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2013/11/01

JunkStageをご覧の皆様、こんにちは。 いつもJunkStageをご訪問いただき、ありがとうございます。

「29歳のガン宣告」のライター、乳がん闘病中・メグミさんですが、現在私事多忙のため2014年3月末日までこちらの連載を休載とさせて頂いております。なお、ご本人は既に現在仕事に復帰しており、体調は良好とのことです。

ご愛読頂いております皆様には大変申し訳ございませんが、次回更新の際をお楽しみにお待ちくださいますよう、お願い申しあげます。

(JunkStage編集部)

07:46 | megumi | コラム更新に関するお知らせ はコメントを受け付けていません
2013/08/02

結婚式も終わり、私の生活は平穏を取り戻した。
ようにみえた。

準備で忙しい毎日が終わり、お礼等々もすべて完了したのだが、
穏やかな生活はそこにはなかった。
目標を見失ってしまったのか、ポッカリ穴が開いたようになっていた。

これまで、勉強も仕事も遊びも全力で!と思ってきた私であったが、
ガンを患ってからはそれに『治療』が増えた。
それも全力で取り組んだ。
そんな中、結婚式の準備、という非日常が、
その辛さをかき消していたことに気が付いた。

お酒の量が、日に日に増えていっていた。

夫が忙しく夕飯を共にすることがあまりなかったこともあり、友人と出掛けては深酒。
誰かと約束するほど体調のすぐれない日は、一人でバーへ行くようになった。
こんな毎日が続いた。
アルコールは乳がんにあまりよくないとされている、のにだ。
そんなことは重々承知だ。
でも、わかってはいるのに、やめられなかった。
それこそが私の心の弱さ。

本当は夫に聞いてもらえば良かったのかもしれない。
でも、帰る度に言われた『元気そうだね』という言葉。
何てことない一言。
私をもり立てようと言ってくれている、あたたかい言葉だったのかもしれない。
でも、それが私を苦しめた。

元気そうに振る舞っているのよ、あなたの前では。
病気の嫁って思われたくないから。
必死で演じているの。 ホルモン治療の副作用、
更年期障害のような症状だって、普通に座っていりゃ判らない。
ダルくて起きられなくても、ナマケ病と思われたりしないかと、
辛くても普通にするようにしたり。

治療は一段落していたのに、体も心もバラバラ。
このあと、いっそう、お酒の量が増えていくことになる。

・・・次は、決意~その後をお伝えします・・・

12:33 | megumi | お酒のこと はコメントを受け付けていません
2013/05/31

結婚式当日

雨女の私、当日の天気がとっても気になるところではあったが、
すばらしい秋晴れに恵まれた。

花嫁の朝は忙しい。
スケジュールの確認をして、一度きりの大舞台の気持ちで支度を整えていった。

乳がんに罹患しなければ、とっくに済ませていたはずの結婚式。
髪も抜けないうち、肌もこれまでと同じうち、
治療を始める前になんとか式だけでも!と、身内だけでとも考えていた結婚式。

しかし、結婚式があるから頑張ろう!
そう思って治療に立ち向かえないだろうか、という夫の意見もあり、
入籍から実に1年半の時間を要し、やっとこの日を迎えることができた。

夫の仕事が政治関係ということもあり、ゲストの方々の控え室が私の控え室よりも大きい
というサプライズがあったり、ホテルマンではなく、SPが出入り口にいたりと、
少々物々しい中でのスタートだった。

式は滞りなくすすみ、披露宴へ。
ゲストの方々からいただくありがたいスピーチや余興もあり
皆とても喜んでくれ、笑顔の絶えないすばらしい披露宴だった。

そうして最後、「両親への手紙」の時間になった。

本来であれば、両親へあてるものだけれど、
私は、どうしても、姉にも向けて感謝の言葉を伝えたかった。
両親と姉、三名にあてて手紙を読んだ。

このとき、31歳、決して順風満帆な人生ではなかった。
大学付属の高校に進学したのに、その大学を中途退学してしまったこと、
困らせるようなことばかりしていた若い頃だったが、
やっと今の会社に就職し、式ではすばらしいスピーチをいただける上司に巡り会い、
仕事を一生懸命することが、これまでの恩返しになると思っていたこと。

そして、結婚が決まった後に、乳がんに罹患したこと。

これは夫の列席者の中には、知らない方もいたことだったので、
言うか言うまいか、非常に悩んだ。

しかし、私の中では、その人生において一番苦しかったときにこそわかった、
家族の絆、あたたかさ、やさしさ、ありがたさ。
これを伝えなくして、何を伝えようと思い、手紙をしたためた。

