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2014/10/14

地球の舳先から vol.339
チベット(ラダック)編 vol.4

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色黒にパンチパーマ的髪型に黒のグラサン。
どこのチンピラかと見まがうドライバーが運転する車のアクセルには
クマのぬいぐるみがぶら下がっていた。

これから2泊3日をかけて、ザンスカール方面に西、下ラダック地方へ。
車で楽ちん、と思っていたのは最初の一瞬だけだった。
とにかく、鼻歌を歌いながら、飛ばすのである。
その飛ばしっぷりが、軍隊の車列を追い越し車線しては軍車両の
間に無理やり入ったりだとか、車1台通れるくらいの崖っぷちを
普通に40キロオーバー(彼にとってはかなり徐行なのだろう)、など
冷や汗をかくものばかりである。

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(こんな道絶対運転したくない 落ちる)

しかし当たり前だけれど慣れていた。
わたしが運転していたら、あの道はたぶん30回くらい死んでいるだろう。

そしてこのチンピラ風、軍隊の車両の間に突っ込んでいくときも窓を開け
相手のドライバーに「ジューーーーレーーーイっ」と手を振る。笑顔で。
(ラダックの言葉で「ジュレー」はあらゆるあいさつに使える便利な言葉)
クラクションも鳴らさず、苦笑で手を振りかえす軍人。
相変わらず、のどかなのか物々しいのかわからない人たち。

1本しかない舗装された幹線道路は、軍の拠点どうしを結ぶ軍事道路の
ようなもので、小さな村と軍施設が点々とする道路を駆け抜けていった。

途中のサスポルという所に洞窟があるというので車を降りると、やっぱり崖のぼりだった。
もう、ラダックへ来てから崖のぼりしかしていない気がする。高地トレーニング。
目以外の顔中をタオルで覆うという日除け技を身につけ、炎天下をゆく。
上りきったところにあった洞窟には一面に壁画が書いてあり、また涼しかった。

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(これを登るのか…また崖…)

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(瞑想するガイド(ここまで敬虔ではない。サービスショット)と、ドライバー。)

ガイドとわたしで先に出てまた道なき石の道を下って行くのだが
いつまでたっても出てこない人1名(ドライバー)。ガイドも心配した次の瞬間、
サーフィンでもするかのように斜面をショートカットで滑り降りてきた。
ブッダが力をくれたそうです。あ、そうですか…。

次に立ち寄ったのはラダックの中でもかなり大きな観光名所のアルチゴンパ。
しかしこのゴンパよりも、その直前に立ち寄った小さな町が非常に素晴らしかった。

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門番がわりの仔馬に出迎えられ、民家に入っていったガイドがおじいさんを
連れて出てくる。おじいさんは鍵をあけてごく小さいゴンパを見せてくれた。
人が来た時だけ開けて見せているらしい。本当に敬虔でずっと何か唱えていた。
家の壁沿いを伝って村内を探検し、農作業中のおばあちゃんの笑顔にも出会う。
わたしの見たかったラダックが、そこにはあった。

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そしてたくさんの、アンズの木。ラダック名物でもあり、また、旬でもある。
ガイドはおいしいアンズの木がわかるらしい。
レーに帰ったらアンズを買いにマーケットへ行こう、というような話をする。

車に戻ると例のやんちゃなドライバーが「あんずが食べたいか」と聞く。
なにとはなしに、うん、と答えると

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ちょっとあんたらwwwwwwwww
わたし、そんなつもりで言ったんじゃないですからー!
すみませーん!あんずどろぼういますー!

そこへ、民家のおばあさんが通りかかる。
この難局(?)も、彼は塀の上からとびきり笑顔の「ジュレー!」で乗り切ったのでした。

旅は続く。

08:00 | yuu | ■山賊団の仲間になった はコメントを受け付けていません
2014/10/07

地球の舳先から vol.338
チベット(ラダック)編 vol.3

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デリーからわずかに1時間と少し。レーへ飛んだのはLCCのGoAirという
航空会社だったが、むしろインド国営よりもよほど信頼ができるというもの。
何せ、HPでも「GoAirは定時運行!」と堂々とうたっている。(そこですか…)

小さい空港に定時に降り立つと、荒涼なる大地と空の広さに圧倒された。
空港の建物まで送るバスの運転席ミラーの横で、ダライ・ラマの写真が揺れる。
見知らぬ土地へ来た、という実感が沸いてくる。

