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2012/01/10

2012年が明けて、早10日。
何を隠そう(や、全く隠してないが)、元旦生まれの私、
めでたく三十路を迎えました。

とはいえ、今更、大きな変化も無く、
淡々と、しかし緩やかに、日々、身体が衰えていく毎日。
時の流れに抗っても仕方無いとは思うものの、
さすがに弱り切った足腰を鍛え直そうかとも思いはじめている、
そんな初春。

さて。
この年末年始は、ほぼ修士論文の執筆に費やしてしまった。

〆切が年明け7日という設定自体が、そもそも、
「年末年始缶詰宣言」に等しい仕打ちだと思うのだが、
まあ、文句があるなら、しっかりと年内に終わらせて、
すっきりと年を越せばいいのだ。

勿論、そんな計画性のある人間ならば、
大学に7年も通ったり、会社を3年で辞めたりはしない。
バッチリと、確実に、年末年始進行に突入したのは言うまでもない。

年越し「ガキ使」を見ながら論文を書いている時などは、
ある意味、「笑ってはいけない修論執筆」を演じている気分に陥った。

しかも、元マネージャーの藤原が、事あるごとに、
「藤原、お前ええかげんにせえよー」と浜田や松本に言われるので、
その度に、ビクッとなってしまうのが、ややこしいことこの上ない。
まあ、見なければいい話なのだが。

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閑話休題。

修論に関しては、無事に提出することもでき、いまは一段落。
まだ、これから口頭諮問、そして審査が控えているのだが、
大きな山は越えたと言っていいだろう。

この場を借りて、ご協力いただいたみなさまには、
深い感謝の意を表しておきたい。

思えば、ブータンに関して何の知識も人脈も無い状態で、
「ブータンの情報化」について研究すると大見得を切って、
挙句に、会社まで飛び出してしまったのが、2年前の春。

ただの馬鹿野郎でしかないにも関わらず、
会社の同僚には、幾多の温かい言葉をかけていただいた。

ブータンに関わったこの2年で、多くの方に出会うことができ、
昨秋には、ブータン国王来日のレセプションにまで参加するという、
有り得ない経験までさせていただいた。

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まだ道半ばではあるが、
三十という自らの節目を迎えたこともあり、
少し、歩んで来た道を振り返る、そんなお正月でもあった。

年内最後のコラムで、「三十にして立つ」という孔子の言葉を引いた。
思えば、二十代は、十代の頃の貯金で乗り切ってきたようなものだ。

二十代後半は、独り、あてどなくふらふらしていた。
南米へ行き、中東へ行き、モロッコで九死に一生を得、
インドへ行き、バングラデシュへ行き、チェルノブイリにも行った。
白神山地へ行き、瀬戸内海へ行き、京都で漫画喫茶にも泊まった。

あてどなく、しかし、見識を広げようと努めてはきた。
ただ、あまりにも行き当たりばったりだったせいもあって、
結局、どこにも行き着けなかったような気もしている。

今年は、いや、三十代は、アウトプットの年に。
それを年頭に、日々過ごしていきたい。

12:00 | fujiwara | 61.寒中見舞い、そして修論完成 はコメントを受け付けていません
2011/12/31

暮れも押し迫った12/31に、年内最後のご挨拶をば。

2011年を、みなさんはどんな年として記憶するのだろうか。
真っ先に思い浮かぶのは、どうしても、東日本大震災の年。

国際社会の中でも、どうやら同じ思いのようで、
Googleの作った、今年を振り返るしみじみする映像の中でも、
件の震災がトップに来ている。

この映像、もう少し作成時期が遅ければ、
金正日総書記死去のニュースも掲載されただろうか。

十年来のMacユーザーとしては、ジョブズの死も、哀しかった。
松田直樹の死も哀しかった。

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自分史的ニュースを、各月ごとに振り返ってみる。

1月 30歳へのカウントダウンスタート
2月 2度目のブータン上陸
3月 バングラデシュで東日本大震災の一報を聞く
4月 ボランティア活動のため被災地へ
5月 ゼミで気仙沼復興支援プロジェクト開始
6月 10年ぶりにパスポート更新
7月 サッカー女子W杯で川澄に萌える
8月 3度目のブータンで突撃100人インタビュー実施
9月 チェルノブイリ訪問
10月 競馬・凱旋門賞観戦&モンサンミシェル訪問
11月 ブータン国王歓迎レセプション参加
12月 ブータンナショナルデイで司会

と、大体ブータンづいていた1年だったことが浮き彫りに。
世間のブータンフィーバーも相まって、特に年の後半は、
割と慌ただしく日々が過ぎていった。

年明け早々には、この1年、というか修士2年間の集大成としての、
修士論文を提出しなければならない。
正直に言うと、まだ、書き上がっていない。

早い話が、ここでこんなコラムを書いている場合じゃない、ということだ。

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来年は、無事に修士を卒業できれば、
また、次の舞台へと歩みを進めることになる。

実は、まだ固まっていない。
齢三十になろうというのに。

ただ、少し考えていることもあるので、
多分、追々、ここでも公表できるだろう。

孔子曰く、三十にして立つ、と。
おそらく、ちょっと意味は違うだろうが、そこはそれ。
都合の良いように解釈するのも、ブータン流の幸せ力、かもしれない。

それでは、みなさま。
良いお年を!

