今日は、歌劇『カヴァレリアルスティカーナ』の照明を務めさせていただきました。
急な依頼だったため、稽古も最終通し稽古しか伺えず、会場入り前も後も直前も不安でした。
観たことはあっても、自分が合唱でさえ出演したことのない作品は細かい曲風の変化などがインプットされてないため
歌詞(台詞)の意味が分かっていても
いい意味での感性がきかず、音楽に合わせて照明のアップダウンが自由に効かなかったのが悔しい点です。
今回は序曲で、日の出から朝焼けを照明のアップにより表現
そして、ヒロインがなんともマイナスオーラを放つ女の役なので登場した瞬間にどんよりした空間を演出するために単に暗いわけではなく微妙な明るさを他の役とは区別しました。
合唱団(村人たち)が教会で十字架に次々とキスをし、全員がし終わった丁度音楽の絶頂で十字架を点にかかげるシーンや
宴会で飲んで飲んで陽気に盛り上がっていくところは徐々に全体を明るくしていき、
最後には舞台上にあがる出演者が『眩しくて前が見えない!』と感じるくらいにカンカン照りにしたり(演出家の意向ですよ。)
盛り上がりシーンの後は必ず、乱闘シーンやヒロインが旦那にすがりつく修羅場シーンが必ずあるので明暗のコントラストだけで、裏幕やセットがなくとも演出が生きるのだなぁと照明室から感心してしまいました。
それにしてもスイッチがたくさんありすぎてずっと震えてました。
二つを残し、一気に暗転!と指示されたときには『指が足りない!』とリハで叫びました。
本番は騙し騙し一つを下げてから残りをペンで一気に落とす作戦に出ましたが、全部をさげるわけでないので苦戦。
帰宅し、劇団あがりの母に話したら、輪ゴムでくくるといいよ!とアドバイスを。
今回が照明デビューでしたが、またひとつスタッフの仕事のありがたさを実感したのでありました。
だいたい、隣に楽譜を追いながらキューを出す人間を置くのですが…1人ってスイッチをいじってる間に追えなくなる危険がありました。
それも恐怖で必ずわかる旋律には楽譜チェックをいれましたが…
とにかく恐怖でした。
間違って客電をつけたりしなかったのでよかったです。
先月末とある劇場のオペラのキャスティングオーディションに出席してきました。
応募多数のため、予定になかったCD審査が一次で設けられダメもとで郵送したら
会場で聴いていただけることになりました。
いつもだったら大体書類審査で「経歴不足のため」と落選になるのに、今回はオーディション会場に呼んでいただけた!姿を見てもらえる!と嬉しかったです。
それでも私が受けさせていただい役の希望者は80人ほどいたので、待ち時間や声だしの時間も含めて同じアリア(大幅カットあり)が繰り返し繰り返し聴こえてくるのです。
希望的に審査会場の空気が苦手は私は、待ってる間に喉が固まってしまいそうで不安でしたが後から養成所の先輩と再会し、変な緊張がほぐれました。
お互いライバルというのに、笑顔を向けられる顔に会うと精神面が助けられるのですね。
2人前が歌唱している間に会場へ入れました。
様々な演技をする方も中にはいて、私が見た中だと、「♩仲直りしましょー夜も昼も仲良くー」と上着を脱ぎ出す演技をつけた方が。
私の同期の見た人には
うずくまってか細く歌唱したと思ったら元気よく立ち上がりぐるぐる踊りながら…
確かに、ずっと聴いてるとみんな同じように聴こえてきます。
なにをもって審査しているのだろうと会場外で感じてましたが、視的パフォーマンスをする方法をとる者がたくさんいたのでしょう。
オーディションは素材を見てもらう場で
特にテキストや音楽に全部の心情が表れてるから、歌唱だけでそれが伝わるはずだと最近感じ始めた私はその様子は違和感でした。
役者の台詞オーディションならそんな様子に違和感は感じないのですが…
…ととにかく歌い手としての行事は一旦落ち着きました。
今月はある歌劇の演出助手として専念します!
