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2015/03/31

すっかりコラム連載が滞っておりまして申し訳ありません。

タイトルの通り、これまで自分がジャンクステージで連載してきたコラムを振り返ってみましたが、正直、このコラムの在り方に疑問を感じてきました。

その心のわだかまりが、このコラムの停滞にも繋がっているのだと思います。

日本の古典芸能のことを全く知らない人に、その魅力を酒井の言葉で伝えたいという想いから始まった「和に学ぼう!」ですが、これまでジャンクステージの会合などで出会った人と話をしたときなど、このコラムを通して、自分のことが誤解されていると感じることは少なからずありました。

それは、自分が古典芸能の道の専門家の様に思われてしまっているということです。

そして、自分自身でこれまでのコラムを振り返ってみると、中にはあまりにも拙い内容で恥ずかしくなってしまうものもありますが、時折「本当にこれを自分が書いたのか?」と思ってしまうほどに、我ながらお見事と思ってしまうものも少なからずありました。

仮に酒井が、ジャンクステージ連載開始から今日までの記憶を失った上で、これを書いたのが酒井だと知らずに、完全に赤の他人の目線でコラムのいくつかを読んだとしたら、確かに、一見、これを書いているのは古典芸能の専門家か評論家かと思ってしまうかもしれません。

客観的に捉えると、このコラムを、自分を古典芸能に関する知識人として特化する材料に用いている様にも思えてきてしまいます。

もちろん、本当の知識人が見たら、勉強不足なところは多々発見されてしまうことでしょうが…

それでも、全く何も知らない人からすれば、それが完璧な知識の様に信じられてしまうかもしれません。

自分は決して古典芸能の知識人を目指しているのではなく、自国の芸能の魅力を心と身体で理解した俳優を志しています。

それを改めて意識し直します。

これまでの連載内容は、古典芸能に関する知識を伝達する内容に重きが置かれてきた様に思えますが、今後は、“修行中”という言葉にも相応しく、日常の稽古で感じたことなどを、もっとありのままに連載していけたらと思います。

私事ですが、この4月より、劇団の稽古場の近くに引っ越すことになり、大きく生活環境が変わります。

ここまで連載がストップしていながら説得力もないかもしれませんが、新しい環境の中、新しい気持ちで、これからもコラムを連載していければと思います。

なんだかこれまでのコラムを否定する様な文面になってしまったかもしれませんが、それでも、過去の連載コラムを読んで「想いが本当に伝わってくる」「とても参考になる」などと好意的な感想をいただいていることも事実であり、自分の書き溜めてきた宝物に違いありません。

今後ともよろしくお願いいたします。

09:10 | sakai | ★ジャンクステージ連載を振り返って はコメントを受け付けていません
2015/02/18

時代物のお芝居を見ていて、よほどギャグ的な場面でない限り、その時代にある筈のない現代的なものが出てきたら、やはり興醒めしてしまうと思います。

そして、歴史に詳しいお客様が、その知識上、その時代にはあり得ないと認識しているものが出てきても同様です。

例えば、江戸時代を舞台にしたチャンバラでは、刀を上から帯に挿し込む様に装備していますが、もっと過去に遡ると、刀は帯の上方向からではなく、下方向から入れ込んでいた時代もある様で、ちょっと知識のある人が、その時代にそぐわない刀の備え方を見ると、頭の中でツッコミを入れたくなってしまうかもしれません。

時代考証に合わないポイントを見つけると、それが気になってお芝居に集中出来ないなんてこともあり得ます。

気にならないお客さんは気にならないにしても、その時代の作品に興味を持つからこそ劇場に足を運んでくれたお客様をがっかりさせないためには、やはりその時代のことをきちんと調べた上で上演することが必要で、そういうことをきちっと行なうということは、それだけ良いものをつくることに対するモチベーションが高いということですから、作品そのもののクオリティに影響すると思います。

しかし、その時代の様子を100%リアルに再現することは、どんなに予算があっても不可能ですし、あまり時代考証にこだわり過ぎると、逆に、見栄えが悪くなったり、内容が理解しにくく、面白みがなくなってしまうこともあるかと思います。

