こんにちは、酒井孝祥です。
先日、僕が通っている流派の浄瑠璃のお弾き初め会が行われました。
諸事情あって、もともとこの会には参加しないつもりだったのですが、急遽出ることになり、稽古回数も限られていたため、過去に習ってお客様の前で披露したこともある曲で出演することになりました。
そこで選んだのが、お稽古に通い始めて一番最初に習った曲です。
これまで人前で語った曲は10曲近くありますが、一番時間を書けてじっくり稽古したのは、一番最初に習った曲です。
そして、認知心理学用語で系列位置効果の初頭効果などというものがありますが、それまでに類似した刺激を記憶をしていない状態で覚えた最初のことは、後々まで記憶に保持されやすいものです。
ですから、今までやった曲の中でも、思い出そうとして一番細部まで思い出せるのは、やはり一番最初に習った曲です。
折しも2~3ヶ月前に、これは日舞の方の先生からですが、こんな話を伺いました。
フィギュアスケートの大ファンである日舞の師が、以前から注目していた選手がおり、実際にめざましく躍進しました。
その選手は、派手な技の練習よりも、基礎的な訓練に重点をおき、初心者が行う様なごく単純な動きの練習を、確実に正確に行う様に毎日積み重ねてきたそうです。
そのことを例えに、芸能においても、基礎がいかに大切かを教えていただきました。
今回、浄瑠璃において一番最初に習った曲を稽古することは、初心に返って基礎を訓練し直すことへの丁度良いきっかけになるかもしれないと思いました。
ところがどっこい、いざその曲の稽古をしてみると、出来ると思っていたことがほとんど出来ませんでした。
正直、この曲を選んだときには、最初にやった曲だし、すぐに出来るようになるだろうという慢心がありました。
それが一転して、ちゃんと出来ないのに稽古の回数は少ないという窮地に追い込まれました。
焦って稽古をして、本番直前までに、何とか6割くらいは体裁が整ったかな…というところまではいったと思いますが、いざ本番のとき、声のコンディションが7割くらいの状態で、出だしの声が思うように出ませんでした。
そのことで動揺してしまったためか、ある箇所で、完全に音が外れてしまってオリジナルメロディーになってしまい、そこから物理的に元に戻すことのみにエネルギーを集中することとなり、作品としてのイメージが完全に途切れてしまいました。
もちろん、外れたところから元に戻すということも大切な要素です。
これまた日舞の方の話に切り替わりますが、日舞の師が僕に名前を取らせても大丈夫だろうと思ったきっかけは、浴衣浚い会で、右足と左足を完全に間違えてしまったのに、見ているお客様からは間違えたことが分からない程に堂々と、そこから軌道修正して踊りきったことだったそうです。
それはそれとして、決して短くない期間浄瑠璃の稽古を続け、その一番最初の曲すらも間違いなく語り切れなかったということは、お釈迦様の手の上をぐるぐる回るだけで、結局全く先に進んでいなかった孫悟空の様な心境です。
実際にその演奏を聞いたお客様からは、「綺麗な声でしたね。」などと肯定的な感想が多かったのですが、上手くいかなかったことは自分自身が一番分かっています。
結局、初心に戻ったというつもりになっても、気付かされるのは、戻るどころか、名前があろうが何であろうと、初心の状態から先に進んでいなかったということです。
そのことに気付けただけでも、今回の会に出演出来て、本当に良かったです。
次回は、「完全否定」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
音響デザイナーの柏さんが、ブライダルの音響についてコラムを掲載されていたので、今回はそれに便乗して、ブライダルの司会と音響にまつわる話です。
さて、だいぶ前、配膳サービスの仕事をしていたときの話ですが、たまたま自分が専属で入っていた結婚式場の人手が足りていて、遠方の結婚式場に派遣されたとき、珍しい光景を目にしました。
司会者や、お客様の目に触れることの多いサービススタッフを除く結婚式場のスタッフは、大概は、黒や紺などのシンプルなスーツで身を包んでいます。
その日目にした光景というのは、会場スタンバイ中に、列席者にいてもおかしくない様な、小洒落たスーツに身を包んだ女性が、ミキサーを操作しながら、音響やマイクのチェックを行っているというものでした。
なぜ音響スタッフさんがこんな格好をしているんだろう…?
