公演が行われることもあります(ただし、どんな衣装であろうと、舞台に上がる人は足袋をはくことが必須条件となります)。
何の前知識もないままに、外国の方などが能舞台の現物を見たとしたら、きっとそれが、パフォーマンスを行うための空間だとは想像出来ないと思います。
何か宗教的な儀式を行うための空間か、下手すれば、人が住む家屋の一部と思うかも知れません。
何しろ舞台には屋根がついており、背の低い欄干(手摺)もあります。
屋根があるのは、能や狂言がもともと屋外で上演されていたことの名残のようです。
そして、能舞台の基本的なアクティングスペースは正方形をしております。
その正方形の舞台から、歌舞伎で言えば花道にあたる(順番的には歌舞伎舞台の方が能舞台を参考にしたと思われますが…)、橋掛かりと呼ばれる細長い道の様な空間がのびており、演者はそこを通って、正方形の本舞台まで達します。
正方形の舞台というのは、西洋ではほとんど見られないとおもいますが、正方形である能舞台は、舞台を脇方向から観ても楽しむことが出来、そのための座席も設けられています。
もし長方形の舞台を脇から見たとすると、演者の移動が小さく感じられ、複数の演者の姿が重なって見にくいものでしょう。
演者が、まさに縦横無尽に動き回ることが出来るのも、正方形ならではと思います。
そして、能舞台は、演じる作品によって、舞台美術が変わることはありません。
どんな作品であっても、背景には松の木が描かれています。
そして照明的な演出も一切なく、客席も含めて常に同じ明るさで上演されます。
幕も、演者が登場するところに揚げ幕があるだけで、舞台空間を客席からシャットアウトして空間を切り替えるための幕はありません。
つまりは、その板の上の空間を別の空間に変えるのは、ほぼ演者の力によるものです。
正方形の四辺に沿って、摺り足で移動すれば、ある場所から別の場所に移動していることを表し、その移動を止めれば、目的地に到着して、場所が別の処に切り替わったことになります。
舞台の前の際の近くまで移動してきて、正面の客席に向かって言葉を発すれば、それは、物語の中では聞こえている言葉ではなく、その人物の心の声を独白しているということになります。
一見シンプルでありながらも、演者の力一つで宇宙にもなり得るのが、能舞台の魅力かもしれません。
次回からしばらくの間、ある一つのことに関しての、連載的な内容のコラムをお届けしようかと思っております。
乞うご期待!
こんばんは、酒井孝祥です。
今週末の土曜日に、浄瑠璃の発表会に出演します。
・平成25年7月13日(土)14時開演
※酒井の出演は、14時45分前後
・於 赤城神社ホール
※東西線「神楽坂駅」神楽坂口を出てすぐにある赤 城神社の境内に入り、本殿右脇のエレベータで地 下1階に降ります。
・木戸銭:1000円
今回酒井は、「恋娘昔八丈―城木屋―」という演目を語ります。
会は17時過ぎまで続く予定で、1曲15分強の作品が多数演奏されます。
途中入退場は自由です。
二丁の三味線の伴奏で、江戸の物語を語ります。
この美しい音色と、心に響く語りを体感したことのない皆様、是非、この機会に足をお運び下さい ませ。
甚だ未熟ではありながらも、一同、精進してまいります。
事前予約は特に必要ありませんので、当日会場に 行って、受付で1000円お支払いいただければ結構です。
特に酒井扱いと仰っていただく必要もありませ ん。
ご質問がありましたら、下記酒井の連絡先までお問い合わせ下さい。
ただし、本番当日のメールには応じられない可能性があります。
sakai.taka2013■gmail.com
※お手数ですが、■を@に変えて下さい。
お待ち申し上げております。
こんにちは、酒井孝祥です。
今日はこれからClub Junkstageがオープンしますが、その前にあった稽古が意外に早く終わったので、空き時間を利用してこの記事を書いております。
さて、ポーズを決めたりして格好つけたりすることを「見得を切る」と言ったり、自分の持っている力以上のことを見せようとすることを「見得(見栄)をはる」と言うことは、日常の会話の中でもあるかと思います。
この「見得」という言葉は、もともとは歌舞伎の演出用語のようです。
