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2014/02/21

地球の舳先から vol.309
ミャンマー編 vol.7

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ポッパ山を早々に退散し、車は小さな民家の軒先の土産物屋のようなところへ立ち寄った。
牛をぐるぐると歩かせて臼をひき、ピーナツのオイルを絞らせていたり、
決して若いとはいえないおじちゃんがものの何秒かで縄梯子をのぼってココナツを収穫したり、
焼酎の蒸留の火の番を子どもがしていたりする。
タナカと呼ばれる日焼け止めは木をこすって汁を出し、すすめてくる。
伝統産業や文化を一気に見せられたようで、小さな博物館に来たようだ。
ゴマやパームシュガーも売っているが押し売りはなく、子どもは非常に控えめ。

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(ピーナツオイルをしぼる牛とおじさん。)

東ティモールでも、ラオスでも、東南アジアの小さな村ではいつも見た光景を思い出す。
嵐が来たら吹っ飛びそうな、木を編んだ家と藁葺きのような屋根。
よれよれのカラフルなタンクトップで、外で家のことをする小さい子。
庭でとれるもの。料理のようす。家で飼っている家畜。そういうものを自慢げに見せる。
ひとことも分からない現地語も、指差しながら説明されれば疎通に不具合も無い。
国によっては、狡猾に、ときに残酷なまでに、子どもに何をさせるんだというほどに商売道具にする光景にも会うからこそ、素朴な村や人々を見ると、「変わらないでいてほしい」と、勝手な旅行者の感傷で思う。

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(日焼け止めのタナカはミャンマー名物。)

旅に出るとき、わたしの両のポケットにはだいたいお菓子が入っている。
足を失った人やホームレスの高齢者には小銭を渡すが、子どもにはあまりお金をあげたくない。
(そんな線引きだって個人的な理不尽なものだけれども。)
かわりに、日本が誇る駄菓子を渡す。だいたい、美しすぎて「食べ物か?」と訝しがられる。
写真をせがまれたり、カメラを向けると家族や友人を呼びに走るときは、チェキに持ち替える。
服を着替えて出てくるお母さんも居る。そして何十秒かの後に、魔法のように手のひらの上に浮かび上がる写真を見たときの子どもたちの歓声。
遠い日本のフジフィルムを、夜空に光る一番星のごとくスーパースターに感じる瞬間だ。

パームシュガーは涙が出るほど甘すぎたので、ゴマを買って、その場をあとにする。
来た道を辿り、たまに「岡山県です」などと意味不明な日本語を喋るナビを積んだ車はホテルへ着いた。

まだ午後は始まったばかりだったが、ゆっくり旅をしよう、と決めていた。
どうしても海外へ行くと欲張りがちで、好んで時間に追われてしまう。
自動車のスピードは、輸送手段としては素晴らしくとも、ものを肉眼で見るには速過ぎる。
歩くためには時間が必要だし、いつもの半分の予算で旅をしているわたしには、都合よくお金も無かった。

昭和を思わせる旧式のママチャリをレンタルした。実際、注意書きのシールが日本語だったりして、日本から中古を輸入したか寄付されたかしたものなのだろう。
前言撤回になるが、坂が多すぎて、なぜ電動にしなかったか後悔するはめになるのだが。

町全体が遺跡になっている城壁に囲まれた旧市街を観光化するにあたり
一般住民が移住を強いられたという新市街、ニューパガンへ行く。
見事なパゴダ(仏塔)がいくつも続き、写真を撮っているときりがない。
平日の小学校の下校時間に当たったようで、子どもがわらわらと駆けてくる。
伝統的な民族衣装の制服とカバンを持った中学生もいた。僧侶の学校もある。
牛が枯草を食んでいる。のどかだった。そして、生活があった。

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こういうミャンマーを見たかったのだ。よかった。

屋台のような店に「DAGON」という銘柄のビールの看板があったので勇んで入る。
これでミャンマービール、マンダレービール、ダゴンビールとミャンマーの三大ビールを制覇した。
満足である。

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ふたたび、あても無く自転車を走らせていると、民芸品工房があった。
手彫りで工芸品に装飾をしたり、染物や織物をする職人たちがオープンスペースで手仕事をする。おそらくお土産調達スポットとして整備されたのだろう。
道端には、昔ながらに大きな木を広げて、延々とかごを織っている人たちもいる。

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そのままオールドパガンまで戻ってきて通過し、今度は東へ。
旧市街を出るところにあるタラバー門は、城壁で作られたオールドパガンの入り口だが、
わたしはその向かいで工事をする人の姿のほうが気になった。
なんとも伝統的な建築法。なにを建てているのだろうか。
眺めていると、まだ枝の枠組みだけの屋根から手を振ってくれる。
この国の人たちは、よく手を振る。

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パガンの町は大きく分けて、西から順番に、移住政策により新しくできた人々の町ニューパガン、遺跡と城壁に囲まれ高級ホテルが数軒のみのオールドパガン、安宿やレストランが集まる賑やかなニャンウーの3地域に分かれている。さらに東に進むと、船の発着する港がある。
ニャンウーに入ると、にわかに騒々しくなった。
レストランや安宿の看板、インターネットカフェなどが立ち並ぶ。

端のほうに、地球の歩き方に載っていたカレー屋さんがあったので休憩。
ここは中華風味らしく、ミャンマー流でないカレーが食べられるという。
パガンでとれる川海老を使ったというカレーは確かにものすごく美味しい。
トマトと玉ねぎのたくさん入った油汁でないカレーで、海老も具が存在している。

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忘れていたけれどこの日は日本で言う大晦日。
だからよけいに人手が多かったのかもしれなかった。
夜の帳がおりたらサイクリングが危険なのは想像に難くない。
思わずカレー屋で長居をしてしまったので、帰りは必死に自転車を漕ぎ
日没とほぼ同時にホテルに帰り着いた。

ミャンマーのニューイヤーはといえば、お世辞にも上手ではなくわたしのカラオケ以下のシンガーが奇声をあげ続け(住民が騒いでいるのではなく、れっきとした、ホテルがこの日のために特別に用意したイベントである)、夜通し寝られない。
レストランも到底手が出ない特別メニューになるうえに、旧市街には手ごろなレストランは存在しないので滞在される方はご注意を。

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前日、闇鍋をした「リバーサイドレストラン」、ようやくその姿を確認できた)

