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2014/07/10

舞台上に現れて、演者に小道具の受け渡しを行ったり、着替えの補佐などを行う存在…

前回コラムにて、黒衣は全身黒ずくめで顔も隠すけれど、後見は紋付き袴の姿で顔を晒すという違いがあることを述べました。

黒衣も後見も共に、本来であれば、その作品の劇中にはいない存在です。

極論を言うと、透明人間になる薬があったり、サイコキネシスでものを動かすことが出来れば、必要のない存在ですが、それが出来ない以上は、生身の人間が舞台上に出て動くしかありません。

観ているお客様側でも、お約束事として、黒衣も後見も、本当はそこにいない人という認識を持つ必要があります。

だったら、黒紋付きで顔を晒さなくとも、そういった役割をする人全員が黒衣を着れば良いのでは…と思うのも正論かもしれません。

目立たなさの度合いとしては、顔も隠した黒衣の方がだいぶ上ですから。

しかし、リアルなお芝居の要素が強くなるほど黒衣が出てきて、様式的な作品になるほど、後見が出てくることが多くなり、黒衣が出るか後見が出るかで、作品の雰囲気も変わってくるかと思います。

そして、黒衣と後見では、身体の使い方が違ってきます。

黒衣の場合は、うずくまる様に、極力体を小さくして隠れる様に舞台上で待機するのに対し、後見が待機するときは、軽く客席に背中を向けるものの、むしろ堂々と姿勢を正して控えます。

それと、黒衣はわりと急ぎ足で移動するのですが、後見の場合は、あまり早く動くと、逆にお客様からのフォーカスを集めてしまい、下手すれば演者がもう一人現れた様にも見えてしまうため、速すぎず、遅すぎない、ナチュラルなスピードで移動します。

僕が初めて舞台で黒紋付きを着けて後見を行った時、なるべく目立たないことを意識する余り、うつむき加減でこそこそ出ていったら、先輩から、
「後見は、そこにいてはいけない人ではないんだよ。」
とダメ出しを受けました。

どうせ存在が見えるなら、下手にこそこそすると、格好悪くて逆に目立ってしまいます。

むしろ、後見を行う自分の姿たたずまいも、様式美の一部になっていると思うくらいが良いかもしれません。

次回は、「人前式とは…」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

12:02 | sakai | 後見への道 ~黒衣と後見~ はコメントを受け付けていません
2014/07/01

以前、とある舞台にて黒衣(くろご ※黒子“くろこ”と呼ばれることが多いですが、もともとは誤用)を務めた際、演者への小道具の渡し方や、顔の汗の拭き取り方など、基本的なことを知らないと指摘されました。

そして「分かっていないならやらなくて良い」と言われ、結局その部分の役割からは外されるということがありました。

その舞台の演出家は、僕が何年も日本舞踊の稽古場に通っていることを知っていたので、黒衣や後見を経験する機会が多く、基本的なことを理解していると思われていたのが、実はそうでもなかったという結果です。

さて、全身黒づくめでの登場し、そこにはいない存在として、舞台上のものを動かしたりする黒衣の姿は、皆様想像がつくかと思いますが、“後見”という存在はご存知でしょうか?

やること自体は黒衣に近く、舞台上に出て、演者に小道具の受け渡しを行ったり、衣装チェンジの補佐をしたりするのですが、決定的に黒衣と違うこととして、後見は堂々と顔を晒し、黒紋付きと袴の姿で登場します。

普通、黒紋付きを着る際には、着物の下の襦袢の襟の色が白なのですが、後見の場合は、色でその役割を示すかの様に、グレーの襟の襦袢を着ます。

歌舞伎の場合ですと、茶色の上下(かみしも)をつけて、顔は白塗り、カツラもかぶって登場することもあります。

後見が実際にどんなものなのか、見たことがない人に文章だけでイメージしていただくのも難しいのですが、例えば、日本舞踊で傘を使って踊っている場面があったとして、その傘の踊りが終ったその次に、手拭いを使った踊りが始まるとします。

普通に考えれば、踊り手は傘をどこかに置いて、手拭いを持ってこなければなりません。

いったん舞台からハケて、持っている小道具を入れ替えてから出てくるという方法もありますが、踊りによっては小道具を何種類も使うこともあり、それを持ち替える度に、踊り手が引っ込んで出て来てを繰り返して、何度も舞台が無人になってしまうのも面白くありません。