そんな疑問を持ちながらもなんとなくその様子を見ていると、なんと、音響さんが原稿を読むリハーサルを始めました。
そう、その方は、音響と司会を兼任で行っていたのです。
その姿は、公開生放送を行うラジオDJの様で格好良かったです。
しかし、その様なスタイルは稀なケースで、酒井も、自ら音響機器を専門的に扱う様なことは出来ません。
そうなると、司会者にとって、音響さんと上手くコミュニケーションを取ることは重要なポイントとなります。
いつも一緒に仕事をしている音響さんならともかく、単発で入る会場などで初めて一緒に仕事をするような人が相手だったら、どのタイミングでキューを出すかなど、予め打ち合わせをしておく必要があります。
そのことに限らず、宴席の進行において、こちらがイメージしていることと音響さんがイメージしていることに相違があった場合、下手すれば、「なんでそこで音が止まるの?」というところで無音になったり、音響さんに合図を出したいタイミングなのに、「なんでこっちを見ていてくれないの?」ということにもなりかねます。
結婚披露宴は、様々な職種のプロフェッショナルが一同に会して行う、新郎新婦が主役のパフォーマンスの様なものというのが僕の持論です。
そのなかでも、司会と音響は、タッグを組んでお客様の耳に入る刺激を作り出す仕事をするのですから、その呼吸が合っていない披露宴は、それぞれの楽器がバラバラに演奏されるコンサートの様なものかもしれません。
司会者にとっては、まるで自分がミキサーを操っているかの様に曲が流れれば、音響さんにとっては、まるで自分のかけたCDのなかに予め録音されていたかの様に司会者のコメントが入れば、ゲストの皆様には最高のシンフォニーをお届け出来ることでしょう。
次回は、「初心に戻っても…」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんにちは、酒井孝祥です。
僕が日本の古典物の舞台を観ることを勧められ、同時に、歌舞伎であれば、座席の場所によってはとんでもなくチケット代が安いということを教えていただいてから、とりあえず空いた時間をみつけて歌舞伎を観に通った時期がありました。
もちろん知識も何もないわけですから、どの演目が面白いのか、どの役者さんが素晴らしいのかなど分からないまま、とりあえず時間の都合に合わせて、そのときに観られる作品を観に行きます。
そして、探り探りに勉強のつもりで何度か歌舞伎を観ているうちに、「これは凄い!」と思い、純粋なお客の気持ちで初めて楽しめたのは、「連獅子 」という舞踊作品でした。
「連獅子」とは、前半は人間体で出てきた2人(3人の場合もあり)が、獅子が我が子を谷底に突き落とす様などを表現した踊りで、演者がいったん引っ込んだ後に、間繋ぎの狂言等を経て、後半では獅子の精となって再登場し、身長よりも長い赤と白の髪の毛を振り回す、舞踊作品です。
白い獅子と赤い獅子が、本物の親子の俳優の組み合わせで踊られることも多い作品です。
僕が初めて「連獅子」を観たときに、獅子達が髪の毛を振る毛振りがピッタリ揃って行われ、寸分の狂いもないままそれが長時間続く様子に度肝を抜かれました。
そして、気が付いたら大きな拍手をしている自分がいました。
お芝居が終わった後に、お客として拍手をするのは、ある意味お約束ごとのようなものですが、上演中の拍手というのは、場合によってはマナー違反にもなりかねませんから、普通にはしにくいものです。
歌舞伎だったら、役者さんが登場する度に拍手が起こったり、ミュージカルだったらナンバーが1曲終わる度に拍手をするのも珍しくないですが、当時の僕には、あまりそういう認識がありませんでした。
それでも、自然に拍手をしていた自分がいて、周囲の他のお客さん達も同じ様に拍手をしています。
そして、お客さんからの応援を受けているためか、毛振りの勢いはどんどん増していき、客席からは歓声が沸き上がる。
この感覚、スポーツ観戦に近いものがあると思います。
例えば、フィギュアスケートの選手が演技に成功することを望み、見守っていて、選手がジャンプし、技に成功したら、テレビの前でも思わず拍手をしてしまう様に、観客は、目の前にいるパフォーマーに感情移入し、応援しています。