一週間前の週末に、別の団体の『魔笛』裏方に入らせていただきました。
主に中割の幕引きです
楽譜を見ながら…音楽を追いながら
舞台しもてから、譜面台を立て譜面灯で照らしながら。
音楽のタイミングで開いたり閉じたり。
シーンごとや場面転換のために開け閉め
他には曲の途中で
夜の女王が現れて星や月が輝くために視界が広がる…
雷がなって闇があけ、喚起する童子たちが現れるために…
次のステージに向かう王子と試練に合格しなかった鳥刺しの立つ時空が歪み2人が離ればなれになる様子をわかりやすくするために中割を使いました。
全ての音楽が頭に入ってる作品だから、メロディとともに、ゆっくり、もしくは一気に開ける
3段階で閉じてゆくなどのスピード調整ができました。
あとは他の幕を上げ下ろしするスタッフのかたにキューを出したり合唱団に入りを促したり。
それは元々舞台監督のお仕事なのですが。
裏方のお仕事をすると、上演のために歌い手と同等に気を張り続け舞台上の状態やオーケストラピットの音楽進行状況を気遣うことを実感します。
まして、場当たりやゲネプロで再開時間を
、例えばスタッフや合唱の都合や、タイムテーブルより場当たりの終了時間をおしてしまってるから休憩なしでゲネを開始します!と通達した直後に
「ソリストのことも考えてよ!」とこぼした方がおられましたが
スタジオ稽古でできないことをゲネプロで初めてセットや幕、照明、音響を試すことだってあるので、スタッフ側としては「当日本番中の進行がうまくいくために時間をたっぷり使わせてよ!」と感じます。
ホールをリハーサルとして使える時間は無限にあるわけではなく、もしかしたら退館時間になって最後までゲネプロができない恐れだってあります。
話が変わりますが、舞台袖は、演者の方々のスイッチオンオフの瞬間をみられるので大好きです。
更新してない期間色々忙しくしていました。
1番近い昨日から。
オケあわせでした。
普段ピアノ伴奏で練習させていただいているわけで、オーケストラの音の厚みや弦の豊かさ、木管の優しい響きが心地よく…
例えば、このシーンは何の楽器が前奏を歌ってくれて、歌と一緒にさらに主旋律を別の楽器が加わる…などとワクワクしながら聴かせていただきました。
魔笛は童子役でもう3回もオーケストラとご一緒させていただいているのに、パートが違うだけでこんなにも感じ方が違うのかと感激してしまいました。
童子は掛け合いより和音で進行していくことが多いですから、普段や合唱団時代ハイソプラノをやってきた私には、真ん中のパートは慣れない作業でした。
もっとも深みや伸びやかさのほしいフレーズをオーボエが一緒に同じく歌ってくださっているのを感じたり…
マエストロのおっしゃる、優しい、聖なる和音感や
演出家のおっしゃる、理屈で偉そうなことを身体全体で一生懸命大人に向かって諭す可愛らしい様子がようやく自分の与えられたパートの童子としての私の中で見えてきました。
余談ですが、音楽稽古中にマエストロがモノスタトスのアリア中に
「俺はこのアリアで泣かせたいんだ。
肌が黒いから人種差別を受けていたり、普通に恋愛ができず、想いも伝えられない。環境からみんなに馬鹿にされて苦しい気持ち。
実はピッコロという楽器が生まれて、初めてオーケストラに取り入れたオペラが魔笛。
ピッコロは当時演奏するのが大変で…
だからモノスタトスのアリアにはピッコロが使われていて、その彼の苦しみとピッコロ奏者の苦しみを掛け合わせたい」
モノスタトスのアリアを初めて若い頃の私が聴いたときは、おちゃらけて悪党ぶり丸出しな感じだったのですが、
マエストロのお言葉で、
悪党は実は優しい人間で、周りの人間がそのようなキャラに仕立て上げてしまうということがあることをまた気づかされたのでした。
そんなこともあり、そのシーンはずっとピッコロさんの指の動きをガン見してしまいました。
今日から小屋入りです。
一昨年は荒通し稽古
昨日は通し稽古でした。
緊張感がいいです。
全てのスタッフの方々がいらっしゃっていました。
いつもの稽古場よりさらに広いスタジオで稽古させていただいてます。
飛躍した部分も
たくさんあるし
考え続けて煮詰まる部分が
解けたこともあるけど
毎日積み重ねていたので
何をどう悩んでいたのかも
説明がつかないくらい
とにかく元気いっぱいにやっています。
今日は直し稽古へ行ってきます。
先日、同期と久々に会合
二人とも各々魔笛の本番があり
お互いがパートが違えど同じ役なので、その役つくりについてのディスカッションでした。
彼女は日本語上演
私はドイツ言語上演
演出も全く違うけど、
同じモーツァルトの魔笛
テキストに書いてあることは変わらないのです。
悩めば、楽譜にト書き以外から
メロディ、和音から読み取れることがあります。
また、三位一体の役のため主導権はどこにあるかはスコアから自身で読み取るより他はないのです。
侍女役と違うことは
同じ台詞を同時に歌う、上から目線で説得するという立場であることです。
