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プリピャチは、かつて、地図に無い街だった。
軍事機密を抱えた秘密都市。
原子力、すなわち核は、冷戦下のソ連にとっては、
この上ない軍事機密であったことは間違いない。
ただ、プリピャチの街を歩き、
かつてそこに在ったであろう姿を想像してみても、
そういった後ろ暗さはほとんど感じられない。
むしろ、当時の最先端技術を支える街としての誇りすら伺える。
文化会館の2階ロビー、そして体育館は、全面ガラス張り。
大きな窓からは、穏やかな陽光が一杯に降り注いでいたことだろう。
しかし、それ故に、砕け散った無数のガラス片が、
より一層の物悲しさを増幅させる。
遊園地の話ひとつを取ってみても、涙無しには語れない。
1986年のメーデー、つまり5月1日に開園が予定されていた、
その、わずか5日前に、事故は起こった。
笑顔が溢れるはずだったその場所で、
誰にも乗られることなく、朽ちていった遊具。
果てしない絶望感。
市民プールにも、小学校にも、
その一つ一つに、たしかに、人間ドラマがあったはずだ。
プリピャチは、1986年4月26日、
忽然と地図上に姿を現し、そしてまた、地図上から失われたのだ。
すくなくとも、人々が行き交う「街」としては。
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あの事故がもたらしたものは、絶望だけではなかった、
という声も、無いわけではない。
その一つが、ヒトが住まなくなったことで、
絶滅を危惧されている動物たちの楽園になった、というもの。
当然、放射線による弊害は、ヒトではない他の動物たちにも及んでいるはずだが、
それでも逞しく、かの地をねぐらにする生き物たちは、
たしかに年々、数も、種類も増えているという。
ヒトがいなくなることで、
ヒト以外への希望がそこに生まれた。
なんて、短絡的にはとても考えられないことは、現地を訪れてすぐにわかった。
少なくともそこは、野生動物の楽園、にはとても見えなかった。
残念ながら、短時間のツアーだったため、
生き物を目にする機会そのものが少なかったのは否めないが、それでも、
仮にそこに、多くの動物たちが息づいていれば、少なからずそれを感じるはずだ。
例えば、熱帯雨林の中では、直に目にせずとも、
動物の気配を、その痕跡を、どこかに見つけるものだ。
ヒトによって、住む場所を失った動物たちが、
高放射線量の過酷な環境に追いやられ、それでもなお生きている。
それを希望だ、などと言うのは、ヒトの傲慢以外の何物でもない。
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チェルノブイリは、大きな事故ではあったが、時代は変わらなかった。
その後も、原子力発電所は次々と建設され、
多くの国で、発展を担う電力供給源としての役割を期待された。
そこへ起きた、もうひとつのレベル7。
にわかに高まった、自然エネルギーへの転換を叫ぶ声。
もう一度言うが、自分は、原子力推進派でも反対派でもない。
より正確に言えば、原子力が無い暮らしを求めていく必要性を強く感じているが、
だからといって、掌を返して「反対」というのは道理に反する、と考えている。
今まで散々、その恩恵にあずかってきたのだから、
「今まで有難う、お疲れ様」と見送るのが筋だろう。
東電を責める話と、原子力そのものを否定する話は、根本的に違う。
そして、いまの日本では、そこを一緒くたにした議論が多過ぎる。
政府との癒着が嫌なのか、偽物の安全神話が嫌なのか。
じゃあ、安全なら原子力を使ってもいいのか。
個人的には、東電のことは、正直どうでもいい。
どう転んでも、電力供給は国家事業には変わりないので、
民間がやろうが、国営に戻そうが、たぶん、あまり変わらないだろう。
では、原子力はもう使うべきではないのかどうか。
反対派は、簡単に「自然エネルギーへの転換」と言うが、
これは電力需要だとか経済的にどうだとか、そういう問題ではない。
自ら生み出したテクノロジーを飼い馴らすことすらできなかった人類は、
再び、自然という強大な力に頭を垂れる、という意味に他ならない。
太陽光だろうが、風力だろうが、その意味での違いは無い。
太陽が射さなければ、風が吹かなければ、ヒトの営みは成り立たない。
それは正に、かつて我々が歩んで来た道に重なる。
極論かもしれないが、
詰まるところは、それを受け入れる覚悟はあるのか、ということだ。
そこまで議論を尽くして、エネルギーの未来を考えなければいけない。
「技術的には、今後、現在の電力需要をまかなうことは十分可能だ」
なんて言っているうちは、いつまで経っても、
おそらく、人類は再び同じ過ちを繰り返すだろう。
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遥か未来を想像してみる。
人類の終焉が訪れたときの、「終わりの風景」を。
そこにあるのは、果てしない荒野か。
それとも、ヒトではない新たな種の繁栄か。
そんな大それたことを考えながら、このレポートの締めくくりとしたい。