お芝居の中で役の感情が絶頂に達したときなどに、役者が足を踏み出したりした上で、首の角度をグッと傾けたり、首を回したりして、キリっとポーズを決める。
すると、ツケの木がパパンッ!となって、客席からは「○○屋!」と声がかかります。
その瞬間は、客席の目線はその役者に釘付けになります。
言ってみれば、お客さんのフォーカスを、舞台上でその役者一点に集中させる技法で、テレビや映画などで、一人の役者をズームアップで映し出すことに匹敵することを生の空間でやっているようなものです。
首が動いて顔が決まったときに、その顔がズームアップで拡大されるような、顔に吸い寄せられるような錯覚を感じることもあるかと思います。
劇画のスポーツ根性ものなどで、登場人物の顔がドアップにされて、背景に集中線やら炎が出ている様子は、見得を絵に置き換えたものと言えるかもしれません。
もともと歌舞伎というのは、お弁当を食べながら気軽に見るようなも江戸庶民の娯楽です。
これは、僕がどこかで小耳に挟んだ話で、ちゃんとした根拠があるのかはっきりしないのですが、弁当を食べているお客さんにも、ここだけは見せ場だからちゃんと見てもらえる様にと、視線を引き付ける工夫がされて「見得」が出来たという説もあるようです。
なお、「見得」は「切る」と表現されることが多いかと思いますが、一説によれば、「見得」とは「行う」ものだとも言われております。
日常で「見得」という言葉を使っていながらも、それがもともと歌舞伎の用語とは知らない人は多いかと思います。
普段使われていながらも、それが歌舞伎に由来すると知られていない言葉は、他にも沢山あるかと思います。
格好いい男性のことを「二枚目」と呼ぶのは、昔の芝居小屋で、色男の役者の看板が二枚目に掲げられていたことに由来しますし、ひょうきんな人を「三枚目」と呼ぶのは、滑稽なキャラクターをウリにした役者の看板が三枚目に掲げられていたからです。
得意なことを「十八番」と呼ぶのは、お家芸の「歌舞伎十八番」からきていますし、「幕の内弁当」とか「助六寿司」とか、食べ物の名前も歌舞伎に由来することがあります。
日常の会話の中で芸能の言葉が違和感なく入り込むほどに、日本人にとって舞台芸能は身近だったのでしょうね。
何百年も経っているのに、未だに死語になりません。
次回は、「正方形の宇宙空間」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
結婚披露宴でケーキ入刀の後で乾杯が行われる場合、ナイフがケーキに入った瞬間、サービススタッフが一斉に乾杯酒のシャンパンやスパークリングワインの栓を抜き、ポンと音をたてる演出があります。
その音が揃うと綺麗なものです。
栓を抜いた流れで、ケーキの周りでゲストが写真を撮っていたり、お二人がファーストバイトを行っている最中にスタッフが乾杯酒を注ぐことが出来る場合には、あまり問題にならないのですが、ケーキ入刀が乾杯の後に行われたり、ケーキそのものがない場合、乾杯酒が全員に注ぎ終わるまで、結構長い間ができてしまいます。
洋食コース料理の場合、乾杯酒にはシャンパンやスパークリングワインなど、発泡性のものが用いられることがほとんどです。
その泡立ちを美しく見せるためにも、乾杯酒が注がれるグラスには、縦に細長い“フルート”と呼ばれるグラスがセットされていることが多いです。
その場合、注ぎ口のターゲットが狭いため、慎重に注がなければ零れてしまいますし、ゆっくり注がなければ、泡がいっきに上がってきて溢れてしまいます。
また、乾杯酒を注ごうとするときになって、あるいは注いだ後になって、お酒が飲めないから別のものにして欲しいと要求するゲストも稀にいます。
乾杯は形だけにして、無理に中身を飲む必要はないですが、そう頼まれた場合には、乾杯酒に見立てたジンジャーエールなどを用意する会場もあります。
事前に言ってもらえれば問題ないものの、急に言われると準備で時間をロスします。
そして、ケーキ入刀やファーストバイトが行われる場合でも、ケーキの傍のテーブル近くにゲストが集まって、そのテーブルになかなか注げないことだってあります。
そんなわけで、乾杯酒をゲスト全員に注ぐというのは、意外と時間がかかるものです。
その間の時間で無音状態が出来てしまったら、場は白けてしまいます。
司会者はコメントを入れて繋がなければなりません。
