地球の舳先から vol.349
東北(2015)編 vol.1
いろいろとのっぴきならない事情が重なり、年末年始は東北にいた。
のっぴきならない事情ゆえ、そんなに遊びまわれる時間もなかったけれど
それでも毎日時間をつくって、いろんなところへ行ってきた。
名取、閖上、松島、奥松島、塩釜、西和賀、久慈、宮古…
その中には、さきの東日本大震災の大きな影響を受けた場所も多々あった。
あれから、もう4年が経とうとしている。
そろそろ、というよりは、もういい加減「被災地」というのをやめにしたかった。
というのはもちろん、個人の気の持ちようとしての話。
復興には時間がかかり、爪痕が完全に消え去ることはなく
未だほとんど全ての地域が苦しい状況にあることは確かな事実。
でも、気仙沼に足繁く通うようになって、もう2回目の訪問くらいでわたしは
気仙沼を「被災地」と呼ぶことに違和感を覚えるようになっていた。
わたしにとって、「気仙沼」は「気仙沼」だった。
いや、「気仙沼」がわたしの中で、「被災地」じゃなくて「気仙沼」になった。
かわいそうだからじゃなくて、好きだから通っている。
復興支援だからじゃなくて、美味しいものがありすぎるのでお金を使っている。
仕方ない。
いつしか、「被災地応援プロジェクト」なんていうバブル臭漂う文言に、いや、
人ん家を「被災地だ」と喧伝する物言いに、嫌な感じすら覚えるようになっていた。
「被災地」という、うすらぼんやりした(そしてネガティブな)呼び方が
「どこどこ」という固有名詞に変わるのは、この足で旅をしたときであるようだった。
はじめて気仙沼に行ったときから、「被災地」という白地図を自分の中で「もとの地名」にリネームする旅を始めていたのかもしれなかった。
この年末年始で、またいろいろなところでいろいろな人と出会い、
そらで地図を手書きできる地域が増えた。
物産展の手伝いに行って、「東松島っちゅーのは牡鹿半島より先かね」
なんて聞かれても、もうキョドらない。
ただ、正直、旅をしても、固有名詞にならなかった場所も2箇所ほどある。
具体的には挙げないけれども、どうしようもなく脱力と絶望しか感じられない場所もあった。
そうではない場所だって、そこで亡くなった人たちがいる。
「震災被害者」ではなく、「1人の人間がいなくなった」ということが同時多発したことを
考えるとき、それは堪えきれない重みになることは間違いない。
それでもわたしは、やっぱり、人ん家を「被災地」と呼ぶのはもうやめにしたい。
やめにするために、これからもいろいろなところを訪ねて行きたいと思っている。
そんな東北ぶらり旅を、たぶん今年も続けていくんだろうと思いながら。
とりあえずは年末年始の思い出を、振り返っていきたいと思います。
地球の舳先から vol.348
東北(2014)編 vol.11
年の瀬も押し迫ったクリスマス、最後の気仙沼へ。
大好きな土地に、今年は何度も通うことが出来ました。
まあ、ずっと、食べてただけだけど…
というわけで美味いもん報告だけしておきます。
1日目は東京から来ていたみなさんと「こうだい」さんへ。
ずっと気になっていたお店で、1階にはカウンターもあるというし行ってみようかと思っていたけれど、みなさんに混ぜていただけてとっても楽しいお酒。
最初に、なまこ(旬だそう、初めて食べました)やいくらなどの小鉢が出てきて、
刺し盛りの次の焼き物がすごかった!
絶品メカジキステーキに秋刀魚の煮たの、それに特大牛タン!
気仙沼で牛タン食べたの初めてですが…メカジキは照り焼きの具合がとっても上手。
しかもわたしの手のひらサイズくらいあって、もうこのあたりでお腹いっぱい。
しかしまだコンロに鍋が控えているもので、そろりそろりと開けてみると。
来ました!!!!大きな大きな牡蠣鍋!白味噌が上品でとってもよく合います。
お酒は蒼天伝シリーズをいろいろと、ポンポン空いていきます…
鍋で締めたつもりが、ここに来て牡蠣フライが登場!
気仙沼の冬、すっかり満喫しました。
しかもこれで、3000円のコースですって…海町気仙沼、さすがです。
食べ過ぎたので、仮設のスナックでひと働き…?!
帰りは代行の車に便乗して…人がみんな本当にあったかい。
酔い覚ましに朝風呂。気仙沼プラザホテルさんの海の見える露天風呂、
景色がよく見える朝が私の大好きな風景。
翌日は、内湾のイルミネーションを臨む「福よし」さんへ仲間を連れて再訪。
「女の子ばっかりかい!」と驚かれましたが…
前、こちらでコースを頼んで量が多くて撃沈したので、アラカルトにしました。
刺し盛り!見た目がすごいです。
なんといってもツブ貝が、わたしの知ってるツブ貝じゃなかった!