それにしても自転車を漕ぎすぎて疲れた。
眠れぬ夜のまま、旅は続いていく。

08:00 | yuu | ■新市街には人がいて、生活があった。 はコメントを受け付けていません
2014/02/17

地球の舳先から vol.308
ミャンマー編 vol.6

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ミャンマー人のしゃべる英語がわからない。
自分がしゃべる分には、わたしはたいがいどこの国へ行っても日本語をしゃべりつづけているが
身振り手振りと相手の好意(他力本願)により、疎通がはかれなかったことはほとんどない。
が、聞き取ることがまったく出来ないとなると厄介だ。

2日目のパガンでは、気球に乗って遺跡群を空から見ることにしていた。
気球のチケットを出し「明日これに乗るんですけど集合時間はワッ タイム バス」(←ほぼ日本語)
と聞くと、フロントの人が「ボキ?」と言う。
「ぼ、ボキ?」と聞き返しても、「ボキ」だという。 …「booking」だった。
「ホッカッ?」としきりに言ってくるコンシェルジュも、「Horse Car」(馬車)だった。
ミャンマー訛りというか、揮発音が強めに出るのかもしれない。ふむ。

出発は5時40分だという。「ソー アーリー?リアリー?」と言うとノートに同じ時間を書かれた。
そんなわけでまたしても5時に起き、ツアー会社の差し向けた窓のはまっていないバスに乗る。
極寒かつ真っ暗闇の中、屋外であたたかい紅茶を出されてまた闇の中のティータイム。

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今まで乗ってきたバスに気球をくくりつけ、職人工が火を入れ始める。
気球を組み立てるところを始めてみた。なんだか理科の実験みたい。
どこかの国で気球が落ちていたが、この高級ツアーは3万円もしたので大丈夫だろう。
操縦士だけヨーロッパ人。乾季しか気球ツアーはないらしいので、出稼ぎに来るのだろうか。

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気球というのは上下運動しかしないらしい。
風向きを見ながら上下運動だけで目的の場所へ進めるのだ、とは、そんな解説(英語)がわかるわけもなく、秋の気仙沼の旅を偶然ご一緒した気球士に聞いた話。
くるくると空が表情を変えていく。
紫色にけむる朝もや。眼下にひろがる雲の薄膜。朝日が照らす褐色の乾燥地帯。
やがて無数の、まさに無数の仏塔や遺跡群があらわになる。なんだこれは。スゲー。

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この一帯の観光地化政策により、居住していた多くの人が離れたニューパガンに移住させられたというが、ところどころ、ほんの少しだけ小屋のような民家が残っており、毎日のことだろうに地上から子どもたちが気球を追いかけてくる。
約1時間ほど空の旅を楽しむと、気球は見事に空き地に着陸した。が、操縦士の英語がよくわからないわたしは、伏せるのが遅れて後頭部から大木の枝の合間に突っ込んだ。
ヘルメットをしていたので怪我はなかったが、その日は一日中後頭部からレモンバームか何かの香りがしていた…。英語大事。すこしだけ改心する。

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(力仕事をするミャンマー人たち。我々は柵の中で朝食…)

気球の着陸をどこで見ているのか、お土産売りがわらわらと数人集まってくる。
気球から降りたあとは朝日の中でシャンパンを飲むのがこのコースのハイライトなのだが、
テーブルを囲んで丸く縄のようなものがぐるりと張られ、
お土産売りはそこから中に入らないという子どものような決まりごとがあるらしい。

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帰りがけ、控えめに言っても塗り絵以下のレベルの絵葉書を手にバスの下まで近づく子ども。
買う気にはならないので、クッキーを渡すともうひとりが「私は?!」と見つめてくる。
…や、友達じゃなかったのかよ。分け与えようよ。仏教でしょ。
いや、分け与えるのはキリスト教だったか?半端な知識に自分が混乱しつつ、
その子にも同じだけ渡すと、ふたりは飛び跳ねながら消えていった。
あ、その絵は、もういいんだ…そうですか・・・と、どうせ買う気もないのに微妙な気分になる。

まだ朝食を提供している時間にホテルに帰ってきたので、ミャンマーへ来て初めて、
どこのホテルもたいがい豪華だという朝食ブッフェを食べることが出来た。確かに豪華だった。
エッグステーションでオムレツも焼いてもらった。

その後、ホテルでタクシーを手配してもらい、これまたパガン観光の「仕様」といってもいい定番中の定番、ポッパ山へ。

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(あれに登る)

こちらも参道をあがった山の上にある寺院(?)なのだが、心惹かれることはなかった。
お札をべたべたと貼り付けた展示物、アントニオ猪木さんそっくりの仏像など
あまり有難味はない別の見所はあるのだが、とにかくいろいろと品がない。
「掃除をしている」といって喜捨を要求する人(ミャンマーにもいた!)は人が近づくと掃除のふりを始める。
汚れた参道や廊下には、バカづらの猿が大量に走り回り、観光客で溢れる頂上は窮屈だった。
「拝金寺院」という単語が思い浮かんだ。完全に観光の順序を間違えたのだ。
あの清廉なるマンダレーヒルへ上った直ぐあとでは、すべてが俗っぽく見えて仕方なかった。

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(お札が貼ってある。賽銭なのだろうがなんとも下品)

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(ガラが悪すぎて有難味がない何かの像)

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(間抜けな顔の猿の軍団がバナナに歓喜)

ただ、運転手はいい人だった。
車を止めて麓の喫茶店のようなところで待っていたのだが、わたしが思ったよりも
ずっと早く帰ってきたために、「ちょっと待ってくれるか?」と聞いてくる。
見たことのない果物や、安全祈願のためなのかフロントミラーに飾る花などを買い出してきた。
ようやく日差しがあたたかいと感じられるくらいの昼過ぎに、そそくさとポッパ山を出た。
帰り道には思わぬお楽しみがついていたのだが、それはまた次回。

つづく

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08:00 | yuu | ■パガン観光の仕様です。 はコメントを受け付けていません
2014/02/06

地球の舳先から vol.307
ミャンマー編 vol.5

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夜のあける気配もない早朝、頼んでおいたタクシーでホテルを出発した。
この日は、王都マンダレーから古都パガンへ1日かけ船で移動する。

まだ暗い町はすでに起き出していた。
僧侶の托鉢のための炊き出しが家々から温かな煙をあげている。
夜明け前のその毎日の用意に、人々は朝何時から起きるのだろうか。
ラオスのルアンパブランでも、托鉢を見た。
整列した僧侶が歩き、観光客は三脚にカメラを構える観光名所。
彼らだって見世物でやっているわけではないのだが、外灯もない中の
マンダレーの自然の托鉢光景には、より生が息づいていたように思う。