そうしないためにも、踊り手が傘の踊りを終える少し前あたりで、紋付き袴姿の後見がすうっと舞台の後方に現れて座って待機します。

そして、傘の踊りが終ったなら、踊り手から傘を受け取り、同時に隠しもっていた手拭いを入れ替えで渡して、自身は回収した傘を持ってすうっとハケていく。

そうすれば、踊り手自身はずっと舞台上にいることが出来、作品自体も途切れる感じが少なくなります。

この後見、当然ながら日本舞踊のお浚い会などではかかせない存在で、よほどイレギュラーなケースでなければ、男性が行います。

一般的に、日本舞踊のお稽古場には、男性がほとんどいないことが多いです。

ですから、男性で日本舞踊を何年も習っていれば、自然に後見を行なう機会が多くなっていくものですが、僕が通っている稽古場は、諸事情あって、稽古場公演以外のお浚い会を全くやらないところなので、ゼロではないにせよ、これまであまり後見をやった経験がありませんでした。

しかし、そんな事情があるにせよ、当時既に名取りになっていた身で、“後見のことを何も分かっていない”と言われたのは、それは悔しいことでした。

そんな折、次回の日舞の稽古場公演に、踊り手として出演することが可能かどうか先生に尋ねられたのですが、敢えて、自らは踊らずに、他の人達が踊っているときの後見のみで参加させていただくことをお願いするに至りました。

そして酒井の後見への道が始まりました。

しばらく、この後見ネタだけでコラムが書けそうです。

次回は、「後見への道 ~黒衣と後見~」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:57 | sakai | 後見への道 はコメントを受け付けていません
2014/06/30

いつもコラムをご覧いただいている皆様、誠にありがとうございます。

お気付きの方もいらっしゃるかと思いますが、この度「和に学ぼう!」の過去の投稿を大編集させていただきました。

特にブライダル関係の投稿において、本来ならお金を払って研修を受けて教わる様な実践的なことまで書いてしまっていると気が付き、そういった内容は自粛させていただきました。

また、古典芸能の話題において、僕の意図とは反して、誤解を持たれた方がいらっしゃる様です。
読み返してみると、確かにそう解釈されてもおかしくない内容も見受けられたので、そういった部分を修正させていただきました。

ご理解いただけるかどうか分かりませんが、酒井がこのコラムで古典芸能の知識的な内容を掲載しているのは、自分の知識自慢や、自分に付加価値を持たせることが目的ではありません。

どんなに知識をひけらかしたところで(もっとも、ここに連載している内容は、かなり主観で書いているので、知識とは言えないとも思います)、知識そのものが自分自身の能力になるわけのないことは分かりきっています。

以前に個人ブログで、自分が関心を持っている古典芸能的な内容を色々と書いていたところ、第3者としてそれを読まれたジャンクステージのスタッフさんが、とても興味を持って下さいました。

僕が徒然に書いていた内容を読んで、見知らぬ人に古典芸能に関する話題に興味を持っていただけた、「このことを伝えたい!」という自分の想いが届いたことを純粋に嬉しく思い、それをさらに幅広く伝えたいという想いから、ジャンクステージでの連載は始まりました。

このコラムを読んだことによって、古典芸能的なことに関心を持って下さる人がいたら、とても嬉しいことです。

それは、贔屓にしているスポーツチームを応援してくれる人が増えるのを嬉しく思うのと同じような感覚です。

もちろん、それが契機になって、酒井自身が出演する舞台にも興味を持ってくだされば、さらに嬉しいことは言うまでもありません。

あるいは、別のところで古典芸能的なことに興味を持った人が、その関連用語をネット検索してこのコラムにヒットし、酒井なりに言葉を選んで説明した内容を読んで、そのイメージを膨らませていただけたら、それも嬉しいです。

俳優としての酒井は、あまりにも未熟で、悲しいくらい無能ですが、日本の芸能の魅力を理解した俳優になるという志は、どんなに時間がかかろうと、誤解を受けようと、意地で貫徹したいと思っております。

このコラムに連載するために、自分自身が調べ物をして勉強しているという面もあり、最近めっきり更新が滞っておりますが、連載を続けることも修行と思って、頑張ってまいります。