お芝居は、繰り返し再演されているものを除けば、その後どういう展開になるかが分からないから観ていてドキドキすることが多いと思います。
スポーツでは、技の組み合わせだったり、勝敗の行方は分からないものの、選手がその後何をするのかおおよそは決まっていることがあり、「連獅子」でも、獅子が出てきて毛振りをするという展開については、ほとんどのお客があらかじめ知っております。
その後、行動として何がなされるのか分かっていながらも、それに成功するか、いかに見事に成し遂げるかを見守り、ドキドキ出来ることは、スポーツ観戦と、繰り返し同じものが上演され続ける古典の芸能において、共通した要素の様に思います。
陸上競技で、選手が速く走るのを見たり、高く飛ぶのを見たら、その行為に特にストーリー性がなくとも、純粋に凄いと思って心動かされると思います。
古典芸能が難しくて退屈そうという先入観を持たなくても、スポーツ選手の動きを見て感動するように、「毛の振り方が激しくて凄いな!」「あんな重い衣装をつけてどうしてあそこまで軽やかに動けるんだ!」「凄い、マイクを使っているわけでもないのにこんなに声が響く!」といったような、そんな単純なことでも十分に楽しめると思います。
古典のものは難しくて理解しにくそうだから…などと敬遠せずに、スポーツを観に行く様な気持ちで劇場に足を運べば、純粋な感動に出会えるかもしれません。
次回は、「司会と音響」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
ジャンクステージをご覧の皆様、新年明けましておめでとうございます。
2014年は、次の公演の告知から始めさせていただきます。
≪遊劇社ねこ印工務店 プロデュース 第4回公演≫
「さくらんぼ畑 -桜の園-」
作:チェーホフ 訳:堀江新二/ニーナ・アナーリナ
【日時】
2014年4月
16日(水)19:00
17日(木)14:00 / 19:00
18日(金)19:00
19日(土)13:00 / 18:00
20日(日)14:00
※上記は上演開始時間で、開場はその30分前となります。
【料金】
前売・当日共3000円 (日時指定・自由席)
【会場】
ブローダーハウス (東京都世田谷区松原5-27-10 / 京王井の頭線・東松原駅より徒歩1分)
【予約】
お名前、希望日時、枚数を明記の上、酒井宛(sakai.taka2013★gmail.com ※★を@に変えて下さい)にご連絡下さい。
<演出>
こたと のぼる(遊劇社ねこ印工務店)
<出演>
ラネーフスカヤ:藤本 しの(芝居三昧)
アーニャ:山内 理沙(株式会社仕事)
ヴァーリャ:河野 晴美(遊劇社ねこ印工務店)
ガーエフ:小林 幸雄
ロパーヒン:齋藤 裕樹(劇団39)
ペーチャ:山本 啓介
ピーシク:小栗 健
シャルロッタ:阿部 有希
エピホードフ:酒井 孝祥
ドゥニャーシャ:川上 智帆(農民)
フィールス:矢吹 ジャンプ(ファルスシアター)
ヤーシャ:仙石 智彬(ファルスシアター)
「桜の園」という戯曲は、ロシアの劇作家チェーホフの四大喜劇の一つとして、日本でもよく知られているかと思います。
日本では、「桜の園」という詩的な雰囲気のタイトルがすっかり定着していますが、実は、もともとのロシア語の意味合いとしては、むしろ「さくらんぼ畑」と翻訳した方が原典に忠実であるという考えのもとに翻訳された、新訳での上演です。
今回の公演では、劇中に日本舞踊的な要素を取り入れたいという演出家の要望があり、未熟ながら酒井もその部分に携わらせていただきます。
この作品は“喜劇”として分類されています。
“喜劇”に登場する人物は、決して周囲を笑わせようと振る舞っているわけではなく、その人物なりの目的と信念を持って真剣に生きていて、その様がズレていたり大袈裟だったりするから、客観的に滑稽でおかしく見えたりする。
役の当事者にとっては、むしろ悲劇であるかもしれない。
そんなことを念頭に、エピホードフという周囲からは「不幸の塊」などとも言われるちょっと残念なキャラクターを演じます。
