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2013/03/12

制作手記 3

 

おおまかに色を置いた。 カタチを把握した。

明度が低い色の絵具を敷いた。 明度の高い部分を描き起こす際、明暗の差がハッキリしていたほうが、 作業の痕跡が判りやすく、そのことが気分を高揚させてくれるから。

 

実作業の量、質は変わらないが、ノッてくることが重要だったりするのです。

 

ちなみにこれはイニシエからの常套手段でもあります。 イエローオーカー(天然黄土)やテールベルト(緑土)など、土系の絵具を敷き、 その上からシルバーホワイト(鉛白)で明るい部分を描き起こす。 もっとも、このイニシエからの常套手段は僕の理由とは違い、材料学の見地からなのでしょうが、 きっと、先人たちのなかには僕と同じ理由な人もいたのではないかと思います。

また、無駄に我が強かった時期は、先人の知恵に従うのを嫌がって、 最初からキメキメでグイグイ最終層の意識で絵具を置いていた時期もありましたが、 最近は画面に含みが欲しいと思い、序盤はなるべく絵具や溶剤にまかせた描き方をしています。

 

実作業の量、質は変わらないが、ノッてくることが重要だったりするのです。

 

 

さて、描き起こす。

直接光の色、反射光の色、それらの境目の稜線の色、その3つに気を配る。 3次元の物体を2次元の画面に表現するのには、上記の事柄は必須で、 今まで何千回と繰り返してきた作業。

ここに書くまで、それほど意識したことはなかった。 こういった普段あたりまえに通過していく事柄を、 いざ書いてみると何やら気づくことがたくさんあり、 心と頭が忙しい。

制作をしていると、たくさんのことが頭をよぎる。 「純粋な2次元は存在しない。物体としての存在は不可能。」とか、 「2次元の表現の究極は色彩によるもの。誰も色彩を切り捨てることはできない。」とか、 「具象表現は絵というより図。」とか。 そのほとんどが一端の思い付きで、実際に描いている作品に良い影響を与えるものではない。 むしろ、やる気をなくさせることがほとんどだ。 一端の思い付きというのは、大概が疑問であり、その結論を理屈によって導き出すと、 僕の作品など、対外的には全く存在意義などなく、限りある時間を浪費していることにほかならないという結論になってしまうからだ。 地球環境について触れられるほど知識も関心もないが、資源の浪費でもある。

 

困ったな。

 

真面目にやればやるほどしんどい。

 

ノッてくることが重要だったはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

04:43 | fukui | 制作手記3 はコメントを受け付けていません
2013/02/28

制作手記 2

あたりをとった。 描き出した。

下描きという意識あまり持ちたくない。 なぜならそうすることで、工程がハッキリし過ぎてしまい、 作業たる作業に陥ることがあるからだ。 描いている間に変動する心境や価値観、物理的な条件など、全てを感じ続け従うことが理想と考えております。 故に、表現に対しての積極性は薄く、僕の絵は「絵の為の絵」ではない。

油絵具には不透明色と透明色がある。半透明色なんてのもある。 特性で言えば、不透明色は下の色を覆い隠す隠蔽力があるため、確信を持ってグイグイ絵具を置きながら書き進める作業に向いている。 原料となる顔料は鉱物系が多い。 透明色は、薄くのばして画面にかけると、下の色が透けて見えるため、作業密度が上がったように見えたりする。ニュアンスを加えたい時などに重宝する。 また、不透明色どうしを混色しすぎて濁った時に混ぜると、彩度が上がる。(材料学に基づいた良し悪しは別として。) 原料は動植物性だったりする。

どう使い分けるかは人によって様々だが、その時代時代に流行し良しとされた絵画や作家の影響を受けたりする。 僕らの学生時代には具象絵画ではルシアン・フロイドが流行り、「画面全体確信を持って不透明色で描きたおす。がカッコイイ。」的な風潮があった。 僕らの先生の世代では、クレモニーニが大流行りして、「絵具が厚くのっている箇所と全くのってない箇所が混在するリズミカルな画面」が良しとされたそうだ。 今になって思うと、そういったヒエラルキーのようなものに影響を受けないのが絵描きなのだろうが、なかなか、むずかしい。 というより、それが一番むずかしい。