桟橋はいくつかあり、最初、一番有名な間違った場所に連れて行かれたが
そこで責任放棄してポイと放り出さないのがミャンマー流。
なんだのかんだのと同僚のタクシー屋に聞き、船のチケットと行き先を照合し
荷物に船会社のタグをくくりつけるところまでしてくれた。
親切なのだ。この国で何かむっとすることがあっても、だいたい悪気がないので
いきなり怒ったりすると自分の分が悪い目にあう。

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雨季にはずいぶんと水かさが増えるのだろう、急な階段をおりて乗り場へ。
子どものポーターはいることはいるが、押しが弱く、いらないといえば去っていく。
一応、室内は指定席になっており快適だ。フリーの朝食(といっても下記のようなもの)、
それからはちょっとした食事もキャッシュオンで提供される。ビールやワインもある。
割高だけれども、久々に見たロゼワインを頼む。1杯5ドル。…2杯目はない。

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朝もやのなかを出発した船は、スピードボートと思えないゆっくりさで川を切っていく。
出発してすぐ通りかかった、丘の上に無数の寺院が立ち並ぶサガインの地は、
離れたところから見るとまた荘厳だった。
川沿いに張り出したジャパンハートの診療所のあるワチェ病院も離れて見るとかなり大きい。

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ふらふらと、本を読んだり、景色を眺めたり、食事したりしているうちに時間は過ぎていく。
飛行機で10時間なんて苦痛しかないことと比べると随分快適な移動だった。
ただ単にわたしが閉所が嫌いなだけかもしれない。
ヨーロッパ人は屋外の席に椅子を引っ張り出して全身を焼いている。
お世辞にも澄んでいるとはいえないエーヤワディー川。
なぜヨーロッパ人は太陽が出ているとどこででも脱ぐのだろうか。

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途中、いくつかの村に立ち寄った。急行便ではなかったのかもしれない。
人がひとり、ぎりぎり渡れるかというおんぼろの板を渡して、人を乗せる。
川の中まで入ってきて、バナナやサモサを売る町の女性。
お金は、船の中から投げれば拾ってくれるというシステムらしい…

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夕焼けが一面を満たした頃、遠くに切り立った丘のような土地が見えた。
「あと1時間くらい」というミャンマー人のとおり、18時の日没ぴったりにパガンに到着した。
さてここからオールドパガンと呼ばれる、町全体が城壁に囲まれたなかにあるホテルへ…と
思ったのだが、ふたたびの悪夢が訪れる。
タクシーがいないのである。皆無である。
事情をよく知る(というかロンリープラネットと地球の歩き方の実力の差かもしれない)
欧米人たちはホテルにあらかじめ頼んでおいたらしいタクシーで早々と散っていった。

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ここは本当に観光地なのか!と思いつつ、10キロもないので歩くか…と思ったわたしは、
10分ほどでその野望を捨てた。
おそらく一本道なのであろうが、ぎりぎり舗装されているような状態で外灯もごく少なく、
対向車がくれば車はクラクションを鳴らして減速してすれ違う。当然のごとく歩道はない。
相変わらず治安に不穏は感じなかったが、こんなところを歩いたらホテルに着く前に
車に轢かれる。ダメだこりゃ。

わたしは人通りのそれなりにある交差点で立ち止まり、
地図を開いてスーツケースの前をぐるぐるぐるぐる自転し始めた。
半分は、「誰か拾ってよ」の小芝居だったが、だんだん本気で不安になってくる。
しかしここはミャンマー。困っている人がいたら助けなくてはならないらしい国民性。
わらわらと数人が寄ってきて、事情を聞かれ、
「アイ キャント ゴー トゥー ホテル」
「オー ドント クライ」という会話を交わしたのち(ちなみにまだ泣いてはいない)
わたしは無事、おっちゃんがヒッチハイクしてくれた馬車に乗りこんだ。

おそらく歩くよりも遅いスピードで、車にあおられるたびに停止するが、
真っ暗闇の車道をひとりでえんえん歩くことを考えるとぞっとする。
ホテルまではそんなこんなで1時間近くかかった。馬車の若者もいい迷惑だろうが
何度も何度も「アイムソーリー、イッツ ファー」といい続け(なぜ謝るのだろうか)
すこしでも動くと「アーユーオーケー?」と心配そうに言う。もうしわけない。

当然、夜のライトアップされた遺跡でも見に…などという気は捨て、
ホテルのリバーサイドレストランという名の屋外テラスレストランへおさまった。
しかしここも真っ暗闇で、リバーサイドといいながらリバーも見えない。
どころか、自分が頼んだ食事も見えず闇鍋状態である。

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(フィッシュカレー。ぐつぐつとキャンドルで温められている。おしゃれ。暗くて見えないけど。)

そのかわり、星が出ていた。
いや、出ているんじゃなくて、星はいつだってそこにあって、
好きこのんで見えなくしているのはわたしたち自身なのだろう。
そんなことを考えたら、ここで少し、自然に逆らわずにゆっくりするのもいいだろう、
という気になっていた。

つづく

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08:00 | yuu | ■船旅、王都から古都へ はコメントを受け付けていません
2014/01/30

地球の舳先から vol.306
ミャンマー編 vol.4

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景色を見たかったが眠気が限界だった。ホテルに着いたと運転手に起こされる。
ヤンゴンとはうって変わって、どこぞのヨーロッパの中級ホテルのように隅々まで磨き上げられ、洗練されたホスピタリティのホテル・ヤダナボン。
昼寝をしようか、とも思ったが、そんなことをしては時差ぼけが始まる。
お腹もすいていたし街を歩くことにした。

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繁盛しているカレー屋さんに入り、初めてのミャンマーカレーにありつく。
ミャンマーカレーは便宜上カレーと呼ばれているだけで(なんの便宜だろうか)、
実際には「油煮」だと地球の歩き方に書いてあったがその意味を知る。
香辛料で具を煮込み、その具の味がたっぷり出た「油」で、ごはんをたくさん食べるのがミャンマー流カレー。かくしてわたしの頼んだ「エビカレー」はしょうゆ皿ほどの皿に、味の出切ったエビの殻と「油」であった。
が、ただの油と侮ることなかれ。これが、複雑な香辛料の旨みも手伝って絶品なのである。
この油だけで、山盛りに盛られたご飯が2杯いけてしまった。
ちなみに食堂にビールはなかった。「ラッシー?」といわれたが、入国2日目で水道水を飲む勇気はない。

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(食べかけではない。出てきたものがこれである。)