12:00 | fujiwara | 60.ゆく年くる年 はコメントを受け付けていません
2011/12/25

去る、12月5, 6日の二日間、
「幸福度に関する国際カンファレンス」なるものが、
政策研究大学院大学という、大学なのか大学院なのか、
なんのこっちゃかよくわからない場所で開催された。
(実際には、学部を置かない大学院だけの大学のこと)

「幸福」を指標化しようという動きは、いま世界中で活発化している。
指標にならなければ、政策に反映できない、というのがその根拠だ。
それ以前に、世界がそんなに「幸福」に飢えている、ということでもある。

これまで国際社会は、GDPに代表される経済指標の他に、
さまざまな社会発展の度合いを測るための指標を開発してきた。
例えば、国連のHDI(Human Development Index)では、
GDPに加えて、教育と健康(平均余命)を指数として導入した。

また、民間企業や団体も、独自の基準で幸福を測ろうと試行錯誤している。
イギリスの環境保護団体は、HPI(Happy Planet Index)を考案し、
アメリカのギャラップ社は、毎年、世界幸福度調査を実施している。

いずれの指標でも上位に来る国もあれば、
指標によっては順位が大幅に変動する国もある。
ちなみに、日本は後者の典型的な例だ。

そんな中、昨今のブータンブームに乗って、いま、注目を集めているのが、
ブータンのGNH(Gross National Happiness)という考え方。

国民の97%が幸せな国、なんてワイドショー的な文句を、
どこかで耳にしたことがある方も多いのではないだろうか。

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先のカンファレンスの冒頭、基調講演に立ったのは、
ブータンのGNH委員会長官、カルマ・ツェテーム氏。

氏は、GNH政策を、
「40年も前から、意図的に他の国と違う道を選択してきた」と語る。
その言葉通り、ブータンのGNHへの取り組みは、
先代国王が即位した直後、1970年代初頭まで遡る。

あまり細かいことを書くつもりはないが、
ブータンのGNHは、大きく、4本の柱と9つの重点課題から成る。

まず、4本の柱とは、次の4つ。

「公正で持続可能な社会経済発展」
「伝統文化保全とその促進」
「自然環境保全」
「良い統治」

実は、GNHの考え方が生まれてからしばらくの間は、
この4本の柱のほかには、GNHを測る指標のようなものは何も無かった。

近年、ブータンでも、国民の幸福度、あるいは、豊かさを測る指標、
といったものが必要、という趨勢が強くなり、
2008年から、9つの重点課題を設定することになったのだ。

「暮らし向き(Living Standard)」
「健康(Health)」
「教育(Education)」
「コミュニティの活力(Community Vitality)」
「良い政治(Good Governance)」
「時間の使い方(Time Use)」
「文化の多様性(Culture)」
「生態系(Ecology)」
「心の健康(Psychological Wellbeing)」

これら、9点について、それぞれ、指標化するための質問項目があり、
それらを踏まえて、国民の「幸福」を測ろうという試みがはじまっている。

参考文献:
枝廣淳子 et al.(2011)『GNH(国民総幸福): みんなでつくる幸せ社会へ』

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そんな中、日本国内でも、「幸福」を測ろうという動きが起こっている。

先だっては、法政大学の坂本先生を中心とした研究チームが、
47都道府県の幸福度ランキングなるものを発表した。

様々な社会経済指標で得点を付して、作成されたこのランキング。
実際中身を見てみると、幸福度を測ることそのものよりも、
ランキングを作ることが目的、かのように自分には見えてしまったのだが…

ちなみに、1位は福井県、以下、富山、石川と北陸の県が続く。
一方、最下位は大阪府で、東京都は38位だそうだ。
自分が住んだことのある宮城、鹿児島はそれぞれ36位、35位。
偶然にも、東京も含めて、随分と近いところに固まっている。

全くの余談だが、北海道に、その名も「幸福駅」という駅がある。
そして、この土地は、幸福度1位の福井県からの移住者が多いそうだ。
関連があるのかないのか、そのあたりは不明だが…
70年代ブームの幸福駅、人気再燃│asahi.com(朝日新聞社)

さて、日本政府も本腰を入れて、指標化の取り組みをはじめている。

内閣府が組織した、幸福度に関する研究会は、
大阪大学の山内先生を中心に1年に渡って会議を重ね、
先日のカンファレンスに際して、その研究会報告が公開された。

中身をまだ読み込めてはいないが、
社会経済状況、心身の健康、関係性、を3つの柱として掲げ、
それらを下支えする要素として、持続可能性を考慮しているようだ。

また、地方自治体単位での動きもある。
東京都荒川区では、GAH(Gross Arakawa Happiness)という、
冗談のような本気の取り組みを進めている。

