2009年の年明け
仕事はじめならぬ、病院はじめは1月6日、放射線科にかかった。
これからどういう治療をしていくのか、また副作用や治療中の注意を受けた。
温存手術を選択するともれなくセットでついてくるこの放射線治療。
胸を失うよりは、と選んだ治療法で、万が一、手術で取りきれずに残ってしまったかもしれない、
というほどの小さな小さながん細胞、それを完全にたたくためのものだ。
治療にかかる時間は、多く見積もっても1回3分程度。
しかも寝て、横になっているだけでいいという。
但し、月〜金曜まで、土日祝日以外の平日は毎日続けて治療を受けなくてはならない。
それを、30回。
つまり約1ヵ月半は毎日病院へ通わなくてはならないということだった。
といっても、寝ているだけだ。
吐き気もないし、頭に照射するわけではないので、もうこれ以上髪が抜けることもない。
治療自体は痛くも痒くもないということを聞き、
毎日だけど仕事と思えば、これは抗がん剤よりもラクだな、というのが最初の印象だった。
その週の金曜、放射線治療をする準備ということで検査を受けに行った。
そしてそこで、早速私はショックを受けることになる。
胸を医師や看護士の前で出すことなど、もうなんとも思わなくなってはいたが、
放射線を毎日、寸分狂わず照射するために、胸に印をつける必要があるという。
それを、マジックで書くのだ。
しかも、簡単に消えてしまってはいけないので、油性マジックを使用する。
二人の技師により、赤・黒の油性マジックで私の上半身はイタズラ書きをされたようになった。
なんともいえない、こう屈辱的と言うか、なぜこんな扱いを受けなければならないのか、
ともかく私は涙をこらえるので必死だった。
病気になっただけなのに。。
自分でなりたくてなったわけではないのに。。
意識しすぎだといわれればそれまでなのだが、
ガンだと分かったそのときから、すべてまず悲観的に物事を考えるようになってしまっていた。
検査技師だって、イタズラ書きするつもりなんて微塵もないし、
それこそ、放射線の照射がズレてしまっては大変だから、そのためにしっかりと書く。
消えかけたらまた更に足して書くだけのことだ。
そんなことは十分に承知しているのだけれど、
年内最後の診察時からホルモン治療が開始され、毎朝服用する薬の副作用のひとつとして、
気持ちの浮き沈みが激しく出てしまっていたこともあり、これは耐え難いものだった。
3分間、寝ているだけ。
これがこんなにつらいとは思わなかった。
・・・次は、毎日の放射線照射〜その後をお伝えします・・・
退院してからちょうど3週間後の、2008年の暮れ、12月26日。
病理検査の結果が出ると言う事で退院後初めての診察があった。
手術によって取り除いたガン細胞を詳しく検査した結果を言い渡されるということだ。
行きたくなかった。
何を言われるのか、怖かった。
もうちゃんと取ったのだから大丈夫よ!と励ましてくれる母と一緒に病院へ向かった。
そこで私は衝撃的な事実を耳にする。
抗がん剤が、あまり効いていなかった、というのだ。
え!?
どういうこと?
乳がんがわかったときからしたら、ガン細胞自体小さくなったような気がしていたし、
それに、わきの下のほうにあるコリコリしたしこりも、
手術する前には触れても感じなくなっていたのに。
目が泳いでしまっている私に、医師は取り除いたガン細胞を見るかと質問してきた。
わけもわからず私は、ハイと返事をし、その写真を見た。
それは、腫瘍を輪切りにしたものだった。
なにがなんだかわからなかった。
こんなものが胸にできていたのか。
なんの感情もわいてこなかった。
医師が言うには、抗がん剤が効いているレベルを3段階評価をするとしたら
私は最低レベルだと言う。
よく言えば、効いていないわけではないけれど、くらいだったとのこと。
正常な他の細胞には攻撃を仕掛け続けたのに、
肝心なガン細胞にはあまり届いてくれていなかったというわけだった。
じゃぁいったい、何のために・・・
髪も抜け、手足もしびれ、爪もガタガタになり、常に顔色も悪くなるほど、
計16回も投与したのに。
きっと私がそう言いたかったというのを医師は察したのか、
全身に検査でも見つからないくらいのガン細胞があったとした場合の、
それをたたくための治療だから、必要な治療だったし、
そのおかげで、他には転移はしていないと説明してくれた。
もう1クールやるとか、ないですよね?