マンダレーの中心は、一辺3キロある王宮で、
鉄道駅のあるメインストリートから少し離れると庶民の生活が横たわっている。
腹ごしらえも終え、食後の一杯を探しながら歩くもバーやカフェのようなものは見当たらない。
そればかりか、タクシーがいないし、バス停も見当たらない。
歩く道は非常にのどかだが、そもそもそんな行動は想定されていないのか歩道がない。
観光地とは程遠い、しかし車道だけがアグレッシブに整備された碁盤目状の街だった。

わたしの目指した先は10キロ弱ほど先の「マンダレーヒル」だったが、このままだと
全行程歩く羽目になるのではなかろうか。そんな不安に駆られる。
王宮の東側には僧院や寺におさめる調度品などを作る工場が立ち並ぶ。
流しのタクシーが声をかけてくれるのを待ち続けながら歩くが、
行き交う車は皆クラクションを鳴らすくせに振り返ると全員でニコニコ手を振って来るとかで
まるで役に立たない。そうこうしているうちにマンダレーヒルに着いてしまった。

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(僧院にて。近くに宗教学校があるので僧侶が多い)

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(捕われた鳥を放してやることは「放出」という徳を積むことになるらしく、それを商売にしている子ども。逃がした鳥はまた捕まえにいくらしいが・・・)

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(マンダレーヒルの麓で遊ぶ子どもたち。)

「天空寺院」と称されるものの、頂上が見えないのでゴールイメージが沸かないまま、
その丘を靴と靴下を脱いで(ミャンマー流の礼儀)上がっていく。
頂上まで1時間ほどの道のりは、屋根のある参堂。
涼しくて快適で、所々に絵画や巨大仏像などの見所もあり飽きない。
屋台も出ている。息を切らしてくると「ウォーター?」などと言ってくるので涼しい顔で見栄を張る。
すれ違う片手で数えるほどの参拝者は皆現地の人。
途中には何屋なのかわからない、一家が住む小屋のようなものも沢山あった。
僧侶がなにごとか計算ごとをするらしい執務机が設置されたちいさなコーナーに
飾られていた壁掛けカレンダーはスーチー女史だった。変化の自由を垣間見る。

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(スーチー女史のカレンダー。)

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(とかく参道には犬猫が多い)

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(じゃれて離してくれない子猫さん。)

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(最後の階段が、やたら急)

静かに佇み、素足のため自分の足音もせず、静謐な空気が漂って美しい。
最後に、クラクラ来るほどの急な階段を上り頂上へ出る。
子どもが走り回り、隅々まで絶えず清掃をしている人たちがいる。
確かにマンダレーの町を見下ろす自然豊かな丘は美しかった。
涼風に打たれて澄んだ気持ちになっていた頃、欧米人団体観光客が夕焼けを見ようと
邪道にもエレベーターで大量に上がってきた。あれでは徳は積めないだろう。

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静かな参道が気に入ったので、帰りも歩いて下りた。
今度は、参道入り口に待機していたバイクタクシーに乗ってホテル近くまで戻る。
運転手は陽気な人で、いい夕陽スポットがあると連れて行ってくれた。
王宮とそれを取り囲むお濠に沈む夕焼け。運転手は満面のドヤ顔だった。

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都合、トータル20キロ歩いたらしいこの日、ようやくホテルへの帰り道で
ビアホールらしきものを見つけた。半屋外だが贅沢は言うまい。
子どもがひどく楽しそうに嬉々として働いていた。
手を上げると我先へとすっ飛んでくる。
60円の生ビールにようやくとありつき、いい気分でホテルへ帰ったのだった。

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つづく

08:00 | yuu | ■天空寺院、マンダレーヒルへ はコメントを受け付けていません
2014/01/24

地球の舳先から vol.305
ミャンマー編 vol.3

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マンダレーに着くと、空港のカウンターでタクシーの手配をしてもらった。
手数料が乗っかるのは当たり前だが、回ってほしい場所があったし、その間
荷物を車に預けたまま何時間か待っていて欲しかったので安全な業者がよかったのだ。

わたしが向かったのはサガインという地。
マンダレー空港は市街地から公共の交通機関がないにも関わらずその距離40kmという
ヤケクソに遠いところにあり、サガインは直線距離でその中間地点くらいにある。
仏教修行の中心地で、その関係からか外国人規制区域でもある。
イラワジ川を渡る大きな陸橋から見える、山に転々と輝く大きな仏塔や僧院が並ぶ光景が
まさに圧巻の一言。一帯自体が神々しいというか、ちょっと表現しきれないオーラがある。

仏教の修行をしに行ったわけもなく、目的はジャパンハートのワッチェ慈善病院
ジャパンハートというのは日本人医師吉岡秀人氏が始め今でも陣頭指揮を取る
世界で無償の医療提供を行う組織で、吉岡医師はもう長いことミャンマーで活動している。
偏差値30から国立医学部に合格したとき、「神と取り引きをした」と感じたらしく
医療を受けられない人に生涯、医療を提供し続けていくことを心に決めたそうだ。
NHKの情熱大陸でも複数回取り上げられているので、ご存知の方も多いと思う。

友人たちはよく知っていることだが、わたしは医療の道を志していて、
それはいまさら自分がこの手で切ったり貼ったりという医療では勿論無いのだが
ぜひ見学をしたいと思っていた。ちょうど集中して手術を行う「ミッション期間」
が明けた日取りだったこともあり、事前に日本の事務局に相談をして許可を得た。

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(入院病棟。家族が多く賑わっている)

野戦病院のようなところを想像していたのだが、空気が暖かくて驚く。
スタッフ宿舎、病棟、ナースステーション、果ては手術室の中まで案内をして頂いた。
2004年から、お坊さんの病院の2階部分を間借りという形で使わせてもらっているという。
日本からは医師1人、看護士4人が常駐。それとは別に、月2回の「ミッション期間」に
臨時ボランティアという形で医師を呼び、1日15~20件の手術をこなす。
外来は1日20~80件で大人も子供も無料。手術は18歳以下が治療費含めすべて無料。

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(手術室。最新鋭の機械を持ち込むのではなく、ミャンマーで持続可能なやり方を探っていくのがジャパンハートのポリシーだ。ミャンマー人看護助手の育成も行っている)

日本だと完治しなければ文句すら言われるが、医療がまったく身近でないここでは
「日本人の先生に見てもらった」というだけで感激で、少しでもよくなれば喜ばれる。
何日も何日もかけてここまでやってくる人も多いという。
もともと、生活に支障が出るまで放っておいてしまうので簡単な病気もすごい状態に
なってからやってくるし、入院となれば親戚中で来て住み込むこともあるというミャンマー人。
病院ながら家族に囲まれ、下階にはそんな家族が洗濯や炊事をするスペースも用意されている。