 

 

さて、僕はどうしよう。

輪郭を追いながら、一方で色味を感じている。

青、赤 黄色。なんか、当たり前過ぎる。

でも、そう感じたのだからそうしよう。

こっちが明るくて、こっちは暗い感じ。

奥に行くカタチ、手前に来るカタチ。

永瀬、結婚おめでとう。 超うれしい。

 

 

03:56 | fukui | 制作手記2 はコメントを受け付けていません
2013/02/12

製作手記。

友人を描きます。   本来、実際に目の前に居てもらって描かせて頂くのが、臨場感を重視する上では望ましいかたちです。 実際、学生の頃はプロのモデルさんに来て頂いてポーズを決めてもらい、その様子を見ながら描いておりました。

しかしながら当然、世の中に出て働きながらですと、そのような機会を設けるのは大変むずかしく、僕の場合、臨場感にさほど重点を置くわけではないということもあり、撮影させて頂いた写真を資料として、それを見ながら描いております。

今でこそ、デジカメがあるので、PCに移して簡単に色調を補正したり、拡大できたりと、大変便利になりましたが、僕が人物をテーマに制作を始めた頃は、デジカメやPCはもちろん、フィルムの一眼レフなどは高価過ぎて手が出ず、写ルンですで撮影し、コンビニのカラーコピーで拡大したりしてました。

おかしなもので、資料にはそれほどお金をかけないクセに、とつぜん数万円もするコンプレッサーとハンドピースを買ってエアブラシを使ってみたり、粘土を数万円分まとめて買い込んだり、芸術を志すとろくなことに金をつかいません。いや本当に。

 

 

制作開始。

彼とはよく腕相撲をしました。  僕もけっこうパワフルですが、勝敗は7割くらいで負け越しています。  最初は僕のほうが強かったのですが、彼は肉体改造に挑戦し、見事な上腕二頭筋を造り上げ、圧倒的なパワーを身に付けたのです。  もともと身長も高く、リーチもあるので、そうなるともはや打つ手なしですね。僕も後から鍛え直しましたが、あの上からの力ってのはなんとも。いやあ、強い。  彼はとても真面目だ。そしてマジだ。向上心が半端ではない。  集中し始めると恐ろしい力を発揮する。   力。生まれ変わるほどの成長力。

 

その彼が、今月、結婚する。   で、なんか描きたくなったのです。

上記のような感傷的な心持ちでありながら、制作中、色々なことを考えます。

まとまりなく、なるべくもれなく、書きます。

 

————————————-

 

 

さて描き出しはどうしよう。

色。絵画では無視できない。  というか、究極は色。とどのつまり色なんだよなー。   わかりきったことを。   だからどした。究極であるのが目的かい?

かたちかたち。

あたりをとるかな。

んー

 

この第一手、第一手ってなあ。革命的なのないよなーーー。

 

ま、いいか。革命など絵画のための絵画のためでしかない。

僕のやってることは別のこと。

テレピン

かたちかたち。

輪郭。

中。

輪郭。

中。

 

しかし、、、それにしても描き出したる描き出しだな。。

枯れたな。オレ。

いやいや、まだまだ。

余計なことを。

 

さて。どうすっかな。

 

 

 

 

 

 

07:36 | fukui | 制作手記1 はコメントを受け付けていません
2013/01/29

その、「にゅにゅにゅ~」が、数百円。

結婚し家庭を持った今でこそ、そういったことを少し気にするようになりましたが、 今より遥かにビンボーだったというのに、学生の頃は全く気にも留めず、 「にゅにゅにゅ~」と豪快にひりだしていました。絵の具。 まるでそれが目的かのように。   そのうえ、その「にゅにゅにゅ~」を全部使うのかというとそうでもなく、 ほとんど棄てることになるのです。 なんてもったいない。

使う絵の具の量は描く人それぞれですが、ある程度の量を実際に画面にのせてみないことには、 そして失敗に次ぐ失敗をしなければ適量をつかめないということもあり、 (そんなことナイと思いますが)

