地球の舳先から vol.299
気仙沼(2013)編 vol.3(全5回)
日曜日に参加した気仙沼の気楽会観光案内課。
写真は、スタート地点である気仙沼市民会館の駐車場で道路を横断するカマキリ。
有志でごく丁寧に気仙沼を案内してくれるのだが、あまりの変わりっぷりに驚いた。
まずはまちの様子から。
★
一番びっくりしたのは、フェリーターミナルの建物が撤去され更地になっていたこと。
ここは甚大な被害のあった湾に面した場所で、1年たってもコンクリートの桟橋が
海に突っ込んだままだった。
これが以前のエースポート。
建物がえぐられ、2階の上あたりにここまで津波が来たという看板が貼ってあった。
↓
その跡地。いや、跡地というよりは再開発とよぶべきか。
大島へ向かうフェリーは健在なので、暫定的にプレハブ小屋の切符売り場があり
更地はバスと車の広大な駐車場になっていた。
人の行き来が活気を感じさせる。ここが観光バスでいっぱいになればいい。
★
こちらは、すぐ近くにある、かの有名な男山のかつての姿。
三階建てだったが底部全壊で1・2階がつぶれ、このように。
シンボリックな屋根が残ったのが、むしろ奇跡だったのかもしれない。
↓
こちらが現在の姿。寄付金での復旧プロジェクトが開始したとおしらせが貼ってある。
ナナメ感も補正されてよかった。明るい陽の光がまぶしい。
★
津波と火災で甚大な被害を被った鹿折地区。
震災半年後の当時はまだ手付かずの建物も多く、
地盤沈下によりかさ上げされた舗装道路との高低差が激しかったが
↓
現在は土地もならされ、もともとなにもなかったかのような外見になりつつある。
穏やかな山並みからは、2年前のこの地がすでに想像しにくくなっている。
車の往来も多く、ママチャリ族はそのたびに砂利側によける。
★
そして誰もしもが一度は見たことのあるであろうこの巨大船。
クレーン車でも到底動かすことができないこんな船が、津波で陸地ど真ん中に流れ着いたのだ。
↓
賛否両論の議論を経て撤去が決まったこの船は解体されることになり、
私が訪れたときにはすでに囲われていた。日曜だったので隙間から撮ったショット。
このコラムを公開するころには、解体作業も終わっていることだろう。
★
南気仙沼地区。
ここも車輌道路の舗装は進んでいたが、地盤沈下でところどころに海水が浮き出し
撤去されないがれきが点在していた。
以前来たときは雪がぱらついて、その寂しげな光景に心を搾られるような気持ちになった。
こわれた家よりも、築年数の浅い頑丈な家がぽつんと残っている風景のほうが戦慄的だった。
↓
あらかたが片付けられ、かさ上げもずいぶん進んだようだ。
でも、震災のすぐあとに、国や自治体が動いた暁にはやり直しになるのをわかっていながら
決定が遅すぎるとか、商売が始まらないとか、あるいはもっと別のさまざまな思いで、
自費でかさ上げをはじめた人たちがいる。
そういうひとたちが、第一歩をはじめたのだ。
★
気仙沼魚市。
まだ手に届くのではないかというほどのところに、がれきが漂流していた。
それでもあらゆる地からの船は、気仙沼にやってきた。
魚屋は、「今年はみんな、気仙沼大変だったねって寄ってくれる。2年目が勝負」といっていた。
↓
今回、日曜日でお休みだったこともありふたたび入った魚市。
水揚げはないのに大型船が到着したのでびっくりしたが、穏やかな気仙沼の湾には、
悪天候の一時避難所として停泊する船も多いのだという。
となりの魚屋が、「いつもありがとー!!!!」と、船に向かって絶叫した。
泣きそうになった。
★
あたらしい兆しも、たくさん見かけた。
プラザホテルから見下ろした気仙沼魚市近辺。
前は、平地と海と船しかあった記憶がないのに、建物がたくさん建ち始めている。
魚市は、市場があるだけでは成立しない。加工場や函屋さんなどがなければ、
水揚げをしたって出荷ができない。新しい大きな建物は、見ているだけでワクワクした。
★
見下ろす反対側も、きれいに片付けられ、「あの商店街がこんなに近かったのか!」
とびっくりしたりする。
中央の黒いテントのような形の建物は、渡辺謙さんがプロデュースし、伊東豊雄さんが設計した気仙沼の新しい名物(になるかもしれない)。
おいしいピザでみんなで飲んだり、映画上映やイベントなどを行う、皆が集うカフェになるそうだ。
★
いったいこの地に何ができていくのだろう。
気仙沼といえば魚とフカヒレ、だったけれども、これからもっといっぱい「気仙沼といえば●●」
ができていくのだろうと思う。
さて、次回は気仙沼で会った人たちをおとどけします。
つづく
=おまけ=
「そんなにおもしろいか?」って、沼人たちにあきれられた。
地球の舳先から vol.298
気仙沼(2013)編 vol.2(全5回)
気仙沼は食道楽のための地のようなものである。
魚はもちろん、ホルモンやクリームパンも有名で、コーヒー、お酒、いろいろおいしい。
しかし、まずはこの秋のすばらしい時期に気仙沼へ行くならなにをおいてもまず魚。
そしてわたしは回転寿司へ行っても「アジ・イワシ・サンマ」のローテーション
というくらい青魚派なので、目的はサンマとカツオである。
夜、一ノ関からの最終便で気仙沼入りすることにしていたため、一ノ関で時間の余裕を取った。