それぞれ、リンクを貼っておいたので、
興味がある方は、是非、各々で中身を参照していただきたい。

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と、ここまで書いてきていまさら言うのもなんだが、
正直、筆者は、たしかにブータンの研究をしているものの、
ブータンのGNHの研究をしているわけではない。

それは、そもそも「幸福」という極めてあやふやなものを求めて、
かくも右往左往する人々の姿に、少し冷めてしまっているから、
かもしれない。

ひとつ、勘違いしてほしくないのは、
「幸福」を測ろうと努力することと、これからも「幸福」であることは、
必ずしもイコールではない、ということだ。

「幸福」は、果たして「見える化」してしまってよいものなのか。
そこに、本当に「幸福」の正体があるのか。
それは、誰にもわからない。

さて。
今日はクリスマス。

聖夜に「幸福」について考えを巡らせることは、
果たして、「幸福」なのかどうなのか。

答えはきっと、神のみぞ知る、といったところだろうか。

12:00 | fujiwara | 59.ブータンに学ぶ「幸福」の正体 はコメントを受け付けていません
2011/12/16

世は、すっかりブータンブーム。
国王・王妃両陛下の来日以来、ニュースや新聞やなにかで、
ブータンの文字を見ない日は無いくらいに。

この状況。
いち早くブータンに目を付けていた自分としては、喜ばしい反面、
ずっと応援していた売れないミュージシャンが、
ふとしたきっかけで大ブレイクしてしまったときにも似た、
そこはかとない寂しさもある。

さて、そんな小さな葛藤はさておき。

来たる12月17日は、ブータン・ナショナルデイ。
つまりは、建国記念日にあたる。

ときは、100年以上遡り、1907年。
現国王の高祖父(4代前)である、ウゲン・ワンチュックという人物が、
内戦状態にあったブータンの国家統一を果たし、
世襲制の近代ブータン王国が誕生した。

毎年、ナショナルデイを祝う式典が行われるのは、
首都ティンプーにあるチャンリミタン・スタジアム。

この場所は、かつて、国家統一前の最後の大きな闘いとなった、
チャンリミタンの戦い(1885年)が行われた舞台でもある。

当時の戦乱が、いかに苛烈なものであったかは、
ブータンの国立博物館を訪れると、そこに展示されている銃火器等の、
物々しい雰囲気から伝え知ることができる。

ブータンを、幸せな国、平和な国、という色眼鏡で見ていると、
決して見えてこない、ブータンの生の姿が、そこにはある。

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そんなナショナルデイを祝うイベントが、
毎年、日本でも開かれている、というのはご存知だろうか。

今年は、本番の日より少し早い、去る12月10日、
日本ブータン友好協会の主催で行われた。

筆者は昨年から参加させていただいているが、
まさか昨年参加したときには、1年後に日本で、これほどまでに、
ブータンブームが訪れていようとは、想像だにしていなかった。

とはいえ、この日集まったのは、
古くからブータンを知る、馴染みの顔ばかり。
そこに、日本在住のブータン人留学生等も混じって、
ブータン料理に舌鼓を打ちながら、ブータンの歌と踊りで盛り上がる。

何故か、当日になって、「藤原君、司会やって!」という無茶振り…
もとい、有難い役割を拝命し、孤軍奮闘。

メインイベントはというと、昨年に引き続き、
「参加者全員が持ち寄ったプレゼント争奪」ビンゴ大会。
ビンゴになった順に、欲しいプレゼントを選ぶことが出来る、
という極めてシンプルだけど、なかなかどうして盛り上がるこの企画。

ブータンの限定切手(ブータンは実は切手が有名)やら、
ブータンフリークには堪らない品が目白押しだが、
裏を返せば、あまりにマニアック過ぎて、普通なら見向きもされない品も…

ちなみに、ブータン人は、基本的にクリスマスを祝う風習が無いので、
こういうプレゼント交換的なイベントはかなり新鮮らしい。

司会をしながら考えていたことは、
「ヤバい、司会のくせに最初にビンゴになったら絶賛八百長疑惑浮上…
でも、最後まで残っててもそれはそれで怪しい…どうすれば…くっ」
という、空気を読みすぎる哀しい宿命。

が、そんな心配も全くの杞憂に終わるくらい、
これでもかというほど、真ん中らへんでビンゴ達成。
結果オーライ。

プレゼントは何が当たったのかは…内緒ということにしておきたい。

12:00 | fujiwara | 58.ブータン・ナショナルデイ はコメントを受け付けていません
2011/12/08

プリピャチは、かつて、地図に無い街だった。
軍事機密を抱えた秘密都市。
原子力、すなわち核は、冷戦下のソ連にとっては、
この上ない軍事機密であったことは間違いない。