ターンテーブルと少しのベンチだけがある到着場で荷物をピックアップし
ここからは人任せ。久しぶりの、車もガイドもすべて手配済の楽ちん道中。

が、まずは高度順応のための休憩ということで、ホテルへ直行。
ちんまりとこぎれいなホテルで、何より驚いたのはベッドの布団がふかふかだったこと。

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コンコンとドアが一応ノックされ、答える前にガイドが荷物を持って入ってくる。
急に酸素が半分以下の富士山頂レベルの標高へ来たので、
階段を10段のぼるだけでも心肺に結構来る。
できるだけ緩慢な動きと深呼吸を心がけ、ベッドに横になる。

と、またしてもコンコンと一応ドアがノックされ、お茶が運ばれてきた。
鉄のポットで淹れた甘いチャイが体に沁みる。

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昼になると昼食へ近くのレストランへ出かけた。チベット料理。
そこかしこに、ダライ・ラマの写真が飾ってある。
好物のモモ(水餃子みたいなもの)の入ったスープを飲んだ。

そこから、シャンティ・ストゥーパ、ナムゲル・ツァモ、レー王宮と
小高い丘の上にばかり作ってある観光名所を見学する。
照りつける太陽は地面からの照り返しも半端な光量ではなく、
帽子や日傘などまるで役に立たず肌を焼く。太陽が本当に近いのだった。

近くまでは車で送ってもらえるが、基本的に徒歩で登る。
さっき高地に来たばかりの人間にはかなり辛く、のっけから修行の体。
しかし丘から見下ろすレーの街はまさに岩に囲まれた要塞で、
長く伸びたポプラの木の緑色が濃く、非常に絶景。

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タルチョという、チベット仏教独特の祈祷旗がそこかしこで風にはためく。
少しの日陰を見つけて休んでいると、ここにはモンゴル人の死体が埋まっている、
とガイドが説明するので、驚いた。そして、驚いた自分に驚いた。
仏教だって、生まれてこのかた、争いをしてこなかったわけじゃないのだ。
それを平和の象徴のようにまで高めた今のダライ・ラマはやはり偉大だと思う。

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日本人が建立したというシャンティ・ストゥーパでは、現在は袂を分つ
たとはいえ日本人の肖像画がいまだに飾られ細かく手入れをされていた。
堂内でガイドがラダック語で書かれた真ん中の展示物を指さし、
「これ、日本語だと思うよ。ナン…ミョー…ホー…レン…ゲッ…キョ…」
と読み上げ、ああそれね、とわたしがうなずくと、こぼれんばかりの笑顔で
「どういう意味??」と質問された。

…。

昔チベットへ行ったときに勉強したかじり知識を漁り、
「えーと、チベット仏教でもなんか、お参りするときとか唱えるやつあるでしょ?
オンマニなんとかってやつ」
「オンマニペメフム?」
「それそれ!それの日本語版だよ!」
「なるほどー!へー!!!」
…本当か?本当か?自分…。

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あまりに秘境感あふれる非現実的な光景に、ここがインドであることを忘れる。
一方で軍の施設は非常に多く、武器もった軍人がうようよと町を歩いている。
その、なかなか相容れないはずのふたつの側面。

インドというのは、EU加盟国を全部足したのよりひとまわり小さいだけだという。
複雑に入り組む、これだけの民族と宗教を受け入れたこの国のデカさを思った。
いまここにラダックという地方が存在しているのも、
不安定なバランスの上に成り立つ一瞬の奇跡なのかもしれなかった。

つづく

08:00 | yuu | ■ラダックの玄関口 レーへ はコメントを受け付けていません
2014/09/24

地球の舳先から vol.337
チベット(ラダック)編 vol.2

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夜中、0時15分。
ほぼ定刻に、わたしは何よりの障壁「デリー」に着いた。
デリーといえば、もう話しかけてくる人は全員悪者だと思ってかかったほうがいい。
特に観光地で観光客に話しかけてくるようなインド人は信用しないほうがいい。
ありとあらゆる嘘、巧みな連係プレーは世界トップレベルの犯罪のデパート。
その商魂の逞しさを「生きる力」となぜか褒めそやす人もいるわけだが
わたしにとっては世界一、関わり合いになりたくない都市である。
危険なことはいやなのだ。人ともめるのもいやなのだ。静かにしてください。

