ほぼ毎日のように電車が止まる、いや、
誰かが電車を止める、大概、
幸せを感じられなかった虚ろな人たち。
今日も止められた。
こんなことしてるの日本だけ。
覚醒に次ぐ覚醒の食卓、
震災奥地ではテレビでは伝えられない伝染病等が始まっている。
大地震がまた来るまた来る、と、マスコミ雑誌はそればかり、
不安を煽り経済・民衆を揺らす。
あの地震は人工地震だったと「見えない国会」で言ってるけど、
それ、民間には届かないんだな~。
今、食べておかなくてはならない食物についての提案さえない、
いずれ中川官房長官のように、酒に「何か」を盛られて・・・・・、
石原都知事も先だっての会見で呂律が回ってなかった・・・・・、
可哀想だ、本物が死んでいく。
俗世間で生きるのが無難なのか、自らの真理を探究するのがよしか、
規則正しい生活しているようで、
実はそれが一番覚醒した生き方なのかもしれない。
アミノ酸も摂りすぎたら頭おかしくなるよ。
ドッサリ白い粉を入れてるラーメン屋さんとか、
「m」のポテトとか、
・・・麻痺するよ。
豊富な材料に恵まれた国というのに、
気付けない悲しき仕業。
長生きしたいなら、気を付けな。
本物ほど味方を失う時代。
しかし、生きることを諦めるのは止めようね。
そろそろと春の訪れを期待する頃。
寒暑の差が激しい今季の日本、
誰にも予測できない明日、
希望と不安に満ちながらも今を生き抜いている。
さて、酒の出生は神の気まぐれかと、
その発酵具合によって、
様々な味わいを醸し出し世に出荷される。
全てが手作業、丹精込めてというが、対してお米、葡萄と向き合い、
裸の自分を映しながら、素敵に仕上がれと祈りを込める。
ひとえにこれらを僕は「嗜好品」と称すが、
過去にレストランにて飲料全般を任されていた際、
メニューと仕入れを行うのだが、
日本で一番の御酒ばかりを集めてコレクトしたことがあった。
客単価が2万円以上の店ゆえに、それ位の品は必要であった。
ただ、高いから美味しいというものでもなく、極めて安価な品が売れるときもある。
その人がその時飲みたい品を出してあげるのが良いサービス、
高い酒ばかり飲んでもらって売れたからって喜ぶのも何か違う。
元々、富裕者は普段から高い酒は飲んでるわけで、
何よりもその場の時間に合わせた「味」を求める、
だから安価な酒であろうと「いいものはいい」のである。
泡盛や焼酎、日本酒、高価な味ほど澄まされ透き通っていく感、
・・・その感触とやら、不思議なものである。
純粋に貫いてる場所ほど、生き長らえてる。
余計な雑念を入れない、自分が想う、自分の味を出し切った域。
もうすぐヴァレンタイン、
それぞれに愛の伝達法は考えてるんだろうね。
時に、一輪の薔薇とWINEや酒を持って、
愛しいその人に会いに行くのもいいかもよ。
って、少しほろ酔い気分で書いてみた。
たまには、ね。
今年から茶道教室に通い始めた。
木漏れ日が射し込み、ほんのりと照らされたイグサが薫る。
僕と年頃同じくらいの方々と時間を楽しむ、
楽しむ中に様々な想い、その時の刹那さ、その時の儚さ、
静寂(しじま)に身体を委ね、その瞬間を嗜む。
この年になってもまだまだ解らない現実、
間違えて記憶している現実がある。
抹茶にしてもそう、一概に「苦い」という表現を使うが、
本来、「茶」は「あまい」ものであり、それが「うまみ」と成る。
人はまず頭で考えてしまう、誰かに聞いたその情報がいつの間にか、
その人の中で記憶され、記録される。
我欲は自分に都合のいい事ばかりを吸収していく、
この我欲を捨て去る為にも、自分自身と向き合う時間は大切である。
食品商品研究の場によく伺う。
消費者が今、何を求めているかを的確に研究し味に落とし込む。
しかし広告として伝える際に、その味についての説明が不十分と感じる。
コマーシャルにおいてはタレントという商品と製品を組み合わせる。
そんなこんないいながら、もう生まれる前からそうした戦術に動かされ