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炊事スペースのすぐ横のお茶屋さんで、ラペイエというミャンマー流紅茶(コンデンスミルクを極限まで入れて溶かした非常に甘いミルクティー)を飲みながら、スタッフの女性に話を聞いた。
彼女は大学生で、インターンで1年間ここへ来ており、元々は医療関連とは無縁で
NGOやNPOの活動に興味があったというのだが、ここでは日本で言う看護助手以上の
仕事もしているので、関係ない道に進むのも勿体無いような気がする、と言っていた。

自分より10歳若い彼女に、なんでもできるよなあ、という通り一遍の感想を抱きつつ、
その実、意外といくつになってもなんでもできるということも分かっている自分に気付く。
つまらない大人は、いつだっていろんなものを諦める口実を探しているだけなのだ。

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(ダウン症の男児とその両親。)

物事にはなんでも賛否両論があると思う。
たとえばミャンマーで殺害された日本人ジャーナリストは観光ビザで入国していた。
当時ジャーナリストビザなんて下りるわけもなくその行為は業界的には当然だったのだろうが、そのことによってミャンマーで活動する日本のNGOやNPOは締め出された。
ジャパンハートも例外ではなく、そのために医療を提供できない時期が続いたという。
誰かの「正義」は、所詮その人だけの正義でしかない。

わたしもまた、誰かの正義に批評を投げかけさせることが目的ではないので
お聞きした話の多くはここで晒さずにわたしの胸にしまっておく。
しかしそこで無償で働く日本人の真っ直ぐな目と、日の丸から模したのであろう
赤と白のユニフォームで誇りに輝く姿、
そして穏やかで満足げな現地の患者さんの姿は強く印象に残った。

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つづく

08:00 | yuu | ■ジャパンハートのワッチェ慈善病院へ はコメントを受け付けていません
2014/01/20

地球の舳先から vol.304
ミャンマー編 vol.2

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ヤンゴンに着いたのは現地時間で午後5時。
日本との時差は、2時間30分。分の単位がでてくるのは初めてだった。
作り替えたばかりのピカピカの空港に、LGとサムスンの巨大広告。お約束。
経済制裁緩和に伴いマスターカードの広告も存在感を示していた。

ところでミャンマーの旅行を検討してこのコラムに辿り着いた方に
まずお伝えしておきたいのが、地球の歩き方が珍しくまるで駄目だったことだ。
おそらく、3~5年くらいのレンジで取材をしていないのではないかと思う。
それでも毎年、「今年版」といって売りつけるのだから、いい商売だ。

空港から市街へのタクシーは、公定料金になっていた。
しかし空港を一歩出て個別交渉をしたらぐんと料金が下がる、なんていうのは
旅においては日常茶飯事なので、一応ぶらぶらと空港の外に出てみる。

「タクシー!」
「いくら?」
「10ドル」
「はぁ?!なんで公定料金より高いのよ」
「ノー、ノー、エアーコンディショナー」
・・・いらんわトヨタ車。思ったより寒いし。
「チープ カー お願いします」

それ以上がんばろうかとも思ったが、結局、公定料金と同じ額で乗った。
そもそも、わたしはバックパッカーにはなれない!根性がゼロだ!とよくいっているのだが
交渉というものがほとほと性に合わない。楽しめないし、異常に疲れる。嫌いなのだ。
おまけにときに怒ったふりをしたり戦闘体制にならねばならないので、勘弁してくれと思う。
だから、インドやタイやバリ島みたいなところへ行くと、早々に「もう帰りたい・・・」になる。

幸い、運転手は寡黙な人で、フロントミラーに仏陀のお守りが揺れていた。
東南アジア独特のもわっとした空気はなく、乾燥した空気が香辛料の香りを運んでくる。
東京近郊の高速道路から見える「お城」そっくりの安っぽいイルミネーション、
最近進出してきたらしい外資の保険会社の大きなビル、
おしゃれな円柱形ガラス張りの高層ビルには「シボレー」のロゴ。
建設中の巨大な工事現場には、世界的ホテルチェーンの「ノボテル」の名前。
まさに絶賛開発中。暗闇のなかではあったが、想像していたような「ヤンゴン」だった。

しばらく行くと左手に、輝く巨塔が見えた。
ヤンゴンで一番有名なパゴダ(仏塔)、シェエダゴン・パヤー。
輝く、というのは比喩ではなく、たっぷりと金箔が塗りたくってあるので本物の黄金の輝き。
大渋滞で、市街中心部のホテルまでは1時間近くかかった。

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(これは小さいほうの仏塔、ホテルから30秒、市街地中心の目印スーレー・パゴダ)

そう疲れてもいなかったし、「串焼き屋台ストリート」なるところに行きたかったのだが、
なにせ外灯が少なく地図を開くのもままならないので近くの定食屋で夕食を取る。
ミャンマービールを飲もうと思っていたのに見事にアルコールがない。なんてことだ。
ここだけでなく、道中を通じてお酒の入手にはほとほと苦労することになる。
店の隅の看板に、「HALAL」(ハラール)の文字を見つけた。イスラム教法で許可された
食材や調理法で提供される食事のことだ。イスラム系の店だったのだ。

あとで知ることになるのだが、ミャンマーでは食事は売るものではなく振る舞うもの、
ということで、ミャンマー料理のレストランというものはつい最近までほぼなかったらしい。
確かにインド系やイスラム系のほうが商売ごとははるかに上手そうである。

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そこでよくわからないドライカレー(米の中に大きな鶏の身が入っていた)を食し、
ホテルに帰ってミニバーで1杯やろうと思っていたら、ホテルのフロアにはでかでかと
禁酒禁煙を示す看板がかかっていた。なんてことだ。そんな国だなんて、聞いていない。
部屋の冷蔵庫にはお酒が入っているわけもなく、電源も入っていなかった。
ためしに町を1時間以上歩いたが、スーパーにも売店にもアルコールはなかった。なんてことだ。

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かくして翌朝、マンダレーへ向かう飛行機を待ちながら朝の6時から
空港でビールを飲むという非常に遺憾な事態になってしまった。
出発が早かったため、ホテルが朝食代わりのお弁当を持たせてくれた。ワクワクである。
これは、ミャンマーのホテルでは一般的なサービスらしい。
その弁当箱のあまりの軽さに想像をめぐらせていたが、中身はこれだった。・・・贅沢は言うまい。
なんだか甘ったるいマーガリンらしきものをはさんだサンドイッチは「ミャンマーサンドイッチ」というらしく、空港にも売っている。卵が固ゆでだったので、安心して食べる。