ストーリーは、長年住んできた思い出のある屋敷や、広大な領地のさくらんぼ畑を売りに出さなくてはならないという状況下において、それに携わる人達の赤裸々な人間模様を描いたものです。
これまでの人生でずっと拠り所となっていた大きなものをどうしても手放さなければならない場面には、誰しもが直面し、ときに混乱することと思います。
この作品をご覧いただければ、登場人物達の想いに共感し、自分の人生とも重ね合わせられる様な気持ちとなり、見終わった後に、何かが心に残るのではないでしょうか。
お時間ございましたら、是非いらして下さい。
こんにちは、酒井孝祥です。
ブライダルの司会者として、緊張する瞬間は多々あるかと思います。
特に、主賓挨拶の方の肩書きと名前や、お二人のプロフィールの中の学校名や会社名など、絶対に読み方を間違ってはいけないところを読むときなどは緊張します。
それを間違えてしまったら大変な失礼にあたりますし、間違ったままのものが映像記録に残ってしまいます。
しかし、一番緊張する瞬間は、実は、披露宴の本番とは別のところにあると感じています。
それは、一番最初に新郎新婦とコンタクトを取る瞬間です。
仕事の形態によって様々で、打ち合わせでお会いするのがファーストコンタクトという方もいらっしゃるかもしれませんが、酒井の場合のその瞬間は、初めてアポイントのために電話をかけるときです。
もしかしたら、通話の中で、想像していた雰囲気やしゃべり方と違うと思われてしまうかもしれません。
以前、アポイントを取るために新郎に電話をかけて、その翌日に新婦から折り返し連絡があり、僕に任せて大丈夫なのかを審査されるがごとくに、色々と質問されたこともありますが、この最初の電話が、司会者を決定する、ほぼ最終的な判断材料になると思えば(打ち合わせ後に変更するケースもあるかと思いますが、だいぶ慌ただしくなってしまいます)、かなりのプレッシャーになります。
もちろん、この最初の接点が好感触であれば、しめたものです。
ですが、もしもファーストコンタクトが上手くいかずにキャンセルされることになれば、僕自身が仕事に繋がらずに残念になるだけでなく、お二人に対しても、また別の司会者を探すという負担をかけてしまうことになります。
それが披露宴本番に近ければ近いほど、お二人にとっての余計なストレスになってしまいます。
自分のせいでそういう負担をかけてしまったら、いたたまれないものがあります。
良い司会者の条件の一つは、初めてのことで(何回もあることは稀ですが…)不安を感じている二人が、安心して披露宴当日を迎える心境を作れることだと思います。
ですから、お二人に最初にコンタクトを取る瞬間こそが、最も細心の注意を払うべき、緊張する瞬間なのかもしれません。
次回は、「スポーツ観戦の様な感覚」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
歌舞伎に「盟三五大切」という作品があります。
知らない人が題字を見てもまず読み方が分からないと思いますが、「かみかけてさんごたいせつ」と読みます。
今回のテーマは、別に漢字が難しい作品についてではありません。
さて、歌舞伎観賞に出向いて、チケット販売口の前で長時間並んでいるとき、退屈しのぎに並んでいる人を観察してみます。
昔からの歌舞伎ファンのようなご年配の方、ご贔屓の俳優を地方から追っかけてきている方、大学で日本文化を勉強しているっぽい雰囲気の若い方、観光で来ている親子連れなど、様々なタイプの方達が並んでいます。
そして、意外に多いのが外国人のお客様です。
そして、今回のテーマは、僕が遭遇した、ある外国人のお客様の反応にあります。
前述した作品には、狂気地味た男が、無抵抗な相手を次々に刀で斬殺していくという何とも陰惨なシーンがあります。
ゆっくりと一人一人が斬られていくその場面を、観客たちは固唾をのんで見守り、客席を含んだ劇場全体が異様な空気に包まれていきます。
そんな場面を観ていたある日、客席内のどこかより、あろうことか、大笑いをする声が聞こえてきました。
声の方向を見ると、1人の外国人男性のお客様が大爆笑している姿が見えました。
なぜそこで笑うのか?