これからもどうぞよろしくお願いいたします。

10:15 | sakai | 大編集のお知らせ はコメントを受け付けていません
2014/06/30

結婚披露宴のオーソドックスな進行では、新郎新婦の2人が入場して、乾杯の発声が行われる前に、主賓からのご挨拶があります。

お1人からだけのこともあれば、新郎側と新婦側それぞれの主賓のお客様から挨拶をいただくこともあります。

また、乾杯の発声を行う方も、主賓と同じ様に挨拶をされる場合があります。

そして、宴席の後半などで、余興と同じ様な枠で行われる列席者のお話は、スピーチなどと呼ばれます。

(※主賓の挨拶のことも“スピーチ”と呼ぶこともありますが、このコラムの中では前半の主賓が行うものを“挨拶”として話を進めます。)

じゃあ、結婚披露宴において、挨拶とスピーチって何がどう違うの…?順番が違うだけ…?

必ずそうだというわけではありませんが、傾向として挙げられることとして、やはり“主賓”と呼ばれるくらいですから、前者の「挨拶」は、新郎新婦どちらかあるいはお二人にとって、仕事上の上司だったり恩師だったりと、目上にあたる人が静粛な雰囲気の中で行うことが多いです。

後者の「スピーチ」は、皆様お酒の入っている中、気心の知れた友人などが、割と軽い雰囲気で冗談を交えたりしながら行うことが多いと思います。

稀に、余興の時間のスピーチを頼まれたつもりでいて、フランクな雰囲気で話す予定だったのに、当日披露宴会場に行ったゲストが、そこで初めて主賓の挨拶だと知って、急に緊張してしまった…なんて話を伺うこともありますが、別に挨拶だからといって、畏まる必要もないかと思います。

主賓の挨拶の中で、ユーモラスなことを言われて、会場から笑いが起こることだって珍しくはありません。

僕の実感ですが、披露宴前半で行なわれる挨拶によって、お2人の人物象が、打ち合わせでお会いしたときよりも、明確になってくることがあります。

司会者としてお2人のプロフィール紹介を行なうために、お2人ご自身から、過去のエピソードなど色々前情報をいただいてはおりますが、その挨拶のお話の中で、「え、そんなことがあったの…?」と初対面の印象からは想像のつかないエピソードを耳にすることもあります。

挨拶をするのが、ご勤務先の中でとても偉い人だったりして、その人がとても明るい雰囲気の人だったりしたら、職場自体が明るい雰囲気の中で、楽しい毎日を過ごされているんだろうな…と想像出来たりします。

お2人から披露宴の招待を受けて、挨拶やスピーチを頼まれたときに、「何を喋ったら良いのか…」「何か気の利いたことを言わなければならないだろうか…」と悩まれてしまう方も少なくないと思いますが、お2人に対するご自身の印象や、思い出深いエピソードなどを、あまり飾らずに、ご自身の言葉でお話しいただければ、それがそのままお2人の印象に繋がるのではないかと思います。

結婚披露宴の場というのは、新郎新婦お2人が、自分がどんな人達に支えられているかを実感する場でもあると思いますが、挨拶やスピーチでいただく言葉の中に、それが集約されていると言えるかもしれません。

次回は、「後見への道」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

ウエディングMC・酒井孝祥

09:38 | sakai | ☆挨拶とスピーチ はコメントを受け付けていません
2014/05/31

「拙者親方と申すは、お立ち合いのうちに御存知のお方もござりましょうが…」

俳優や声優の養成所に通った人であれば、「外郎売」(ういろううり)の口上を散々練習した人は少なくないと思います。

飲めば、舌が回って滑舌が良くなるという薬を売る実演口上で、早口言葉のオンパレードの様な内容です。

しかし、散々にこの口上を練習した役者さん達の間でも、そもそも「外郎売」が歌舞伎十八番の演目の一つだということは、意外に知られていない様です。

歌舞伎「外郎売」の劇中で、父の仇の工藤祐経を狙う曾我五郎もしくは十郎が、薬売りに化けて祐経に近付いたときの口上部分が、早口言葉の教材として独立し、知れわたっています。

この「外郎売」は、いわゆる“曾我物”というジャンルの作品に分類されます。

幼い頃に父を殺された、曾我五郎時致(そがのごろうときむね)と曾我十郎祐成(そがのじゅうろうすけなり)が、18年の時を経て、父の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ち果たすという、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての史実をもとにした仇討ち物語をベースにした作品で、上記の「外郎売」以外にも沢山あります。