私は思わず聞いていた。
そんなことしたら身体が壊れてしまう。
抗がん剤はもうおしまいで、年明けからは放射線治療がはじまり、
その前に、今日から5年間、ホルモン治療の薬を服用して再発を防ぐ、と。
もうとっくに壊れちゃってるよ、そんな気持ちだった。
次回の放射線科の予約を年明けに入れてもらい、母と二人、家へ帰った。
やっぱり手術が終わったって、一安心なんかじゃないんだと落ち込む私を
母が一生懸命励ましてくれながら。
なんともスッキリしないまま、私の2008年は終わった。
乳がんとわかったのが3月。
1年を思い起こしても、それまでの1月2月ことなど、記憶に残っていない。
私の人生にとって、忘れられない1年となったことは間違いなかった。
・・・次は、放射線治療開始〜その後をお伝えします・・・
姉の運転する車で、私たちは病院を出た。
お腹いっぱい美味しいものを食べたかった私は、早速大好きなイタリアンへ。
食欲があるのは何よりと、母も姉も喜んでくれた。
しかし退院したとは言え、手術が終わってからまだ10日も経っていない。
右腕の稼動範囲はそう広くはなかった。
利き腕が動きにくいとなると、生活・家事すべてに影響した。
洗濯物を干そうにも、濡れたタオルや衣服がこんなにも重たいとは思わなかった。
物干し竿にハンガーを引っ掛けることままならなかった。
また、もっとも髪はないが、シャンプーするのに両腕を上げようとしても、
なにかこう、右腕だけはスムーズに動かなかった。
そのため少しの間、慣れるまでは実家にいることにした。
胸を切るだけでもそうなるというのに、私は腋下リンパ腺への転移があり、
そこも切除したため、どうしても肩から上へ腕をあげることが痛くて怖かった。
『なんで手術しなきゃいけなかったんだろう』
と、腕を上げるそのたびに考えてしまった。
なぜならば、抗がん剤治療中は体力はきつくても、
腕が動きにくかったり、重い荷物を右腕で持てないことはなかったからだ。
さらにはお風呂に入る前に、脱衣所に大きな鏡があり、その鏡を見る度に、
右胸の上部にある10センチほどの赤いミミズばれのような手術痕は目立つし、
右腋にも同じように10センチ程度、縦に赤く傷が見える。
傷痕は何年か経てば目立たなくなるかもしれないが、右胸の形は変わらない。
胸の上部にがん細胞があったために、下は何もいじらず上部を切除し、
そしてそこを摘むように手術が施されたために、
小さくなったのは勿論のこと、よく言えば垂れてはいないが、
左とは乳首の高さが異なっていた。
ドラえもんのスモールライトのように、ただ小さくなるのかと、勝手に思っていたのだが、
『片違い』という現実にショックを受けた。
二、三日すると、右の腋の下が腫れてきた。
リンパ液が溜まってきたのだった。
術後間もないので、締め付けないようにブラジャーは極力着けずにいたのだが、
場所でいうとブラジャーをしていればそのうえに乗っかるようなかたち。
腋のリンパ腺を切除したため、リンパの流れが滞ってしまうためだった。
これは自分ではどうにも出来ず、注射器のようなもので抜いてもらわなければならなかった。
寒い12月、実家から病院までは一時間半ほどかかるし、
顔を背けるほど注射が大嫌いな私ではあったが、行かざるをえなかった。
手術で切除した腫瘍の病理検査が出るまでは、通院しなくてもよいと思っていたのに、
これが週に2度、3週間程続いた。
・・・次は、病理検査〜その後をお伝えします・・・
痛み止めの薬を飲まずにすむようになり、
腋に繋がれたドレーンから滲み出て来るリンパ液が徐々に減って来た頃、
医師から退院できると伝えられた。
あぁやっと解放される。
嬉しかった。
単純に元の生活の場に戻れることも嬉しかったが、
まだ手術で切除したガン細胞の病理も出ておらず、そんなことは決して誰も言っていないのに
「もうすっかり治ったよ」と、そう言われたかのような気持ちになった。