どうやら、人が斬られたときに、絶叫しながらオーバーリアクションで身悶えする姿が滑稽に映ったらしいのです。
確かに、悲鳴を上げながら、大袈裟とも思える様子で死んでいく姿は、前後の話の内容関係なしに、その絵だけを見れば、コント的というか漫画的な印象があるかもしれません。
日本語が分からず、ストーリーが分からないままに見ていて、その光景だけが可笑しく見えたのかもしれません。
しかしながら、シンと静まりかえって、息を殺しておどろおどろしいシーンを見守る中、一ヵ所から場違いな笑い声が聞こえてくるというのは、ある意味シュールに感じられました。
もちろん、外国人のお客様が皆そういう反応をするわけではなく、たまたま僕が観に行ったときにそういうお客様がいただけかとは思いますが、受け取る側の捉え方によって、同じシーンでも全く違った風に伝わることがあるのだと思った瞬間でした。
次回は、「司会者として最も緊張する瞬間」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
婚礼司会者の男女比率は、圧倒的に女性が多いです。
以前、知人がレストランの専属ウエディングプランナーになったときに、よかったら司会の仕事を紹介して欲しいと頼んだところ、会場の雰囲気柄、司会は女性限定でお願いしていると断られてしまったこともありました。
新郎新婦より一回り上くらいの世代の女性が一番シェアが多く、男性司会となると、落ち着いた年代の人が多く、酒井などは、むしろ業界で一番少ないキャラクターかもしれません。
参考までに、酒井が登録している司会者紹介のHPをご覧いただくと、分かるかと思います。
http://wedding-iimc.net/mc/index.html
じゃあ、男性司会のメリットは一体何なんでしょうか?
僕は結婚式場のサービスの仕事をしていて数々の司会者を見てきましたが、僕個人の感覚としては、特別魅力を感じる司会者さんは男性が多かったと思います。
それがなぜなのか考えてみると、女性司会者は、割と清楚な雰囲気のキャラクターの人が多いと思いますが、男性司会の場合、カラーが出やすいということがあると思います。
スタイリッシュにラジオDJみたいに喋る人もいれば、ジョークを飛ばしながらMCをする人もいれば、落ち着いて包容力のある人など、カラーが分かれる傾向があります。
例えば、男性の司会者が新郎に対して「この幸せ者が!」などと茶化した様に言うのは、キャラクターによってはありかと想いますが、女性の司会者が同じことをやったとすると、少々品の無い印象が出てしまうかもしれません。
以前、僕がサービススタッフでデザートコーナーに待機していて、なかなかお客様がそこまでデザートを取りに来ないことがあったのですが、そのときの男性司会者に「さあ、サービススタッフも暇ぶっこいてます。是非お早めにデザートを取りにいらして下さい。」と冗談めいたコメントをしていただいたことがあります。
そういうコメントで明るい空気を作ることが出来るのも、男性司会者ならではかもしれません。
全体的なシェアでは、圧倒的に女性の方が多いので、ゲストとして訪れてもなかなか男性司会を目にする機会は少ないかと思いますが、だからこそ、男性司会者の披露宴の方が、披露宴そのものの印象がゲストの記憶に残るということもあるかもしれません。
男性司会者も良いものですよ。
次回は、「そこ笑うところ?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
このジャンクステージでは、実に幅広い分野で活躍されている方のコラムを読むことが出来ますが、同じタイトルの話題でも、ライターによって異なる視点から書けるのではないか…などと以前から思っておりました。
丁度先日、マルチタレントエイミーさんが「いつ習い事を始めるか」というタイトルのコラムを掲載されておりまして、そのテーマについて僕なりに思うことがありましたので、述べさせていただきます。
酒井が現在習い事として通っているものとして、日本舞踊と浄瑠璃がありますが、どちらも20代半ばを過ぎてから始めたことです。
逆に、小さい頃に習い事として何をやっていたかと言えば、ピアノを習っていました。