ただ、プリピャチの街を歩き、
かつてそこに在ったであろう姿を想像してみても、
そういった後ろ暗さはほとんど感じられない。
むしろ、当時の最先端技術を支える街としての誇りすら伺える。

文化会館の2階ロビー、そして体育館は、全面ガラス張り。
大きな窓からは、穏やかな陽光が一杯に降り注いでいたことだろう。
しかし、それ故に、砕け散った無数のガラス片が、
より一層の物悲しさを増幅させる。

遊園地の話ひとつを取ってみても、涙無しには語れない。
1986年のメーデー、つまり5月1日に開園が予定されていた、
その、わずか5日前に、事故は起こった。
笑顔が溢れるはずだったその場所で、
誰にも乗られることなく、朽ちていった遊具。

果てしない絶望感。

市民プールにも、小学校にも、
その一つ一つに、たしかに、人間ドラマがあったはずだ。

プリピャチは、1986年4月26日、
忽然と地図上に姿を現し、そしてまた、地図上から失われたのだ。
すくなくとも、人々が行き交う「街」としては。

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あの事故がもたらしたものは、絶望だけではなかった、
という声も、無いわけではない。

その一つが、ヒトが住まなくなったことで、
絶滅を危惧されている動物たちの楽園になった、というもの。

当然、放射線による弊害は、ヒトではない他の動物たちにも及んでいるはずだが、
それでも逞しく、かの地をねぐらにする生き物たちは、
たしかに年々、数も、種類も増えているという。

ヒトがいなくなることで、
ヒト以外への希望がそこに生まれた。

なんて、短絡的にはとても考えられないことは、現地を訪れてすぐにわかった。

少なくともそこは、野生動物の楽園、にはとても見えなかった。

残念ながら、短時間のツアーだったため、
生き物を目にする機会そのものが少なかったのは否めないが、それでも、
仮にそこに、多くの動物たちが息づいていれば、少なからずそれを感じるはずだ。

例えば、熱帯雨林の中では、直に目にせずとも、
動物の気配を、その痕跡を、どこかに見つけるものだ。

ヒトによって、住む場所を失った動物たちが、
高放射線量の過酷な環境に追いやられ、それでもなお生きている。

それを希望だ、などと言うのは、ヒトの傲慢以外の何物でもない。

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チェルノブイリは、大きな事故ではあったが、時代は変わらなかった。
その後も、原子力発電所は次々と建設され、
多くの国で、発展を担う電力供給源としての役割を期待された。

そこへ起きた、もうひとつのレベル7。

にわかに高まった、自然エネルギーへの転換を叫ぶ声。

もう一度言うが、自分は、原子力推進派でも反対派でもない。
より正確に言えば、原子力が無い暮らしを求めていく必要性を強く感じているが、
だからといって、掌を返して「反対」というのは道理に反する、と考えている。

今まで散々、その恩恵にあずかってきたのだから、
「今まで有難う、お疲れ様」と見送るのが筋だろう。

東電を責める話と、原子力そのものを否定する話は、根本的に違う。
そして、いまの日本では、そこを一緒くたにした議論が多過ぎる。

政府との癒着が嫌なのか、偽物の安全神話が嫌なのか。
じゃあ、安全なら原子力を使ってもいいのか。

個人的には、東電のことは、正直どうでもいい。
どう転んでも、電力供給は国家事業には変わりないので、
民間がやろうが、国営に戻そうが、たぶん、あまり変わらないだろう。

では、原子力はもう使うべきではないのかどうか。

反対派は、簡単に「自然エネルギーへの転換」と言うが、
これは電力需要だとか経済的にどうだとか、そういう問題ではない。

自ら生み出したテクノロジーを飼い馴らすことすらできなかった人類は、
再び、自然という強大な力に頭を垂れる、という意味に他ならない。

太陽光だろうが、風力だろうが、その意味での違いは無い。
太陽が射さなければ、風が吹かなければ、ヒトの営みは成り立たない。
それは正に、かつて我々が歩んで来た道に重なる。