事前にお二人から伺ったエピソードを述べるのもよし。
特にネタがなければ、乾杯酒が注がれている様子を実況したり、事前にリサーチの上、その乾杯酒の銘柄の由来などを説明しても繋げます。
「グラスの中の黄金の輝きから、白い泡立ちが静かに音をたてています。このゆっくりと長く続く泡立ちが、お二人の末永い幸せを象徴しているかのようです。」
などと、単にグラスにお酒が注がれている様子だけでも、言葉でいくらでも装飾できます。
そとそも乾杯にどんな意味があるかと言えば、杯を合わせたときの音を悪魔が嫌うという、魔除けのような説があります。
しかし“悪魔”という単語はおめでたい席に相応しくありませんし、それを言ったために、ゲストが思いっきりグラスを合わせて割ってしまったら司会者のせいになります。
そもそもワイングラスやシャンパングラスで乾杯するときは、杯を掲げるだけで、互いにぶつけたりはしないものです。
前述した由来をハイパー拡大解釈して、
「乾杯のときの皆様の賑やかなざわめきが、この場に幸せの天使を呼び込むなどと言われているそうです。」
などとコメントするのもありかもしれません。
そもそも伝承や由来に明確な情報源はありませんし、最後に「◯◯だそうです。」とつけて断定しなければ、嘘にはなりません。
結婚披露宴においては、新郎新婦が入場してから乾杯するまでが司会者の勝負どころです。
乾杯までを上手く繋げれば、その後もスムーズに進むでしょう。
次回は、「見得っ!」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
日本には、スポーツ根性ものなどと呼ばれるジャンルの漫画があります。
ときには現実世界では考えられない程に過酷な内容のトレーニングが、かなりの長時間にわたって行われる様子が描写されます。
それはスポーツを題材にした漫画に限ったことではなく、正義のヒーローが悪を討つ類の作品においても、より強大な敵を倒すために特訓する光景が見られるかと思います。
厳しい試練を乗り越えて栄光を掴む登場人物に感情移入することを少年期から繰り返すことによって、沢山の努力を積み重ねることで結果が得られる、頑張れば報われるという教訓が、精神に刷り込まれていくでしょう。
それは素晴らしいことかと思います。
酒井もその例に漏れないと思います。
しかし、以前、声優の養成所に通っていたときに、先生からこんなことを言われました。
「アンタが頑張っていることはみんな知っている。でも、頑張っていることによって、甘えているように見える。」
つまりは、人一倍努力している状態に落ち着いて、自分はこんなに頑張っているのだから、それを認めて欲しい、自分のことを良くして欲しいとねだっているように見えるというのです。
努力をすれば結果が得られるという観念は、根底的なものとして大切なものです。
しかし、ともすれば、努力をすることそのものに手応えを感じ、安心してしまうことが逆効果になってしまうことだってあります。
昔、日舞の師からこんなことを言われました。
「酒井君、自分で稽古をするのをやめてみたら。」
要は、復習のつもりで何度も何度も反復してきた振りが、前回の稽古のときに教わった形から外れてしまい、間違った振りが身体に染み付いてしまっていたのです。
そうなると、その次の稽古における師の最初の仕事は、間違った形を修正することであり、自主稽古を重ねていればいるほど味しながら慎重に浚ってみたりと、やるべきことを考えればいくらでもきます。
今習っている踊りではなく、以前に時間をかけて習い、十二分に浚った踊りであるなら、反復して練習するのもありかと思います。
自分が頑張っているという手応えを感じることが目的で行う稽古であれば、やらない方がマシということです。
でも中には、基礎エネルギーをつけるために反復すべき稽古もあります。
自分が何をすべきかは、師に言われたことに神経を研ぎ澄まし、それを忠実に守ろうとすれば、自ずと分かってくると思います。
次回は、「乾杯酒で繋ぐ」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
「それでは、お二人による初めての協同作業をご覧いただきましょう。ウエディングケーキご入刀です。」
などというコメントを結婚披露宴で耳にしたことはありますか?