迷い無く、駅から10分ほどの距離にある「あさひ鮨」(本店は気仙沼)へ。
晩酌セット2300円は、酢の物・刺盛り・秋刀魚のつみれ汁・秋刀魚の焼き・握りにお酒2杯つき。
1杯じゃなくて2杯というのが、なんとも心遣い的にウレシイ。
ほろ酔いで2両編成の電車に乗り込み、無事に気仙沼入りした。
以下はわたしがローテーションでほとんど毎回行くお店のリストである。
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アンカーコーヒー&バル 田中前店
気仙沼の朝は、アンカーコーヒーから。猟師町らしく、コーヒーもおいしい気仙沼。
気仙沼へ行くたびにここのドリップを大人買いするのが恒例(通販もあるのだが)。
だいたい、町の中心から10~15分ほど自転車を飛ばして行くのだが、
開店前に着いてしまったため、焼き上がりのクロワッサンにありついた。
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気仙沼復興商店街 揚げたてコロッケ屋
気仙沼駅からも港からも近く、全54店舗(2013年11月現在)が入る南町紫市場。
ここに行列のできるコロッケ屋がある。メンチカツやらコロッケパンやらもある。
常に揚げ立てを提供するのでやや待つが、オリジナルの衣には野菜が練りこんである。
壁に貼られたB級グルメグランプリのポスターを見ながら、今年は気仙沼がどこまでいけるか、お客さんが盛り上がっている。
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気仙沼プラザホテル 和食処「海舟」
海が見えて船の夜景がきれいで、空いていればぜひ泊まりたいホテル。
刺身定食1200円は、6点盛りの豪華版。焼き秋刀魚をオプションでつけられる。
またしても秋刀魚。美味しい。でもまだ足りない。量が。
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マルト齊藤茶舗
お茶屋さん。ただしアートギャラリーということになっていて、
おかあさんの甘味が食べられるのは気仙沼気楽会の案内ツアーの特典なのかも。
壊滅的な被害を受けた地域なのに、ここには昔の空気が息づいている。
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気仙沼あさひ鮨
いわずと知れた気仙沼を代表するお鮨屋さん。元祖ふかひれ鮨のお店だそう。
コロッケ屋と同じ復興商店街に入る仮設店舗ながら、出前もやっていて大忙し!
ホヤぼーやの人形の目の前の角席をあてがわれ、特上寿司 2,600円をオーダー。
隣の方の、「お刺身1人前」も山盛りですごいものでした。
あと、お嬢様って呼んでもらえる(えっ…
地元の人も来ていて、ここ来たらふかひれ食べないとって隣のご夫婦がご馳走してくれた…
(ふかひれ鮨。姿のものと、この千切り金箔乗せとがある。)
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ますや食堂
朝早くからやっていて、しかも気仙沼駅前(むしろロータリー構内)。
結果、午前中の電車で帰らなければならない際に重宝する。普段はふかひれラーメン屋。
朝は、納豆定食、目玉焼き定食、いかの塩辛定食など500~550円でなんか懐かしい味。
会計後、なぜかヤクルトをサービスでくれる。
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ヴァンガード
大好きなコーヒー屋。ジャズ喫茶。雰囲気がものすごいのです。
朝のブレンドコーヒー。280円。でもコーヒー1杯だけ頼むのが申し訳ない。
おじさんが、ごく丁寧にゆっくりと入れてくれます。椅子も年季入ってる。
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番外編。一ノ関からの帰りの駅弁で、平泉うにごはん。
上からしょうゆをぶっかけるんじゃなくて、ごはんに味がついているタイプ。
このサイズも、すっかり胃拡張になった身にはちょうどいい休憩なのでした。
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番外編その2。市場で買ってきた戻り鰹。
「戻り鰹があがるのはここだけ!冷凍する前のモノなんかないからね、しかも300円、
これが気仙沼。気仙沼にきたら、こういうのを買ってってもらいたいの!」
のセールストークで思わず戻って買った。1g1円?!
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番外編その3。函詰めの秋刀魚はクール宅急便で。
さっそくさばいて、生でいただかなくてはとなめろうにしました。
しばらく秋刀魚料理が続き、私が1年で最も台所に立つ季節となる。
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ご馳走様でした、気仙沼。
今年も美味しかったし漁港が復活して本当によかった!!!