退院の日の朝は忙しい。
次に入院してくる患者さんの為に、10時にはベッドをあけなければならなかった。
はやる気持ちを抑えて、朝の支度をした。
熱が出ていたら退院が延びてしまうのではと、いらぬ心配をしながらの検温。
続いて回診があり、最後の朝食。
ここまでは普段通りだったが、そのあとが今日は違った。
パジャマから服に着替え、ウィッグをつけ、お化粧をした。
なんとも言い難い、嬉しい気持ちに、自分自身驚いた。
ウイッグは一番お気に入りのものを着け、
入院中には一度も手に取ることのなかった化粧ポーチを開けた。
ベッドの上ではあったがスタンドの鏡に向かいお化粧をした。
ナルシストかしらとも思ったが、鏡に笑顔を向けた。
「うん、大丈夫!」
不思議とそんな気持ちになった。
例えるならば、美容院で髪型を変えてイメチェンし、それがうまくいった、とでも言えるだろうか。
身支度が整い、ベッドの周りのカーテンを開けると、同室の方から声をかけられた。
「こんなに若いお嬢さんだったのね」
(実際、私の年齢が若いかどうかは皆様にご判断いただきたいのですが。。)
「ステキなウイッグじゃない!どこの?」
みんなに私は笑顔で答えた。
このウイッグは医療用ではないこと、
たまには気分転換でファッションウイッグをつけ、髪型の変化を楽しんでいること、
渋谷にあって、高校生もよくいるようなところで買ったこと、
値段や場所まで教えてほしいと言われ、説明した。
大変失礼な話ではあるが、いくつになっても女性は女性だと、改めて感じた。
また、それほど、みんなウイッグには注目しているんだなと感じるとともに、
ほとんどの抗がん剤に脱毛の副作用があるにもかかわらず、
必需品とも言えるそのウイッグが保険適用外だということを
(医療費控除の金額にはカウントできます)
なんとかできないものかと、強く思った。
そうこうしているうちに時間は過ぎ、母と、仕事を休んで車を出してくれた姉が来た。
病室のみんな、またお世話になった看護師の方々に挨拶をし、一階ロビーへと降りた。
待ちに待った、退院。
長くも短くも感じた入院生活が、終わった。
・・・次は、退院後〜その後をお伝えします・・・
私の入院していた16階は、ほぼ乳がん患者のみのフロア、
当たり前のことではあるのだが、病名は同じでも様々な患者が入院していた。
年齢にしても私くらいの患者もいれば、80歳を超える方もいたし、
10回以上も入退院を繰り返している方もいた。
そして、これはなんとも不思議なことなのだが、病状が進行してしまっている患者さんの方が、
なんだかよくわからないが、偉い、みたいな、すごい、みたいな空気がそこにはあった。
様々な会話をしたが、抗がん剤治療を術後のこれから控えている患者さんから、
それとはどんなものかと聞かれれば、自分の知る限りのこと、どうなったか等を伝え、
手術が私よりも三日早かった方からは、三日後にはこのくらいのことはできるようになる、
というように、生の声を聞くことが出来た。
入院生活も何日かしてくると、比較的年齢の近い何名かの方と仲良くなり、
食事の時間にはベッドではなく、一緒に食堂に運んで食べるようにもなった。
今現在、退院後も連絡を取り合い、治療や検査で一緒になるときにはランチをしたりする仲だ。
住んでいるところも違えば、生活環境も違ったが、
同じ病気と言うことで、様々な悩みを話し合ったりした。
ただ、話している中でひとつ、決定的に違うことがあった。
それは子供のこと。
もうお子さんがいる方が多かった。
半年前に結婚したばかりの私には、子供はいない。
プロポーズを受け、結婚を考えた時に、将来のこと・子供のことを考えたことがあった。
子供を授かることができたらいいなと、私は思っていた。
しかし、抗がん剤治療から子宮を守るため、
また、乳がんの餌となってしまう女性ホルモンを抑えることを目的とし、