極論かもしれないが、
詰まるところは、それを受け入れる覚悟はあるのか、ということだ。
そこまで議論を尽くして、エネルギーの未来を考えなければいけない。

「技術的には、今後、現在の電力需要をまかなうことは十分可能だ」
なんて言っているうちは、いつまで経っても、
おそらく、人類は再び同じ過ちを繰り返すだろう。

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遥か未来を想像してみる。

人類の終焉が訪れたときの、「終わりの風景」を。

そこにあるのは、果てしない荒野か。
それとも、ヒトではない新たな種の繁栄か。

そんな大それたことを考えながら、このレポートの締めくくりとしたい。

12:00 | fujiwara | 57.チェルノブイリ・レポート(4終) はコメントを受け付けていません
2011/11/26

誰かが、福島原発近隣の街を『死の街』と呼んだ。

それが、失言だったのか、あるいは真実だったのか。
それを問うつもりは全く無い。

しかし。
そんな議論が踊る日本の姿に、やりきれない忸怩たる思いを抱えながら、
チェルノブイリ原発からわずか4km、原発の街、プリピャチの街を訪ねる。

1986年、原発事故の発生時には人口5万人を数えたこの街に、
現在、住むヒトは誰もいない。

事故から36時間後、原発周辺30km以内の全ての住民の避難が指示され、
およそ10日間以内に、すみやかに街は「放棄」された。

それから25年。

深い樹々に覆われた、プリピャチの街に足を踏み入れる。

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まず向かったのは、街の中心にあったホテル。
切な過ぎる壁画が、いきなり涙を誘う。

建物内部は耐久性が著しく低下しており、いつ倒壊してもおかしくない状態。
驚くことに、樹木が、コンクリートを浸食し、建物の中にまで根を張っている。
あるいは、鳥がくわえてきた木の実が落ちて、それが芽を出したのだろうか。

ホテルの屋上からは、360°、街の全景が見渡せる。
かつては、ここから、人々の賑わいを眺めたのだろうか。

いま、目の前に広がるのは、静かに森に呑み込まれようとしている街の姿。
もう、どこへも行くことがない、街の終わりの風景。
ただ、それだけだった。

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誤解を恐れずに言うならば、『死の街』を訪れる覚悟をしていた。
ツアーガイドも、臆すること無く、かの地を “Ghost Town” と呼んだ。

ただ、その認識は、全く誤っていた、と今は思う。
『死の街』であるならば、そこに充満しているはずの、『死』の匂い。

その匂いが一切しない。
それが、かの地を歩いて感じた印象だ。

まるで、発掘された中世の遺跡を見ているかのような、そんな感覚。
25年という短期間で、あっという間に『遺跡』と化してしまった街、
とでも言うべきだろうか。

実際、25年放置されて『廃墟』になった場所は、日本国内にも腐るほどある。
そういう場所は、得てして幽霊話の舞台になっていたりする。

しかし、眼前の『遺跡』を、それらと同じ眼差しでは見ることができない。
プリピャチの街から感じるのは、街の残骸としての『廃墟』ではない。

強いて言うなら、マチュピチュ遺跡の前に立った時と同じ感覚。

そこには、
『廃墟』を徘徊する死者、ではなく、
『遺跡』にかつて生きた生者の面影を、たしかに見たように思う。

そもそも、件の事故によって、このプリピャチ市内で死者は出ていない。
避難先で、急性放射線中毒、あるいは、放射線に起因する甲状腺異常等によって、
プリピャチ市民にも犠牲者が出ているのは間違いない。

が、確かに、あの街の中では、人々がバタバタと倒れていったわけではない。

『死』の匂いがしないのは、そういうことだろうか。

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プリピャチの街には、そして、確かに、ヒトの営みを感じさせる、
生活痕、とも呼ぶべきものが数多くあった。

25年間、風雨に晒されて、なお、原型を保つ人形。

いますぐにでも、履いて走り出せそうなスニーカー。

一つもゴンドラが欠けることなく、凛と立つ観覧車。

まるで休み時間に開きっぱなしになったままの教科書。

ヒトの営みの強さと脆さが同居した光景に、言葉を奪われる。
涙も出ない。

そして、気付く。

街は死なない。
ただ、歳月とともに、土に還るだけなのだ、と。

12:00 | fujiwara | 56.チェルノブイリ・レポート(3) はコメントを受け付けていません
2011/11/18

去る10月13日、ブータンは華やかな話題に包まれた。
日本でも多くの報道があった、若き国王の結婚式。

その国王が、今週、新婚の王妃を伴って訪日している。
先日来、メディアでも報道されているので、ご存知の方も多いだろう。

残念ながら天皇陛下がご病気のため、皇太子殿下が名代を務めるとのことだが、
ブータン国王 (31) に対して、皇太子 (51) という年齢のねじれがなんとも言えず…

という下世話な話はさておき。

17日も、慶応大学での名誉博士号授与、国会演説、講道館で柔道見学、
と、ちょっと忙し過ぎて心配になるくらい、実に精力的に動き回られた両陛下。

特に、正午過ぎから行われた国会演説の中の一節からは、
国王の偽りの無い日本への親愛の情が伺えた。

「不幸から立ち上がる国は日本」…ブータン国王 │ YOMIURI ONLINE
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20111117-OYT1T01055.htm

【動画】「震災復興すると確信」ブータン国王が国会演説 │ ANN news CH

明日は、被災地である福島を訪問されるとのこと。
実際の現場を目の当たりにした国王は、どんな言葉を紡ぐのだろうか。

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そういえば、先日、こんな記事が出ていたのを思い出した。

「幸せ」教育強化のブータン ネット、ケータイに危機感 │ MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111019/asi11101920440004-n1.htm