まあとにかく、「にゅにゅにゅ~」なのです。

絵の具は、本来は主となる顔料をポピーオイルで練ったものなのですが、 顔料のほとんどは天然の鉱物を粉末状にしたもので、その希少度によって、 安価なものから目ン玉とベロが月までスっ飛ぶ高価なものまで様々です。

 

安価なものでは、土系の顔料のもの。

例)イエローオーカー : 天然黄土

高価なものでは、希少鉱物系の顔料のもの。

例)バーミリオン : 硫化水銀(辰砂 通称「賢者の石」)

 

これらを含め、色々な色の絵具が、価格に準じて A~H と ランク分けされて販売されているわけなのですが、 Hクラスになりますと、一番小さなサイズですら、一本約2000円。

つまり、にゅにゅにゅ~が2000円。

ね。目ン玉スッ飛ぶどころかゲボ吐く衝撃でしょう。

そのうえさらに、絵具メーカーによっても価格はマチマチで、 同じ色でもお高いものがあったりと、もうどうにもなりませんよ。

 

さて、僕も含め絵を描く皆さまは、 どこにこだわりを持ち、絵具を選ぶのか。

練りの硬さ、柔らかさという点も選択の基準ではありますが、

ズバリ、発色。と僕は思っています。

では、発色の良し悪しはどこで決まるのか。

それは、「混ぜ物の量」です。

油絵具は、上記のように顔料をポピーオイルで練ったものなのですが、 体積を増すために、そのほとんどに体質顔料を加えてあります。 この体質顔料はアルミナホワイトという物質で、 油で溶くと透明になるという性質をもっており、 絵具の量増しにモッテコイなのです。

しかしながら、それを混ぜることで本来の顔料の持つ発色は、 混ぜる量に応じて失われます。 鈍く、乳白色に変化してしまうのです。

 

純度の高い絵具を選びたくなるのが人情。

しかし、そういった絵具は高い。

いやいや、そうでなくても、絵具は高い。

いったい何が言いたいのかって?

 

「絵具は高い。」ってことさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

05:40 | fukui | 絵具のこと はコメントを受け付けていません
2013/01/19

ああ、なんか一息いれたい。

コーヒーを飲んだり煙草を吸ったり とかそういうんじゃなくて、 脱皮というか、修復というか、

なんか、新しくなりたい。

 

温泉?ちがう。あれはクタクタに疲れてしまう。

外に飲みに行くか。いやだ。さらにストレスが溜まり劣化が進む。

では山か?登りに行くか。 うーむ。それもいいがあれは精神鍛練だ。

どうしよう。

 

そうだ!美容室行こうっと!

 

皆さまこんにちは。  「男のクセに美容室か?」  「うるせぇ!」  福井諭史です。

 

みなさん髪を切るのはお好きですか。 僕、大好きなんですよ。小さい頃から。 母方の親戚が理容室を営んでいたので、こどもの頃はそこに連れていってもらい、当時のごっつい椅子に心ときめかせておりました。 あの頃の椅子、いいですよね。 なんかバトルスーツみたいで、ミサイルが出そうじゃないですか。

ウィーンガチャン!ガーー

「シャンプーマンよ!バトルスーツを装着し、ミサイルを発射せよ!!」

「ラジャー!リンス大佐!!援護要請!!」

♪オー シャンプー! オー シャンプー!♪  ♪オー シャンプーメーン!!♪

かくして地球の平和はシャンプーマンによって悪のボサボサヨゴレ星人から守られ、今日も温かいドライヤーの風が南から柔らかに吹くのであった。

 

 

前置きが長くアホでしたが、 僕の髪を調えてくれる美容師さんを描かせていただきました。

この方の美容室に初めて行ったのは、2006年だったかと思います。

その頃、ぼくは30歳。ニーチャンからオッサンの階段を上り始めた頃で、

これからの自分はどうしたものか。どんな感じになりたいのか。

そんなこと考えていたので、おそらくあれは遭難に近い状況だったのでしょう。

ブチャラティのようなオカッパ頭を注文するというムチャ振りをかましたのです。

似合うとでも思ったのでしょうか。頭おかしいとしか思えませんね。

それでもこの人は真摯に僕の要求に向き合い、ギリギリの攻めの姿勢で臨んでくれました。

初見の客、太めのオッサンのオカッパに挑んでくれたのです。

すごいでしょう。鉄の心臓なんですよ。この人。

 