とにかく、ストーリーを導くことが使命なのです。
三人が同じ方向を、そしてバランスがとれなければ私たちの役目は果たせないのです。
絶賛、魔笛稽古中です。
今朝、とってもモヤモヤしたので。
先月の個人レッスンで、この稽古が始まる前に師事する師匠に不安を漏らしたこと。
「せっかくまた身の丈にあってない団体でキャスティングされたが、
期待はされてないにしてもやっぱりこいつはそこまでじゃなかったか、とガッカリされるのではないか。
やっぱりダメだったかと思われる諦めと、
いや、そんなはずはない!過去の同じ役をやった自分よりの遥かに成長しているはずだ、という自分の向上心。
その二つがハーフハーフでせめぎあっている。」
そこでピシャリと言われたことは
「誰もね完璧なんて求めてないし、あなたにそこまで期待はしてないのよ。
そりゃ、求められた以上のことをしてやろうという欲はだれにでもあるけど
等身大のもの以上は期待してないから、そんなに怖がる必要がない。
そんなに不安なら最初からオファーを受けるな。役に失礼。
キャスティングしたのは先方。
身の丈に合わないのにキャスティングしてもらったことをむしろ、ラッキー!と思わないのか。
そもそも、身の丈にあう舞台の仕事なんか一つもないんだし。
なんであなたを起用したか、とか考えたことはある?」
私はすかさず、「若さと将来性、吸収力です」
「だったら、それを望んでるんだから。もともと足りない技術に関してあーだこーだ悩みなさんな。
もってるものしか舞台上では出せない。持ってるものを全部出しなさい。」
という流れでした。
その言葉を胸に、音楽稽古を経て立ち稽古に入ったところですが
私は自分を卑下した気持ちを以前よりは持たないように稽古に励みました。
ゼロでいることは…もちろん無理でしたが。
全体的に若手がキャスティングされています。
ふと耳にした噂は合唱の出演者には、ここ数年で公演された旅公演のソリストの方々や、本公演出演されている方々がいらっしゃるということ。
自分の役をもっともっと研究されている方が同じ舞台に立っているというプレッシャーは大きいです。
私は直接は耳にはしてないのですが
若手のキャスティングに疑問や不満をもっている方が少なからずいらっしゃるということ。
それは当たり前のことです。
ただ、その方々に納得してもらうために稽古を っていうのは私は違うと思います。
それこそ、師匠の「あなたにそこまで期待してない。」という言葉が突き刺さります。
内部が納得しないなら、外部のお客様はもっと厳しい感想をお持ちになる、というのも。
作品の中でどんな役割を担っているのか、どうテキストをよみこむか
同じ役でどれだけ同じ方向性、音楽性を進めるか、ほかのシーンを誘導できるか。
それがまず根底にあってから、本物のアンサンブルができるのだと思うのです。
うまく歌ってやる!という気持ちだけではアンサンブルにならないのです。
人がどう思うとか、考え始めたら、気にする部分がぶれてきます。
自分に与えられたものを大切に考えて実行することに重きを置きたいと思います。
団体の作品に関われることは光栄なことでもあり、プレッシャーもあります。
絶対に「いいものを」という気持ちはもちろんのこと。
若手だから許されるだなんて1ミリも思ってないですし
若手だからこそ今の持っていることできることを十二分に発揮します。
だから、稽古は作品と役に対する200%の気合と集中力
100%の実力を本番で可能にすると私は信じています。
金曜日と土曜日、所属する歌劇団の日本オペラの公演でロビースタッフをしてきました。
‘あくまでも、団体の〔顔〕であるという事を心にとめておいてください。’という言葉がありました。
劇場のプロアテンドの方と比べたら全く力にもならないですが、自分の所属させていただいている団体の者としてできるおもてなしがあるのではないか…と思いました。
アンケート、ビラハサミをひたすら開場前までやり、私は次回公演のチケットや最近リリースされたCDの物販ブースの担当。
会場には他に花束受付や過去の公演レアプログラムの販売もありました。
会場にいれば、あれはどこで手に入るだ、ラウンジはお化粧室はと尋ねられます。ご案内の仕方にも品は問われます。
クラシック、オペラがお好きな方が次回の公演チケットを立て続けにご購入いただくのを目の前でみました。
4月、日にちが一番近くてビラが挟めなかった公演に私は出演させていただくのですが、ブースにきて初めて知り、次回本公演やコンサートとともに「これはどこのホールなの?気になるな!予定が空いてるから…席ある?」と尋ねられる方もいらっしゃいました。
そこで思わず「チケットありがとうございます。実は私も出演してるんです」と声をかけてしまいました。
そうすると、その方はふと顔をあげて「あなた所属してる歌手?何役?その雰囲気だとソプラノでしょ?」と嬉しそうに尋ねて
「この役は誰がやるの?あなたは代役でやらないの?