商品購買をしている。確かに多様性かつユニークさも大事だと思うけど、
本当はこうなんだよという真実を知らずして、当たり前のように中毒になる。
食べ物は身体と同化して吸収される、
犬は食べ物と同化しないと感じると吐き出す、
パンダは笹の葉以外を吸収すると病気になる、
人間だけが考えて食事をすることができる。
奇型の野菜が近頃よく発見される、
それを新種と学者は云うが、
物言わぬ素材、語ることのない素材、
素材の声が聞こえる人たち、こよなく農業を愛する人、
古来日本が育んできた食材の調理法を知る御爺ちゃんや御婆ちゃん、
またその先祖代々へ、誰がこの現況を予測したであろうか。
外食産業が新たに活性化し始めている。
リストラされたサラリーマンが一念発起したからって、
焼き鳥屋を始めて成功すると思いこんでいる、
どこかのコンサルティングだかの言葉を鵜呑みにし、
結果、ほとんどが失敗する。
何でも簡単に準備できるからって、
あまくないんだよね、飲食の仕事って。
まだまだ日本において知られていない野菜は数多く存在する。
地方においては当たり前の野菜が都内では新鮮に響いてくる。
時に珍しい野菜が生成したり、時に研究の末、新たな品種が生まれたり、
活きた素材と人間が出会うタイミングというのもあるかと思う。
軟膏の代わりにアロエを使ってみたり、
アボガドの種のように毒を持つものがあったり、
それぞれに繰り返し生成する中でも変わることのない個性がある。
昔、何かの例えにあったが、
2つのミカンに声をかけ、一つには愛を、一つには憎しみを、
言葉で伝えると、愛されてるミカンは活き活きとし、逆に、
憎しまれているミカンは弱く乾いた身体となっていくというのがあった。
言霊に込められた波動というんでしょうが、
確かに間違いではないと思う。
愛情と手間をかけて、ほんの小さな種から実を生すまで、
人間は見届ける。人間の命だけが尊いのではなく、
木陰に生えたキノコひとつまで全てに命は宿っている。
世田谷の真ん中、騒々とした街に住んでいるが、少し離れると、
個人宅の田畑が広がっていたりする。朝露に濡れたその田畑を映す
土の色、緑の色、そして空の色、人間は視覚からも栄養を摂り入れる。
神経が欲しがる栄養は人それぞれに違う、
それぞれに神経があり、発達の度合いも違う、
それぞれに今必要な栄養がある、それが野菜なのか肉なのか、
よく考えてみる時間も必要だと思う。
何気なし摂取しているものが、寿命を縮めているということもある。
しおらしい、と読む。
したたか、可憐で上品等、
女性に向けた言葉で扱われることが多そうだが、
何だか、野菜に対しての印象がどうにも強い。
言うなれば男性は米で女性は野菜・果実という感じか。
近頃は経営よりも経済に目を向けよとよく言われる。
自分たちだけではどうにもならない事象は幾つか経験から覚えた。
畑に種を蒔き、雨を含んで芽を育み、太陽を浴びて実を生す、
当たり前の「道理」、しかしこの当たり前の道理がわからないという
人もいる。幸せですかと尋ねたら素直に幸せですと言い切れる人って、
どれだけいることか。
一食にどれだけの人が係り今ここに至るということに感謝もなく、
仕事の接待や外食先で貪るようにし、無駄に余らせたり、
お金を払っているとはいえ、生産者への感謝は一切考えていないかのよう。
目の前の事に真剣になるのは大切ではあるけど、
食べることは生きていくうえで一番大事な行為、
その根源にある天地自然の理を生産する方々への想い、
忘れないでほしい。
マスコミの操作経由で今大切な情報が聞こえてこない。
農家の声。
米国の中の日本。
インターナショナルになるならば誰よりもナショナルでなければならない、
とある方が言っていた。その通りだと僕は思う。
誰でも簡単に海外に行ける時代、生まれた国の事もよく知らずに、
他国で云々言う生き方、
段々と日本の美しい古語が死語となっていくことに切なく想う。
がんばってる人を応援している、
その気持ちが波動となって同志を引き寄せる。