毎月、下腹部へ注射することによって生理を止めていた。
さらに退院後には、放射線治療と平行して始めるホルモン治療が5年続くことが判っていた為、
仮に注射を終えて、生理が正常に戻ったとしても、
そのホルモン治療中は妊娠はNOと主治医から言われていた。
この治療をすると決めた時にその説明はあり、どんなに早くても5年先かあ、と思っていた。
その時は、なんだかものすごく先のような気がしていたが、
つらい治療の中でそんなことはすっかり頭の中から消えていた。
けれど、こうしてお子さんの話を聞くと、正直、うらやましいなと思った。
乳がんにならなかったら・・・
ならなかったとしても、授かるかどうかなんて分からないのに、
このときの私は、自己嫌悪に陥り、夫に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
・・・次は、退院に向けて〜その後をお伝えします・・・
私にとっての入院生活は、三食昼寝付き、とでも言えようか、
朝起きて検温の後に回診があり、朝食、
その後はリハビリがあるくらいで、昼食まで時間を持て余した。
右腕があまり動かないので、身体を動かすこと自体が億劫になり、
動くと言っても院内を散歩するくらいだった。
そこで私が散歩中に見つけたのは、美容室。
がんセンターだけに、ここの美容室はウィッグの作製や調整、
といった具合にさまざまなメニューが書かれていたのだが、
私はそこにこんな文字を見つけた。
『ヘッドスパ』
これだ!!
普段、美容室でたまにお願いはしていたが、
髪が抜け、ウィッグにしてからは、普通の美容室からは遠ざかっていた。
考えてみれば、ウイッグの調整以外には半年も美容室に行っていなかった。
(その間ウィッグ5コくらい購入してはいたが…)
髪はないけれど、逆にない方が気持ち良いのでは?
勇気を出して、美容室に入った。
すると、思った以上に気持ちがよく、リラックスできた。
退院する前にもう一度やりたいなぁと話すと、
フェイシャルエステもあると教えてくれた。
後日、早速それも受けに行った。
他にやることと言えば、DVDを見たり、本を読んだり。
DVDは「これは元気が出る!笑える!」といった作品を友人たちが選んでくれ
それを持ち込んでヘッドホンをして見入った。
本に至っては、当時まだ連載中だった45巻を超えるマンガを
母にスーツケースに入れて毎日少しずつ持ってきてもらい、
ひたすらそれを読み続けた。
回診に来るたびに、机に置いてある巻数が増えていくので、
「もうここまで読んだの?」と言われるほど。
「もう読み終わっちゃうから、それまでに退院させてほしい!」と冗談で返した。
午後になると母は毎日来て、着替えなどを用意してくれ、
食べたいもの等を買ってきてくれた。
友人や夫もお見舞いに来てくれたが、やはり皆が帰ると淋しくなった。
たった何日間かではあるが、病院の外の話を聞くとうらやましく感じ、
早く退院して、元通りの生活がしたかった。
病院の消灯は21時と、早い。
眠れるはずもないので、ベッドサイドの灯りで本を読んだりもするのだが、
昼間は気にならないのに、胸や、脇の手術の痕が傷むような気がするし、
(実際、痛み止めを服用しており、それが夜だけ切れることはナイ)
なにより、眠くないのにベッドに横になっているのがつらかった。
家で寝ているのとはまた違う感覚、「病人なんだ」というような気がしてならなかった。
・・・次は、入院中の出会い〜その後をお伝えします・・・
手術当日の夜。眠れぬ夜を過ごすのは久しぶりだった。
正確にいうと、少し眠ると『ハッ』っと目が覚めてしまう。
そんな中、寝たきりで身体を動かせず寝返りさえうてない私の脚には、
血栓が出来るのを防ぐために、一昔前のダイエット器具のようなもの、
エアーマッサージャーが取り付けられ、等間隔で空気が入ったり抜けたりしていた。