ラダックまで乗り継ぎの飛行機は6時間後。街に出るなどとんでもない。
国内線のフライトが飛び立つターミナルまで移動して、空港内ホテルで寝ることにした。
エアポートシャトル(無料)の表記のある柱でバスを待つ。24時間運行と聞いている。

怪しいおっさんその1が近づいてくる。制服を着ているからといって安心してはいけない。
「もしもし、ターミナル1へ行くなら、チケット買ってください。」
…無視。無料だって知ってるんだっつーの。
「もしもし」
「ノー」←真顔
「……。」
おっさんその1はカウンターへ消えていった。まったくこれだからデリーは…
このバスは無料だって地球の歩き方どころかここの柱に書いて、あ、、、、、、、、
“乗り継ぎの方はカウンターでバスのクーポン(無料)を入手してください。
 それがないと車内でお金をいただきます。”

Σ(゚ロ゚;)

この段階ではわからなかったのだが、デリーの空港は鬼のようにセキュリティが厳しい。
デリーまで来た搭乗券と、乗り継ぐ便のeチケット、パスポートを照らし合わせて
PCに入力し、出てきたレシートのような紙をもらう。これがバスクーポンらしい。

乗り場の前でバスを待っていると、怪しいおっさんその2が現れた!
「バスはここじゃない。18番の乗り場だ」
旅行客っぽい格好のおじさんその2の指す先で止まっているバスは…
シャトルなんかじゃない、コルカタあたりで街中を走っていたようなおんぼろのただのバス。
明らかに疑惑の視線を投げるわたし。振り返って、カウンターのおっちゃんにも疑惑の視線を投げる。
「あれだ。18番」怪しいおっさんその1も言う。
グルか?よくあるらしいよね、そういうの。しかもただいまミッドナイト。

怪訝なまま一番端の乗り場まで歩く。バスにはたくさんの労働者ふうの人が乗っている。
10年前に来たインドとひとつ決定的に違っていたのは、全員がスマホでSNSを見てることだ。
切符売り(車内にいる)、運転手、外国人乗客の3人に行先を確かめ、わたしはそのバスに乗った。
最初にここを教えてきたおっさんその2が、ずっとこっちを見ている。
怪しい。いや、心配してくれているだけかもしれぬ。

ターミナル間の移動なんて短距離だろうと思っていたら、一回街中に出るかなりな距離。
(あとで調べたところ5キロもあるらしい)
どんどん暗い街中に向かっていくバス。一瞬、やっぱり乗ったことを後悔する。
が、しだいに「ターミナル3」という表示看板が現れるようになり、それらしき建物の前で
停車したバスからわたしは転げ落ちるように降りて、一目散に建物内へと走る。
とにかく屋内にいれば安全な気がする。

「もしもし、そっちじゃないよ」
こんな夜中に、閉まった出店の前にいる、手ぶらの怪しいおっさんその3!
聞こえないふりをして、空港の建物の入口へたどり着く。
「ガビーーーーーーーン」 なんと空港壁の掲示にわたしの乗るはずの飛行機がない。
「そこは到着用、出発はあっちのビル…」少し向こうから、さっきの怪しいおっさんその3が叫ぶ。

…。

……。

「センキュー」

小走りに道を渡り、コーナーにあった個室付のきれいなラウンジになだれ込む。
なんていうかもう疲れた。寝かせてください。
こうしてわたしは「デリー」をやり過ごした(はず)。
布団をかぶっても寒すぎる冷房の中でしばし、寝た。

08:00 | yuu | ■深夜のデリーで空回る はコメントを受け付けていません
2014/09/09

地球の舳先から vol.336
チベット(ラダック)編 vol.1

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「夏休みはどちらへ?」
「ちょっとラダックまで」
…ストレートに答えて、わかってくれた人はわずかに1人だった。

パスポートを変えてから3回目の旅に選んだのはラダック地方。
国領としてはインドだが、東をアクサイチン(中国実効支配:国境ではない)
西をバルティスダン(バキスタン実効支配:国境ではないが停戦ライン設定済)
に挟まれたインド最北にあたる地で、ほとんどチベット。

今や「本家」であった首都ラサを中心とするチベットは、
中国の政治的支配によりチベット色をほとんど残していない。
それどころか、ダライラマと叫んだり、チベットの国旗を持っていたりしたら連行される。
以前ラサにも行って、高山病初級編を経験したりとそれなりに楽しんだのだが
チベット文化が見たいのなら、ラダックがいいかも、と前々から言われていた。