あのね、この前クルージングコンサートでこの役のアリアをリクエストしたんだけど、○○さんて歌手は即興で歌ってくれたんだよー感激しちゃったんだ。
だからあなたも歌ってね。」と話が盛り上がりました。
「稽古時間は長いんでしょ?今回はシングルなの?で、やっぱりあなたは代役やらないの?」と。
元々自身が音楽家であったり、誰かのファンでチケットを購入する方は多いと思うが、ただ団体の公演がすき、クラシックがすき、舞台がすき、オペラがすき…という方はいわゆる非日常なクラシックの世界観などとても夢いっぱいに話されます。
そんな方がふと目についたビラで観劇を決めてくださり、さらに世間話までできたのが嬉しく、この方が客席にいらっしゃるんだ…とまた気合が入りました。
また会場には、劇団でお世話になった日舞の師匠をお見かけし思わずブースから出てご挨拶させていただいたのですが、
師匠も知った顔をみつけ安堵のご表情をなさいました。その後ゆっくりとお席や楽屋口へご案内できました。
会場ロビーにいると、お客様のお姿を見られます。客層は見てわかるが、どんな思い出足を運ばれたかは想像しかできません。
CDをご購入された方が、公演出演者の素敵な話をなさっていかれました。
でも、そんな話をただロビーに立ってるだけではきけないことだと思います。
団体の顔として関係者としてロビーにいられたことは、とても素敵な時間でした。
お世話になるであろう団体の演出家さんとの顔合わせ。
まさかのマックで声をお聞かせするために本読みをすることになりました。
恥ずかしいとかはないのですが、台詞が台詞臭い言い回しだったもので、弱冠の抵抗はありました。
だってね、私の声…声楽家特有なので通るんですよ、、普通の話し声でもね…
下ネタとかカフェや居酒屋で話するとする、、
「君はさ舞台人で声が普通の人の何倍も通るんだから、下ネタ話すなら話すで音量とかさ息のスピード抑えて」と周りをキョロキョロされながら言われたことが多々あったことを思い出しました。
ただ、読みながら
ファンタジーものって、何かしようとすればするほど逆にリアリティがなくなって物語に対して冷めてしまうんだろうな…と気づきました。
ファンタジーにこそリアリズムな芝居が必要なんだな…と。
台詞臭い台詞こそ、リアリズム。
そういえば昼ドラのあの台詞は、今でこそあんな話し方をする女性はいない気がしますが…世間の奥様方は不自然に感じずに観ているのでしょうか?