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こうしてさほどヤンゴンに興味もなくわたしが向かった最初の都市はマンダレー。
イギリスに併合されるまで、最後の独立王朝として栄えた王都である。
ちなみに、名産はマンダレービール。(頼むよ、まったく)

当然のように飛行機は陸止め。順路通り歩いていたら空港の外まで出てしまい荷物がない。
なんと、滑走路から空港施設(屋内)に入るときに自分でピックアップするのだ。
屋内の入口までガラガラと運んでくれはするのだが、手渡しである。
さすがに珍しいので、外国人が皆引き返して荷物をピックしがてら写真を撮っている。

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(手渡しです)

とにかく飛行機(しかも部品のメンテナンスが危うそうなちいさな国内線)は
いつ落ちてもおかしくないので、ロシアンルーレットを抜けたことにほっとするのみ。
荷物を持って、こんどこそゲートをくぐった。

つづく

08:00 | yuu | ■ヤンゴンでさっそく窮地に陥る はコメントを受け付けていません
2014/01/14

地球の舳先から vol.303
ミャンマー編 vol.1

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・・・なんだろ、どこだろ、ここ。

そう思うことが、何度もあった。
わたしは基本的に、丸腰で海外へ行くことをしない。
いくつかの国を周遊するということも9割がたしない。
ひとつの国にターゲットを絞り、日本語で書かれている、図書館にあるような本には目を通す。
そのような「予習」は、いっぺんに何か国ぶんもできないからだ。
頭でっかちになってよくない、という人もいると思う。
けれど、わたしにとっての旅は、本を読む→足で歩く→頭で考えて書く、の3段階で完結する。

今回のミャンマー旅行ほど、事前のイメージと実際がまるで重ならない国もなかった。
もちろん、テレビで見たあのまんま、の北朝鮮のような国もそれはそれで衝撃なのだが。

「最後のフロンティア」? ・・・違う。
「ASEAN最注目の急新興国家」? ・・・違う。
「アウンサンスーチーさんが軟禁を繰り返されている危ない国」? ・・・違う。
「日本人ジャーナリストも殺害された軍政国」? ・・・違う。

いや、どれも一側面からはたしかに「事実」なのだろう。
しかしこの国を歩いてみると、受けるイメージとは乖離がありすぎる。
わたしは旅をしながら、この地が「ミャンマー」であることがしっくりこなかったし、
じゃあ「ビルマ」かといえば、「ミャンマー」よりはましだけれどやっぱりしっくりこなかった。
果たして、冒頭の感想である。

安寧の仏教国。
すくなくとも、短期外国人旅行者としてのわたしの目にうつったのはそれだった。
いやな顔ひとつすれば、そんな自分が恥ずかしくなってしまうくらい、
およそ怒ったり争ったりしない人たち。
「神」なる何かに、どんなに祈っても叶わず死んでいった宗教もあれば、
求めることが欲でありいけない、と教える宗教もある。

各地にある日本人慰霊碑を、人目を気にしながら見に行ったとき、
ひざをついて一緒に(というよりわたしよりよっぽど)祈ってくれた僧侶も、
お金も要求せず火をつけた線香をあわてて持ってきたのもミャンマー人だった。
「日本はよくないことをしたのに、なんで?」と聞くと、
「日本の兵隊さんはミャンマーで死にました」と言う。

今回、道中で、情熱大陸でも複数回取り上げられた、ミャンマーで無償医療活動を
長いこと行っている、吉岡秀人医師の病院施設を見学させてもらった。
そこのスタッフが、こんなことを言っていた。
「ミャンマーでは、病院で死ぬことは悪いことなんです。本人にとっても、
 病院にとっても。だからできるだけ、お家で死を迎えられるようにします」
戦争で迷惑を被ったにせよ、ミャンマーの地で沢山の人が死んだということは
彼らにとってそれだけで不名誉なことだった、ということなのかもしれない。

さほど望んだわけでもない寺院めぐりを、結果的にすることになりながら
ブータンで、「自分の欲を祈れば、積める徳が半減する」といわれたことを思い出した。
(「罰があたる」ではなく徳は積めることは積めるというのが仏教的でなんともいい)

仕方がないので、世界平和を祈ろうかなどと心の大きいことを考えたが
滅亡したほうがよかろうという国が思い浮かぶほどにはわたしの心はけがれていたので、
この国の、親切なミャンマーの人々の安穏を願った。

こういう国にこそ、どうか幸が降りますように。

ミャンマーへ行くと、すっかり洗脳(言葉が悪い)されて帰ってくる人が多いと聞く。
しかし、まあそうなっても仕方ないだろうな、と思うくらい、とても良いところだったのだ。
いい意味で、ちょっと現代では信じられないようなことが、たくさん起きた。

筆舌に尽くしがたい、経験をした。
がしかし、これから、ゆっくりめに振り返っていきたいと思う。

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08:00 | yuu | ■ミャンマーへ行ってきました はコメントを受け付けていません
2013/12/29

地球の舳先から vol.302
旅の準備 編

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ユウさんはビルマ(ミャンマー)へ行きました。
この記事は、小人ではなく、出発前夜に本人が書いたものを予約投稿しました。
写真はイメージです。

ミャンマー。かつてのビルマ。それほどの印象しかなかったけれども、
数いる旅の猛者どものうち「ミャンマーが一番良かった」という人が結構いるのです。
なんでも、人がいいとか。そのほかにも安全だとか物価が安いとか色々あります。
でも、わかりません、ミャンマー。大日本帝国の戦争のイメージしかないです。

しかしよくよく調べてみると、トルコかミャンマーかというほどの親日国家とのこと。
東南アジアには軒並み恨まれている日本ですが(中韓はタカリ屋なので話が別)
あの戦争後、仏教国マインドといえどどうやったらそこまで親日になるのでしょう。
しかも、賠償などをいっぱいして時間が解決してくれたということでもなさそうで、
敗戦直後、焼け野原になった貧しい日本にミャンマーはいち早くコメ援助をしています。
ビルマで死んだ日本の軍人は、戦闘よりも、大本営の失策で兵站も断たれ、飢えや病気で死んだ人が多いそうで、ミャンマー人の中には、いまだに「あのとき日本の兵隊さんを助けてあげられなかった」と言う人も少なくないそうです。 …そんなにいい人で、大丈夫ですか。