レバーのような見た目のは、気仙沼名物通称「モウカの星」、サメの心臓です。
旬のホタテにもありつけて大満足。
人数も多かったので、最高級魚「きちじ」(キンキ)を焼きで頼みました。
ここはすべてが「時価」なので、1人のときには勇気が出ません…
いろりで、直に火を当てず時間をかけて焼く、匠の技…
魚の個体差によって、焼くときに刺す串も変えるんだそう。
美味しんぼでも「日本一の焼き魚」と絶賛されていたお店なのでした。
ふわっふわの身を堪能した後はスープをもらって、魚から出る出汁を楽しみます。
そんなわけで、今回も、気仙沼ホルモンにも、渡辺謙さんのやっているカフェK-portの三國シェフのカレーにも、美味しいイタリアンにも行きつかず。
やっぱりいずれ、5泊くらいして本腰を入れて食べに来なくてはなりませんね。
さて、もう今年も終わりますが、明日からは再び新幹線に乗って、東北をぐるぐると回ってくる予定です!
最後に、海から一番近いお料理屋さんでもある「福よし」さんからの内湾のイルミネーションを。
Happy Christmas!
地球の舳先から vol.347
チベット(ラダック)編 vol.10
車が水に浮いてるんじゃないか。
そう錯覚するほど、豪雨のなかを車は駅に向かっていた。
駅、といっても、3時間ほど車で行ったところに
パタンコットという、デリーまでの夜行列車の止まる駅があるのだった。
バスなどの公共の交通機関だったら辿りつけなかったかもしれない。
モンスーンにも山の天気にも慣れっこの運転手は平然と水の中を運転する。
列車が定刻に来ても2時間はあろうかという時間に駅に着いたが
雷が落ちて近くの木は割れるわ、駅は爆発のような音がしたかと思うと
すべての電気が落ちるわ、建材が落ちたり物が飛んで来たりするわけで
沖縄の台風とはこのようなものなのだろうか、と思う。
幸い、1等車両のチケットを買っていたわたしは屋内待合室を利用できた。
しかし、夜行列車はその日に席順が決まり、ホームに張り出されるのだが
そんな張り紙などとうの昔に雨でグシャグシャになっている。
ポーターを頼んで、席を探してもらうことにした。(運び終わった後、理由なき
追加料金の請求があったのは言わずもがなである。この手の交渉はただ
「No」と言っていればいいので、わたしでもできる簡単なものだ。)
昔は全部の席を買い取ってコンパートメントを個室にできたのだが、
今はそういうこともできないらしい。
同室したインド人男性が何かと難癖をつけてくるお喋りさんで閉口。
「Do I disturb you?」というので、わたしは「Be Japanese」を捨てて
「Yes I am sleepy」で幕引きを図った。
ちょうど夜も明けた頃にデリーに着き、雨も上がっていた。
19時台の帰国便までは丸一日あるが、あまりうろつきたいところでもない。
せっかくなのでチベット世界を見ていこうと、デリーにあるチベット難民キャンプへ。
ここは、「難民キャンプ」ではなく「コロニー」と表現されていることも多い。
ダラムサラのような、チベットの人たちが世界を作って暮らしているところでもなく
雑然な細道に不衛生極まりない状態、人々の暗い顔に日の当たらない通りは
こんな表現をするのはいけないことだとわかりきっているが、スラムのようだった。
暗く湿った通りにはどこも、虫の大群が湧いて飛び交っている。
最初ハエかと思い、その空気を埋め尽くす量にびっくりしたが、それらが
ハエではなく蜂であることがわかり、二重に驚く。
ここからは、ダラムサラへ安く行けるバスが出ておりバックパッカーの絶好の滞在地
になっているとガイドブックに書いてあるのだが、とてもそんな雰囲気ではなかった。
日が当たる小さな広場にはチベット式の寺院があり、
外国人向けのレストランもあるが、昼時になっても閑古鳥。
コロニーの中を歩こうにも、水はけの悪い道に足をとられるし、
なにせあの蜂の大群の中を歩くのはぞっとしないので、早々に外に出た。
外壁にはFREE TIBETの文字と、ダラムサラでもお目にかかった男の子の肖像。
5歳の時に中国政府によって拉致され今も行方はわからない。
(ちなみにこの子は中国側からするに「世界最年少の政治犯」ということになるらしい)
こちらに詳しい話。→ パンチェン・ラマ11世問題
壁で囲われた居住区の外に、祈祷旗のはためく庭があった。
ここで、熱心に働くシマリスの写真を撮ったりしてぶらぶらしていたが
設置されたベンチで横になり、ずっと何事か呻きながら泣いている女性がいた。
明らかに精神を病み、老婆のように老け込んでいる。一日中、こうしているのだろう。
ここにいれば飢えて死ぬことはないようにできているのかもしれない。