地球の舳先から vol.297
気仙沼(2013)編 vol.1(全5回)
「気楽会の観光案内課」。気仙沼の比較的若いひとたちが気仙沼の
まちと人を、あるいて案内してくれるツアー。
春~秋の間、もう7年も(つまり震災の前から)続けているというのだからすごい。
2011年に参加してから2年ぶりに、参加してきた。
気仙沼そのものは、1年ぶり。1年に1度は行っておきたいと思っている。
そして、だんだん知恵がついてきて、魚のおいしいシーズンを選んだ。
そのまえの1年では感じなかった、明らかな変化があった。
あたらしい建物がたくさんできていた。
土地のかさ上げもはじまっていた。
こわれた建物の痕跡は、ほとんどなくなっていた。
いい天気だった。とっても。暑いくらいの、厳しすぎる冬へ向かう最後の秋。
そして気仙沼を1日かけてぐるりと歩き、ゴールの斉藤茶輔へ帰るころ
あっけらかんと「あ~楽しかった!以上」な自分に気がついた。
もちろん今回だって、悲しい話も聞いたのだ。
「楽しかった!以上」でいいのかよくわからなくなったが、多分いいんだと思う。
* * *
わたしがはじめて気仙沼へ行ったのは、今は廃刊となった『旅』という雑誌を見て
この気楽会のツアーのことを知ったからだった。
ツアーに参加するために気仙沼を訪れた。
被災地といわれる場所に、行きたいような、行ってはいけないような、
そんな折に「気仙沼は震災後の今に訪れてもらっても十分楽しめる」
という彼らの言葉に背中を押された。
きっとわたしが気仙沼へ行ったのは、はじめから、いや、はじめは、
震災どうこうではなかったのだと思う。
ボランティア雑誌を見て行った訳じゃない。旅行情報誌を見て行ったのだから。
でも2年前、ツアーに参加したときは、やっぱりどうしたって「被災地を見た」と思った。
あたりまえである。
暗澹たる消化しきれない思いを抱えて、この地をあとにした。
1年前に行ったときは、深夜まで明かりが点る商店街や市場の活気、人々に
気仙沼と「被災地」ということばのイメージがなんだかつながらないと思って
とりあえずわたしは「復興途上地を歩いてきた」とよくいっていた。
今回、気仙沼を訪れて、「復興」という言葉にすらわたしは違和感をおぼえた。
「復興」とはいったい、なんなのだろうか。
もとにもどすことだろうか、更地からあたらしいなにかを作ることなのだろうか。
なにより「復」の字にはどうしたってリベンジのイメージがつきまとうし、
なんとも、いまの気仙沼に、その言葉というか字面は似合わない。
なくなったものを取り戻すことはできないということを受け入れた町なのかもしれない。
昔あったものをもう一度再現することをやろうとしているようには見えない。
だったらそれは、単に新しい気仙沼を作る「町づくり」なんじゃないだろうか。
「復興」なんてものがもしあるとしたら、そんなことばが使われなくなるときのことなのだろう。
* * *
新しい町づくりが、
日本のあちこちにまだまだたくさんあるであろう、昔ながらの町が人々によって
古いものも、新しいものも、いいところをたくさん集めて「いまの町」へ進化していく。
きっとわたしは、その貴重な過程をいま、見ているのだ。
真面目な人々に怒られるのは百も承知でいうと、
テレビのクルーに「防波堤問題をどう思うか」とカメラを向けられるのも鬱陶しかったし
「メディアと真の報道とは」と下を向いて語る外地の若者も鬱陶しかった。
気仙沼には、海があって、山もあって、ママチャリはたまにきついがサイクリングも楽しくて、
友だちがいて、美味いもんがたくさんある。
それがわたしにとっての「気仙沼」なのだ。
ようやく「旅」ができた気がした今回の旅行を
これから何回かに分けて、自慢げに振り返っていきたいと思う。
地球の舳先から vol.296
キューバ編 vol.12(最終回)
ハバナのライブハウスの最高峰、「カサ・デ・ラ・ムシカ」は、
ガリアーノと呼ばれる町の中心部ともう一軒、大きな陸橋を渡ったミラマール地区にある。
10年前は、ほんのわずかな小銭で現地人の乗合タクシー(しかし見る人が見れば垂涎の
クラシックカー)に乗り、開きっぱなしのドアを押さえながらこの陸橋を渡ったものだった。
戦闘能力を失った割に相変わらずお金も無いわたしは、観光巡回バス(10年前はなかった)
に乗って、ライブハウスの近くまで行くことにした。
「ミラマール」とだけ同乗しているえらくミニスカートの車掌に伝え、
いよいよ近くなると目的地の「カサ・デ・ラ・ムシカはどのへん?」と尋ねると
バスはその先で迂回をして巡回コースを逸れ、ここからまっすぐ、というところまで送ってくれた。
ミラマールのカサ・デ・ラ・ムシカはまだ品行方正で、
バンボレオというわたしでも知っている超有名アーティストの日だったこともあり
割合じゃまをされずに音楽を楽しむことが出来た。ハバナらしい夜が更けていく。
帰りはライブハウスの前に待ち構えたぼろいタクシーが破格で送ってくれる。
町を縦断してホテルまで帰る間、また走馬灯のように昔の光景が蘇る。
キューバの光景、というよりは、19だった自分が。
本質的には、この国は本質的にはなにも変わっていないように感じた。
多少垢抜けた気がしなくもないし、色々とへんなものが建ってもいたけれども
時流の間を狡猾に生き延び、「観光」をする分には相当ハッピーな国。
なんだ、こんなに変わらないんじゃ、もうあと10年後も来なきゃいけないじゃないか。