そこがまた昼ドラ特有のいいところなのでしょうね。
いよいよ花粉症が出てきそうな予感。
まだデビューはしてません。
が、喉がイガイガして、鼻の中が若干ムズムズします。気を抜くと発症するのでしょうか。
私は季節の変わり目で扁桃炎になり熱が出て、声に影響するので、さらに花粉症にまで本格的になったら厄介です。
今日はレッスンなのですが出かける前の午前中、受けようとしているオーディションの提出書類を作成したりプロフィール写真を印刷したり。
そろそろ宣材をまた撮影するべきかな?と思ったりしました。
なんだかんだで一年経てば人相も変わるし。
俳優としての写真は事務所で毎年俳優写真名鑑というプロフィール冊子を発行するために撮影があるので、毎年更新されます。
事務所に所属する俳優は大抵、事務所で管理されている宣材を一年間様々なオーディション申し込みやキャスティングの場に使用されるので、この名鑑撮影には気合を入れて身体絞りや肌、髪調整をします。
音楽業界は…フライヤーやプログラムをみているとよくこの写真何年前?とか別人じゃない?ということがあります。
私のお世話になっているベテランバリトン歌手の方は50代後半なのに、30代から宣材を変えず、今は全体的に白髪なのに、黒髪、肌のハリパンパンの写真だったため、ロビーでお客様から「この方、今回ステージにお乗りになってなかったわよね?残念だわ。」と毎度毎度言われすぎたため最近、ようやく撮影してらっしゃいました。
声楽家は、男性ならタキシードかスーツで、女性ならドレスや盛り髪巻き髪バッチリメイクで。(一般の人が見ると、結婚写真?と思うかも)
俳優宣材は被写体素材を活かす。ナチュラルメイクで衣装も季節感は感じさせないような。そしてその人のキャラクターやイメージに合わせていく。
音楽家宣材はステージに立った華やかさを伝えるために宣材撮影。
衣装や背景、イメージに合わせたりは、両者とも同じです。
指揮者の方は、公演中の指揮姿の写真を使われる方もいらっしゃいます。
ただ、宣材って「会いたいな!」と思わせる写真なので、その一枚で印象に残さねばならない最初の手段。
俳優宣材は、大抵は製作企画の方々に見ていただくことが多いが、音楽家宣材はすでに出演が決まった舞台のフライヤーにまず使用されてしまいます。お客様が、「この人、どんな音楽を奏でるのかしら?」と「会いたい」のさらに上の興味を持っていただかねばならないのです。
見た目の印象なのか、技術なのか。
なにを優先する世界かで宣材の撮影での自分の表現の仕方が変わってきますね。
昨年一年、声楽家の若手!ということでまるで某歌劇団の娘役のような写りのものを提出し続けました。
若手コンサートフライヤーで20人ずらっと並べられたものを、
師事する先生から「写真で負けてる!」と一喝されましたが
「え!なにが!一番私が可愛いじゃないですか!」とツッコミ待ちしました。
なにやら、肌が白いのに背景も白過ぎてインパクトにかけたそうです。
なんだ…被写体へのダメ出しではなかったか…と空回りした一件でした。
ツッコミはないのか…がっかり。
8日の土曜日はフィガロの結婚を観に。地方の芸術劇場です。
この場所は大学4年生のとき
大学合唱団の卒団コンサートで歌った場所です。
大ホール!
本当はコンパクトな小ホールでこじんまりやるのが普通なのに。
この年はどこのホールもとれなくて、唯一予約できた大ホールでした。
私たちには大き過ぎました。
あれから5年…も経ちましたか。
合唱オタクな私は声楽家の卵になりました。
中学生からハマった合唱部や合唱サークルで
歌に人間関係に協調に、最後の最後で恋愛に苦しんだのに
それでも歌い続けているということは、私には呼吸であって、歌をやめたらそれこそ生きる感覚がしないような生活になっているような気がします。
合唱や音楽は1人では成り立たないことなのです。
さて、観劇してきたフィガロですが…
大きなお屋敷での話です。
まず演出、舞台セットが素晴らしい。
装飾ではなく構造!
派手なものは一切なく大道具はシンプルに。
普通だと幕ごとに場面転換で誰の部屋、かれの部屋と変えていくのですが、
その方法は、全部の部屋の骨組みセットを客席側に回転させるだけでどこの部屋でも他のキャストが演技を続けているから何をやっているか丸見え…という。
(つまりシーンに出番はないが舞台上にはいる)
だから、エキストラの召使いは掃除や料理をし続けたりふざけあったり、
他のキャストが酒を飲んだり女に手を出したりと
視覚面で飽きない!
最近、歌劇て一般の人からすると音楽も同じフレーズの反復だったりするし手持ち無沙汰の歌手が演じていると、
演奏中は立ちんぼで動きもなく退屈に感じてしまう人もいるだろうな…と思っていたのですが…
スポットを当てるところの邪魔にならない程度のエキストラを入れるのも悪くないのかも…と肯定的になってきました。
歌ってる者たち以外が目立ってそちらばかりに目がいくような演出は私はよくないな…という意見だったのですが…
目が、気が散るのと
なんか面白い、と感じさせるのとでは違う!
演出もエキストラの置き方にも奥が深いものがあるなあと思いました。