抗がん剤治療中、身も心も、ボロボロになりながら続けていく中で
辛いのは自分だけだと思ってしまっていた時期があったこと。
なんだかんだ心配してるって言ったって、
治療を受けているのはこの私で私が一番つらいんだ!と
そんな風にまで、やさしく接してくれる家族に対して思ってしまったこと。

でも、そんなときに、母が
「代われるものなら代わりたい」と父に話していることを知った。

そこではじめて思った。
お母さんが乳がんになんてなったら困る!と。

私でよかったのだ。
母でもなく、姉でもなく、私でよかったのだ、と。

私が乳がんを罹患して、みんな辛い思いをしていた。
治療の辛さは本人でなければ分からない。どうして支えたらいいのか分からない。
そういう気持ちでいたそうだ。

それを知り、私は必ず元気になろうと強く思ったこと、
また、今日というこのはれの日を迎えられたことがどれだけ嬉しいことか、と・・・
涙で最後まで読めなかったら、と、司会者へコピーは渡していたが、
しっかり読み上げることができた。

父は涙をこらえ、母と姉の笑顔には、涙が見えた。
私は笑顔で読みきった。

・・・次は、お酒のこと~その後をお伝えします・・・

12:00 | megumi | 結婚式 はコメントを受け付けていません
2013/03/31

こんにちは、メグミです。

今回はいつものコラムではなく番外編です。

ジャン子ちゃんに脅されたので、コラムの続きを書くことができません。

東京マラソンのことをアップするまでは・・・。

 

そもそも私がこのコラムを書き始めたのは2008年。

乳ガンを患ったことから。

ガン告知は3月のちょうど今頃、それは第二回東京マラソンを完走した翌月のことだった。

あれから5年。

細々とこのコラムを書き続けながら、おかげさまで再発もなく元気に過ごしている。

コラムの中ではまだアルバイトで復職したところまでしか追って書けていないが、現在は職掌転換し正社員としてまた元の職務に戻っている。

 

そんな私、先日、東京マラソンにチャレンジした。

この大会ももう第七回目を数えていた。

今回の出走は私にとって、とても大きな意味があった。

実は2009年、手術から4ヶ月後の第三回東京マラソンは10kの部に出場し、完走した。

カツラで走ったそのときのことをずっと私は「また走れるようになった!」と武勇伝のように周りに話していた。

すごいね!と、皆言ってくれる。

でもやはり10kmだ。

もともとフルマラソンを走っていたのだから、それができるようにならなければ本当意味での復活ではない、と、どこかで思う自分がいながらも「すごいでしょう!ガンを克服してまた走ったのよ!」と、自慢げに話していたものだった。

だから、いつかまたフルマラソンにチャレンジしたい!そう思っていたのだ。

 

あれから5年。

仕事も酒量も完全に元と同じ、機は熟した。

ガンとは関係ないのだが年末年始で体調を崩し、しっかりそれが戻りきらない中でのレースだったが、

なんとか時間内に無事完走!

 

走る前の緊張感。スタートして走り出したときのワクワク感。風をきって走る爽快感。疲れてもう走れない、脚が上がらない、ゴールまでたどり着けるか分からない不安感。

そして完走できたときの、充実感、満足感と言ったら!!!

人生で4度目のフルマラソン完走だったが、治療中に感じた恐怖、苦しさ、絶望・・・それらを乗り越えてきたからこそ、42.195km走れる喜びを全身で感じることができた。それまでの完走よりも何倍も、強く、深く。

 

ひとえに応援してくださっている皆さんのおかげ、感謝の気持ちでいっぱいです。

いつもありがとうございます。

そして、これからも、よろしくお願いいたします。

メグミ

11:44 | megumi | 【番外編】東京マラソン出場 はコメントを受け付けていません
2013/01/31

2009年10月

夏も終わり、結婚式を1ヵ月後に控えた私は、ブライダルエステに余念がなかった。

そんななか、気がかりだったのはヘアスタイル。

坊主頭からまだ1年。

脱ウィッグから半年も経たない私の髪の毛は、伸ばしたところで・・・という状況。

私が子供の頃から思い描いていたようなお嫁さんの髪型は、

ウィッグを使用しなければおよそムリだった。

でも、もう使いたくない。

地毛で挑むことにした。

しかしそこはさすがプロ。私自身も驚くほどにステキにまとめあげてくれた。

 

そしてイチバン気にかかっていたこと。

ドレス。

胸元が少し開いたドレスでどれだけキレイに隠し、かつ見せられるのか。

ここもベテランはすごい。

純白のウェディングドレスしかり、お色直しのカラードレスしかり、

私の不安はすぐに吹き飛んだ。

 