それ以来、僕はずっとこの美容室でカットをお願いするようになりました。 それまで美容室が定着することなどなかったのに。

 

技術はもちろんですが、お店の雰囲気が落ち着いていて、 ハサミ持ったカリスマのイケメンが自信満々で多くの客を回す鏡越しの「今日は?」とは違う、 ゆったりとした時間が流れているんですよ。

来月は大切な友人の結婚式があるので、その前に行きたいと思っております。

もちろん、もう完全なオッサンになりましたのでオカッパはないです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03:50 | fukui | 美容師さんのこと はコメントを受け付けていません
2013/01/07

 

「マメスのねー」

 

「ワンワン!!」

 

「オッチョッチョのねー。」

 

「ウー」

 

「わかったわかった。じゃあポね。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

世界。

 

 

 

あけましておめでとうございます。 皆さまはどのような正月を過ごされましたでしょうか。 僕は新年会に出掛けまして、久々に旧友たちとイイ時を過ごしました。

 

 

 

 

 

集まった各々の近況報告には、それぞれの色、形、質があり、 僕は、温かいような懐かしいような切ないような気持ちになりました。

 

僕はいつも、いつも思うのです。

 

「物理的には同じ場所、同じ時間に居合わせ、同じ種類の言語を使い、 交わっているのに、そこに[思う]が条件として加わるから、 各々が全く違う世界から信号のようなものを発し、 それを、各々が全く違う世界で受信しているんだなー。」

 

と。

 

その「不確か」という結果が裏付ける、 「別世界」の素晴らしさと言ったらもう。

 

 

 

再会した友人の一人は、サルサをやっているらしい。 僕はサルサなんてボンヤリとしか知らない。 「社交ダンスのアレか?」くらいなもんだ。 しかしその友人は実演して見せてくれた。 カラオケボックスで、しかも相手はその場にいた何も知らない友人なので、 きちんとしたものではなかったけど、僕は感動した。

 

 

 

この友人がサルサってものに出会うまで、 どんな景色を見たのだろう。 その行程を思い浮かべる。 それはこの友人の知人だけができることで、 このことがとてつもなく素晴らしいことだと僕は思っている。

 

 

 

別の世界。彼の世界。

 

それでも彼は僕のことを知っている。

 

僕のことを知っている彼、の別世界。

 

その世界に思いを馳せる。

 

わからなくてもいいじゃないですか。

 

 

 

 

 

 

 

 

「マメはかわいいね。」

 

「ワンワン!!」

 

「ほんとにかわいいね。」

 

「ウー」

 

「わかったわかった。じゃあ散歩に行こうかね。」

 

 

 

共通認識なんてナンセンス。 わからないから人は魅力的なのですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

01:44 | fukui | 2013.1.3 僕以外のこと はコメントを受け付けていません
2012/12/28

 

「なんでもアリ」

無限の可能性を纏う甘美な言葉。

その先に待ち受けるのは開拓か、はたまた混迷か。

 

 

皆さまこんにちは。 クリスマスも無事通過ですね。

大晦日への盛り上がりって、クリスマスなんかより ずっと楽しくないですか?もちろん正月よりも。

 

今回は「支持体」について書きます。

聞きなれない言葉ですよね。[しじたい]です。

支持体っていうのは表現作業を施す対象物のこと。

解り易く例を挙げますと、

・油絵→キャンバス、パネルなど。

もう少し踏み込んで考えると、例えば、 写真の場合は被写体でありカメラであり印画紙であり、 音楽の場合、曲であり、楽器であり、ホールなわけです。

このコラムで言えばjunkstageというウェブサイトが 支持体というわけです。

大きく捉えれば表現媒体ですね。

 