幼稚園の年長から小学6年生まで習い、期間としては長かったですが、練習をするのが好きでなくて、嫌々習っていたようなところがあり、あまり実らずに、中途半端なところで自分からやめました。
自分がやりたいと思って始めたというよりも、半ば親の意思で始めたことだったので、好きになれなかったのかもしれません。
それが今の活動に何か役に立っているかと言えば、簡単な楽譜が読めたり、聞こえてくる音をドレミの音階に置き換えられるようになっていることは大いに役立っております。
もしピアノを習っていなかったら楽譜すら読めないと思えば、ピアノを習わせてくれた親には感謝です。
一般的に、日本舞踊の稽古場に通う人の年齢層は高く、お稽古場によっては、お弟子さん達よりも先生の方が若いというところもあるようです。
けれど、本職として日本舞踊を教えている先生などになると、物心ついた頃からお稽古場に通っていたという方が多いと思います。
時折、先生から、先生自身が子どもの頃にお稽古していた時の話を聞くことがありますが、子ども心に、大人が苦労している姿を不思議に思うこともあったそうです。
たとえば、大人のお弟子さんが、お稽古が終った後に、覚えた振りを忘れてしまわないように必死に舞踊符として書きとめている様子を見ながら、何でお稽古すれば簡単に覚えられることをわざわざ書いているのだろうと思われたそうです。
やはり、小さい頃から何も考えずにお稽古して振りを覚えていた人と、大人になってから始めて、振りを記憶しようと試みている人では、振りを覚える際の脳の回路が違ってくるのではないかと思います。
日本舞踊の身体の使い方は、男の踊りを踊るときと、女の踊りを踊るときとでは方向性が異なり、時には真逆になることもあります。
僕の様に大人になってから始めた人の場合、男のときはこうしなければならない、女のときはこうしなければならないと、頭の中で意識を切り替えて区別しがちですが、子どもの頃から習っている人は、深く考えずに、男と女のスイッチが切り替えられる様です。
僕がお稽古をしていて、「酒井くん、見たままの通りに動くのよ」と注意されることが多いのですが、小さい頃から習っていると、見たままの通りに身体の状態を変化させる感覚を、脳と身体が身につけているのかもしれません。
そんな風に考えると、エイミーさんも仰るように、習い事を始めるのは、可能な限り早い方が良いかもしれません。
もちろん、子どもが自分の意思で習いたいと思うケースは稀ですから、親が判断することになるかと思います。
大きくなってから、「何であのとき習わせてくれなかったの?」と言われることを思えば、小さいときに習わないと習得出来ないことは、出来るだけ習わせたいと思うことでしょう。
けれど、僕がピアノを好きになれなかった様に、親が子どもに習い事をさせることが、子ども当人にとって喜ばしいことであるかは難しいところで、習いに行くことがストレスになってしまうことだってあるかもしれません。
親としても、折角ピアノまで買ったのだから、習い始めた以上、きちんと習得してもらわなければ困ってしまいます。
その親からの期待が、子どもに良い影響を及ぼすのか、悪い影響を及ぼすのかは、本当に難しいところです。
僕も含めて、大人になってから何か習い事を始めた人は、「小さい頃からやっていればもっと上手くなっているはずなのに…」と誰しもが思うことでしょう。
でも、どんなにそう思ったところで、その時間が返ってくることはありません。
逆に、大人になってから始めることのアドバンテージだってあるかと思います。
子どもの頃から始めるのは親の意思であっても、大人になってから始めるのは、ほとんどの場合、100%自分の意思です。
誰から指示されたわけでもなく、己の志をもってその道を選び、続けるということは、その家に生まれた人などでは、逆にやりようのないことです。
幼少期の環境故に苦労することはあっても、むしろ、それでも続けようとするその志は誇るべきことと思われ、それが実って得られるものも大きく感じられるのではないかと思います。
次回は、「男性司会と女性司会」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
前回の7周年パーティーに関連する話題なのですが、そのパーティーの場で言われた何気ない一言に、「このコラム連載をやめた方が良いのではないか…」と思いました。