「幸せの国」
「桃源郷」

ともてはやされて、早幾年。
いまだに、ブータンと言えば「GNH(=Gross National Happiness)」という、
一極報道には少々辟易もするが、それだけブータンという国が日本人にとって、
非常に縁遠い国であったということ。

ブータン研究に携わっている自分自身にとっても、
ブータンという国のことが、どのようなきっかけであれ、
こうして日本に良いカタチで知られることは、決して悪いことではないと思う。
(なにしろ、自分だって、まだ研究をはじめて2年足らずのペーペーなのだ)

ただ。
諸外国から、そんな眼差しを向けられている国を統治する、
というのは、尋常ではないプレッシャーがかかっていることは想像に難く無い。

そして、実際問題として、ブータンはいま、大きな岐路に立っている。

自分の研究が、そういった現状をつまびらかにする一助となるよう、
これから鋭意、修士論文の執筆に励みたい所存。
もう提出まで2ヶ月を切ったのにまだ励んでないのかよ、というお叱り歓迎。

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なお、誠に僭越ながら、本日(17日)開催された、
国王、王妃の訪日歓迎レセプションパーティーの末席に名を連ねることができた。

中田英寿氏や加藤登紀子さんなど、何らかのカタチでブータンに縁のある方々、
総勢400名強が列席した華やかな会では、冒頭、国王から、

「私は(参加されている)日本のみなさん一人一人をハグしたい気持ちだが、
それは難しいので、代わりに私の妻をハグします」

という、なんともハートウォーミングなサプライズ演出が飛び出した。
さらに、国王、王妃両陛下と全員が握手をする光栄にも浴することができた。

自分とさほど歳も違わない国王の、サービス精神に溢れた見事な国王っぷりに、
「こりゃあ、ブータンの人たちが国王が好きになるのも頷けるわ」
などと、すっかりブータンびいきに拍車がかかってしまったと同時に、
ますます、これは下手な論文を書くわけにはいかないと、
気を引き締め直すには、最高のイベントになったことは間違いない。

残念ながら、会場での写真撮影は御法度だったので、こんな写真でご勘弁を。

12:00 | fujiwara | 55.ブータン国王訪日 はコメントを受け付けていません
2011/11/05

前回記事
http://www.junkstage.com/fujiwara/?p=270

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12時。
10kmチェックポイントに到達する。

これ以降は、完全に居住が禁止されている地区になる。
厳密には30km圏内も禁止だが、そこには、暗黙の了解が横たわっている。

やがて、バスの前方に、原子力発電所の建物群が姿を見せる。
その一角には、爆発した4号炉が鎮座している。

まだバスの中にいるにも関わらず、
あちこちで、けたたましくガイガーカウンターが鳴り響く。

怖さは無い。

どんなに眼を凝らしても、燃えさかる火柱も無い。
どんなに肌を晒しても、斬りつけるような痛みも無い。

頭ではわかる。
これは危険を知らせる音だ。

ただ、上手く脳の回路が繋がらない。
「ピーピー」という単調な機械音だけが発する危険の兆候を、
どうしても、『生命の危機』に変換できない。

一度唸りをあげはじめたガイガーカウンターは、
まるで壊れたおもちゃのように、いつまでもいつまでも鳴り止まない。
むしろ、小煩いその音に、恐怖ではなく、不快感すら覚えてしまう。

そして、怖いと思えないことが、堪らなく怖くなる。

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「おい、ジャパニーズ。胸のトコになんかついてるぜ?」

バスを降りて辺りを少し歩いていると、ツアー客の男が歩み寄ってきた。

ふと見ると、いったいどこでどう出現したのか、
一匹のカマキリがしがみついている。

手で振り払おうとして、一瞬、躊躇する。
こいつも、やはり、直接手で触れない方がいいのだろうか。

咄嗟に、上着を脱いで、振り落とす。

地面に落ちたヤツを、じっくりと観察してみる。
特段、変わりない、普通のカマキリだ。

辺りを見渡すと、それはそれは静かな川辺だ。
時折、鳥のさえずりが聞こえる。

その静寂の中を、割と頻繁に、人や車が行き交う音が響く。
彼らは誰一人、防護服など着用していない。

ガイガーカウンターの鳴動と、目の前の光景とが、
なかなかリンクしてくれない。

目に見えない敵と、25年間、闘い続けるということの意味。
その歳月は、恐怖を、日常へと変えた、というのだろうか。

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「フクシマケースは、いまどうなっているの?」

また違うツアー客の女性から、唐突に声をかけられる。
4号炉を覆う、通称『石棺』に近付いたときのことだ。

事故から半年という突貫工事で完成した、この建造物は、
25年の時を経て、その耐用年数を迎えつつあり、
さらにそれを覆う『鉄棺』の準備が、急ピッチで進んでいた。

既に、事故から半年が過ぎた福島第一原子力発電所においては、
未だ、原子炉の安定制御のための努力が続けられており、
それを乱暴に覆い隠してしまおう、という措置は取られていない。