と、ここで、表現したい人たちはそれぞれ考えるのです。

「どんな支持体が、自分の主題を表現するのに最適なのか。」

もちろん僕も例外ではなく、たくさん考え、色々とやらかしました。

10年程前のことになりますが、僕は「人物」に対しての表現を模索中で、 平面表現から立体表現、インスタレーションを経て、再び平面へ移行しようと考えていた時のことです。

作業性を重視したいから、パネルを自作して白亜地や石膏地を施そう。 そのほうが画面の凹凸がなくなるから細部の描画作業が楽だし。 いやいや、そんなことじゃない。表現対象は固有の人物なのだから、 モデルの何かエッセンスが欲しい。そうだ! その人の着てる服に描かせてもらうってのはどうだ!? …なぜ服なんだ?そこにやたら意味合いが生じてしまう。ダメだ。 僕が表現する手段として描いているものは何だ? モデルのカタチ。そうだ。ぼくはモデルのカタチを描いている。 それ以外を排除してみたらどうだろう。 排除か。 おし!!背景をなくしてしまおう!支持体をモデルのカタチにしてしまえばいい!! それだ!!

だって、「何でもアリ」だもの!!

そんなで、できたものが上の写真です。 板にモデルの輪郭を描いた時点で、その輪郭に沿って糸鋸で切り抜き、 綿布を膠で張り付けた上から石膏地を施し、それを支持体にしてモデルを描写。

 

……な、なんかちがう。。 支持体の形状ばかりが気になってしまって、 肝心の表現したい「モデルの何か」がまるで見えてこない。 そのうえ、支持体を作る作業が大変過ぎて、描画の段階ではすでに 疲れしまっていて、やっつけ作業で描いている。 いったい、何がしたかったのやら。

案の定、これを展示した時のお客様の反応は、

「わぁ。トリックアートみたーい!」

そうですね。僕も同じ感想です。

 

大失敗。

思い付きで正解が出るほど簡単なものではないことを 思い知らされた一件です。

僕のしたいことは人物を表現することであったのに、 軽薄な思い付きで、横道に逸れ、独自性を見出したと勘違いしたのです。

その背景には、すぐに答えを出さないと気が済まないという根気の無さや、 何か人と違うことをやって目立ちたいという雑念があったのです。

集中するべきことは、描くことだったのです。 なので、支持体について考えるにしても、

「描いててイイ感じか、そうでないかを吟味する」で充分だったのです。

描いて表現したいのですから。

 

 

その後、

画面に筆を置くときに跳ね返る力が欲しいと思い、 やはり板で自作したパネルより、布を木枠にピンと張ったもののほうが描きやすいと感じ、 木枠にピンと張った布に石膏地を施そうと考えると、

「それってキャンバスじゃん!!売ってんじゃん!!」と気づき、

それなら、木枠とロールキャンバス買って、好きな大きさに張ればいい。 僕が描くのってほとんどモデルの顔だけだし、実寸で描くわけだからF10号くらいがちょうどいい。 などと考えていると、さらに、

「張りキャンバスじゃん!!張った状態で売ってんじゃん!! 木枠とロールキャンバスとタックス(釘のこと)とキャンバス張り器と玄翁買って、 僕が自分で張るより上手に張ってあるのが売ってんじゃん!」 という驚愕かつ当然の事実を再確認。

 

 

そんなわけで、 僕の絵による表現に最適な支持体は、

「中目張りキャンバスF10号(縦使い)」です。

 

 

考えてみれば、油彩の支持体として、キャンバスの歴史は約600年。

600年もの間、油彩の支持体として代表を務めているわけです。

先人たちの知恵や経験の結果、それなのです。

 

変な支持体作ってアドリブ効かしてる場合じゃないわな。

 

 

 

「なんでもアリ」

無限の可能性を纏う甘美な言葉。

なんでもアリのアリ地獄。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12:23 | fukui | 支持体のこと はコメントを受け付けていません
2012/12/14

「頑張らずに仲良しでいられる」

そんなタマゴ野郎に何人めぐりあえたか。

また、この先何人めぐりあえるのか。

そんなこと考えるのは無意味。

それでも、僕にそう考えさせるタマゴちゃん。

 

 

皆さんこんにちは。

深夜のコンビニ店員兼油絵画家の福井です。

もう「コンビニ画家」でいいと思いますよ。

油絵、温めますか?