「寿曽我対面」(ことぶき そがのたいめん)、「吉例寿曽我」(きちれい ことぶきそが)、「矢の根」(やのね)、「助六所縁江戸櫻」(すけろく ゆかりの えどざくら)、「草摺引」(くさずりひき)、「雨の五郎」(あめのごろう)等々…

曾我兄弟の仇討ちは、昨今ではあまり知られていませんが、戦前くらいまでは「忠臣蔵」に匹敵するくらい、日本人なら誰でも知っているメジャーな作品だった様です。

特にお正月に上演されるのが恒例になっており、今でも歌舞伎の正月興行の中に、曾我物の作品が含まれていることがほとんどです。

作品の一番の特徴は、やはり、五郎と十郎のキャラクターにあると思います。

弟の五郎は、とにかく力強く、荒々しい武闘派で、兄の十郎は、沈着冷静な優男。

この対比的で典型的な2人のキャラクターが、18年もかけて父の仇を討つというヒロイズムが人気の要因なのかもしれません。

曾我物の作品の中には、史実そのものをベースにしたものもあれば、「助六」の様に、時代背景が全く異なる江戸の遊廓が舞台になって、一見何の関係もなさそうな人物の正体が、実は曾我兄弟であり、工藤であったという風に、かなりのアレンジが加えられているものもあります。

舞踊の演目の中には、弟の五郎の力強さ、荒々しさを前面に出した作品もあります。

酒井が劇団のレッスンで日舞を習った一番最初の演目は「雨の五郎」という作品で、五郎が雨の中、廓に通っているという踊りなのですが、力強く格好良くポーズを決める場面が沢山出てきます。

たとえばオーディションなどで、日本舞踊をあまり知らない相手に、特技として日本舞踊の披露を求められたときに、決めポーズの多いこの演目を踊ると、「格好良い」という印象を持っていただける様です。

この「雨の五郎」が歌舞伎で上演される場合などだと、五郎に対してザコキャラの様な男が2人がかりで襲いかかってくるのですが、五郎が軽くあしらっただけではじき返されてしまいます。

正に、怪力の権化の様なキャラクターです。

歌舞伎や日本舞踊をあまり知らない人でも、公演のパンフレットやチラシの中で、「曾我」とか「五郎」とかいう名称を目にしたなら、“強い弟と冷静な兄が父の仇を討つ話”がベースになっていると思っていただければ、割とすんなり作品に入れるのではないかと思います。

次回は、「挨拶とスピーチ」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

10:47 | sakai | 五郎と十郎 はコメントを受け付けていません
2014/05/15

こんばんは、酒井孝祥です。

アパレル業界や観光業界などと同じ様に、ブライダル業界にも、オンシーズンとオフシーズンがあります。

具体的に言えば、9~10月くらいが一番の繁忙期で、2月や8月が閑散期となります。

よく、6月はジューンブライドだから忙しいでしょ?などと言われますが、数値的には、6月よりも秋口の方が件数が多い傾向があります。

閑散期の2月や8月ともなると、結婚式が行われるホテルなどで、一般の宴会もかなり少なくなるので、業界にとっては本当に暇な時期になります。

もっとも、司会等だと、その後のピークに向けての事前打ち合わせは忙しかったりもします。

そして、これはブライダル業界独特のことかと思いますが、やはり時期を問わずに、大安には婚礼件数が多く、仏滅には少ない傾向は多少あります。

1日だけピンポイントでオンシーズンとオフシーズンがある様なものですね。

そもそも大安とか仏滅って何でしょうか?

それを詳しく説明するとだいぶ長くなりますが、簡単に言えば、陰陽道などに由来する「六曜」と呼ばれる日替わり6日間の周期の中で、最も吉とされるのが大安で、最も凶とされるのが仏滅です。

はっきり言ってしまえば、迷信の様なものであり、それほど気にする必要もないかと思います。

しかしながら、生涯で一度の大切な日と、その後に続く新しい人生を間違いのないものにしたいという気持ちは、それが迷信であっても何であっても、出来る限りあらゆることを万全にしておきたいという想いに繋がり、出来ることであれば縁起の良い日を選びたいというのは、自然な流れかとも思います。