という書き方は、少し肩入れし過ぎだろうか。
チェルノブイリケースに比べれば、あまりに楽観的な対応、とも言える。

もちろん、『レベル7』という段階が同じというだけで、
それ以外の、ありとあらゆる状況が、チェルノブイリと福島では異なる。

政治、経済、科学技術、社会インフラ、事故の原因、etc…

「じゃあ、同じなのはなんだろう…?」

そんなことを自問してみる。

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「これから昼食を摂りましょう」

ガイドのその言葉に、ふと我に返る。
と同時に、「どこで?」という疑問が湧く。
当然、ゾーン内の屋外では、モノを食べるのは御法度だ。

そんな疑念をよそに、バスは、発電所地区から目と鼻の先にある、
2階建ての建物の前で止まる。

まさかとは思ったが、どうやらこれが、ゾーン内の食堂らしい。
入口に線量計があり、全員、異常が無いか調べられる。

中は、さながら給食センターのよう。
食料品は、厳重に線量がチェックされており、内部被曝の心配は無い、
とガイドは言うが、盲信するわけにもいかず、
かといって、食べない、という選択肢も正直無い。

これを食べない、という判断をするくらいなら、
たぶん自分は、わざわざここまで来てはいない。
ガイドを、というより、自分を信じて、一口、食べる。
もちろん、味では全く判断できない。
それでも、確かめるように、一口一口、丁寧に口に運ぶ。

他のツアー客も皆、当たり前のようにむしゃむしゃ食べる。
ここまで来ておいて、ガタガタ言うヤツは一人もいない。

食後。
ガイドが、「パン屑を持ってプリピャチ川へ行きましょう」
と声をかけてきた。

何のことだかわからずに、言われるままに後をついて行く。

川にかかる鉄橋の上から、まず、ガイドがお手本のように、
川面に向かってパン屑を放る。
あっという間に、デカい魚が大量に集まってきて、それを貪り食う。

「ここでは、誰も魚を捕らないので、増え放題なんです」

中には、体長1m50cmはあろうかという、大ナマズの姿も見える。
話によると、その倍はあろうかという巨大なヤツも居るという。

遺伝子レベルでの突然変異の結果なのか、
あるいは、ヒトという外敵が不在であることの影響なのか、
その真偽のほどは定かではない。

(続く)

12:00 | fujiwara | 54.チェルノブイリ・レポート(2) はコメントを受け付けていません
2011/11/01

これから書こうとしているのは、
「チェルノブイリのいま」を切り取ったレポート。

事故から25年。
いまだに、現在進行形で事故処理が進むかの地を、たった1日踏んだだけで、
わかったように何かを語るつもりはないけれど。

ただ。
放射線に対しても、災害支援に対しても、ズブの素人が、いまできること。
それはたぶん、考えることを止めないこと。

このレポートが、誰かの考える種になってくれれば、と願って止まない。

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2011年9月某日。
ウクライナの首都キエフ。
その中心地である独立広場から、そのツアーはスタートした。

日帰りチェルノブイリツアー。
料金、US$160。
高いのか、安いのか。

わざわざカネを払って危険に身を晒そうというのだから、
参加するのは相当な物好きだけだろう…と思っていたのだが、
ところがどっこい。

居るわ居るわ、その数、およそ30人。

地元客も混じっていたのか、直接確認したわけではないのでわからないが、
自分を除く全員がヨーロッパ系の白人。
ロシア語、フランス語、ドイツ語などなど、バス内はさながら国際会議場。

年齢層は自分と同世代かもっと若いくらいの層が多い。
もしかしたら、アフター・チェルノブイリ世代も居たかもしれない。

4人グループで参加している若者。
デカい望遠カメラを抱えたカップル。
奥さんに見送られ、一人バスに乗り込む壮年の男性。

皆、軽い気持ちでこのツアーに来ているわけではないのだろうが、
存外、和気あいあいとした雰囲気に包まれている。
そんな中、どことなく所在無さを感じながら、一番後方の座席に陣取る。

キエフを発ったバスは、真っ直ぐ北へ。
景色は一様に続く、森と草原。

北へ近付くほどに、走る車の数は目に見えて少なくなっていく。

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出発から2時間。
ついに、30kmチェックポイントに到着。
全員のパスポートチェックが行われ、いよいよゾーン内に入る。

ほどなくして、政府関係者が滞在、勤務する地区へ。
ところどころ、打ち捨てられ廃墟になった家も見られる。

本来、居住は禁止されているのだが、
一般の住民も180人ほど居るらしい。
一度は避難したものの、住み慣れた土地で最期を迎えたい、
と、この地に戻ってきたお年寄りも多いという。

