« 2か月遅れのJJF2014チャンピオンシップ感想 | Home | 取材記事の掲載 »
地球の舳先から vol.347
チベット(ラダック)編 vol.10
車が水に浮いてるんじゃないか。
そう錯覚するほど、豪雨のなかを車は駅に向かっていた。
駅、といっても、3時間ほど車で行ったところに
パタンコットという、デリーまでの夜行列車の止まる駅があるのだった。
バスなどの公共の交通機関だったら辿りつけなかったかもしれない。
モンスーンにも山の天気にも慣れっこの運転手は平然と水の中を運転する。
列車が定刻に来ても2時間はあろうかという時間に駅に着いたが
雷が落ちて近くの木は割れるわ、駅は爆発のような音がしたかと思うと
すべての電気が落ちるわ、建材が落ちたり物が飛んで来たりするわけで
沖縄の台風とはこのようなものなのだろうか、と思う。
幸い、1等車両のチケットを買っていたわたしは屋内待合室を利用できた。
しかし、夜行列車はその日に席順が決まり、ホームに張り出されるのだが
そんな張り紙などとうの昔に雨でグシャグシャになっている。
ポーターを頼んで、席を探してもらうことにした。(運び終わった後、理由なき
追加料金の請求があったのは言わずもがなである。この手の交渉はただ
「No」と言っていればいいので、わたしでもできる簡単なものだ。)
昔は全部の席を買い取ってコンパートメントを個室にできたのだが、
今はそういうこともできないらしい。
同室したインド人男性が何かと難癖をつけてくるお喋りさんで閉口。
「Do I disturb you?」というので、わたしは「Be Japanese」を捨てて
「Yes I am sleepy」で幕引きを図った。
ちょうど夜も明けた頃にデリーに着き、雨も上がっていた。
19時台の帰国便までは丸一日あるが、あまりうろつきたいところでもない。
せっかくなのでチベット世界を見ていこうと、デリーにあるチベット難民キャンプへ。
ここは、「難民キャンプ」ではなく「コロニー」と表現されていることも多い。
ダラムサラのような、チベットの人たちが世界を作って暮らしているところでもなく
雑然な細道に不衛生極まりない状態、人々の暗い顔に日の当たらない通りは
こんな表現をするのはいけないことだとわかりきっているが、スラムのようだった。
暗く湿った通りにはどこも、虫の大群が湧いて飛び交っている。
最初ハエかと思い、その空気を埋め尽くす量にびっくりしたが、それらが
ハエではなく蜂であることがわかり、二重に驚く。
ここからは、ダラムサラへ安く行けるバスが出ておりバックパッカーの絶好の滞在地
になっているとガイドブックに書いてあるのだが、とてもそんな雰囲気ではなかった。
日が当たる小さな広場にはチベット式の寺院があり、
外国人向けのレストランもあるが、昼時になっても閑古鳥。
コロニーの中を歩こうにも、水はけの悪い道に足をとられるし、
なにせあの蜂の大群の中を歩くのはぞっとしないので、早々に外に出た。
外壁にはFREE TIBETの文字と、ダラムサラでもお目にかかった男の子の肖像。
5歳の時に中国政府によって拉致され今も行方はわからない。
(ちなみにこの子は中国側からするに「世界最年少の政治犯」ということになるらしい)
こちらに詳しい話。→ パンチェン・ラマ11世問題
壁で囲われた居住区の外に、祈祷旗のはためく庭があった。
ここで、熱心に働くシマリスの写真を撮ったりしてぶらぶらしていたが
設置されたベンチで横になり、ずっと何事か呻きながら泣いている女性がいた。
明らかに精神を病み、老婆のように老け込んでいる。一日中、こうしているのだろう。
ここにいれば飢えて死ぬことはないようにできているのかもしれない。
しかし、故郷を追われ、家族と生否の連絡さえ取れない別れという苦しみは、いまだチベットの人々を覆っていて解決の見込みもない。
大通りの向かい側に「NIRMAL HRIDAY」というどこかで見かけたことのある
文字列と、大きな建物が建っていた。イエス・キリストの肖像。
マザーテレサの建てた、通称「死を待つ人の家」ニルマル・ヒリダイだった。
わたしも大学時代にインドのコルカタにあるマザーハウスで労働をしたことがあるが
世界中からボランティアの押し寄せるマザーハウスを思い出して、
なんとも複雑な気分になったのは言うまでもない。