そんなラダックに嫁ぎ、現地で旅行会社を経営されている日本人女性のブログ
を発見してから、わたしのラダックへの興味は大いに盛り上がったのだった。
ラダははブログ ~ラダックで 母 奮闘~

どうせインドへ行くビザを取るのであれば、チベット亡命政府があり
ダライ・ラマ14世の邸宅もある北部のダラムサラにも寄ろうということになり
すっかり「チベット旅行」のプランが出来上がったのだった。

ひとつ不本意だったのは、高山病の薬を飲んだこと。(レーの標高は約3600m)
わたしは、「身ひとつで行くことできない」ようなところは、そもそも「呼ばれていない」国だと思う。
短期長期含めて、海外に行ってもちいさな病気にすらかかったことがないが、
もし病気なんぞになったら、せっかく選んで好きで行った国から拒絶された気がして
大層悲しい気分になることだろうと思う。
怪我も病気もしないのが、なによりもトラベラーの勲章。逆ととらえるのは中二病です。

ただしわたしももう若くない。同じくらいの標高のイエメンに行ったときは25歳くらいだった。
なにかあって向こうで日々を無駄に過ごすくらいなら、と思って飲んだ薬は強烈だった。
とにかく、手足がしびれる。そのしびれ方が、なんか足の中からブクブクと気泡が
あがってくるようなキモチワルイものなのである。
おまけに血圧と眼圧も下がり、たった50mlくらいのお酒がガンガン回る。
向こうに着く5日くらい前から飲むようにとの指導だったのだが
これはアル中の薬なのではと疑ったほど、酒量の減った何日間かだった。

痛いとか嘔吐のようなイヤな副作用はないのでまあいいのだが、不快は不快。
ぐずぐずするわたしは、とある友人の一言で立ち直った。
「超効いてるじゃん」
そっかー!そういうことかー!

準備万端。いざ、高原へ。

08:00 | yuu | ■念願のチベット高原へ はコメントを受け付けていません
2014/09/03

地球の舳先から vol.335
東北(2014)編 vol.10(最終回)

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「かつおの刺し、ください」 寿司屋で、座る前から頼むと、目の前の板さんが
「今日、チューする予定は?」
「今のところ?」
「じゃ、にんにく付けますね。そのほうが、おいしいから」

陸前高田出身だという板さんとゆるりとカウンターで語りながら、帰りの新幹線の時刻を待った。
新幹線に乗ると、またすこしだけ寝た。遊び疲れて、なんだかよく寝る日だった。
起きた頃には半分以上東京で、そのために早めに帰ってきたリハーサルの時間も迫っていた。

なんのために、踊ってきたのか。
なんのために、吸い寄せられるように気仙沼へ行ったのか。
なんのために、たくさんの人との出会いがあったのか。

長い時間を経て、自分がこれまでやってきたことが、1本の線でつながる感覚があった。
目が覚めたときには、壮大な妄想のような夢が仕上がっていた。

気仙沼にバレエ団を作る。

普通に考えたら、「なに言っちゃってんの」な話である。
でも、現実から逆算をするのが、計画性からたたくのが、本当に大人なのだろうか。
不可能を可能にするのは、結局のところ根性とかだけだったりするんじゃないだろうか。

やればできる。っていうか、「できない」ってなんだろう。
夢を追ってる限り、ずっと道半ばだから、「ダメだった」なんて結論、一生出ないわけだし。
「何年かかるか」も考えないことにした。ただ目先のなにかを、ひとつひとつ。

力をくれたのは、間違いなく、この3日間で会った、しなやかで強い、東北の人たちだった。

それからの日々は、行きあたりばったりの呼ばれて飛び出てを繰り返し、
毎日が濃く飛ぶように過ぎ、気づいたらわたしの夏は終わっていた。

ほとんど毎日、人と会っていた。
何かしらの特殊技能を持った人たちが、「協力してやる」と手を挙げてくれ続けた。
ひと月後にはふたたび気仙沼へ行き、新たな出会いもあった。
特に、現地で唯一のバレエスクール、悲しい被災経験を越えて再び立ち上がった「気仙沼バレエソサエティ」さんと公演をご一緒できることになったのは、願ってもいない僥倖だった。

日を追うごとに、思いついたばかりの活動が、沢山の人のプラスのエネルギーで満ち始めた。
わたしは、プロジェクトの名前から、「ボランティア」の文字を外した。
これは、「震災復興」活動ではない。
震災復興を掲げている限り、それは長く続く類の活動にはならないだろうし、何よりわたしは
“気仙沼がかわいそうだから”この活動を始めたのではなく、
“気仙沼が好きだから”この活動を始めたのだから。