それが、拘束されているようでものすごく不快に感じ、
自分で少し曲げたり伸ばしたりするからと、外してもらった。
しかし、点滴はなお続いているし、手術中に口から入れられた管状の呼吸器のせいで、
喉は荒れてしまい、痛くて苦しかった。
夜は長く、何もすることのない私は、ただただ、回復室の天井を見続けた。
朝になり一般病棟に移され、母の顔を見た。
ああ、また朝早くから来てくれていると、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
同時にものすごくほっとした。
昼になると、ようやく食事が摂れるようになった。
出されたパサッパサのクロワッサンを残さず全てたいらげた。
お粥かなと思っていたのだが、皆と同じ普通食、
おいしかった。
乳がんは消化器系の病気ではないので、当たり前なのだが、それは私を安心させた。
一つずつ、少しずつ普段通りに戻っていく、
前と変わらない生活がきっと出来るようになる、と、希望をもてた。
身体はというと、心電図も点滴も外され、自由に動けるようにはなったが
手術をした側の腋の下からはドレーンがつながっていて、
時間が経つごとに、血の混じったようなリンパ液がたまっていく。
これがあるために、まだシャワーは浴びられず、
昼過ぎに母にお願いして温かい蒸しタオルで体を拭いてもらった。
このとき、傷口はまだ見ていなかった。
あてられたガーゼがどのくらいの厚みで取り付けられていたのかは分からなかったが、
想像以上に胸の膨らみがあったのが、単純に嬉しかった。
胸はそれで一安心だったが、手術をした側、右利きの私の右腕は、稼動範囲が狭かった。
肩の高さ、つまり直角以上には腕は上がらなかった。
特に肘から上の外側については、術後一年半が経過する今現在も、
触っても感覚が非常にうすいくらいで、このときはほぼ感覚がなかった。
右の方にある物を取る場合でも、身体をよじらせて左腕を伸ばして取った。
退院の日を教えてほしいと回診に来た医師に尋ねると、
早ければ4日くらいと言っていたが、やはりあと一週間は退院できないということを知った。
そしてここから、暇で暇で仕方のない入院生活が始まった。
・・・次は、入院中の出来事〜その後をお伝えします・・・
手術室から運び出され、手術が無事終了したということは、
朦朧としながらもなんとなくわかったが、また意識がふーっと遠退き、眠ってしまった。
気がついたのは午後14時頃、病室のベッドの上だった。
全身、管やコードだらけで身動きが取れない状態で目が覚めた。
ずっと付き添ってくれていた母は、開口一番
『胸、残ったわよ』
そう教えてくれた。
あぁ、よかった。
全摘出せずにすんだんだ。
おっぱい、残ったんだ。
確か、手術室を出るときに医師か看護師から、そう言われたような気もしていたのだが、
意識がハッキリしないときのこと、夢なのか現実なのかわからなかったので、
母が教えてくれ、本当にホッとした。
自分から尋ねるには、あまりにも勇気のいる質問、
答えによっては天国か地獄かくらいに感じていた私にとって、
この瞬間は自分がガンであることを忘れるくらい嬉しかった。
このとき、告知から約8ヶ月。
私を、また私の大切な人たちを苦しめ続けた腫瘍は、私の身体から、なくなった。
やっとここまで来た。
ようやく、手術までこぎつけた。
長かったような短かったような。
治療にひとつ、区切りを付けることができた。
ホッとした私は、お腹がすくくらい、元気だった。
気付けば昨夜の18時以降、食事どころか水分もとっていない。
それなのに15時までは水も飲んではいけないと言われ、
まだ1時間もある14時に目覚めてしまったことを、少し後悔した。
脱脂綿を水に浸したもので、口の周りを湿らせてもらい、喉の渇きをまぎらわせた。
夕方には仕事を切り上げて夫も、また姉も駆けつけてくれ、手術の成功を喜んでくれた。