いくら時代に忠実だからといって、お歯黒という風習故に、歯を黒く塗った女性が出てきたら、やはり不気味に映ると思いますし、言葉遣いや官職による相手の呼び方などを忠実に再現したら、何を喋っているのか意味が分からなくなるかもしれません。

現代人が見ても楽しめることを前提に、予算上用意出来る可能な範囲でその時代の雰囲気を再現するというバランスはなかなか難しいと思います。

それでは、歌舞伎などの古典的な芸能は、古くから伝わっているものなのだから、時代考証が完璧で、その時代の風俗をリアルに再現しているという印象があるかもしれません。

しかし、演目にもよりますが、そうではない作品も少なくない様です。

歌舞伎の三大名作と呼ばれる「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」は、それぞれ平安時代、室町時代、鎌倉時代が舞台になっているかと思いますが、登場人物の風俗はあから様に江戸時代です。

それでも、我々がそれらの作品を観て、時代考証がおかしいとツッコミたくなる気持ちはあまり起こらないと思います。

それはそれで、統一された世界観が出来上がっているために、違和感無く、受け入れられるのでしょう。

ですから、時代物のお芝居で、どうせリアルにその時代を再現出来ないのなら、いっそのこと、全部オリジナルにしてしまうというのもありかもしれません。

衣装として着物を用意することが予算上難しいのなら、全員着物をイメージした和テイストな洋服で出てくるとかでも、それが世界観として出来上がっていれば、そういうものとして入り込めるでしょう。

イギリスでシェイクスピア劇が上演される際にも、登場人物が皆現代のスーツ等で出てくるようなこともあるそうです。

「時代考証は必要か?」というタイトルですが、きっちり時代考証した作品が魅力的なこともあれば、とことん無視したオリジナルな世界観が面白いこともあるかもしれません。

次回は、「ジャンクステージ連載を振り返って」(雑感)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:18 | sakai | 時代考証は必要か? はコメントを受け付けていません
2015/02/11

前回のコラムを書いていて、改めて気が付きました。

洋舞(ダンス)では、大人数が同じ振りを合わせて踊るユニゾンにて、一糸乱れぬ程に動きが統一されるほど魅力的なことが多いかと思いますが、そういえば日舞では、創作舞踊の公演などを除くと、ユニゾンの動きをあまり見ません。

そもそも、一人で踊る演目が多く、複数人で一緒に踊ったとしても二人ないし三人がほとんどです。

それも、男役と女役のペアであったりと、それぞれ踊る役柄が異なるために、同じ曲の中で一緒に踊っていても、動きが違うことが多いです。

それでは、複数人が踊る日本舞踊の作品においては、一緒に踊っている人とは振りが違うのだから、自分のペースにまかせて踊るものなのか…と言うと、それは違います。

もしかしたら、踊り手同士が「息を合わせる」ということが、ユニゾン以上に必要かもしれません。

というのも、全然違う振りを踊っている流れの後に、決まるところはぴたりと揃わなければいけない箇所があったり、一方が立つと同時にもう一方が座るといったような、完全に対になった動きも少なくないからです。

ずっと同じユニゾンの動きであれば、仮にずれたと感じたとしても、踊っている最中に相手を見ながら微調整出来るかもしれないですが、違う振りの後にピンポイントで揃うべきところがずれると、悪目立ちしてしまいます。

ユニゾンではないために難しいこととして、普段のお稽古にて、横並びに立っている先生の動きをそっくり真似する習慣があるために、横並びで一緒に踊っていると、全然違う動きなのに、連られて相手と同じ振りを踊ってしまいそうになるということがあります。

ですから、相手と息を合わせなければならないながらも、相手の動きを意識し過ぎると、自分が混乱してくる恐れがあります。

前回の稽古場公演にて二人組の踊りを踊りましたが、お互いのスケジュールがなかなか合わずに、本番直前まで二人で合わせながらの稽古が出来ず、一緒に稽古した回数は何回だろうと指で数えられるレベルでした。