けれど逆に、オフシーズンであることを利用して、人気のある会場を予約したり、他のお客様が少ない落ち着いた雰囲気を得ることだって出来ると思います。

アパレル業界であれば、繁忙期に店員を増員させることが可能ですが、ブライダル業界の司会者は、どんなにこなさなけらばいけない件数が多くても、1つの宴席につき、1人しかいません。

こちら側にとっては、1日に2件あることでも、お二人にとっては、生涯に一度のこと。

オンシーズンであろうとオフシーズンであろうと、変わらないクオリティをお届けするのが、我々の仕事です。

次回は、「五郎と十郎」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

ウエディングMC・酒井孝祥

02:09 | sakai | ☆オンとオフ はコメントを受け付けていません
2014/04/29

おはようございます、酒井孝祥です。

この4月は芝居の本番があり、そのためにかなりの時間が割かれましたが、月に6回の日舞のお稽古に、一度も休むことなく参加することに成功しました。

芝居が昼夜2回公演あって、その本番が終った後に日舞の稽古場へ向かい、そして翌日は昼から公演…などと聞くと、
「2回本番をやって、その後で別の稽古に行くの!?」
と驚かれる人がいるかもしれません。

しかし、それは驚くべきことではありません。

なぜなら、歌舞伎役者さん達はもっと凄いからです。

僕が通っている日舞のお稽古場には、現役の歌舞伎役者さんが何人かいます。

歌舞伎の公演は、その月の初頭に幕が開けば、基本的には月末近くまで毎日休みなく続きます。

そして、大概は昼夜を通して上演されます。

歌舞伎の皆さんは、本番の合間にお稽古場まで来るのです。

自分の出番が昼だけなら夜にお稽古に来て、夜だけだったら昼にお稽古に来るというのはもちろんのこと、昼の最初の方の演目と夜の最後の方の演目のみで出番があるようなら、昼の出番が終ってから稽古に来て、終ったらまた劇場に戻るなんてことも、当たり前の様にされています。

一般の演劇をやっている人からは想像もつかないことですが、歌舞伎の稽古は基本的に3~4日間くらいしか行われないそうです。

そのため、初めて出る作品に出演する様な場合等には、その前の本番の合間で、ビデオを研究したり、以前に同じ役をやったことがある人に習いにいったりするそうです。

本当に我々とは次元の違う世界です。

自分の演劇活動において、本番までの時間がなく、余裕がないと思ったとします。

そんなときには、知っている歌舞伎役者さんの姿を思い浮かべると、歌舞伎の皆さんと比較すれば、こんなのまだまだ序の口だと思うことが出来ます。

演劇関係者にお勧めしたい考え方があります。

例えば本番3日前になって、まだ間に合っていないことが多く、不安な気持ちになり、もう無理だと思ったとします。

そんなときには、
「歌舞伎だったらこれから稽古が始まるところだ。」
と思うと、心に余裕が出来、成功させる自信に繋がるかもしれません。

次回は、「オンとオフ」(ブライダル)をテーマにしたコラムをお届けします。

07:55 | sakai | 敬うべき歌舞伎の皆さん はコメントを受け付けていません
2014/04/14

こんばんは、酒井孝祥です。

酒井が4月に出演するお芝居の演目は、チェーホフの「さくらんぼ畑」です。

「さくらんぼ畑」と聞いてなんのこっちゃ分からなくても、「桜の園」と聞けば、お芝居好きな人なら誰もが知っている名戯曲です。

タイトルに「桜」とついていながらも、劇中の台詞に実際に登場するのは「さくらんぼ」「桜桃」であり、日本人が「桜」としてイメージするものとは異なる…という観点から、これまでの「桜の園」ではなく、「さくらんぼ畑」というタイトルで翻訳された新訳での上演です。

この戯曲では、劇中に舞踏会のシーンがあります。

今回の公演は、和テイストな演出で、舞踏会のシーンを日本舞踊で構成したいので、振り付けも兼ねて参加してくれないかとのことで、出演を依頼されました。

しかし、自分に振り付けなんて出来るはずもなく、日本舞踊的な動き、着物を着たときの所作などにおいて、何も知らない共演者に対して助言くらいなら出来ると伝えて参加を決めました。