しかし、故郷を追われ、家族と生否の連絡さえ取れない別れという苦しみは、いまだチベットの人々を覆っていて解決の見込みもない。
大通りの向かい側に「NIRMAL HRIDAY」というどこかで見かけたことのある
文字列と、大きな建物が建っていた。イエス・キリストの肖像。
マザーテレサの建てた、通称「死を待つ人の家」ニルマル・ヒリダイだった。
わたしも大学時代にインドのコルカタにあるマザーハウスで労働をしたことがあるが
世界中からボランティアの押し寄せるマザーハウスを思い出して、
なんとも複雑な気分になったのは言うまでもない。
地球の舳先から vol.346
チベット(ダラムサラ)編 vol.9
夏のインドはモンスーン。
高地にいたので関係なかったけれど、5時間かけてダラムサラへ。
車は日本の旅行会社手配なので、この上ないほど快適だが、
途中でまさにという感じの雨が降り始める。雨の峠越え。
最後の目的地であるダラムサラは、ダライ・ラマ先生のいるところ。
中国の迫害によりチベットを追われたチベット亡命政府があり、
いまも難民を受け入れている。丘の斜面に沿ってカラフルな家が立ち並ぶ。
とてもかわいらしいのだが、ひとつひとつの住居は本当に小さそう。
気候の良さもあり、インドに疲れて長期滞在するバックパッカーが多く、
カトマンズにも似た雰囲気。カフェやWi-fiも整っていて楽ちん。
そこかしこにあるおしゃれカフェで雨待ちをしながら、少しずつ観光した。
チベット世界に戻ってきたなと感じるのは、
女性の民族衣装と、やっぱり兵士の多さ。
霧のけむるダラムサラの街を抜けて、「TCV」チベット子供村まで歩く。
前世がどういう動物だったのか知らないが、わたしは山があると登りたがるらしい。
TCVをはるかに通り過ぎて、目の前の山の一番上にある村まで行ってしまった。
チベット子供村は、その名の通りチベットの子どもたちのための施設。
亡命の途中で親とはぐれたり、難民になった子ども、単独で亡命をしてくる子どももいる。
民族浄化を進める中国を子どもだけでも離れられるようにと
妊娠中に亡命し、ダラムサラで子供を産んで自分は中国に帰る人もいるという。
ほとんど生き別れになることが多く、中国によって、手紙や電話のやりとりすら危険らしい。
子どもは元気。雨の中サッカーやバスケをし、教室からは澄んだ歌声が響く。
入り口には、中国に侵攻されたチベット・ラサのポタラ宮のミニチュアの模型があった。
昼は、「ルンタ」という日本人が経営する日本食レストランで取った。
チベット料理に飽きたのではなく、ここで食事するとFREE TIBETに寄付が行くのである。
天ぷらうどん。外国人には、巻きずしとのセットが人気。
ダラムサラはこれといった観光スポットがあるわけでもなく、ダライ・ラマのお寺へ。
中へ入るにはポケットの中までほぼすべての持ち物を預ける必要があるので
近くのホテルを取って、手ぶらで行くのが便利だろう。
ダライ・ラマ先生が若かりし頃は頻繁にここで接見もできたよう。熱心な信者もいる。
そしてお寺の周りは参道として、ぐるっと一周できるようになっている。
タルチョと呼ばれるカラフルな祈祷旗がはためく参道。
途中途中にちょっとした小さなお寺や、回すとお経を唱えたことになるマニ車などがある。
観光客はさほどおらず、現地の人や袈裟を来た僧侶たちがちらほら。これも山道。
平地に出たと思ったら、たくさんの肖像画がかけてあった。
これは中国の違法な侵攻と民族浄化に抗議して自殺した僧侶たちだった。
名前、所属の寺、享年、死因などが書いてある。
焼身自殺したときの写真が肖像になっているものもあった。
(こちらは、高僧になるはずだった少年。中国政府に拉致され、今も行方がわからない)
自分でも不思議だったのは、驚くほどに憎しみの感情が沸いてこないことだった。
こうして帰国して何か月もたった今は、思い出して中国にひどく嫌悪を感じるのだが、
ダラムサラにいた時、瞑想の体制のまま炎に包まれる僧侶の写真を見ても、
そこまで思わせるものに感じ入りはしても、中国に憎しみを抱く気持ちは出て来なかった。
何か、大きな力が働いている。
穏やかな、不思議の国のダラムサラだった。
夜はブータン料理にした。今日こそビールを飲もうと思っていたのに、
独立記念日で「Dry Day」だとかで全土的に禁酒日らしい。泣ける。
「聞いたこともない英語」の二つ目を覚えた。
レストランのメニューには、店主からのメッセージだろうか、1ページ目に
ダライ・ラマ先生のおかげでこの地で平和な生活が送れること、
この地を提供したインドへの感謝、みんなで平和を守ってこの地を発展させていく、
というようなことが書いてあった。
外は雨。夜になるほどひどくなるようだった。
地球の舳先から vol.345
チベット(寄り道アムリトサル)編 vol.