少し拍子抜けして、そんなことを思った。
最後の晩は、モヒート発祥の地と言われるボデギータ・エル・メディオで
背中に生演奏のユニットを背負いながら、いい加減砂糖抜きにするようになったグラスを空ける。
籠もった空気。けど東京のコンクリートジャングルの閉塞感とは別。人の絶えない夏の匂い。
雨が降れば水はけの悪さであちこちに渡れない水溜りができ、障害物競走になる。
千鳥足で人にぶつかっても、口説きはしてもこちらから求めない限り強姦なんかとても
できそうにない、なんだか気弱な優等生みたいなキューバ人男性たち。
そういえば、金くれとかモヒートおごってくれとかその時計くれとか言われたことは
無数にあっても、知らないうちにお金や持ち物を抜かれたことは一度も無い。気配すら無い。
昼間に行った大学周辺には、医学生が溢れていた。
この国では医者は決して高給ではなく、石油などの見返りのために周辺国家に派遣される。
お金のために選んだ職業ではなく、魂がなければとてもやっていけないだろう。
しかし裏を返せば、キューバに生まれたから純粋に医者を選べたという考え方もある。
それは職業選択の自由であり、精神的な自由だ。
理想を追ったキューバが成功しているとは言わない。
しかしこの地にいると、いやでも人の幸せや人生ってなんだろう、と思う。
お金とか、生活とか、安定とか、社会が要求するライフステージとかステイタスとか。
心を縛り結果として体を縛る目に見えないルールは、一体どこに向かわせようというのだろう。
もう一度言う、だからってキューバの社会主義が人を幸せにしたわけじゃないけど。
時差ぼけが治る頃には帰国の日。わたしの東回りの時差ぼけはいつも酷い。
エアカナダの航空券に、高い出国税と、パスポートに押す代わりの出国スタンプを貰い
わたしはキューバをあとにした。
トランジットのトロント(カナダ)で、分厚いメニューから選んだピノ・グリージョは程よく冷えていた。
しばらくは、お酒を飲むたびに、外気で5分でぬるくなるキューバのビールを思い出すのだろう。
おしまい。
地球の舳先から vol.295
キューバ編 vol.11
いまだ社会主義を貫くキューバには、配給制度がある。
が、いいものがまわってくるわけもなく、たまにかじれない程かたいパンやら
たまに豆やらが混じってかさ増しされた米、
芋、キャツサバなど、「とりあえずおなかはふくれる」のオンパレード。
魚介類なんてものは外国人用の高級レストランにばかり流れているらしい。
たんぱく質といえばだいたいチキン。
「ポージョ フリート」という直訳フライドチキンは、屋台でもレストランでも最定番だ。
外国人用のレストランの値付けでいえば、チキンが300円なら、よくわからない
白身の魚が400円、豚肉が600円でエビが800円、というところだろうか。
だから、友人からされるキューバに関する質問でかなり多い
「カリブ海でしょ??シーフード美味しそう!」
というものには、かなりの違和感を覚えざるを得ない。
「キューバの名物料理って何??」と訊かれれば
「うーん…フライドチキン…」というのがわたしの答えである。
…そして、素材はあるのだろうが調理が上手いとはいえないこの国…
テレビの料理番組でも、ネタと言ってほしいような料理を紹介している。
今回の旅は、「フライドチキンなんて食べない!どこかにあるらしい
キューバの魚介を食べる!」を、ひそかに目的にしていた。
ロブスター。魚介の王様といえばこれであろう。
…なんだこの練り物は。カニカマか。味がしない。コブサラダのようなソースがついてくる。
エビ。港町サンティアゴにて。まあまあ美味しかった。でも、多い…
魚。米軍基地のお膝元グアンタナモのホテルで。
なにがなんだかわからない。見掛けの割に味はしない。
魚介の豪華デラックス料理。ヘミングウェイが愛用していたレストランで。
よくわからない。たぶん、エビとイカと貝と白身魚…かな。味は特に無い。
ロブスター(リベンジ)。ビールファクトリーが運営しているレストランで。
うまいっ!ようやく当たり。1500円出せばキューバでもこれが食べられるのか!
ちなみに、高級ホテルの中のレストランでもない限り、
街のレストランはとても暑い。クーラーよりも外気を取り込む方法。
なので、ビールはすぐに飲まねばたちまちぬるくなる。
が、ぬるいビールや氷の溶けたカクテルも、キューバらしくて嫌いではない。
しかしまあ、全体的に、食に期待はしないほうがよい。
ミックスサラダというメニューはだいたいキュウリとトマトしか入っていないし
デザート。なんですか?これ。リンゴのジャムらしい。
砂糖が溶けきらないほど入っており、ガリガリする。急逝糖尿病になりそうな脳天に来る甘さ
そしてものすごくしょっぱい。塩と砂糖がよくとれるので、当たり前なのかもしれない。
が、添加物ゼロに近い生活をしながらキューバ人があんなに太るのは間違いなくこの砂糖と塩の過剰摂取だろう。
じゃあ何を食べて暮らしていたかというと、これである。
わたしの好物。フライドポテト。
世界中、どこにでもだいたいあるし、だいたい外れない。しかも安い。
フライドポテトがあれば生きていける。だから大丈夫。
…と、外食を中心に紹介してきたので、せっかくなので庶民食も。
留学時代に世話になった下宿先を訪ねたら、夕食を出してくれた。
10年前毎日食べていた、これがキューバのおふくろの味。なのでした。
ごちそうさまでした。
地球の舳先から vol.294