不撓不屈という言葉がある。
漢詩に出てきたものだが、近頃、
非常に興味深く僕に沁み渡った。
思えばJUNKSTAGEにおけるこの
むき出しの裸身体(らしんたい)から湧き出る言葉、
不器用にゴロゴロと語路を踏みながら、半ば羅針盤のようにし、
生き方を歩んでいる。転んで起きての繰り返し。
誰だってブレる、一度は必ず考えはブレる。
ま、逆に考えがなければブレまくる。
ブレない生き方、筋に沿って邪念無く直線行けたなら、
マフィアのボスにもなれる。カリスマと化すであろう。
でも、同じくして日々、煩悩も加速しながら追い付いてくる。
溜まっていくのも、時にたまったもんじゃない。しゃあないが人間だもの。
便利ではあるが、何か心儚いアイテムが次々に開発される。
欧米では、10キロ痩せる化粧水が開発された。
もう、この時代「ダイエット」という言葉は死語にしてもいいかと思う。
大胆に極端な物言いが減ってきた、
草食系男子っていう類の性質のひとつでもありましょうか、
何事もそうだと思うが、
出典を間違えて認識すると、可笑しなザマになる。
音楽に例えましょう。
少し時代より早く表に出てしまったが為に、よくわからんという事で
忘れられた本物の人たち、ヴィジュアル系でいうなら、あのバンドブーム時代の
SOFTBALLETというテクノポップ、現存しているところではBUCK-TICKですな、
もう完全に独自の世界を伝えてくれてます。
それはもう誰にも到達できない、自分だけにしかわからない山の頂に辿りついた人の
奏でる音、音楽、アルバムというより経典とでもいうんでしょうかね。
今、これがいいな~と思うより、少し考えてみる「余裕」は大事。
自論で取ってもらえればいいので、
今のこの類のプロバンド達は、
確実に出典者を認知したうえで自分たちの表現から音楽をしている。
出典ツールに沿って現存している、逆にそれをわかってない浅はかなロマンティストは、言葉、音、その前に「空気」で見抜かれる。本物になりたいならば覚悟が必要で、やはりこの類のストイックな世界を知るならば、三島由紀夫であったり太宰治であったり、まともな社会の視点より「斜界に生きた人」を教材として見ていくべきで、そこに拒絶やつまらないエゴで否定するくらいの他人ならどうでもいいが、本当に生りたいならばそこは外せないと思う。
さて、
湯島では、正月、蓼科からバターナッツカボチャの生産者、市川さんが来てくれて、参拝者に温かいスープをサービスしてくれている。摩り下ろして温めるだけで上品な風味が立ち、飲めば五臓六腑に沁み渡る。市川さんは表情からして気持ちのよい方、心持ちも温かく一緒にいるだけで人を癒してくれる方です。
いろんな方に会い、人を知っていく中で、自分も何者かと知らされてきます。
日々生成されていくこの身をもって、その時その時、
必要なタイミングで会いたかった人に出逢い、創造を具現化している。
早いとか遅いとか関係ない、ちょうどいい時期に「運ばれてくる」。
不撓不屈に生きていこうと今年は覚悟するところである。
つくづくくだらないなと思った。
民報テレビの料理番組。
先だって久しぶりに帰省し名古屋へ帰った。
ま、正月くらいはダラダラしようと、テレビを観た。
モノを粗末に扱う番組はさすがに減ったような気がするが、
全く持って誤解を招くローカルフードの食し方なり、
何を根拠にそんなこと伝えるのかと、切なくもなった。
テレビ局、出版業界もそうだが編集長の若返り化が進んでいる。
熟年のしっかりと修行を積んだ人生の先輩方が、
若い編集長に「しっくりこないな~」と軽くあしらわれたりもする。
代わりになんだこれはというような企画本が出されたりして、
大手もどうしたことか。
名古屋限定で元中日ドラゴンズ、落合監督及び10名の主要メンバーの
インタビュー番組があった。感慨深い言葉が多々聞こえた。
落合監督の野球とは?・・・
「普通の野球」
「ごく当たり前の野球」
口をそろえて皆ほとんどがこのように答えた。