それにも関わらず、お客様からは、「息がぴったりだった。揃う様になるまでどの位稽古をしたの?」と好評でした。

僕自身、「思ったよりも揃ったな…」という実感がありましたが、その要因としては、お互いに音を意識していたことにあると思います。

日本舞踊の動きに、床を足で踏んで「トン」と鳴らした音でリズムを刻む、さながらタップダンスかの様なものがありますが、流れている曲の中で、どの三味線の音に合わせて足音を鳴らすかなど、お互いが音に細心の注意を払っていると、結構二人の息が合ってくるものです。

日舞に限ったことではありませんが、「踊る」ことにおいては、身体を動かすことと同じくりいに、音をきっちり聴くことが重要だと思わされます。

さて、ユニゾンが少ないと述べてはきましたが、大人数で同じ動きを踊ることが魅力的な日本舞踊作品もあります。

「元禄花見踊り」などの、“総踊り”と呼ばれるカテゴリーですが、踊りの会のフィナーレで、それまで踊ってきた全員が出てきて一斉に踊るようなイメージです。

それまで、ずっと1~2人程度で踊っていたのと同じ空間に、突然大人数が現れて踊るのですから、それまでとのギャップもあって圧巻ですね。

次回は、「時代考証は必要か?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

02:18 | sakai | ゆにぞん はコメントを受け付けていません
2015/01/28

最近、ストリート系の基礎ダンスレッスンに通い始めました。

特別「ダンスが上手くなりたい!」と思ったというよりも、ここ最近、舞台に立つための身体を鍛え直す必要性を感じていたが故です。

昔ジャズダンスのレッスンに通っていた経験から、やはり柔軟性や筋力を鍛えるには、ダンスレッスンが効果的だと思うので、レッスンに通いたいな…と思っていたタイミングで、昔一緒にダンスをしていた仲間が、パフォーマー向けのダンスレッスンを行っているという情報を耳にしたのです。

ここ何年か、踊り的なレッスンと言えば、日本舞踊しかやってきませんでしたが、そのために、バレエやジャズ、ストリート系のダンスのレッスンと、日本舞踊のお稽古とでは、色々と相違点があることに改めて気が付きました。

(以下に述べる日本舞踊のお稽古の特徴は、古典的なお稽古方法としてオーソドックスなものを挙げているつもりですが、先生によっては、ダンスレッスンに近いやり方でお稽古することもある様です。)

両者の一番の違いは、ダンスレッスンにおいては、先生一人に対しての参加者が、多ければ20~30人に達することもあるのに対し、日舞のお稽古は、基本マンツーマンであることかと思います。

それに伴って、ダンスの1レッスンがだいたい90~120分であるのに対し、日舞の1回のお稽古は、15~20分程度で終わることもあります。

「そんなに短いの!?」と驚かれるかもしれません。

しかし、マンツーマンであるが故に、そのお稽古の間中、先生はその生徒一人を向上させることにのみ集中します。

大人数が参加するダンスレッスンで、先生が生徒一人を集中的に見る時間と比較すれば、むしろ長いくらいかもしれませんね。

短時間集中型なのが、日舞のお稽古の特徴かもしれません。

ダンスより時間が短いことには他にも要因がありまして、ダンスのレッスンであれば、ストレッチや筋力トレーニングから始まって、アイソレーション(身体の一部分のみの運動)やステップなどを経て、残りの時間でコンビネーション(振り付け)を行うのに対し、日舞は基本的にコンビネーションに相当する部分のみです。

ダンスレッスンでは、振り付けとは別途に、動ける体を作るための基礎身体訓練に時間を割きます。

日舞稽古では、振り付けの中で細かく細かく形を修正していただきながら、良い形を目指すことを反復することによって、その形になるために必要な身体能力を養っていくと言えるのかもしれません。

ダンスのレッスンでは、1人が全然振りを覚えられなくても、周りがみんな覚えてしまったら、その1人が出来ないままに、振りが先に進んでしまうこともあります。

それに比べると、一対一で行う日舞稽古では、その部分の振りがきちんと出来なければ、出来るまで何度でも繰り返し同じことをやり、曖昧なまま先に進むことがありません。

しかし、日舞稽古はトータルの時間が短いため、ダンスに比べると運動量自体は少なく、本当に鍛えたいと思ったら、そのお稽古以外の場で身体トレーニングを行う必要も出てくるかもしれません。