本当に嬉しかった。
みんなが支えてくれたからこそ、ここまでこれたと、感謝の気持ちでいっぱいだった。
ただ、安心してほっとしたのはこの時までだった。
みんなが帰った夜、また私は強い不安におそわれた。
残った胸の形は、いったいどうなっているのか。
私という人間は、どうも欲深い生き物で、命が助かったと思うと胸が残るかを気にし、
胸が残ったと思うと、今度は形を気にしていた。
ここに、QOLという言葉がある。
Quality of Life、つまり「生活の質」とでも表せるだろうか。
たとえ病気を治療することができても、人としての生活の質を保てないのでは、
それは「治す」とはいえないのではないか。
私もそう考える。
命が助かったのだから、それでいいじゃないか。
極論はそうだとは思うのだが、やはりこれから長い人生、
病気をしたからこそ、これまで以上に自分を大事にして生きていきたい、
そう思うのが患者の気持ち。
管やコードだらけ、術後間もない私は、手も満足に動かせない状況のなかで、
ガーゼに包まれている中の胸の形を案じて、眠ることができなかった。
・・・次は、術後の経過〜その後をお伝えします・・・
11月27日
手術室に入る時、再三にわたり、名前の確認をされた。
それは「もう覚悟を決めなさい」と言われているかのようだった。
手術台にあがる。
コンタクトも眼鏡もかけていないため、周りがよく見えない。
あたりを見回してみたが、自分が何を見ているのか、まったく分からなかった。
とにかく、目の前が、部屋の中がまぶしく感じた。
医師、看護士、サポートスタッフがたくさんいた。
私以外にもこの手術室で誰か手術を受ける患者がいるのかと思うほどだった。
「目が覚めたときにはすべてが終っているよ」
手を握って、明るく優しい言葉を声をかけてくれた。
皆は毎日のことなのかもしれないが、私にとっては生まれて初めての経験。
同じように笑顔にはなれなかった。
麻酔医が近くに来た。
何か、呼吸器のようなマスクを持ってきた。
そして、注射が用意された。
急にまた私は不安になった。
逃げ出そうとは思わなかったが、麻酔はちゃんと効くのか、不安になった。
途中で目が覚めたりしないだろうか。
効きが悪かったり弱かったりして、ちょっと覚えていたり痛かったりしないだろうか。
麻酔が効くまでどのくらい時間がかかるのか。
手術は3時間くらいと聞いているが、もし長引いたとしても麻酔はしっかり効き続けるのか。
そして、終ったときには、ちゃんと目は覚めるのか。
これは、昨日、麻酔医との面談で説明された事項だった。
すべての質問に、麻酔医は穏やかな口調で答えてくれた。
とにかく寝ていればいい、頑張るのは、私じゃない、執刀医なのに、
それでもまだ私は、なにかこう焦ってしまい、気持ちがまったく落ち着かない。
涙がまたあふれてとまらない。
胸に手をあてた。
そして、腫瘍に触れてみた。
この時が、私の胸にできた腫瘍を触った、最後の瞬間だった。
乳がんかもしれない、と思ったそのときから、いったい何度触っただろうか。
抗がん剤治療を受け、少し小さくなった腫瘍。
・・・これさえなければ。
そう思って、赤くはれあがるまで叩いた事もあった。
それを、やっと、取り除く時が来た。
呼吸器のマスクがあてられた。
そして、注射を打たれた。
・・・1・2・・・・・3・・・・・・・
3を数えるか数えないくらいで、もう、意識はなかった。
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・
急に目の前が明るくなった。
「メグミさん、メグミさーん、名前を教えてください!!」
なんだか状況がよく分からなかったが、名前を聞かれていた。
意識がしっかり回復しているかを確かめるために、名前を聞かれていた。
手術は無事、終わった。
・・・次は、術後〜その後をお伝えします・・・