確かにそうだと思う。
純粋にそれがしたくて大人になりプロとなったが、
いつしか歯車の中で自分を緩ませ、与えられた事しかできなくなる、
本来考えて表明したはずの意識とはまるで違う生き方をしていたり、
・・・・・感性が鈍くなる。
緊張感を一生継続できるほど人間も強くは無い。
何かしら裏付けがあるならともかく、どこかで時には
矛先を違えたりもする。
自分もそう、間違いだらけの生き方を歩んできたし、
間違いの中で学んできた。
新年付けの各新聞の社説を読んだ。
各社によって農業政策についての見解は違う。
どれが正しいというものでもなく、
民意をいかに汲み取って反映してくれるかを期待してるが、
動かぬ限りは何も変わらない。
第一次産業がここまで衰退しながらも、
第三次産業の飲食店がやたら増え続ける、
自分の店を持つということに、憧れを持つ、
自分も昔はそれが夢の形だと思っていた。
ただそれは右へならえの他人の夢、
こうだからこういう結末と決めつけていただけ。
一人の仲間がアメリカ
ロサンゼルスへ飛ぶ。
東大出から板前となり、ふぐ免許、ソムリエ、
一発で合格し、農業に興味があるといい、
アメリカへ行く。内心、日本で自分たちの活動を
手伝ってほしいなと思いながらも、
彼には彼なりの農業観がある。
未来がないわけじゃない、
充分に日本の農業はこれからがんばっていける。
出来うる限り地域地域へ足を伸ばし、
これからの農業人たちとの関係を密接にしていく。
東京という誤解だらけの街は、
単なる寝床としてだけ見ていようか。
まずは動こう。
今年は潜在意識や心についての文献が多々出版された、
食に関しても某会社の社員食堂メニューや、
極々家庭料理チックな内容が受けていた気がする。
平和という習慣が完全に崩れた惨事、
方向性を見失う政治、さらには抗う政治、
来年もまだ、情緒は不安定なんだろう。
ただ、そういう不安定を口走る社会がある、
そこに人がいて、言葉に出る、・・・・・
どうして、そんな事思ってもいないはずなのに、
本来、人は素直で優しいものであるはずなのに、
間違った方向に煽るのか。
Facebookを近頃はよく使用する、
大体見ていて感じるのは、
料理の写真とペットの写真が多いこと。
人が何を伝えたくて何を言いたいのか、
その写真を見ていて感じる事もよくある。
思うに「絆」というより「共生」、
共に生きるということ、
一人では人間生きていけないということを知らされたはず。
色々と溜まった消化不良をいかにして、
解消し、消化するか、そして新たな吸収を必要とする中、
一体何が今求められてるのか、
キーワードは、出ている。
例えば人間には宿命があれば運命もある、
涙を誘う近年の映画に動物(ペット)との生活を描いたものが
いくつかあった。共通することだが、最後、
ペットは飼い主(人間)に優しく死を迎えることを覚えさせる。
たくさんの愛情を日々与える中で、ありがとうって犬も伝えたいけれど、
言葉にできない、頂いたたくさんの愛情は感謝の行為として、
一番の困難な時に飼い主の心を救う、時には・・・命を救うこともある。
自然に生成する果実、大地、野菜、空気、人間、動物・・・
共存共栄それぞれに命があり役割がある、そして役割を全うすることが、
最大の幕引きであり「華」である。
この、自然に還る傾向、気付いている人たちは今、動き出している。
この一年で都会の病も峠に差し掛かった頃、原点に戻ろうという意識、
意識して生活をすることに、風向きが変わりだしたということを。
それは、いかなる日も必ず意識して、果実や生野菜を食しているということ、
ストイックに貪るのではなく、心がけて素材本来の味を頂くということ。
すなわちそこには「酵素」がよく働くということ、加熱すると失われる栄養素、
非加熱だから生成していられる栄養素、ここに何か意味を感じる。
国境なき料理団では、先だっても被災地へ行き、
何も無いところから何かを創り出すことを始めた。