ですから、密度の濃い日舞の稽古と並行して、身体訓練の効果が高いダンスレッスンを行うことで、互いに補完し合っている様にも思います。

次回は、「ゆにぞん」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

08:54 | sakai | ダンスレッスンと日舞稽古の相違点 はコメントを受け付けていません
2015/01/27

ブライダル司会の研修を受けているときの話です。

酒井がコメントを読んでいるのを、通りすがりにたまたま聞いていた大御所の司会者さんに、こんなことを言われました。

「あなたは役者さんだから、“司会者”というキャラクターを演じてしまっている。」

そのダメ出しの趣旨は、自分の言葉で自然に喋れば良いのに、いかにも「結婚式場の司会者ってこんな感じ!」というステレオタイプなキャラクターを表面的に装ってはいけないというものだと解釈しております。

じゃあ、それは具体的にどんなキャラクターでしょうか?

「結婚式の司会者」と聞くと、ニコニコした顔で、軽く手振りを交えてちょっと大袈裟とも思える様な話し方をする姿ですとか、しっとりとした雰囲気の中で、涙を誘うようなコメントをする様子をイメージされるでしょうか?

そういうキャラクターのイメージは、それが、結婚式場の雰囲気に相応しいからこそ、観念として固定化されているのかもしれません。

しかし、実はお芝居でも全く同じことが言えるかもしれませんが、目指すべきキャラクターを表面的に象ろうとすると、やっていることが嘘っぽくなってしまうと思います。

中身が変わらなければ。

「さあ皆様!いよいよお二人の!ご入場です!!」

などと、“いかにも結婚式の司会者っ!”な言葉をうわべだけ真似したら、それは、あざとくなってしまうと思います。

けれど、中身から司会者のキャラクターに切り替われば、その言葉も自然になっていくことでしょう。

ブライダル司会者に限らず、結婚式場で働く人全てに求められるキャラクター象を、僕は、以下の様に捉えています。

“人の幸せを自分の幸せの様に思い、幸せな絶頂にいる新郎新婦の力になれることが楽しくて仕方がない人。
辛さや悲しさなどを一切他人に見せず、明るさばかりを振り撒く人。”

仮に、それが結婚式・結婚披露宴の間だけの一時的なものであったとしても、中身からそういうキャラクターになっていき、その結果として、お二人の幸せを強調するあまりに、表現が大きくなったとしたら、それは真実に聞こえてくると思います。

もしかしたら、喋る技術などよりも、その内面の方が重要になってくるかもしれません。

次回は、「ダンスレッスンと日舞稽古の相違点」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

ウエディングMC・酒井孝祥

10:46 | sakai | ☆ブライダル司会者というキャラクター はコメントを受け付けていません
2015/01/25

「お客様は神様です。」

最近はあまり耳にしませんが、商売人の合言葉の様なキャッチフレーズですね。

神様に接するかの様にお客様に接し、神様に感謝する様にお客様に感謝する。

その、お客様を何よりも大切にする心意気は、お客様からチケット代金をいただく、お芝居、ダンス、歌などのパフォーマンスにも共通のことが言えることでしょう。

そして、お芝居などにおいては、もう1つの意味合いで、お客様を神格化出来るのではないかと思っています。

神様を、世界の創造主とみなせば、客席にいるお客様は、その作品の世界を創り上げる創造主の様な存在ではないでしょうか?

面白い脚本で、素晴らしい演出で、魅力的な俳優達が出演している舞台であったとしても、もしも客席にお客様が一人もいなかったとしたら、そのお芝居の世界は存在し得ません。

演劇としてゼロです、無です。

舞台上で繰り広げられるものを客席のお客様が見て、聞いて、感じることで、それぞれの心の中に作品の世界が生まれる。

客席にいるお客様の数だけ演劇は存在出来る。

パフォーマー達が技術を磨き、作品のクオリティを上げようとするモチベーションは、つきつめていけば、神様であるお客様達に、少しでも感動して欲しい、残念な気持ちで帰って欲しくないという想いに繋がるのではないかと思います。

ですから、時間を割いて、お金を払って来て下さるお客様に対して、感謝の気持ちが表明出来ない人に、良いものは作れないでしょう。

事実、当日の劇場までの道案内等が徹底していたり、前説の場内アナウンスが丁寧だったりと、お客様に対してきちんと気遣いが出来ている方々による公演は、作品自体が面白いことが多いです。