まずは、会議室のような場所に通され、
担当の若い女性ガイドから30分ほどの簡単なレクチャーを受ける。

…もちろん英語で。
原発関連の専門用語の英訳を予習しておいて良かった。

その後、「後で放射線障害とか出ても文句は言いません」
という主旨の書類に全員がサインをする。
当然、ここまで来ておいて駄々をこねるような輩は居ない。

遂に、チェルノブイリ域内のツアーがはじまる。

一見、何の変哲も無い街の中を走る。
ふと、街の至るところに、
パイプラインのようなものが張り巡らされていることに気付く。

「地中は放射線量が高いので、水道管は地表にあるんです」
涼しい顔をして、ガイドは答える。

少し、背筋が寒くなるのを感じながら、バスは前進を続ける。

(続く)

12:00 | fujiwara | 53.チェルノブイリ・レポート(1) はコメントを受け付けていません
2011/10/16

さて、前回の記事から、あっという間に1ヵ月。
サボりまくっててすみません…。

謝罪(言い訳とも言う)を並べ立てることはいくらでもできるけれど、
そんなもの書いてみたところで、全く読者が嬉しくないコラムなので、
前置きはこれくらいでご勘弁いただくことにしよう。

3週間弱に渡る旅先から帰ってきたばかりということもあって、
できれば旅のレポートを書いていきたいところなのだが、
いかんせん、8月のブータン調査旅行の話もまだ書いてないし、
今度もまた、割と考えさせられる旅だったので、まだイマイチ消化不良。

というわけで、今回は繋ぎの小ネタを少々。
みなさんにはあまり馴染みがないかもしれない、
「国際学生証」の話をしてみることに。

まず、「国際学生証」とはなにか?
別名ISIC(International Student Identify Card)カードとも呼ばれ、
ユネスコ承認の世界共通の学生用身分証明書、らしい。
Cardとカードがダブってるじゃねーか、という話はこの際置いておいて、
割と世界中で通用する、それなりに権威のあるカードのようだ。

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このカード、大学生協などで割と簡単に作れるので、
いままでも一応、持ってはいたのだが、
いかんせん、あまりそのメリットを享受したことはなかった。

というのも、
アジアの場合、このカードを提示したところで、
「なにそれ、おいしいの?」くらいの冷ややかな反応をされることが多々。
そんなのが積もってくると、だんだん、出すことすら躊躇いがちになり、
しまいには、海外に出る際に「コレ、ホントに持っていく必要あるのか?」
と、小一時間ほど悩んでしまう、という残念な結果が待っている。

今回、旅支度をしているときにも、正直、
「別にかさばらないし、とりあえず」くらいの軽い気持ちで荷物に忍ばせた。

ところがどっこい、
ヨーロッパの場合、効果てきめん。
至るところで入場料割引、場合によっては列車やバスの運賃すら割引になる、
素晴らしい魔法のカードに早変わりしたのだった。

例えば…

ロシアのクレムリン宮殿入場料
一般:350ルーブル(≒¥1200)→学生:100ルーブル(≒¥350)と1/3以下。

ラトヴィアのトゥライダ歴史保護区入場料
一般:3ラッツ(≒¥450)→学生:1ラッツ(≒¥150)と1/3。

などなど。
大概の博物館や美術館で、半額以下になるというお得感。
いままで邪険に扱ってきた彼をちょっと見直した。

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もうひとつの効能、というか本来はこっちが主のはずなのだが、
旅先での身分証明書としても勿論使える。

旅行中、何かあった時のために、身分証明書を持ち歩くことは必須。
ただ、普通はパスポートくらいしか国際的に通用する身分証明書がないので、
結果、パスポートを肌身離さず持ち歩くことにならざるを得ない。
しかしながら、その行為は、スリなどに遭って紛失するリスクと隣り合わせ。
なんとか持ち歩かずに済む方法はないだろうか、と考えたことがある、
という方もいるのではないだろうか。

そんな旅のマストアイテム、パスポート代わりの身分証明書として、
この国際学生証はそれなりの威力を発揮する。
何もないことに越したことはないのだが、何かあったときのお供に、
財布に忍ばせておくだけでも、安心感がちょっと違う。

とはいえ、国によっては、全く通用しないことだってあるし、
万能ではないことを理解した上で、リスクとの天秤にかける必要がある。

なにより、安宿を転々とするような学生の場合は、
そもそも、パスポートを宿に置いていくほうが、万倍危険…
そして、まともな宿に泊まれるようになった頃には、
もうすでに学生ではない、と。

世の中ってヤツは、なかなかどうして上手くいかないようにできている。

とまあ、「国際学生証」について、つらつらと書き連ねてみたものの、
最後の最後まで来て、はたと気づく。

よく考えたら、このコラムの読者に、「学生」なんているのだろうか、と。

12:00 | fujiwara | 52.国際学生証の効能 はコメントを受け付けていません

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