待ち焦がれていた結婚式。

治療で1年遅れになってしまっていた結婚式。

髪形やドレスに悩んでいたことが、うそみたいな、幸せな気持ちだった。

結婚式のワクワクは、女性を笑顔にさせる。

私の笑顔に、父も母も、姉も本当に喜んでくれた。

 

やっとここまでくることができたね。

 

もちろん、好き勝手やっていた私が結婚できたこともそうだけれど、

結婚式ができるまでに回復することができた、ということを、心から喜んでくれた。

 

もう籍は入れていたし、実家も出ていたが、独身最後の気分の夜、

結婚式前夜はホテルで両親と姉と共に過ごした。

4人での食事は久々だった。

明日は披露宴でみんなに手紙読むけど、泣かないでね!

 

夜中に、練習して読んだときに私は泣いてしまったけれど・・・。

 

・・・次は、結婚式のその後に~その後をお伝えします・・・

02:06 | megumi | 結婚式の前夜 はコメントを受け付けていません
2012/11/30

2009年8月

真夏だというのに、寒気がして目が覚めた。
会社に連絡をし、体調不良のため休むと伝えた。
程なくして起き上がろうとするも、体が熱い。

熱は38度を超えていた。
夜になっても熱は下がるどころか39度までになろうとしていた。

乳がんになる前だったら、ポカリスエットでも飲んで寝てればいいや、
と思ったのだけれど、何かおかしなことになっていたらどうしよう!!
と恐怖を感じたのは、その日の真夜中だった。

朦朧とする意識の中、病院に連絡し、朝からの状況を伝えた。
食中毒ではなさそうだ。
ではインフルエンザ??

と、そこで、驚きの言葉を耳にする。

インフルエンザの疑いがあるのならば、近くの病院で受診しろと。

今から考えれば、確かに癌患者ばかりの病院に
インフルエンザに罹患しているかもしれない患者が来られたら困る。
でも、そのときの私は、転んで血が止まらなくても病院に電話したし
むくみがひどい朝にも電話をしていた。
(飲みすぎたと感じていない日、限定で。。)

もちろん、どうしよう!!と思ってのことではあったが、
病気に対して過度に反応して、心配しすぎていたのだったと思う。

加えて、生活リズムの乱れから、体のバランスをくずしてしまっていた。
夫が不在の中、結婚式の準備はひとりでしなければならないし・・・
そんな些細なことがピリピリと神経をつつき、
精神のバランスも保てなくなっていっていた。

・・・次は、挙式にあたって~その後をお伝えします・・・

11:50 | megumi | 急な発熱 はコメントを受け付けていません
2012/10/02

毎年、10月1日は、街がピンク色に染まる。
ピンクリボンキャンペーンが打ち出される日だ。

東京のシンボル、東京タワーはもちろん、今年営業を開始したスカイツリーも、
乳がん早期発見啓発キャンペーンに賛同ということでピンク色にライトアップされた。
19時前頃~23時までの間、点灯されたという。

現在、私はスカイツリーが良く見える場所に住んでいる。
今晩はこの美しい光を、ひと目見たかったのだが、間に合わなかった。
つまり、23時までに帰れなかった、というわけだ。
普通に9時に始まる会社。
そう、私はもう遅くまで残業できるほどに快復し、職場復帰している。

月日が流れるのは早いもので、2008年3月の告知から4年半。
こうしてまた1年、今日という日を迎えられたことに感謝し、
それとともに、健康でいられることのありがたさを、また改めて感じた一日だった。

〜次回は通常のコラムを更新いたします〜

01:58 | megumi | ピンクリボンキャンペーン はコメントを受け付けていません
2012/09/01

JunkStageをご覧の皆様、こんにちは。 いつもJunkStageをご訪問いただき、ありがとうございます。

「29歳のガン宣言」のライター、乳がん闘病中・メグミさんですが、現在私事多忙のため10月初旬までこちらの連載を休載とさせて頂いております。

ご愛読頂いております皆様には大変申し訳ございませんが、次回更新の際をお楽しみにお待ちくださいますよう、お願い申しあげます。

(JunkStage編集部)

09:55 | megumi | コラム更新に関するお知らせ はコメントを受け付けていません
2012/07/31

2009年7月
夫が仕事の都合で家を空け、単身赴任することになった頃。
結婚式の準備やアルバイトではあるが久々の仕事に少々疲れてきた頃。
気持ちの弱い私のダメな部分が、顔を出し始めた。

まず、朝起きられない。
毎朝夫を送り出すために、朝食を作って、と、しっかり起きていたのだが、
自分だけになると、朝食もとらずに時間ギリギリまでベッドにいるようになった。