仮に、客席にいるお客様の中に、プライベートで敵対関係の人がいたとします。

チケットノルマのある公演において、自分と長い付き合いなのに、他の人からチケットを買った人がいたとします。

でも、どんな人であれ、客席でパフォーマンスを受け止めて下さる限り、お客様であることに変わりなく、世界を創造する神様であることに変わりはありません。

もし僕が、そんなお客様に苦言を述べることがあったとしても、それは、お金と時間を割いて足を運んで下さったことへの感謝の意を表して、その後にしたいと思います。

そうでなければ、自分がなくなってしまいそうです。

「お客様は神様です。」

それは、全てのパフォーマーに通じる、最も基本的な考え方なのかもしれません。

どんなことがあっても、舞台に立つ限りはそれを忘れまいと思います。

次回は、「ブライダル司会者というキャラクター」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:32 | sakai | ★お客様は神様です はコメントを受け付けていません
2015/01/22

今回のコラムは、普段、演劇公演の制作を行う方などが、日本舞踊や三味線などのお浚い会(お弟子さん達の発表会的な公演)の受付を頼まれることがあったときなどに参考にしていただければと思います。

昨年、浄瑠璃のお浚い会に出演させていただきましたが、出演すると同時に、受付チーフの様な役割も果たしました。

会全体は8時間以上にも及ぶ長丁場で、自分が出演しているのは15分程度ということもあり、体感としては、出演をしに行ったというよりも、受付をしに行った合間で出演をしたかの様ですらありました。

こういった会での受付において、演劇公演の受付と大きく異なることは、大別すると2つあるかな…と思います。

(1)上演がスタートしてから後も、随時お客様の出入りがある。

(2)ご祝儀とお引き出物のやり取りがある。

(1)に関してですが、演劇などの公演であれば、いったん開演してしまえば、若干名の遅れ客の誘導はあるものの、受付の仕事はほとんど終わったも同然です。

終演もしくは途中休憩までは、ゆっくりと半券やお金を数える以外、特に仕事はないかと思います。

演劇公演では、一度開演した後の受付業務は、飲食店に例えれば、ランチタイムのピークが去った後の、アイドルタイムの仕事の様なものです。

しかし、古典のお浚い会においては、お客様の多くが、自分の知り合いの出演する時間帯(チラシに、おおよその時間の目安が書いてあることもあります。)を狙って来場し、その前後の演目などを観賞して帰って行きます。

そのために、開演した後でも、常にお客様の出入りがあるため、なかなか気が抜けません。

客席への出入りのみならず、楽屋への出入りも常時あるために、その誘導も必要となります。

演劇公演ではまず考えられないことですが、本番前の出演者に楽屋での面会を希望するお客様もいます。

(2)は結婚式とよく似ているかもしれません。

会の形式にもよりますので、一概に全てがそうとも言えないのですが、お客様は出演者から“ご招待”を受けて来場し、“ご祝儀”として包む金額が、実質的な入場料金になることがあります。

そして、“ご祝儀”をお持ちいただいたお客様に、出演者が
“お引き出物”を準備しておくところなども、まさに結婚式の様です。

そのために、受付において、チケット代金のやりとりが皆無ということもあります。

その代わり、お祝いを受付で預かったときに、確実にそれを当人に渡すことと、お客様には間違いなくその人が用意したお引き出物を渡すということには、かなり気を遣います。

各出演者ごとに、完全に受付が分かれて用意されていることや、そういったやりとりは原則、楽屋で本人相手に行っていただく様なこともあります。

先日僕が受付を行ったお浚い会では、助っ人として、小劇場演劇の制作や受付業務にかなり馴れた方をお呼びしたのですが、やはり古典独特のやり方に苦戦された様子です。

でも、実質的に働く時間が長時間に及ぶため、1日の仕事でだいぶ要領を掴んでいただけた様です。

フリーで制作や受付などの仕事を行っている方など、一度古典の会の受付を経験すると、お仕事の幅が増えるかもしれませんね。

次回は、「お客様は神様です」(雑感)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:26 | sakai | 受付 はコメントを受け付けていません
2015/01/20