だから、
“気仙沼バレエ旅芸団”。
イメージは、キャラバンの移動式サーカス団。

「被災地だから」ではなく、「旅行するのにいいところだから」、
遠路はるばる出かけて、美味しいものを食べて、温泉でも入って、一芸である「バレエ」をやる。
そして、1年に1度くらい、気仙沼旅行ついでに踊ってくる、という人が増えたら、すごくいい。
ダンサーだって、「自分のための」発表会じゃなくて、「観客に見せるための」公演の機会って意外と少ないから、得るものも大きい。

旗揚げ公演、10月19日。
3年かけるような緻密な事業計画書を、用意しなかったから良かったのかも。

やっと立ったスタート地点。
でも、一段落なのでここで一度、これまでのさまざまな出会いとご縁に感謝して。

踊りに行きます!気仙沼。
励みになるので、「いいね!」お願いします。応援してください。
気仙沼バレエ旅芸団

08:00 | yuu | ■今度は踊りに、気仙沼。 はコメントを受け付けていません
2014/08/25

地球の舳先から vol.334
東北(2014)編 vol.9

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鳥の声で起きた。
かつてそんな経験があっただろうか?と思う。
良く飲んだ割になんとさわやかな目覚めだろうか。

朝食をとって雄勝アカデミーに別れを告げ、港へ向かう。
大量のホヤが揚がっていた。もちろん、見るのも初めて。
ホヤの養殖は3年かかるということで、あれから3年の今年が初の水揚げとなる。

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ここで、漁師さんの指導のもと、蒸しホヤにするためにホヤをさばく。
ホヤの「ヘソ」と呼ばれる部分は希少部位なのか、違うバケツに溜めていく。
切り、内臓をはがし、腸の中の排泄物を出す。
次々に水揚げされるホヤ、積み上げられるカゴ…
いつ終わるともしれない作業だが、これを少人数でやるのは大変だろう。

黙々と続く作業の中、目を盗んではさばきたてのホヤをバケツではなく口に入れる一行。
「うまい!」思わず声が出る。
見かねた漁師さんが持ってきたのは…缶ビールだった。

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作業が終わると、漁船に乗り、養殖場を見に連れて行ってくれることになった。
「漁師」というとどうしても大きな船で集団で遠洋漁業を想像するが、
養殖が中心の雄勝では個人商店のようなものらしい。

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まず見に行ったのは前日に悶絶した銀鮭の養殖所。
網を張り巡らした中に、何千匹といるらしい。
水面を跳ねる銀鮭。あれで筋肉がついて身がしまるのか?

続いてはホタテの養殖場へ。船に積んだ秘密兵器たちが活躍する。
捕ったホタテを機械にかけると、貝についた海藻やごみがきれいになって出てくる。

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それを漁師さんがその場でむいてくれる!!!なんと贅沢なのか。
なんとも甘みがあり、とろみの中にしっかりした身の歯ごたえ。最高に美味い。
海に捨てる部位もあるが、一瞬で海鳥がさらっていく。

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漁師さんもご自慢の、この笑顔!

こうして穏やかで波の少ない(そのため養殖に向くらしい)雄勝湾クルーズを終え
鳥の集団に追いかけられながらふたたび陸へ。
湧水を貯めた水槽で手を洗う。まさに自然の中の課外授業。
日曜なのに船を出してくれた漁師さんに感謝である。
雄勝が再生され、大量の海の幸が獲れんことを切に願う。

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帰京の時間も迫っていた。
石巻までの帰り道、大川小学校へ立ち寄る。
ここは、津波でほとんどの児童・教職員が流されるというまさに惨劇の起きた地。
発令が出てから50分後に津波が到達、そのわずかな間に保護者が迎えに来た
児童と、あとほんのわずかな偶然の生存者を残しほとんどが犠牲になった。

ここまでは津波が到達されないとされ、この小学校自体が避難所に設定されていた。
そのため皮肉にも普段からの避難訓練や対策が徹底されていなかったという批判もあり
生存者と学校側の説明の差異、話し合いを拒否し続けた教育委員会への不信感も募り、
3年後の2014年3月10日には、遺族団が損害賠償を求める訴訟を起こしている。