(撮られ慣れているであろうイケメン兵士。この部隊は顔採用という噂もある)
さて、チベット文化圏から寄り道。一度は行きたかったインド・パキスタン国境。
ラダックで平和ボケした身には、国境へのベースとなるアムリトサルの街はいかにもインドで、
空港のタクシーカウンターの「今日は特別な日だからいつもより料金が高い」にも、
タクシーの運転手の「今日はこれ以上先に行けない」と1キロ以上遠くで下ろすのにも
すっかり閉口して「やっぱインド嫌い」は強固になり、
ホテルのすぐ裏の、シーク教徒の聖地である黄金寺院すら見に行く気がなくなった。
そんなわたしを癒してくれたのが西遊旅行で手配しておいた運転手さん。
大幅に遅れたわたし(というか飛行機)を延々と待っていてくれて、寡黙で安全運転。
車内で上着を着れば「寒いか?」と聞いてくるハイパーっぷりである。ここは日本か。
こうしてクルマに揺られること1時間弱。日没時の国境セレモニーに間に合った。
(いかにこの部隊が危険で誇り高い仕事かを語るポスターが多々ある)
翌日にインド独立記念日を控えるこの日は国境周辺もイベント尽くし。
駐車場から国境まで1キロほどを歩いていくのだが、展示や屋台がたくさん。
わたしも兵士と写真を撮ってもらったりしたが、アジア人が珍しいのか
逆に、来ていたインド人にバシャバシャ写真を撮られた。なぜ。
そして、セキュリティーチェックもたくさん。荷物はないに越したことはない。
ここでわたしは多分人生で初めて「英語がわからなくて困る」思いをした。
途中に何回かある身体検査にて、女性係官に言われた。
「Check the bottle」
持っていた水のペットボトルを差し出すと、「No.Check the bottle」と繰り返す。
持ち込めないなら捨てていく、と言っても同じフレーズが帰ってくる。
彼女が何を求めているのか、まるでわからない。
「I can’t understand you」と言っても、別の表現で言い換えてくれたりはしない。
小さな身体検査の小屋の中で出口を失ったわたしに、後ろの女性が
「それが武器や毒物じゃないって証明するために、ここで飲んで見せろって言ってるのよ」
なるほどー?! そんな英語、知りません!!!
またしても一気飲みを始めたわたしに、「全部飲まなくていい」といって、無事解放された。
(もっともインド側(国境から遠い席)の端にガンジー像。を囲むように席が配置されている)
(パフォーマンスをする人のほか、警備員や観客を整列させる係の軍人もいる。
シャッターチャンスでカメラを構えて線から出るとすぐ笛を吹かれる。)
セレモニー会場は、小さなサッカースタジアムのよう。
インド側にはガンジー、パキスタン側にはジンナーの肖像画が掲げてある。
首相とかじゃない。そう、ここは政治よりも平和の象徴のためにある国境施設。
応援団の応援合戦を国家レベルにしたようなもので、ド派手な衣裳で
あくまで「演出」としての挑発・攻撃のパフォーマンス、
それに満員に集まったお客さんたちが掛け声をかけて盛り上がるというもの。
(衣裳も色違い、振付も同じという事で、両国で合同練習してるんだろう。)
(国境が開いている状態。パキ側の肖像はジンナー。日本ではマイナーだが、パキスタン独立の父)
外国人はパスポートチェックだけで入れてもらえて、VIPシートに案内される。
「ふ~ん外国人だからか~」と軽く思っていたが式典後、わたしはこの意味を知ることになる。
日没の直前、両国の国旗が降ろされ、門が閉まり始めると、敬礼で見守る人たち。
門が完全に閉まると客たちはその境目に殺到して壁に触ったりとかするのだが、
ふと後ろを向くと、十数メートル向こうにはロープが張られ、その向こうにインド人たちがいた。
つまり、国境にもっとも近いところに設置されているのが外国人も入るVIPシートであり、
一般のインド人は国境のすぐ手前までは近付けないようになっているのである。
聞いたところ、事前に色々申請やら審査やらを通ると、インド人でも
人(「位」という言い方をしてたけれども)によってはこのVIPシートに入れるのだそうだ。
ロープの向こう側もまた、人が前へ前へとすし詰め状態になっていたが、
勿論喧嘩がしたいわけじゃない。
むしろそれまでの掛け声や盛り上がりが想像つかないくらいしんみりとしていて、
郷愁とか哀しみのような表情の人たちには、複雑な思いを感じざるを得なかった。
帰りも歩いて駐車場へ。クルマの前には見覚えのない姿の人が立っており…
「1 minute」と言って消え、Tシャツの上にあわてて白いYシャツを着て再登場した彼は、
確かに運転手その人だった。
想定したより私が帰ってくるのが早かったのだろう。
「客の前では正装しろ」と、この気候ではスポ根的無駄である“日本式”教育を
受けているらしいドライバーに、少々同情したのだった…。
地球の舳先から vol.344
香港編 vol.2
香港へ行った。何年かぶりに。
とはいっても、前回香港へはほぼ1日足らずしかおらず、
あのギラギラな超高層ビルが建ち並ぶヴィクトリアハーバーと
スピードの出し過ぎで横倒しにコケそうな2階建てバスしか記憶がない。
遠い遠い、金融界の街―そう思っていた。
夜中1時過ぎの羽田発のLCC「香港エクスプレス」に乗って約4時間。