日舞の稽古場公演で「いきほい」を見たお客様から、こんな感想をいただきました。

「酒井ちゃん、コントみたいだった。」

なるほどと思いました。

昔のお笑い番組で、何か悪いことをしようと企んでいる人が、それを実行しようとする度に邪魔が入って、スリッパで頭を叩かれたりして、結局その企てをいつまでも実行出来ないというパターンのコントがあったかと思います。

鎧を持って、いざ戦いに赴かんとする五郎を、その度に舞鶴があの手この手で引き留め、ときには色仕掛け(?)まで使う「いきほい」という踊りは、言われてみればコントの様です。

それを、互いに大真面目にやっているから、尚更可笑しく見えるのかもしれません。

古典のものにあまり触れない人からすると、どうしても、古典芸能は堅苦しいものと思われがちです。

それは、学校の授業において、古文のややこしい文法などを勉強しなければならなかったために、古典のもの=勉強するものというイメージが出来上がっているからなのかもしれません。

しかし、作品によっては、本当にくだらないストーリー内容だったり、歌詞が駄洒落のオンパレードだったりします。

日本舞踊において、“コントみたい”という表現がふさわしい踊りが他にないか思い浮かべてみると、「流星」という作品がまさにそれです。

「流星」というタイトルを聞くと、どの様な内容を思い浮かべるでしょうか?

英訳すれば“シューティングスター”となり、素早さや輝きを象徴する様な、格好良い印象を抱く方が多いのではないでしょうか?

確かに、この踊りに登場する「流星」というキャラクターは、格好良くて俊敏な動きをします。

作品のストーリーを簡単に説明します。

7月7日の七夕の日に、織姫と彦星が年に1度のデートを楽しんで、良いムードになっているときに、突然割り込む様に「ご注進、ご注進!」と登場し、何か重大な事件が起こったことの報告があるかの様です。

しかし、その流星が報告した内容というのは、雷夫婦の夫婦喧嘩の話で、結果的には仲直りしてめでたしめでたしとなります。

そんな他愛もない話を、身振り手振りを使い、お面まで用いたりして細かく実況説明し、それが終わると、また流星のごとく去っていくという、「なんじゃそりゃ?」と思ってしまう様な内容です。

他にも、とんびにカツオを盗まれた奴(やっこ)が、空を飛ぶトンビからカツオを取り返そうと奮闘する「とんび奴」ですとか、「棒しばり」や「身替座禅」の様な、狂言を元ネタにした作品などもそういう類かもしれません。

日本舞踊だ、古典だ、難しそう、堅苦しい…などと言う思い込みがあったとしても、実際には、馬鹿馬鹿しくてくだらない内容で、でもそれを真剣にやっているのが面白い、軽い作品も少なくなかったりします。

次回は、「受付」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:30 | sakai | コントみたい… はコメントを受け付けていません
2014/11/29

どこの学校に進学して、何の技術を身につけて、何を生業とするか…
そういった大きな選択は勿論、今日どんな色の服を着るか、夕飯に何を食べるか…
些細なところまで、人生は毎日が選択の連続です。

そんな人生の中での最大の選択は、やはり、結婚相手を選ぶこと、あるいは結婚しないで人生を歩むかどうかを決めることではないでしょうか?

そして、その人生で最も大きな選択を下した後には、その結婚に付随して、またさらに沢山の選択を行わなければなりません。

まず、結婚式や披露宴を行うかどうかという選択があり、行うことに決めたなら、会場をどこにするのか、どのくらいの人数を呼ぶのか、というところの選択から始まり、料理や飲み物をどうするか、ドレスをどうするか、キャンドルサービスなどを行うのか等々…挙げていたらキリがないほどに、本当に数多くの事柄を選んでいかなくてはなりません。

それこそ、当日のテーブルにセットされるナプキンの折り方から、主賓の挨拶の際に、ご両親が起立するかどうか否かといった、どれを選んだからといって、大幅に何かが変わるわけでもないことでも、選ばなければ決まりません。

どんな些細な選択でも、それが一生に一度しかない選択となるので、選択を誤ることで後悔するのは避けたいものの、だからといって、一つ一つの選択に慎重になり過ぎていたらキリがありません。