ところが、いざ顔合わせが行われてみると、なぜか僕が振り付けをすることになっておりました。

あれれ…?という気分になりながらも、新しいことに挑むチャンスではないかとプラス思考に転じます。

しかしながら、日本舞踊のシーンを作るとは言っても、出演者の中で、僕以外で日本舞踊を経験したことのある人は、辛うじて一人いただけです。

短期間の稽古で形にするためには、きっちり日本舞踊をやるというより、いかに、誰でも出来る様な簡単な動きで、しかしそれらしい雰囲気になるように構成するかがポイントとなります。

そして、日本舞踊をやるというのに衣装が着物ではないという矛盾めいた要素もありました。

当初、着物ではないものの、和装テイストの衣装にするかもしれないという話もありましたが、実際にあがった衣装案は、普通に洋装で、さらに、靴を履いたままの状態でそのシーンをつくるとのこと。

もちろん、日本舞踊には下駄や草履を履いて踊る演目もあります。

しかし、基本的には足袋を履いて踊るものであり、足袋を履くことで可能となっている、足を床に滑らせる動きが多々あるので、それが不可であるとなると、出来ることも限られてきます。

その条件において、いかに日本舞踊的なシーンを創るか…?

最初は、日本舞踊の一般的なイメージとしては、扇子を持って踊ることが定着しているかと思うので、全員が扇子を持って踊ろうとしました。

しかし、師に意見を仰いだところ、不慣れな人が扇子を使うと、握り方一つですら粗が見えてしまうので、避けた方が良いとのことでした。

そして、扇子の代わりに、100円ショップでも手に入り、見た目にも華やかなあるものを使うことを勧められました。

それは、枝のついた造花です。

造花の枝の部分を握って、扇子で裏表を返す様に手首をひねったり、遠くの方を指したりすることを、皆が揃えて行えば、それだけで鮮やかな光景が出来上がります。

師のアイデアを参考に、お稽古場で初心者向けとして教えられている踊りをベースに、扇子を枝に持ち換え、おすべりと呼ばれる足袋がなければ出来ない動きをカットしたりして、場面を構成してみました。

振り付けという名目ではあるものの、結果的には、ほとんど、もともとある振りを指導する様なこととなりました。

これは、言わば、自分にとって初めて人に踊りを教える行為で、本来なら、師範名取にならなければ体験出来ないものです。

今回、日本舞踊を知らない人が、自分の動きを真似、その真似た動きが日本舞踊の様に見えるために修正していくことは、自分にとっても、日本舞踊の初歩的なことを再認識する良い機会となりました。

完成した場面が、本番でお客様の目にどう映るでしょうか…

次回は、「敬うべき歌舞伎の皆さん」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

02:28 | sakai | 振り付け? はコメントを受け付けていません
2014/03/31

こんばんは、酒井孝祥です。

先日、ある演劇ワークショップで、演技の指導方法が素晴らしく上手な方に出会いました。

そこで体現したことは、思い返してみれば、それまで色々なところで教わってきた内容、演技に必要な要素とほぼ共通するものでした。

しかし、その方に出会い、3時間あまりの時間を共に過ごしただけで、それまで何となく、表面知識として理解していただけの内容が、身体に刻まれて、自分の肉となっていくことを感じました。

それは感動的ですらありました。

しかし、それ程までに素晴らしい指導をしていただきながらも、僕にとっては、自己を完全否定される様なことを言われました。

「身体のクセの原因になっているので、当分の間は日本舞踊をやめなさい。」

「発声が喉に悪いから浄瑠璃はやめなさい。」

つまりは、日本舞踊の身体表現と、浄瑠璃の発声法を身につけた俳優になるという、僕が目指していることとは、真逆なことを言われたのです。

そのことは、俳優を育てるプロの目から客観的に僕の状態を見た上で、最も的確なことだったかもしれません。

しかし正直、その方は、日本の古典芸能に、それ程までには精通しているというわけではなさそうで、少し誤解している部分があるようにも思えました。

もし、僕が古典芸能の分野において、知識や能力がある程度の水準に達していたなら、そうではないことを論理的に説明し、身体で証明出来たかもしれません。

それが出来ず、反論しようにも、相手を納得させる材料を自分が持ち合わせていないのは残念なことでした。

そのものをやめないまでにしても、当分はお稽古を休むべきだというのが、その方の主張でしたが、しかし、古典のもののお稽古は、ちょっとづつでも続けることに意味があります。