それは地元の特産物をひとつの料理として仕上げること。
例えば海のものと山のものが絶妙に合わさることがある、
和食でいう筍には若布みたいに、考えて組み合わされたものと、
ふとした間違いが思わぬ意外性を生み料理として仕上がることがある。
岩手県大槌町に伺った際、ピーマンと切り昆布が特産品でして、
さて何ができるやら・・・と、「ピーマン饅頭」が完成した。
大いに喜ばれ、落ち着いたら商品化も検討されている。
そこで生まれた素材をその時適した調理法で美味しく仕上げる。
ピーマンという形にこだわらない、切り昆布だから違うとか理屈ではない、
仕上がったその「一体何を素材に調理されたかわからない料理」であろうと、
プロの作り手の愛情、
何よりも取り囲む魚海岸や農作地の奥さんも一心に気持ちが込められていれば、
尚更美味しい。
海からの風が吹く漁港にテントを張り、
黙々と湯気を立ちあげながら、地元の方たちと新しい生成を「楽しむ」。
「楽しむ」こと、そして「料理の神髄」を感じること。
「料理とはこの世で最高の愛の行為である」と、
いつか、わが師から伝えられた。
様々な方法がある、今、その町その地域で必要とされる栄養は確実に違う。
栄え養われる為に食材に敬意を払い頂かせてもらう。
今は独りで戦う狼の時代ではない、
孤に生きる時代ではなく個を尊重しながら共生していく時代、と思う。
今一度、自然の叡智、果実・野菜に感謝したい。
日本でまだ数えるほどしか存在しない
ローフード専門店。
最近、この分野の方とよくお話しをする。
ちなみにローフードとは、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%95%E3%83%BC%E3%83%89
マクロビオティックやヴィーガンは、
野菜に加熱をする。
ローフードは自然のままに、
火を通さずに、
ほぼ生状態で素材を食す。
「酵素」を多分に摂取できるという利点がある。
大人になってから始める新食習慣は大いに
いいことだと思いますが、先日、それを子供に、
まだよくわかんない子供に、摂取させる親を見かけた。
カフェで母が気持ちよく、子に対して、
いわゆる生食を食べさせている光景だが、
家に帰っても野菜だけであったり、
必要な時期に必要な栄養を摂れない、
となると非常に子の身体の為にはならない。
第一、 幼い腸が耐えきれない。
腸内清浄家コンニャクマンとしては痛く思う。
例えば親がヴィーガンであるからといっても、
その親もある程度、
成人してから何がしかのきっかけから、
食生活を切り替えたりしたはずである、
幼児・子供の段階から、特異な食生活をして、
それこそガリガリの子供を紹介されて、
「うちの子、可愛いでしょ」と言われても、
逆に可哀想に感じるのが普通であろう。
世の中にはバランスが存在する、
いろんなバランス、経済をうまく循環させる為、
市場を発展させる為、とりわけ昨今は緊迫した情勢の中、
風評ひとつが大怪我のもとになる。
思えば、とっくに僕らは放射能を浴びている。
直接被ばくはしていないまでも、
間接的に浴びている。
昔、長崎に原爆が落ちた時、
とある小学校の裏庭に隠れて、
被ばくせずに済んだ人たちの話を聞いたことがある。
その堀の中には、蓄えられた味噌があり、
その味噌からなる菌の御蔭で、
被ばくせずに済んだということらしい。
本来あるべく主食とは何でしょうか。
昔の人たち、
昔というのは戦前の暮らしから数えて、
テーブルには、白飯、味噌汁、惣菜、
これだけで十分だった。
家族で一緒に食事する事自体がオカシク思われる昨今。
こんなにポンポンと街中に飲食店が無くてもいい。
「絆」といいながらも、TVから流れるのは都合のいい画だけ。
都会暮らしが良くないのか、
都会暮らしで病んでるのか、
飽食の時代、けれども日本はさらに貧富の差が出てきた。
貧しくても生きがいを感じてる人、
金持ちながらも不快な日々を送る人、
様々である。
何がしか暗黙地に絶対という根拠のないものを、