そしてアウンサンスーチーさん。どうもこれは、現地で大使をやっていた人の著作によれば
「軍政はよくやっている。アウンサンスーチーさんは諸悪の根源で、西欧諸国にミャンマーを経済制裁しろと呼びかけていたり、最大の問題である少数民族との対話は拒否するなど、話にならない」という見方もあるようで、この見方の是非はさて置くとしても、少なくとも「スーチーさん=善、軍政=悪」という単純なバカでもわかる構造はやはりメディアレイプのようです。
ノーベル賞だって、アレですしね。スーチーさんは欧米の傀儡なんでしょうか。
あと彼女、韓国で日本批判演説とかしてるから、彼女が国のトップについたら、
ミャンマーも親日国ではなくなるかもしれませんね。まあ、そうはならなさそうですが…

そんなこんなで、どうも結局よくわからないというか、興味を持ったミャンマー。
実はもっと昔に行くつもりでいたのですが、なぜかいつも機をうしない、
そうこうするうちに数ヶ月前にホテルをとらなければ人気の宿はいっぱい、
というくらい、ミャンマー需要は高まっていたのでした。
「いざとなったら寺に頼み込んで宿坊させてもらえる」と前向きなアドバイスを頂きましたが
わたしはバックパッカーではないですので、そういう旅は根性がついていきません。

周到にホテルから押さえ、航空券はなんと全日空の直行が飛んでいたのでそれを押さえ、
ビザを取って、ついでに僻地のガイドと気球のツアーを予約しました。
そこまでやってから初めて『地球の歩き方』を買ったのですが、ページをめくれど寺、寺、寺。
寺以外の見所はないのでしょうか。たぶんないのでしょう。
いや、以前日本軍が従軍慰安施設にしていたところなどがあるのですが
キレイにリノベートして高級リゾートホテルになっていたりして、昔のそういうことは
ガイドブックには一文字も書かれない。変なところに観光客を連れて行くと現地の人間のほうが
尋常でなく罰せられるというのもなんともキューバ北朝鮮的、いや失礼、社会主義的です。

そんなこんなで、余計な詮索をするという楽しみも断たれ、
「美術館・寺(城)・遺跡」にまるで興味がないというか極力避けて通りたいわたしは
いったい何をしにミャンマーへ行くのか。完全に「やること」を見失って早数ヶ月。

突如、わたしは仏教に目覚めました。

なんか、仏教、すばらしいと思うんですよね。
どっかの宗教のように正当な理由があれば人を殺していいとか言わないし、ウィキペディアによれば“(仏陀は)「私を信じなければ不幸になる。地獄に落ちる」という類の言説は一切しておらず、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決を重視していた。” んだそうです。
「神のご加護」なんてない。崇拝すべき教祖もいない。

仏教に目覚めた割には寺めぐりをして徳を積もうというほどには敬虔になれないのですが、
仏教が息づく国とそこに生きる人びとというのを、興味深く見てきたいと思っています。
あと、今度から外国で宗教を聞かれたときに「仏教徒だ」と答えることに嘘八百を感じずにすみそうです。

パスポートを取り替えてはじめての旅。
わたしなんかにもらわれてしまった不運なスーツケースも先日ちょうど10年でぶっ壊れ(よく頑張った)、最初の1ページをまた刻み始める旅になりそうです。
皆さまも、よいお年を。

08:00 | yuu | ■ユウさんはビルマにいます。 はコメントを受け付けていません
2013/12/24

地球の舳先から vol.301
気仙沼(2013)編 vol.5(全5回)

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さて気楽会の一行は、気仙沼プラザホテル内のレストラン「海舟」にて刺身や焼き魚を堪能。
定食にさらに秋刀魚の塩焼きをつける人が続出。だって旬ですもの。
ホテルの1階にはお魚市場が入っていて、説明を聞きながらいろいろ買える。
昼食後、ホテルの屋上へ上がった。

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説明をしてくれたのは支配人の堺さん。ホテルのFacebookページにもよく登場する有名人だ。
このホテルは私も大好き。広い部屋にライトアップされた港を見下ろし、温泉もある。
気仙沼湾を眼下に一望するロケーションで、かつての写真と比較して解説してくれた。
「あの大きい白い建物が、水産工場の会社。昔はボーリング場でしたね。
市場が再開しても、水産会社が営業できないと成り立たない。」
魚をあげる市場が復旧しただけでは、水産業はたちゆかない。
氷屋さんや函屋さんがいなければ輸送や貯蔵ができず魚をあげても生で食べるくらいしかできない、という現地の人にしてみたら当たり前のことも気仙沼に来るようになって初めて知った。
「震災後、おかげさまでたくさんのお客さんに泊まっていただいています。
でも、2~3年して、お客さんが来なくなることも考えられますからね」
下りてから、我々の姿が見えなくなるまで笑顔で両手を振って送ってくれた堺さん。

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ホテルの階段を下りていったところに、黒いサーカス小屋のような建物ができていた。
その隣の大きな建物が、午前中に訪問した安藤さんが準備しているといっていたお店で、
その大きさに「うわっこれか」と参加者から驚きの声があがる。
黒サーカス小屋は、K-portといって、あの渡辺謙さんが復興支援のために作ったカフェ。
印象的な外観も聞けば納得、世界的大家の伊東豊雄さんが手がけたという。
話を聞かせてくれたスタッフの小林さんは、ETICのメンバー。
オープン前ということでこの日は詳細を明らかにされなかったのだが、
現在確認したところによるとピザがとても美味しく、アートスペースとして映像作品の
展示なども行うとのこと。新名所の予感がする。

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次に向かうは気仙沼横丁。いち早く営業を開始し、震災直後はとくに重宝した食事処。
海の幸からホルモン、ラーメン、BARまでいろいろある。お土産も買える。
最近では街コンなども実施してかなり手広くエンターテイメントを追求しているようだ。
説明に出てきてくれたのは小野寺さん。(右手は気楽会メンバー、三陸新報の三浦さん。)
「今は、飲食が14店舗、物販が6店舗。道路の状態が悪いのもあって冬場は足が遠のいたり
しましたが、3月くらいからまた戻ってきています。
この地はかさ上げ対象。いずれ立ち退かざるを得ないのはわかっているのですが、
市の計画が定まらないことには、考えようもないので…。
自分の土地で商売をしていた人たち以外の、もともとテナントでお店を出していたところは
もう営業を再開するための土地がないなど、問題はいろいろあります」
計画が定まるまでにあと何年かかるのだろうか。予定を立てようにも立てられないストレスは
相当なものだと思うが、それでも観光するのにさほど支障を感じないのだからこの町はすごい。

