こんばんは、酒井孝祥です。
先日、ある演劇ワークショップで、演技の指導方法が素晴らしく上手な方に出会いました。
そこで体現したことは、思い返してみれば、それまで色々なところで教わってきた内容、演技に必要な要素とほぼ共通するものでした。
しかし、その方に出会い、3時間あまりの時間を共に過ごしただけで、それまで何となく、表面知識として理解していただけの内容が、身体に刻まれて、自分の肉となっていくことを感じました。
それは感動的ですらありました。
しかし、それ程までに素晴らしい指導をしていただきながらも、僕にとっては、自己を完全否定される様なことを言われました。
「身体のクセの原因になっているので、当分の間は日本舞踊をやめなさい。」
「発声が喉に悪いから浄瑠璃はやめなさい。」
つまりは、日本舞踊の身体表現と、浄瑠璃の発声法を身につけた俳優になるという、僕が目指していることとは、真逆なことを言われたのです。
そのことは、俳優を育てるプロの目から客観的に僕の状態を見た上で、最も的確なことだったかもしれません。
しかし正直、その方は、日本の古典芸能に、それ程までには精通しているというわけではなさそうで、少し誤解している部分があるようにも思えました。
もし、僕が古典芸能の分野において、知識や能力がある程度の水準に達していたなら、そうではないことを論理的に説明し、身体で証明出来たかもしれません。
それが出来ず、反論しようにも、相手を納得させる材料を自分が持ち合わせていないのは残念なことでした。
そのものをやめないまでにしても、当分はお稽古を休むべきだというのが、その方の主張でしたが、しかし、古典のもののお稽古は、ちょっとづつでも続けることに意味があります。
なんらかの事情で長期に休むこともあります。
しかし、可能であれば稽古場に足を運ぶことを心がけ、1ヶ月に6回の稽古のうちに1回でも参加出来たことと、1回も参加出来ずに1ヶ月過ぎたことは、まるで異なります。
予習も復習も出来ずにボロボロであったとしても、1回の稽古を休まないことには大きな価値があります。
意図的に稽古をやめるというのは考えられないことです。
その方に従えば、俳優として良い方向に導いていただけるかもしれません。
でも、自分には自分の目指す理想があり、ビジョンがあります。
そのことが逆に足かせになり、突拍子もなく遠回りをすることになったとしても、自分は自分の道を歩みたいと思った瞬間でした。
最近、余裕がないためか、掲載内容が、普段よりもまして、自分の内に集中した内容ばかりとなり、申し訳ありません。
次回は、「振り付け?」(古典芸能)をテーマにしたコラムをお届けします。