人間は植えつける。それがやがて、草となり葉となり、
気付いたころには蔦に巻かれ自分で自分の首を絞める。
ローフードという分野が眼を開こうとしている気がする。
大昔、火の使い方さえままならない人がいたとしたら、
あるものをそのまま食す、これが当然だったかもしれない。
緩い事考えてるなと思うかもしれないが、
世の中何気にシンプルにできているわけで、
本質に「王手」掛けるのを遠慮しているだけかもしれない。
本来あるべくありのままの姿勢、行いが、結果として
万人の納得を生む。
人は嫌われる事を嫌がる。ちなみに僕は、
落合監督の采配は支持する。共感を覚える。
何故か、「粗食のすすめ」を書いた幕内秀夫さんなどの、
的を得た事をいう方ほどマスコミは好まない。
群れから離れ孤独に耐えられなくなり、
命を絶つ馬鹿な大人がまだまだ増えている。
自分を成長させる術が解らない大人もいる。
思い詰めた「そういう選択をした人」を想うと、
神様とのゲームでもしてるんかいなと思ってしまう。
食し方にしてもそう、
素材の本来の姿がわからんで調理する人より、
土と戯れて野菜を愛でる人の調理とでは、
明らかに違いがあるということを伝えたい。
とはいえ、食産業もよく考えているわけで、
マクドナルドがハンバーガーをどれだけ安くしても、
ドリンク代で儲かるわけで、子供は楽しいわけで、
化学調味料に麻痺させられた味覚に、
これがいいぞとさらにサプリだなんだと飲んでは、
若い女性は薬漬けになるわけで、
正しいを追い求める程に、
それは「 卍 マンジ 」に縛られる感じで、
ああ「気持ちがいい」と。
野菜も生きている、土も生きている、
その中で人間は活かされている、
そう考えると、少しは生き方も違って見えるもの。
来年から本格的に「国境なき料理団」が始動される中で、
いろいろと考える時期である、ま、それぞれに師走です。
一粒のお米に
どれだけの手間がかかっているのか、
普段・・・・・正直、考えてない。
しかし形の良くない野菜であろうと、
野菜は野菜、
神の恵みであることは解っている。
とあるプレゼンテーションから一部抜粋。
「アグリクリエーション」
Aguri Culure Re – Creation JAPAN と
造語化し、
「新しい農業協働(共同)体の創造」
として、
若い農業従事者への
アプローチイメージが膨らんでいます。
恐らく、現政治状況からして、
「新しい農業」って = 「新しい生き方の提案をする」と同じくらい、
<Aguri Faschio 農業革命>
を含んでいる気がします。
農業が今、
日本の国益から弾かれそうな
海外基準の利益優先の国家運営の中で、
それでも一筋に真摯に畑に向き合い、
迎合することなく、
美味しい品を届けたいという信念を、
曲げることなく生きてきた農業人生の諸先輩方々の意を、
これからは若い叡智自らがその意義を求め、
それぞれに理解し、そして衰退することなく次の農業世代へバトンを渡す。
世界では多くの民衆が血を流して自由や平和を求めて戦い、
まるで人事(ひとごと)のようにテレビのブラウン管からそれが流れている。
ここにインスピレーションを受けた農業革命児は、『国家ファシズムの否定』を念頭に、
日本は農業国であるといことを再認識し、改めて日本の食について考え、実践する。
古い言葉かもしれませんが、「一揆」という言葉がありました。
デモクラシーと解釈してもいいかもしれません。
生き場の無い苛立ちは、何かしらの衝動を起こします。
一部の科学秀才が、狂った遺伝子配合とかに走らないだけ、
人間としての使命を何とか保ってはいるものの、
やはり都心は狂気の沙汰です。
食することを軽んじている、またそれを煽る輩、・・・言い出したらきりがなく、
結論、「あなたという個の人格者」はどういう考えをお持ちか、それに尽きるのかと、
それが明確であればある程、これからを生きていくに必要な叡智が自然と吸収できる、
僕はそう思いました。