そこが難しいところかと思います。

その中の一つに司会者を選ぶというものがありますが、これは、結婚披露宴の準備を行う中でも、結構なキーポイントになるかと思われます。

披露宴の良し悪しは、当日の司会者によって決まるとさえ言われる程で、司会者のタイプによって、披露宴全体の雰囲気が変わってくるかと思います。

落ち着きのある司会者で格調高い雰囲気にするのか、お笑いタレントみたいな冗談まじりのMCを求めるのか、FMラジオのDJみたいにスタイリッシュなノリにするのか、ひたすら明るく賑やかに盛り上げてくれる人を選ぶのか…

もし、友人で司会を頼める人がいるなら、人となりをよく理解した上で、その人がやったらどんな雰囲気になるかをイメージしながら選ぶことが出来るでしょう。

特にこだわりを持たずに、司会者の選定を会場に一任するという方法もありますし、その場合でも、男性ががよいか女性がよいか、どんなタイプの人が理想か、ある程度は希望を述べられるかもしれません。

生涯に一度だけの結婚披露宴を、自分達の納得いくものにするには、色々な司会者の情報を調べて、イメージにあった人をチョイスしていくというのもありかもしれません。

酒井もそうですが、インターネットサイトで、実際に喋っている司会者の動画を確認出来るケースも少なくありません。

披露宴本番まで余裕がある時期に、色々ネット上で司会者の情報を調べて、「この人が喋ったらどんな雰囲気になるだろう…」と当日の様子をイメージしてみると、逆にそのことによって、自分達の理想とする披露宴像が見えてくるかもしれませんね。

次回は、「コントみたい…」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

ウエディングMC・酒井孝祥

11:51 | sakai | ☆Choice はコメントを受け付けていません
2014/11/07

先日、大きな劇場での浄瑠璃の会に出演しました。

稽古場近くの公共ホールなどではちょくちょくお浚い会が行われるのですが、 歌舞伎や文楽の公演も行われる様な、立派で、なおかつ格式の高い劇場での会は、自分の名取披露以来、5年ぶりでした。

会に出ると決めたとき、ぶっちゃけ第一に考えなければならなかったことは、その参加費用を工面することでした。

よく、古典芸能的な習い事のイメージとして、「凄くお金がかかりそう。」と言われます。

実際はピンキリで、日常の稽古代は、他の習い事とそれほど変わらないところが多いかと思います。

しかし、大きな会に出ることを決めれば、やはりそれなりにお金はかかるものです。

それは当然のことです。

大学の演劇サークルが小劇場で公演を行うにしても、一番お金がかかって悩まされるのは、場所代、小屋代です。

格式が高く、設備も立派な劇場ともなれば、それに合わせて小屋代が高くなるのは当然のこと。

まして、会の運営には、音響さんに照明さん、大道具さんや劇場専属のロビー係さんなど、かなりの人数のスタッフさんのプロフェッショナルな働きがかかせません。

それだけの人達に動いていただくことにも、当然お金は発生します。

ですから、会の日程が決まってからは、スマホの家計簿アプリも活用して、本番までに毎月いくら貯蓄しなければならないものか、常に気にかけながらの生活でした。

「なんでそこまでして出る必要があるの?」

と聞かれることも少なくありませんが、その答えはもしかしたら、なぜ結婚式を行うのかという質問への答えに、共通したところがあるかもしれません。

結婚式を挙げるためには、お金も労力もかかりますが、それを行い、自分達のことを祝ってくれる人達が一同に会することによって、自分の人生が、いかに沢山の人に支えられて、自分が人々の輪の中にいることを強く認識出来ることと思います。

そのことで、実りある人生を歩んで行けることと思います。

古典芸能での、自分が属する流派の会に出るということは、縁があって、古くから引き継がれている芸能を一緒に受け継ぐことになった一門の絆を、互いに確認し合い、決して自分は一人で学んでいるわけではないと気付くことに繋がるのではないかと思います。

やはり、それに出ると出ないとでは、自らの稽古への取り組み姿勢が変わってくる様に感じます。

次回は、「Choice」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

11:08 | sakai | 久々の大舞台 はコメントを受け付けていません

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