結婚の誓いを挙げてから、初めて二人が手を添えて行う作業ということで、その様なコメントが用いられると思うのですが、酒井はこの“初めての協同作業”という響きがあまり好きではないので、まず使いません。
さて、これからケーキ入刀ということになると、お二人が立ち上がり、ケーキの近くまで歩み寄り、キャプテンが入刀の段取りを説明します。
この、ケーキ入刀のアナウンスから実際にナイフが入るまでの間を、司会者は繋がなければなりません。
このケーキ入刀までの間と、サービススタッフが乾杯酒を注ぎ始めてから全員に注ぎ終るまでの間をいかに繋ぐかが、司会者の腕の見せ処かもしれません。
そもそも結婚披露宴でのウェディングケーキ入刀にはどの様な意味合いがあるかご存知でしょうか?
それには諸説があり、古代ギリシャに由来するものやら古代ローマに由来するものやら色々あるようですが、共通して言える要素は、穀物で作られたケーキは、豊かさの象徴であるということです。
それにナイフを入れる、即ち複数の人が食べられるように分割するという行為は、豊かさを分かち合おうとする行為に匹敵するというわけです。
さあ、これからケーキ入刀、でもスタンバイ完了まで少し時間がかかる…というとき、特別話すネタがなければ、ウェディングケーキの由来として伝えられている話の中から1つをピックアップして、その場を繋ぎます。
そこで無音状態を作ってしまったらプロ失格かもしれませんね。
ウェディングケーキの由来に限らず、ケーキに散りばめられたイチゴでさえも、その意味合いを説明して繋ぐことが出来ます。
幸いなことに、結婚披露宴司会の場合、同じお客様を相手にすることはほとんどありませんので、ケーキのエピソードで全く同じ話を毎回しても、
「この人また同じ話してるよ…」
というマンネリ感は出ません。
そう思う人がいたとしても、それは会場スタッフだけです。
ケーキ入刀のときには、得意技のごとくに、あるコメントを必ず入れるという司会者さんもいます。
ケーキ入刀の繋ぎコメントは、何も由来に限ったものではありません。
ウェディングケーキのデザインにこだわる新郎新婦も多く、車やバイクが好きな人だったら、それをデザインしたり、スポーツが好きだった人であれば、その用具をデザインした特注ケーキが用意されることなどもあります。
飴細工などで、お二人のミニチュアが作られて飾られることもよくありますね。
以前、新郎が高級外車の営業マンだったとき、その車のロゴが入ったウェディングケーキがワゴンで運ばれてくるなんていう場面を実況したことがあります。
こんな風にウェディングケーキにまでお二人のこだわりが見られるようであれば、そのポイントをアナウンスしない手はありません。
酒井がこれまで見たケーキ入刀の中で一番印象深かったのは、お二人がケーキ入刀をするという段になって、別のケーキが2つサプライズ登場し、両家の親御さまも合わせての、3組同時のトリプルケーキ入刀でしょうか。
ケーキ一つとってもコメントのネタはつきません。
次回は、「稽古禁止」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。