オウ!ハイ!

 

わけわからねえ。

 

今回は、学生の頃からモデルになってくれて12年、

僕の仲良し、「にしかわ」についての制作を資料に

用いて、「エスキース」について書きます。

僕はモデルが決まって制作に入っていく時、

まず最初に、その人をあらためて観察します。

そして、記録します。

特徴を言葉にして箇条書きしたり、

落書きのようにサラッと描いたり、

クロッキーしたり。

たくさんおしゃべりしたり。

メールしたり。

 

この観察こそが、行為(パフォーマンス)としての

僕の作品なのかと考えた時期もありましたが、

しかし、そうなると、その段階を経て描いた絵は、

副産物ということになってしまいます。

何に魅せられて、何を描きたいか。

そう始まっているので、やはり僕の作品は描いた絵

なんだろうと今は思っています。

また、この観察と記録の工程では、モデルに関する

何かを、新たに発見してしまうことが多々あり、

最初にモデルに対して抱いた印象と相当なズレが

生じてしまって、自分自身、モデルの何を、どこを

描きたかったのか、わからなくなることが常です。

常。

なのですが、実はその状況に陥ってからこそが、

この観察と記録の工程の醍醐味で、そこから、

「こうだろ?」という傲慢な決め付け、

「え??まじで?」という衝撃、失意、

「そうか、わかった。」という妥協、そして納得。

を、繰り返します。

 

つまりこれは、モデルに対しての感情を昂らせる、

自分が高揚する、ためのものなのです。

 

これが僕のエスキースです。

 

さて、エスキースって、言葉の意味や、その様式は

多岐に渡るのですが、絵画制作の場合、画面構成を

考える作業とういう意味合いで用いられます。

つまり、下絵、下描きです。

それにかける時間や労力、完成度は人によって様々

ですが、なかには、完成作品と同等の完成度まで

到達させる人もいます。

 

そこへいくと、僕はそのようなエスキースは一枚も

とりません。いきあたりばったりです。

なので、研究という意味で、絵画としての成長は、

僕の絵にはほとんどありません。

簡潔に言えば、ヘタクソです。

20年も描いているのにヘタクソなままです。

 

自分の決めた主題を絵画で表現するのには、

人物のような共通認識のある具物を画面に配置する

なら、その形と色をどのように駆使するのか。

あるいは、もっと具体的に、

筆跡はどのように、

人物の表情は、

個有色なのかそうでないのか、

考える課題は山ほどあります。

 

当然、キッチリとしたエスキースをとろうと思った

こともありました。が、やめました。

 

僕の目的は、

「主題を表現すること」で、

「主題を表現するための研究をすること」では

ないし、研究を重ねてなにか結論が出たら、

描く意味が ないとまでは言いませんが、

興醒めでしょう。

興醒めなら、やっぱり描く意味ないですね。

 

その結果、いつまでたってもヘタクソです。

でも、いいじゃないですか。

 

成長なんか目的にしなくったって、

僕と「にしかわ」の間に現れたしなやかな曲線は、

しだいに太さを増していき、鮮やかな金赤に輝き

出したのを確認した僕は、その上をおすまし顔で

スキップしながら、絵具を置いていくのですよ。

 

本当だよ。

 

余談ですが、

「にしかわ」は僕よりはるかに絵がうまいのに、

美大卒業後、ラーメンに狂った。 今は修行中で、

365日休みなくラーメンだ。 だから僕と遊べない。

僕はラーメンに嫉妬している。   シット。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

03:21 | fukui | エスキースのこと はコメントを受け付けていません
2012/12/05

「ええと、あのさ、絵ぇ描かしてくんない?」

「え?」

「そう、絵。胸から上、主に顔なんだけど。」

「何?なんのこと?」

「絵だよ絵。」

「え?」

「そう。絵。」

「??」

モデルをお願いする度にこんなやりとりをします。

皆さん、こんにちは。
街路樹のイチョウの葉も半分イヂョウ葉を落とし、
冬の訪れを感じつつ、深夜のコンビニエンスの
エントランスを掃除しながら、
「そろそろ落ち葉も落ち着いてきて、
掃き掃除が断然楽になる。やったぜ!」などと、
小さな喜びを感じています。