MTRは乗り継ぎがよくわからず、路線バスに乗って早朝の街へ出る。
幸いホテルは大きいところを予約してあったのですぐわかった。
店先の水槽に大きなエビやカニの泳ぐ店でお粥と点心の朝食。
あとは重慶マンションという両替のメッカ(決してレートはよくなかった…)
で香港ドルを手に入れて、ホテルで寝る。
初めて国際線でLCCを使ったが、水1杯、毛布1枚出ないという徹底っぷり。
当然モニターなどあるわけもなく、機内で寝れないわたしは随分退屈した。
本の1冊でも持って行けばよかったのだが、今回は小さいリュック1個で来ていた。
これほど何も考えていない旅も珍しかった。
航空券も突然「あ、再来週、香港行こ」で取ったものだった。
そんなわけで「どこへ行きたいか」と聞いても「考えていない」と答えるわたしを
香港の友人が、長州島という離島に案内してくれた。
中心部から向かいの高層ビル群、香港島へ。そこから高速船に乗り換える。
日曜日で混みあうのもフェリーターミナル周辺だけで、奥の道をハイキング。
…の前に、飲み物を調達。
パンチの効いた見た目だが、色々とフルーツの味があり、大丈夫。
前の人のTシャツは謎。
警察の前で昼寝する猫。名前はジュリエット。
いつも2匹いっしょだった相方のロミオは亡くなっていまはひとりらしい。
山道をのぼっていく。
餌を要求して近寄ってくる猫様。
生い茂る南国フルーツ。11月初旬で、昼間は28度とか。
湾に出てきた。お寺らしきものを人力で修繕している人々。
そして釣り人もいる。何が釣れるんだろう?
そして、またしても猫様。
山道を降りてふたたびフェリーポートのあった下界へ。
干物天国。干しすぎじゃない?
下は、Fish Ballという、日本でいうところのかまぼこの煮たの。
球体の真ん丸で、いろいろ味付けに応じて鍋が並ぶ。
屋台が色々出ていて、なんか、ずっと食べていた。
どこへ行っても、港の風景が好き。人の出入りと活気があるからかなぁ。
夕暮れ。
その後香港島へ戻って、夕食。
これ、香港で食べたもので、一番美味しかったもの。
鶏を紹興酒で浸けてある冷菜。けっこう定番らしいのでお試しあれ。
(でも空港で食べたのは油っぽい上にあんまり味が沁みてなかった…)
酔っぱらいそうなアルコール度数です。
もちろん小龍包も◎
この日は記録更新、3万歩、21km以上歩きました。
翌日は、ふらふら散歩の後、片道40分もロープウェイに乗って…
(高所恐怖症の人には絶対に勧めない)
屋外にあるものとしては最大クラスという大仏を見に行きました。
なぜか、お参りに来ていたシーク教徒(推定)のみなさん。なぜ…。
ここは空港にもバスで15分程度なので、帰りに立ち寄るのがおすすめ。
だけど、ロープウェイは土日はとっても混みそうなので注意!
裏技として、高い料金でクリスタル(ガラス張り)の車体のチケットを買うと
あんまり並ばないです。心臓に悪いけども。
おまけ。
世界一やりたくない職業。
ロープウェイのカゴなしの人力点検。命綱ついてるけどさ…。
そんなこんなでほのぼのと香港観光は終了。
帰りは飛行機を降りてから最終のモノレールが10分後、という綱渡りな
フライトスケジュールでしたが、競歩をがんばったらなんとか乗れました。
羽田の導線のよさならでは…。
どこにも街のイメージというものはあって、
でも人が暮らしている限りやっぱりいろんな顔があるのだなと思った。
特に香港は、30分とか1時間とか足を延ばせばいろんな景色が見られるので
台湾同様、何度も訪れてみたい場所になりました。
地球の舳先から vol.343
香港編 vol.1
迷ったけど、やっぱり書くことにします。
あの震災があったとき、不通になった携帯メールのかわりに
Facebookやtwitterでメッセージを交換し合ったけれど、
わたしが真っ先に受け取ったのは香港の友人からの安否確認だった。
そんなわけでこの香港動乱(?)のニュースは決して他人事でもなくて
なぜかずっとあの大震災を思い出してたのは、そういうわけだったのかも。
国家の危機に直面して、団結し合おうとしていたあの頃。
もちろん、いいことばかりじゃなかったのもよくわかってるけど。
訪れた香港のアドミラルティ(金鐘)周辺は、
ヴィクトリア・ハーバーと金融機関のおそろしい高さのビルが
立ち並ぶ、香港の象徴的な中心地。
そこを「占拠」したと報道された学生が中心の集団は
わたしが想像していたよりもかなり大規模で、そしてかなり知的だった。
「知的」という表現がふさわしいかどうか…多分違うけど、相当する言葉が見つからない。
でも、報道からわたしが想像していた「ゲバ棒持って安田講堂」的な光景は皆無で
責任感溢れる自治のもと、キッチリとしたルールのなかで生活・活動していた。
非暴力 不服従
そんなことが存在し得るのだろうか?と、穢れているらしいわたしは思っている。
個人ならまだしも、人が目的をもって集団で争う時、果たしてそれは可能なことのだろうか、と。
アリも殺さない宗派の人々が人を殺すのが戦争だ。
しかし参加者の人たちはきれいにテントを張って管理をし
スピーチを聞くにも音楽を聴くにも叫ぶでもなく列をなして静かに座っていた。
友達同士のグループが多いそうだが、バカ騒ぎとは対極である。
