不撓不屈という言葉がある。
漢詩に出てきたものだが、近頃、
非常に興味深く僕に沁み渡った。
思えばJUNKSTAGEにおけるこの
むき出しの裸身体(らしんたい)から湧き出る言葉、
不器用にゴロゴロと語路を踏みながら、半ば羅針盤のようにし、
生き方を歩んでいる。転んで起きての繰り返し。
誰だってブレる、一度は必ず考えはブレる。
ま、逆に考えがなければブレまくる。
ブレない生き方、筋に沿って邪念無く直線行けたなら、
マフィアのボスにもなれる。カリスマと化すであろう。
でも、同じくして日々、煩悩も加速しながら追い付いてくる。
溜まっていくのも、時にたまったもんじゃない。しゃあないが人間だもの。
便利ではあるが、何か心儚いアイテムが次々に開発される。
欧米では、10キロ痩せる化粧水が開発された。
もう、この時代「ダイエット」という言葉は死語にしてもいいかと思う。
大胆に極端な物言いが減ってきた、
草食系男子っていう類の性質のひとつでもありましょうか、
何事もそうだと思うが、
出典を間違えて認識すると、可笑しなザマになる。
音楽に例えましょう。
少し時代より早く表に出てしまったが為に、よくわからんという事で
忘れられた本物の人たち、ヴィジュアル系でいうなら、あのバンドブーム時代の
SOFTBALLETというテクノポップ、現存しているところではBUCK-TICKですな、
もう完全に独自の世界を伝えてくれてます。
それはもう誰にも到達できない、自分だけにしかわからない山の頂に辿りついた人の
奏でる音、音楽、アルバムというより経典とでもいうんでしょうかね。
今、これがいいな~と思うより、少し考えてみる「余裕」は大事。
自論で取ってもらえればいいので、
今のこの類のプロバンド達は、
確実に出典者を認知したうえで自分たちの表現から音楽をしている。
出典ツールに沿って現存している、逆にそれをわかってない浅はかなロマンティストは、言葉、音、その前に「空気」で見抜かれる。本物になりたいならば覚悟が必要で、やはりこの類のストイックな世界を知るならば、三島由紀夫であったり太宰治であったり、まともな社会の視点より「斜界に生きた人」を教材として見ていくべきで、そこに拒絶やつまらないエゴで否定するくらいの他人ならどうでもいいが、本当に生りたいならばそこは外せないと思う。
さて、
湯島では、正月、蓼科からバターナッツカボチャの生産者、市川さんが来てくれて、参拝者に温かいスープをサービスしてくれている。摩り下ろして温めるだけで上品な風味が立ち、飲めば五臓六腑に沁み渡る。市川さんは表情からして気持ちのよい方、心持ちも温かく一緒にいるだけで人を癒してくれる方です。
いろんな方に会い、人を知っていく中で、自分も何者かと知らされてきます。
日々生成されていくこの身をもって、その時その時、
必要なタイミングで会いたかった人に出逢い、創造を具現化している。
早いとか遅いとか関係ない、ちょうどいい時期に「運ばれてくる」。
不撓不屈に生きていこうと今年は覚悟するところである。