キューバ編 vol.10
ハバナ市街地へ戻ったわたしが最後に向かったのは新市街。
留学時代を暮らした場所であり、瀟洒な住宅街でもある
ハバナ大学や政府関連のいわゆるお堅い施設が集まり、
ハバナ・リブレとホテル・ナシオナルという二大老舗高級ホテルが立ち並ぶ。
このハバナ・リブレは旧称をヒルトンホテルという。あのヒルトンである。
革命後、国が接収して国有化し、名称も変わったのだ。
10年前は1階がお土産物屋でいつも繁盛していたが、がらんどうになっていた。
このホテルの近くにあった、ビザ管理オフィスに何度やきもきしながら通っただろう。
わたしが目指していたのはその先にあるナシオナルホテルだった。
当時はこのホテルの地下にインターネットを使えるルームがあり、
1時間12ドルとかの法外な値段で週に1回だけ繋ぎに来ていたものだ。
(公には、キューバではいまだに一般人がインターネットを使える環境にはない。)
海外口座とのやりとりもここで行っており、最も外界と繋がっている場所だった。
用事(両替)を無事終え、周辺のジャズクラブの立地を確認しながらハバナ大学へ。
一応平日は毎日通ったその場所は重厚な銅像と階段が歴史を物語り、
南北アメリカ大陸で最も早く設立された大学というのもうなずける外見である。
そこから、ノーアポイントで、かつての下宿先へ…と思っていたのだが
10年という年月の重みを、ハバナの景色からではなく自分の記憶力の低下から
実感させられる羽目になった。
歩けど歩けど、「この通りに違いない」という見覚えのある道ばかりで
一向に目的地にたどり着かない。
通行人に聞くも、ボケたおばあちゃんは「彼女は私の友達よ。息子のミシェルは
あそこで働いているわ」と配給所のパン屋を指差す。
ミシェルという名は確かに合っているが少なくとも彼は10年前、医学だか工学
だかを目指すエリート大学生だったはずである。
「ミシェーーーーーール!」とパン屋に向かって絶叫するおばあちゃん。
結局、何人か目に聞いたおばちゃんが大変親切で、「わからない」と別れた後
通りすがりの人に聞きまくってくれたようで、「場所を知っている」という
洋服を着たトイプードルを連れたおよそキューバらしくない上品なご婦人を連れてきてくれた。
今度こそたどり着いた昔の下宿先の女主人は大変元気で、
お得意のキューバ料理を振舞ってくれた。
相当な御年のはずなのだが、「えーとユウがうちにいたのは、2004年よね?」という
正確すぎる記憶力はたぶんわたしより相当、脳年齢が若い。
「あのーミシェルは今」と聞いたところ、「工学の先生をしている」という返答を聞いて安心した。
毎日の夕立が続いていた。
食事を取るダイニングのテラスから往来を見下ろし、十年一日とはこれか、と思う。
ふいに胸に迫るものがあって、涙が出そうになった。
嬉しいのでも悲しいのでも悔しいのでもなくて、懐かしくて泣きそうになる、という経験が
はじめてだったのは、やっぱりまださほど長く生きていないということなのかもしれない。
でも確かに10年前のわたしは、30歳まで自分が生きているなんてことを
うまく想像することはできなかったのだ。
あのころのわたしは、人生で一番の不安定な思春期にいて、
日本を少し離れたのもおそらくいい選択というか必然だったのだ。
目に見える唐突なルールと制約の中で生きるキューバの人々の生命力は、
10年経ってから見ても眩しくも恨めしくもあるもので、やっぱり変わらない光景だった。
雨待ちをして、女主人に別れを告げて家を出る。
今度は迷わないぞ、と思いながら、また来る気になっている自分に気付いたのだった…
つづく
(サンティアゴから帰ってからは、テハティジョ・ホテルという中級クラスに泊まったのだが、目の前の道路が工事中で雨が降ると大変なことに…)
地球の舳先から vol.293
キューバ編 vol.9
時差ぼけが治らない。
早朝、またサンティアゴ・デ・クーバからの飛行機でハバナへ帰り
滞在もあと残すところ2日になっていた。
少しだけ郊外を回りたいと思っていたのだが、何せ公共交通機関
というものがほとんどないのがここハバナの難点。
それでも、観光客向けの路線バスが2ルートほどあり、
とりあえずハバナ市街から海を挟んで反対側のカサブランカ地域へ。
ちなみに、「カサブランカ」は英語で「White House」。
10年前もこちら側に上陸したことはあった。
あのときは、現地の医学生が渡し舟で案内してくれたことを思い出す。
普通に歩いていると船がどこから出ているのかすらもよくわからないので
ガイドとしては非常に有用だったのだが、それからしばらく家の前で毎日
待ち構えられてプロポーズされ続けた。
キューバの未来のために勉強してください。って余計なお世話か。
要塞の展望台に上って見渡すハバナの市街地は確かに美しい。
すこし離れたほうが綺麗にみえるものも、きっとたくさんあるのだ。
展望台には世界各国の国旗リストが並んでいて、これで船籍を判断する、
といって日本の旗もひろげて見せてくれた。
そこから、客引きに来たタクシーの運転手に「ゲバラの家はどっちだ」と聞き、
ここの道を永遠にまっすぐだ、というので、どうせ1キロくらいだろうと踏む。
つらつら歩いていると、こちら側には軍事施設が多いようで、ところどころに
錆びた鉄条網で区切られ立入禁止を示す区画があらわれる。
道はまっすぐで、観光客がチャーターした蛍光ピンクとかのクラシックカーが