もし、その人がこれまでの僕のコラムを読んでいないのであるならやむを得ないのですが、読んだ上でその言葉が出てきたのだとしたら、僕が意図していたものと違うものが読者に伝わり、誤解を招いたかもしれないからです。
僕は、ある演出家に出会い、日本の古典芸能の魅力と、それを学ぶことが俳優にとっていかに有効かということを教えていただき、そのことに共感することになりました。
それまで歌舞伎一つ見たことのなかった僕は、たまたまその方に出会えたことが入口となり、古典芸能の世界に触れることになりました。
もしもその方に出会わなかったら、折角間近にあるこの国の伝統的な芸能のことを何も知らず、堅苦しくて敷居の高いものとしか認識しないままに、過ごしていたと思います。
もしもそうであったとしたら、それは勿体ないと思います。
そして、現実の状況として、古典芸能=難しい、堅苦しい、分かりにくい、つまらないという印象を持っている人が少なくないと思います。
それは、役者さんや舞台関係の仕事をしている人においてもです。
やはりそのことを勿体ないと思うのです。
本格的なシェイクスピア劇を観て勉強したいと思ってイギリスに行かなくても、最高峰のミュージカルを観にブロードウェイまで行かなくても、日本に生まれた日本人は、外国人が羨む程の魅力的な芸能を、気軽に楽しむことが出来ます。
料金が高いと思う人もいるかもしれませんが、例えば歌舞伎で後方の席であれば、下北沢の小劇場より安いことだってあり得ます。
僕は古典芸能の専門家ではありません。
もちろん弟子入りして習ってもいますが、それは、一般の人が趣味として出来ることでもあり、僕は古典芸能に関してはファンの様な存在です。
このコラム連載のモチベーションは、アイドルファンが自分の好きなアイドルの魅力を他の人に伝えたいと思う感覚と似ているかもしれません。
そして、もともと関心がなかったところから、役者の勉強の一環として興味を持っていった経緯があったからこそ、以前の自分と同じ様に古典芸能に関心がない人が、こんなことを知れば興味を持つのではないか…と思うことを中心に書き連ねているつもりです。
このコラムが入口になって、その世界に興味を持って下さる人がいらっしゃれば、それはこの上なく幸せなことです。
自分が、古典芸能の道の専門家ではなく、第三者的なファンの様な立場だからこそ、伝えられることがあり、このコラムを連載していると思っています。
さて、前置きが随分長くなってしまいましたが、その、ジャンクステージ7周年パーティーで耳にした何気ない一言とは、
「これからも日本の伝統を護って下さいね。」
というものでした。
その言葉は、伝統芸能を継承する、その道の専門の人に対して発せられるべき言葉と感じました。
もし、これまでのコラムを読んだ上で、僕に対してその言葉が投げかけられたのであれば、このコラムを連載することが、自分に対する誤解に繋がってしまうと思いました。
自分ではそんな風に書いていないつもりであっても、言葉で人にものを伝えるにあたっては、必ずしも自分の意図した通りに捉えられないということを認識させられる一言でした。
そう思い、ジャンクステージの連載を終了しようかと考えたのですが、しかしながら、その何気ない一言は、決して誤ってはいないことにも気が付きました。
伝統芸能は、それを学ぶ人が一人もいなくなったら、消滅してしまいます。
たとえその道の専門家でなくても、師匠が代々受け継いだ芸能を真似し、学ぼうとする行為は、程度の差はあっても、その芸能を護る行為に他ならないかもしれません。
そのことは、自覚すべきと思い直しました。
その一言は、古典芸能=護られるべきものという連想から、先ほど日本舞踊を少し踊った僕に、何気なく発せられたのかもしれません。
しかし、色々と考えさせられる一言でした。
次回は、「いつ習い事を始めるか」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。
こんばんは、酒井孝祥です。
前回の7周年パーティーに関連する話題なのですが、そのパーティーの場で言われた何気ない一言に、「このコラム連載をやめた方が良いのではないか…」と思いました。