物資の配給所、救護室などはもちろん、
学生のための自習スペースも作られ、夜はLEDの電気が灯される。
しかも、その横で自習スペースの机といすを手作りしている、いい大人たちがいる。
そうしてひとつずつ、机は増えていくのだそうだ。
公共サービスの手入れが入らなくなった代わりに自分たちで掃除をするという
公衆トイレはそこらへんのレストランのトイレよりも清潔に保たれ、
共同で使用する物資が整頓して置かれていた。
果物を発酵させて、洗剤や石鹸も自作しており、「使ってみて」と笑顔で渡される。
通称Lennon Wallと呼ばれる壁には国内外からのあたたかいメッセージが溢れ
「加油(がんばれ)香港」「香港団結」「絆」の文字に、
いやでもあの大震災を思い起こさずにはいられず、涙をこらえた場所もあった。
ウィットに富んだ横断幕のコピーやアート作品
活動のモチーフである雨傘や黄色のリボンでグッズを作る人々
でもわたしが一番覚えているのは、その「静かさ」だった。
22時を回っても人出は多く、それでも一番よく聞こえていたのは、拍手の音。
そこかしこで、夜遅くまで行われるスピーチの 合間合間に響くのは
シュプレヒコールではなく、静かな拍手だった。
高層ビルだらけだからだろうか、そこかしこからその拍手が街にこだましていた。
これだけの人が集まりながら、
その静謐な空気に、ただただ圧倒されるしかなかった。
よその国の政治事情をどうこう言うことはできないけれども
あの場にいた人たちには 心からの敬意を。
そして、実に難しいとは思うけれども
平和的な解決の道が見えることを。
がんばれ香港。
(封鎖された道路は歩行者天国。ここを降りて、中心部に向かっていきます)
(政府関連庁舎ビル。「人々に開かれた政治を」と、開いたドアの形をしているそう。)
(運動へ参加している人の数やテントを管理カウントする人の宿舎)
(ヴィクトリアハーバーの高層ビル群を臨む場所に整列されたテント群)
(政府関連の建物。柵はこの運動が始まってから、緩衝地帯として作られたそう。ベルリンの壁ならぬ、「香港の恥の壁」だというダンマクが張られています)
(通称Lenonn Wall。付箋のメッセージがたくさん。外国人からのメッセージも)
(英国では「雨傘革命」とも言われている、活動の象徴である黄色い雨傘のモニュメント)
(黄色いリボンも運動のモチーフ。グッズがたくさん手作りされている。わたしもバッヂとネックレスをもらいました。)
(中国政府に抗議し、断食を続けている男性。穏やかな表情で皆さんと話をしている)
(ヘルメット。人々は政府と暴力的に戦うつもりはなく、警察が催涙弾や警棒を使用したことにとても驚き悲しんだとのこと。)
(封鎖された道路上に並ぶテント。メリルリンチの動く電光掲示板が非常にシュール…。)
(アドミラルティ駅の、手書きの地図。救護室や充電所、お手洗いなどが図解されている)
※写真は人身の安全を考慮し、人にボカシをかけています。
地球の舳先から vol.342
チベット(ラダック)編 vol.7
今回の旅の目的は、3か所あった。
まずはラダック。そして、インド・パキスタン国境のワガ。
そして、チベット亡命政府のあるダラムサラ。
とにかく空港セキュリティの厳しいインドだが、ラダックはさらに複雑。
機内まで持ち込む自分のバッグには自分でセキュリティタグを巻く。
1個につき1個。ちょっとしたエコバッグも許されない。首にかけたカメラも同様。
でないと、せっかく列に並んでも「取ってこい」とやり直しさせられる。
当然水など持ち込めないだろうと、セキュリティチェックの前で
一生懸命一気飲みをしていたら、「それは持って行っていい」と声をかけられる。
X線をくぐらせてタグにスタンプとサインをもらうと、今度は預けた荷物を見に行って来い
といわれて、スーツケースが集まっている屋外に出される。
荷物の番号を照合して、またサイン。何の儀式かわからない。
搭乗時にはまたテントの中で二度めの身体検査、タグのチェックとサイン。
搭乗券には座席番号とは別に手書きの番号が振られていて、
別の係官がその番号を照会する。またサイン。これも何なのかわからない。
一体、飛行機に乗るまでに何人のサインが必要なのか…
大きな銃を両手で構えた兵士に見守られながら席に着く頃は「ふぅ…」である。
でもとにかくわたしがテロリストだったらこんなところ選ばない。
そういう意味では守られている、ためのシステムだとも思うので文句は言わぬ。
一旦デリーを経由して、インド・パキスタン国境近くのアムリトサルという地へ向かう。
このデリーの乗り継ぎがまたよくわからず、国内線ターミナルへ行くと
国際線カウンターでチェックインをしろと言われ、半信半疑で国際線の行列へ並ぶ。
しかも、「これ、このまま入国審査するの?おかしくない?」と地上スタッフに言うと
「一番端にある、イミグレーションカウンターへ行け」と言う。
半信半疑で、でも搭乗券とパスポートさえあればもう飛行機に乗ったようなものなので
その二つを持ってなぜかイミグレーションカウンターへ行く。
ここでスタンプを押されて、入国審査の列を抜かしてセキュリティチェックへ。
ああもう全然わかんない!外国人だから?