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母子像が建てられ、慰霊牌が立ち並ぶ。
乗用車や大きなバスが絶えず立ち寄っていた。
時が止まってしまった光景が、そこにはあった。

動き出した未来はたくさん見てきた。
誰だって、ポジティブな方を向いていたい。
しかし、いまだ何一つ終わっていないこともまた、同じくらい沢山あるのだった。

08:00 | yuu | ■漁業体験、いや、クルーズ。 はコメントを受け付けていません
2014/08/18

地球の舳先から vol.333
東北(2014)編 vol.8

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バスはこの日の最終目的地、雄勝地区へ向かっていた。
女川から雄勝までを走るのも初めてなので、道々の車窓を…と思っていたのだが
カツオの水揚げから始まって、うに丼、温泉、女川と盛り沢山の長い一日のすえ…
「はい、着きましたよー」の運転手さんの声に起こされる。
ほんとうに、東北へ来ると、なんでこんなによく寝るのか。

宿泊するのは古民家を改修した「雄勝アカデミー」という森の中の平屋。
何がアカデミーかというと、ここは、公益社団法人sweet treat 311という団体が
雄勝の築90年を超える廃校を再生するプロジェクトを進めている拠点であり
支援者や地元の人たちが集う場所(家)になっているのだ。
このあたりは一緒した千恵さんが記事を書いているので詳しくはそちらに譲ろう。

さっそく、畳に布団を敷き(修学旅行気分)、ダラダラした格好に着替える一行。
大広間にはすでに先に着いていた人々が今にも宴会を始めようとしている。
雄勝アカデミーは毎月クラウドファンディングで資金を募っていて、
その中に1万円寄付のリターンとしてこの古民家で寝泊まりして食道楽できるという
プランがあるのだった。
布団を敷き先に着替えたのも、たらふく飲んでそのまま寝ようという魂胆である。

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テーブルに盛られた沢山の料理。いちいち美味い。料理が上手いし、食材に味がある。
そして本丸がやってきた。牡蠣である。この時期に?と思われるかもしれないが、
本当に美味いモノは市場に出回らないことをよくよく知った。
蒸しただけ。ぷりぷりだけどふわふわ。箸で3つくらいに切る。1個でお腹いっぱい。

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そして、ホヤ。ホヤといえば、すえたような味と匂い…というイメージだが全くない。
貝類らしいコクがあり、ビールを飲んでいる場合じゃなくなり、日本酒に持ち替える人たち。

しかし、わたしの中での「トドメ」は「銀鮭」だった。
銀鮭は回遊魚で寄生虫がつくため生食は普通はできないのだが、雄勝では稚魚のときに
川から捕ってきて養殖するので刺身で食べられるのだという。
このまろやかな味がすばらしく、「肉も魚も赤味がいいのじゃ。脂身なんてもたれるだけじゃ」
と言い続けていた自分に、心から手のひら返しをした。

おかげさまで、あれ以来、スモークサーモンを食べて「む、この脂身は魚本来のものじゃない」
などがわかってしまうようになり、相対的なQOLとしては幸福度下がったのかもしれないが…

最後に食べたのは、ふかふかの白米にこの銀鮭とお湯をぶっかけただけのお茶漬け。

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…あれ、雄勝アカデミーのことを書くはずが、まったく食べ物のことしか書いていない。
思えば、今回の旅のシリーズタイトルも「美味いもん巡り」になってるし…何しに行ったんだ。
そんなわけで、雄勝アカデミーについての上の千恵さんの記事をよくよく読んでください。
あと、sweet treat311のクラウドファンディングのページはこちらです
よろしくお願いします。

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雄勝アカデミーは猫ちゃんもグルメ。アイナメ1匹もらってますよ!

08:00 | yuu | ■雄勝アカデミーで食道楽 はコメントを受け付けていません
2014/08/06

地球の舳先から vol.332
東北(2014)編 vol.7

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南三陸を出て、女川へ。ずっと行きたいと思っていた場所。
ただ車がないとどうにも行くのが難しく、今回のお誘いはまさに3年目の僥倖だった。

まずは町役場で、須田善明町長のお話をうかがった。
なんというか「政治家」っぽくない、民間企業というか体育会系の営業マンみたいで、
「相手のわかる言葉」で喋るのが印象的だった。
須田町長の経歴に「電通東北」という文字を見つけて、非常に納得した。
わたしも1年前までは電通ナントカという支社にいたからである。