福井諭史です。

誰かにモデルになってもらうのって、
そりゃあもう一苦労なんですよ。

かなり近しい人で、僕が絵を描いているのを
知っている人なら頼み易いのですが、
とは言っても、上記のようなことになりますが。

ほとんど話したこともない、顔だけ知ってる関係
なんてことになると、もうやっかいです。

「私、油絵を描いている者なんですが、あなた様の
お顔に大変魅力を感じまして、あ、申し遅れまして
私、福井諭史と…」

イヤでしょう。こんなん来たら。
僕だってイヤですよ。

しかもこんな時代に。
何ちゃら詐欺やらなんやら、犯罪が横行して、
皆々さまが個人情報の漏洩に過敏になっている、
こんな時代に。

そのうえ、「資料として顔写真を撮らせて…」
なんて言い出そうもんなら、
山の天候の変化並みの速さで表情が曇ります。
僕の描きたい、その表情が。
ああ。

そんなで、描きたい人はけっこういますが、
言い出せないありさまなので、
ここに書くことにします。
見ていて、「オレのこと?」「それってワタシ?」
と勘付いた人はお声をかけて頂ければ助かります。

・バイトが一緒だった長身でメガネで細身の男の子
と、その元彼女。

・バイト先に早朝来店されるピンクのニット帽の
おねえさん。

・バイト先に深夜来店される若いご夫婦で、
マルボロウルトラライトな、おふたり。

・ボルダリングジムで見かけた、蜘蛛のように壁を
這う男の子で、靴はスポルティバソリューション。

ううむ。バイト先ばかりで、
「こいつ行動範囲が狭いな。ちっぽけなやつだ。」
と思われそうだが、事実だから、ま、いっか。

よろしくお願いします。

もちろん堪えきれずにこちらからもお願いにあがる
ことがあるかもしれません。
その時は、どうか最後まで話を聞いてください。
どうか、お願いします。
いやマジで。

次回は、考え中です。
たぶん、実際にモデルになってくれた人のことを
書きます。

02:54 | fukui | モデルになってください。のこと はコメントを受け付けていません
2012/11/24

はじめに

 

独りで、

なにかしらを表現する人は、

なにかしらの主題を持っています。

僕の場合は、「知人の顔を絵に描く」が表現です。

主題については、モンワリありますが、

言葉にできるものなら、

とうに言葉にして完結しています。

説明できません。ごめんなさい。

———————————————-

モチーフ(誰を描くか)までの距離のことを。

 

僕が絵に描く人は、

今のところ全員、僕の知人です。

知人で、好きな人です。

嫌いな人はもちろん描きません。

嫌いですから。

 

好きな人の最たるは、妻ですが、

しかし、これは、どうにも描けません。

正確に言えば、納得いくように描けない。です。

すでに数百枚は描いていますが、

すべて落書きのようなもので、

心血を注ぎ、完成したことがないのです。

というのは、描いている最中にケンカしちゃうと、

ほら、その先、なんかもう、描けないでしょう。

 

あまりに近すぎる人は描けないということですね。

 

知人~友達くらいの曖昧な関係で、

ちょっとした会話中に興味深い動作をしたり、

表情が気に入っちゃったりすると、

描きたいなと思います。

 

ほとんど知らない、でもちょっとだけ知ってる。

という具合がいいんですよ。

知りすぎると、こちらも傲慢になりますからね。

 

そんな具合なので、けっこう気まぐれです。

ツボにハマった人は何枚も連続で描きますし、

しかしどれも未完成だったりします。

未完成と言いましたが、 そこが、

完成というか、 完結なのかも知れません。

 

 

人を絵に描く。

ごくごく、ありふれた表現です。

しかし、人が人を描くんですよ。

こんなに素晴らしいことありますか。

ないです。

 

次回は、もうちょっと具体的な話に。

03:00 | fukui | はじめに ・ 誰、描くかな。 のこと はコメントを受け付けていません

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