もし、その人がこれまでの僕のコラムを読んでいないのであるならやむを得ないのですが、読んだ上でその言葉が出てきたのだとしたら、僕が意図していたものと違うものが読者に伝わり、誤解を招いたかもしれないからです。
僕は、ある演出家に出会い、日本の古典芸能の魅力と、それを学ぶことが俳優にとっていかに有効かということを教えていただき、そのことに共感することになりました。
それまで歌舞伎一つ見たことのなかった僕は、たまたまその方に出会えたことが入口となり、古典芸能の世界に触れることになりました。
もしもその方に出会わなかったら、折角間近にあるこの国の伝統的な芸能のことを何も知らず、堅苦しくて敷居の高いものとしか認識しないままに、過ごしていたと思います。
もしもそうであったとしたら、それは勿体ないと思います。
そして、現実の状況として、古典芸能=難しい、堅苦しい、分かりにくい、つまらないという印象を持っている人が少なくないと思います。
それは、役者さんや舞台関係の仕事をしている人においてもです。
やはりそのことを勿体ないと思うのです。
本格的なシェイクスピア劇を観て勉強したいと思ってイギリスに行かなくても、最高峰のミュージカルを観にブロードウェイまで行かなくても、日本に生まれた日本人は、外国人が羨む程の魅力的な芸能を、気軽に楽しむことが出来ます。
料金が高いと思う人もいるかもしれませんが、例えば歌舞伎で後方の席であれば、下北沢の小劇場より安いことだってあり得ます。
僕は古典芸能の専門家ではありません。
もちろん弟子入りして習ってもいますが、それは、俳優としてのスキル向上が目的であり、僕は古典芸能に関しては、どちらかと言えば、ファンの様な存在に近いと思っています。
ただ、古典芸能の中でも、自分が深く関わっている分野もあって、立場上、その関係者のコメントとして受け取られてしまうかも知れない限定的な内容については、このコラムでは敢えて書かないようにしております。
このコラム連載のモチベーションは、アイドルファンが自分の好きなアイドルの魅力を、その関係者に頼まれたわけでもないのに、他の人に伝えたいと思う感覚と似ているかもしれません。
そして、もともと関心がなかったところから、役者の勉強の一環として興味を持っていった経緯があったからこそ、以前の自分と同じ様に古典芸能に関心がない人が、こんなことを知れば興味を持つのではないか…と思うことを中心に書き連ねているつもりです。
このコラムが入口になって、その世界に興味を持って下さる人がいらっしゃれば、それはこの上なく幸せなことです。
中には、専門家でもないのに何様か?ただの自分の知識自慢か?と思われることもあるかと思い、そう言われてしまえばそれまでかもしれませんが、自分の様な立場だからこそ、本職の人とは違う観点から伝えられることがあると思っています。
さて、前置きが随分長くなってしまいましたが、その、ジャンクステージ7周年パーティーで耳にした何気ない一言とは、
「これからも日本の伝統を護って下さいね。」
というものでした。
その言葉は、伝統芸能を継承する、その道の専門の人に対して発せられるべき言葉と感じました。
もし、これまでのコラムを読んだ上で、僕に対してその言葉が投げかけられたのであれば、このコラムを連載することが、自分に対する誤解に繋がってしまうと思いました。
自分ではそんな風に書いていないつもりであっても、言葉で人にものを伝えるにあたっては、必ずしも自分の意図した通りに捉えられないということを認識させられる一言でした。
そう思い、ジャンクステージの連載を終了しようかと考えたのですが、しかしながら、その何気ない一言は、決して誤ってはいないことにも気が付きました。
伝統芸能は、それを学ぶ人が一人もいなくなったら、消滅してしまいます。
たとえその道の専門家でなくても、師匠が代々受け継いだ芸能を真似し、学ぼうとする行為は、程度の差はあっても、その芸能を護る行為に他ならないかもしれません。
そのことは、自覚すべきと思い直しました。
その一言は、古典芸能=護られるべきものという連想から、先ほど日本舞踊を少し踊った僕に、何気なく発せられたのかもしれません。
しかし、色々と考えさせられる一言でした。
次回は、「いつ習い事を始めるか」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。