« 声優的な勉強と、学生的な勉強の違い | Home | ポートレート専科 後記1 »
地球の舳先から vol.332
東北(2014)編 vol.7
南三陸を出て、女川へ。ずっと行きたいと思っていた場所。
ただ車がないとどうにも行くのが難しく、今回のお誘いはまさに3年目の僥倖だった。
まずは町役場で、須田善明町長のお話をうかがった。
なんというか「政治家」っぽくない、民間企業というか体育会系の営業マンみたいで、
「相手のわかる言葉」で喋るのが印象的だった。
須田町長の経歴に「電通東北」という文字を見つけて、非常に納得した。
わたしも1年前までは電通ナントカという支社にいたからである。
(須田町長の話を聞く、わたしと、今回のツアーに誘ってくれた盟友千恵ちゃん。)
少しだけお話を伺うはずが、マイクロバスに同乗して町内を案内してくれるという。
「休日出勤ですみません」と恐縮する一行に、
「いや、この仕事は休日とかないですから」と豪快に笑う。
そう。豪快なのだ。
各地で議論の防潮堤は作らず、海沿いの大幅なかさ上げをするプランを採用した女川町。
その理由は、「海を“怖いもの”と考える町には、したくなかった」。
かわりに、山を切り崩して、すごいスピードで盛土が進んでいる。
見たことのない大きさの重機は、幹線道路で運べないのでここで組み立てているのだそうだ。
もちろん、簡単に採れる選択肢ではなかった。
須田町長が育ったという家も、盛った土の下に埋もれることになる。
「元に戻らないのは、そりゃしのびない。思い出だってたくさんある。
でも、僕よりも子供たちのほうが、長く生きるんだから、
これまでよりもこれからのことを考えないと」
そのためにはひたすら、向き合って、話をするしかない。
時に十何人という規模からの町民説明会を、須田町長は繰り返しているという。
須田町長からはこの、「子どもたち」という言葉を何度となく聴いた。
最初に配ってくれたパンフレットの表紙にも、こんな詩が載っている。
女川は流されたのではない
新しい女川に生まれ変わるんだ
人々は負けずに待ち続ける
新しい女川に住む喜びを感じるために
「小学生の子どもがね、こういう文章を書くんですよ。
大人ばっかり下を向いていたら、駄目でしょう」、と。
「この震災を活かしていくためにどうしたらいいか」を児童・生徒たちと一緒に考え、
建てたのが女川中学校の前にある石碑である。
「津波が来たらここより高いところに逃げてください」ということと、「何があってもこの石碑を撤去してはならない」ということが、日本語、英語、フランス語、中国語で書かれている。
それはなぜか。遠い将来に、この地で日本語が公用語かどうかなんてまったくわからない。
たとえこの地が誰の国になっていたとしても、ここに住む人の命のために――
「千年後を見てるから」と、あくまでも須田町長は豪快に、笑う。
「戻す」でも「作る」でもなく、「遺す」ことを考えている人だと思った。
自分の手の離れた後、いや、それどころじゃなく、自分が死んだそのずっと先を。
1000年つづく町があるとしたら、こういう人がいた所なのかもしれない。
須田町長が最後に案内してくれたのは高台(といっても海のすぐそば。スイスの援助で再建した)の病院だった。
ここには、急作りの慰霊碑があった。「仮のものです」カメラを向けるわたしたちに、そう言う。
「新しい町ができたら、一番いいところに、これを移したいと思ってます」
そこからは今、横倒しになったままの、大きな灰色の建物が見おろされていた。
ああいうのは撤去するのかと聞かれると、「維持費とかそういう問題もあるけれど…」と前置いて
「名所を作るなら、どんなに悲惨なことがあったか、ということではなくて、
そこから立ち上がった活力のほうを見せていくのが女川の役目じゃないかと。」
駅前地区の町びらきは来年の3月の予定だという。
その頃また来よう、と強く思った。
だって、結局笹かまも食べてないし(大変不覚)…。
須田町長、プラスのエネルギーをありがとうございました。