で、セキュリティチェックを終える頃にはすでに疲れて、携帯を忘れてくる。
トイレに行ってから気付き、「マジか~あたいのスマホ…」と意気消沈しながら
セキュリティチェックのレーンまで戻り、レーンと忘れ物オフィスを3往復していたら
諦めていたけれど出てきた。おお、インド。
ようやく椅子に座って、朝から久々のビールを飲む。
銘柄はインドのKingfisher。こいつはインドの国鳥で色々なモチーフになっている。
ビールの味がする。どこぞのGODFATHERとはだいぶ違う。
国営のAIR INDIAはよほど人気がないのかほとんど人が乗っておらず
しかし余っているのか国際線用の超大型ジェットで、
国営なのに権力もないのか出発から1時間ほど離陸できずにタキシング。
そして目的地へ着いてからも全ての預け荷物をはき出したのは到着から2時間後…。
声を大にして言いたい。
インドへ行ったら、国営に乗るな。LCCにしろと。
しかしインドでは非常に日系の航空会社の評判も悪い。
インド人に「日本の航空会社は遅れるから絶対乗りたくない」と言われているほどである。
(確かに帰りの飛行機、ANAは2時間、JALは6時間遅れてまだ飛ぶ見込みが立っていなかった。日系神話などもはや日本人が思っているだけの都市伝説なのかもしれない。)
ああ、疲れた。
しかし旅はこれから。
ようやく、「インド」が始まった気がしていた…。
地球の舳先から vol.341
チベット(ラダック)編 vol.6
マダガスカルで NO MORE BAOBABと叫んだ わたしであるが、案の定ふたたび。
いや、バオバブが何も悪くないように、ゴンパは何も悪くないのだが、
途中下車が100%ゴンパだと、仏教に改宗でもしないとだんだんキツくなってくる。
久しぶりにゆっくり起きて、屋上に勝手に干したタオルを取り込み、出発。
すごい絶景と、昔ながらの服装(高地を生きる知恵だろう)の人々を見ながら東へ。
相変わらず、すごい車道(?)をゆく道に、気が気でない。
最初にワンラという村に立ち寄る。平日なので通学する子供など普通の生活が広がる。
崖の上にゴンパがあり立ち寄ったが番人がいない。
さほど中が見たいわけではなかったのだが、扉の隙間から覗いていたら、
心を痛めたらしいガイドが、ここでは書けない方法で鍵をあけてくれた。
中にはまた尊師の写真が飾ってある。
ちなみに現ダライラマの写真はかなりフリー素材らしく、使い方にあまり決まりがないらしい。
そんなことも、どこへいってもお顔を見かける理由のひとつなのだと思う。
もちろん、多くの人に愛されている(師の性格やキャラクターゆえ、尊敬されている、というよりは、愛され慕われているという表現がしっくりくる)というのが一番だけれど。
車はまた1本しかない大きな幹線道路をふいに横道にそれる。
と、荒涼なる大地の中にまたしてもゴンパが現れた!