ごくたまに通る以外は非常に静かで、照り付ける太陽を沿道の木々がそよがせる。
運河をひとつ越えただけで、ずいぶんと雰囲気が変わるものだ。
途中、拿捕したらしいアメリカ軍の昔の戦闘機や武器が無造作に
屋外に並べられているスペースが突如として現われた。
歩道の芝生に置きっぱなしにしてあるレベルなのだが、一応掘立小屋から
人がでてきて3ドルを要求する。代わりに渡された紙きれには
「カバーニャ要塞 屋外展示場」と書いてあった。屋外展示場…ねえ。
もうしばらく歩くと、ゲバラの第1邸宅。といっても執務スペースにしていた場所だ。
鮮やかな緑色の建物は、ハバナの市外を見渡す一等級の高台。
ここでしか見られないというお宝写真もたくさん展示されている。
すぐ前の広場で1ドルで缶ビールを頼み、タクシーと交渉して、
小説「老人と海」のモデルとなった漁村、コヒマルへ。
かつてヘミングウェイが愛艇ピラール号を停めて日々釣りにいそしんだというが
いまでは観光客の姿もほとんどなく、うらぶれた港町のふぜい。
国籍を聞かれ、その国の歌を歌ってチップを要求する高齢の女性しかいない。
タクシーも通っておらず、唯一観光スポット(というか食事処)になっている
ヘミングウェイのかつての行きつけ「ラ・テラサ」で食事をして、タクシーを呼んでもらうことにした。
店内には、「ヘミングウェイカップ」というカジキマグロの釣り大会(←謎)で
カストロ議長が優勝したときの写真が飾ってある。
嗚呼、不思議の国キューバ。
さらに東へ向かい、タララ地区へ行く。地図上で見ればビーチスポットだし
観光客を乗せる東行きのたった1本のバスにも「タララ」という停留場があったので
バスで行こうかと思っていたくらい普通に行ける場所だと思っていたのが間違いだった。
区切られ隔離された地区は厳重なセキュリティが敷かれており、
地域に入るにはパスポートとガイドの交渉、それに袖の下が必要だった。
ただビーチへ行くのになんでパスポートが必要なんだ、といったところ
ガイドも「あそこにはチェルノブイリの子どもがいるから仕方ない」という。
ここは、かのチェルノブイリ原子力発電所で被爆した子どもたちを
キューバが預かっている施設がある場所でもある。
一般人でも公然と知っている、ただし高度に複雑で政治的な事情ということか。
中は、区画を綺麗に管理された別荘地のようでもあり、病院、住居、ビーチ、レストランが広大な敷地内に整然と並んでいる。
しかしいつか見た報道で子供達がビーチで無邪気に遊ぶ姿などは一切無い。
演出。ドキュメンタリー。パフォーマンス。そりゃ、そうだけど。
ただ、ここは「開かれて」はいるのだ。こうして、おそらく万人に。
最初に値段を聞いたときに「それはこれから話そう」とはぐらかしたこのタクシーを
どう値切るか思案をめぐらせつつ、わたしは対岸のハバナへ帰った。
つづく
地球の舳先から vol.292
キューバ編 vol.8
手ぶらでグアンタナモ基地に近づいたら、バカって言われた話。(その1)
の続きです。
…そんなわけで、グアンタナモ・ホテルへ帰って、やり直し。
いらいらしないコツは、他人に期待をしないこと。旅は運任せ。
ホテルで待っていると、青いポロシャツのヤンキーみたいな人が出てきた。
「僕が公認ガイド」ホントかよ!と突っ込みたい気分だったが、もう乗りかかった船。
いけるとことまで行ってみよう。
彼を乗せて、すぐ近くの、鉄の柵の閉まったオフィスへ車を移動させる。
重厚なセキュリティと、確かに政府関連の施設であることを示す、ものものしい看板。
ここでまた車内で待つと、一枚の紙を持って出てきた。
訪問許可書にあたるものらしい。わたしのパスポート情報とガイドの所属会社の情報、
それに、手書きのサインとハンコ。彼のことを、ようやく信用する。
が、ナイーブになっているのはわたしのほうばかりのようで、
ガイドと男はせっかく取った許可証を手にもったまま、何かおもしろい話でもあるのか
後部座席で盛り上がっては手をたたいて爆笑している。
ワタシの(あなたに発行してもらったものですけど)許可証をもっと大事に扱ってください!
2時間前に来た関所に来ると2人のガイドは急に真剣な表情で仕事をし始め、
小屋から出てきた2人はガッツポーズ。ひと安心。
なにもない道を走り、塩の産地だという海沿いに民家や建物がぐっと減ったころ、
再度関所が現われる。セキュリティレベルがまたひとつ上がるのだろう。
もしかすると、かなり近くへ行くのかもしれない。
こうして、カイマネラに到着した。
田舎の港町といった感じで、杭が打たれた海岸では地元の子供たちが遊んでいる。
到着したのは小さな、しかしプールのあるリゾートホテルだった。
ここで昼食を取り、双眼鏡を持ったホテルの人がやってきて、ようやくと見学が始まる。
まずはホテル内に設置された簡単な展示スペースで兵員の配置などの説明を受ける。
どこからどのような望遠レンズで取ったのかわからない、米軍基地内の施設の写真もある。
(※以下はあくまで現地でキューバ人から受けた説明なので、その前提でお読みください。)
グアンタナモ湾はキューバで2番目に大きい港だというが、本当の価値は大きさではないらしい。
深度の面で中南米屈指の「良い港」で、浅瀬からすぐに断崖絶壁になっていて
潜水艦の出航スピードがとても高いらしい。
なるほど、収容所ばかりが注目されているけれど、この地から「いろいろないけないもの」が出撃しているのだろう。