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(須田町長の話を聞く、わたしと、今回のツアーに誘ってくれた盟友千恵ちゃん。)

少しだけお話を伺うはずが、マイクロバスに同乗して町内を案内してくれるという。
「休日出勤ですみません」と恐縮する一行に、
「いや、この仕事は休日とかないですから」と豪快に笑う。
そう。豪快なのだ。

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各地で議論の防潮堤は作らず、海沿いの大幅なかさ上げをするプランを採用した女川町。
その理由は、「海を“怖いもの”と考える町には、したくなかった」。
かわりに、山を切り崩して、すごいスピードで盛土が進んでいる。
見たことのない大きさの重機は、幹線道路で運べないのでここで組み立てているのだそうだ。

もちろん、簡単に採れる選択肢ではなかった。
須田町長が育ったという家も、盛った土の下に埋もれることになる。
「元に戻らないのは、そりゃしのびない。思い出だってたくさんある。
 でも、僕よりも子供たちのほうが、長く生きるんだから、
 これまでよりもこれからのことを考えないと」
そのためにはひたすら、向き合って、話をするしかない。
時に十何人という規模からの町民説明会を、須田町長は繰り返しているという。

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須田町長からはこの、「子どもたち」という言葉を何度となく聴いた。
最初に配ってくれたパンフレットの表紙にも、こんな詩が載っている。

    女川は流されたのではない
   新しい女川に生まれ変わるんだ
   人々は負けずに待ち続ける
   新しい女川に住む喜びを感じるために

「小学生の子どもがね、こういう文章を書くんですよ。
 大人ばっかり下を向いていたら、駄目でしょう」、と。

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「この震災を活かしていくためにどうしたらいいか」を児童・生徒たちと一緒に考え、
建てたのが女川中学校の前にある石碑である。
「津波が来たらここより高いところに逃げてください」ということと、「何があってもこの石碑を撤去してはならない」ということが、日本語、英語、フランス語、中国語で書かれている。
それはなぜか。遠い将来に、この地で日本語が公用語かどうかなんてまったくわからない。
たとえこの地が誰の国になっていたとしても、ここに住む人の命のために――
「千年後を見てるから」と、あくまでも須田町長は豪快に、笑う。

「戻す」でも「作る」でもなく、「遺す」ことを考えている人だと思った。
自分の手の離れた後、いや、それどころじゃなく、自分が死んだそのずっと先を。
1000年つづく町があるとしたら、こういう人がいた所なのかもしれない。

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須田町長が最後に案内してくれたのは高台(といっても海のすぐそば。スイスの援助で再建した)の病院だった。
ここには、急作りの慰霊碑があった。「仮のものです」カメラを向けるわたしたちに、そう言う。
「新しい町ができたら、一番いいところに、これを移したいと思ってます」
そこからは今、横倒しになったままの、大きな灰色の建物が見おろされていた。
ああいうのは撤去するのかと聞かれると、「維持費とかそういう問題もあるけれど…」と前置いて

「名所を作るなら、どんなに悲惨なことがあったか、ということではなくて、
 そこから立ち上がった活力のほうを見せていくのが女川の役目じゃないかと。」

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駅前地区の町びらきは来年の3月の予定だという。
その頃また来よう、と強く思った。
だって、結局笹かまも食べてないし(大変不覚)…。

須田町長、プラスのエネルギーをありがとうございました。

12:00 | yuu | ■女川町、須田町長。 はコメントを受け付けていません
2014/08/01

地球の舳先から vol.331
東北(2014)編 vol.6

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切符を買って、JRの気仙沼駅に入ると、そこは車道だった。
BRT(bus rapid transit)路線は、断線した列車の代わりに海沿いを走るバス。
そのため、JR気仙沼駅は、電車の走るホームと、車の走る道路が平行に並んでいる。
ひかれるほどの本数はないのだが、旗を持った人が乗客をひとりひとり案内する。
ほどなくして、ホヤぼーやのイラストがふんだんに使われた赤いバスが入ってきた。

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発車すると、携帯を取り出して、到着予定を知らせるメッセージを打つ。
イランにも一緒に行った盟友、千恵さんのご一行と南三陸で合流することになっていた。
彼女は物を書く仕事をしていて、その取材で宮城県雄勝に何度か行っている。
わたしが気仙沼をこよなく愛していることもよく知っていて、今度南三陸や女川、雄勝を回る
ツアーを友人同士で組むけど行かないか、と誘ってくれたのだった。
わたしは「雄勝」の読み仮名もわからなかったが、「笹かまね、行く!」と即答した気がする。
これを書いていていま気がついたが、笹かまを食べ忘れた。