次にお酒の回数が増えた。
出張でなくても、夫と夕飯を家で一緒に食べることがほとんどなかったので、
一人で夕飯を食べることには慣れていたが、つい外食がちになっていった。

また同じ頃、月イチの通院であるホルモン治療の注射の前に発熱するようになった。
生活のサイクルが、少しずつ、整わなくなっていくのを感じていた。
毎朝服用する薬も、飲むことを忘れる日が何日かあった。

こんなんじゃダメだ。
そう思っても、カラダと気持ちがついていかなかった。
夫にそばにいてほしい、そう思ったけれど、口にだすことはできなかった。
週末、たまに帰ってくるときには、元気なところを見せなくちゃ、
これ以上心配かけちゃいけない、と思っていたから。
赴任先へと戻る夫に「行ってらっしゃい!」と笑顔で送り出したあとの、
無気力とも少し違う、心のバランスが取れない状態、ハリのない生活。

周りは、手術も抗がん剤・放射線治療も終わって、髪も生えてきてウィッグも取れて、
職場復帰も果たし、お酒も飲めるし、もう治療はすべて終わった、
そんなふうに思われていたことと思うが、
本当に辛いのは、ここからだった。

ホルモン治療の影響で更年期障害のような症状は止むことはなかったが、
そんなことは見た目には誰にも分からない。
真夏とはいえ、おかしなほどに顔だけ大汗をかいたり、急に震えるほど寒くなったり。
そのたびに、気持ちも上がったり下がったりする。
こんな状況で平常心を保てといわれても、無理。
アルバイトも、その日の朝にお休みの電話を入れることが増えた。
突然涙が止まらなくなったり、ガンが再発する夢を見たり。
お酒を飲まないと眠れない日々が続いた。

周りには、結婚式が近づいてきて、マリッジブルーなのかもね?もう入籍してるけど!
なんて笑って冗談を言ったりしたが、
家に帰ればソファから動くことができないほどの精神状態。
どうにかしなくちゃ、どうにかしなくちゃと思えば思うほど、這い上がれない。
けれども、強がってしまう私は、この状況を、このときは、誰にも言えなかった。

・・・次は、急な発熱~その後をお伝えします・・・

11:59 | megumi | 夫の出張 はコメントを受け付けていません
2012/05/28

乳がんにならなければ、その年(2008年)の秋に、と考えていた挙式。
予定よりも一年おそくなったが2009年11月、結婚式を挙げることになった。
治療の都合だけでなく、夫の仕事の都合でも合計二度の延期をしていた結婚式。
それが決まったとき、両親はとても喜んでくれ、
出張がちの夫の代わりに、ドレス選びに付き合ってくれた母はとても嬉しそうだった。

しかしここでも、私にとってはショックなことがあった。
ウェディングドレスの試着をしたときのこと。
ドレスショップの店員の一言に傷ついた。

ウェディングドレスといえば、胸元のあいたデザインがたくさんある。
腋の下にある手術痕は、よっぽど高く腕を上げない限り見えないが、
やはり胸の手術痕はそういうわけにはいかなかった。
私の腫瘍は、乳がんのおよそ半分ができるといわれる位置、胸の上部にあったので、
そのさらに上に7センチほどの手術跡があるのだ。
試着をしてみると、ほとんどのドレスでその傷痕が見える。

「この程度の傷痕ならば専用のファンデーションでしっかり隠れますよ」

この程度。

おそらく「このくらいならば」という意味で、
そんなに気にすることはない、と気を遣ってくれた表現なのだろう。
でも、この時の私からすると、とてもそうは思えなかった。
どんな思いでこの傷を毎日見ていると思っているのかと。
どんな気持ちでこの傷と向かい合っていると思っているのかと。

不注意で転んでできた傷ならまだしも、生きるために選択した手術でできた傷跡。
それを「この程度」。
そんな風に言われ、悔しい気持ちでいっぱいになった。

ちょっとした言葉尻をとらえて・・・と思われるかもしれない。
しかし、その言葉を受け取った私が、敏感すぎるほどに傷ついたのは事実だった。
それこそ、この程度でいちいち傷ついていたら世の中やっていけない。
もちろんわかっていたが、まだまだ、病気に気持ちが負けていた、2009年6月。
髪の毛もやっと生えてきただけの、ショートカット。
コレをどうやってアップスタイルにしてドレスに合わせるか。
結婚式まで、あと、5ヶ月。

・・・次は、夫の出張~その後をお伝えします・・・

11:46 | megumi | 結婚式の準備 はコメントを受け付けていません

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