湾にはほんの小さな通行路が開かれており、一応キューバの船も通れるようになっているのだが
本当に狭すぎて、ボート並みの漁船しか通れないという。
湾には軍事施設や衛星ドームなどもあり、建物も近代的で「基地」というよりひとつの町。
湾に最も近いところに張り出した巨大なビルはシビリアンの独身寮で、シンボルらしい。
ちなみに賃借は月額約20万。「きみんとこの家賃くらいでしょ」といわれたが、まあ確かに。
「じゃ、見に行こうか」と案内されたのはホテルの101号室。
部屋に入るとすぐ左側に小さな扉があり、上階へ続く階段が現われた。
人ひとりがぎりぎり通れる程度の円形で急な階段を慎重に一歩ずつ進む。隠し扉か…
上階は屋上のようになっていて、なるほど眼下には湾が広がり、肉眼でも向こう側の建物が確認できる。
あまりの近さに少し驚き、渡された双眼鏡でふむふむと見学をする。
で、こっちから見えてる、ということは、当然向こうからも見えているわけで、
相手は天下の米軍なので、当たり前だけどわたしは「記録」されただろう。
ま、逆ならともかく、相手側がアメリカである限り、いきなり撃ったりしないだろう。
という感覚は、北朝鮮側から38度線に行ったときと似た感覚だった。
ちなみに青シャツの公認ガイドは、緩衝地帯の変更により以前の住居に住めなくなり
転居したそうだが、新しい家には新品の豪奢な家具がセットされていたという。
サンティアゴで手配したガイドはここへ来ることはほとんどないらしく、
むしろわたしより積極的に質問責めをしまくっていた。
あまり領土問題のように考えてはいないのか、アメリカに対する非難めいたものは
だれからも出なかったのが印象的。
最後に、記念にあげるよと訪問許可証をもらって、見学コースは終了。
帰りは関所で止められることもなく、一旦停止して停止線を開けてもらうのを待つのみ。
「ここへ来た日本人はきみで5人目だよ」といわれたが、その理由は聞かれなかった。
理由なんて、聞かれたって困るけれど。
また幹線道路を走りながら帰った。
どんな田舎にも、小さな町にも、政府系の機関の建物があり、国民は管理されており
どんなぼろい掘立小屋であろうとも、学校と病院があった。
車窓を見ていると、フィデル・カストロの社会主義は失敗だったとは言いづらい気分になる。
どんな田舎も、ひとりの国民も見捨てない、という気概はやはり指導者としても非常人的で、
異常なまでの意志により構築を続けてきたものなのだという畏怖を感じた。
~グアンタナモ編はおしまい。コラムはつづく
地球の舳先から vol.291
キューバ編 vol.7
最近、フルアテンドの旅ばかりしていたので、こういう自由旅行もいいなと思い始めていた旅の中日、この日だけは朝から晩までフルアテンドでツアーを組んでもらっていた。
行こうと思えば行けるのだろうが、身一つで行くところじゃない。
国交の無いはずのアメリカが無期限租借しているグアンタナモ米軍基地。
アルカイダの主犯格が収容されているらしい悪名高き収容所は映画にもなった。
数年前までは、近くの(むろんキューバ側にある)展望台が開放されており、きちんと政府関係組織に申請を出して許可をもらえば訪問して米軍基地をのぞむことができたというが、今は近づくこともできない。
…と当初、無碍に断られたのだが、
「じゃ、グアンタナモへ行く車だけ手配してください」
「あっちは予約をしてもドライバーが来なかったりするので事前に車の手配を受けてない」
「じゃ、現地で交渉するから、英語が喋れるガイドだけ手配してください」
と食い下がりまくっていたら、カイマネラという港町が、いま現在訪問できる最も近い場所だということでオリジナルのツアーを組んでくれた。
なにがどれだけ見られるのかわからないまま、手配を頼んだ。
8月13日。フィデル・カストロの誕生日。
しかし偶像崇拝などしない国なので、ゲバラの銅像はあってもカストロの銅像はない。
誕生日といっても、静かなものだった。
早朝、ホテルを出ると、きちんとガイドと車が待ち構えている。
チェ・ゲバラのボリビアでの死を悼む記念碑(彼はキューバ革命のあとしばらくしてボリビアへ渡り、自分がチェ・ゲバラであることを隠して革命活動を行い死んだ)を簡単に見学し、グアンタナモ州へ向かう。
オモチャのような、人が乗っているとは思えないグリーンと黄色の飛行機が低空飛行していた。
前日から気になっていたので、あれはなんだとガイドに聞くと、「蚊よけ」と言う。
英語が通じなかったのだろうかと思いもう一度聞くと、もう一度言う。
「だから、蚊が多くて、マラリアとかが流行るから、まいてる」
な、何を?!?! 確かに、サンティアゴに移動してから蚊を一匹も見ていない。
(記念碑。ゲバラがボリビアで名乗っていたコードネーム「ラモン」が彫り刻まれている)
綺麗な幹線道路を2時間ほど走り、到着したグアンタナモ・ホテルで休憩。
軽装の観光客で溢れていたが、ほとんどの人はバラコアという風光明媚な地へ行くのだそうだ。
「カイマネラは海があっていいところだが、政府がプロモーションしないから皆バラコアばかり行く」
とこぼすガイドと、まだ昼前で準備中の店で、1杯のモヒートを出してもらった。
ぷらぷらと町を歩いていると、角の一角に、屋内が真っ白な煙で充満し、
その煙がちょっとずつ外に漏れ出している、店だか家だかなんだかを発見した。
「あれは火事ですか」
「あれも、蚊よけ。さっき見た飛行機と同じ」
ちょっと!絶対それ人体有害でしょ!枯葉剤しか連想できないよ!
