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誰かが、福島原発近隣の街を『死の街』と呼んだ。
それが、失言だったのか、あるいは真実だったのか。
それを問うつもりは全く無い。
しかし。
そんな議論が踊る日本の姿に、やりきれない忸怩たる思いを抱えながら、
チェルノブイリ原発からわずか4km、原発の街、プリピャチの街を訪ねる。
1986年、原発事故の発生時には人口5万人を数えたこの街に、
現在、住むヒトは誰もいない。
事故から36時間後、原発周辺30km以内の全ての住民の避難が指示され、
およそ10日間以内に、すみやかに街は「放棄」された。
それから25年。
深い樹々に覆われた、プリピャチの街に足を踏み入れる。
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まず向かったのは、街の中心にあったホテル。
切な過ぎる壁画が、いきなり涙を誘う。
建物内部は耐久性が著しく低下しており、いつ倒壊してもおかしくない状態。
驚くことに、樹木が、コンクリートを浸食し、建物の中にまで根を張っている。
あるいは、鳥がくわえてきた木の実が落ちて、それが芽を出したのだろうか。
ホテルの屋上からは、360°、街の全景が見渡せる。
かつては、ここから、人々の賑わいを眺めたのだろうか。
いま、目の前に広がるのは、静かに森に呑み込まれようとしている街の姿。
もう、どこへも行くことがない、街の終わりの風景。
ただ、それだけだった。
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誤解を恐れずに言うならば、『死の街』を訪れる覚悟をしていた。
ツアーガイドも、臆すること無く、かの地を “Ghost Town” と呼んだ。
ただ、その認識は、全く誤っていた、と今は思う。
『死の街』であるならば、そこに充満しているはずの、『死』の匂い。
その匂いが一切しない。
それが、かの地を歩いて感じた印象だ。
まるで、発掘された中世の遺跡を見ているかのような、そんな感覚。
25年という短期間で、あっという間に『遺跡』と化してしまった街、
とでも言うべきだろうか。
実際、25年放置されて『廃墟』になった場所は、日本国内にも腐るほどある。
そういう場所は、得てして幽霊話の舞台になっていたりする。
しかし、眼前の『遺跡』を、それらと同じ眼差しでは見ることができない。
プリピャチの街から感じるのは、街の残骸としての『廃墟』ではない。
強いて言うなら、マチュピチュ遺跡の前に立った時と同じ感覚。
そこには、
『廃墟』を徘徊する死者、ではなく、
『遺跡』にかつて生きた生者の面影を、たしかに見たように思う。
そもそも、件の事故によって、このプリピャチ市内で死者は出ていない。
避難先で、急性放射線中毒、あるいは、放射線に起因する甲状腺異常等によって、
プリピャチ市民にも犠牲者が出ているのは間違いない。
が、確かに、あの街の中では、人々がバタバタと倒れていったわけではない。
『死』の匂いがしないのは、そういうことだろうか。
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プリピャチの街には、そして、確かに、ヒトの営みを感じさせる、
生活痕、とも呼ぶべきものが数多くあった。
ヒトの営みの強さと脆さが同居した光景に、言葉を奪われる。
涙も出ない。
そして、気付く。
街は死なない。
ただ、歳月とともに、土に還るだけなのだ、と。