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今年は潜在意識や心についての文献が多々出版された、
食に関しても某会社の社員食堂メニューや、
極々家庭料理チックな内容が受けていた気がする。
平和という習慣が完全に崩れた惨事、
方向性を見失う政治、さらには抗う政治、
来年もまだ、情緒は不安定なんだろう。
ただ、そういう不安定を口走る社会がある、
そこに人がいて、言葉に出る、・・・・・
どうして、そんな事思ってもいないはずなのに、
本来、人は素直で優しいものであるはずなのに、
間違った方向に煽るのか。
Facebookを近頃はよく使用する、
大体見ていて感じるのは、
料理の写真とペットの写真が多いこと。
人が何を伝えたくて何を言いたいのか、
その写真を見ていて感じる事もよくある。
思うに「絆」というより「共生」、
共に生きるということ、
一人では人間生きていけないということを知らされたはず。
色々と溜まった消化不良をいかにして、
解消し、消化するか、そして新たな吸収を必要とする中、
一体何が今求められてるのか、
キーワードは、出ている。
例えば人間には宿命があれば運命もある、
涙を誘う近年の映画に動物(ペット)との生活を描いたものが
いくつかあった。共通することだが、最後、
ペットは飼い主(人間)に優しく死を迎えることを覚えさせる。
たくさんの愛情を日々与える中で、ありがとうって犬も伝えたいけれど、
言葉にできない、頂いたたくさんの愛情は感謝の行為として、
一番の困難な時に飼い主の心を救う、時には・・・命を救うこともある。
自然に生成する果実、大地、野菜、空気、人間、動物・・・
共存共栄それぞれに命があり役割がある、そして役割を全うすることが、
最大の幕引きであり「華」である。
この、自然に還る傾向、気付いている人たちは今、動き出している。
この一年で都会の病も峠に差し掛かった頃、原点に戻ろうという意識、
意識して生活をすることに、風向きが変わりだしたということを。
それは、いかなる日も必ず意識して、果実や生野菜を食しているということ、
ストイックに貪るのではなく、心がけて素材本来の味を頂くということ。
すなわちそこには「酵素」がよく働くということ、加熱すると失われる栄養素、
非加熱だから生成していられる栄養素、ここに何か意味を感じる。
国境なき料理団では、先だっても被災地へ行き、
何も無いところから何かを創り出すことを始めた。
それは地元の特産物をひとつの料理として仕上げること。
例えば海のものと山のものが絶妙に合わさることがある、
和食でいう筍には若布みたいに、考えて組み合わされたものと、
ふとした間違いが思わぬ意外性を生み料理として仕上がることがある。
岩手県大槌町に伺った際、ピーマンと切り昆布が特産品でして、
さて何ができるやら・・・と、「ピーマン饅頭」が完成した。
大いに喜ばれ、落ち着いたら商品化も検討されている。
そこで生まれた素材をその時適した調理法で美味しく仕上げる。
ピーマンという形にこだわらない、切り昆布だから違うとか理屈ではない、
仕上がったその「一体何を素材に調理されたかわからない料理」であろうと、
プロの作り手の愛情、
何よりも取り囲む魚海岸や農作地の奥さんも一心に気持ちが込められていれば、
尚更美味しい。
海からの風が吹く漁港にテントを張り、
黙々と湯気を立ちあげながら、地元の方たちと新しい生成を「楽しむ」。
「楽しむ」こと、そして「料理の神髄」を感じること。
「料理とはこの世で最高の愛の行為である」と、
いつか、わが師から伝えられた。
様々な方法がある、今、その町その地域で必要とされる栄養は確実に違う。
栄え養われる為に食材に敬意を払い頂かせてもらう。
今は独りで戦う狼の時代ではない、
孤に生きる時代ではなく個を尊重しながら共生していく時代、と思う。
今一度、自然の叡智、果実・野菜に感謝したい。