「キューバ、医療大国だから」
…間違ってる。多分…。
そうこうしながら、カイマネラへ行く電車までの時間を潰していると、ガイドの携帯に電話が。
なにやら難しい話をしているが、サンティアゴに来てから地方差(方言)なのか
ネイティブの早口なのか、彼らのスペイン語がほぼまったく聞き取れなくなっていた。
電話を切ってガイドが難しい顔で言う。
「今日は電車に乗れない。」
…この日が順調に行くはずないことは、なんとなく想像がついていた。
そもそもキューバの鉄道は色々な意味で不規則なので、電車がダメなら車で行く、
と事前に手配をしてくれた日本のエージェントの方も言っていた。
そのくらいはたいした問題ではない。
電車の時間を待つ必要もなくなったので、すぐに出発。
30分ほど走ると、案外すぐ、カイマネラへ続くセキュリティの関所に到着した。
掘っ立て小屋よりも結構きちんとしたプレハブ的建物に、踏切のような停止線。
つまりその先は立入制限区域ということだ。
わたしのパスポートを預かって、小屋へ消えていくガイド。
市井のタクシーと違って冷房がキンキンの専用車で、こちらは待つだけ。
ガイドは行ったり来たりして、何度もどこかへ電話をかけている。
30分ほどそれを繰り返した後、車へ帰ってきた。
「今日は特殊な日で、状況も特殊で、このままカイマネラへ行くことはできない。
サンティアゴへ帰るか、グアンタナモで政府公認ガイドに同行してもらうかだ」
ええい、引き下がれるか。「…で、いくらかかるの?」「お金はかからない」「は?! 何で?!」
社会主義の仕組みは、たまにというかいつもよくわからない。
と、いうか、そんな簡単に、そんな厳重なセキュリティをスルーする「公式ガイド」
を今日の今日でアサインすることが可能だとは思えない。
まあいいや、時間もあるし、ぎりぎりまであがいてみよう、と思い、
わたしたちはまたグアンタナモの市内にとって返したのだった。
地球の舳先から vol.290
キューバ編 vol.6
ギラギラと照りつける太陽が、日傘を突き抜けてくる。
暑いより熱い。脳細胞が死にそう。と、いうか、多分順調に死んでる。
キューバ人にも、「サンティアゴへ行く」といったら「あんなクソ暑いとこに」と言われた。
しかし貧乏なわたしはタクシー代をケチって歩き続けた。
サンティアゴへ来たら、革命博物館に行かないわけにはいかない。
1953年7月26日、今も革命記念日として国民の休日となるその日、
当時のフィデル・カストロらはここにあるモンカダ兵舎を襲撃し
その銃弾から社会主義革命ははじまったのだ。
たいした見所のないこの地なので、すぐにそれはわかった。
が、入り口を間違えて、広大な兵舎のまわりを1周してしまった。
現在は小学校になっているという兵舎は黄色に鮮やかに彩られている。
博物館の中には、学生時代のフィデルの名刺や、
襲撃後捕らえられたメンバーが拷問を受ける様子(写真なのが凄い)、
その後の革命までの華々しい道のりが詳細に展示されている。
いかにもな内容なのだが、最後のフロアで、わたしは久々に博物館で立ち尽くした。
革命で命を落とした人々の顔写真がひとりひとり、重厚な額に入れられて並んでいた。
皆、若く、あどけない少年の面影ばかりが目に付く。
この年齢で、何を思って、命を賭けたのだろう。
イスラエルのホロコースト博物館の最後のフロアに被害者の写真が並ぶのとは意味が違う。
彼らは、もちろん被害者ではないし、きっと犠牲者ですら、ないのだ。
いまのキューバは、彼らがその後の人生と引き換えに断っただけの未来の姿なのだろうか。
キューバ革命の原点となったこの蜂起の前日、彼らが宿泊したレックスホテルは
革命60周年の今年、新装開店してやたらポップになっていた。(上写真)
帰りこそバスに乗りたかったが、バス停に停まった「バス」を見て
そこまでの精神力と体力が残っていないことに気づく…
ホテルは中央広場に面した最高の立地の場所を取っていた。
広場を中心に急な坂が広がり、市民がところ狭しと生活を送っている。
夕方ともなれば子供たちの無尽蔵な走り回る嬌声が響き、
そこまでアジア人の観光客が珍しいのか、大人は皆ぽかんと手足を止めてじっと見てくる。
夜も10時を越えれば、どこからともなく音楽が聴こえ始める。
本領発揮だ。「夜が明ける」という言葉はあるが、「日が明ける」とでもいえばよいのか
太陽が沈んでしばらくして初めて、生き生きと本当の姿を表すよう。
ハバナの音楽と比べて、リズムが変わったのがわかった。
トラディショナルなソンやトローバは、昔はなんだか退屈に聴こえていた類の音楽。
この国では、どこにいても音楽が溢れている。
昼夜や場所を問わず、音楽が途切れるということがない。
それなのに、10年前、わたしはそんなことにも、まるで気づかなかったのだ。
興味がないと耳にも入ってこないのだから、人間の嗜好って恐ろしい。
今思えば、勿体無いことをしたのだろう。
しかし、わたしが「キューバへ行った」ということが意味を帯びてきたのは、
むしろ、帰ってきてからのほうではなかったのだろうか、と思う。
東京に帰ってきてから、キューバの空気を探して辿り着いたライブハウスで
とあるフォトグラファーが、キューバ人を撮った作品に出会った。今も一番好きな写真作品。
このJunkStageで連載をしている廣川さんやエイミーさんと出会って
ほとんどはじめて、キューバ音楽の楽しさを知ったのも、その頃だ。
「キューバ」という共通項で、だれかと出会い、キューバのなにかを発見したのだ。
日本で。
外にいたってホテルの部屋にいたって、眠れないほど音楽は聴こえるけれども、
小銭を払って、カサ・デ・ラ・トローバという街で随一のライブハウスへ入った。
ハバナのライブハウスと違って、ギラギラとナンパをしてくる輩もいない。
溶けない量の砂糖が沈殿した甘ったるいカクテルで、音に寄りかかる。
夜が更けていく。音楽とともに。
音楽であったまったテンションを、お酒でひっくるめて、寝るのだ。
これを人は、楽園と呼んだのかもしれない。
即物的で、刹那的で、愉悦的。
昼間に見た、革命博物館の青年たちの顔が、心のどこかには残ったままだったけれども
素直に酔ったのは、翌日がハードな旅になるとわかっていたからだったのかもしれなかった。
つづく