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日が暮れようかという夕方、最後にうかがったのが、すがとよ酒店。
津波で別れたお父さんの体が、あれから1年5ヵ月後の今年の6月に見つかったという。
どんなにかほっとしたことだろう。
「うちはあと6年で100周年。それまでには本格的にお店を再開したいと思っています。」
酒屋には配達がつきもので、つまりスピードが求められる。
そのため、もとの場所とは違う場所に、小さなプレハブのお店を建てた。
8坪のプレハブに、最初は「小さくて情けない」と言っていたお母さんに、息子は「商売ができるだけでもありがたい」と言ったという。
「地元の人も、蓋をするような気分で、忘れたり、無言で頑張っているのだと思います。
こうしてあの震災のことをお話をする機会があるのは私たちにとってもいいこと」と言うお母さん。
「のどかな風景は私たちの宝」というその光景が、別の形ではあれどこの気仙沼に訪れる日を願って止まない。

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小山さんに大変お世話になりながら、わたしはコヤマ菓子店のお菓子を食べたことがなかった。
(去年、お店に行ってみたのだがちょうど休業日だった。)
「気楽会で、商売っ気を出したくない」といって、自社製品をお披露目しないのである。
しかしこの日、気楽会名物、ゴール地点である斉藤茶舗でのあたたかいお茶とお菓子の歓談タイムにようやくコヤマ菓子店の「はまぐりもなかくっきー」を食べることができた。
すがとよ酒店のお母さんが、「小山君は気楽会で自分のところのお菓子出していないんでしょう」
といって、参加者に持たせてくれたのだった。なんと粋な心遣いだろうか。

一昨年、はじめて気仙沼へ行ってこのツアーに参加したときもそうだった。
こちらは話を聞かせてもらっている立場なのに、ツアーでお話をしてくれたある方が
寒かろうといって、追いかけてきて人数分のあたたかいたい焼きを手渡してくれたのだ。

旅や土地の魅力は、まず人にある。今回も、それを実感する旅行だった。

また、遊びにきます。

08:00 | yuu | ■気楽会ツアーと人めぐり(午後の部) はコメントを受け付けていません
2013/12/20

地球の舳先から vol.300
気仙沼(2013)編 vol.4(全5回)

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気仙沼の観光案内課、気楽会の最大の特徴は人めぐり。
この日もたくさんの地元のメンバーや、別の地方から帰ってきた気仙沼
ゆかりのメンバーの皆さんが町をめぐりながら自分の話しをしたり、
いろいろな人をめぐって話を聞かせてもらう場をセットしてくれていた。
参加者もいつもバリエーションが豊かで、木の診断士?的な専門家や、
僧侶の先生、気球家(あげるほう)など。
現在は文筆家で、以前この地で教員をしていた方もいて非常に面白い。

以前参加したときは平地から出発したが、今回のツアーは高台から下りていく。
視界がひらけた場所で、その更地の面積の多さに目をみはった。

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津波の被害が甚大な南気仙沼地区で、まず当時の写真をもって説明してくれたのは桑原さん。
競馬ライターとしても活動しており、このコラムでもインタビューを行わせて頂いたことがある
桑原さんは当時、この更地が目立つ地区の真ん中の病院で働いていた。
津波の浸水にあわせておばあちゃんを背負って上の階へと避難させ、翌日になってから
ヘリで救出されたというが、「70代くらいの人のほうがむしろ落ち着いていましたよ」という。
救出されたあと、スコップをかついで、がれきの中、道を作りながら病院へ戻った。
約2週間後の3月29日には小さな空き家で院長のもと病院を再開させた。
卓球台での診療に、「日本一狭い整形外科だったと思いますよ」と当時を振り返る。
「ここは魚市にいちばん近い病院。漁師の患者さんが多いです」という解説に参加者から
漁師でも病院にかかるのか、と意外の声が出ると苦笑した。
「骨折してるのに、出港するんだからあと1時間で治せとか、無茶言いますよ。
  インフルエンザで船に乗るのだけは、本当にやめてほしいですね」

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次に向かったのは、旧・河北新報ビル。以前ツアーに参加したときにも話を聞いた場所だ。
1次避難所に指定されていたここには70人ほどが集まり、自動販売機を壊して飲料を得たり
社旗用のロープを命綱がわりに準備するなどまさにサバイバルな状態だったという。
今回、はじめて中に入ったのだが、公民館としてリニューアルオープンしていた。
解説してくれた小山さんが、「この3部屋を、3班に分けて生活しました」と案内してくれる。
施設は大変きれいにリノベートされていて想像もつかないが、階段の柱にはここまで津波が
きたという表示が貼ってあった。
「顔もわかってて、協力しやすかった。防災・減災の1番の鍵は地域の人のコミュニケーション」
と当時を振り返る。「減災」。新しい言葉だったがそれこそが進めるべき対策だろう。

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その旧河北新報ビルからほんのわずか区画を進んだところに、小山さんの店はあった。
小山さんは気楽会の代表メンバーでありながら、お菓子屋さんの跡継ぎなのである。
ふかひれゼリーの看板を出していた当時の店舗の写真を見せてくれる。
2階の喫茶店は、気楽会のミーティング場所になっていたという。
「僕はいつか必ずここへ帰ってくる。隣の土地も買っちゃって、店を大きくして」
2年前にもこのツアーに参加し、当時の様子を語ってくれるメンバーも同じ人が多いのだが
これから先、しかも目先でなくてもっと先の話がたくさん出てきたことが印象的だった。

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次に向かったのは魚市場。ここの魚屋、安藤さんのファンは私だけではないだろう。
安藤さんは有名人なのだが、「防潮堤イラネとか言って、あいつらアホじゃねえかとか思ってるでしょ!そういえばあのテレビに出てた魚屋バカそうだったし気仙沼のやつみんなあんな感じかとか」と、謙遜(?)する。
安藤さんの男前っぷりはぜひとも以前のインタビューでご確認いただきたい
気仙沼、とくに魚市の近くに店をかまえる方々の震災対策や、逆に陸地で逃げ遅れた人が
多く出たことへの驚きと衝撃、最近取りざたされている防潮堤問題について話を聞く。
こちらではその詳細を自粛するが、船を休めに来た漁師さんに「いつもありがとう!」と
絶叫した姿と、「気仙沼いいとこですよ。太陽と、おいしい魚と、ちょっとバカな人たちと」
というからりとした言葉が胸を打った。

人の話を書いていたら、やっぱり長くなってしまったので、今回はこの辺で。
次は午後の人めぐりツアーをご紹介したいと思う。

つづく

05:51 | yuu | ■気楽会ツアーと人めぐり(午前の部) はコメントを受け付けていません

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