バスはまだ復興とはほど遠い景色のところも通って行く。
降車した志津川駅は目の前が南三陸町のさんさん商店街。
ここで一行と合流し、南三陸町長である佐藤仁さんを囲んで昼食会だ。
わたしは旅に出たら朝からでも飲みたいのだが、さすがに町長が一緒ではまずいだろう。
うおう、ビールなしでこれから海鮮丼を食べるのか、と思っていると「飲め飲め」と言う。
すかさず、男性陣が地酒とビールを仕入れてきた。南三陸に地ビールがあったとは!
なるほど、町長がどんどん飲めという理由がわかった。

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昼食会を終えると、マイクロバスへ乗って、「あさひ幼稚園」に立ち寄った。
サッカー日本代表の長谷部誠選手が著書の印税を全額寄付している。
総木造でやさしい香りのする建物。
将来的な移転を考えて釘を使わず建てているという。宮大工仕事。

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いよいよ、南三陸へ行く人の多くが必ず訪れるであろう防災対策庁舎跡地へ。
テレビでもよく報道されたのでご存じの方も多いだろうが、職員だった24歳の女性が、
最後の最後までこの庁舎に留まって町中に避難を呼びかけ続けた。
そして、津波に流され、命を落とした。

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3年前、わたしはここに来ている。
「被災地を見たい」などとは言い出せないまま、ホテルのスタッフにタクシーの手配を頼んだ。
しかし彼女はすべてを察しており、呼んでくれたタクシーの運転手さんは、
わたしが何を言わずともはじめにパネルされた震災前の南三陸の写真を手渡してくれ、
いろいろと説明をしながらこの地を回ってくれたことをよく覚えている。

まだ建物の上に自動車が乗っかり、信号がひしゃげてなぎ倒され、がれきが残っていた。
そんな中運転手さんが「あ、あれ」と思わず車を止めたのは鮭のほんの小さな養殖所だった。
あれからわずか半年のこの地で再出発を果たそうとする、「生」の側の一端だったのだろう。
海の幸が入らないのに、他から仕入れてでも、震災前と同じメニューを意地で提供していたホテルのレストラン。
そして真っ先に再建したという、真新しい、海に張り出した露天風呂。
そこから見える光景は、目の届く限り津波に流された更地が続いていた。

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3年ぶりで、その、ホテル観洋の温泉に入った。
3年前と同じ穏やかな凪からは、やっぱり津波を想像することができず
別人のように美しい海は、かえって自然の残酷さばかりを思わせた。

08:00 | yuu | ■3年ぶりの南三陸へ はコメントを受け付けていません
2014/07/29

地球の舳先から vol.330
東北(2014) 番外編

先月の旅のコラムの途中ではありますが
ついこの間行ってきた夏の気仙沼が楽しすぎたので割り込み番外編レポート。

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かつおを食べに行ってきたのです。
(↑何コレ?少なくともわたしの知ってるかつおじゃない)

いや、珍しく、旅行というより用事があって行ってきたのですが、
「気仙沼で一番美味い鮨屋」とその筋の人がおっしゃるお店へ行き

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「ふかひれ冷製茶碗蒸し」なるものを食べ
(2層になっていて、上の透明な部分はふかひれの煮こごりでできてます!
そして!ふかひれの!身が!!)

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2日目はあまりに天気がよかったもので、あと海の日だったので船に乗り

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大島というところへ行って涼しげな紫陽花街道を電動チャリでひた走り

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素敵なカフェでお茶をしながら帰りの船を待っちゃったりなんかして

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舳にあるホテルの海の見える温泉で暮れなずむ港を見て

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ジャズの流れるヴァンガードコーヒーでサイフォンではなくアイスコーヒーを飲み

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駅前の味のある食堂で気仙沼らーめん(さんまのふわふわつみれ入り)を食べ

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かつおを買って、帰ってきました。

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そうだここは海のまちなんだから、夏が一番似合うはずなのに
どうも食欲先行だと秋のシーズンばかりに目が行ってしまうのでした。

今回はカメラも置いていったから、すべてスマートフォンの写真です。
次回からはまた、東北旅の続きをお届けいたします。

12:00 | yuu | □夏の気仙沼。 はコメントを受け付けていません

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