ここ、リゾンゴンパは、戒律が厳しいことで有名らしい。
そりゃ、こんなところにあれば…と思いたくもなるが、トレッキングのコースの途中に
あることもあって、トレッキングステッキを持ったヨーロッパ人家族が多かった。
谷を降りているようで山を上がっているようで、だんだん酸素が薄くなってくる。
ピャンと呼ばれる地に着く頃には息も絶え絶え状態で、ほんの少しの坂がキツい。
ふうふう言いながらゆっくり歩き、昼時の、やっぱりゴンパを見学する。
もう、同じにしか見えない。ごめんなさい。
観光客のヨーロッパ人の子どもが持っているiPadで何かしらの動画をみんなで見ていた。
少年僧が彼を取り囲み、色々とキャッキャしている。
子どもというものは人種や状況を越えてみんなで遊べるものなんだなあ、と改めて思う。
途中の道路はこんな感じで、一帯全域が軍の施設という感じ。
秘境感あふれるレーの街も、高台から眺めると軍人に鉄格子に物々しい建物も多い。
もっともこの日はインド首相が来ていたらしく、いつもより厳戒態勢だったよう。
最後に立ち寄ったのは空港近くのスピトゥクゴンパ。
上のほうに「シークレットルーム」があるので行くか、と聞かれるので
貧乏性のわたしはつい、うんと答えてしまう…また崖上りである。
何がシークレットなのかはよくわからなかったが、金平糖が置いてあった。
なんだか糖分で若干体力が回復したような。これも高地の知恵だろうか。
ここのゴンパには犬や猫が多く住みついていた。
廊下で寝ている犬と違い、お猫様はやはり万国共通で自分が世界の中心だと思っているようで…
一番偉い人が座る椅子、なるもので太陽の光を一身に受けてお昼寝中。
これにはガイドも苦笑。
お寺のおじいちゃん(100歳くらい行ってそう)にガイドが通報すると、見に来たおじいちゃんが
まさに相好を崩すという表現がぴったりな表情で、歯のない顔でにこにこと笑った。
なにごとかガイドと現地語でしゃべるその様子に、どうしたらそんな境地へ行けるのだろう、と同じ人間として思う所深し。
ふたたびレーに帰ってくると、角部屋から雨どいで卵を抱く鳩の姿があった。
びーびー泣くヒナ鳥も、たまに暴れて顔を出す。
のどかなまま、陽の落ちるままに、夜は更ける。
ラダック編、ほぼ終わり。旅はつづきます。
地球の舳先から vol.340
チベット(ラダック)編 vol.5
さて主要な観光地も巡り、車は一路ラマユルへ。
途中休憩を取った小さな村であたたかいチャイを飲んだ。
クソがつくほど暑いが、ここは一応インド。生水系は避けるべし。
ふと呼吸が軽くなったのでガイドに聞くと、レーより200mほど標高が低く
このあたりは「Lower Leh」と呼ばれているらしかった。
ふと手の届く範囲にイヌがいた。
だらりと垂れさがった脚は片方に麻痺がきていて、よだれを垂らしている。
まさに狂犬病の「こんな犬を見たら近づくな」の特徴を完璧に備えている。
いきなり噛んできそうにはないが、噛まれたら死ぬのかと思うといただけない。
車は山というか崖道を登りつづけている。相変わらず結構なスピード。
なんだかとんでもないところへ行こうとしている気がしてきた頃、
とうとう「月世界」と称されるラマユルへ着いた。
大昔は湖だったのだそうで、確かにクレーターだらけの月面を思わせる。
「ラマユルゴンパへ行くぞ」とガイドが指さす方向を見て、
また崖登りか…と隠れてため息をつく。
どこかしらSF的な光景の中お参りを済ませると宿泊するゲストハウスへ。
外観もゴンパを模したのかこのあたりの住宅はこういった外観なのかわからないが
部屋も小ぢんまりとして綺麗だった。
家族経営のゲストハウスらしく、牛の散歩へ出かけていた男の子が
帰って来たり、お姉ちゃんが甲斐甲斐しくお茶を入れてくれたり。
かまどのある土間ではお母さんが今日のご飯を炊いている。
ラダックに来て初めてアルコールを取る。銘柄はGODFATHER…甘ったるい。
食事が終わるとお父さんとお母さんはリビングにやってきて、
話をしながら交代でマニ車(お経をとなえる行為と同等とされる)を回している。
ここは日本人代理店御用達のゲストハウスだったので、
滞在者は3組とも日本人だった。
屋上にビールを持ち込んでしばし歓談。
そのうちの1組のご夫婦は、考えられない距離を歩いてきたらしい。
前日が満月と、空の明るい日だったが、それでも結構な星が出ていた。
客室とは別に、シャワールームの隣にはお姉ちゃんの個室があった。
とはいっても、小さなデッドスペースに、ブルーシートをロープで吊ったテント状のもので
ホームレスの段ボールハウスを思い浮かべてもおかしくないモノである。
ちらりとのぞく中には寝具と、本やおもちゃの類が並べてあった。
懐っこい笑顔。貧しさなど、微塵も感じるわけがなかった。
どちらかといえば思い出したのは、小さいころ空き地に秘密基地を
建設しようとしたあの感じである。
そういえば、今回の旅で非常に重要なことがあった。
わたしは、突如英語が喋れるようになったのである。
いや、今までは、頭の中で文章を完璧に作って発話しないと通じないと思っていた。
それが、日本語英語色々混じったルー大柴英語で喋るようになると
異常なまでにラクになり、何も気負わずペラペラペラペラ喋るようになったのだった。
当然、ブロークン以前なわけだけれども、語学なんて気の持ちようだと実感した。
しまいにはガイドに「日本人は英語が喋れないのになんであんたは喋れるんだ?」
と聞かれるほど。確かにラダックへ行く日本人は年配の方が多めだろう。
「Old personはshyですからthey know English but not speak
but young people speak ですよしかもso fluent
まーI’m not so youngなのでso soっていうかso littleですけどねーハハハハ」
↑こんなもんである。何か文句がありますか。
今までもわたしは外国へ行くと(しかも英語が通じない国も多かったので)
頑なに日本語を喋り続けそれでも旅ぐらいどうにかなっていたのだが、
なにかしらひとつ視界が開けたような感じがしたのは、言うまでもない。
何事も、心ひとつの置きどころ。