なんらかの事情で長期に休むこともあります。

しかし、可能であれば稽古場に足を運ぶことを心がけ、1ヶ月に6回の稽古のうちに1回でも参加出来たことと、1回も参加出来ずに1ヶ月過ぎたことは、まるで異なります。

予習も復習も出来ずにボロボロであったとしても、1回の稽古を休まないことには大きな価値があります。

意図的に稽古をやめるというのは考えられないことです。

その方に従えば、俳優として良い方向に導いていただけるかもしれません。

でも、自分には自分の目指す理想があり、ビジョンがあります。

そのことが逆に足かせになり、突拍子もなく遠回りをすることになったとしても、自分は自分の道を歩みたいと思った瞬間でした。

最近、余裕がないためか、掲載内容が、普段よりもまして、自分の内に集中した内容ばかりとなり、申し訳ありません。

次回は、「振り付け?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

11:28 | sakai | 完全否定 はコメントを受け付けていません
2014/03/23

こんにちは、酒井孝祥です。

先日、僕が通っている流派の浄瑠璃のお弾き初め会が行われました。

諸事情あって、もともとこの会には参加しないつもりだったのですが、急遽出ることになり、稽古回数も限られていたため、過去に習ってお客様の前で披露したこともある曲で出演することになりました。

そこで選んだのが、お稽古に通い始めて一番最初に習った曲です。

これまで人前で語った曲は10曲近くありますが、一番時間を書けてじっくり稽古したのは、一番最初に習った曲です。

そして、認知心理学用語で系列位置効果の初頭効果などというものがありますが、それまでに類似した刺激を記憶をしていない状態で覚えた最初のことは、後々まで記憶に保持されやすいものです。

ですから、今までやった曲の中でも、思い出そうとして一番細部まで思い出せるのは、やはり一番最初に習った曲です。

折しも2~3ヶ月前に、これは日舞の方の先生からですが、こんな話を伺いました。

フィギュアスケートの大ファンである日舞の師が、以前から注目していた選手がおり、実際にめざましく躍進しました。

その選手は、派手な技の練習よりも、基礎的な訓練に重点をおき、初心者が行う様なごく単純な動きの練習を、確実に正確に行う様に毎日積み重ねてきたそうです。

そのことを例えに、芸能においても、基礎がいかに大切かを教えていただきました。

今回、浄瑠璃において一番最初に習った曲を稽古することは、初心に返って基礎を訓練し直すことへの丁度良いきっかけになるかもしれないと思いました。

ところがどっこい、いざその曲の稽古をしてみると、出来ると思っていたことがほとんど出来ませんでした。

正直、この曲を選んだときには、最初にやった曲だし、すぐに出来るようになるだろうという慢心がありました。

それが一転して、ちゃんと出来ないのに稽古の回数は少ないという窮地に追い込まれました。

焦って稽古をして、本番直前までに、何とか6割くらいは体裁が整ったかな…というところまではいったと思いますが、いざ本番のとき、声のコンディションが7割くらいの状態で、出だしの声が思うように出ませんでした。

そのことで動揺してしまったためか、ある箇所で、完全に音が外れてしまってオリジナルメロディーになってしまい、そこから物理的に元に戻すことのみにエネルギーを集中することとなり、作品としてのイメージが完全に途切れてしまいました。

もちろん、外れたところから元に戻すということも大切な要素です。

これまた日舞の方の話に切り替わりますが、日舞の師が僕に名前を取らせても大丈夫だろうと思ったきっかけは、浴衣浚い会で、右足と左足を完全に間違えてしまったのに、見ているお客様からは間違えたことが分からない程に堂々と、そこから軌道修正して踊りきったことだったそうです。

それはそれとして、決して短くない期間浄瑠璃の稽古を続け、その一番最初の曲すらも間違いなく語り切れなかったということは、お釈迦様の手の上をぐるぐる回るだけで、結局全く先に進んでいなかった孫悟空の様な心境です。

実際にその演奏を聞いたお客様からは、「綺麗な声でしたね。」などと肯定的な感想が多かったのですが、上手くいかなかったことは自分自身が一番分かっています。

結局、初心に戻ったというつもりになっても、気付かされるのは、戻るどころか、名前があろうが何であろうと、初心の状態から先に進んでいなかったということです。

そのことに気付けただけでも、今回の会に出演出来て、本当に良かったです。

次回は、「完全否定」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。

01:10 | sakai | 初心に戻っても… はコメントを受け付けていません

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